ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。サポートに問い合わせて、ようやくコメントボタンが付けられました。ソーシャルボタンは、コメント欄の上に表示されることも知りませんでした。

 
  楽山の仲間
  
 名無しの荒らし実はシャロームのコメント
 2020年07月25日
 私の記事「楽山の三文芝居」コメント欄
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/6645741.html#comments
 
 
楽山が、性懲りもなくカルト誘導の記事を書いてきたので、載せるのが延び延びになっていましたが、私の楽山批判の記事「楽山の三文芝居」(ライブドアブログ)のほうに、久しぶりに、卑怯な荒らし、"名無しの猫"、実は、シャローム shalom がコメントを書いてきました。
 
楽山の援護のつもりでしょうか。前にもあり、筆致から、10年前から批判しているシャローム shalom です。
 
ヤフーブログが終了して、今は、シャロームのブログは、所在不明です。ゆえに、無遠慮に書いてくるのでしょう。このように、楽山には、似たような仲間がいます。ひょっとしたら、一人による成りすましかもしれません。楽山とシャロームは、こういうこともするような、孤独な惨めフレンドです。
 
「 
 
1. いまも名無しの猫です
2020年07月25日 11:29
おはようございます! 名無しの猫です
 
お久しぶりで懐かしいですね!お元気?そうでなによりです。
今年の梅雨は全九州どこでも大雨災害で大変でしたが、
諫早はどうでしたか?お母さんはいかがですか?
 
「楽山の言うような、単純に無条件に元気の出てくる人は、殆どいないと思います。」
 
楽山さんの記事を読んで、「単純に無条件に元気の出てくる人は」おられると思いますよ。」きっとコメントもあると思います。
でもstさんのように熱心に読んで、丁寧な批評してくださる方はほかにいないかもしれませんね?
stさんの楽山さんに対する批判記事を読み
「単純に無条件に元気の出てくる人は」おられるでしょうか?
「単純に無条件に元気の出てくる人は、殆どいないと思います。」
 
stさんに楽山さん批判というライフ・ワークを与えておられる
自由な楽山さんに感謝ですね!
 
今も元気な名無しの猫より
不自由なstさんへ
 
 」
 
名前を書きなさい。卑怯者め。でなければ、引っ込んでいなさい。
 
シャロームの、白々しい筆致として、挨拶や世辞と、皮肉・当てつけの悪口を、同じコメントに書いてくる特徴があります。
 
「懐かしいですね」と「不自由なstさんへ」にも表れています。褒め言葉は世辞もある、悪口は本音でないと書かない、ということから、悪意の当てつけである後者が本音であることは言うまでもありません。
 
前にも、同じような指摘をしたのに、読んでいないのか、理解できないのか、もはや、シャロームは、くずれた日本語を、隠そうともしなくなりました。
 
シャロームは、楽山と同様に、丁寧語とは裏腹に、常識・良識のない人で、偽キリスト者、反キリストです。引用の形式も、いい加減ですし、結論だけの悪口です。シャロームと楽山は、まともに応答してはいけない人です。
 
シャロームは丁寧語を使うので、批判していた頃、別の人が、私に、"失礼なことを言ってはいけない" とコメントに書いて注意してくることもありました。全く、本音とは別の、世辞や社交の言葉で、だまされている人が、結構いるということです。
 
このような荒らしが、楽山の仲間なのです。同一人物の、キャラを変えた成りすましも疑っています。
 
stさんの楽山さんに対する批判記事を読み
「単純に無条件に元気の出てくる人は」おられるでしょうか?
「単純に無条件に元気の出てくる人は、殆どいないと思います。」
 
元気を与えることが目的ではなく、真実追求の希望を疲労させてくる楽山の記事を批判することが目的です。そんなことも分からないで、言葉で引っ掛けて、いい気になっているのでしょうか。
 
成りすましも疑うほどですから、シャロームの信頼度もゼロです。まともな話し合いなど、通用しない邪悪な偽善者であり、楽山よりもずっと前から、反キリストと判断している人です。
 
stさんに楽山さん批判というライフ・ワークを与えておられる
自由な楽山さんに感謝ですね!
 
誰が感謝するのでしょうか。勝手に「ですね」口調で、押し付けてくる傲慢が、ずっと前からの、シャロームの特徴です。それに、批判がライフワークではありませんし、ライフワークというものを、私は意識してはいません。できることをしているだけです。
 
前から言ってきたのですが、理解力のないシャロームは、同じような世辞~偽善の言葉しか使えないのでしょう。
 
今も元気な名無しの猫より
不自由なstさんへ
 
シャロームが元気であることは、何よりの災いであります。このことは、そのまま、シャロームが、おのれの不自由、空元気、致命的な欠陥、罪、偽善、無反省、厚顔無恥、等々に気づかないでいることを表しています。つまり、病識の欠如なのです。
 
私は、高齢でもあり、いろいろな点で、不自由を、無力を、罪を、意識し自覚し、祈りと反省の日々を送っています。
 
それら一切を持ちえないシャロームという荒らしが、元気でいることは、災いです。
 
このような、偽善者シャロームが、キリスト者、そして、元牧師を自称していましたが、それが嘘であることは、既に明らかになっています。
 
 
キリスト信仰は、キリストの名によって祈るところの、神に対する正直さだけによって、人生の成り行きにかかわらず、父なる神の定めるところの真実において、担保されています。
 
 
その信仰を、真っ向から、裏切り続けているのが、シャロームであり、その仲間が、楽山と易坊です。そして、シャロームと楽山は、性懲りもなく、反キリストぶりを、何度も何度も、あからさまに表してくるのです。反省機能が欠如すると、こうなります。
 
