ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。サポートに問い合わせて、ようやくコメントボタンが付けられました。ソーシャルボタンは、コメント欄の上に表示されることも知りませんでした。

 
  神と人と言葉
 
 
私が、理路という言葉を使い、論理という言葉をあまり使わない理由については、前にも述べたことがあると思います。論理という言葉が、いかにも理屈だけという印象があるからです。
 
数学や物理学なら、理屈だけでよいのかもしれません。情の入る余地はないからです。
 
しかし、信仰と人間について書くときには、人間の心や共感という人間性を抜きには語れないので、論理という言葉を避けています。理路という言葉で、表せているかどうかも疑問ではありますが。
 
 
信仰において、理路が必要となるのは、私の考える信仰が、人間の心や共感性を抜きにしては語れないからであります。
 
信仰が、何でも叶えられるようなご利益信仰や、超常の心性の仕組みを真理として前提とするカルトなどは、人間性については、むしろ邪魔なのでしょう。
 
ある凶悪な偽キリスト教のカルトは、私の信仰を、人間信仰だと揶揄しました。しかし、人間一般や特定の人間を絶対正義として崇めるなど出来ないのは明らかですし、人間に理解できる神?を信じるというのもまた、人間の思想を信仰するというカルトであります。
 
以前、その凶悪な偽キリスト教のカルトは、また、人間の心の、どこを探しても信仰はないと言いました。恐らく、聖書に書いてあり信仰を受け取るための "土の器" なるものが、心とは違ったところにあると言いたいのでしょう。
 
このように、カルトは、理解も出来ないところの超常を、自ら捏造して特別に見せかけるのが大好きです。ついでに、自分も特別だと言いたいのでしょう。
 
心で信仰を受け取らなくて、どこで受け取るのでしょう。心以外の別のもので受け取るというのは、明らかな空想の捏造であります。カルトは、自分は人とは違うというところを見せたがります。
 
信仰は、良心を持つところ、即ち、心で受け取るしかありません。
 
そして、人間は、神に比べて、不完全な存在である、ということが、人間に理解できるところの真実なのです。それを、前提として、話を進めなければいけません。不完全な存在である人間に、完全なる神を理解することは不可能であります。
 
 
人間は、なぜ、神を必要とし、神を信じるようになるのでしょう。それは、完全の神が理解できるからなどという、カルトが言いそうな理由ではありません。
 
人間は、生きていて、必ずと言ってよいほど、苦難に遭遇します。その苦難を、自分で克服できるとは限りません。そこで悩んでいるばかりでは、生きることが苦しくなるばかり、ということがあるわけです。
 
そういう時に、人間を、ほいほいと救ってくれる神?でははなく、祈祷だけによってご利益をくれる神?でもなく、都合の良いことが起こるかどうか分からないことを、生きる縁(よすが)として頼みにすることは出来ません。
 
思案の末に、はっきりと分からなくても、人間の世界を、大きく包み込むような神聖なる御方を、恐らく、古代の宗教発祥の時代に、考えないではおれない人々がいたのではないかと思います。
 
彼ら思慮深い人々は、そのような完全な存在を思い、そういう御方でなければ救えないほどの大きな苦難に遭った人々なのだろうと思います。その神のもとで忍耐することに救いを求めるしかなかったのだろうと思います。
 
つまり、神を思う人々は、どうしようもない苦難に対して、全知全能の神、たとえ、今は、背後にいて、よく見えない存在だとしても、そういう神が存在するのでなければ、生きられない、というほどの実感があったのだろうと思います。
 
言い換えれば、神?が完全だと分かるから信じる、というのはカルトであり、人を救える神ではない、ということです。そういう神?を信じようとする向きは、大方、自己中心で自己顕示欲の強い者たちだろうと思います。
 
神を思う思慮深い人々の願いは、たとえ自分が苦難のうちに死に絶えても、残してゆく家族や次の世代に希望をつなぎたい、という切実な思いもあったかもしれません。だから、キリストも、預言者も、世々の聖徒たちも、迫害によって死ぬことを辞さなかったのかもしれません。
 
即ち、神がいるから、神が分かるから、ちょうどよくて信じるのではなく、信仰者は、信仰や宗教よりも先に、苦難に耐えがたい悲しみをいだくゆえに、最後の希望を、神に託す人々であります。
 
