ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  楽山の寄生
 
 内村鑑三と進化論
 楽山日記(LD)2021年01月19日
 
 
言っても何の解決にもならないことを、楽山は、言い続けています。こういう人に、キリスト教と信仰を言われるのは、名刀だと言って実は鈍(なまくら)刀を自慢げに見せられるようなものなのです。
 
内村鑑三は、宗教伝道者であり、科学者ではありませんから、つまり、進化論についての宗教人の立場がテーマになるわけですが、そういう問題を、キリスト教も信仰も理解していない反キリストの楽山に、何を言う資格もないと思います。
 
当たり前でない楽山だから、そういうことをしていいと思うのでしょう。楽山は、また、有名人をネタにキリスト教を揶揄~否定したいのでしょう。
 
信仰者でもない者は、信仰の幸いを知らないのだから、否定でも肯定でも、信仰を語る資格はありません。楽山のような自己顕示欲だけの者は、遠慮がない分、なおさら、災いでしかないのです。
 
*メモ
岩波書店の『内村鑑三選集〈5〉自然と人生』を読んでいたら、進化論について触れた文章があったので、ここに抜き出して簡単な感想をメモしておきたい。
*神の意思と生物の進化
天然に在りて天然以上の或者が顕はれつゝあるのである、天然は自から進化しつゝあるのではない、神が天然を通して御自身を顕はし給ひつつあるのである
(「進化と自顕」内村鑑三著)
 」
天然とは自然のことであろうか。
どうやら内村鑑三は、生物は進化するとしつつも、その背後には神の意思があると考えているようだ。
 
その神の意志を、つぶさにモニターすることは、人間には出来ません。楽山は、神の意志に逆らいたいようだが、実際は、楽山は、楽山がでっち上げ思い込んでいる神?の意志、つまり、我執から、神を見ているので、内村鑑三の意志さえ受け取ることは出来ないのです。楽山の言う神の意志は、紙の石です。
 
どこにも行けず、誰にも説得力のない、命のない作りごとの立場から、内村鑑三を見ているので、何も受け取ることは出来ないのに、またしても、評論家気取りで、有名人と肩を並べている自分を見せたいようです。
 
偉いですね・・とでも、言ってあげると、鼻汁噴き出しながら、オギャーとでも笑うのでしょうか。そういう自分を、みじめだと感じて、恥ずかしがって控える、という性質が、無反省・無責任の楽山には無いのです。ゆえに、病質者としか思えないわけです。
 
ふつう、非信仰者には、キリスト教について語ることに遠慮があって不思議はないのですが、反キリストの楽山には、それがありません。神への、そして、キリスト教への怨念から、今までもそうでしたが、否定するために、故人であることをよいことに、今回も、伝道者を餌食にしようとしています。
 
*目的
余は神の存在を認めざる進化論を信じない、もちろん斯かる者を信じない、然れども進化の在る事は確である、進化は在る計画の漸次的発展である 〈省略〉 余は真理の種を地に投じ、永久に其成長を待つ、而して是も亦何時かは進化し即ち発展して麗はしき花と美味き果と成りて現はるゝ事を信じて疑はないのである、実に然り、余も亦進化論者の一人である。 
(「進化論」内村鑑三著)
 」
ここでも生物の進化は事実であるとしつつ、その背後には神の意思、計画があるとしている。さらには「麗はしき花と美味き果」という目的があるとも。
 
内村鑑三は、自分もまた進化論者とまで言うのは、科学者ではないのだから、言い過ぎの感はありますが、進化論は信仰を否定しない、信仰は進化論を否定しない、という懐の広さを表しています。あとは、讃美の言葉です。
 
科学と信仰は、平行線です。求めるものが違うので、交わることはないのです。お互いを侵さないようにすることが大切でしょう。
 
楽山は、反論していないようですが、内村が進化論を認めたことを、何かの足掛かりにしたいのかもしれません。素直に見せかけた文章を書く楽山に、素直さはありません。
 
*信仰者
生物は皆塵より出て塵に帰る。如何にして生命が塵を摂て現はれし乎、其順序方法を究むるのが生物学である。進化論は造化説明の一に過ぎない。而して進化の原因と目的とに就て教ふる基督教は其説明如何に由て動かない。進化論は今日の所、其大体に於て真理であるやうに思はれる。然し乍ら基督教は進化論に依るも依らざるも真理である。
(「進化論と基督教」内村鑑三著)
 」
生物学は「どのように」という問いに答えようとし、キリスト教は「なぜ」「なんのために」という問いに答えるものだということだろうか。
こういう考え方からは、内村鑑三は信仰者だということを強く感じさせられる。
 
自然科学一般に言えることです。昔、物理の先生が、授業のはじめに、物理学は、なぜ起こるかではなく、どのように起こるかを追求する学問ですと言ったのを思い出します。これは、一般的な真理なのですが、楽山は、内村鑑三が、生物学の話をしたら、信仰者だと強く感じるのだそうです。楽山が、宗教と信仰を理解せず、軽く扱っていることが、こういうところにも表れています。
 
宗教と信仰は、人間が生きるために必要なものだから、科学を包含する必要はないのです。そういうことは、神に任せればよいことです。
 
ただ、嘘と詭弁で、良からぬ先入観を与える欠損人格の楽山は、決して、包含してはいけない存在です。科学の知識もなければ、信仰理解もなく、他人の言葉を悪用して、自己満悦を求めているだけの楽山は、真っ向から真実に反しています。
 
