ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  考える信仰2
 
 
宗教そして信仰は
一見、客観性を失わせるように見えるかもしれません。
 
というのは
信仰を知らなければ
まず信仰については語れない。
信仰者であれば
信じているのだから客観的には語れない
というような理屈になるのでしょう。
 
しかし
ここには大きな勘違いがあります。
信仰が
超常から日常まで教えられたとおりに
信じ込むことだという勘違いです。
 
キリスト信仰の場合
教えられるのは大方言葉であり
そのまま思い込み信じこんでも信仰にはなりません。
 
キリスト信仰において期待されるのは
不変の悟りではなく
即ち言葉を鵜呑みにすることではなく
考えることです。
 
考えることには感じることが必要であり
感受したことについて考えるわけだから
そこには
正直に感じることで
当然生じる疑いというものがあります。
おもに超常の奇跡についてです。
 
疑いを気合いで排除するのが信仰ではありません。
それはカルトのやることです。
 
疑いを含めて考えることが信仰です。
したがってキリスト信仰が
人生を縛ることではなく
むしろ人生の知情意の活性を促進するからこそ
私は信じているのです。
 
キリスト信仰は
神を絶対としますが
神を人は詳細に知りえないので
人が自らを相対化することでなければ
神を信じることは成り立ちません。
 
したがって
人が教えられ覚えた言葉である信条を
絶対化することは
即ち信仰を絶対化することは
背教であります。
 
信仰の相対性については
既に言われてきたことだが
何故か、絶対でなければ、絶対でなければと
思い込んでいる人が少なくないようです。
 
神の絶対を人が負えるかと聞かれて
負えると、また、負うべきと言う者は
少なくとも勘違いしているか
最悪の場合、背教者です。
 
人が信じる総てのものは
いつも絶対ではなく相対的である。
人は不完全で罪深いということを自覚しているなら
当たり前のことであります。
 
信仰は
絶対の神の存在を仰ぐゆえに
自らを絶対ではない者とすることです。
 
そうでなければ
悔い改めの祈りなど意味がなくなるでしょう。
 
私たちキリスト信仰者が
折に触れて正直に告白して
悔い改める
即ち祈りにおいて
神との関係を新しくしていただくのは
まさに私たちが
心貧しく不完全であることを
正直に認めて
神に憐れんでいただくためであります。
 
自ら信仰を絶対として
神に対して讃美ばかりを豪語するような
偽善者になってはいけません。
 
私たちキリスト信仰者は
心の解放を受け取ったのだから
信仰についての疑問も含めて
よく感じ、よく考えて、折に触れて正直に祈り
反省し学習し成長することが期待されています。
 
 
ゆえに
楽山がボンヤリ曖昧に言うような
またシャロームが豪語するような
信じ込むことが信仰であるという固定観念は
全く信仰を知らない偽善者の言であり
この二人は信仰について
何も知らずに言い張っているだけなのです。
 
 
 
   宗教と狂気と堕落
 
長い歴史をもつユダヤ教を母体としていても、キリスト教は成立当時は新興宗教と思われました。ユダヤ教は選民思想と排他的色彩の強い宗教です。聖戦の名のもとに短い勝利と長い敗北の歴史をもち、その中でつちかわれた唯一神への絶対的信仰とその形式としての律法・掟を持っています。
 
律法の中には慈愛や思いやりを感じさせるものもあるのですが、イエスの時代には律法主義という形式主義・教条主義を頑なに守っていた人たちがイエスの敵となりました。
 
その後ユダヤの内外にキリスト教を広めるにあたっては当然、国により民族により宗教観も異なり布教するうえでの意見の対立や問題も多かったのでしょう。そのために福音書をはじめとして異なった色付けをされてキリスト教は伝えられ広められていきました。
 
聖書を読むということは、それを書いた、あるいは書かざるを得なかった著者たちの目的とインスピレーションを信頼するということなのでしょうか。そこに、神聖に対する思いこみや決めつけの先入観や偏見があってはいけません。神聖は、神のものであり、人のものではありません。
 
聖職者も、神と違って、信仰者と同じ人間だから、不完全という罪深さを持っており、ゆえに、教えられたことを鵜呑みにして、思考停止してはいけません。信仰は、思考と感性を、活性化してゆく道である。信仰の道は、成長してゆく道であります。
 
宗教は、うっかり訂正不能にしてしまうと、古い新しいを問わず人間離れという狂気へ走る危険性と風俗習慣へ堕してしまう危険性を常にもっていることを忘れてはいけません。ゆえに、経験から感じることを、じっくり考えてゆくべきです。
 
宗教だけから戦争が起こるということは、少なくとも正当なキリスト教においてはありえないことのように思われるのですが、利害関係や政治的な争いに宗教がからんで訂正不能の過ちを犯す経過では、戦争は狂気とも言うべき残酷なものとなります。
 
一方、クリスチャンの接頭語のように付けられる「敬虔な」という言葉があらわすものは何かを考えると、おとなしくて静かで「社会のお邪魔にならない」影響力の乏しい人畜無害のような印象を覚えますが、もちろん、これは間違いです。信仰は、経験を考え、成長する道です。
 
確かに宗教が社会に有害であってはなりません。しかし、キリスト教の大きな迫害の歴史とその殉教者たちの死を思うとき、主イエスキリストの愛と魂の救済という強い目的意識を持ちつづけることの難しさを感じざるを得ません。
 
人間の感性と知性を軽んじて、神霊を訂正不能に思い込むような、成長を忘れた信仰は、聖書の言葉をも、意味を固定してしまって、カルトと同じようなものになるでしょう。
 
人間の罪深さ、また、人間の言葉の曖昧さ、即ち、不完全さを思うとき、反省と修正と成長のない信仰が、いかに自分信仰になりやすいかを知るべきであります。
 
キリストの教えは、人間に理解できない超常奇跡よりも、はるかに、人間に対する共感と愛に満ちています。それに反応する信仰者は、キリストへの共感という愛に生きる道に気づくようになるのです。
 
それを、贖罪の辻褄と超常の仕組みとして信じ込む信仰?によって損なうことのないように、日々の祈りの正直さだけが求められていると思います。
 
 
考えること そして共感すること

考えること、そして、共感すること
 
 
(2020年08月11日)
(2021年10月24日、再録+)
 
 
 
  無意味の意味
 
すべての人はそれぞれに
生まれてきた意味がある
使命さえある
私はそれに気づいていない
気づいていない以上
それは神様だけが知っている
ということだから今
私は考える動物として
生きる意味など持とうとせず
生きることは死なずにいること
くらいの無意味で充分だ
 