いつまで、どこまで、卑怯者は、吐き気を催すような、汚らしい穴ぐらから吠えてくるのでしょう。決して近づいてはいけません。
 
以下は、シャロームに対するルーチンです。
 
 
《シャロームの背教》
これからも、しばしば載せることになるでしょう。
 
シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って、訂正していない。
悔い改めは必要かと問われて、悔い改めは必要だが、それは、神が与えると言って、その後も、二度三度と同じことを言って、訂正していない。
 
シャロームの2つの発言は、悔い改めなくてもいい、悔い改めは必要、という矛盾を来たしています。さらに、悔い改めなくていい、というのは、キリスト信仰とは、真逆であります。さらに、悔い改めを神が与える、というのは、自分はしなくてもいい、という詭弁です。メチャクチャなのです。
 
悔い改めというのは、やり取りできるようなものでしょうか、否であります。悔い改めは、主語となる本人以外にはできない、というより、本人以外はしないことなのです。与えたりもらったりできるものではありません。シャロームは、それさえ理解せずに、神が与える、神が与える、と言い続けています。
 
さらに、シャロームの言には、さらなる自己矛盾があります。悔い改めていないということは、神は悔い改めを与えていないことになり、キリスト者になっていないということになるのです。
 
悔い改めは、自発的でなければ意味がありません。
悔い改めは、神に対して、正直に罪を告白し祈ることです。
 
すでに、シャロームの信仰が偽物であることは、証明されているのです。
 
シャロームは、神に対して偽っており、神に真摯に正直に祈ったことなど一度もないと思います。
 
神に対して、嘘を吐く者は、人に対しては、さらに白々しい嘘を、平気で吐くのです。
 
シャロームとその信条に、無条件で賛同し、互いにお仲間として、お味方となっているのが、楽山であります。もはや、いかなる反省も、学習も、関係改善も、期待できない二人は、偽善者、反キリスト、反信仰の、手遅れ患者なのでしょう。
 
彼らの書いたものを見ていると、彼らの真実に向けた憎悪(ぞうお)は増悪(ぞうあく)するのだろうと思います。
 
 
(2020年08月06日)
 
 
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  楽山の誘導
 
 真理を語りつくした宗教は存在しないということ
 2020年08月02日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25740063.html
 
 
楽山が、人間を、いかに知らないか、ということが表れています。幼稚なことばかり書いてきて、人の言うことは聞かないのです。誰も、楽山を、批判する以外、相手にしてはいけないと思います。
 
最近、内村鑑三の「宗教座談」で、神は聖書より大きいとしているのを読んで、思わず膝を打ってしまったのだったが、次のツイートを見ると、スピリチュアルな方面でも同じような考え方をあるらしい。
 
神を信じていない楽山が言っています。聖書も曲解している楽山が言っています。膝を打つというのは、感心したときのジェスチャーですが、その根拠が、楽山にはありません。何もかも、自分の妄想と一致するかどうかで判断しているだけだと思います。どこまで思い上がれば気が済むのでしょう。
 
霊界からのメッセージ
@CaIrx4KSwAxAIYO
宗教についての真実を申せば、真理の全てを説いている宗教など有りえないということです。どの宗教も、真理の光のほんの一条しか見ておりません。しかも悲しい哉、その一条の光すら永い年月のうちに歪められ、狂信者によって捏造されております。
 」
ちなみに、自分がこの問題に興味を持ったのは、某宗教の信者と信者の論争を観戦していたときだった。この時、ある信者が「あなたが言っていることは教義にありますか。どこにも説かれていないのではありませんか。そんなものは真理ではなく、あなたの妄想にすぎません」という主旨で相手を批判しており、自分はこれに対して、いやいや教義に無いからといって真理ではないとは限らないだろうと思ったのだった。
 
そもそも、人が、真理の総てを知ることは出来ません。人間の知りうる時空が限られているからであり、人の心ひとつも総て知り得るものではない、ということが分かっているなら、当たり前のことなのです。
 
真理を尽くしたのが完全な宗教などと言う先入観の世迷言で宗教を語ろうというのは、自己愛に慢心した楽山のような自分信仰の狂信者が捏造し吹聴したがっているだけであります。
 
神は全き真理なのでしょう、されど、人は不完全なので、神の真理を知りません。しかし、人が生きるためには、ひとかけらの真実があればよいのです。
 
教義や教理を信仰してしまうと、説教で語られる言葉や聖書の言葉しか使わなくなる可能性があります。これは、神が与えた自由意志に反することなのです。大事なことは、聖書を読んで、何を受けとたかということです。
 
「教義に無いからといって真理ではないとは限らない」と楽山が言うのは、自分が真理だと言いたがる無知で無恥の楽山の言うことを正当化するために他ならず、言い張るためのエネルギーにしたいからに他なりません。
 
楽山の言うことは、まず、知性の常識と情緒の直感的良心に反しています。楽山が、良心と常識を持っていないまま、恣意的に、詭弁で誘導し刷り込もうとすることを、だますために語る言葉を、決して信用しないでください。
 
「教義にないことは、教義ではありません。教義でないものを、教義であるかのように言うのは止めてください。教義と個人的な感想や意見は、きちんと区別して言ってください」と言うならまだ分かる。でも、「教義にないことは真理ではありません。あなたの妄想にすぎません」というのは、ずいぶん、ヘンテコな話なのだ。
 
それ以上に、ヘンテコなのは、教義を知らない楽山が、教義云々を語ることです。妄想かどうかは、それを、もし多くの人が信じたら反社会的にさえなるだろうと推測されることであって、楽山の言っている自己愛と自己中の無反省こそが、それに当てはまります。
 