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、私たちは、人の言葉で表された聖書を、人の頭の理路と心の共感力で受け取るしかありません。そこには、人間の不完全性によるリスクが伴います。
 
聖霊の導きによって、神の言葉が分かるなどと言う人には注意してください。聖霊という神格が降りているかどうか、分かるような能力は人にはないのです。
 
そういう隙間のような欲求に、入ってくるのは、悪魔の誘惑、自らの超常願望、あるいは、有頂天の陶酔気分、そして、カルトの悪意、といったものだけなのです。
 
言葉は、伝達のための暗号です。そして、一つの言葉が、必ずしも、いつも、一つの心の動きに対応するとは限りません。数学や物理学と違って、心は揺れ動くものです。経験によっても変わるものです。
 
また、人によっても、異なるものです。心の動きは、感じることはあっても、どう動いているか、はっきりモニターできるものではありません。信仰を伝えるにあたっては、そういう人間の心の不完全と不安定を弁えておく必要があります。
 
あるとき感動を覚えた対象に、次の時にも、同じ感動を覚えるとは限らず、むしろ、感動したという記憶を想起するだけのこともあるかもしれません。それほど、言葉と心の関係は、不安定で流動的なものです。
 
ただ、後になって、あれは、あのとき、あの聖句を読んでいたのは神の導きであったのかもしれない、あの成り行きは神の導きであったかもしれない、ということを思ったり感じたりすることはあるでしょう。私たち人間に許されるのは、そういう推測にとどまるべきなのです。
 
 
したがって、信仰を伝えるときに、同じ言葉を言って、同じ伝道が出来たと思うことは、人に対しても、神に対しても、不遜なことであります。また、ここでも、聖霊の導きが、神の恵みが、などと決めつけないようにしてください。人間は不完全だから、伝わらないことはあるのです。
 
もちろん、伝えるということは、信仰については、どんなに努力しても易しいことではなく、どう努力すればよいのか、とさえ思ってしまうものです。信仰は、聖書の言葉は、神聖の導きは、それを分かって不動にするためではなく、また、決して生命保険のような保証でもなく、悲しむ心を癒やし、努めることをやめない忍耐力のためにあることが多いと思います。
 
何よりも、福音伝道を支えるのは、聖書から受け取るところの、キリストの愛であり、キリストへの愛であります。そこが、キリスト信仰の中心であり、つまるところ、総てであるかもしれません。
 
 
※ ぼやき:
 
言葉だけ丁寧で、書類と話してるみたいで、ペラペラペラペラペラ、温もりも潤いもなくて、反応も単調で、鬱とか病歴とか個人のこと話しても、水害と天気とか話しても、言っただけ損した気分になるだけで、自分の都合しか言わないし、言葉だけ丁寧野郎で、何日までとか、脅迫めいた文言を、同じ口調で言ってくるし、甘えるなとか煩わしいとか思っていそうな、それで仕事してるつもりの、手続き的な事務連絡か、録音見本みたいな、しかも、早く済ませたい感じの早口で、ペラペラペラペラ、言葉だけ丁寧野郎の、結論を急がせる台詞だけで、露骨に責めてくる人より、気分を滅入らせる、遥かに鬱の増悪因子の、そういう人と、私は話したくない。
 
雨にも負ける、風にも負ける、・・
 
「殴られるより悪いことがある」
  ・・三島由紀夫原作映画「午後の曳航」の中の台詞の字幕。
 
 
(2020年7月11日)
 
 
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  楽山の寒い霊?
 
 『霊の研究 人生の探究』本山博、渡部昇一著
 2020年07月08日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25440976.html
 
 
楽山は、しばらく黙っていたようですが、欲望に負けたのか、意地なのか、妄想なのか、症状なのか、また、書いてきました。何を書いても、生命力のない、ボンヤリ言語の、ああでもない、こうでもない、という筆致で、無明から惑わそうとしてくるだけです。
 
*全体の感想
霊能はないという渡部昇一が、霊能があるという本山博にさまざまな質問をして話を聞くという体裁の本である。しばらく前に通読したことがあるが、例のごとく、内容はほとんど忘れてしまったので、また読み返してみた。
まず全体の流れについて述べると、序盤の渡部昇一は聞き手にまわり、自分の意見はほとんど言わない。本山博が神と仏の区別はないとしている場面では、疑問を述べるかと思ったが、そうはせずに聞き流している。
 