守らねばならぬ節というものがある
それがどんなに空しく
負の人生であろうとも
私はその虚無を愛さねばならない
 
 
  やさしい人
 
線香花火は
線香に変われるだろうか
風前の灯火(ともしび)は
蝋燭(ろうそく)に変われるだろうか
 
また来る春には
土壌の妖気となり
また来る夏には
壺(つぼ)を出て飛び回り
また来る秋には
小舟に乗せられサヨナラ
また来る冬には
まだ生きていたりする
 
燃えたかった風前の線香花火は
くずれゆく鬼の面相で
きれいに巻かれた煙草を
灰に変える
 
ぽろぽろ落ちる灰の熱では
無理な注文だろうか
やさしい人よ
やさしかった人に変われるだろうか 
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
このコメントは、当分、毎回、載せることにします。
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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  楽山の嘘の世界
 
 絶対に、生まれ変わりたくないもの
 2013年03月02日 楽山日記(LD)
 
 
古い記事ですが、嘘吐きと詭弁屋が治っていないのは、ずっと、今も、記事に表れてきました。何も変わっていません。したがって、この記事は、相変わらず、作為~悪意の、自己正当化です。無反省と無責任で訂正不能になると、こういう嘘もついてくるという例です。
 
生まれ変わりとカルマについて自問自答してみました。
Q「絶対に、生まれ変わりたくないものとは何か」
A「バキュームカーだ。バキュームカーにはなりたくない」
Q「では、どうしたら、そうならずに済むのか」
A「汚い言葉を吐いたならば、汚いものを吸い込まなくてはならない。バキュームカーに生まれ変わりたくなければ、汚い言葉は吐かないことだ」
 
バキュームカーは、し尿汲み取りの車として、子供の頃には何度も見たことがありますが(1954生まれ)、今もあるのでしょうか。楽山は、バキュームカーではありません。嘘と詭弁という糞尿を撒き散らす失禁のほうです。汚いものは、汚いと言うべきです。
 
汚い嘘を吐き、汚い詭弁を弄している楽山ですが、発した言葉は、吸い込むことは出来ません。後で、根拠と理由をもって、取り消すか修正するかしかありません。しかし、楽山は、2021年になっても、ブログとツイッターなどで、相変わらず、嘘と詭弁を、公共に撒き散らしています。
 
Q「他に、絶対に生まれ変わりたくないものはあるか」
A「宿り蜂に寄生されるイモムシにはなりたくない。体を内側から食い破られるのはおぞまし過ぎる」
Q「では、どうしたら、そういう目に遭わずに済むのか」
A「自分のために他人を食い物にした者は、来世では、自分が食い物にされることになる。宿り蜂に寄生されるイモムシになりたくないなら、他人を食い物にしないことだ」
 
ネットに寄生し、ブログやツイッターの読者を、丁寧ボンヤリ言語で、食い荒らしています。信仰もないのに「来世」とか言っていますが、楽山に来世があるなら、恐ろしいものになるでしょう。楽山は、他者を食い物にして、それで、満悦する自己愛性パーソナリティ障害NPDです。
 
Q「他には、生まれ変わりたくないものはあるか」
A「妄信者にとりまかれ、依存されるカルト教祖にはなりたくない」
 
嘘と詭弁で、賛同者を惑わし、反対者に疲労を与えて破壊してきた楽山です。そういう企みから、既に、教祖願望が表れてきたと言ってよいでしょう。決してアンチではありません。私たちは、盲信者にも妄信者にもならないために、楽山を相手にしてはいけません。
 
Q「では、どうしたら、それを避けられるのか」
A「人々の好意と信頼を裏切るならば、来世でも同じ過ちを繰り返すかどうか試されることになる。カルト教祖にならないためには、誠実に生きることが大切だ」
 
この記事を書いた2013年に、こう言っておきながら、今までも、今も、これからも、自己愛性人格障害から、他者の行為と信頼を裏切り、教祖的インテリに見せかけようとする楽山に、何を教えられるというのでしょう。不誠実の最悪の見本として見ていくしかないのです。
 
(云々)
以上の問答は、あるいは皮肉を感じる人もあるかもしれませんが、これはあくまで自戒を込めた問答であり、そのような意図はありません。ご了承ください。
 
皮肉ではなく、楽山の真っ赤な嘘です。今の、楽山の存在の有り様が証拠です。自己愛性人格障害は、自戒できないということを示している症例報告になります。この記事の後、約8年、何の自戒も自省も表れていません。言葉だけです。決して近づかないでください。
 
 
蒼ざめる真っ赤な嘘

蒼ざめる真っ赤な嘘
 
 
(2021年10月23日)
 
 
 
キーワード: ウソ
 
 
  パワーオフ
 
失敗は許されない
という雰囲気に満たされている
清潔なオフィス
 
お決まりの言葉と
礼儀にのっとって
損をしないように
レールのように敷かれたサービス
踏み外さない限り
ことはないのだ
少しは恩恵にもあずかれる
 
そんなところでナアナアはいけない
大きすぎる声もいけない
戸惑うことさえ許されない
顔色が変わるから
よく見渡せばどこかに
テンポラリなブラックリストがあるから
そこに自分がのせられていないか
気をつけながら
速やかにジョブを済ませなさい
 
ここにも働いている人がいる
レールの上を当たり前のように
上手にわたっていく
彼らもまぎれもなく
人間なのだから
失礼じゃないか
手続きを間違えるなんて
 
でも心配はない
そういうときのレールもある
それがサービスというものだ
迷わなくてすむように
いろんなレールがあって
迷ってしまう
思わず緊張して
オフィスというオフィス
レールというレールで
黙ってしまう
 
気がついたら
レールのわきにうずくまる
ウソつきになって
自分の声も言葉も
育て損なっていた
今それを探しているんだ
今それが欲しいんだ!
・・・off
 
 
  冷たい風
 
冷たい風
動かぬ山
火の国の 火の山
ときに山肌の色を変えて
煙と雲の向こうに
命を生む太陽
命を奪う太陽
 
冷たい風
動かぬビル
人の国の 人の山
ときに人々の顔色を変えて
雑踏と騒音の向こうに
命を生むシステム
命を奪うシステム
 
冷たい風
ふらつく私
私の国の ウソの山
ときに人々の顔色におびえて
心と体の中に
明日を生む命
明日を奪う命
 
 
 
 楽山のツイッターですが
  リツイートに楽山の主張が現れます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン
@PositiveSalon
どれだけ親切にしてあげても、恩を仇で返してくる人は必ずいる。他人から優しくしてもらえることを当たり前だと思っている人は、こうやって信頼を失って人から優しさをもらえなくなっていく。他人に優しくしてもらえることは、感謝に値することであり、当たり前だと思った時点であなたは堕落します。
午前8:23 · 2021年10月20日·Twitter for iPhone 
 
