ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  妄想詭弁全開3
 
 私の記事「無知と無恥」コメント欄
 シャローム(シャロム、shalom、あなた、彼)のコメント
   を改めて批判。
 
 
約10年間、批判対象となっている偽牧師の反キリスト、シャロームshalom のコメントを、もう一度、書いておきます。良心と常識の欠如が表れています。改めて読んでみると、書き足りないことが多々あり、加筆しておきます。似たようなことは、楽山にも言えるでしょう。
 
楽山とシャローム、そして、荒らしの易坊については、一人による成りすましを疑って、"楽山やシャロームなどの易坊類" と呼ぶこともあります。宗教と信仰を、妄想的に訂正不能に、勘違いして、先入観として固定している者たちです。
 
またしても、執拗に、言いがかりを書いてくるシャロームからのコメントです。
相変わらず、私の言ったことを、まるで受け取らないで、妄想を語るシャロームです。
崩壊が進んでいます。これでキリスト教のつもりか・・ってことを書いてきました。
 
 
1. st5402さん おはようございます
 2019年11月15日 09:12
「キリスト者は、誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない、という、人間の罪の性質を認めて、その共感とともに、信仰の道に入ります。そこから、謙虚、謙遜、敬虔が生まれます。」
st5402さんは誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、
完全ではないということが人間の罪の性質と考えておられるのですか?
そんなこと聖書のどこに書いてありますか?
 
神の性質との比較です。神は、全知全能・絶対完全・永遠不変・・、人は違う。聖書全体が、そのように書かれているわけですが、シャロームは、否定するのでしょうか。「聖書のどこに」?・・呆れます。聖書から人間の不完全を読み取っていない偽牧師だということを自分で表しています。
 
聖書を読んで、聖書の言葉から、現実を考え、自分の人生に広げてゆくのが聖書を読むことだと思っています。今までのことから、シャロームは、聖書の言葉だけで完結して、考えることをせず、意味や意義を実感に広げられず、言葉の合致だけで、超常神秘を語ったつもりになるカルト性です。
 
今さら、そんなことを聞くなんて、おかしいわけです。聖書から、何も考えないなら、聖書を読んだことにはなりません。シャロームは、いつ神相当の知性を得て、考えなくて済むようになったのでしょう。そう思っているなら、空想~妄想~誇大妄想だけが残るでしょう。
 
言葉だけ受け取って、込められた心を思わない者の、哀れな結末が、シャロームに表れています。だから、空っぽに満たされているシャロームです。しかも、それで、聖書を読んだつもりになって「どこに書いてありますか?」などと聞いてくるとは、呆れます。
 
神は全知全能として信じるということです。人との違いです。それを「どこに書いてありますか?」と聞いてくることが、シャロームが聖書を読んでいない証拠です。まず、聖書から、直観的に理解できないというのが、偽牧師で偽信仰者である証拠です。
 
聖書を通じて、神は全知全能の存在として表されています。そのことは、全知でも全能でもない人間にとっては、神が、人による分析や評価の対象とならないことを意味しています。聖書から読み取るべきは、神の詳細ではなく、人間の現実と真実であります。
 
私たち人間が、全知でも全能でもないことは、現実の経験から分かると思いますが、それを認識できない人がいるようです。シャロームも楽山も、信仰において必要な最低限の理解力が、信仰において致命的に欠損している証拠になります。
 
そういうことなら、あなたシャロームの妄想が、どんどん明らかになっていることも分からないでしょうね。恐ろしい人間離れの異常性です。シャロームのカルト性は明らかです。
 
あなたシャロームが、自分の言動を、神に結ぶ付けるのは、そういうところにあったのでしょうか。だとすれば、あなたシャロームは、われは神なり、と言っているようなものです。人間離れの神がかり妄想であることが、あなたシャロームによって証明されるわけです。
 
推測し予想したとおり、あなたシャロームは、頭も、心も、脳も、どんどん崩れてゆきますね。これで、まだ、聖書と信仰を教えるつもりでいるなら、説明しても分からないでしょう。こちらが言ってきたことを、まるで受け取っていないシャロームは、もはや、人間であることをやめているのでしょう。
 
問いつめだけ書いてくるのは、何の説明も説得力もない証拠です。
かといって、
あなたシャロームが説明すれば、恐らく全部、妄想をだらだら書くことになるのです。
とても醜いです。
 
 
聖書の冒頭の創世記1~3章すらよく読まれていないのではありませんか?
ほんとうに人間の罪の性質、その罪の共感から
本当に謙虚、謙遜、敬虔が生まれるのですか?
その共感をもとに信仰の道に入るのですか?
ほんとうですか?
 
このように、弁明せずに、問い詰めてゆくのは、荒らしやカルトや詭弁家の特徴です。聖書の創世記を読んで、シャロームは、罪の性質を理解せず、かえって、今まで現れてきたところの、訂正不能の、何でも赦される自己中信仰?を受け取ったのでしょうか。読解力がないようです。
 
罪を認めないあなたシャロームは、何も理解しておらず、何も受け取っていないということです。信仰は、パーティーでも、お祭り騒ぎでも、おまじないでも、大売り出しでもありません。シャロームの超常話の、共感など何もないところに、人間が信じられる良きものは、何もないです。
 
罪の認識からしか、信仰者の敬虔は生まれません。共感は、神と人、キリストと人、人と人の関係を結ぶためにあります。何の共感も必要としないところには、先ず、関係が生まれていないのです。
 
あなたシャロームは、人間離れのペーパーか墓標みたいになって、
書類の偽造のように、契約を捏造しているのです。
シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。
 
 
st5402さんの実体験からの言葉でしょうが、
あなたの考えは自分を正当化しやすいための合理化ではありませんか?
そういう考えが際限のない自家撞着の原因ではありませんか?
shalom!
 
自己正当化の権化であるシャロームは、自分が言われそうなことを、こちらに向けて書いてきます。これは、シャロームがよくやることです。「自分を正当化しやすいための合理化」?・・それで、何らかの正当性の担保になるでしょうか、全く否です。私は、神の前に、折に触れて、罪を告白しています。
 
罪の自覚は、自己正当化をしない方向にあり、ゆえに、反省を促します。あなたシャロームの醜い自己正当化を見ると、正反対なのが、よく分かります。
 
私は、愚にもつかないあなたシャロームの意見を、今はもう、まともに受け取ることはないですが、まだ、あなたの正体を知らない人が、影響を受けないことを祈るばかり。あなたは、悲惨な病原となっています。
 
天地と人間の創造の話を、思慮も良心もないために、「はなはだ良かった」と言う神の言葉にしがみついて、自分も良かったのだと、悪いところはないのだと、有頂天気分となり、人間の罪を、全部サタンのせいにして、聖書の教えとは真逆の無罪妄想に仕立てるつもりでしょうか。
 
そんなこと信じたらどういう人間になってしまうかも考えず、また、皆がそう信じたらどうなるかも考えず、自己正当化で悦に入るゆえに、学習も成長もなく、堕落し崩壊して、サタンのしもべに限りなく近づきつつある妄想の自家製の臓物が、あなたシャロームの偽信仰です。
 
これだけ言っても分からないでしょうけど、分からないなら人間として最小限の常識もないということです。まだ、撞着と書いてます。私の書いたこと、まるで読んでいない証拠です。問い詰めるが、問い詰めた対象の意見を読まない聞かない、これがピュアな疲労物質のあり方です。
 
どう‐ちゃく【×撞着】 の解説
[名](スル)
1 つきあたること。ぶつかること。
「忌諱すべき事に―することも」〈鴎外・渋江抽斎〉
2 つじつまが合わないこと。矛盾。「話の前後が―する」「自家―」
類語:矛盾(むじゅん)
 