*ダーウィン
進化論に二種ある。無神的進化論と有神的進化論と是れである。無神的進化論は天地は其れ自身にて、より大なる能力と智慧の指導なくして、無限に進化すると云ふのである。之に対して有神的進化論は云ふ、天然に其れ自身を発達するの能力はない。天然自体が自働体でなくして受働体である。進化は神が万物を造り給ふ途であると。そしてダーウイン自身が無神的進化論者でなくして有神的進化論者であった。
(「二種の進化論」内村鑑三著)
 」
内村鑑三はこの後、ダーウィンは有神的進化論者であるとする根拠を並べているのではあるが、ここは疑問に思う。もしダーウィンは内村鑑三の言う通りの考え方をしていたのであれば、ダーウィンとウォレスとを対立的な立ち位置におく見方が生れようもなかったのではなかろうか。もっとも自分はダーウィンのことについては詳しくないので、はっきりしたことは言えないのではあるが。
 
引用において、ダーウィンは、神を、天然と同一視していることになります。この時点で、宗教と信仰からは離れるのです。自然科学は、人間が生きるということを語るのがテーマも目的でもないからです。そこを混同しているところに、楽山のような詭弁屋が付け入ってくるのです。
 
楽山は、ダーウィンを詳しく知らないと言いながら、ウォレスとの対立というようなことを、好き勝手に言っているわけですが、これが当たりでも外れでも、楽山の高慢な、神学・科学両方の、学者気取りだけは、顕著に、いつも表れてきたのです。謙虚芝居を随所に挟んで、なおも、楽山は、自己満悦を求めて、他者を惑わし続けるでしょう。
 
*疑問
生物の進化の背後には、神の意思と計画があったと仮定した場合、疑問に思うことがある。それは寄生バチのような惨い生物が存するのにはどのような意味があるのだろうかということである。
生物は神とは関係なしに生まれ進化してきたとすれば、どんなに惨い生態を持った生物がいようがおかしくはないが、生物は神の意思と計画によって生まれ進化してきたとすると上のような疑問を持たないではいられないのだ。「なぜ神は、このような残酷で惨い生態をもつ生物をつくったのか?」と。
内村鑑三はこの辺りの問題はどのように解決したのだろうか。ひきつづきその著作を調べてみたいと思う。
 
悪意に相応しい、いちゃもんのネタを与えて、楽山のように良心を持たない詭弁屋という惨(むご)い生物が、神の国に行けないようになるためかもしれません。これは、皮肉です。
 
それにしても、いかなることでも、いちゃもんのネタになれば、拾って話題にしたがる楽山の偏りと歪みが表れています。他者の意見も批判も完全に無視している単方向から、この偏りは、奇抜ではなく、猟奇的であります。そう、楽山の世界は、現実離れ、人間離れして、猟奇的なのです。
 
寄生する害虫は、他にも、たくさんあるでしょう。この世に寄生して人を侮辱する楽山もそうです。これも、我が身を見ようとしない楽山への、皮肉です。
 
あんまり、くだらないと、皮肉以外、書きたくなくなります。人間に起こる悲劇では、神を否定できないものだから、今度は、虫ですって?・・暇にしても、質が悪すぎますし、悪意以外の何ものでもないでしょう。
 
「なぜ神は、このような残酷で惨い生態をもつ生物をつくったのか?」・・宗教と信仰を知らない者は、こういうことを、宗教の本質のようにこだわります。そうして、人間としての生き方を台無しにしてゆくのです。
 
誰の本を読んでも、その解答を得ることは出来ませんが、楽山は、否定的に、できた(ようだ)、答えに近づいた、・・などと、ボンヤリ言語で言い始めるかもしれないので要注意です。
 
良心のある人々のために書いておきますが、害虫のような人が引き起こす災いも、そのために、人が、神のほうを向くためであります。害虫のような人は、神のほうを向くことをしないわけですから、むしろ、何ゆえ、神は、楽山のような猟奇的な人を造ったのか、という問題になるわけです。
 
楽山は、あらゆる災いを持ってきては、神の不在と反信仰の方向へ、疑問によって誘導し、愚痴のようにこぼしてきます。楽山が神を信じるためには、神が楽山個人の欲望の理想世界を築かないといけないようです。それは、ありえないのです。
 
的外れの信仰理解を、いつまでもネチネチと書くのではなく、神に縁がなく、理解する気もないならば、宗教・信仰については書かないことです。
 
楽山こそ、人間世界の、寄生バチであります。エサを求めて止まない楽山に、寄生されないようにしてください。決して相手にしないでください、関わらないでください、近づかないでください。
 
孫悟空が、お釈迦様の手のひらから逃れることができなかったように、楽山は、神の手のひらで、死にかけの奇跡バチのようにジタバタしています。
 
広く見ているつもりでも、楽山は、目の前の自己矛盾にも気づかなくなったようで、そのために、悪意だけと分かるような記事しか書けなくなっています。我執によって書き続け、我執によって壊れてゆく楽山であります。楽山の悲劇の惨(みじ)めさを、楽山だけが知りません。
 
楽山は、無反省・無責任・無理解・無成長で、人の迷惑を省みません。ですから、楽山には、根拠のある自尊がありません。代わりに、根拠のない過剰な自尊だけをもって振り回してきます。つまり、楽山には、もはや、人間としての尊厳がないのです。
 
こういう人は、誰を思いやる立場にも立てないし、立ってはいけないということです。どうか、世辞や丁寧語に、だまされないでください。楽山は、自ら増長する方向しか持っていないのです。
 
楽山のような反キリストが、神への反命題として得々と語る話は、結局は、なぜ、楽山のような反キリストが生まれてくるのかという謎について、それこそ酷い迫真を見せるかもしれません。
 
 
寄生

寄生
 
 
(2021年01月21日)
 