楽山は、教義も、聖書も、人間の良心に基づくことがないために、少しも理解できていないことが、今までの記事と、過去のコメントから、明らかになってきたのです。
 
信仰というのは、それを与えらる機会を得たときには、そもそもその人に与えられたところの、良き人でありたい、という良心によって判断されてゆきます。最初から、聖書の正しさを先天的に持っているわけではないという自明の理から始まるのであります。
 
したがって、信仰は、人間の良心を促し、人間の悪意を減らしてゆく方向に行くのは言うまでもないことなのです。何か特別の神の啓示でもあって、良心を蹴散らして信仰に向かう、などということは、カルトならあり得ますが、正しい信仰にはあり得ないことです。
 
こういう場面を見ていると、宗教信者は、唯物論者に向かって、「この世がすべてではありません。この世を超えた世界があるのです。そのことを知ってください」と言ったりもするけれども、これは宗教信者にも言えることであって、宗教信者の方も、宗教で説いていることがすべてではなく、宗教を超えた世界があることを知らなければならないのではないかと思う。
 
宗教についての話を含めて、自己愛によってゆがめてしまい、自前の字面の屁理屈しか言えなくなっているのが、楽山です。それは、自己愛と自己中による無反省と訂正不能によって起こっています。楽山ほど、前もって、警戒を要する人は、ガチガチのカルトを除けば、珍しいのです。
 
カルト、および、カルト的な人は、陶酔気分で、誇大妄想を語ることがあります。現実を弁えず、思い込んで信じ込んでいる人は、考えることも、共感することも、自ら止めてしまうことがあり、そのために、現実離れや人間離れを起こしてゆくのでしょう。キリスト教内部においても、この問題は、決して小さいことではないのです。
 
楽山は、今は多くを隠しているようですが、大方、それに当てはまると思います。人心を操作しようと企み、先入観のように吹き込み、平気で嘘を吐き、詭弁を弄する、という今までの経過に表れています。楽山は、現実を考えることが出来ず、人間に共感することが出来ないのです。
 
宗教にハマってしまうと、宗教で説かれていることこそが真理であって、それに反することや、説かれていないことについては真理ではないという短絡的な思考に陥ってしまうこともあるが、ここはぜひとも注意したいところである。
 
自分信仰の自己愛に嵌ってしまうと、他者の意見を無視して、反省をしなくなるので、学習と成長がなくなります。楽山がしているような、自分に都合の良いことばかりを漁って積み重ねることは学習でも成長でもありません。
 
一方では、他者の意見や思想や宗教を侮辱し、あるいは、軽く見なして、何を言われても無視して、悪に悪を、欺瞞に欺瞞を、偽善に偽善を、悔いることもなく、重ねてゆくようになります。
 
一年以上批判してきて、楽山の言から、何らかの納得を得られたことは、一度もありません。だまし誘導する意図だけが、気色悪く伝わってきます。
 
あまりに酷い記事が続くので、最近ですが、楽山批判の記事のタイトルにも「楽山の・・」というように、"楽山" という名前を出して、責任者が誰かを明示するようにしています。
 
しかし、それが分かるのは、ある程度、批判者が詭弁と誘導について学習している場合であって、カルトや誘導に対する免疫や抵抗力や批判力に自信が無くて影響を受けやすい人は、楽山の言うことに対しては、決して相手にしない、という方針のほうがよいと思います。
 
楽山に関わって、良いことは何もないと思います。影響を受けてしまうと、知性も感性も鈍くなり、楽山と同じように他者を無視するようになり、自分の言いたいことだけをアワアワと繰り返すようになるでしょう。楽山のボンヤリ言語やトホホ言語に似た言い逃れをするようになる可能性も大です。
 
人間は、真実の追求を志すならば、修正可能で学習可能な心性を持ち、他者の言ったことも、そのまま受け入れるのではなく、自分の学習経過と結果である知性と感性によって処理して、総ての人が信じたらどうなるかを考えて、生かすか、保留するか、否定命題とするかを、自分で判断してゆく必要があるということです。
 
 
(2020年08月05日)
 
 
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  楽山の泡沫
 
 信と疑のバランスを保つこと
 2020年08月02日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25739941.html
 
 
どんなに説明しても、受け取って考えることをせず、同じことを繰り返すのが、楽山です。ゆえに、その発言は、泡のようにリピートされるだけで、洞察も説得力もなく、根も葉もないものになるばかりです。どんどん気色悪さが増してくる楽山です。
 
真理に対する態度としては、全身全霊で信じるべきときもあれば、疑問を大切にして、探究し続けるべきときもある。そういう意味で、次の言葉は納得できる。
霊界からのメッセージ
@CaIrx4KSwAxAIYO
古くからの教えだから、伝来の慣習だからということだけで古いものを大切にしてはいけません。真理の宝石、いかなる詮索にも、いかなるテストにも、いかにしつこい調査にも耐えうる真理を求めなくてはなりません。
 」
宗教に凝りすぎると、信じることを尊ぶあまりに、疑問を持つこと、考え続けること、調査、実験を繰り返すことなどを軽侮し、否定することさえある。実をいえば、過去には自分もそんな風になってしまったことがあった。でも今にして思うと、これは信に偏りすぎており、あきらかに中道から外れていた。反省。
 
宗教であれ、真実を追求するということは、全身全霊で、疑問を大切にして、探究し続けることであります。楽山は、またしても、宗教に対して、自らの偏見と先入観を刷り込もうとしています。
 
どう調査し、どう実験すると、楽山は言うのでしょうか。本来、宗教と信仰は、つまり、信じるということは、疑問を含めて考え続けることであります。何でもかんでも受け入れて文句を言うな、と言うような宗教?は、カルトと思ってよいのです。
 