楽山やシャロームなどの易坊類によく見られるのは、わざわざ難しい熟語や用語を、説明なしに書いてくることです。こんなに知っているんだアピールでしょうか、逆効果です。理解してもらおうという気持ちがないことの証拠になります。
 
人の言うことを聞かず、教えようとするだけなのは、シャロームが、他者をモノ化して、蔑んでいる表れです。他者を人間でない者として扱うことは、結局、そういう扱いをする人が非人間であることの証拠となります。議論など全くできないし、一方的な主張だけを出してくる人の特徴です。
 
信仰は人間のためにあります。信仰?を受け取ったつもりで、人間離れするなら、そういう信仰?は、元も子もないものとなるのです。そういう人間離れが宗教と信仰だと思っている楽山やシャロームは、つまり、何も知らないことを自ら証明しているのです。
 
 
8. shalomです。 お久しぶりです。
2019年11月15日 15:23
「批判するという悍(おぞ)ましいことは、早く終わりにしたいのですが、書けば、シャロームが、また・・・書いてくるので、また、批判せざるを得ない状況です。」とのことですが、
早く終わりにしたければ、あなたに自由意思があれば、いつでも終わりにできるのです。終わりにするか、しないかはあなたの意志の決断にかかっているのです。
 
シャロームが、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などと言って、自己中心だけの偽信条を、キリスト教として教えられてはたまりませんから、批判を続けてきました。シャロームが、キリスト信仰とは真逆のことを平気で記事に書いてくることから、私の批判は始まっています。
 
シャロームは、丁寧語とは裏腹に、信仰を、茶化しているわけです。批判を終わりにするかどうかは、私の意志によります。シャロームが、とやかく言うことではありません。それに、批判の継続は、シャロームが、納得のゆく弁明も反論も出来ないまま、嫌がらせを書いてくるから続いているのです。
 
現時点では、シャローム批判も、楽山批判も、記事が数えきれないほど多いので、もはや、資料となっています。この資料は、偽善者、異常者、詭弁家が、どういうだまし方をしてくるか、どう対処したらいいか、ということの参考資料ですから、これからも再録してゆくことはあるでしょう。
 
フォローしているブログも、信仰者のブログも、他にも多くありますが、批判しないブログがいっぱいあるのは何故か、ということを一度も考えないあなたシャロームだから、こうなっているのです。
 
しかも、批判を理解することが出来ず、執拗に、同じような超常話を書き続けるから、批判は持続するのです。あなたが、自分の異常性に気づかず、異常性をごまかして、吐き気のするような嘘の飾りの讃美言葉と言い逃れの詭弁を並べるあいだ、ずっと続くということです。
 
 
「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」とのことですが、8年間絶え間なく、書き続けているのはあなたでしょう。
それはあなたのブログを読めばだれでも理解できるでしょう。
私はコメントを未承認にしたり、時には削除したり、コメント欄を閉鎖したりしました。今も数多くのあなたのコメントが未承認のままミイラのように眠っています。間もなく消え去ります。
 
シャロームは、この記事の時点で、批判が8年間続いていることを、私のせいで起こっている異常事態と見なしているようですが、シャロームが、批判されるような記事を書いて、批判されて、反省も反論も弁明もできないで、なおも、嫌がらせだけを書いてくることのほうが、よっぽど異常事態なのです。
 
批判される必然を持っていて、あなたシャロームが自己満悦を書いて、いつもいつも排泄してきて、キリスト教のつもりで、福音をけがし、キリストをけがして、それが人間関係や受け答えにも出ているから、妄想は妄想だと言わなければならない必然があるわけです。
 
批判対象となる文章が無ければ、批判は生まれない、という当たり前のことが分からないとは驚きです。それで被害者意識しかないのは、自己中の訂正不能の特徴です。
 
シャロームが書き続けたので、批判対象となる文章が、今の時点で、約10年間続いてきたことが、資料化につながり、ゆえに、現時点では、批判対象記事引用+批判記事というあり方が可能になっています。ゆえに、批判のほうは、いつでも、かなり総合的にアップデートが可能となっています。
 
何も理解していないのに、何も気にしないで書いてくるのは、あなたシャロームに、反省がなく、学ぶ意志もなく、妄想だけがあるからです。それをキリスト教・キリスト信仰だと思われてはいけないのです。妄想に憑りつかれているのは、あなたなのです。今となっては、分からないでしょうけどね。
 
この人の言うことは、全部、間違っていて、正反対ですと、言わなければならない・・という私の課題が消えようもないわけです。言論の責任を負わないならば言論の自由もないのに、おかまいなしに、言葉の暴虐を尽くして、聖書も信仰もけがして平気でいられるシャロームは異常です。楽山もです。
 
あなたシャロームの、レコーダーのような、以前とまるで変わらない、反論にも弁明にもならない不平の集積されたゴミ置き場のようなコメント欄を見るのは、極めて不快ですが、シャロームの言ってることが妄想で、偽善だ、というアピールをしなければならないのです。最初からあなたが原因だからです。
 
無反省の偽善者は、批判を、促進するということです。批判のはじめから今に至るまで変わらない背教と、とんでもない妄想教理を、あなたは、示してきたわけだから、その責任を問われるのは、もはや宿命なのでしょう。
 
 
「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」と
他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのものです。
 
「他の人の責任」というのは、言うまでもなく、シャロームの責任ということです。シャロームは、おかしなことを書き続けている自分に対しては、全くの無反省であることが、偽善者、自己中、病的ナルシスト、サイコパスの特徴を表してきたのということです。
 
この引用部分の「他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのもの」が自己中と無反省の典型です。それは、無反省と自己正当化の、シャロームのほうです。しかも、平気で、神と聖書を悪用して、責任転嫁をしているのです。
 
根拠のない決めつけが、シャロームのお家芸として続いています。私は、シャロームと楽山を批判しています。神ではありません。アダムとエバの話は、人間一般の罪人の姿を表します。あなたは、また、間違えました。それが、修正不能になった偽善者の悲惨な経過です。
 
あなたシャロームは、いつもいつも偽善の典型だけを示してきました。今日のコメントは、妄想に憑りつかれて訂正不能になっている者の典型的な発言です。神は、あなたシャロームのような、不平ばかり言うような横暴な者の味方にならないことを、カインの話が示しているのです。
 
 
あなたの自由意思は罪の鎖につながれたまま支配されているのです。
イエスさまは私はあなたがたに自由を与えると約束されましたが、
あなたはその自由をイエスさまから受け取ってはいないのです。
 
自由意志を、自由ではなく、罪の鎖だと、逆説を言いながら、解説を書けないのもシャロームの特徴です。何も説明が出来ないのだから、説教など出来る人ではありません。主イエスが与えるのは、魂の自由と解放という救いであって、シャロームが言っている修正不能の自己中の自分勝手ではありません。
 
 
9. shalomです。 お久しぶりです。
 2019年11月15日 15:25
コメントのおしまいに
「シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。」書いておられますが、
私からのst5402さんのブログ訪問やコメントは脅しであったり、嫌がらせであり、嫌がりそうなことなのですか?つまり荒しであり、
あなたの私のブログ訪問や無数のコメントも脅し、嫌がらせの類だった、荒らしだったのですか?私はそう判断しましたので、未承認にしたり、削除したり、コメント欄を閉鎖しましたが、あなたの意思に従うのではなく、それが私の意思による決断でした。
 
シャロームは「私の意思による決断」と書いて、また、正当であるかのように見せかけていますが、実際は、批判に何も答えられないまま、シャロームのブログを、まともなブログに見せかけるための、都合の悪いコメントを不可視化~削除する隠蔽操作なのです。
 
また自分が言われることを、こちらに向けています。この後、シャロームは、私のライブドアブログに、"名無しの猫" などという荒らしらしいHNで、似たような荒らしコメントを書いてきました。シャロームは、通らない文句を何度も言う荒らしです。荒らしの易坊と息が合うわけです。
 