 
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  楽山の嘘と詭弁
 
 
霊能者・評論家などの気取り、無反省・無責任・無理解・訂正不能、高等感情の鈍麻、理路の未熟と荒廃、などが見られる反キリストの楽山の詭弁について、メモしたことを投稿しておきます。
 
既に、反キリストの偽善者の例として、約2年間の資料となっている楽山は、宗教を、趣味的にとらえ、甘く見た者の、宿命のような我執に対する、おのずからの報いであります。
 
批判されても、弁明も反論も出来ず、にもかかわらず自分の言いたいことだけ書き続けることこそが、楽山の、宗教に対する無理解と、議論と交流の相手にしてはいけない単方向性というものです。
 
仏様の心が分かるっぽいと言ったり、発達心理学を心霊の話にしたり、哲学者を心霊学者と言ったり、語っている詭弁が循環論法の矛盾を来たしたり、愚かさを積み上げてゆく不感不応の醜態。
 
道徳という言葉を使って、道徳的な詭弁からの解放を唱えています。"道徳的な詭弁"など、あり得ません。詭弁は、嘘の一種であり、道徳に反することです。また、当然、キリスト教と信仰にも反することです。
 
楽山にとっての、自然のままであることは、道徳から解放され、悪意をもって、嘘を吐き、詭弁に専念すること、そして、自己満悦に浸って、自己愛に溺れること。
 
思考も情緒も意志もない雪とかの自然現象のお伽噺の因果に喩えている悪の台詞を、変わっているから気持ちがいいのでしょうか、真実であるかのように語ります。
 
裏切ることも、同じ人間の心から生まれているからいいんだ、正しいとか正しくないとかないんだ、とでも言いたいようです。恐らく、楽山には、基本的な節操・分別さえもないのでしょう。
 
楽山は自分の意見に反することを、「堅苦しい主義や封建的道徳」などと見なしてくるところに、まともな道徳による判断の欠如が、真実に目を向けないことが、さらに自慢として、表れています。
 
主義や道徳は、堅苦しかったり、封建的であったりするものばかりではないでしょう。人間ならば守るべき節操というものがあります。楽山は、思いやりと共感、温もりと潤い、そういったことを学習していないので、人間なら当然の反応が出来ないのです。
 
具体的に間違いを認めて反省するのではなく、そして修正するのではなく、曖昧に「生来の情緒を取り戻し」などと言っていましたが、またしても、有能な人間だと自慢したいだけなのです。
 
楽山については、カルトが自身を言い表すのと同様に、全く説得力が無いために、超常や神聖や心霊の体験を持ち出して、だますしかないという習性があり、心霊、スピリチュアル、死後の世界、超常体験、などの超常が大好きな楽山の特徴となっています。一気に、超常になりたい願望は、カルトの特徴であろうと思います。
 
ホラーやオカルトを否定しないだけでなく、むしろ、自分に当てはめている楽山は、しかし、霊が分かるっぽいというだけの自覚であり、実際には、いかなるスピリチュアルの深さも、書いたことはありません。
 
都合の良い他者の口を正しいとして取り上げ、都合の悪い他者の口を無視するのは、まさに、カルトの断線であり、邪悪の一本道であり、自己中の沼であり、反宗教の身投げであります。
 
楽山が、批判されても批判されても、弁明も反論も出来ないでいて、全くお構いなしに、無視して、平気で、言いたいことだけを書いてくるのは、心性に欠陥があるとしか思えず、常人のものではないと思っています。こちらとしては、もはや、楽山の話を聞くくらいなら、犬猫の鳴き声を聞くほうがマシなのです。
 
楽山の言においては、きれいごとのボンヤリ言語「ありのままの自分に正直になり、自然体でいること」は、良心も感性も思慮も捨てて、人を食うケダモノになることを意味しています。
 
「生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れ」などと、わざわざ書くのは、「注意の大切さを実感した経験がないでもない」と言って、つまり、自分は霊能者だ、という印象操作と宣伝です。
 
楽山は、ボンヤリ言語で、どこが詭弁や誘導であるか、ちょっと読んだだけでは分かりにくい書き方をするので、豪語するカルトと違って、邪悪さに気づきにくい傾向がありますから、何より、楽山を相手にしないこと、楽山に関わらないこと、近づかないことが大切です。
 
私は、数か月、だまされていました。受け答えがハッキリしないため、次に、責任を負うことが大切だ、といった牽制・指摘によって問いただしたら、ごまかして応じなかったため、相手にしてはいけない人だと気づきました。その後、批判して、信頼度ゼロと判断しましたが、その判断を覆すような記事を、楽山は、一度も書いたことがありません。
 
楽山は、批判に対して、嫌がらせ、言いがかり、嘘、詭弁を書いてくるだけだ、という証拠も、二年分、同時に積み重ねられて資料となっています。
 
「かなあ」「ていうか」「言えなくもない」「反省、トホホ」「信じやすい性分」など、芝居がかった若者言葉や、逆に、同情をひく年寄り言葉や、曖昧表現、婉曲表現、丁寧語で、言い逃れようとしたり、ちょっと変に丁寧だけど、いい人そう、と思うような人が近づいてきたら、改めて、楽山かシャロームの成りすましの別キャラの可能性があるので、要注意です。
 
 
終わりなき能天気

おわりなきのうてんき
 
 
(2021年01月20日、同日一部修正)
 
 
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  丁寧語の災い2
 
   「知と恥を捨てる者」コメント欄
   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
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シャロームは、バカ丁寧な言葉で、まるで今でも先生であるかのように書いてきます。もう、既に何度も馬脚をあらわして、偽善者でしかなく、反キリストでしかなく、良心の欠片もないことが明らかになっており、弁明の余地はないのに、まだ、何かを教えようとする、びくともしない説教根性というより因業であり、シャロームが、何かを書けば、嘘か妄想か背教が、そのたびに明らかになるという繰り返しの成り行きであります。
 
