ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  楽山の読書くずれ
 
 「第二十一講 ヨブの終末」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月07日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、批判記事を書かれると、新しい記事を上に重ねて、自分の批判対象記事の場所を下げるのです。それで、目立たなくしたからと安心するのでしょうか。いかに、言論者としての自覚がないかということです。学習し努力してゆくという向上心がゼロなのです。
 
このところ、狂ったように記事を書き続ける楽山ですが、楽山自身の意見が異常に少なくなっています。前にもあったことですが、書けないものだから、他人の都合のいい言葉を漁り、例によって、誤解~曲解して、自己正当化しているつもりなのでしょう。この姿勢も、真実を追求する者として、アウトなのです。
 
「読んだので」「感想をメモ」・・感想文という文章になっていません。それで、メモと言っていますが、メモにさえ、反キリストらしい悪意も、宗教と自己中と自己愛性人格障害も、表れてくるのです。
 
何より、批判されたくないのか、殆ど引用だけです。自分の文章が書けない楽山は、書かないことよりも、書いたかのように見せかけることを選んでいます。そこが、また、病質を表す結果となっています。
 
読書感想文として成り立っていない記事が続いています。
 
「第二十一講 ヨブの終末」を読んだので、その要点と感想をメモ。
「第四十二章七節以下の研究」。
文学は「悲痛を以て終るは不健全の印である。喜びを以て終って、真に人生に徹せる健全なる文学というべきである」。
 
楽山が「読んだので」というのを信用しないでください。自己愛性の人格障害によって、正しい読み方など出来ない人です。楽山にとって、美味しい言葉を、都合のよい文言だけをを、漁って引用することだけが、楽山の読書です。そういう無理解も曲解も、先入観と偏見と曲解という形で表れてくるのです。
 
付き合えば付き合うほど、人に、疲労と "悲痛" しか与えない楽山の文章は、書かないほうがマシなのです。楽山は、詭弁と嘘、そして、自己中方向しか持っていません。改める気がないならば、楽山は、公開しないで部屋で読んで、独り笑いしているほうが、公共にとっては、まだマシなのです。
 
七、八節によって、「エホバの審判三友人の上に下って、その愚は明示せられたのである。彼らは論理において精確なりしも、その根本思想において全然愚妄であったのである。これに反してヨブは所論支離滅裂なりしもその精神において正しく、その心は三友よりもかえって神と真理とに近かったのである」。
 
ここで、楽山が受け取る論理というのは、固くて訂正不能で柔和さに欠け、心が無いために共感性を欠いた楽山の教条からの理屈ですから、正しいということとは違います。教条は心の面倒を見ない、言い換えれば、人間の不完全な辻褄を満たしたように見えても、人間の心を満たせない空想なのです。
 
ヨブは「三友のすべての悪罵と無情とを赦して、彼らのために祈るに至った」。「愛は謙遜に伴う、大なる謙遜に入りし彼は大なる愛を現わし得たのである」。「わが心神の前に深く謙へりくだるに至って無情なる友をも、またいかなる敵をも愛し得るのである」。
 
ここに書いてあることと、正反対なのが、楽山です。無反省、無責任、無神経ということは、敵のみならず、味方になる人をも、軽視~無視し、疲れさせ、傷つけては、それに自己満悦する楽山の生業であります。へりくだる、ということが、欠損しているので、見かけの丁寧語をばらまいている楽山です。
 
ヨブ記のはじめと終わりだけを読み、悔い改めれば物的幸福を得るとし、物的恩恵に恵まれていないのは悔い改めをしていないからだとするのは早計である。また「災禍の下るはその人の信仰足らざるためであると見做す。かくなっては三友人と全く等しき愚妄に陥ったのである」。
 
楽山が宗教そして信仰について、悔い改めをしたら物質的恩恵が来るぅ・・というような原始的なご利益宗教を批判しているのですが、誰の信仰なのでしょう。楽山こそは、目の前の、書いた・・という満悦という快感だけを得ようと、空しい思い込みと曲解を並べているのです。
 
いくら時間をかけても、早計でしかないのは、楽山のほうです。言われそうなことを、逆に、言って、言い訳とするのは、シャロームも同様でした。
 
「ヨブ記のはじめと終わりだけを読み」・・楽山は、キリスト教をけなすためだけに書いていますから、本だけ読んで、聖書のヨブ記を、始めも、終わりも、直接は読んでいないのではないかと思います。だから、言い訳みたいなことで満たさないといけなくなるほど愚かな妄想に陥るのです。
 
それと、悔い改めなければ、生き方も、理解も、感動も、共感も、生まれません。楽山は、自分が悔い改めないことを、妄想的に、詭弁によって、正当化しようとして、また、墓穴を掘っています。楽山の掃き出すゴミが、楽山に帰してゆくブーメランは、今に始まったことではないのです。
 
「ヨブは後の繁栄にありても、必ず過去の災禍苦難を想起したことであろう。去りし妻のこと、失いし子のこと、雇人のこと、その他身の病苦と人の無情、いずれも彼の心に深く食いこんだものであって、到底忘るるを得ない事である。故に彼は新しき幸福に浴せしために、旧き禍いを忘れて満足歓喜に入ったのではない」。
 
高慢だったことを自覚せず、悔い改めないでいるあいだ、家族のこと、信仰のこと、人生のことは、旧き禍いではなく、忘れられない記憶となっていたでしょう。ゆえに、神の与えた試練だと気づいたときの喜びは大きかったわけです。
 
ここに至って、楽山は、ヨブの不幸が、幸福に変わったことを、単純に喜び賛同し、引用しています。楽山は、神が試練を与え、ヨブが悔い改めて、神によって立ち直った、というところを、書いていません。
 
神との関わりという聖書が伝えようとするいちばん大事なところを、楽山の得意なことですが、スルーしているのです。反キリストの楽山にとって、神が救ったことを認め賛同することは、論外なのでしょう。
 
楽山の論は、楽山の頭の中にしかなく、結論から始まる詭弁であり、正当には誰にも通用しないことが表れています。書けば、何でも、自己中の方向に、ねじ曲げるしかないのです。
 
こういうところに、詭弁屋で、悪魔性で、策を弄する楽山が表れます。ゆえに、聖書も、本も、楽山が読後感想として書いたことは、幼稚な自慢であり、一切、当てにしてはいけないということになるのです。
 