自分のことしか考えていない楽山が、親切とか恩とかを言うのは、笑止です。楽山は、自己愛性人格障害からの自己中なので、他者のことなど考えていません。だから感謝もしていません。当たり前だと思っている典型です。この引用自体が、自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状なのです。
 
こういうことを平気で書ける無反省と無責任が、面の皮の厚さを表しています。だまされないでください。楽山は、誰にも感謝などしていません。当たり前に、自分のほうが上だという自覚でいるから、いつもインテリ評論家気取りで教える立場にいるのです。全部、楽山の症状なのです。
 
当たり前のように同じことを続けている、無反省の、訂正不能の、楽山が、親切でもなく、誠実でもなく、信頼を失って、感謝も口だけで、やさしさをもらえなくなって、堕落するだけでなく、迷惑をかけた分、嫌悪され、相手にされなくなるのは、当然のことです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
共依存克服・夫婦問題カウンセラー 大村祐輔
@takeheart_d
共依存やアダルトチルドレンの特徴を持つ人は、相手の事情を考慮し過ぎてしまうことが多い。それでどんなことも許してしまう。どんなにモラハラやDVや不倫をされても、何か理由を言われればそれがどんなに無茶苦茶な理由であっても「それは仕方ないな」としてしまう。自分の傷を後回しにしてしまう。
午後1:57 · 2021年10月21日
 
嘘と詭弁の誘導で、そういうことをさせてきたのが、楽山です。どんなことでも無反省・無責任で、不都合を無視して、自分の主張だけを、だらだらと書き続けてきたのです。自己愛性人格障害は、相手の事情を全く考慮しません。リツイートして理解を装う楽山に、だまされないでください。
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
このコメントは、毎回載せることにします。
 
 
 
 
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  楽山の詭弁と正当化2
 
 『実践 快老生活』渡部昇一著
 2020年06月28日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
去年の記事ですが、楽山は、露骨に嘘を吐いてきます。しかも、著名人の名を借りる不遜もあらわになって、本当に、醜いさまが、バレバレになってきました。
 
*渡部節
佐藤優の対談本『読む力』で、渡部昇一が高評価されていたので、ひさしぶりに氏の本を読みたくなり、前々から読もうと思いつつも読めないでいた『実践 快老生活』を通読してみた。相変わらずの渡部節であり、超ど級の率直さがおもしろい。
たとえば今の時代は、孫子を持つ幸せだとか、結婚相手を選ぶ際に遺伝について考慮すべきということは、声を大にしては言い難いところがあるが、著者はそれをあけすけに語っている。こういうことができるのは著者の他には、石原慎太郎くらいしかいないのではなかろうか。
 
あけすけに言うのと、嘘を吐き、詭弁を弄し、有名人の名を利用して飾り、理路も情緒もお構いなく書くのは、全く違うんだな・・ということを、楽山を通して実感します。著名人さえも、上から見下ろして楽山が批評しているようなのは、実に見苦しいです。
 
*穏当な意見
とはいえ本書にはそれほど波風はたたないだろう穏当な話も多く語られている。健康のためには精神面だけでなく、栄養など唯物論的な見地からも注意すべきだとか、年をとっても詩歌などを暗唱して記憶力を磨くことができるだとか、一般の健康論をそのまま実行すればよいというわけでなく、自分の体調によって調整することが大切だとか、大方の人がなるほどと思える話もある。
 
通念的な理想の老後の話ですが、楽山は、精神面が壊れ、栄養を語って唯物論と言い、栄養を摂取する人間を語れず、人間の心を語れません。楽山が、「なるほどと思える話」を信用しないでください。「体調によって調整」などは当たり前で、さらに、誘導の詭弁と嘘が入ってくるからです。
 
気に入らないことをことごとく無視している楽山の記憶は嘘以外何もないのではないかと思われます。そして、自分の体調だけでなく、心の調整が狂っているために、大方の人を詭弁で陥れることだけに専念しているようです。良いことではなく良さそうに見えることを書いてだますのが楽山です。
 
論語の「七十にして心の欲するところに従って矩をこえず」という言葉についての解釈もおもしろい。これは悟りの境地というよりも、加齢によって心身が衰えてくると、「矩をこえようと思っても、もうこえられない」(p.18)というものであり、孔子はそのことを、率直、正直に語ったのだろうという。たしかに怪力乱神を語らずという立場からすると、これは精神的神秘的な境地のことではなく、著者の言う通りのようでもある。
 
(ネットより)
どんなに立派な人でも、自分の行動を完全にコントロールできるようになるのは、七〇歳くらいになってからだ、ということ。
「七十にして己の欲する所に従えども矩のりを踰こえず(七〇歳になってからは、心の欲するままに行動しても道徳の規準をはずれるようなことがない)」で終わっています。
このことばから、七〇歳のことを「従心」と呼ぶようになりました。
コトバンク七十にして矩を踰えず
 
楽山は、恐らくもう長い間、少なくとも一年余り、いかなる批判も無視して、自身の欲するところのみに従って、非常識なことばかり言ってきたのです。矩(のり)や法や徳は、楽山の欲せざるところなのでしょう。
 
ゆえに、楽山にとって大事なことは、自分でブレーキをかけられないのなら、もはや、一日も早く、楽山の欲せざるところが、記事を何も書けなくすることだけのようでもあります。楽山の文章から、嘘、詭弁、自己顕示欲、などを、あぶり出すことです。
 
しかし、そこにおいて、自由と勝手を、正直と恣意を、ありのままと欲のままを、すっかり混同した楽山が、人間の良心を捨てて、あるいは、良心に捨てられて、石を投げながら暴走し続けているのです。いい歳をして、大人げなく、へへん!、このやろう!、くらいは言っていそうです。
 
(ネットより)
怪力乱神を語らず(かいりょくらんしんをかたらず):
怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。
 
楽山は、道に背いたことだけを、理性で説明がつかないようなことだけを、知ったかぶりで語ってきました。また、怪しげな、霊が分かるっぽい話や、不確かな、どっちつかずの、ボンヤリ言語の詭弁を弄してきたのです。
 
そうして、今回も、楽山の記事が、だまそうという意図でありながら、逆に、楽山を斬っている有り様です。楽山は、むしろ、君側の奸(くんそくのかん)のような体質であり、欲のために、丁寧語のアドバイスに見せかけて、他者を操り、虚偽と疲労へ誘導することを楽しみとする者です。
 
*知的正直
正直といえば、著者は知的正直について、「自分がおもしろいかどうかを一つの絶対的基準として読書を愛好してきた」(p.57)と語っている。これは漱石の「私の個人主義」における自己本位に通じる考え方であろうし、自分も大いに影響を受けた考え方だ。
 