また、宗教を支えるのは、キリスト教については、聖書に書いてあることについての、人間としての共感です。楽山の、思考停止が宗教じゃろ、というような、安っぽい悪口の固定したクレームに惑わされないでください。楽山は、どんどん、言うことが、真っ向から反宗教・反信仰の愚かさになっています。
 
楽山は、信仰の、"信" ということを、小学生レベルの字面の意味付けしか持っていないために、もはや、大人の言論になっていません。情ないほどの勉強不足と共感力の欠如によって、もはや、泡をブクブク吹いていることにさえ気づかなくなっています。
 
一見したところでは、信と疑は、正反対であり、二者択一を迫られているようでもあるが、実際はどちらか一方を選ばねばならぬというものではなく、どちらも大切であり、この二つを両輪としてこそ、人は真っ直ぐ進むことが可能になるのだ。
 
信じることは、疑いを考えることでもあります。疑いは必ず生じるものであります。疑いは、克服できることもありますが、全くなくなるというものではありません。楽山の言う宗教は、極めて幼稚で、楽山らしい無理解からの断定と偏見に基づいているので、真に受けないでください。
 
楽山は、分かっていない人の典型みたいなことを言っています。自分を疑うことのできない自己愛性人格障害だからです。それで、反省も学習も成長も出来なくなっているのです。
 
もしどちらか一方の輪を止め、もう一方の輪ばかり回すなら、同じところをぐるぐるまわるばかりで前には進めなくなるし、やがてはコントロールを失い、穴に落ち込んでしまうのがオチだ。信と疑は、どちらか一方を選べばそれでよいというのでなく、要はバランスが大事だ。
 
カルト畑で育った人は、こういう言い方をするのでしょう。しかしながら、こういう言い方こそ、カルトの手法なのです。
 
上に書いたように、人間が何も疑わない、というのは、正常な人間にはあり得ないことなので、むしろ堕落なのです。ですから、楽山の「どちらか一方の輪を止め、もう一方の輪ばかり回すなら」という前提も比喩も間違っています。相変わらず拙劣です。
 
こういうことを平気で言って、読者を引っ掛け、だまして、先入観を植え付けるのが、楽山の生業であります。読者が、自分以下の知性しかないと思って軽く見ているのでしょう。
 
ですから、少なくともキリスト教とキリスト信仰において、信と疑というのは、バランスをとるような性質ではありません。楽山の、宗教に対する汚らしい詭弁に惑わされないでください。
 
楽山は、幼稚な意見のまま大人になって泡を吹いているだけです。信と疑は反対語だからバランスじゃろ、と短絡しているのです。楽山の理路は短絡で出来ています。しかし、人間は、そんなに単純ではありません。
 
話は少し変わるが、自分は、古いものは良いものだとは必ずしも言えないと思うので、古くからの教えだからといって、それを絶対化しようとは思わない。かといって合理主義者でもないので、不合理なものはすべて改廃すべきだとも思わない。経験と理性についても、信と疑と同様に、どちらか一方だけで判断するのでなく、バランスが大事なのだと思う。
 
新興宗教がよいものだとも必ずしも言えないわけです。これも、偏向した楽山の詭弁です。また、人間は、信仰を絶対化することは出来ません。人間は不完全だからです。
 
楽山は、宗教についての自身の浅薄な知識を絶対化しているようです。自分を見ることだけは出来ない楽山です。経験を生かせず、理性を捨てているのが、楽山その人であります。
 
楽山は、根拠のない心霊主義者ですから、言うまでもなく、もちろん合理主義者ではありません。ゆえに、あらゆる理路と情緒において、幼稚であり、ずっと、おかしなことしか言わず、学習による成長が見られません。
 
大事なのは、バランスではなく、反省と学習です。それが出来ないのが、楽山やシャロームのようなカルトなのです。いつまでも、同じ先入観で文句を言って、満悦する者たちです。
 
楽山は、良識を装っているだけなのです。楽山は、真ん中に立っているつもりで、バランス、バランスと、正論を言っているんだというアピールがしたいようですが、楽山が立っているのは、他者も自分も見えなくなっている自己愛と自己中の、自分で拵(こしら)えた狭い檻の中に過ぎません。
 
 
(2020年08月04日)
 
 
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  楽山の心霊主義
 
 組織の奴隷になってはいけないということ
 2020年08月01日 楽山日記(LD) 今回は抜粋です。
 http://mn266z.blog.jp/archives/25731142.html
 
 
楽山の、人間を超えたい欲望である心霊主義が、明らかになっています。証拠といってよいでしょう。楽山には、聖書など、キリストなど、どうでもよいのです。もう、ごまかせないです。聖書と、心霊主義の超常カルトとに、同時に従うことは出来ません。
 
楽山は、人間が嫌で嫌で、超常の心霊に、ワープでもして、一気に、霊的?超人?にでもなりたいのでしょう。考えること、感じることが、苦手で、嫌になった者が、陥りやすいカルトへの誘惑です。
 
心霊現象というものが、全然ないのかどうか、私は知りません。しかし、そこだけに拘泥して、人間性を失うのであれば、それは、カルトの非人間としか言いようがないのです。
 
*組織の奴隷になってはいけないこと
ツイッターで、次のツイートを見た。
霊界からのメッセージ
@CaIrx4KSwAxAIYO
いったん一つの組織に帰属してしまうと、いつしかその組織に呑み込まれてしまい、今度はその組織がその人間をがんじがらめに束縛し始めます。そうなってしまうと(心の奥では信じていない)古いお決まりの教説を繰り返すことによって理性をマヒさせようとしはじめるものです。
午前6:00 · 2020年8月1日
 」
恥ずかしながら自分は、とある新興宗教の信者だったことがあるので、これは耳に痛くもあるし、心に深く染み入る言葉だ。
 