当初ヨブは「己に信仰がありて神に事えて正しき故、この幸福を以て恵まれていると」考えていた。「すなわち自己の善き信仰と善き行為の結果としての物的繁栄を認めた。これ権利または報賞として、幸福を見たのである」。しかしその後のヨブは「何ら値なき自分に、全く恩恵として幸福の与えられし事を認むるに至ったのである」。
 
自分は正しい、だから神についても言える、という、楽山は、その報酬として、自他の人格破壊を自ら選んでいるのです。人を巻き込まないでほしいです。
 
「値なき自分」「全く恩恵として幸福の与えられ」・・このことを、楽山は理解していないので、どこまでも、反キリストとして語り、ゆえに、その語る言葉が多ければ多いほど、破壊も進んでゆきます。最近、まさに、その通りになっています。
 
何の恩恵も与えられないのは、自らの罪と偽善が、自らを壊してきたからだと、気づく良心を、全く持たない楽山です。
 
キリスト教を理解しないで、キリスト教を批評していること、しかも、それを、公開して、評論家のように高みから神を見下ろすこと、いずれも、楽山の人間離れの神がかりのゆえであり、執念であり、我執であり、実に、生涯にわたって、救いを拒んできた者の因業として表れているのです。
 
ヨブの「前の状態は不信者のそれであって後は信者のそれである。不信者は物の所有を以て正当の権利と考う。故にそれにおいて薄き時は不平が堪たえない。しかし信者は僅少の所有物を以て満足する。これ一切自己の功によらず、全く神の恩恵によると思うからである」。
 
持ち物、欲望、地位、賞賛、そういった基準から、キリストの同伴、神との関わり、という信仰を得て、価値観が変わるわけですが、ヨブも、そして、私たち信仰者も、試みに会わなければ、なかなか気づかないことが多いようです。
 
楽山は、神の恩恵どころか、ただただ、自分で自分を肯定するしかない人生なので、反省することなく、学習することなく、一途に、自己正当化を図り続けて、ゼロに、マイナスに、なってゆくのです。
 
これは、非信仰者の人生だからということで済ませることは出来ません。平均80年の寿命を、何も良きものを受け取らずに過ごすのです。こうはなりたくないという不幸です。楽山は、神に文句を言ってきましたが、すべて、楽山の自覚しない自己責任なのです。
 
この講演はヨブ記の要点を簡潔にまとめてあり、かつよく納得できることばかりである。宗教的な話には独断的にすぎたり、飛躍がありすぎると感じることも少なくないのだが、本講演にはそのようなところがなくてすんなり心に響いてくる。要点をしっかり掴んでいるからこそ、このような話ができるのだろう。
 
「よく納得できることばかり」・・楽山は、キリスト信仰のベースがないのに、謙虚さがなく、分かるんだ根性そのままに、賛同しています。楽山においては、謙虚芝居が、高慢を表すことになります。
 
楽山が、こういうことを言うとき、大方、嘘です。いちばん大事な心の問題を理解できないという、約2年間の履歴があります。実際には恐らく生涯にわたる自己愛の慢心なのでしょう。自分を見ないものの宿命のようです。
 
楽山というHNは、中国の地名かもしれないが、実際は、落ちるための山、堕落する惨めさ、などと当てたほうがいいような不似合いなHNです。自主的に、あるいは、誘われて、楽山に加担する人も、楽山の味方になる人も、一人もいなくなることを、切に祈り願っています。
 
 
※ 
 
私は、神にだけは正直に祈ることを強調してきました。それは、人には嘘吐いてもいいという意味ではありません。また、誰に対しても絶対に嘘を吐くなという戒律を語るつもりもありません。
 
人間は、必ず、いつか、どこかで、嘘を吐きます。人間は不完全だからです。それが罪の性質だからです。完全に正直に・・というのは、人間には無理なのです。
 
ゆえに、神の前に "正しく" あろうとすれば、次第に、言い訳めいてきて、偽善に走りやすくなります。ゆえに、祈りにおいては、精いっぱいの正直のほうが、人間の信仰に適い、救いと癒しになると思っています。
 
人間にとっては、正義よりも、正直であることが信仰だと思うのは、神の前では、人間は、正直以上に正しくなどなれないからです。神に対して、人は、正直であろうと努めることで、精いっぱいなのです。
 
そして、神の前に、砕かれた魂をもって、へりくだり、正直に祈る人は、人の前でも、少なくとも、だますような悪意をもって、白々しい嘘を吐くことは出来なくなるだろう、という希望でもあります。
 
信仰は、良心を育てるためにあります。言い換えれば、良心のない楽山やシャロームのような偽善者にならないためにあるのです。
 
 
リアルでもネットでも、そういう悪意の企みの虚言で、だまし、刷り込もうとする者がいます。そういう者が、いちばん救いからは遠いのですが、そういう者こそ、救いとか、宗教とかを、説教したがるのです。彼らは、都合の悪いことを、隠して無視したり、人のせいにしたりします。
 
何故かというと、宗教とか信仰だと、厳格な資格試験もないし、ごまかし方が、いっぱいあるだろうと見込んで、舐めているわけです。その手の偽善者を批判しています。これは、私に批判が出来るあいだ、やめてはいけないことであります。
 
残念ながら、老化によって体調は劣化してゆくので、ずっと続ける・・というわけにはいきません。さらに、信仰を語る時には、必ず、自分自身の罪性を考えないわけにはいきません。
 
人を斬る刃は、自分をも斬ることになります。それは承知しているつもりなので、私の欠点をマシュマロで包んで隠すことはするまいと思っています。よって、知力衰え、めっきり忘れっぽくなってきましたので、鬼のように批判したり、弱音を吐いたりもします。折に触れて祈っています。失礼。
 
 
崩れ

くずれ
 
 
(2021年05月10日)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
この思考回路はなぞだ?
彼らの中では、こういうことは全部無かったことになってて、アンチの捏造にすぎないと思いこんでる?
引用ツイート
@kusaweod
意味分からん。事実じゃん。
こいつらにとっては都合の悪い事実は全部通報対象なのか?
 」
午前6:51 · 2021年5月9日·Twitter Web App
 
不正を批判しているようですが、楽山については、過去の失言も、無理解も、いちゃもんも、「全部無かったことになって」いるようです。楽山の思考回路は、謎というより、正気ではないのです。
 
信仰は一生を左右するものですが、自己愛性人格障害の楽山には、他のアンチの人々と比べて、真剣味や切実さが感じられません。
 
楽山は、まだ、誰かを批判できると思っているのでしょうか、まだ自身に正論が成り立つと思っているのでしょうか。・・モンスターならではの恣意的自己中思考回路です。良心がないから自省だけはしない楽山です。
 