正直ということに、知性が必要でしょうか。無視しない正直さだけがあればよいのに、楽山は、他者無視と、我欲の利己主義により、自己中だけを通して、大いに悪と偽善をまき散らしているのです。
 
楽山は、個人主義を、我欲の恣意と、混同しています。
 
読書に限らず、ものごと全般について正直な感想を述べると、傲慢だとか、生意気だとか言われて責められることもあるが、他人の機嫌をとるために自分の感想を偽ったところで仕方がないし、自分は自分という独立心を持ち、権威に盲従することなく、正直な思いを忘れないのは本当に大切なことだと思う。
 
 
楽山の、自己正当化のために、独立心を、我欲・我執の自己中と混同する詭弁です。我執により我欲だけで言動している者は、傲慢になります。他人の機嫌を取るのではなく、他人の意見を無視しているのが楽山です。
 
自分は自分という独立心は、正直で率直に物が言える人物に見られるもので、おぞましいことに、楽山は、独立心ではなく他者を無視して妄想的唯我独尊に生きていて、自ら権威者のごとく傲慢であり、嘘ばかりついて、詭弁ばかり弄して、正直の欠片もないのです。
 
*簡単に天国に行ける宗教
著者は宗教についても随分正直なようで、「宗教として信じるのなら、私はどちらかといえば簡単に天国に行けるものを信仰したい」(p.227)と語っている。これはあまりに正直すぎて笑ってしまうけれども、実際、真理とはシンプルなものだろうとは思う。
 
楽山の言う、簡単に天国に行ける宗教は、楽山のように、都合の悪いことを、ことごとく他人のせいにして、どんなに卑怯なことをしても、ヘラヘラ笑ってゆけるような天獄であり、楽山の妄想の中にしか存在しないところなのです。
 
今度は、シンプルな信仰を、何をやらかしても天国に行ける身勝手と、混同しています。自己愛性パーソナリティ障害NPDのために、あらゆる思考と言葉の軸が狂ってしまっている楽山を相手にしてはいけません。
 
たとえば、三木野吉は真理については単純、明快、矛盾なしなものだと定義づけているし、晩年の釈迦は教団の内外の区別なしに法を説き、握り拳の中には何も隠していないと語ったという。丹波哲郎はスピリチュアルな教えを、「あかるく、すなおに、あたたかく」という、この上なくシンプルな教えにまとめているし、『近思録』には道というものは細く険しいものではなく、沢山の人が通ることができる大道だとしていたかと思う。
 
楽山の思考は、隠し事で出来ていると言っても過言ではありません。単純明快に暴露されてしまう詭弁、矛盾だらけで、いったいどうやって、スピリチュアルを語れるというのでしょう。凶悪な楽山は、今も、白々しい嘘をを吐いています。それで、言いえたと思う病質者なのです。
 
陰気臭くて、素直さ皆無の根性で、とても冷淡で、温もりも潤いもない人、それが楽山です。だから、安易な道ばかり、求めては、裏切ってきたのでしょう。本当に底の浅い軽薄な、だますことだけで長らえている人のようです。
 
「あかるく、すなおに、あたたかく」というのを、"何事もなかったかのようにヘラヘラ笑って、我欲だけに素直に、平気で悪意だけを熱して" 生きることと、混同する楽山の、自己愛性人格障害の自己正当化です。
 
こうしてみると、まっとうな宗教は救いについて複雑な条件をつけたり、凡人には分からない神秘について語ったりはしないだろうし、著者の宗教選びの基準はそうまちがっていないように思える。
 
真っ当な宗教は、伝道者に、楽山のような、霊が分かるっぽい自覚?や、超常の知識なるもの?によって宗教を論じるなどということを要求することはありませんし、ふつうの感受性があればよいのです。また、自己顕示欲だけの者には、宗教も神も縁がありません。
 
また、神秘は神のものであります。人は人の節操を考えるべきです。ましてや、神を信じ仰ぐことは、神に対して、自身の下等な屁理屈を当てはめて、机上でもてあそぶような楽山には、これまた、全く縁のないものです。
 
ちなみに著者の弁によれば、カトリックの救いは次のようなものらしい。「カトリックの場合は、ごく単純化していってしまえば、終油の秘跡(サクラメント)を受けていれば地獄には絶対に行かないという教えである。だから私は、自分が死んだあとには確実に天国に行くと信じている」(p.228)。こういうシンプルな信仰を持てる著者は幸せだと思う。
 
このような儀式だけで天国に行けるという信仰は、自尊過大の楽山にとって、垂涎の的であり、また悪意ある揶揄の的でもあります。つまり、シンプルを、安易と、履き違える深みのない楽山のような者は、救いなど、本気で求めていないことが分かってくるのです。
 
*勇気と正直
本書を読んで改めて思ったことだが、批判をおそれず、真実と信じることを語るという渡部昇一の勇気ある正直さは本当に尊敬する。
 
批判を受け取らず、不都合な意見を全部無視して、嘘を吐き、詭弁を弄しているのが、楽山です。このように、楽山は、自己正当化のために好都合な字面を、本を漁っては書いてきますが、いちいち、的を外して、だんだん、失敗して滑りまくっているピエロとなってゆくのです。
 
涙の代わりに、見境もなく、弁えもなく、言葉を失禁して、迷惑なだけの楽山であります。
 
批判を恐れないことと、批判を無視することを混同し、著者に、見当違いの賛同をしています。
 
このように、楽山の理路は、ことごとく嘘っぱちであり、ボロボロなのです。これらの、多くの混同は、自己正当化の詭弁であり、恐らく、楽山の体質か作為であろうと思われます。
 
渡部昇一の本のおもしろさは、その知識と発想にあると思っていたけれども、それは表面的なことにすぎず、その底流にある勇気と正直さこそがその主因なのだろう。渡部昇一のおもしろさは、勇気ある正直さによって支えられている。
 
楽山の記事の低劣さは、その知識不足の貧相さにあるだけでなく、中身が表面的であり、底流にある怒気と欺瞞こそが、その悪意の主因となっていることでしょう。楽山の卑怯さは、これからも続きそうな、臆病者の不正直な言い逃れによって続いているだけの、見るも無残な地獄であります。
 
この見立てが当たりか外れかは分からないが、本書を読んで自分はそのように思った次第である。自分は生まれつき根がどこまでも臆病にできているし、渡部昇一とは考えが異なるところもあるが、この勇気と正直さは見習いたいと思う。
 
当たりか外れか分からないでも書いてくる楽山です。そして、反省しないのです。
 
いつの見立ても的を外れていて、何を読んでも自己正当化しか考えない楽山であります。楽山は、生まれ育ちが原因なのか、臆病どころか、厚顔無恥であり、今まで一貫して、勇気と正直さに真っ向から背いてきたのです。
 