「新興宗教の信者だったことがあるので、これは耳に痛くもあるし、心に深く染み入る」ならば、霊界からのメッセージなるものを、自身のブログの記事にするでしょうか。楽山は、今も、超常カルトの信奉者だということです。
 
組織に縛られる、古いお決まりの教説、これは、人間の限界を表しています。それが、かえって、罪になることもあります。しかし、その問題を、一気に、目新しい言説をもって、飛び越えようとするところに、カルトは生まれてくるのです。
 
そして、自分がそのようなカルト教祖になりたいと、霊が分かるっぽい楽山は、欲望しているからこそ、前の、キリスト教の聖書のヨブ記についての記事から、軽々と、霊界の話に移れるのです。
 
幽霊の正体見たり枯れ尾花、楽山の正体見たり自己顕示。楽山は、霊能者気取り、現実より霊の世界に親和する者。空想非科学、空想非宗教、空想非人間が、楽山の正体。
 
(ネットより)
幽霊(ゆうれい)の正体見たり枯(か)れ尾花(おばな):恐ろしいと思っていると、何でもないものまで恐ろしく見えてくるという意味
https://gimon-sukkiri.jp/yuurei-kareobana/
 
「組織の歯車とはなるな!」「組織の奴隷になってはいけない!」などというのは、誰しも承知していることであり、分かりきったことだろうし、自分もこれは分かっているつもりだった。
でもそれでいながら自分は、とある新興宗教の物語…ノストラダムスが予言した世紀末の天変地異が迫っている、このままでは人類は滅亡しかねない、この危機を乗り越えるために仏陀が地上に降りた、志ある者たちは仏陀の下に集い、救世のために力を合わせるのだ、みなが協力して、この危機を乗り越えるのだ…という物語に飲み込まれてしまったのだった。はじめは救世活動に励んでいる会員たちを、冷ややかに見ていたのだが、そういう人たちと付き合ううちに、朱に染まれば紅くなるように自分もだんだんのめり込んでいってしまった。
 
「みなが協力して、この危機を乗り越えるのだ…という物語」という話に賛同して、どうして、他者を無視できると言うのでしょう。飲み込まれてしまったというのは、楽山の特徴としての、不都合を人のせいにする卑怯な他罰的被害者意識に他ならないのです。
 
楽山は、他者を、自分のための歯車にしたいのでしょう。だから、宗教など、あちこちにすり寄り、半端な知識をもって、分かったことにして、それらを、凌駕したと思いたいのでしょう。地道な努力をしたくない者が走る短絡であり、これこそが、他者を落とし入れて腐らせる罠であります。
 
そして最終的には、仏陀を自称する教祖と教団の都合がよいように動くロボットになってしまった。仮に教祖や教団に疑問を感じることがあっても、「自分の小さな頭で考えたって何が分かるものか。教祖と教団は、自分には分からない先の先を考えた上で判断なさっているのだ、自分はただ信じてついて行くだけだ」という風に自分の頭で考えることを放棄するようになってしまっていた。
 
楽山は、自分の頭と心で、自立して感じたり考えたりすることが出来ません。にもかかわらず、キリスト教を浅薄な屁理屈で批判し否定しようとしてきたのは、恐らく、、血の通った人間的な物の見方を放棄してきたからなのでしょう。その結果が、心霊志向になっているのです。
 
いやはや、「組織の奴隷になるな」という教訓を学ぶためとしては、いささか高い授業料を払ってしまったものである。でもこのおかげで、権威主義だとか、太いものには巻かれろという発想からは、うんと距離を取ることが出来るようになったのはよかった。
 
楽山は、自分の権威主義にだけは気づきもせず、太いものになりたいと今も思い続けて、人を支配して巻き添えにするためにブログを書いているわけですから、呆れた男です。その偏った人格こそが、刷り込みのボンヤリ言語と、同情をひくトホホ言語の悪習によって、人を巻き添えにしようとしてきました。
 
楽山は、それこそ、自分が太いものになって、他者を巻き込みたいだけだと思います。被害から解放されたのではなく、被害者から、加害者に変わってきたのでしょう。
 
*霊界からのメッセージ
この他にも、「霊界からのメッセージ」さんのツイートをいろいろ読んでいて、なぜか懐かしい感じがして不思議だったのだが、プロフィールを読んで納得である。スピリチュアリズムは、自分のルーツであるし、その名言がツイートされているのであれば、郷愁を感じるのも道理である。
 
楽山のルーツは、スピリチュアルではなく、霊が分かるっぽい世界、即ち、超常カルトだと思います。
 
「スピリチュアリズムは、自分のルーツであるし、その名言がツイートされているのであれば、郷愁を感じる」・・証拠といってよいでしょう。楽山は、人間性の深い情緒からではなく、超常の霊の世界に郷愁を感じるそうです。
 
以下は、霊に囚われた楽山という霊媒思考の超常カルトが、尊敬?するお仲間の霊的?心理?を宣伝しています。
 
「霊界からのメッセージ」さんは、固定ツイートで、シルバー・バーチの関連書籍へのリンクを貼っておられる。
霊界からのメッセージ
@CaIrx4KSwAxAIYO
😃お知らせ😃
シルバーバーチは宗教ではありません。霊的真理を説いています。
シルバーバーチの関連本が、「シルバーバーチ読書会・かつしか」さんのホームページ上で無料で公開されています。
⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️
https://kokorodou.p-kit.com/page199127.html
皆さんも霊言をリツイートして霊的真理の普及にご協力を🙇‍♂
午前11:20 · 2019年11月19日
 」
ふと思い出したのだが、随分前に、幸福の科学(HS)に愛想を尽かして退会したあと、シルバー・バーチに回帰し、その思想の普及活動をしたいといっていた方がおられたのだった。その後は宣言通りにHPを作っているのを拝見したが、今も元気でおられるといいな。
・シルバーバーチの霊訓 全十二巻
それにしても全十二巻を公開というのはすごい。これはちょこっとずつ読みたいと思う。スピリチュアルな方面については、しばらく前から遠退いていたのだが、そろそろまた読んでみるべき時期かもしれぬ。
 