ここでいう神と仏の、神は、神道なのか、キリストなのかは、次の段落で明らかになります。神は、キリスト教の神のようです。
 
神と仏の区別は、人間には分かりません。キリスト教の神を信じる人は、仏については表面的な概念より深くは知らないわけです。これは逆も言えるでしょう。楽山は、また、出来の悪い書類のような字面の理解?を書いています。どこまでも見栄だけは張り続ける男のようです。
 
ただ中盤以降になると、自身の意見も積極的に話すようになり、神と仏の区別について、氏の読者であれば知っているだろう“あの話”を披露している。またキリスト教伝来前のゲルマン人は、死後、人の魂は海に行くと信じていたという話のところでは、若干激しいやり取りになっている。ここは迫力がある。これ以降はどちらも率直に意見を述べているようで、有意義な対話になっていると思う。
 
人の魂が海に行く、というだけでは、どういう状況の何のことか分かりませんが、楽山は平気なようです。楽山は、言葉の薄い概念上を滑ることしかできないからです。したがって、楽山に対話の意義も分かる道理がないのです。
 
しかし、いつものように、楽山は、有意義な対話とだけ書いて、満悦しているのです。自分だけの満悦を書いて、意味があるでしょうか。上からジャッジだけをするような審判みたいな筆致では、読書感想文にもなっていません。
 
楽山の読書は、邪悪な郵便受けのようなものです。郵便を入れる所はありますが、入れると、積み重なり、厚さを増すだけで、読まれることはない、つまり、放置され、まとめて捨てられるだけの、煩雑なチラシのようなものになってしまいます。工夫もなく、面白みもない、チラシ、それが、発表することだけは止まない楽山日記なのです。
 
そういう記事の今まで重なってきた分厚さを、楽山は、記事に書いて、独りで満悦し、読書家気取り、霊能者気取り、学者?気取りとなる人なのです。しかも、そこから、キリスト信仰を、おとしめて安物扱いしてくるのだから、決して看過できるわけはないのです。
 
楽山は、本を、ただ、食べて、腹を膨らませて満足するだけの、ヤギのようなものでもあるでしょう。何を食べたかという中身など、全く吟味することもなく、ウメェェと、自分の都合だけを通して、わけもわからず排泄してきます。残るのは、中毒性の下痢でなければ、根拠のない満腹感~膨満感だけなのです。
 
楽山にとって、味わえないようなときは、もちろん説明できないので、世辞のように、有意義、と書いて終わりです。つまり、最初から、自己顕示の食欲~貪欲~貪食だけであり、伝える意志も意欲も思考も感性もないと思います。
 
*霊界観
本山博の霊界観についてはスピリチュアリズムの影響が濃いようだ。霊界の下層では、神と仏の違いなど宗教の違いが問題となっても、上層に行くほどそういう問題はなくなるというのも、スピリチュアリズム的だ。霊言では、霊媒の声ではなく、霊人が肉体を持っていた頃の声に変わるともしている。これはよく聞く話であるが、霊言の真偽を見分けるためのもっとも簡便な基準だろうと思う。
 
それで、楽山は、読者に、分かってもらおうとか、共感とか、そういうものを全く必要としていません。ならば、書かなければ、無駄がなくてよいのですが、自己顕示欲だけは、依然として、底無し沼のように深いのです。
 
霊が分かるっぽい霊能者気取りの楽山は、説明のつかないことも、"君らは分からないだろうけど、自分は分かっている、自分は教祖格だからね"、とでも言いたがっているような書き方をしてきます。
 
ゆえに、霊言の真偽を見分ける、などという自意識を平気で書いてこれるのです。そういう気取りは、だんだん隠さなくなったようです。
 
類魂のような考え方も述べている。自分はこれは苦手であるが、コップの水を大海にそそげば、再びコップに入っていた水を取り出すことはできなくなるが、だからといってコップに入っていた水がなくなったわけではないというたとえであれば、その理屈自体は分からなくもない。
 
ボンヤリ言語の言い回しで、分からなくもない、と楽山が言っているのは、コップ、水、大海、という言葉を使った比喩だけです。この比喩ではなく、この比喩が指し示すものには、共感や共有の要素がありません。しかし、楽山は、説明した気分になるのでしょう。
 
内容説明のない、値札と広告だけの、霊のバーゲンを、毎回のように、書いて満悦するだけの男に、分かち合える何があると言うのでしょう。実に、人の迷惑を考えない楽山です。だんだん、目を覆いたくなるような壊れた言語になってゆくのかもしれません。
 