シャロームは、もはや、常識的な判断力がないのでしょう。完全に拒否しているのに、相変わらず、お愛想で訪問すればいいじゃろ・・と思っているのです。総てが崩れているのに。つまり、シャロームは、既に瓦礫と化した中を、デパートの売り場を巡るように、和みを表しているつもりの世辞とともにうろついている亡者なのです。説得力の欠片もないからです。
 
1. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:49
引用した言葉はST5402さんが書かかれたものです。
精神科の医師として患者さんと面会し、あなたは大切なことを学んでいながら、実践しておられることは前半だけで、後半は少しも実践していないようですね。
 「精神科の面接をしていて、心に弱点を持つ人に接して、考えたことがあります。依存されないために大事なことは、好意的な、よそよそしさを持つ、ということです。あなたはあなた、私は私、でも、できることはしますよ、というスタンスを持つことが大切だろうと思っています。これは、精神的な距離の問題ですが、距離という言い方をしなくても、当然のことなのです。」
 「あなたはあなた。私は私、でもできることはしますよ、というスタンスを持つことが大切だろうと思っています。これは、精神的な距離の問題ですが、距離という言い方をしなくても、当然なのです。」
  」
いいですね!
 
私が、個人のこととして書いたことを、好きなように持ち出して、あたかも一人前が半人前に説諭でもするように、いいですね!と、ここに至って、丁寧語でごまかしていますが、シャロームの丁寧語=慇懃無礼の害毒であること知ってほしいと思います。
 
「後半は少しも実践していないようですね」と、シャロームは、シャローム自身に対して私が出来ることをしていない、と言いたいようです。これが、慇懃無礼の、無礼であり、侮辱なのです。
 
反キリスト丸出しのシャロームに対しては、書いてくる嫌がらせについて、根拠をもって否定するのみであり、好意的に出来ることなどありません。もはや、シャロームは、背教と反キリストの実例としての資料に過ぎません。
 
シャロームは、持ち前の丁寧語という害毒で、思いやりを示したつもりのようですが、シャロームの丁寧語は、底意地の悪さを隠すための、言うだけはタダという、これも気持ちとは裏腹な作り事、つまり嘘、すなわち、偽善なのです。
 
シャロームの発言を、長く受けておれば、むしろ、いっそう、嫌らしさが伝わってきます。これが、学習機能の、有りと無しの違いなのです。学習しない者は、成長がないので、嘘で飾り続けるしかなくなってゆくということです。
 
2. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:52
精神的な距離という言葉もいいのですが、私は境界線という言葉をよく使います。アドラー心理学もとても大切にしている考え方のようです。
日本社会は母性社会であり、自他未分化、共依存社会ですから、この人と人との精神的な距離、境界線が不明瞭な社会であると「母性社会日本の病理」において河合隼雄氏は書いておられるようです。
自分が自分であることができないため、他者を他者として認め、人を個人として受け容れることができない、つまり、自分と他者を区別できず、あるがままで受け容れることができない、愛することが執着化してしまい、心の病の主因ということもできるかなと思います。もちろんその他の多くの要因はあると思われますが・・・
 
あなたの見解など、何も聞いておりません。私は、あなたシャロームの日本語には、ずいぶん以前から、理路もなく共感も感じないと言ってきました。心が無いのに、何かを伝えた気になりたいのでしょう。
 
境界線、母性社会、自他未文化、共依存社会、・・シャロームの言っていることは、既に、大方、私に当てつけたボロクソ節なのです。しかも、何かの本から取ってきた言葉で、シャロームが理解しているとは思えません。
 
そして、境界線を守ることを他者無視と自分勝手と置き換え、母性社会の未熟を境界線がないことと置き換え、自他未分化を批判者に当てて、自己正当化をしたつもりなのです。しかし、総て、シャロームのほうの自己中・身勝手・人格の未熟・自己中に従わない他者への侮辱の正当化の詭弁です。
 
そういう話を何度も聞かされている者、つまり、こちらとしては、おえっと吐き気を覚えるほど、食傷する独り善がりなのです。シャロームこそ、自他未分化で、自分の言うことに他者が従わないことを考えることができず、何の対処も弁明もできない人です。
 
シャロームは、恐らく、自他未分化だけでなく、人神未分化の状態でしょう。だから、自己の妄想を、そのまま神意として、前には、聖霊による導きだと言っていました。
 
既に、私を、散々貶めてきたという今までの状況で、今ここで、その話をして、教えようとすることが、状況と前後関係からありえないし、独りで浮いている格好だし、奇妙で不適切であるということだけであり、それを弁えることも出来なくなっているシャロームです。
 
鬼のような顔の次の瞬間、仏の顔真似だけしてくるのは、嘘吐きの詐欺師だからこそできる劣悪な原始反応です。状況の把握ができない証拠です。シャロームの丁寧語は、そういう本質を持ちます。
 
※人を個人として受け容れることができない・・・
自民党の憲法改正案には現在の憲法に規定してある「人は個人として尊重される」ではなく、「人として尊重される」という文に書き換えられていることは注目しなければなりません。基本的人権を否定する道に通じています。
 
シャロームは、ここで、脈絡もなく、政治の話になっています。私は、護憲派ですが、嘘吐きの話を、誰かの正論の引用であっても、決して受け入れてはいけません。これも騙しのテクニックです。シャロームの、体のいい話に、体のいい返事などすると、大喜びの振りをして、うんざりするような続きを聞かされるでしょう。すでに経験・実証済みです。
 