霊のメッセージ、霊訓を、霊的真理と呼ぶ人の言を、すごいと言っている楽山です。こういうのを、いわゆる、心霊主義というのでしょう。人間の大切な共感性を無視して、心霊主義の世界から、キリスト教・キリスト信仰・聖書について書かれたのでは、質朴な信徒はたまりません。求道者も、道を誤るでしょう。楽山の非人間的なカルト性が、いかんなく表れています。
 
霊という言葉は、聖霊など、キリスト教でも使われますが、霊的○○といえば、宗教的な特別な何かなんだというような見方は、行き過ぎていると思います。
 
シルバーバーチについて:
(ネットより)
モーリス・バーバネル(Maurice Barbanell、1902年5月3日 - 1981年7月17日)は、イギリスの心霊主義専門新聞『サイキック・ニュース』の編集者。1932年の創刊時から同紙の編集の中心となり、途中で編集権を手放した時期もあったものの、後にこれを回復し、終生同紙の編集に携わった[1][2]。バーバネル自身も霊媒であり、「シルバーバーチ」という霊のメッセージ(霊訓、霊言、霊界通信)を伝えたとされている[3]。交霊は1920年から60年近く続き、広い影響を与えた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%8D%E3%83%AB#%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%81%E3%81%AE%E9%9C%8A%E8%A8%93
 
私の立場から言えば、心霊主義の、霊的メッセージに脅かされて、人間性よりも超常に従って、それを聞けば救われ、聞かなければ滅びるかのような恐怖から、誘惑に乗るくらいなら、人間のまま、死にたいと思います。楽山のような人間性を捨てた者が救われるわけですから、そのような世界に生存することを、私は、激しく嫌悪し、存在する意味がないと判断するからです。
 
楽山は、以上のような人です。そうでない楽山を、楽山は表したことがないというのが根拠です。だから、批判が続いています。自分を人格崩壊から守り、悪影響を受けないためであり、ことの是非を考える人間でありたいからであります。同時に、楽山のような人が、増殖して幅を利かせるようになってほしくないからでもあります。
 
欲望の悪しき誘惑を、根拠のない妄想を、そして、遊び半分の思い付きを、心霊主義と呼んでいる者が、世の中にはいるということです。間違っても、真実の追求や、人間の救済や、キリスト教などの宗教について、楽山が語ることを、真に受けてはいけません。
 
 
(2020年08月03日)
 
 
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  楽山の鈍感
 
 「第七講 ヨブ仲保者を要求す」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年08月01日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25724165.html
 
 
楽山の、腹黒さ、陰険さ、理解力のなさ、読後感想の嘘臭さ、共感のなさ、にもかかかわらず、インテリ気取り、まともに見せかける芝居、ほめ言葉の世辞、など、自己愛と自己中に無反省に生きてきたゆえに起こるところの、総じて鈍感さからの、様々な人間的欠陥と慢心による悪意が表れています。しかも、だんだん増悪してきています。
 
これだけ長く批判されてきて、何も答えられないために、当てつけだけをしてきて、あとは無視する、という、気に入らないことは無視しましょう、というアドラー教を実践して自己愛と自己中に固まっているのが、楽山です。キリスト教には、そのような教えはありません。なのに、キリスト教について書いてくるのです。
 
結局、楽山は、聖書も、真面目には読んでおらず、理解も共感もしておらず、信仰という大きなテーマに、そして、聖書に、しつこく砂粒を投げているだけなのです。楽山は、自分の表現と説得力を全く持たないので、いつもいつも、煩雑さ~迷惑だけを与えてきます。
 
何のためにもならず、参考にもならないのが、楽山の記事の特徴ですが、しかも、大部分が引用元の字面だけで、説明も記事中に引用することもしない不親切な書き方です。楽山が独りで自己満足したいだけだからでしょう。公表せずにいられない自己顕示欲の奴隷であります。
 
第七講を読んだので内容をメモ。
第9章の研究。
ヨブは「真の神を嘲ったのではない、友人の称する所の神を嘲ったのである」「彼らの信ずる如き神を彼は信じ得ないというのである」。
「ヨブ記の中枢はいうまでもなくヨブ自身の言である」。
「懐疑は決して信仰を否定するものではない。大なる懐疑のある所ならずしては大なる信仰の光は現れない」。
 
懐疑は、信仰者も非信仰者もいだくものです。率直な疑問は誰でも持っているでしょう。しかし、楽山が言ってきたのは、率直な疑問ではなく、いちゃもんとしか言えないものです。
 
文句を言って、それで収まらなかったものだから、今度は、歩み寄った姿勢で、自らに向けられた批判を、バカにしているだけなのです。根腐れとは、こういうものを言うのです。この楽山とだけは、議論も話し合いも成り立ちません。代わりに、トラウマのような疲労が残るのです。
 
20-21節の言葉と、コリント前4.4の言葉は「精神を一にする」。
33節で、ヨブは人と神の間の仲保者を求めている。19章25節でも同様。
 
恐らく、内村鑑三の引用を書いているだけでしょう。自らの記事に引用もせず、説明もしないのが、楽山の、疲労を与える病質であります。楽山が、人情の機微を持っていないからでしょう。人の気持ちが分からないのです。
 