楽山は、どういうわけか、勇気と正直さの代わりに、怒気と嘘を覚えたようです。よく読めば、実に、いつも、その悪意を湛(たた)えているのが、楽山日記なのです。また、妄想的に勘違いして、見習いたいと言っているのは、恐怖としか言いようがありません。
 
しかしながら、今回のように、自己正当化が見え見えのようになってきたのは、人格破壊が進んで、ネズミのようなドコモだましの子供だましの嘘吐きチェーンメッセージの根性を、隠しようもなくなってきたのかもしれません。
 
楽山の自己正当化は、だんだん下等になってきて、著名人の言葉さえ、悪用が白々しくなって、自己満悦だけになるでしょう。言葉を、ことごとく勘違い、または、わざと曲げて、言い逃れたつもりでも、もはや、内容がありません。殆ど自滅を暴露しています。
 
こういう者が、実際、世の中にいるのです。カルトには、特に多いと思います。シャロームもそうだったように、決して、珍しくはないのです。良い言葉を、良い意味にだけ受け取る社交を大事に思っている人は、簡単に、だまされてしまうでしょう。
 
楽山の卑怯さや詭弁や嘘が、どんどん、分かりやすく表れるようになっています。他者の人格を疲労させて破壊するものは、ついには、自分の人格を破壊してゆくのです。どうか、楽山には、決して、関わらず、近づかないようにしてください。
 
 
ウソッピ物語

ウソッピ物語
 
 
(2020年07月03日)
(2021年10月22日、再録+)
 
 
 
 『国家の品格』藤原正彦著
 2021年10月20日 楽山日記(LD)
 
 
新しい記事です。どういう品格を書こうとしたのかさえ分からない文章です。人間としての品格を欠いている楽山らしい投げやりな筆致となっています。
 
これは大分前に評判になった本だけども、先日ようやく通読することができた。
その内容は、戦後ながらく正義とされてきた民主主義、自由、平等、論理といったものを批判しつつ、日本的な情緒、美、武士道などを再評価しようというものであり、保守よりの自分としては気分よく読めた。
 
「民主主義、自由、平等」は、何らかの主張を含んでいますが、「論理」を並列する意味が分かりません。そして、批判するのだそうです。楽山が「日本的な情緒、美、武士道」を再評価するというのは、ネトウヨらしいのかもしれませんが、楽山は、保守ではなく、思想家でもなく、破綻者です。
 
こういう日本人論はいくつか読んでいるが、数学者が論理の限界を語り、情緒の大切さを訴えるというのは意外でもあり、説得力がある。岡潔の場合はあまりに独自性が強く、この世離れしすぎているようでついて行けないことが多いが本書なら自分にも理解できる。
 
楽山は、数学を理解しているとは思えませんし、情緒の大切さについては、何のセンスも持っていないと思います。その上で、「説得力がある」などという判定をするのは、自己愛性人格障害らしい傲慢か作為を表しているだけでしょう。
 
思想、特に、宗教と信仰には、人間的な視野と共感性は必須と言ってよいでしょう。この世離れして、霊能者気取りで、非常識な楽山が書いていますが、この記事の短い文章で、何を表し得たと思うのでしょう。「理解できる」という、その理解を、何も書いていないのです。
 
また本書は、文章が非常に整理されていて読みやすくなっているのも印象的である。これほど整理整頓が行き届いた文章は珍しいのではないだろうか。本書が多くの人々に読まれたのは、その内容だけではなく、文章がよかったためでもあるにちがいない。
 
理路も感性も整理されていない楽山に読みやすい本とは、絵本ではあるまいし、「整理整頓が行き届いた」と書いて、何を伝えたつもりになっているのでしょう。そして、「文章がよかった」と書いています。この舌足らずのまま、アップしてくるところに、病質が表れています。
 
不明が多すぎて、文章としては短かすぎて、感想にならず、また、見出しとしては長すぎて、真理めいたことを書こうとして、何も書けない楽山です。楽山は、ちょっと書いて様子をみて、続きを書くつもりでしょうか。いくら書いても、いっしょです。楽山の孤独で行方不明の思想と宗教です。
 
楽山のような、これくらい書いておけばええじゃろ・・という算段で、ちょうどよい文章を適当に書いたつもりで、他者を、いなして、はぐらかして生きてゆく者は、結局、賛同者からも対立者からも、最も嫌悪される存在となってゆく定めなのです。
 
「気分よく読めた」「理解できる」「文章が非常に整理されていて読みやすく」「整理整頓が行き届いた文章は珍しい」「文章がよかった」・・このような、中身のない褒め言葉が、楽山の読書と感想なのです。中身を、全く表現できない稚拙な評論家気取りに惑わされないでください。
 
 
(2021年10月22日)
 
 
 
  創造
 
今の今
今しかない
今に長さはない
時に長さはない
時などない元々
神は今を創造された
人は過去と未来を想像している
感じる
感じるから存在する
存在するから居場所を求める
場所などない元々
神は存在を創造された
存在は場所を想像している
そのように
神は人を創造された
人は神を想像している
 
ばあちゃんが失禁した
ばあちゃんは落ち着かない
ばあちゃんはわからない
何もわからないから
わからないことをする
それが病気だから
病的なことをする
と思われてきた
ばあちゃんは感じる
感じるから想像する
想像がはっきりしないから不安になる
感じるから不安になる
不安だから落ち着かない
ばあちゃんは失禁する
存在するから失禁する
 
存在するから不安になる
不安になるから言葉を求める
人は言葉を求める
言葉は神であった
言葉は神から贈られた
ウソは人から送られてくる
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
楽山がブログに載せたまま、ずっと無視しているコメントです。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
このコメントは、毎回載せようかと思っています。
 
 
 
 
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  不都合3
  
    (加筆修正再録です)
 
 
一応、キリスト信仰の立場から書いてゆきます。不都合は、災難、悲劇と言ってもよいでしょう。
 
生きておれば、必ず、自分にとって不都合なことに出会います。それ自体を避けることはできません。その不都合を無視したり、敵視するなら、思いこみの自己正当化をする人にしかなれないでしょう。
 
 
不都合に出くわしたとき、いつも怒りと憎しみだけを生じるのはサイコパスの特徴です。不都合をいつも誰かのせいにする心性なら、他者への恨みと憎しみに生きる人生になるのでしょう。サイコパスには、悲しむ心、罪悪感、反省し学習し自らを修正する心、などが欠けています。
 