そういうふうに、批判を受け取らず、未承認~削除という対応しかできないことが、あなたシャロームが、反論、弁明、説明が、全くできないということを明確に表してきました。反論も弁明も出来なくて言うだけは言う、という言論のやり方は、ありえません。
 
だから、あなたシャロームの意志も文章も異常です。何か言われて、答えることのできない者が、特徴的に、安易にとってしまう不許可による隠蔽という強制力は、言葉の操作上の暴力であり、自尊の過大な妄想が固定観念になったものです。その典型が、シャロームと楽山です。同一成りすましかもしれない。
 
 
あなたに荒らしだと指摘をされた人はかなりおられましたね。
そういう人にもあなたは荒らしだと逆レッテルを張り、成りすましだと邪推し、決めつけられましたので、皆さん離れて行かれましたが、
そうだったためしがありません。
 
私の批判対象となったのは、シャローム、易坊、楽山、そして、カルトと見なした自称ヨシュア、自称マグダラマリア、などですが、皆、批判されると、怒るか、嫌がらせを書くかしか出来ないことをもって、似たような一方的な自己正当化の者たちでした。
 
離れていったのではなく、最初から、つながりはなかったのです。キリスト教のつもりで、妄想を書いていたのです。人間としての身の程を弁えず、信じて神のように完全になる、という、とんでもない冒涜が信条なのです。
 
私について、どこでも荒らす者という印象を吹き込みたいようです。批判と荒らしは違います。それに、私は、たぶん大丈夫と思う150くらいのブログをお気に入りに入れています。シャロームとは全然違うブログの世界です。楽山、シャローム、などの、ブログは、独特のカルト臭があります。
 
批判を受け取らず、悪口と同様に、荒らしだから削除することをやっていたのは、あなたシャロームです。言い返せないのに、相手にせいにするのは、カルトの特徴です。
 
シャロームは、批判コメントがあると都合が悪いから、隠蔽・削除するわけです。つまり、シャロームは、見かけだけを保とうとするような、自己中の、それこそ、見掛け倒しなのです。
 
私は、根拠を、何度も何度も示してきました。あなたシャロームは、言論というものを全く理解できないから、あなたの発言に、その度に、批判を当ててゆくしかないということです。
 
こういうことは、前にも、何度も書いてきましたが、また、同じことを書いてくるあなたシャロームは、被害者を気取っても、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい・・という暴言を吐き、内省不能の、自覚のない惨劇とでも言うしかありません。毎日、罪を食べて生きているのでしょう。
 
 
いつでも遅いということはありません。
今は恵みの時、救いの日であるという言葉が聖書にはあります。
きっと、ご存知でしょう。
shalom!
 
恵みの時、救いの日を、ずっと拒否し続けているのが、あなたシャロームです。恵みはいただいたつもりの妄想屋が、何も責任を果たさず、何も捧げず、弁えもない、という固まり方の厚顔無恥が、シャロームと楽山であります。議論というものが、何も分かっていないエゴの病なのです。
 
遅いも早いもなく、批判の必然は、あなたシャロームにあります。私は、キリスト者ですから、あなたシャロームが、詭弁をいくら重ねても、同じことを何度言っても、その都度、卑怯で汚いあなたシャロームに、改めて新しい批判を書く動機が生まれるだけです。
 
シャロームと楽山は、物品やその仕組みを理解するように、神と信仰を扱って、理解したつもりでいます。その決定的な不全を、シャロームは妄想的讃美で、楽山は曖昧ボンヤリ言語で、ごまかして、柔和を装う者であり、その口には、真実がありません。
 
しかし、一方で、批判対象とすることで、シャロームや楽山の言から、信仰者が、決して陥ってはならないところの、誤解、曲解、妄想、自己正当化、無反省、無責任、訂正不能、とは、どんなものか、ということを学ぶことが可能です。闇を見ることで、光を知ることもあります。
 
悪を認める罪人は信仰によって救われる可能性と希望を与えられますが、悪を善に見せかける偽善は、赦されることがありません。何故なら、善に見せかけることは、悪を認めておらず、罪を赦されることを自ら拒んでいるからです。卑怯が何を考えても、さらに卑怯になるという成り行きです。
 
 
偽牧師と反キリストの崩れ方

偽牧師+反キリストの崩れ方
 
 
(2019年)
(2020年)
(2022年12月02日、再録+加筆)
 
 
 
 (抜粋)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
社会の片隅で益々(ますます)動けず
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁から澱までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
(灰汁(あく)、澱(おり)、益々(ますます)、
 貶める(おとしめる)、晒す(さらす)、
 鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう):
  = 霊魂がしくしくと泣くさま。鬼気迫って恐ろしい気配の漂うさま。)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省が大事なことだと分かっていないから反省しないのでしょう。そういう機能が、楽山の自我には、無い、あるいは、あってはならないことなのでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。都合の悪いことはインプットされないのだろうと思います。
 
 
 
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  主の祈り2
 
 
主の祈りは、
イエス・キリスト自身が弟子たちに教えたと新約聖書に記されている祈祷文。
 
もちろん、主が祈るためではなく、聖書・福音書によって明らかなように、私たち信仰者が祈るためにあります。そのお手本となるのが、主の祈り、と呼ばれているところです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい、
 (マタイ6:6-9、新約聖書)
 
祈りは、独りで捧げるものだということです。信仰者は、神の前で生きているようなものです。すなわち、神は、私たちの言動と心の全てを見て、既に、知っておられます。そういう、ごまかしの利かない神に対して、告白や願いを祈るのだから、正直以外は、通用しないのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を、 きょうもお与えください。 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
 (マタイ6:9-13、新約聖書)
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
11:1
また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。 
11:2-4
そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。
 (ルカ11:1-4、新約聖書)
 
ここでは、弟子に乞われて、キリストは、祈り方を教えています。弟子たちだけでなく、私たち信仰者もまた、教えによって、見習うことになります。もちろん、こう祈っておけば大丈夫・・ということではありません。
 
主の祈りは、信仰者の祈りの定型文ではありません。決まり文句で祈るのではなく、一人一人がそれぞれ、個人の信仰生活において、告白と悔い改めと感謝など、正直に祈ることになります。
 
私たちが、信仰者であっても、ひどい思い煩いに支配されることなく、生きることが許されているのは、ひとえに、神が、悔い改める者に対しては、限りなく寛容だからです。
 
既に、全てを見抜いてご存知の神様は、信仰者が、自発的に、ただ正直に祈ることを待っておられると思います。正直でなかった場合は、別の機会に、正直を取り戻して祈ればよいのです。このことは、神の寛容を表しています。遅れた正直は、先んじる偽りよりは、マシなのです。
 
下記の訳文は、プロテスタント系の讃美歌集の多くに掲載されている文語訳(1954年改訂版には564番に掲載)のもので、現在でも多く用いられている。
 
(主の祈り:文語訳)
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
 」
 
神の計画の成就と、日々の願いと、赦しと、救いと、讃美が、述べられています。個人の祈りにおいては、さらに、具体的に、良かったと思うこと、感謝、悔いること、罪の告白、罪の赦しを願うこと、悩んでいること、・・などを、祈り願います。正直であることだけが必要十分条件です。
 
人が神に祈る時に、立派な祈りなどは、ありません。全知全能・絶対完全・永遠不変の神の前では、全知でなく全能でなく絶対でなく永遠でなく、不完全で移ろいやすい人間は、皆、口下手であります。いかに飾ることが空しいかということです。
 
 
  悪い祈り(信仰)の例:
 
「キリスト様へ、私たちのために死んでくださって、ありがとう」・・キリストの十字架の苦痛が、いかばかりであったかを忘れています。私たち信仰者のための十字架であっても、キリストの犠牲の苦難に共感しておれば、言えないはずです。
 