(2021年05月10日)
 
 
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  楽山の神噛み
 
 神に通じる祈りとは?(『神皇正統記』北畠親房著)
 2021年05月08日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、祈りません。ただ、あの神、この神と、批評して回るのです。したがって、救いの「す」の字も与えられることはありません。神について少しでも知りたいという求める動機ではなく、神々を見物して知ったことにしたいだけなのです。
 
最近の楽山は、自分の言葉が成り立たないものだから、書かない時の原始反応として、引用が大部分を占めるようになっています。同じことです。引用部分の内容とつながりから、楽山が何を暗示しようとしているかを考えます。そこに、曲解に基づく作為と悪意が満ちているからです。
 
『神皇正統記』を読んでいたら、祈りについて書いてあったのでメモしておきたい。
天照大神はただ正直だけを御心としていらっしゃる。
(『神皇正統記』北畠親房著、松村武夫訳、教育社、1990年、p.109)
 」
皇太神・豊愛の太神が倭姫命に神がかりして託宣なさったことは「人というものは元来神に通じた霊妙なものである。したがって心神(正直な心)を失ってはいけない。神は誠意をもって祈る者にまず現れ、神の冥加はまず第一に正直な者の上に加えられる」ということであった。
(同上、p.109)
 」
これは「心だに誠の道にかなひなばいのらずとても神やまもらむ(菅原道真)」に通じるものがありそうだ。
 
楽山は、正直ということを語るのに、人間としての当たり前に理解できる正直では分かったことにならず、「神に通じた霊妙なもの」というのを持ち出してきます。人として当たり前のことが、楽山には成り立っていないからでしょう。
 
そして、楽山は、次には、祈らなくても、神は守ってくれるだろう、と引用しています。しかし、楽山は、人間として、誠の道に、ことごとく背いているのです。
 
何が「通じる」というのでしょう。自分を見ない者が、いくら、キレイごとを言っても、そのキレイさが、自分を斬ってくるという例になってしまいます。
 
こういう自動的な返り討ちブーメランは、楽山の常態です。まともぶれば、まともぶるほど、自分が自分の言葉にズタズタに斬られてゆくのです。呆れるほど、いつまでも、気づかない楽山です。
 
私事ながら随分前に、とある宗教の信者だったころに信仰のことで悩んだことがあった。「自分はこの宗教はどこかおかしいと感じるようになってきており、信じきることができていない。信じきろうと努力しても、どこかおかしいという思いを消し去ることはできない。教祖は信仰の綱を手放せば地獄に堕ちるとしている。自分は地獄に堕ちるのだろうか…」と。
 
また、正義ぶって、まとも芝居をしています。どこか、軽々しい楽山劇場ですが、いちばん、おかしいのは、いつも、楽山です。しかも、関わると、関わった相手をも、おかしくしてゆきます。
 
「自分は地獄に堕ちるのだろうか」・・あざとい楽山の、お悩み芝居です。言葉だけで、深刻味が、まるでありません。楽山の、こういう台詞を真に受けて、巻き込まれないようにしてください。言っておきますが、楽山は、既に地獄にいるのです。だから、言葉も、心も、信仰も、嘘だらけです。
 
最後はこういう結論となった。「信じきれないないなら、信じきれないとするしかない。もし神様がすべてを見通せる正しい存在なら、信じきれていないのに信じきっているふりをするより、信じきれないものは信じきれないと正直になる方をよしとしてくれるだろう。
 
恐ろしい詭弁です。信じていない楽山は、その本質的な自己愛の性根から、正直の欠片もないモンスターになっています。楽山は、詭弁で、ごまかしていますが、楽山は、信じ切れない正直ではなく、信じる心が、まるでない、ウソッピ物語なのです。これで、自分は正しいと思い込めるなら、ホラーです。
 
もし信仰の綱を手放したら地獄に堕ちるとしても、信じていると嘘をついて天国に行くより、信じられないと正直にいって地獄に堕とされる方がましでもある。少なくとも自分の心に正直でいる限りは、どこにいたって気がとがめることもないだろう」。
 
信じられないのではなく、信じる気など最初から無いのが、楽山です。どうでしょう、これで、正直な自分を表したつもりなのです。いったい誰に、嘘つき楽山が「信じられないと正直に」言って、受け入れられると思っているのでしょう。
 
しかも、楽山は、それで「気がとがめることもない」のだそうです。良心が無い凶悪性の証明でしょう。狼が来たと嘘を吐いていると、本当に狼が来たとき、誰も信じてくれなくて、狼に食われてしまうという「狼と少年」の嘘吐き少年そのままでしょう。一言も正直のない手遅れ地獄か。
 
信仰芝居も、お祈り芝居も、神否定も、反宗教・反キリストも、様々、ほしいままに、三文芝居で欺いてきて、今さら「信じられない正直」などと都合のよい新作造語で言われても、笑止であるにとどまらず、地獄へのガイダンスに過ぎません。まさに悪魔のプレゼンです。堕ちるなら、独りで地獄に堕ちてください。
 
いくら正直であることが大切だといっても、世の中は決して嘘はつかず、正直でありさえすればよいというほどは単純ではあるまいが、信仰という自らの心の内に関することについては自らに嘘をついて誤魔化すよりも、正直でいる方がいいと思うので、自分としてはこの結論に満足している次第である。
 
世の中には、こういうことでは決して嘘を吐いてはいけない、ということがあるのです。それは、自らの信用問題と存在についてのことです。楽山は、そこを踏みにじったわけです。
 
さすが地獄の大根役者そして偽善者、「この結論に満足している」と自画自賛しています。楽山は「自らに嘘をついて」いるのではなく、他者に嘘を吐いて、だましてきたのです。
 
楽山の心に信仰はなく、もはや悪意と虚偽性だけをもって、こういう詭弁を仕掛けてくるのです。信仰者が、神の前に正直であるべきということの、対極にいて、あざ笑っているのが、楽山です。いつまでも、嘘で、ごまかそうとしてくることが、悪魔性を証明しています。寒い寒い楽山の世界です。
 
 
嘘と詭弁の孤独

嘘と詭弁の孤独
 
 
(2021年05月09日)
 
 
 幸福実現党の移民政策
 2021年05月08日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
楽山は、批判ツイートの管理人かアドバイザーにでもなってるつもりでしょうか。楽山には、批判する資格もなく、批判を云々する資格もありません。
 