シャロームは憲法の精神を全く理解していません。憲法によって守るべき個人の尊重は、それが、公共の福祉に反しない限り、という制約が吐きます。反社会的な詐欺師などの犯罪者が個人の尊重によって無罪になることはありません。
 
であれば、自己中妄想に凝り固まって嘘と詭弁をばらまいているシャローム個人の場合、強制的に刑罰を与える対象でもないのだし、言論で批判対象とすることは、何ら憲法に反することではありません。吐き気のするようなシャロームの詭弁の大嘘です。
 
グローバル化し、異なる国、民族が、異なる価値観、文化が激しく衝突を深め、国も民族も、個人もアイデンティティー危機によって、ますます混乱と閉塞感を深めていくことでしょう。
分断を深めていくか、統合の道を見出すことができるか?
わたしたちは、死ぬか、生きるかの分かれ道に立たされているようです。迷走と模索は続きますが、人の手の内に、その道があるのか疑問です。 
 
このような話は、シャロームの得意なボロクソ節です。独り有頂天の誇大妄想です。脅しに近い極端な言い方を好みます。シャロームは、預言者気取りなのでしょう。実質は、真逆です。
 
シャロームの言論が統合を失調しているのは、文脈が、個人の人間関係から、国政の話へと、脈絡もなく飛んでいます。つまり、その間にあることを、スコ~ンと無視している、つまり、話の筋を追えないのが、シャロームの文章です。シャロームの言のベースに理路はありません。
 
グローバル化、民族、価値観、文化、衝突、国、アイデンティティー危機、混乱、閉塞感、いずれも、シャロームが、既に、他者の言葉を拾い集めてきた言葉で、深い理解も考察もなく、自分は政治をも語れるのだ!という誇大気分で豪語でもしたくて興奮したときに、並べ立てるボロクソ節であります。
 
あなたシャロームには、悔い改めないのであれば、キリスト者として生きる道はありません。また、政治思想は、あまりにも貧弱でお粗末な、受け売りと人真似と誇大妄想ですから、これも、生きる道にはなりません。
 
みんな、バレてしまったのです。反キリストのシャローム、せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。
 
このシャロームに対して、かわいそうなどと思ったら、あざ笑う用意だけはいつもしているシャロームに、逆に、調子に乗られて、食われてしまうわけです。既に経験済みのことです。
 
3. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:53
統合の道は人の道か?
新約・マルコによる福音書1章1~3節
1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。
1:3 荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてある。
 
先ず、おのれから、まっすぐにせよ、嘘を吐くな、と言いたい。これは、聖句というより、信仰に適うところの、人間の道徳です。しかし、それよりも、信仰において、いちばん大事な、正直さを、シャロームは、神に対しても、人に対しても、全く持っていません。
 
>統合の道は主の道か?
 
先ほどの政治の話の「統合の道を見出すことができるか」の流れなら、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)22:21
彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
 (マタイ22:21、新約聖書)
 
と書いてあります。信仰の話に、政治をぶっこむな。
 
新約・マタイによる福音書7章13~14節
7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
 
あなたシャロームは、安易な、ぱっくりと大きな口を開けた罪と偽善の門、広き道、嘘吐きの道、讃美しておけばいいという大袈裟な豪語の道、他者を気にせず失禁する流涎の言葉とともに、陰気な暗闇の洞窟を、ずっと、選んで、実際は独りで、堕ちてきました。
 
ST5402さん 永い間ほんとうにお疲れ様でした。
随分悪態をつき、有終の美とは程遠い終幕となりましたが、
ありがとうございました!
人生の終幕はイエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ、
拓かれていますので、希望をもって、
イエスさまが開いてくださった新しい道を歩みたいと思っています。
Shalom!
 
こうやって、言葉面だけ、整えようとするのが、あなたシャロームの、忌まわしい丁寧語なのです。昔、ずいぶん騙されたものです。丁寧語の中の、獣性を見逃さないことが大事です。
 
「随分悪態をつき」・・あなたのことですか。心にもないことを。もう何を言っても信頼されないところに来ています。楽山より先に、信頼度ゼロになったシャロームです。
 
「イエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ」ているなら、あなたシャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしない」という信条も、今までの嘘っぱちも、無かったはずなのです。また、嘘を吐いています。
 
「イエスさまが開いてくださった新しい道」・・悔い改めない者には開かれていませんし、信仰の希望もありません。白々しい聖句引用はやめてください。全部、嘘でした。そして、全部、嘘です。今となっては、もう、はっきり言えることです。
 
14. shalomです。 おはようございます
 2019年12月16日 13:17
>>9
「せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。」
アレッ st5402さん 妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症も加わっているようですね!まだまだ私に比べてお若いのに・・・
かつては、私が死ぬまでつきまとって批判し続けるんだとおっしゃっていましたね。
 
私の「みんな、バレてしまったのです。反キリストのシャローム、せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。」に対するコメントですが、私が、人間だからです。あなたシャロームと違って。
 
あなたシャロームが書いてくるなら、前と同じです。ずっと、そうしています。しかし、今は、あなたシャロームが、愚かな、おとしめ言葉しか書いて来ないほどに、堕ちていますから、そのような言葉に付き合いたくないからです。
 
あなたからの殺意を感じるからです。あなたはサイコパス、人の滅びも死も、何も気にならないで、横暴な人格となった者です。人間らしい感受性がなくなっています。
 
そういう人だと思うようになっているから、低い評価の中でも、さらに低く、邪悪だ、という方向になってきたということです。よって、愚かに付き合って体力を消耗して死ぬのは嫌だなと、ふつうに思うわけです。
 
※ シャロームは、現在、ネット上も所在不明ですが、シャロームの記事とコメント、そして、私の批判記事は、約十年にわたっていて、既に、資料となっていますから、時々、見返しては、典型的な偽善者に対する批判記事として、加筆して公開しています。
 
聖書には神様は試練も与えられますが、逃れる道も備えてくださるという言葉もあります。
yahooブログの閉鎖という思いもかけない道を備えてくださったのですね!
また新しい道はst5402さん自身が開いてくださったようです。
人には神の御業は初めから終わりまで見極めることが出来ないという言葉もありますが、本当にそうだなと、心からの讃美と感謝をささげています!
 