そういう欠けた人格を持つ人は、実に、いろいろなところにいると思います。
特に、ネットでは、それなりの知能と策略をもって存在しているようです。
 
 
不都合に出くわしたとき
しんみりと悲しめる人は幸いだと思います。
とても大切な人間性を与えられている証拠です。
 
悲しみは、悲しむだけでなく、
涙や、うつ状態だけでなく、
不都合を自分の反省の機会にして
学習と成長の機会とすることが出来るからです。
 
もちろん不都合が全て自分のせいというわけではありません。
 
恨みや憎しみを持つこともあるでしょうし、
むしろそういう陰性の感情についても
自覚しているほうがいいと思います。
 
他人は、ときに、勝手な見なしを相手に当てはめている場合があります。その見なしから、物を言うことがあります。あんたが、オレの、何を知っているというのか・・と言いたくなるような場合があります。
 
その時、恨みに生きるよりも、そのような時にも、自分を失わず、他者に引きずられることもなく、自らを成長させて、対処する力を身につける機会を経て、身勝手ではなく、忍耐強くなることが出来るでしょう。それは、より深い人間性の理解でもあります。
 
 
もちろん、しょっちゅう、悲しんで、しょっちゅう、成長しましょう
などと言うのは、言うだけで、既に、かなり疲れます。
 
決して招いていない悲しみですが、悲しみを克服したときには本当の喜びがあります。それを幸福と呼んでもいいと思っています。しかも、それによって、悲しみをもたらす不都合に対して、悲しみが訪れる前よりも、耐性が出来ているのです。
 
 
人間は不完全な存在ですから、遅かれ早かれ、大なり小なり、悲しみをもたらす不都合は、必ず訪れます。人間としての正常な感受性があれば、必ず訪れます。不可避な、不都合がもたらす悲しみは、人間の成長の機会です。
 
悲しみに沈むことは、あるいは、涙を流すことかもしれません。
涙が出るということは、発散および治癒過程ですから、むしろ幸いなことです。
 
 
涙が出ないような、呆然とするだけの悲しみは、長びけば命の危険があり、下手に働きかけるよりも、専門家に相談するほうがよいと思います。その場合は、薬物や入院治療などが必要になる場合もあるでしょう。
 
 
悲しみは成長し強くなるのに便利だから利用しましょうとか、もっと悲しみましょうということではありません。悲しみが訪れることを総て避けることはできないが、訪れた悲しみを経て成長してゆくのが人間です。
 
そのためにも、カルトが宣伝するような、悲しみなど無いかのような異常気分を求めるのではなく、しんみりと悲しい気持ちによって、ときに涙とともに、内省し反省し、祈り願うことは、欲望よりも野心よりも、後悔よりも、深い広がりをもって、人生を眺めることが出来る人を育てるでしょう。
 
何故なら、そこにあるのは悲しみの克服であり、浮かれた上気ではなく、一時的な陶酔でもなく、安易な辻褄合わせでもなく、敵意や恨みでもなく、欲望や野心の成就でもなく、立ち直りへの希望と努力に裏打ちされた肯定感であり、学習と成長に導く心の強さだからです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
 (マタイ5:3-5、新約聖書)
 
 
信仰者として言えることとしては、この教えの、悲しみの「さいわい」は、慰められるだろうという慰めだけではありません。それだけなら、誰でも言えるような、世辞の激励みたいになってしまいます。
 
悲しみという感情は、喜びよりも、はるかに正直であり、何よりも、この感情には、嘘や飾りがなく、それゆえに、悲しみは、赦し、癒し、慰め、導き、という信仰の賜物を受け入れやすい器を、人の心の中に造るということです。
 
怒りに刺激される憎しみは、人の心を、自己中心に、復讐に、秩序のない欲望に、誘います。
 
祈りと共に過ごす悲しみは、人の心を、静穏に、反省に、熟慮に、修復に、節操に、導きます。
 
聖書の教えは、一貫性をもって、つながっています。聖句の、心の貧しさ、悲しみ、慰め、柔和、受け継ぐ心、そして人生の最後へと、さらにつながるでしょう。
 
私は、分かっているわけではありません。
その時々に考えればよい、ということを知っているだけです。
 
帰るところがある、今は、そう受け取っています。
 
 
いつか帰るところ

いつか帰るところ
 
 
(2019年10月09日)
(2020年10月16日、一部加筆して再録)
(2021年10月21日、再録+)
 
 
 
  退行昇天
 
狭く冷たく暗く長い
トンネルを抜けると
笑っているんだ
わけもなく笑っているんだ
もはや快も不快もなく
食う心配も寝る心配もなく
装うことも着ることもなく
それこそ素っぽんぽんで
機嫌のよい赤ん坊ほどの
痛覚さえなくなって
笑い続けるんだ
一日中いや永久(とわ)に永久に
笑い続けるんだろうけど
そういう天国なんて
恐らく永遠の鉄格子の中にあると思う
 
 
  悪魔の臨終
 
軽い手帳はめくられた
涙のように
パラパラと
安い花は乾いて散った
時計を手にした信仰が
秒針のように優しくうなずいて
病者を見つめ
死者を送るとき
哀れみという哀れみが
牢獄のように彼を囲んだとき
そこにいる誰もが知らないところで
とてつもなく激しい嘔吐が起こり
病者は墓穴を求め
はじけた煙のように消え失せた
 
かわりに年老いた天使が目覚めて言う
「あなたがたが安い施しをしたので
あなたがたが天国を約束されているなら
地獄へ落ちたいと彼は望んだ」
 
 
 
  永遠の友
   (人間のための信仰)
 
人格は
人格を超えるものを
理解できない
 
人間の心を動かせるのは
あくまで人間が受け取れるものであって
人間を超えるものではない
 
イエスをキリストと呼び
主イエスと仰ぐくらいだから
キリスト者(クリスチャン)にとって
イエスは救い主であり
飼い主なのだが
永遠の友という呼び方もあり
永遠の同伴者でもあり
信仰が結婚に譬(たと)えられるのに似て
男であれ女であれ
キリスト者が
惚れたと言ってもよいくらい
イエスに縁付いてしまうのは
イエスとキリスト者を
結び付けているものが
契約という教理以上に
あくまでも人間的な
断ちがたい絆(きずな)であり
キリスト者は文字通り
イエスに絆(ほだ)された者だからである
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
こんな事を言う信者は初めて見た。
これをやられたら、非常識な信者をさらして「これがHSの典型的な信者ですよ。HSはこういう非常識な団体ですよー」と吹聴できなくなるというのはその通り。
非常識な信者がいても、それを注意する信者が大勢いれば、それは典型でなく一部例外にすぎないとなるので。
午後8:00 · 2021年10月18日
 
楽山は非常識な変質~偏執者ですよ・・ということを、私は書いてきました。非常識な楽山がいても、それを注意する常識人が大勢いないようなので、私が批判しています。楽山が他者に向かって発した言葉は、楽山に返ってゆきます。楽山のように自分の悪を自覚できない者は、こうなるのです。
 