楽山は、嘘と詭弁で刷り込むだけの自己愛性の欠陥人格です。楽山は、何を言われても、反省もしなければ、責任を負うこともありません。この楽山のようなやり方は、言論には通用しません。楽山は、早く消えてほしいだけの偽善者です。
 
*移民政策
幸福実現党の移民政策について、及川幸久氏がツイートしていた。
及川さん
移民万歳だけ改めてください!
そしたら応援したいです!
 」
返信
及川幸久 香港加油!
@oikawa_yukihisa
·5月6日
返信先: 
@viva_mattu
さん, 
@YouTube
さん
実は幸福実現党は移民万歳ではないんです。10年以上前にそういう主張をしたのは確かですが、その中身は逆で、今の自民党の緩すぎる移民政策を批判し、移民受け入れの厳しい基準を主張しています。とくに反日国からの受け入れは。
 」
これには疑問に思うことを、一つ、二つ呟いてみたけれども、いまのところ回答なし。残念。
 
楽山には関わらないでください。回答があってもなくても、楽山は、ずっと、残念で、かつ、残忍な人です。それ以外、何もない人です。楽山は、いつも、ゲーム感覚だと思います。
 
*疑問(一)
疑問内容についてここでも書いておくと、まず一つは移民受け入れには厳しい基準を設けるということは、移民を抑制する方向に行くはずなのに、そうはならず移民一億人をめざすというように移民拡大に向かうのはチグハグではないかということである。
また移民一億人をめざしながら、移民万歳ではないというのもチグハグだ。
ニッポン繁栄 8つの提言【3】めざせ!人口3億人国家
 
「チグハグ」?・・楽山自身は、無反省と無責任で、裏切って、けなして、面白がっているだけなのです。何を、他者のことを、一人前の常識人みたいに言っているのでしょう。そんな資格はありません。まず、楽山を、批判する人々と批判される人々から、つまり、真面目な言論者から、除外するべきであります。
 
*疑問(二)
もう一つは、移民は一億人に限定せず、二億人でも大歓迎としていたが、それについて及川氏はどう考えるかということ、またこれは党の政策として今も変わらないか、もし変わっているなら何故変わったか教えてほしいということ。
下の動画では、55分過ぎから一億人移民が議論になっており、57分過ぎには移民は二億人でも大歓迎という発言も出ている。
 
こういう問題は、理屈遊びができるから、楽山は小理屈をこねていますが、テーマが倫理や道徳や人間性や良心や共感するべきことになると、楽山は、心が無いので、まるで、ロボットのようなことしか書けなくなります。
 
*疑問(三)
ついでにもう一つ疑問を書くと、幸福実現党が提案する移民選定の基準は、深刻な人権問題に発展するのではないかということである。
 
偉そうに書いていますが、他者の人権も尊厳も、屁とも思っていないのが、楽山です。ましてや、神の全能など、何も知りません。約2年間、楽山の書くものに、その卑怯さは、表れてきました。
 
反日国からの移民は認めないだとか、英語圏の白人の移民を期待するだとか、国籍、人種によって選定することは果たして許されることだろうか。また移民には日本国への忠誠を誓わせる…つまりは反日思想を持った移民は認めないということであろうけれども、これは思想信条によって人に対する扱いを変えることになるのではあるまいか。
幸福実現党はこの辺りのことについては見直す必要があると思う。
 
趣味で茶々を入れてくる楽山の目的は、正義でも人道でもなく、自分が評論家みたいに書いて、そう見られることが、悪魔性の悦楽だからです。
 
楽山は、A級戦犯に賛同しているネトウヨです。しかも、しっかりした思想も信条もありません。いわゆる、荒らし的な、いちゃもん屋です。だから、何を言われても、平気で無視します。
 
そのことが、もたらすのは、無反省と無責任で、真面目な議論や批判において、自分が追及されると無視して、逃げるだけなので、話にならず、何の役にも立たないということです。そういうことを、平気で、長く続けているわけです。
 
 
(2021年05月09日)
 
 
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  楽山の狂信
 
 「第二十講 ヨブの見神(四)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月06日 楽山日記(LD)
 
 
楽山には信仰がありません。あるのは、それこそ、カルト的な自分信仰です。自分の物差しで何でも測れるという慢心は、もはや、人間として存在の節操を失っていると思います。
 
不感不応で、まともに感受する心のない楽山は、あらゆる信仰の節操をも失って、解体、崩壊してゆくようです。把握も解釈も命題も理路も当為も、何一つ、成り立っていません。自己愛と自己顕示欲の意地または石になっているのです。転がり、破裂し、落ちて、欠損してゆくのでしょう。
 
「第二十講 ヨブの見神(四)」を読んだので、例の如くその内容と感想をメモしてみる。
ヨブ記第三十八章三十九節~四十二章六節の研究。
三十八章一節~三十八節は「宇宙の諸現象の中に神の穎智と力を認めたもので」あり、三十九節~四十一章は「生物界において神の穎智と愛を――殊に愛を強く――認めたものである」。
 
楽山は、まだ、自然は偉大 → 神は偉大 という内村鑑三氏の話の解釈に拘泥して、書いてきます。まだ、ヨブの無力を、神≒自然と比較して語りたいようです。
 
ヨブは、人間として無力であることを、試練を通して、慢心を砕かれて、目覚めることになります。そこに、神と人の立場の違いがあるのです。目覚めなど全くないまま慢心する楽山です。
 
「鴉は人に嫌わるる鳥である」が、神はその鴉でさえ「養い給う」。
「エホバは諸現象を引きまた動物を引きて、神智神力の無限と、人智人力の有限とを教えた」。「神は絶対の力であるに、ヨブは絶対の無力である」。
 
人に嫌われるカラスを神は養う、と書いて、楽山は、何を言いたいのでしょう。インチキと詭弁の偽善にまみれて嫌われる楽山自身も、神に養われるという詭弁のつもりなのでしょうか。
 
今さら、神に、断定はしてないから救ってもらえますよね、とでも言いたいのでしょうか。楽山には、別のものが巣食ってくるでしょう。楽山を、楽山に相応しいところへ、楽山自身が誘導しているということです。
 
楽山は、無力なのに、またしても、自己正当化するのでしょうか。無反省で成長のない楽山は、書き続けるという性懲りのなさで、ますます、無力に、邪悪になっています。今後も、破壊と腐乱のジュクジュクした炎症を味わうのでしょう。
 