このように、人間としての弁えがなく、心無いところから、人間離れした悪い祈りが生まれます。キリストの罪の贖いによって赦されるのは、祈りに答えてであって、無罪の境地を与えられることではありません。救いの辻褄を覚えるだけでキリストの十字架の苦悩を知らない者・・になってはいけません。
 
「聖霊には昨日もお会いして話しました」・・人間には、聖霊と、陶酔気分を区別することは出来ません。聖霊は神聖であり、私たちは不完全なのです。どうして聖霊だと分かるのでしょう。こういう人間としての身の程を弁えない発言は、カルト的な超常願望から来ています。
 
聖霊体験は、無いとは言えないが、人が聖霊だと断定してよいものではありません。本当の聖霊体験を経験した信仰者は、恐らく、恐れて黙しているでしょう。そういう恐れを知る者にしか聖霊体験は起きないと思います。預言についても同様です。神秘は見せびらかせるものではありません。
 
信徒も預言すると聖書に書かれているからと言って、それを求め、さらには、それが起こったと言うのは、これもまた、神聖を決めつける超常願望の人間離れなのです。人間性を失った者には、救いも恵みも与えられることはなく、そういう者は、自分は特別という願望から自分信仰に向かっています。
 
自分は特別という意識がもたらす災いの一つの類型として、豪語があります。自己顕示欲で、または、言い込められて焦ることで、豪語は起こります。言っている内容が、超常の言葉で現実離れしていることや、アホみたいに幼稚か当たり前だったりすることから、区別できると思います。
 
異言というものもあります。聖書に書いてあるからと、神秘を探し始め、見つけたい、特別になりたい、という願望から、見つけた!・・という有頂天に至ることがあります。預言と同じように、内容を見る必要があります。神がかりになりたいという願望が妄想になる例でしょう。
 
神と一体になったら、神になるとでも思うのでしょうか。神の全能に、不用意に近づこうとすれば、一瞬のうちに燃え尽きる・・くらいの、神への恐れが必要です。信仰は、のぼせ上がることで高慢になり、精神病理になることがあります。畏れではなく恐れであります。
 
 (使徒行伝、口語訳)
19:5
人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。 
19:6
そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。 
19:7
その人たちはみんなで十二人ほどであった。
 (使徒19:5-7、新約聖書)
 
神を恐れる、ということを、神を敬う、神の前に畏まる、などという程度の気持ちしか持っていないようになると、裁く神、戒める神、懲らしめる神を忘れてしまいます。全能と不完全の違いを弁えないようになってしまいます。それは、もはや、信仰ではありません。
 
信仰は、お伽噺でもヒーロー物語でもありません。命を支える水脈です。人間離れしてゆく方向にはカルト化しか待ってはいません。人間として正しいならば、神秘に恐れをいだくはずです。敬虔は、神聖への恐れから生まれます。ゆえに、それを欠いて幻を語っても、"特別" に悪くなるだけです。
 
信仰の恵みは、人間らしさに与えられます。一方、超常の魔法のような奇跡は、神に任されることです。信仰者は、新しい命と、生きるための方向と、時々の癒しを得て、よりよい人間になることを目指すのであって、そこを離れて、キリスト信仰の救いはないのです。
 
信仰は、人間らしさの真実を追求することです。全能の神の存在を意識して、自らの不完全と罪深さを知ることから始まります。であるのに、超常の豪語や自覚?に走ってしまうのは、欲望によるものであり、信仰の敬虔に逆行するものです。
 
おびただしいカルト系が、望ましくない方向へ向かっています。そして、そういうカルトや妄想家や自己中で人の話を聞かない無反省・無責任の流れは、人間に対するキリストの、この上ない共感とは、全く反対の方向へ誘導し、煽り、刷り込み、そして、人格を破壊するものです。
 
 
楽山の語る理屈モドキは、よく読めば、一度も成り立ったことがありません。さらに、表面的な理屈だけで、宗教を理解したことにしている楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という精神病理の檻(おり)に捉えられています。
 
楽山は、優越感のために共感がなく、反省せず、決めつけに生きています。楽山の、やさしげで、柔和を装う筆致を信用しないでください。騙された人からの "優しいお人柄ですね" などというコメントに満悦し、書くことに自己満足するだけで、真実追求の妨害者でしかありません。
 
 
絆(きずな)と祈り

絆(きずな)と祈り
 
 
(2021年11月17日)
(2022年12月01日、再録+加筆)
 
 
 
 讃美について
 
神を賛美することは、自分がいかに低く罪深い立場から神を仰ぐ必要があるか、という実感から生まれます。しかし、讃美する自分は正しいキリスト者、というような信仰自慢とお祭り騒ぎのニュアンスを感じることがあります。神は、絶対であり、人に讃美される必要はありません。
 
自分という信仰者は正しいという自覚で、喜んで~有頂天で、神を賛美するのは冒涜であります。そこにあるのは、信仰者の姿ではなく、カルト的陶酔気分か、または、褒めてなくては、という強迫観念、あるいは、褒めればよい、という自己満足でしかありません。
 
信仰者が讃美して、それが、信仰とダイレクトに結び付いたのは、まさに、迫害が身近に迫っていて、結束しなければならないという時代の、切実な必要と欲求によるのであります。それを、現代において真似て、いい気になる讃美信仰はキリスト信仰とは言えないでしょう。
 
 
 
  器を
 
この両手に囲めるだけの空を下さい
消えるものは消えるままに
この両手に掬えるだけの海を下さい
沈むものは沈むままに
この体に受けとめられるだけの光を下さい
失うものは失われるままに
この足に踏めるだけの大地を下さい
崩れるものは崩れるままに
この目に映るだけの奥行きを下さい
壊れるものは壊れるままに
喪失の限りある世界から
自らの喪失へ連なる調べを
受け入れるだけの小さな器を下さい
器はいつか喜びに砕けるでしょう
 
 
  ある日の祈り
 
私が意図し
私が求め
私が追いかけ
あるいは諦めたもの
私が企み
私が謀り
私が手に入れ
あるいは失ったもの
私を誘惑し
私を陥れ
私を快楽に酔わせ
私を責め苛むものから
どうか私を救い出して下さい
 
私が裁かれるべきであれば
しかるべき所へと導いて下さい
それが永遠の無でも
地獄でも
せめてその時には
私の抗う醜さが
断末魔の呪いになりませぬように
 
せめてその時には
私が跪いて俯いて
裁かれる姿勢で受けられますように
 
言い渡される宣告の前に
我が身の罪を食い
跪(ひざまず)かせて下さい
せめてその時には
私の罪と悔いが全て見えますように
 
できればその時までに
試みに会わせず悪より救い出してください
 
何よりも
ずっと
ずっと
私の躓(つまず)きを見ていてください
そして
その果てに私を拾い
お救いください
 
 
※ 
謀る(はかる)、陥れる(おとしいれる)、
跪く(ひざまずく)、俯く(うつむく)、苛む(さいなむ)、躓く(つまずく)
 
 
   契約
 
今ここに保証のない契約をたてて
旅立つ前の支度のように
転がるプライドを箱におさめ
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
虚言と余言?を手紙にしたためて送ろうと思う
奴隷がしもべに変わるように祈りながら
呪いを自らに向けて
一つの段を降りてまた一つを降りて
もう降りようのないほど降りて
降り尽くしたとき
通じ合えることの乏しさを
触れることもなく
触れられることもないほどに
低く造られたことの喜びを
分かち合える友の少なさを
パン屑の奇跡になぞらえて
汚れの中に身を置いた
空しさの故に約束しよう
あなたがたは栄え
この身はいつか森の中に行って罪を悔い
見せない涙のように土に帰る幸いを知ると
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 取税人とパリサイ人の祈り、という聖句を挙げておきます。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)18:9-14
 
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
 
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
 
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
 
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 
 (ルカ18:9-14、新約聖書)
 