シャロームは、神の意志とヤフーブログ閉鎖を、結び付けています。こういうとことは、いかにも、カルトの思い込みだと分かるところです。神への恐れを知らないシャロームです。
 
いちばん邪悪な偽善は、神の意志と行為である導きを、人が決めつけることです。神を恐れない者だけがすることです。
 
自分の意見を、神の啓示と聖霊の導きによって、正当化し、絶対化しているあなたシャロームは、具体的に道を備えて下さった、開いてくださった、と決めつけながら、見極めることができない、と書いています。シャロームには、何も整っていないから、見極めるどころか、何も実がないのです。
 
つまり、自分に都合の良いようにだけ、決めつけていることが、明らかになっているわけです。今までも、ずっとそうでしょう。あなたは、嘘っぱちを書いて、しかも、嘘っぱちであることを、自ら、表すようになったのです。「心から」の心の無いシャロームの讃美は酸味の腐敗臭です。
 
それなのに、退いて、二度と来るななんてつれないお言葉ですね!
yahooブログが閉鎖され、寂しい思いをしていたのですが、
st5402さんが私の言葉を伝達するために、たくさんブログを開設してくださったので、
私は新しいブログを開設する手間が省けて喜んでいるのです・・・が・・・
ハレルヤ!
Shalom!
 
また、「つれない」などと、白々しい嘘を吐いている。いつも、嘘を吐いている。どこでも、付き合えば、結局、嫌がられる存在として、生息してきたシャローム。どこにも、弁明の余地がなくなっても、殺意に匹敵する無視の力で、人を人とも思わず、「手間が省けて喜んでいる」というような、余裕を見せようとする。
 
これは、サスペンスドラマなどによくある極悪人の、相手を呑みこんだつもりの醜く陳腐な台詞、つまり、根っからの悪にしかできない悪意の開き直りと強がりです。わけもわからず余裕に見せかけても、あなたは、既に、丸裸なのです。
 
この悪意は、易坊に通じる筆致。
 
そうだ、いつも感じていたのは、シャロームの、この獰猛(どうもう)な極悪人気質、人が死んでも、そのそばで、ニヤニヤ笑っていられるような、人間らしい感情を失った者だけが持つところの、人ではなく、ケダモノの中の、とても醜くて、醜悪な気質として、よだれを垂らしているイメージ、そして、その臭いです。
 
あなたシャロームの文章を読んでいると、喉を鳴らすのが、聞こえるようであり、汗と粘液と、蒸し暑い息の臭さが漂ってくるようであります。しみついた常習の詐欺師の臭い。あなたシャロームの書く、わざとらしい文章に深く深く染み込んでいる、この臭いを、私は、あなたの文章を見るときに、いつも感じていました。
 
丁寧語は、ある意味、暴言よりも悪質になります。どんな批判を受けても、自分は安らかで冷静で、びくともしない、ということを表すために丁寧語を使う者がいます。実際は、すべて無視しているだけなのです。
 
 
くさい、くさい

くさい、くさい
 
 
(2020年01月06日、同日一部修正)
(2021年01月19日、加筆して再録、さらに修正)
 
 
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  神と信仰メモ
 
  PCの調子が悪いので、今回は、短い記事~メモです。
 
 
なぜ、神の存在を信じる人がいるのでしょう。
 
この地上には、どうあがいても、自分の思い通りにならない悲惨なことがあるからです。しかも、いつどこで、生まれても生きても同じだろう、と思うに至った者がいる、あるいは、いたからだろうと思います。
 
そうして、今は、どうしようもない地上の汚れのうちにいる人の目には、隠れて見えないが、悲劇の背後には、総てを統べる摂理の存在が、完全なる真・善・美を携えて、同伴して見ておられ、無視してはおられないが、その御方には、われわれとは別の、我々が今考えても分からないような、計画があるのだろうと思うに至ったのでしょう。
 
信じる人は、決して、いちゃもんのような、自分勝手な欲望に都合よく当てはめて決めつけたのではなく、生きるために悩み苦しんだ結果として、絶対者を必要とし、望んだのだろうと思います。その凄みが、神という存在を、今に伝えているのでしょう。
 
そこから、人を理解しながら、人を超えている存在として、全知全能・絶対完全・永遠不変の存在を、固有の「神」という名で呼ぶようになったのではないかと思われます。即ち、神は、その名で、人が呼んだとき既に、人に解明できたり、存在や不在を証明できるような、安い存在ではなかったということです。
 
その存在を知ることは、不思議が起こらなければ直ぐ離れてもいいような、物や肉体の奇跡ゆえではなく、人間の心の深みに残るだけの、人間にとって、いちばん大切な、共感の同伴というあり方をもって、人の心に消えようもなく残ったゆえに、人々は、信仰の救いと呼ぶようになったのでしょう。
 
これだけ知っておれば、神という存在を、人間が自らの限られた有限の存在世界から、自らの持ち合わせた人間の安易な理屈だけで、限られた人生で見聞きした知識の範囲だけで、それこそ超常のホラーとの闘いのようなフィクションの物語におとしめて、机上の辻褄合わせだけで、神?は良いとか悪いとか、いるとかいないとか、決めつけることが、いかに、的外れであるかが分かるでしょう。
 