ヨブは、神によって、砕かれ、頽(くずお)れて、悔い改めました。
 
楽山は、神の不在を説いたり、神を偉大と言ったり、性懲りの無さを、わざわざ見せつけて、救いも癒しも分からないのにヘッピリな自分を表しています。
 
(ネットより)
へっ‐ぴり【×屁っ▽放り】 の解説
《「へひり」の促音添加》
1 屁をひること。また、その人。
2 つまらぬ奴。人をののしっていう語。
「どいつらも―のくせに」〈滑・八笑人・二〉
 
「毅然として友に降らざりしヨブも、今は神御自身の直示に接して、この謙遜の心態に入るに至った」。
ヨブは神を知っているつもりだったが、そうではなく「神について聞いていたに過ぎなかった」。その「知識を所有していたに過ぎなかった」。「今は万象を通じて、神を直観直視するの域に至った」。
 
「神御自身の直示」と氏が書いているなら、自然→神、ではなく、神→驚くべき現象ということでしょう。森羅万象が、神の創造物であるから、神の偉大さに気づくという氏の話を、楽山は理解していないと思います。自然の驚異=神、とでも言うのでしょうか。
 
それは、キリスト教の神ではありません。キリスト教の神は、人格的唯一神であります。神の人格との共感が、キリストによって表されたということです。
 
楽山は、人の言うことを聞かない人です。知識も曲解の先入観に過ぎません。楽山が、神を直視するに至ることはなく、神を肯定する必然も、どこにも表れていません。また、だまそうとしています。
 
ヨブは神学によっても人の言によっても安心はできなかった。「苦悶者の真の行き場所は教会にあらず、教師にあらず、宗教書類にあらず、神の所作物たる自然の万物万象である」。
ヨブが天然に神を見たのは「彼の受けし艱難、彼の抱きし希望、これが彼の天然観を変えた」ためである。
 
楽山は、人間として宗教を理解できない者の特徴として、どうしても、人格に共感する神を、自然が暗示するだけの抽象名詞にしたいようです。「天然に神を見」るのは、天然観が変わったからではありません。信仰観が新たになったからです。
 
楽山は、ここまで、神を対象としてゆくなら、信仰の救いに気づくこともなく、自身がどうなってゆくかを自覚はしないまま、粘りつく油と砂を味わってゆくだけの定めしかないように思われます。
 
釈尊の場合はすべてを観察した上で一切は苦であるとし、それらに対する執着を去り、厭い離れることを覚ったというが、内村鑑三によればヨブは天然自然に神を見てその中にある幸福を覚ったということらしい。
 
自己愛に執着し、自己愛から自己中になり、執着だけになっている楽山は、神から、厭われ離れられることを自覚しないままであることが、明らかとなっています。
 
「ヨブは天然自然に神を見てその中にある幸福を覚った」楽山は、神には人格がないことを強調しています。天然自然に表れる神も、人格に寄り添う神も、共感の主イエスも、つまり、創り主も救い主も、楽山には縁がなく、よって、自然そのものを神だと言い張るに至っています。
 
楽山のような呆れた偽善者に安く規定される神ではありません。ヨブは、天然自然を見ることが神を見ることだと分かったのではありません。自然を支配する神の力を見せられたのであります。
 
これらは正反対の行き方にも思えるが、どちらにも一理あると感じられるのはなぜだろう。これはちょっと不思議。
 
楽山は、どこが「正反対」だと言うのでしょう。何をもって、上から「どちらにも一理ある」なのでしょう。何も説明できていないことが楽山の本質です。神は、楽山のような裁きの対象にしかならない人に、上から規定されたり評価されたりすることはありません。
 
楽山の、神なき自然が神とでも言うような詭弁は、どこにも成立しません。楽山は、批判に対して、まともな返しも弁明も出来ない人です。知性も感性も失って皆無になってゆく途上であります。
 
分かっていないのだから、分からないと言って、引っ込むべきです。人の口を悪用して出来もしない自己主張をするのは、宗教、特に、キリスト教を、理もなく、心もなく、おとしめる公害です。
 
どこまでも、信仰を理解せず、理解しないのに信仰について書いてくるのは、信仰の意義を、否定し、消し去りたい楽山の、訂正不能の自己顕示欲でしょう。楽山は、既に、自己愛性人格障害を経て、単なる無神論ではなく、ある種の強迫症状の悪魔性に変貌しているようです。
 
こうなる前に、不遜に気づくのが人間であり、共感するのが信仰者です。何も気づかないのが楽山です。
 
そういう資質すら無いゆえに、うんざりするほど、楽山は、繰り返し、繰り返し、有名人の名前を出してきて、引用して自慢し、悪用して我を張ることで、神を上から見るような自己愛性の誇大妄想性を表しています。
 
知ることもなく、感じることもなく、説明も出来ない、というこの楽山の、我の張り方は、子供レベル以下だと思います。
 
 
自己愛の妄想

自己愛の妄想
 
 
(2021年05月08日、同日一部修正)
 
 
 楽山のツイートですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
信仰告白は尊いと思います。
でも正直言って、及川さんがこの方を神だと信じ崇めているというのは、うまく想像できないです。すいません。
午後9:38 · 2021年5月6日·Twitter Web App
 
ORが、翼を付いた仮装をして両手をあげている写真です。楽山の白々しい嘘が明らかです。「信仰告白は尊い」などと思っていません。「すいません」・・楽山は本気で謝罪などしたことがありません。皮肉のつもりなのでしょう。
 
独りで見て、あざ笑い、さらに、これ見てよ・・とばかり出してくる、批判者ではなく、卑怯者、いちゃもん屋の、変わりない楽山の所業です。独り満悦が、醜いです。
 
根拠を示して批判するのは自由ですが、人をバカにして笑う、というのは、正当な批判の出来ない楽山の図式です。責任を負わなくて済むように、楽山は、これで、表現をやわらげたつもりなのです。あざ笑いが目に見えるようです。
 
(2021年05月08日)
 
 
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  猛者への堕落3
 
 
人間性を失った名ばかりの信仰?には
ある種の猛々しさが残る
 
せっせとお味方になる意見を集めている
それは猛々しい文章である
その威勢のよさの分だけ
また人間としての共感を失ってゆくのは
字面だけを追って
お味方になる意見というだけで
悦び、褒めまくるからである
 