 (ヨブ記、口語訳)
9:20
たといわたしは正しくても、
わたしの口はわたしを罪ある者とする。
たといわたしは罪がなくても、
彼はわたしを曲った者とする。
9:21
わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。
わたしは自分の命をいとう。
9:22
皆同一である。それゆえ、わたしは言う、
『彼は罪のない者と、悪しき者とを
共に滅ぼされるのだ』と。
 (ヨブ9:20-22、旧約聖書)
 
ヨブは、自分の正しさを言いたいのでしょうか。罪がないのに曲がった者とされたと言いたいのでしょうか。神が、罪のない自分を滅ぼすと言いたいのでしょうか。
 
神が滅ぼすのは、目的をもって、味方のふりをして、信仰者をおとしめるために記事を書いている偽善者であります。
 
 (コリント人への手紙、口語訳)
4:4
わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。 
4:5
だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。
 (1コリント4:4-5、新約聖書)
 
自分で、神の裁きをしてはいけません。それは、いずれ、神が起こすことです。人は、できることをするのです。それが、悪しき言に対する批判であります。
 
楽山は、主なる神が、隠されたことを明るみに出して裁くこと、すなわち、あらわにして神の力をもって強制的に神の敵を滅ぼすことと、言論にて批判することとの区別さえ出来ていないのです。
 
仲保者について新約では、テモテ前2の5、ヨハネ一の2の1、へブル12の24。
9章2節には「人いかでか神の前に義しかるべけん」とある。義人無し、一人だに無しということ(詩篇14.3、ロマ3.10)。これは「新約の中心問題」。
 
また、楽山は、聖句の引用個所だけを書いて、説明なしです。こちらを疲れさせる自己中の腹黒さなのでしょう。
 
義人はいない、ということは、新約だけではなく、キリスト教とキリスト信仰の中心課題であります。何故なら、罪の性質から、罪の悔い改めの必要性に、つまり、信仰に直結しているからです。
 
「人は罪に生れ罪に育ち罪に歩みて、いかに奮闘努力するも神の前に己を義しくすることは出来ない」。ではどうしたら義となることができるか。救われ得るか。「この難問題は実にヨブ記の九章二節にその源を発したのである」。
「すべてキリスト教の大真理はヨブ記の中に発芽している」。
 
引用するだけで、自分で、何も説明のできない楽山の無知と無恥が、引き続き、表れています。つまり、楽山は、記事を書いて当てつけるのが目的で、自分では何も読み取っていないし、ゆえに、書いていないし、書けないということです。
 
 (ヨブ記、口語訳)9:2
「まことにわたしは、その事の
そのとおりであることを知っている。
しかし人はどうして神の前に正しくありえようか。
 (ヨブ9:2、旧約聖書)
 
神の前に正しい人はいない、義人はいない、ということです。義人ぶっているのは、いい子ぶっているのは、まともなインテリぶっているのは、楽山だけということです。
 
ここではヨブ記と新約聖書の関連を多く指摘している。新約聖書を理解するには旧約聖書の知識が必要だといわれる理由がよく分かる。
 
旧約の成就が、新約で表されているわけですから、関連しているのは、当然なのです。大雑把に言えば、旧約は、神と人の違いを、神の力と業(わざ)の聖句によって示しており、新約は、キリストの、命を惜しまない愛と共感を、その犠牲の悲しみを通して示しています。
 
楽山には、そういう共感の情緒が欠けているために、字面だけで、世辞を言って済ませるしかないのでしょう。前に、キリスト教を、おとしめておきながら、信仰に新約も旧約も必要なことを、今さら、内村鑑三の引用によって、よく分かるなどと、世辞の字面だけを言っています。
 
ヨブは、本音を、神にぶつけています。楽山は、分かったふりをして、ここでだけ、批判をおとしめるために、「よく分かる」と、神に世辞を言っています。神に世辞が通用するでしょうか、否です。
 
神に対しては、正直な祈り以外、通用しません。
 
楽山は、新約聖書も旧約聖書も、本気で読んだことはないと思います。だから、何も分かってなどいないと思います。それを裏付ける証拠ばかりを、滑りに滑った自己愛で、出してきています。神に世辞を言って、それを記事にして、人をだまそうとする、まさに、神と聖書を悪用した詐欺行為です。
 
楽山が、ときに、読者をだまして、自分を受け容れさせようとする台詞は、反省、トホホ、そして、「よく分かる」、言えなくもない、かなあ、ていうか、などがあり、ボンヤリ言語と呼んでいます。何も分かっていないことが明らかなのです。神の前に、いけしゃあしゃあと偽りを言って、楽山は、平気な人なのです。
 
ヨブが神を嘲るかのような発言をしたのは、あくまでも友人の語る神に対してであって、真の神に対してではないというのは、ぜひとも覚えておきたい。
 
いいえ、ヨブは、神に訴えているのです。楽山の、きれいごとの辻褄合わせに、だまされないでください。ヨブ自身が、どうして、友人の語る神に対して語る必然があるでしょうか。ヨブは、ひたすら、友人の忠告の浅さのために、ひたすら、神、その御方に、訴えています。楽山の聖書理解は、嘘っぱちです。
 
巷では、神についての議論の際に、相手の語る神について意見をすると、「神を冒涜した」「不信仰だ」と怒られることがある。相手の語る神について意見を述べただけで、真の神についてあれこれ言ったわけではないのに、そういう結果になってしまったりする。そんな風に怒る人は、「私は真の神を知り、語っている。これに受け入れないのは、真の神を受け入れないことだ」と思い込んでしまっているのだろう。自分はそうならないように注意したい。
 
楽山は、ここで、本性を表して、自分に都合の良いように、こちらに当てつけてきます。ここが、楽山の意地の悪さです。そして、さらに、楽山は、自分はそうならないように注意したい、と侮辱しています。
 