 
 
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  楽山に交われば3
 
 朱に交われば紅くなる?
  (『ブッダの真理のことば 感興のことば』)
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
古い記事です。楽山の白々しい嘘と、今も変わらない迷惑要素が表れています。削除していないから、成長のない楽山は、今も、そう思っているのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の災いです。
 
 
五 劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう。すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する。それ故にこの世では自分よりもすぐれた人とつき合え。
[省略]
一一 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。
(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳)
 」
これは、「感興のことば 第25章 友」で見つけた言葉です。
 
楽山に交われば気が狂う・・と書いて置きます。理路が整わず、情感がなく、冷酷な楽山に交わると、話が通じない、遣り取りになっていない、何にも分かっていないのに、まともなつもりでいる、それは、自己愛性人格障害だからです。教祖というより発狂素とでも言うべきでしょう。
 
学ぶべきお手本を何一つ持ち合わせていないのに、上から、教える態度で、忠告する姿勢で、言葉だけ丁寧に語ってきて、結局、嘘と詭弁以外、何もなかった・・こういう人は、はっきり言って、要りません。誰でも持っているはずの共感性も良心もないのが自己愛性パーソナリティ障害NPDなのです。
 
 
若い頃は、朱に交われば紅くなると説教されると、反発を感じたものでした。けれどもこの年になってみると、これには一理あると認めざるを得ないという心境になりました。
 
「一理ある」と、楽山が言っても、楽山からは「一理」など受け取ることはないのです。世辞を言われて、いい気になっても、三歩歩けば忘れる人です。傍若無人が丁寧語を使って、ごまかしの人生を笑いながら過ごしているだけなのです。
 
 
また、これは友だけでなく、書物や宗教に関しても言えそうです。たとえばこんな風に。
・悪書を読み耽る者は堕落する。しかし良書に親しむ者はすぐれた状態に達する。
・邪教に近付く者は我が身を亡ぼす。しかし正しき信仰を得るものは正しき者となる。
人に限らず、書物でも、宗教でも、何に近付き、何を遠ざけるかということは、とても大事なことなのだと思います。
 
楽山を真に受ける者は堕落します。楽山に近づく者は、自分をを滅ぼすことになるでしょう。「何に近付き、何を遠ざけるかということは、とても大事なこと」・・楽山の嘘の始まりです。楽山は、「すぐれた状態」を知らず、「正しき者」を知らず、病気の自我によって、他者の良心を食い荒らす者です。
 
 
 
 信仰を意識しない生活
  (ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」片山俊彦訳)
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の、罪も、偽善も、人の迷惑も、省みず、「意識しない生活」の話です。
 
 
もともと彼は非常に宗教的な人間だったために、かえって神を思考することが少なかった。神の中に生きていたので、神を信じるにはおよばなかった。
(ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」片山俊彦訳)
 
クリスチャンホーム(キリスト者の家庭)に育った人は、信仰に、さして疑問をいだかないで暮らしてきたために、のちに、現実の問題に接して疑い、信仰を捨てる人も出てくるでしょうし、信仰を見直して、余計なものを捨て、大事なものを得て、自分の信仰としてゆく人もいるでしょう。
 
 
自分は、いわゆる無宗教で育った
神棚と仏壇が併存していても大して気にせず
神社、仏閣、お墓では手を合わせて拝み
彼岸には団子を食べ
クリスマスにはケーキを食べる
そんな家庭で育った
 
このような、日本人に多い育ち方をしても、楽山のように、能力不足を努力で補う代わりに、人をだますことで慰めを得ようとするような者もいます。楽山は、体質として素因もあるでしょうが、性格として怠慢で、学ばないで、自己満足を選んで、人の精神を貪(むさぼ)ってきたのでしょう。
 
私も、クリスチャンホームで育ったわけではなく、上と似たような環境で、家には仏壇がありますが、聖書に接する機会を得て、罪ということ、人間は不完全ということ、キリストの愛と共感・・などを学んで、まじめに祈る人間にはなってきたようです。善人になったわけではありません。
 
 
無宗教とはいっても
無神論や唯物論に染まっているわけではなく
ただ単に特定の宗教を信じているわけではないというだけで
神、霊、あの世の存在は当たり前のように受け入れていた
 
楽山が最近言っているのは、無神論や唯物論が多いと思います。一方で、"仏様の心が分からないっぽい親戚に驚いた" 、仏様の気持ちが分かって、"仏様が喜んでいたよ" などと言い、霊能者気取りですが、霊能を示したことは一度もありません。洞察力も理解力もない人です。
 
楽山は、うまくいかない自分を、全部、人のせいにしてきたのでしょう。その分、ストレスはないでしょう。嘘と詭弁は復讐なのでしょうか。そうして、甚だ迷惑なだけの人物になっています。「神、霊、あの世の存在」を、当たり前のように浅薄な知識に貶めて、バカにしてきたのです。
 
 
今、振り返ってみれば
自分の半生の中では、この時期が一番よい生き方をしていたし
神様の近くにいたような気はする
それにこの頃は、なぜか運もよかった
そのせいか、上のロマン・ロランの文章にはとても共感できる
弱い人々、あるいは弱くなっている人々の貧血している生活は神の信仰を必要とする! 彼らは草木が太陽にあこがれるように神にあこがれる。死にかかっている者は生命にしがみつく。しかし、太陽と生命とを自分のうちに持っている者は、自分の外のどこにそれらをさがしに行くことがあろう?
(同上)
 」
 
信仰は、生命の光を、自分のうちに与えられ、気づいて、育ててゆくことです。ここでも、楽山は、反キリストであることが分かります。楽山が「自分のうちに持っている」のは、自分をも人をも欺いて、自己満足と優越感を貪るという下種の人生なのです。楽山が持っている太陽は真っ黒です。
 
 
無宗教だった自分は
もっとも弱っていた時期に幸福の科学と出会い、入会し
じきに退会することになったのだった
その後はしばらくの間は
幸福の科学の代わりになるものを探したが
これだという宗教には出会うことなく、今に至り
そのことに納得している
つまり元のさやに戻り、無宗教に落ち着いている
 
楽山は、ちっとも落ち着いていません。自己顕示欲の権化となって思考が散乱しています。自己顕示欲によって症例情報だけは豊富な自己愛性人格障害の見本として、気づかれないあいだだけ、いい気になり、結局は、人に多大な精神的疲労~人格破壊という迷惑をかけ続けているのです。
 
楽山は、自分を完全とするカルトであり、宗教と信仰の感受性がありません。かつ、まともな人間としての、共感も持っていません。そういう人間であるあいだ「宗教には出会うこと」などあり得ないのです。ゆえに楽山は、宗教を教条の辻褄でしか考えないので、信仰者と求道者の敵であります。
 
 
これは上の文章にそって考えれば
内なる太陽と生命を失っているときには宗教を求めたものの
今は内なる太陽と生命が蘇ってきたので
以前ほど宗教を求めなくなったということかもしれない
 
楽山の豪語です。「内なる太陽と生命」を持っているそうです。その時点で、自己愛性パーソナリティ障害NPDとして、迷惑だけをかける男となり、自分が神となり、ブレーキが効かなくなり、宗教を求めることなど、全く、なくなって、思い込みだけの自尊カルトとなるのです。
 
 
なんだか
ずいぶん都合の良い考え方であるし
遠回りしたようでもあるけれども
本来の自分を取り戻しつつあるようで、うれしい感じはする
宗教感覚は、人によっていろいろだろうけれども
自分にとっては無宗教が一番合っているようではある。
 
楽山の、ボンヤリ言語とトホホ言語です。「都合のよい考え方」で反省を装い「遠回り」で謙虚を装い、「本来の自分を取り戻し」たとは、病識の欠如を表しています。つまり、「人によっていろいろ」で自己中を正当化して「無宗教が一番合っている」という自己満足に浸っている醜態です。
 