楽山は、今までの、嘘と詭弁などのペテンの実績によって、誰かに何かを言う資格などありません。それくらいの病的疲労の災いをもたらす無反省と無責任の男です。楽山が何か言ってきたら、何言ってるの?、バカなの?、資格ないでしょ・・とでも言って終わりにしたほうがよいと思います。
 
楽山の意見を少しでも受け取って、議論でもするつもりになってしまうと、恐ろしい地獄が待っています。見苦しい言い逃れには、一部の事実をもって、全体を否定するなどといった詭弁が含まれます。あとは、嘘、悪口、当てつけ、不都合の無視・・などを繰り返すだけの男です。
 
私が今まで生きてきた中で、楽山ほど、卑怯で、的を外して、嘘を吐いて、結局、何の役にも立たない雑言を発信するだけで、人を言ったことなど完全に無視していられる厚顔無恥の卑怯者はいませんでしたから、楽山に出会って対話などを試みることは、いちばん不幸せです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
コウさんの視野、情報網は、こちらが想像してたよりずっと広いようだ。その通り、いくら注意していても話は漏れますよ。
だから、サラディンさんの提案はあまり効果は見込めない。むしろHSは隠蔽体質、秘密主義だという批判を呼び込んでしまうことになるだろうと思います。
午後8:12 · 2021年10月18日
 
楽山は、いつも丁寧語で、良さそうに見せながら、真実について、曖昧であることをもって、責任逃れをしてきました。無責任と無視と無反省は、正常な成長を妨げ、変質させてゆきます。そうして、楽山は自己愛性人格障害の害悪を、何か言うたびに表すようになってきました。
 
楽山は、宗教や思想や信仰など、真実について、平板な先入観や偏見を乱雑に並べるだけで、何も糧になるようなことが言えません。上から目線だけで、茶々を入れたり、嘘と詭弁でごまかしたり、いつも、評論家気取りで物を言い、責任を負うことだけはしません。とても卑怯で醜い人です。
 
楽山という自己愛性パーソナリティ障害NPDは、体質的なものですから、恐らく一生治らないのでしょう。バレてしまえば、あっちに行け・・と言われるだけの男です。"スルーする" などと言って、山と積まれた自身の問題点を、けろっと無視して、何事もなかったかのように、まともを装います。
 
肉体を破壊したり、金銭を奪ったりする犯罪者もいますけれど、一応、警察がいます。楽山は、精神と人格を破壊するエナジーバンパイアです。楽山に出会うこと、楽山と関わること、これこそが、人間世界における最大の、不都合、災難、悲劇・・だと思っています。
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
コメント欄
 
 
間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
自分 正さなくちゃいけない
 
それが出来て 初めて人間だと
それ出来ないなら 人ではないと
 
・・・
 
嘘ばかり 重ねる君よ
保身だけの 卑怯者の君よ
そんな君は 魅力の欠片もないのに
 
・・・
 
失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
最大限の償いと 最大限の反省と共に
開いた出店を 畳むしかないんだよ
 
人間で在り続けるのなら
人で在り続けるのなら
 
 」
 
楽山は「人間で在り続ける」ことを、拒み続けています。
 
このコメントは、毎回載せようかと思っています。
 
 
 
 
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  宗教を裁く楽山
 
 宗教の組織化
 2014年03月31日
 
 
楽山の古い記事です。
 
宗教と信仰を、超常の辻褄と物品と組織化とかでしか考えていないのが、楽山です。欠けているのは、人間の心です。そこが信仰の受け皿なのですが、楽山に見られたことはありません。ならば黙っておればよいのです。
 
しかし、心を感受できない楽山は、悲劇が起こるから神はいないなどと、小学生でも考えそうな幼稚な理屈で否定してきました。楽山にだけは、宗教と信仰について何も言う資格はないと思っています。残りの一生を費やすことになりそうな批判記事、書き始めて、3年くらいにはなるでしょう。
 
楽山には、あざ笑いと不機嫌の感情だけ、即ち、快楽原則しかないと思います。後悔や罪悪感などの高等感情としての悲しみの心が欠如していると思います。だから、しんみり悲しんだり、深く考える姿勢が、楽山の文章を読んでも感じられません。
 
かつて
ある宗教の発展期に
関わったことがある
当時
新たな仲間が増えていくのは
うれしかった
ただ
教団が大きくなり
組織化されていくにつれて
人間的なあたたかみが
うすれて行ったのはさみしかった
 
楽山の言う温かみというのは、恐らく、調子のよさとか、ごきげん・・とかいうものだと思います。本当の温もりを知っている人は、白々しい詭弁や嘘を言いませんし、何より、反省できるでしょう。楽山は、それらが、一切、出来ていない人です。
 
また
神のためよりも
真理のためよりも
人のためよりも
組織の利益を優先するかのような
場面を見るのはつらかった
 
神のためも、真理のためも、人間としての真実のためも、楽山は、考えてこなかったのだろうと思います。だから、宗教を、ホラーと同じように書いている記事が見られ、一方で、取引のように、自分の利益として、考えているらしいところが、明らかになっています。信仰とは真逆です。
 
宗教は、神の論理だが
組織は、地上の論理(人の論理)であり
この二つを調和させるのは
とても難しいことなのかもしれない
 
平気で、宗教を「神の論理だが」などと書いてくるところが、楽山の安易さであります。神の論理、人に分かるわけはないのです。楽山は調和させれば認めるみたいな理屈を言っていますが、難しいのではなく、調和でもなく、全能の理解は不可能という認識から、信仰の敬虔が生まれてきます。
 
 
 
 宗教の組織化 2
 2014年04月01日
 
 
組織化は、あくまで便宜上のことに過ぎません。そこを論じて、宗教を論じたつもりの楽山は、何も宗教を知らないということです。"知らないという自覚" のほうが、よほど信仰に近くなりますが、そういうことが、楽山には、自己愛性人格障害のために出来ないのです。
 
本来
心は
各人のものである
しかし
宗教は組織化の過程で
各人の信仰(心)を一定の枠内におさめ
共有しようとする
 
「信仰(心)を一定の枠内におさめ」ることなど出来ません。楽山は、その時には曲解し、今は、妄想的に偏向してゆきます。自己愛性パーソナリティ障害NPDにおいては、自分以外の物事を、自分より下に扱うという特徴があるので、宗教と信仰の考え方そのものが、成立しません。
 
信仰(心)にしろ
財産にしろ
私有を否定し
共有とするなんて無理なのに……
宗教の組織化の難しさは
このあたりにあるのかもしれない
 
このような制度・政治的な問題で、宗教を語っても、それは、宗教と信仰の本質とは遠いところでしかありません。それに、楽山には、あらゆる真実について、話が成立することがありません。何故なら、反省せず、責任を負わないからです。
 