一般的にヒューマニズム云々を
社会通念に過ぎないものとして批判して
そして福音のヒューマニズム化を嘆くのだが
 
そういう福音の変質を語る前に
他者を語る前に
人が考えるべきもっと重大な
自らの問題を考えていない
 
人間性を欠いた信仰?は
神性と神聖と真正の確信?に満ちて
正当化だけに懸命になる畑で偽善の種を育てる
 
自らに目を向けず
反対意見に耳を貸さず
お決まりの聖なる?文句を呪文のように繰り返して
ますます話し合う余地のない確信に凝り固まってゆく
 
そして実際に賛同者以外とは
つまり反対者とは話さなくなる
そしてその根拠を神に担保してもらっているつもりである
 
しかし、いったい
神への恐れを知る信仰ではなく
むしろ神を恐れず誇大化した自我からの
尊大な妄想的確信に
担保されうる何があろうか
 
しかし、それでも保険のように
神の側に担保される
という神の意志を自らのものにして
さらに確信してゆくので
恥ずかしげもなく
信仰の名を借りた残酷物語の主人公になってゆく
 
元々信仰に対して羞恥心を持つ必要はないのだが
信仰によって恥知らずになっていいはずはない
 
人が持つべき羞恥心は
実際には
信仰?によるつもりであろうがなかろうが
自己の不完全性の無知と無恥からの
異なる意見の軽視~無視に対してであり
 
さらに最悪な恥知らずとして
信仰?によるという間違った確信において
異なる意見を封殺するような非人間性による自己正当化である
そういう者は聖句さえ悪用する
 
しかも嘆くべきは
確信に満ちた非人間性は
自分とお仲間と被害者以外の賛同を得られない妄想であり
詭弁に満ちた言説の崩れ方でありながら
何事も無かったかのように慢心していられるほどの厚顔で
罪悪感を持たないでいられるという特徴なのだ
 
 
以上は、偽牧師シャロームについて書いたことです。
 
カルトは、根拠のない超常的妄想をベースとしていて、行動化以前であっても反社会性を潜在的に主張の中に持っているので、いつも、そのベースにおいて崩れる定めである。
 
キリスト教内外に、カルト臭が漂ってくるような時代に、私たちは生きている。
 
しかし、真のキリスト信仰は、物や肉体の奇跡が本質ではなく、人間の心において理解可能な共感性が中心となっていることによって、いつも、そのベースにおいて説得力がある。
 
キリスト信仰は、たとえカルトが同じ名前や言葉を使っても、カルトには決して真似のできないところの、共感性に溢れた理路というところから癒しと救いを宣べ伝えることが出来るだろう。
 
 
(2011年09月22日)
(2019年04月25日、修正)
(2020年05月06日、さらに修正アップ)
 
 
猛者

猛者(もさ)
 
 
(2021年05月07日、再録+)
 
 
 楽山について考察
 
楽山の書く文章というのは、大方、月並みです。社会通念とか先入観や固定観念からの発想に過ぎず、独自の、直観的、または、経験からの、これだけは伝えたいという切実さがありません。
 
そこをごまかすために、楽山は、読書の履歴を書いて引用してきますが、引用の基準は、自分の固定観念に都合がよいかどうかでしかありません。
 
さらに、有名人や学者の名前と、学術用語や宗教用語で飾って、自分も同列であるかのように気取ってくる楽山の態度は、その引用の恣意性や、聖書についての誤解と曲解とともに、楽山独特の詭弁と婉曲性と曖昧さをもって、まわりくどい図々しさを表してきます。
 
肯定するときには、「せつなくなる」「一言一言に力があり」「心に迫ってくる」「期待して読みすすめたいと思う」などという、深みのない賞賛の言葉を付けるだけです。そういうことしか書けないのだろうと思います。
 
一方、反対の時は、「好悪は分かれそうだ」「カルト信者にありがちなこと」「強まる傾向はあるように思う」「という話もある」「慎重に吟味すべき」「よく聞く話ではある」「現時点での正直な感想ではある」「一理ある」などと、婉曲的に語ります。
 
楽山は客観的に書いたつもりのようです。でも引用して批判しなければ賛同ですから、人の口を利用しても自分の主張であることに変わりはありません。徹底して責任を負いたくないという意図なのです。
 
加えて「のようだ」「らしい」などもそうですが、自分がどうか、ということではなく、人がどうか、どうするべきか、という、言い換えれば、自分の意見というわけではないから責任は負わないでいいと確認しながら書いているような書き方をしてきます。
 
それら、責任逃れの、通念的発言で、無責任であるなら、アドバイスにも示唆にも参考にもならないということです。本気で書いていない、受け狙いだけ、これならちょうどいいだろうというバランスを捏造して書いてきます。
 
そして、何よりも、重要な是非の問題について、賛否入り混じって、どちらともつかない、真剣味がない、・・こういうことでは、結局、実のあることは何も言っておらず、暇つぶしの、邪魔なだけのセリフになるわけです。つまり、意見交換になっていないのです。
 
楽山は、生まれ育つ過程で、こう言えばよく思われる、受ける、学があると思われる、というような学習か条件付けしか身に着けておらず、実体験から、受け取って、感じて、何が正しいかを考えて、誠実に意見を組み立ててゆくという学習と成長が抜けていると思います。
 
しかも、自身の無責任な発言を、止めようともせず、他者の意見を無視して、先入観のまま、繰り返し書いて、やり返したつもりでいるわけだから、無責任に加えて、無反省かつ訂正不能ということになります。
 
そういう執着性と反復性と継続性から見ても、楽山については、一時的に感情的に意地を張っているのではなく、不可逆の性質を持つ人格障害という病質を考えざるを得なくなっているということです。
 
そういう人物は、リアルな世界では、殆ど発言をしないか、しても認められたことのない人でしょう。だから、ネットの世界では、無反省、無責任に、好きなように書いて、一切、他者の言うことは聞かないし訂正しないでいいと思っているのでしょう。
 
前に、楽山が、私が実名を出しているのは、自己顕示欲だと、けなしてきたことがあります。私は、人それぞれではありますが、できれば知ってほしいと実名を出すことは正常な範囲内だと思っています。さらに、実名を載せることは、自らの発言に責任を付与することでもあります。
 
一方、楽山は、実名を出せないのでしょう。責任ある発言が出来ず、責任を負う気もないからです。
 
そして、楽山の自己顕示欲は、匿名が通用するネットにおいてだけ、生産的な目的もなく、ひょっとしてバーチャル教祖にでもなりたいのかと思うほど、カルトと同じ単方向の、訂正不能、つまり、学習不能な自己愛の誇大妄想性として表れています。
 