信仰は、善悪を判断する道徳ではありません。美醜を判断する美学でもありません。正邪を判断する正義の軸でもありません。全能者が、全能者のあり方で、神の前に正直な人を救うために、人を愛するために、存在することを告げているのです。
 
真善美が一体となる完全なる神が、寛容と慈愛と共感をこめて求めるのは、人間には届かない真善美の完全ではなく、完全なる神の義でもなく、ただ、神の前で、精いっぱい正直な祈りの告白だけで、不完全な人が、良しとされて生きるための信仰の義であります。
 
 
恵み

めぐみ
 
 
※ 
 
宗教にも無宗教にも非宗教にも反宗教にも、実に、嘘の、詭弁の、誘導の、印象操作の、鼻の曲がりそうなインチキの安い屁理屈で、神に、いちゃもんをつけて、人間の良心から神の存在に気づく直感の道を妨害しようとしている者がいます。
 
彼らは、神という存在を、そして、信仰を、安っぽい理屈で、揶揄したり、おとしめたり、侮辱したりしますが、彼ら自身には、何を解決する力量も、誰を救う力量もないのです。文句だけが執拗な彼らこそ、この地上のホラーであります。
 
 
信仰者は、超常からのお告げかどうかを知らされることはなく、信仰者が安穏に暮らせるとは限らないこの地上で、人間として正直に反省し成長する意志をもって努めることで、いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
(2021年01月18日、同日一部修正)
 
 
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  楽山の謙虚芝居
 
 内村鑑三とスピリチュアリズム(「死後の生命」内村鑑三著)
 2021年01月16日 楽山日記(LD)
 
 
白々しい楽山の芝居と、結局、いつものように、尊ぶようで、実は、おとしめる、という、キリスト教を侮辱して自らの優位に立ったつもりで満悦したい欲望が、表れています。不感不応の性懲りの無さだけが特徴です。こちらとしては、まともに相手しないことが大事になる繰り返しです。
 
*内村鑑三とスピリチュアリズム
岩波の「内村鑑三選集」をつまみ読みしていたら、『第八巻 生と死について』の「死後の生命」で、スピリチュアリズム方面に触れている箇所があったのでメモしておきたい。
 
つまみ読みを、メモした記事なのだそうです。そういう軽さが、楽山の趣味的扱いの宗教と信仰?なのです。そして、スピリチュアリズム、つまり、安易に、死後の世界に直結させています。宗教も信仰も、そういうものだという、邪悪な固定観念を隠さなくなっています。
 
といっても、スピリチュアリズムについてそれほど深く語っているわけではなくて、死後生命はあるとする内村鑑三自身の主張を補強するために、近代的、科学的な方法によって死後の生命の存在を証明しようとした人々もいたとして、フレデリック・マイヤーとその言葉を紹介したり、、W・L・ウォールカーの『霊と受肉』、ウィリアム・オスラーの『科学と死後生命』、ウィリアム・ゼームスの『人間永生論』にある一文を抜き書きしているという程度ではあるが…。
 
そして、早速、死後の生命の話になっています。宗教と信仰は、そういうもの、それが宗教という考えで、一方、いちばん大事な、生きるということを、楽山は、考えようともしないために、ボロクソの精神を露呈することになっています。楽山が関わると、死後の話は、死語の話になってしまいます。
 
スピリチュアリズムはキリスト教および教会に対して批判的なところがあるので、キリスト者が自説を補強するためにスピリチュアリズム側の人物の言説を用いるというのは少々意外な感じがしないでもないが、内村鑑三は外国の宣教師には複雑な思いをもっていたり、教会と意見の相違はあったようなので、スピリチュアリズムとはある程度の共通点があり、そこまでの悪感情は無かったということなのかもしれぬ。少なくともこの文書を書いた時点では。
でも両者の関係については、自分はまだ何も知らないのと同じなので、少しずつでも調べてみたいとは思う。
 
内村鑑三を、そして、キリスト教を、スピリチュアリズムと関係づけています。何が本質かを、全く知らない者は、こういう決めつけ方をして、宗教と信仰を、奇跡と超常の不思議話じゃろとばかり、卑しめてくるのです。
 
*信仰者
ちなみに内村鑑三は、この文章の中で、次のような理由で死後の生命を信じるとしている。
死後生存について、「其存在を否定せんとする反対論あるに拘らず遂に抛棄する能はずして古来人類の多数が来世を信じ之を熱望し来りし事実は何を示す乎、その人類の輿論又は根本的思想なりとの事実其者が来世存在に関する強力なる証明の一である」
 
人間は、神の存在も不在も証明できないように、人間は、超常を、来世を、証明することは出来ません。いつ見ても、楽山の興味と都合に合わせた同じ傾向の文章の一部だけを引用してきます。内村鑑三については、無教会派のことのほうが、よっぽど重要でしょう。
 
「現世は人の限なき知識慾を充たさんが為には余りに短小である、来世の存在を認めずしては人生の円満なる解釈をくだすことは出来ないのである」
 
こういう死後・来世の話は、推測・試論・説としては、可であります。しかし、楽山の手に渡ると、恐ろしいことに、こんなことを真理だと思っているのがキリスト教なんですよぉー・・という印象操作にされてしまいます。あくどい作為の持っていき方が、ずっと変わらない楽山の因業です。
 
「十年二十年の努力を経て育成したる子女ほど母に取て貴きものはない、然るに之をしも棄てゝ顧みざるが如きは何の愛である乎、若し天然と人類との凡ての努力が破壊に終らん為であると言ふならば人生は絶望である、神は決して愛ではない、我等は来世の存在に由てのみ人生を此の大なる不合理より救ふ事が出来るのである、神は愛である、故に来世は必ず有る」
 