こういう言葉を見るたびに、楽山の性根に吐き気を催します。既に、楽山は、最悪なのです。楽山の心の中に、神はいません。批判者よりも、オレが上だ、と刷り込みたいだけなのです。
 
世の中には、腹まで黒く、骨の髄まで、腐った者がいるということです。そういう者は、インテリぶって、知性で語っているように振る舞いますが、下種の根性は、その拙劣な理路の中に、表れてくるのです。
 
私が、たとえ、楽山批判のために、おかしくなっても、決して、楽山に近づかないでください。楽山は、怨念を嘲笑いに変えて、芝居と詭弁によって、仲間を作ろうとしているのです。
 
楽山は、神について、神がいるならなぜ悪があるのか、など、あれこれ言ってきました。それは、中学生レベルの低次元の不平不満ですが、こちらの説明など見ることもなく、自説の延長で、神とは何かを得々と語って、結局は、キリスト信仰を否定したいのだと思います。
 
強く言いたいのは、非信仰者が、神について、正直な疑問を呈するのと、楽山の企みは全く違うということです。ここでだけ、楽山は殊勝な求道者の芝居をしています。
 
楽山は、発言の軸を持っておらず、自己顕示欲だけで書いて満悦する人です。楽山は、自らの不埒(ふらち)なふるまいに責任を負いません。こちらが、それに、いちいち合わせていると、作業が煩雑になり、惑わされて、疲れて、気が狂って、死んでしまうでしょう。そういうのが、楽山の与える害なのです。
 
ですから、言論には、軸が必要です。それは、私にとっては、言うまでもなく、キリスト信仰でありますが、義人はいないのだから、成り行きは、神にお任せして、そこで言論し、尽きてゆくことになるでしょう。
 
一方、軸を持たないまま、無礼、侮辱、当てつけ、皮肉、思い込み、先入観、無視、不感不応、鈍麻、軽口、嘘、詭弁、世辞、など、矛盾と的外れで溢れてくる不祥事が、楽山の言説なのです。
 
また書いておきますが、楽山は、偽善者シャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条に賛同しました。これは、キリスト教ではない、むしろ正反対です。
 
現代でも、いや、現代であるから、なおさら、道に迷い、救いを求める人は多いと思います。何も気にしなくていい、という宗教に、救いの要素があるでしょうか、否です。
 
つまり、楽山とシャロームのキリスト教は、キリスト教を、無価値と見なして、おちょくっているに過ぎません。その根底には、宗教というものに意味など認めようとしない執拗な嫌悪と敵意が込められているのでしょう。
 
ですから、楽山とシャロームは、キリスト教は、何も気にしなくていい、何をしてもいい、どうでもいい、つまり、何も信じなくていい宗教だという見なしです。著しい的外れです。
 
だから、シャロームと同様、楽山は、キリスト教を知ってなどおらず、ネタにしただけの、偽善者の仲間でしかないのです。総ての楽山の言は、笑いながら、人をだますための、嘘、詭弁、そして、ごまかしの類だということ以外、考えられないのです。
 
楽山は、中立、中庸、偏りのないバランス、などを気取って、ああでもないこうでもないと、結局、要領を得ない怠慢な不注意と、思慮と情緒の鈍麻に陥っているようです。
 
人間には完全な中立などあり得ない、という自覚が、楽山には、まるで、見られません。しかし、楽山自身は、中立の立場に達し得ているという原始的ない思い込みの自覚に嵌っているようです。この辺は、自己愛性人格障害の症状なのでしょう。
 
現代の偽善者は、聖書のパリサイ人のような明確な悪と偽善ではなく、柔和と中庸の見かけを装った、心なきケダモノです。人格と人間性を大事にするなら、それこそ、彼らを、有志をもって批判を浴びせながら、実生活においては、完全に無視することで、孤立させる以外にないのです。
 
楽山とシャロームには、さらに仲間がいると思います。彼らは、徹底して、宗教の価値を、おとしめる者たち、信仰を無にしたい者たち、つまり、極めて、丁寧に侮辱してくる、現代であるがゆえに、最も厄介な、愛と自由に対する迫害者、それこそ、キリスト者の立場からは人類の敵と言うしかないのです。
 
一方、巷では、いたるところに、一見、丁寧だが、結局は、話を聞いていなかったり、鈍感で、自己中で、訂正不能でありながら、ぼんやりしていて、教えられたことだけを真似して、それ以上を考えず、感受性というものが抜けてしまったような、目先の趣味にだけ生きているような類型を見ることがあります。
 
そういった風潮の中に、カルト的な自己中の影響~風潮とでも言うべき安易さが増えて、あたかも蔓延しているのではないかと感じることがあります。人間関係が希薄になるだけでなく、今まで以上に、思慮と情緒が、特に情熱の明瞭さが、鈍く壊されてゆくような感じをいだくことがあります。
 
その場合、人間に関わっているというより、書類を見ているような、情緒の薄い対象との関係になっているのかもしれません。私が、しばしば使う言葉としては、温もりと潤いのなくなる症状です。そこに、自己中、自己愛、病的ナルシスト、さらには、サイコパス傾向があるのかもしれません。
 
クールなのではなく、一見クールに見えるところの、コールドであり、うすぼんやりとして緩徐に進行する、意識されないトラウマのようなものかもしれません。したがって、その根底には、氷かドライアイスのような冷たさと無関心があることになります。このことは、まだ、傾向であり、まとまった言説にまでは至っていません。
 
ただ、その一部に、楽山とシャロームのような、ある種の自己中・自己愛のカルトの働きがあるならば、それらカルトが、天命の裁きによって運ばれ、衰退し、滅亡に至って消え去る時まで、巻き添えにならないために、決して関わることのないように、近づかないように、お願いいたします。拝。
 
 
(2020年08月02日)
 
 
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