以前、楽山は言いました。神がいるなら、なぜ、悪がはびこるのか、なぜ、神は悪を放置するのか・・などという、いちゃもん。確かに、なぜでしょう。それに答えられる人はいません。しかし、そういう考えは、神がいるなら、みんな、ハッピーのはず、という身勝手な前提がある証拠です。
 
だから、今となって、私は、つくづく思います。なぜ、神は、楽山のような偽善者を放っておくのでしょう。なぜ、さっさと片付けて、みんなをハッピーにしないのでしょう。私は思います。救いは、この世の出来事の表層に、はっきり見えてくるものとは限らないのだろうと。
 
本当の救いは、もっと深いところ、あるいは、この世の人生以外のところ、人が気づかないところにあるのだろうか。それに気づく時は来るのだろうか。というのは、神は、人間が、逐一、納得できるような、ご利益の救いではなく、あくまで、神の計画に沿って、裁かれるのだろうから。
 
だから、神は、いつまでも、黙って見ているだけの御方ではないだろう。導きの不思議ということは、人づてにも聞いているし、経験上も、感じてはいるわけです。
 
ずっと神を呪い続けているような楽山が、何もかも、うまくいって、継続して、不幸などなく、いつまでも、満ち足りて過ごす、などということは、想像も出来ないし、あるはずもないことなのです。歴史の出来事も、いずれ、裁かれる時が来たし、これからも、来るのでしょう。
 
神と、条件交渉みたいな、取引でもする気でいる者には、無償の救いが与えられることはないのです。
 
しかし、いつ、神の救いの業(わざ)が起こるとか、どのように起こるとかは、人には分からないのだろう。神は、人に、いちいち説明はしない。正直以外、人が、無条件に救われるために、人の信仰にも、無条件であることが要求されるのではないかと思っているところです。
 
 
現在はネット上の所在も不明の偽牧師シャローム shalom と、荒らしの易坊、そして、楽山は、ネットの発言と交流において、つながりがあります。
 
易坊とシャロームは一緒に私のヤフーブログを荒らしてきました。楽山はシャロームに無条件賛同しました。3つのHNが同一人物の成りすましではないかという疑いも持っています。
 
 
{2021年05月07日}
 
 
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  信仰は2
 
 
信仰は史実に依拠しない
史実であってもなくても
聖書によって信仰は生まれるからである
また信仰は出来事に依拠しない
 
さらに信仰は人にも組織にも依拠しない
 
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠する
 
与えられるためには人間らしい温もりと潤いが必要である
 
与えられるのは人間らしい温もりと潤いに相応しい道である
 
決して安穏の保険ではない
 
奇跡と神秘の沙汰は神に任せられ
人が云々できることではない
 
人は
未来という未知へ導かれ
守られる身であるのに
史実信仰や奇跡信仰は熱心であればあるほど
依拠するところをご本尊のように守ろうとするだろう
 
奇跡に反するものから目を背けるような
むごたらしい信仰が人に向かうとき
「悲しみを喜びなさい」
「それは言っちゃいけないんだよ」
「自殺しちゃいましたよ」
戒律とタブーと侮辱を人に当ててしまうだろう
 
これが信者から猛者へと変質して
信仰という名をかぶった思い込みの確信であり
信仰者という名をかぶった無資格超人気取りである
 
信仰はいかなる事実にもかかわらず
計りがたい神の意思に
委ねるほかはない一人の人間の在り方である
 
信仰者は依拠する御方の行為や意思が分かる
という思い込みの確信を砕かれてゆく一生を選び
またそのために選ばれた者である
 
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠する
 
 
(2011年09月24日)
(2020年04月26日、一部修正)
(2021年05月06日、再録+)
 
 
信仰者である人は
へりくだる姿勢を持ちながら
ときに神に甘えることがあります。
ときに愚痴を言ったり駄々を捏ねたりします。
 
そういう駄々は
嘘の世辞の讃美言葉と違って
祈りとして真実性があると思います。
 
祈りにおいて正直であることだけが条件となるからです。
 
神に対してだけは甘えないと生きていけません。
だからこそ甘えであることを自覚していなければいけません。
 
神からの奇跡を人が受けたと思い込む確信は、
神に対する甘えの自覚を失った人の姿です。
それは、
神が自分にとって都合よく働いてくれる
という
神を恐れず、
神の都合を自分の都合に合わせる的外れの自覚と感謝に陶酔して
甘えの中に溺れている人の姿なのです。
 
神に甘えるとは
都合の悪い本音を隠さないことであります。
本音ではない遊びの甘えは冒涜です。
 
本気でなく
自分の都合に合わせて神を恐れない者ほど
神を讃えます。
 
これは、一部ではなく、
私たちの中にある稀ではない罪性であります。
 
ゆえに、折に触れて、信仰者にも悔い改めが必要になります。
悔い改めは、改めて正直に祈ることであり、信仰者の日常の務めであります。
 
キリスト信仰者を
間違っても超常に生きている人などとは思わないでください。
超常ばかり語ることは信仰から外れてゆく方向です。
 
超常は分からないという分別こそが信仰の姿勢であり
神に任せるべきものを弁えている態度であり
神を恐れる信仰に、必須の、そして、相応しい弁えであります。
 
私たちは信仰によって、信仰者として、死ぬまで成長し続けて、
「神を恐れよ」を自覚し直すことになるでしょう。
そのたびに、祈り、主の慈愛と神の寛容を頼みとする道に帰るのです。
 
キリスト信仰は
神の全能への恐れを知り
キリストの人への
共感と愛に依拠する信仰です
 
 
神を恐れる

神を恐れる
 
 
(2020年04月29日)
(2021年05月06日、加筆して再録)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
会員だった頃、伝道の取っ掛かりにしようと思って、荷物を幸福の科学の袋に入れて、友人宅を訪ねたことを思い出した。
袋に印刷された「幸福の科学」の文字を見て、
友人の妻「幸福の科学ってなあに?」
友人「バカ、そこに触れるな!」
伝道は始める前に中止となりました(笑)
午前11:21 · 2021年5月3日·Twitter Web App
 
HSを批判しながら、なぜ、キリスト信仰を、ろくに知りもしないで、同じように批判して、不幸を広めて、平気でいられるのでしょう。楽山の批判は、多く「(笑)」付きです。宗教もカルトも、恐らく、有名人も学者も、楽山にとっては、「(笑)」に過ぎないからでしょう。
 