そうなると、何を書いても、言い放って終わりというだけになり、他者の意見を無視します。ゆえに、また、他者の意見を容易に忘れてもいるのでしょう。真実追求の糧にも意見にも議論にもならないのです。つまり言論にならないということです。
 
 
 
 宗教の正邪を見分ける方法
 2014年04月02日
 
 
楽山は、まず、自分の邪悪さを見るべきですが、それをしないのだから、他者や他の物事について、そして、宗教なら、なおさら、その正邪を見分けることなど出来るはずもありません。自らを見ない者が、他者だけをあげつらうことは、害毒でしかありません。
 
一目見ただけで
プラスチック成型の大量生産品で
原価はどうみてもせいぜい数百、数千円くらい
と推測される仏具、神具などを
霊的な価値があり、御利益も期待できるとして
異様なほどの高額で譲渡しようとする宗教
 
このように、物品を見て、安いからご利益がないみたいなことを言っている楽山です。高ければよいのかという問題にもなりますが、何よりも、楽山の思考の浅薄さが表れているのです。だから、他者のインチキを批判して、自らのインチキに気づかないペテン師でしかないのです。
 
仏具、神具などは
材料、品質などに応じて適正な価格をつけて
霊的な価値や御利益については軽口をたたくことなく
譲渡する宗教
 
軽口を叩かなければよいのでしょうか。むしろ、高くても安くても、霊験あらたかを歌うのがカルトではないでしょうか。譲渡するとしても、そこに込められた心に触れなければ、何の意味もないでしょう。そもそも、第一に、宗教は、物品や値段では決まりません。
 
いつもいつもお布施を募っておきながら
お金はいくら集まり、何に使ったかは
少しも明らかにしない宗教
 
お金と物品に、どこまでこだわっても、宗教を語ったことにはなりません。収支を明らかにするのは当たり前で、それで宗教になるわけではありません。それに、楽山は、多くの不祥事、不都合、嘘、詭弁を、認めもせずに、反省もせずに、平気でいます。宗教を批判し語る資格はありません。
 
自らの罪と偽善を隠しながら、他者のことを言っている楽山の醜さを忘れないでください。楽山の意見は、どこにも通じることなく、隠蔽と偽装によって、無明の沼に沈んでゆくだけの雑言に過ぎません。かなり前の記事にもかかわらず、楽山の思想の破れ具合が表れています。
 
寄付を募るときには
その目的を明示した上で行い
事後には、集まった寄付金の総額、使用状況等を明らかにする
透明性の高い宗教
 
透明性も、当たり前のことです。宗教に限ったことではありません。人間でいうなら正直さということになりますが、嘘吐きの楽山に、最も欠けているものです。楽山は、時々、透明人間になって、逃げたり、人の言うことを無視したりしますから、人間としての透明性は皆無です。
 
こうしていろいろな宗教を見ると
その正邪を判断するには
信仰対象、教義、奇跡、歴史、信者などよりも
お金に対する態度を見るのが
もっとも簡単な方法かもしれない
 
お金に対する態度を見るのがよい・・というのは短絡です。必要条件に過ぎません。貧乏な暴力の集団は、正しいのでしょうか。楽山は、そういう目しか持っていないわけです。ゆえに、心の問題について何も語れない安っぽい軽口の楽山が、とりとめもなく何か言っただけになります。
 
分かってないのに言ってくる、楽山のような者が、いちばん宗教を駄目にするのです。信頼できないと、どういうことになるでしょう。信頼できないのだから、楽山が、肯定しても肯定とは受け取れず、否定しても否定とは受け取れない、ということです。そういう人との交流は無意味です。
 
このように、何を言っても無駄という扱いになる人は、稀です。楽山のような自己愛性パーソナリティ障害などの、身勝手で、平気で、だましたり、嘘を吐く人が、そうなってゆくでしょう。楽山批判は、人間性を守るために、非人間性を排除しようとする当然の成り行きなのです。
 
 
永遠を測ろうとするイカサマ

永遠を測ろうとするイカサマ
 
 
(2021年10月20日)
 
 
 
  かたすみ
 
滅びゆく家の片隅に
うずくまってじっと耐えているか
去りゆく人の残していく
滅びゆく影を追って
北風に唇をふるわせて野辺に立つか
滅びゆく世界の
残された片隅に
あてがう呼び名もなく
呼ばれることもなく
吹きすさぶ嵐に傾いて
ひび割れた古い柱に
さらに寄り掛かる冬の重さに
耐えるときの命の中に
命に似て
少しく潤んで
しのぶもの
滅びゆく希望の
片隅に凍えて
小さく開かれた永遠を信じて
小さく開いた眼だけになって
やがて白く
広く
 
 
  友
 
あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
人は到底それらすべてを知り得ない
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである
 
あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである
 
 
  聖書
 
一般に紙は薄く、頁はめくりにくく、ボールペンで線でも引くと裏から透けて見えること多く、にじんでくることさえある。一般に分厚く、途方もないと思えて、なおかつすべての一行一行に涙流れるわけでもない。メモでもしておかないとすぐどこだったか忘れてしまう。これに一生を費やす人がいるわけだ、と他人ごとのように思う。
 
聖書、バイブル。旧約聖書、新約聖書。文語訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書、共同訳聖書、リビングバイブル。
 
永遠のベストセラー、というより永く買わされてきたこの書物を全部読みこなせた人がどれだけいるのだろう。たとえそらんじたとしても信仰に保証はないのだ。
 
開こうとするたび、無数の異国の怪人が現れ、白髪の老人であったり、真黒な眉毛と髭の間にこわそうな目がにらみつけたりする。
 
こりかたまりの戦争の話であったり、道に伏した栄養失調の嘆きであったり、熱くなって爆発しそうな顔であったり、こちらが爆発しそうになったりする。
 
ただときどき、ふだん嫌いな憐れみが命がけで迫ってきて、荒野や砂漠が潤ったりするので、海が割れたり死人が生き返ったりしてこんな頭持ってないと破り捨てたくなるのを、笑えなくする。
 
 
 
前にも載せた楽山日記のコメントです。誰のコメントかは知りません。
コメント欄
 
 
隆くんへ
 
・・・
 
間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
自分 正さなくちゃいけない
 
それが出来て 初めて人間だと
それ出来ないなら 人ではないと
 
・・・
 
嘘ばかり 重ねる君よ
保身だけの 卑怯者の君よ
そんな君は 魅力の欠片もないのに
 
・・・
 
失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
最大限の償いと 最大限の反省と共に
開いた出店を 畳むしかないんだよ
 
人間で在り続けるのなら
人で在り続けるのなら
 
 」
 
このコメントは、毎回載せようかと思っています。
 
楽山は、インチキ占いか、詐欺でも、やっていたのでしょうか。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
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