霊界の話などについては、ある人の話が、他の人の話と共通項が多いことをもってそれが真実である証拠だとする主張もあれば、それは単に一方がもう一方の話を知り影響を受けたか、双方の話はともにある一つの話から影響を受けたというだけのことだろうという主張もある。
 
インチキの典型のような話です。霊界、共通項が多い、真実である証拠、影響を受けた、これらの言葉の中で、霊界は前提であり、あとは不可解な辻褄みたいなことを書いているつもりだけです。
 
いずれにも、根拠がありません。それなしでは生きられないほどの必要性も、まるで書いてありません。記事の進め方に、全く必然性が表されていません。
 
本山博とスピリチュアリズムの関係についてはどう解釈すべきか思案のしどころではあるが、自分の見立てでは正直言って後者の可能性が前者のそれより高いように思う。氏の話に限らず、霊界話というものは大方はそういうものだろう。さて、真相はいかに?
 
霊界の話を、まるで普通に存在しているものについての話のように語る楽山ですが、実際には、楽山の頭の中でだけ、つまりこれは、楽山の思い込みの中だけで語っているわけです。
 
読者と共有できるような説明が、全然、為されていません。いったい、楽山は、どういう種類の記事を書いたつもりなのでしょう。何を主張したいのか、何を受け取ればいいのか、何かを共有できるのかどうか、まるで不明です。批判以前の問題になっています。
 
それで、どっちだ、後者だろう、みたいなことが語れると思っている楽山の話の中の、前者も後者も、いくら当たり前のように語っても、ピントが、読む側と全く合っていないまま、独善的に得々と語っている自分納得の奇妙~不可解なスピリチュアル以前のガラクタ話になっています。
 
しかも、その語り口だけで、満悦して、霊界話はそういうものだろうと万人の共通の話題であるかのように、真相はいかに?などと、興味津々に見せかけています。何を考えて記事を書き、何を期待して記事を公開しているのでしょう。
 
楽山に共感できる人がいないことのほうが妥当であり、むしろ共感できたら、頭の構造はどうなっているの?、おかしいだろう、という方向に、逆に、頷ける記事になってしまっているのです。楽山の単方向の独り言~独り芝居は、今も続いているようです。
 
以上、書いてきたことより、楽山には、思案というものはないのだろうと思います。説明のない前提があって、あとは、その場その場で取り繕ったような辻褄めいたものを当てているだけで、それ以外の、説得力の必要なところが、全然、表れていないのです。
 
これは、書くことに、自慢以上の目的がないことを示しています。
 
楽山というインチキワールドで、得々と霊界が分かる楽山自身を前提にされて付き合わされては堪(たま)らない、という記事です。どうか、間違っても、批判的な目以外で、関わることのないように願います。
 
しつこく、丁寧語で書いてゆけば、誰かが、読んでくれて、頷いてくれて、だまされてくれるだろう、という企みの意図なのでしょう。そこからは、楽山教?へのマインドコントロールと脅迫でも待っているのでしょうか。そういう、浅ましい楽山の、哀れな犠牲者にだけは、決してならないでください。
 
 
(2020年07月10日、同日一部修正)
 
 
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  非合理と合理
 
 
人にとって神は
そして信仰は元々非合理である。
人の理解と把握には限界があるからだ。
 
神の合理を人は理解できない。
 
人知は
神を信じる信仰という非合理と
人の合理を区別するために与えられている。
 
恐ろしいのは
信仰という非合理を
人の合理に結びつけることだ。
 
非合理について
人の合理で確信しうることは何もないのに
非合理が合理に
神の思いが人の思いに
合一すると思い込むところから
神の名のもとに信仰は変質して
訂正不能の確信?に堕ちてゆく。
 
人の信仰という非合理の自覚は
祈りをもたらし
それを必要とする人を救いうるが
 
人の確信という合理化された非合理は
人を、いわれなき罪と報いに定める。
 
 
(2019年06月01日、修正)
 