キリスト信仰について、何も分かっておらず、アニメと同じように、無反省に無責任に話のネタにしてくる楽山には、人が傷つく、人を傷つける、ということも、何も分かっていないと思います。
 
楽山は、不幸の我執の伝道者、というより宣伝者です。自己愛性人格障害のネトウヨが「バカ」を連呼しながら、今日も、ネットという街宣車に乗って来るようです。しかも笑いながら。
 
楽山の、こういうツイートこそ、そして、楽山ブログも、始める前に中止してほしいのです。楽山には、あらゆる正義について、あるいは、あらゆる悪に対する批判について、語る資格はありません。
 
 
{2021年05月06日}
 
 
 2021年05月03日
 大川隆法とバッハ
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
  を批判
 
楽山は、 YouTube から、ORと、バッハを、並べています。その意図が明らかなのに、書いていません。責任を負う気のない卑怯者のやり方です。楽山が記事を書くという行為は、このように、いつも卑怯で、作為的です。厚顔の武装面でしょうか。
 
自分の言動がボロクソになっている状況で、人のことばかり書いてくるというのは、どういう神経でしょう。それこそ、カルト教祖の妄想状態でもなければ出来ないことだと思います。鉱物的体質の鉄仮面なんでしょうか。それとも、皮がむけてヒリヒリするような赤裸の時空を持っているのでしょうか。
 
*大川隆法の音楽
 大川隆法の作詞作曲した歌を聴いてみた。独特の個性があるので、人によって好悪は分かれそうだ。
・「ウィズ・セイビア 」〈作詞・作曲:大川隆法 歌:大川咲也加〉
・【デジタル先行配信中!】「水の革命」〈作詞・作曲:大川隆法 歌:恍多-kouta-〉
 
この上2つは、盛り上げようとする日本語の説教調であることから、布教の意図が明らかです。
 
「人によって好悪は分かれそうだ」・・責任を負いたくないために、楽山は、曖昧に言います。責任逃れでないならば、なぜ、曲をブログに載せ、かつ、バッハと比較するような構成になっているのでしょう。
 
*バッハ
宗教音楽というつながりで、なんとなく、バッハを思い出したので聴いてみる。やはり、いつ聴いても切なくなる。
・バッハ《マタイ受難曲》「神よ憐れみたまえ」 アーフェ・ヘイニス
・J.S.バッハ: マタイ受難曲:我ら涙流しつつひざまづき[ナクソス・クラシック・キュレーション #切ない?]
 
私は、音楽は苦手ですが、楽山は「いつ聴いても切なくなる」と書いています。つまり、比較の意図は明らかなのですが、上2曲と比較させながら、比較については直接表現を避けているのです。主張の責任を負う気などないからでしょう。
 
こういうやり方は、今までの楽山の言論を象徴するかのようです。断定していなければ責任はないというのが楽山の思い込みですが、ブログでも引用でも発言し公開した時点で、言論の責任は発生します。
 
責任を意識することで、反省と学習が可能になります。それをしたくない、また、できないのが楽山です。自己中と自己愛によって、いつも、偏向した主張をしてきますが、責任を負わないというのは、楽山が、いい加減な、趣味程度にしか、マンガ程度にしか、宗教を考えていないということです。
 
楽山が、そういう無責任であるならば一人前の人間ではないということであり、一人前の人間がすることである他者への評価について書くという資格はないのです。
 
つまり、楽山は、自分は言いたいように言うけど、質問するな、批判するな、ただ褒めろ、と言っているようなものです。こういうことが通ると思うのは、楽山が、自己愛性人格障害という病気だからです。いつでもどこでも通用しないことなのに、楽山には、それが分からないのです。
 
ゆえに、楽山においては、不祥事や失敗の時に、楽山に向かって、"あんた、あの時ああ言ったじゃない"、と言っても無駄だということです。つまり、批判者失格です。
 
こういう人を相手にしますか。こういう人が何かを良い方向に変えるでしょうか、ないと思います。何故なら、大事なときに、まるで当然のように、平気で、真っ先に逃げる人だからです。
 
実のない人生を送ってきた楽山の、いつもながらの下種ぶりです。今日は、節操もなく失禁する大人の日ではないはずだが。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
教祖を神様だと信じ込んでいる場合も、攻撃されてるとは感じないですね。
なにをされても、正しく導いて頂いている、救いを頂いているとし、もしそう思えず、感謝できなければ自責の念を抱いてしまう。
カルト信者にありがちなこと。
引用ツイート
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
 · 2時間
相手が少しでも「責任」を感じるなら、攻撃者としては攻撃しやすくなる。(例えば、攻撃者がケガ人や病人である場合、そしてあなたが「責任」を感じている場合、あなたはその人の「要求」を、攻撃とは感じにくいかもしれない)
 」
午前8:03 · 2021年5月5日·Twitter Web App
 
「教祖を神様だと信じ込んでいる場合も、攻撃されてるとは感じない」・・楽山も、教祖になって、そうありたいのでしょうか。批判されなくて済むから。
 
しかし、言うまでもなく、無反省、無責任では、教祖どころか、まともな知性を持った人間ですらないのです。楽山は、結局、良心を裏切った報いを受けるだけです。
 
楽山が「少しでも「責任」を感じるなら」批判は別のものになったかもしれないが、現実には、真逆ですから、楽山の望むことが少しでも叶うようであってはいけないのです。
 
別のことを言っているつもりでも、楽山の潜在的な欲望は、書き癖や言い回しに表れてきます。本気で考えて、必要だと判断して言うことと、趣味的に考えるだけで言うこととは、違ってくるのです。
 
楽山は、自己中と自己愛が育てたところの、うっとうしいカビサビの世界に棲んで、そこから発信しているので、これからも、自分の言葉に、そして、引用した言葉に、斬られる結果になります。(カビ=黴、サビ=錆)
 
楽山をアンチと思わないでください。楽山の考える宗教は、超常とか霊とかの話ですから、これは、基本的にカルトの発想と同じであります。ゆえに、楽山は、実際にはカルトと区別できない本質を持っていて、今は、アンチのように見せかけているだけです。
 
楽山が、現実問題でカルトを批判しても、宗教はこうあるべきという考え方では、カルトと同じ種類の、空想的な立場しか持っていません。この2年間、楽山の、反省せず、批判を無視する単方向性に、如実に表れてきたことです。
 
 
{2021年05月06日}
 
 
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