このように、内村鑑三は、愛について、喪失について、つまり、人間の切実な話について、悲しみについて、書いているのに、楽山は、そういうことを、自分の言葉で書けないのです。
 
「汝の自己中心的生涯を棄てよ、而して幾分なりともキリストに倣ふ生涯を送れよ、然らば明日より必ず来世を確認するに至るであろう」
「死後の生命は信仰を以てする冒険である」
当たり前の話ではあるが、こういう言葉を読むと、内村鑑三は根っからの信仰者なんだなと改めて思う。
 
このように、内村鑑三にとって、来世の話は、地上の必然である愛と悲しみの話であり、人の道を説くために心を砕いた話なのです。楽山は「信仰者なんだな」としか書けません。言葉というものの表層的辻褄に生きていて、心が無いからです。
 
*余談
同書に収録されている「不死の生命に就いて」の冒頭には次の文章が見える。
若し不死の生命が有るとすれば、それは有るが故に有るのであつて、有つて欲しいが故に有るのでない。
「不死の生命に就いて」内村鑑三著
 」
 
ここを、不死の生命は、有るから有るんだという確信の強さと受け取っているようです。しかし、内村鑑三は「有るとすれば」と条件法で書いているのです。
 
同じく同書に収録されている「死後生命の有無」にはこうある。
死後の生命は人の固有性にあらず、信仰の報償として彼に与えらるうものである。
「死後生命の有無」内村鑑三著
 」
これらをまとめると内村鑑三は、死後生命について、「死後の生命」(大正8年)では人類は古来より強く求め信じるが故に有るとし、「不死の生命に就いて」(大正13年)では人の願望や信仰に関係なく客観的に存するとし、「死後生命の有無」(昭和4年)では信じるから与えられるとしており、なんだかその時々で微妙に話がちがっているようだ。
 
ここでの楽山の言い分が、いちゃもんであることは明らかです。内村鑑三には、地上で知りえない死後という前提があり、楽山には、何でも知っていないと気が済まないという前提があって、後者の前提で前者の前提の話を読むと、このような、話が違うというクレームにしかならないのです。
 
楽山の幼稚な二進法・二者択一への短絡です。0か1、有か無、という短絡二元のみで、その場で確定的に不死も死後も語ろうとし、それによって、キリスト教はそういうものと思い込んできたのでしょう。それで、物知り顔の評論家気取りで書いてくるから、これ以上の迷惑はないのです。
 
さらに、他者の話を「微妙に話がちがっている」と言って、著者についてクレームを書き、なのに、自分の意見は書かず、その場で、結論を出したつもりになる楽山です。
 
超常の話は、あくまで、推測か想像であり、せいぜい仮説であり、ゆえに、確定ではなく、改めてもよいので、自由に話してよいものとなっています、そこに信仰の中心があるわけではないからです。
 
それを、楽山が、中心においてしまうのは、病的ナルシストの特徴でしょう。それで、キリスト教を揶揄したり、おとしめたりの、知ったかぶりをする楽山の、無理解前提の世界など、人間にとって、何の役にも立ちません。その場で、真理をつかんだことにしないと気が済まない楽山の、強欲の因業でしかないからです。
 
人の考えは変わるものであり、矛盾を抱えているものであろうから、その意見が変わったり矛盾があったとしても、それは当たり前のことであって取り立てて非難すべきことではなかろうが、内村鑑三であってもこうだというのは少々驚かないではいられない。
 
「非難すべきことではなかろうが」と言いながら、「少々驚かないではいられない」という丁寧語の非難めいたことを書くのは、一挙に真理を知ったことにしたい楽山の強迫観念からであり、不満なときの、楽山の嫌らしいマイナスへの誘導の筆致であります。そうして、結局、少々ではなく、内村鑑三を侮辱しているのです。
 
ドラマの悪役の上司が言いそうな、婉曲的な言い方を、下司にもなれない楽山が言っています。楽山は、責任逃れのために、こういう作文の醜い書き方だけを積んできたということでしょう。
 
でも現実はこの通りであって、偉人賢人であろうが何だろうが、人である限りは、その言葉が百パーセント確実に正しいということはないんだろうな。自分は、誰かを尊敬してしまうと、すぐに心酔しきってしまい、この人の言葉も行動も何でも正しいと思い込んでしまう悪癖があるのでよくよく注意したいと思う。
 
「人である限りは、その言葉が百パーセント確実に正しいということはない」・・今ごろ分かったのかと言いたいほど、当たり前のことですが、前にも見かけ謙虚なことを書きながら、楽山自身は、全く、その自覚がないことだけが表れてきたのです。
 
楽山に限って「人の言葉も行動も何でも正しいと思い込んでしまう悪癖」の自覚はありません。何故なら、自己愛・自己中の楽山は、自分以外、誰も信用してなどいないからです。そういう自己満悦の訂正不能の言を、ずっと繰り返してきたのです。今になって、嘘の弁明が通用すると思っていることに、あきれるばかりです。
 
温もりと潤いのない、即ち、思いやりといった悲しみに共感する高等感情が育っていない人格が、作文をすると、知性も理路も、無反省で無責任になり、感じることのできない部分を、辻褄合わせだけの、実感のない、言葉面の形骸を、もっともらしく並べて、ごまかすようになるという筆致が、否応なしに表れてきます。本人だけが気づかないのです。
 
楽山が書けば書くほど、それを読めば読むほど、あきれて、相手にしたくはないのですが、キリスト教を、オモチャにしていることは看過できないので、批判を続けています。どうか、関わらないでください、近づかないでください。
 
 
誘導

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(2021年01月17日)
 
 
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