 
  器
 
信仰に必要なのは
復興ではなく改革である。
 
大昔のような
一途なだけの信仰の復興というのではなく
原初の信仰として
人間を弁える信仰への改革である。
 
信仰を、人知によって語りうるものだけを受け取り
人知によって語れないことを神に任せる人の器への改革であり
 
それは解釈信仰や奇跡信仰や史実信仰などの
人知によって神を語る人知信仰からの脱却である。
 
人知を超えることが出来ない人間は
生きている間は神を仰ぐのであって
人の意志を
絶対の神の意志と一致させることは出来ない
ということを知ることが信仰である。
 
信仰の成長とは
決めつけを避けて成長を期し
神へ祈ることを知る「人に帰る」ことである。
人間の温もりと潤いを失いかけた心に
人間らしさを
神の支配の意識によって
キリストの愛によって取り戻すのが信仰である。
 
 さもなければ
 信仰に熱心であればあるほど
 信じれば信じるほど
 人の器は
 土の器?から神の器を目指すことになり
 土の器に秘められた人の信仰は
 神の器に背くだろう
 そして人知信仰が破壊してゆくのは
 そういう土の器?すなわち人の思いこみ信仰に他ならないのである
 
善き信仰は
自らの土の器とその中身を
神によって鍛えられ
神のもとで育てられることを喜ぶだろう。
 
 
(2011年12月02日、また同日若干修正、失礼)
(2019年06月01日、修正)
 
(2020年07月09日、修正再録)
 
 
近況:
テレビの放送の「命の助かる可能性の高いほうに移ってください」みたいな言い方が、何となく縁起でもないような気がしていましたが、被害のニュースや映像が増えてゆくと、さすがに、災害においては、そういうことを考えるのが、いちばん大事なんだと思うようになってきました。今のところ、うちに被害はありませんが、報道では、長崎県も避難した人は少なくないようです。
(7月8日午後11時20分現在)
 
 
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  理由
 
 
私は、宗教と信仰を、自分が、生きられるか生きられないか、という考え方をするしかない人です。上手く生きるかどうかは、二の次です。ご利益などは、私の思いにおいては、圏外です。
 
しかし、巷の宗教、特にカルトの話を聞くと、上手に生きる、楽しく生きる、完全になる、何らかの利益を得る、満足する、というものばかりのようです。
 
上手には生きられません、楽しいばかりではありません、人間は不完全です、ご利益など、満足など、無理です、というふうにしか見えないのが、私が見る世界です。自分の心を見れば、悔いることや、嫌なことのほうが、より多く、思い出されるからです。内にも外にも。
 
それを耐えて生きるには、生き甲斐というより、むしろ、生きる理由が必要です。なぜ、悲しかったり苦しかったりの人生を、生きることに耐えなければいけないのでしょうと、仰ぐところに、私の場合、神、そして、キリストがいる、という成り行きであります。
 
そのことを無視することは出来ません。そこに、現実と、信仰の、交差点があります。
 
 
近況:
 
7月6日(月)に、入院している母が退院してからの施設の相談を、ケースワーカーと相談して、候補としての老健施設に行ってするはずでした。しかし、朝、洪水注意報が出ていて、約40年前の長崎の大水害のことも思って恐れたのか、私は、洪水警報と勘違いして、老健施設に電話をかけて、「警報出てるから、止めときます」、と言ってキャンセルしてしまいました。
 
ところが、その6日の夕方から夜にかけて、洪水特別警報が出て、テレビやネットで、予報や雲の図などを見て、雨も激しくなって、被害のニュースもあったりで、うちはマンションの4階だし住んでる近くに氾濫が起きたわけではないですけど、老健施設へ相談に行くことを止めて、ほぼ正解だったかと思いました。
 
確か約40年前の長崎の水害も、そんな感じで、あっと言う間に川が氾濫したような話でした。私は、当時、私は、熊本で初期研修中でしたが、病院から医療支援しようということになり、暇なのが私しかいないということで、長崎の現地へ、雨が上がった後の被災地へ行ったことがあります。川の中に家があって、それは流された家で、川と川でないところの境界が土砂で分かりにくくなっていた、という記憶があります。
 
熊本の球磨川などの被害の映像を見ると同じように思うのですが、長崎は、さらに、山が多く、平地の少ない県です。雨が、平地と山に降れば、山の雨水は、加速して、平地にくだり、平地の雨水と合わさって、水位を短時間で高くすることがあるわけです。
 
それと関係あるかどうかは分かりませんが、熊本のほうだったか、ニュースでは、僅か20分ほどで、車の走っていた道路が、車が流されていて、川みたいになっている映像がありました。
 
自然を甘く見てはいけないと思いました。7月7日(火)午後11時現在。
 
 
(2020年07月8日)
 