無反省、無責任、自己中、訂正不能、霊能者気取り、インテリ気取り、怠慢、高等感情の鈍麻、罪悪感の欠如、嘘吐き、詭弁屋、悪いことを全て人のせいにするなど、・・どこが「合っている」というのでしょう。明らかな人格障害~人格崩壊を表しています。ここまで来てしまうのです。
 
人類の敵は、国家でも民族でも、文字に書かれた思想でもありません。自己愛妄想を身に着けて罪悪感を感じないところの、サイコパスです。精神病質、自己愛性~反社会性人格障害などと呼ばれるものです。楽山の、これからは、恐怖です。決して近づかないでください。
 
 
無理解を誇る病質

無理解を誇る病質
 
 
(2021年)
(2022年11月30日、再録+加筆)
 
 
 
 山上の垂訓について
 
(マタイによる福音書、口語訳)5:27-28
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
(マタイ5:27-28、新約聖書)
 
守ることの不可能な教えに思えますが、十戒の拡大解釈であります。守れという道徳を言っているのではないということです。キリストは、厳しい教えを、守れとも、できるだけ守れと言っているのでもなく、罪なき者は一人もいない、という人間の例外なき罪性を言っているのです。
 
神は、正直な告白と祈りだけを求めておられます。教えをそのまま守ることは不可能とご存知だからです。間違っても、正直以外のものを、神に向けてはいけません。なお、信仰者においても、洗礼は、信仰の意志表示であり、生命保険ではありません。弁えるべき態度は、同じです。
 
 
 
  悪魔と基督
 
悪魔は密かに隠れて働きかけることを好むが
基督は常に顕れて意識されることを喜ばれ
またそのように導かれる
 
基督の負いやすい軛は
人間性の最も温かい部分に架けられ
ゆえに一度架けられた軛は人を捕えて放さない
それゆえ人が基督を忘れようとしても
温もりを求めないではおれないがゆえに忘れられず
死や狂気や悪しき謀に走ろうとしても引き戻される
人が人の都合で神を選ぶのではない
神が神の都合によって人を選ぶ
 
肉の心と体が動くとき悪魔は陰で欲望をけしかけ
知恵に悪知恵を吹き込んでそそのかす
意識できない悪魔を探そうとしても大方困難である
悪魔は隠れ住むことに巧みである
しかし基督は既に明らかな絆によって人を導かれ
御自身も明らかなることを好まれる
ここに明暗は分かれ、光と闇は分かれる
闇は光に勝つことはなく
闇は光が来れば消えるか更に狭く隠れるほかはない
 
このように肉の心と体が動くとき
更に深く潜む悪魔を見出そうとしても至難であって
父・御子・御霊の大いなる導きだけが頼みであり
強い軛によって私を放さないで下さい
という祈りによって明け暮れる日々は
人に与えられる分け前として
いかなる苦痛と苦悩の中にあっても
人が希望を楽しむのに必要であり十分である
 
※ 軛(くびき)、絆(きずな)
 
 
  最後の逃げ道
 
神様は必ず逃げ道を
用意してくださる
最初に聞いたのは映画でした
 
この世の富を得て幸福な者は
不老長寿を追い求める
一方で富から見放されて
幸福からも見放されたと
死ぬことを考える人がいる
 
今の世にあって
逃げ道があることを知り
祈り求める人は幸いです
 
しかし人には
富める者にも貧しき者にも
悪しき者にも正しき者にも
逃(のが)れることのできない
定められた時が来るのです
しかもそれは必ずしも
納得のいく訪れ方をする
とは限りません
生きるのが辛(つら)い人はいても
死ぬのが大好き
という人はいないでしょう
 
だからこそ知る人は幸いです
逃れようのない時にも
最後の逃げ道は
用意されているのです
 
御子を信じる者が
ひとりも滅びることのないように…
 
それは御国へ至る道
穢(けが)れた肉体が壊され
塵に帰るときも
御使いに「ごくろうさま」と
言ってもらえるかどうか知らないが
肩や首筋に溜まった
凝りが解(ほぐ)されるように
重荷は解(と)かれ
軽やかに安らかに
引き上げてもらえる
最後の逃げ道
 
死が美しいと
思ったことはありません
けれど賜る死が必ずしも
悲しみだけではないことを知り
言うは易(やす)く
行うは難(かた)けれど…
祈り願います
 
御心は必ず成就するから
神様との約束は
必ず最後まで果たされるから
 
 
 
天国は、人間が感動するとき、どのような心境になるか、ということがヒントであります。ヒント以上の具体性を持って、地上の人が天国を理解することはありません。想像は想像であり、空想は空想であり、お伽噺はお伽噺以上ではありません。天国について、決めつけてはいけません。
 
信仰による慰めは一生を支えるものです。大丈夫と言ってくれる友人からの慰めとは違います。人の言葉で表されるものとは違います。また、魔法ではありません。人が神秘を理解することはありません。ぺらぺらと人の言葉で表して、分かったつもりの反キリストがいますが、何も分かってはいないのです。
 
心貧しいとは、心に先入観がないということです。心の貧困な反キリストや無神教カルトが何を豪語してきても、信仰を持っている人は空しさしか感じません。彼らが全く心に響かないことを信仰のように述べても、そういう反キリストの言は、野辺に放置された骨にも足りません。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「だよなあ」「なんでしょうかね」は、楽山のボンヤリ言語です。丁寧を装う詭弁であり奇弁であります。自己愛に有頂天になり続ける災いの人が、分かったつもりになっているだけなのです。だから、平気で嘘を吐き、後悔せず、反省せず、無責任のまま、書く続けてきたのです。
 
 
 
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  楽山のネトウヨ煽動2
 
 『最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌』
 ペマ・ギャルポ著 2021年11月14日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
(ネットより)
ペマ・ギャルポ(チベット語: པདྨ་རྒྱལ་བོ〈ラテン文字翻字形:Pema Gyalpo〉、1953年6月18日 - )は、日本の政治学者。チベット出身で日本に帰化したチベット系日本人。拓殖大学国際日本文化研究所教授、岐阜女子大学南アジア研究センター所長。専門は、国際関係論、国際政治学。
亜細亜大学法学部卒業。モンゴル国立大学政治学博士[1]。所属する学術機関はチベット文化研究所[2]等多数。所属する芸能事務所はサラブレッド・プロモーション[3]。
ぺマ・ギャルポ:ウィキペディアより
 
楽山は、A級戦犯を褒めるなど、ネトウヨとしての記事も書いています。自分の問題から逃れたいために自己愛性人格障害者がすることは、ケチな煽動屋がしそうなこと、つまり、話題を逸らせることでしょう。信仰を思い切りディスった後は、中国の脅威を煽ってきました。
 
チベットの人ならば、中国の問題は重大事だと思います。しかし、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく、そのような切実なことも、つまらない文章を書いて、自分を高めるために、評論家気取りで利用~悪用するのです。
 
 
*概要
恐ろしいタイトルの本だけども、これは知っておいた方がよさそうだと思ったので通読してみた。
その概要は、前半は中国はどのようにしてチベットを侵略したかが語られ、後半は中国はすでに日本に対して相当の影響力を持つに至っていること、日本は中国の侵略に対して早急に対策を講ずるべきことが語られている。ここでは中国の日本侵略の兆しとおぼしき事例をいくつも紹介しているが、その一つ一つが背筋が寒くなるようなものばかりである。
 
楽山には、政治や国家を、とやかく言う資格はありません。食欲のように話題に飢えている楽山の、政治も分かるんですアピール~宣伝に過ぎません。「日本は中国の侵略に対して早急に対策を講ずるべき」・・どういう対策を講じられるというのでしょう。無責任に、恐怖だけ煽っている楽山です。
 