 
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  政教分離について
    ・・信仰者の立場から
 
政治と
宗教さらには信仰は
別に考えるべきです。
 
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」
という聖句もあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
イエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
 (マタイ22:21より、新約聖書)
 
神はキリストは信仰は正しい。
といっても
信仰によって政治的決定をすることは出来ません。
 
人は不完全なので神の正しさを知りえない
という節操が信仰にはあるからです。
 
政治は国と国民の関わることであり
信仰は、あくまで個人の関わりです。
その違いは弁えなくてはなりません。
 
キリスト教思想も
神に関わることですから
なおさらキリスト教について
人が語ることが絶対的に正しいということはなく
むしろ人がキリスト教だから正しいと思い上がり
政治の知識と視野を無視すればピエロに過ぎません。
 
政治を信仰のようにシンプルに考えることは出来ず
それぞれについて思考と思想と視野を持つことが必要です。
 
政治の思考と思想は、他者と公に向かいます。そのベースに、知性、分析力、説得力が必要です。やさしいことではないと心得るべきです。
 
宗教と信仰の思考と思想は、先ず、自分が癒され救われるために、次に、福音伝道のために、努めることです。そのベースは、人間らしさがあればいいのです。
 
したがって逆に、政治と宗教において、
信仰によって、一方を肯定し、他方を否定するとか
どちらか一方に決めるとかいうことはありません。
 
キリスト者が政治を考え憂えて
さらには政治家になることは
一向に構わないことです。決して禁止ではありません。
聖句はそのことをも示しているように思います。
 
ただ重要な戒めとして
決して自らの主張と思想と政策にキリストの名を冠してはいけません。
 
その政策が正しいかどうか
ご存じなのは
その裁きを下せるのは
神だけだからです。
 
神が人を引き寄せるのであって
人が神を引き寄せるのではありません。
 
信仰は人のものでも
与えるのは神のわざであり
 
政治は与えるも受けるも人のわざであります。
 
 
ここで、もう一つの問題があります。
政治思想も
信仰についての考え方も
一人の人間から出ているならば
その人格と言動において不整合があってはならないということです。
 
つまり、嘘ばかり言っている人間が
政治の虚偽について批判する資格はありません。
 
権威者として振る舞いながら
政治の権威主義を批判する資格はありません。
 
でないと嘘っぱちの言論になってしまうからです。
 
違うテーマだからいいじゃないか
なんてことはありません。
 
同じ一人の人間が
相反するに方向に行くという言論は
どちらかが嘘ということになります。
同時に人間が正反対の二つの方向に行くことはあり得ないからです。
 
権威主義者で人を人とも思わず
いつも上から教える立場に立ち
自己中心で
何か言われても聞かないのに
自己主張だけはする
というのは明らかな偽善です。
 
そのような偽善のあり方は
政治的主張の内容がどうのこうのではなく
 
まず人間として不誠実であり虚偽であることを
人格と密接に結びついているところの
信仰に反する偽善として
誰よりも神によって
信仰の世界で否定されるからです。
そして社会においては人道によって否定されます。
 
 
権威主義で大嘘吐きの偽善者で
指摘されて批判されて弁明の余地がないのに
政治の不正を批判している者たちがいます。
他のブログにも図々しくコメントを書いていました。
 
自分で書けばボロクソ節かボンヤリ言語になって
理路が滅茶苦茶なので
しばしば自分のブログに転載記事を載せることもあります。
 
しかし、それは
盗人が防犯ポスターを貼るようなものです。
 
自分の罪と偽善の問題を棚に上げて
偽善をごまかすために善人ぶっているだけ
という、さらなる欺きにしかなりません。
 
悪と罪は
それを悔いて改めることでしか解決できません。
 
いくら良さそうな他者の意見を載せても
その分、自分の醜さと白々しさが際立つだけです。
偽善が重ねられるだけなのです。
 
罪を認めず
悔い改める気がなくて
ごまかすしかなくなって
反省も罪悪感も羞恥心も病識もない者ほど
虚偽をごまかす虚偽を重ねてゆくのです。
神の前で。
 
 
神への告白をするなら
祈るなら
神に対してだけは
人の精いっぱいの正直によって祈り
故意の嘘、飾り、隠し事、などしないように
本気で努めるのが信仰です。
 
私たち信仰者は
そのような主を知ったのですから。
 
 
(2020年07月07日)
 
 
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