楽山は、自分を高めることや、インテリ気取りに熱心ですが、楽山自身の、罪と悪と偽善の問題や、無反省、無責任な体質については、一切認めず、無視し続けてきました。逃げていると分かるようなことしか書けないのでしょう。どんどん、真実からも、現実からも、乖離してゆくようです。
 
 
*チベット再訪
本書の中でもっとも印象的な話を二つほど挙げておくと、まず一つは著者がチベットを再訪した折に出会った子供たちの様子である。
子供たちは盛んに「私に名前をつけてください」といいます。どういう訳かと思ったら、驚いたことに子供たちの名前は数字なのです。「九・二三」「三・五」「キ・キャ(犬の糞という意味)」など、彼らは誕生日や体重や侮蔑の意味を持つ言葉で呼ばれていたのです。中国当局は「反革命」だとして、チベット名を禁じているのだといいます。
(『最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌』ペマ・ギャルポ著、飛鳥新社、2012年、p.85)
 」
近頃はウイグル弾圧についての報道は増えつつあるように思うが、チベット関連のニュースはいまだに殆どない。もっとチベットのことを報道してほしいものだと思う。
 
もう一度言います。チベットの人ならば、中国の問題は重大事だと思います。しかし、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく、そのような切実なことも、つまらない文章を書いて、自身を高めるために、利用~悪用しているのです。そして、具体的なことは、何も語れないのです。
 
「もっとチベットのことを報道してほしいものだと思う」・・このような、正義の味方?が当たり前に言うようなことに、だまされないでください。楽山は、外国のことも、他人のことも、本気で心配したことはないと思います。自分に何が降りかかってくるか、何も気づかない人です。
 
むしろ、楽山のような人が、増えれば増えるほど、理非もお構いなしに、状況分析もせずに、平和を思わず、やたら恐怖を煽って、事態を悪化させ、戦争へと導いてゆく、ということを肝に銘じておくべきでしょう。自己顕示欲が高じると、危険だという例になります。
 
理路と情緒ともに劣っていて、思想がまとまらず何も深いことなど書けないのに、これならいいだろうと書いてくる楽山の安易さが目立つばかりです。あらゆる顰蹙(ひんしゅく)が当てはまる楽山には、決して、関わらないでください。とても乱暴な精神です。
 
それに、名前のことが書いてありますが、楽山が様々なHNを使い、素性を明かさないのも、書いていることの重大さに比して、結局、いかなる責任も負わず、何事にも関わりたくない怠慢な性根を表すものでしょう。間違っても楽山を信頼しないでください。
 
 
*クレーム
もう一つは、日本のテレビの話である。
私は二〇年ほど前から、TBSと読売テレビでコメンテーターをさせていただいていますが、例えばチベット国旗を出す場合、わざわざ聞く必要もないのに、スタッフが中国大使館に電話をしてお伺いを立てるのです。当然ながら、いいと言うはずがないのですが、報道の自由を侵害することになるので、あまり強くは出てきません。
その代わり何をするかと言えば、例えば親中派団体の人間などに番組あてに、また番組のスポンサーには番組編成局あてにクレーム電話をかけさせるのです。そしてその件と関係ないことでも、事あるごとに「ペマ・ギャルポを番組から降ろせ」といったクレームが来る。
(同上、p.127)
 」
本書の発行日は2012年であるが、今は当時より状況は好転しているとは言い難いのは辛い…。
 
隣国が干渉してくるのは将来の脅威ですが、自己中の楽山が、無責任に無反省に口を出してくるのは現時点の大きな災いです。私は楽山を強制的に追放する権限を持ちませんが、楽山こそ、リアルとネットの災いであり、言論から一刻も早く追放されるべきです。あらゆる真実の追求を邪魔する病質者です。
 
 
*計画?
こちらは本書の裏表紙である。
『最終目標は天皇の処刑』ペマ・ギャルポ著、裏(省略)
中国が本当にこういう計画を立てているとしたら不気味だ。
 
本当なら「不気味」ではなく恐怖です。総じて、チベット出身の人が書いている本を、中国を脅威と決めつける具材にして「天皇の処刑」などという恐ろしいことを、そのまま書いて「不気味だ」(≒気味が悪い)で済ませて、面白がり、かつ、不安を煽るなど、もはや、右翼とさえ思えません。
 
いったい、どんな立場に立っているつもりなのでしょう。煽って気を引こうとする野次馬根性には、一片の愛国心も見い出せません。楽山の書く必然が、どこにあるというのでしょう。見境のない楽山の、自分は特別だから何を扱っても言ってもいいかのような、自意識の傲慢が表れています。
 
テレビなど見ていて、皇室と、皇室関連の記事を書く人が、どれだけ言葉に気をつけているか、分からないのでしょうか。楽山の自己愛と自己中が、いかに高等感情と慎重さを欠いているかという記事です。皇室と、日本と、読者に、危機を煽って机上で玩ぶ病質は、全く有害無益です。
 
楽山の無思慮と無遠慮と厚顔無恥が明らかになっています。思いやりの欠片もなく、繊細さを弁えず、危機や脅威の自覚もない筆致で「不気味」と言って、ホラーのように面白がるとは、生まれ育ちによる自己愛性人格障害だけではないのだろうか。あるいは、脳が器質的にやられているのだろうか。
 
誰もが慎重にならざるを得ないところを「中国が本当にこういう計画を立てているとしたら不気味だ」と、あっさり楽山特有のボンヤリ言語で言うのは、迂闊な暴言です。高等感情鈍麻の楽山の体質を表しています。楽山には、皮があり、肉があり、骨がなく、髄がありません。
 
迂闊:(ネットより)
う‐かつ〔‐クワツ〕【×迂×闊】 の解説
[名・形動]
1 うっかりしていて心の行き届かないこと。また、そのさま。「そんな大事なことを見落とすとは―だった」「―にも口を滑らす」
2 回り遠くて実情にそぐわないこと。実際の役に立たないこと。また、そのさま。
 
皮肉骨髄:(ネットより)
禅宗の僧侶、達磨大師が四人の弟子たちを「我が皮を得たり」「我が肉を得たり」「我が骨を得たり」「我が髄を得たり」と評価した言葉。
骨や髄は「要点」の喩えで「物事の本質の理解」を意味し、皮や肉は表面にあることから「本質を理解していない」といった非難の言葉であった。
 
 
迂闊(うかつ)危険

迂闊(うかつ)危険
 
 
(2021年)
(2022年11月29日、再録+加筆)
 
 
 
  しろいあこがれ
 
きばんだ しろ
あおざめた しろ
かいはくしょく
ではなくて
ほんとうの しろ
じゅんぱくの せかいへ
とびたつ とき が きっと
うまれたままの すがた
ではなくて
うまれる まえの すがた
はは と ちち の
からだ に やどる
より まえの すがた に きっと
よろこびなのか かなしみなのか
さいわいなのか わざわいなのかも
しらない まま きっと
 
 
  風の笛
 
ほとんど風のない日だったが
ふと一吹きの風の中に
笛の音(ね)を聞いたような気がした
 
突き当たりの角をいつ曲がってきたのか
風に押されて来たかのように
一人のまだ幼い男の子が立っていた
 
幼年時の私の顔には似ていない
涼しげな顔が少し蒼ざめて
突き当たりに向かって歩いていく私の
手を軽く握って
親子でもないのに手をつないで
曲がり角に差し掛かった
ふと一吹きの風
笛の音を聞いたような気がした
 
手の中の小さな手も
その子もいなかった
 
私は風とは逆の方へ歩き出していた
もう戻れないと思った
 
笛を吹いたのは君だね
踊らなかったのは私だ
 
 
  月
 
心臓が出ていた
果てもない夜空に
ひとり蒼白く生きる
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
 
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
 
  診断基準
(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Edition[DSM-5])
自己愛性パーソナリティ障害の診断を下すには,患者に以下が認められる必要がある:
 
誇大性,賞賛の要求,および共感の欠如の持続的なパターン
このパターンは,以下のうちの5つ以上が認められることによって示される:
 
自分の重要性および才能についての誇大な,根拠のない感覚(誇大性)
途方もない業績,影響力,権力,知能,美しさ,または無欠の恋という空想にとらわれている
自分が特別かつ独特であり,最も優れた人々とのみ付き合うべきであると信じている
無条件に賞賛されたいという欲求
特権意識
目標を達成するために他者を利用する
共感の欠如
他者への嫉妬および他者が自分を嫉妬していると信じている
傲慢,横柄
また,症状は成人期早期までに始まっている必要がある。
自己愛性パーソナリティ障害(MSDマニュアル)
 
 
 自己愛性パーソナリティ障害の症状
 
人より優れていると信じている
権力、成功、自己の魅力について空想を巡らす
業績や才能を誇張する
絶え間ない賛美と称賛を期待する
自分は特別であると信じており、その信念に従って行動する
人の感情や感覚を認識しそこなう
人が自分のアイデアや計画に従うことを期待する
人を利用する
劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる
嫉妬されていると思い込む
他人を嫉妬する
多くの人間関係においてトラブルが見られる
非現実的な目標を定める
容易に傷つき、拒否されたと感じる
脆く崩れやすい自尊心を抱えている
感傷的にならず、冷淡な人物であるように見える
(ウィキペディア)
 
 
 
 私としては、シャロームshalom、楽山を見てきて、
加えて、
 
笑いと怒り・憎しみの感情はあるが、
共感がないのと同様に、しんみり悲しむ悲しみの情がなく。
他者を責めるが、自分を責めることがない。反省しない。
ひやかして笑ったり、皮肉や雑言を言うが、説得力は皆無。
真剣味がなく、洞察がなく、皮相であり、深みがない。
評論家気取り、インテリ気取りがあり、学術用語を使いたがる。
罪悪感や羞恥心がない。
批判されても受け取らず、不感不応。弁明・反論が出来ない。
代わりに、平気で同じ結論を言い続ける。
 
言い方だけ、丁寧語を使うことがある。
都合が良いと他者の言を、褒めるが、表現は月並みで、大袈裟である。
・・などなど・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではないし、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。砕けた言い回しに、騙されないようにしてください。
 
 
 
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  恥丸出しの深みの無さ
 
 『「孝経」人生をひらく心得』伊與田覺著
 2022年11月27日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
楽山の人生が、いかに、ごまかしで閉じてゆくプロセスであるかが、表れています。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の悲惨な自己正当化のボンヤリ言語の例と言えるでしょう。本人だけが、書を読み、書を理解したつもりで、自慢しているのです。
 
 
*まえおき
古典名著はできるだけ目を通しておきたいと思いつつ、「孝経」はその書名はよく聞くにもかかわらず、一度も通読していなかったので、本文紹介とともにわかり易く解説してある本書を読んでみた。
 
思考の理路も、情緒面の感受性も、楽山に、古典が読めるとは、とうてい思えないのですが、感想文のつもりのようです。短くて、中身が薄く浅いのは、楽山が、実際には、読書障害であることを表してきました。感想の中身が書けないのでしょう。不親切で、浅はかな表現ばかりです。
 
 
恥ずかしい話であるが、「身体髪膚、之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」という言葉は前々から知ってはいたが、これが孝経の言葉だとは本書を読んではじめて知った。古典を読むと、有名な名言名句を再発見できるところは楽しい。
 
楽山は「前々から知ってはいたが」説明はしないのでしょうか。細かいところにも自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)は表れてきます。つまり、読んだ、読めるんだ、という読書家気取りの自慢だけなのです。「楽しい」では、小学校でも怒られそうです。見栄張ってもしょうがないでしょう。
 
髪膚
はっ‐ぷ【髪膚】 の解説
髪の毛と皮膚。転じて、からだ。「身体―」
毀傷
き‐しょう〔‐シヤウ〕【毀傷】 の解説
[名](スル)損ない傷つけること。
「彼も此も―せられたり」〈鴎外・藤鞆絵〉
 
 
*心に残った言葉
ちなみに、本書中で特に心に残ったのは、この言葉だった。
>>
「故に其の親を愛せずして他人を愛する者、之を悖徳と謂う」。
自分の親を愛さないで他人を愛する者を悖徳という。
「其の」というのは「自分の」。「悖」は「悖る」で、正しいあり方に反する。徳に悖る者を「悖徳漢」といったりします。自分の親を疎かにして他人を愛するような人は悖徳漢ですね。
(『「孝経」人生をひらく心得』伊與田覺著、致知出版社、平成21年、pp.135-136)
<<
毒親問題が広く認知されるようになっている現代では、どんなに人に親切にしたとしても、親孝行ができていなければ悖徳漢だとはなかなかに厳しく、暴論とも思えるのではあるが、一般論としては親不孝な状態ではいくら他人に親切にしても、おそらくは心の中から罪悪感は消せなかろうし、それならこの考え方はそう見当違いというわけでもなく、完全に否定されるものではないのだろうと思う。
 
はい‐とく【背徳/×悖徳】 の解説
道徳にそむくこと。「―行為」「―者」
 
音読み ハイ・ ボツ
訓読み もとる・ みだれる
意味
①もとる。道理にはずれる。そむく。「悖徳」 ②みだれる。「悖乱」 ③さかん。さかんに起こるさま。「悖然(ボツゼン)」 [類]勃(ボツ)
書きかえ
①「背」に書きかえられるものがある。 
 
はいとく‐かん【背徳漢・悖徳漢】
〘名〙 人倫、道徳にそむく男。背徳者。
楽山は、人に善意で何かを親切にしたことはないのではないかと思います。「親孝行ができていなければ悖徳漢だとはなかなかに厳しく、暴論とも思える」・・こういうところに、親不孝を正当化する楽山の詭弁が表れています。ゆえに、楽山には親不孝の経験がありそうです。あとは、いつもの自己正当化です。
 
「心の中から罪悪感は消せなかろう」・・楽山に、心からの罪悪感が表れたことはありません。偽っておいて「この考え方はそう見当違いというわけでもなく、完全に否定されるものではないのだろうと思う」という、極めて、婉曲的な賛同の辻褄合わせで、ごまかしています。白々しいとはこのことです。
 
 
親不孝の生い立ち

親不孝の生い立ち
 
 
(2022年11月28日)
 
 
 
  あの夜と病
 
幼いころ
母と汽車の旅
窓から見た
蒸気機関車の
機関室から吹き出す炎
あの夜とともに
 
母の背にいた
幼い頃ではなく
小学生の私がいた
痛くて足が動かなかった
 
癒えていた確かに
進学し就職した
それだけで孝行息子と
恵まれていると喜んでくれた父と母
 
確かに
耳の遠くなった父母に
今更の病は信じられないことだ
私も詳しく説明はできない
でも追い越し
やがて遮るだろう
 
この類(たぐい)は
自業自得のようでもあり
誰も責めようがない
親不孝に親不孝を重ねて
むしろ恥ずかしい
 
勝ったつもりか病よ
だがお前と私が同じ体にいる以上
お前も恥ずかしい代物(しろもの)だ
私が最後に意識を失うまで
勝負だ 言っておくが
私の恥は
お前の憎々しい喜びほど
軽くはない
 
消してみよ
あの夜を
 
 
 
 楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の思考が齟齬を来たし、元々欠落している感受性のために、いい加減で、拙劣な文章しか書けないようです。それだけ自己崩壊してゆきながら、なおも、自慢だけは忘れないという病質は、哀れではありますが、仕出かしてきた悪事を思えば、手加減は出来ません。なぜ、書くのを止めないのでしょう。
 
 
 
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(古い記事は載っていません)
 
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