ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  中立芝居2
 
 「第四講 老友エリバズまず語る」2020年06月06日
 (『ヨブ記講演』内村鑑三)
 を改めて批判
 
 
楽山は、キリスト教と神をおとしめ、それを訂正しないまま、今度は、いかにも真面目に努力しているふうを装っています。
 
しかし、今まで書いてきたことを否定せずに、逆方向のことを書くのは、どちらも本気では書いていないことを表します。つまり、自分は中立で何教でも分かっているのですという不変の自尊過大の、虚偽のアピールでしかないのです。だまされてはいけないと思います。
 
人の言うことを受け取って書く、ということが出来ない楽山は、ひたすら聖書や本の中から、自分に都合の良いところを拾って来ては書くのです。唾液を飛ばして、自分を飾っているだけですし、言い逃れをしている見苦しさと同じです。
 
そして、最近の、反省、反省、と言いながら、人の言うことを受け取らずに、書き続ける執拗さにこそ、自己中が、他者を無視して、趣味に合うことだけを漁ってゆく自己崩壊の経過が表れています。反省とは真逆の態度であります。字面だけの反省言葉、真に受けてはいけません。
 
『ヨブ記講演』の第四講を読んだので、忘れぬうちに内容をメモしておきたい。本講の中身は前より一段と濃くなっている。
 
自尊過大のナルシシストに、信仰について、中身が濃いかどうかなど、分かりはしません。見せかけだけの字面読書の一本道は、信仰への侮辱と堕落の片道切符を売りつけることでしかありません。関心がなければ書かなければよいのに、憎しみがあるから、皮肉のように書いてくるのでしょう。
 
・エリパズの言葉は「苦難にある友」への言葉としては「冷酷」である。しかしこれは彼の問題ではなく「当時の神学思想の罪」である。
・「ヨブの苦闘は」「すべての真人の経過する苦闘である」。
 
先ず、エリバズの言葉が冷酷だと言っています。それは、本に書いてある、ということが担保だと言いたげです。エリパズだけでなく、神の意志を、人が代弁することは出来ないということです。大きなテーマとして、ヨブの友人、そして、ヨブ自身の言葉も、今の私たちへの教訓となります。
 
楽山は、その上で、さらに、「神学思想の罪」、「真人の経過する苦闘である」と、引用でしょうか、書いて、ヨブを弁護するように見せかけ、気づかれないように、実際には、楽山自身を弁護しようと言葉を潜ませてゆきます。
 
こういう文脈を、自己中と自己愛で、作ってくるのが、楽山を赦せない根拠になってゆくのです。悪魔性の陰謀が全開と見るべきでしょう。ヨブと私たちにとって、ヨブ記は教訓ですが、神を否定するためにヨブを讃えている楽山こそ、反キリスト・反宗教・反真実であります。
 
・当時の神学思想は「罪を犯し不義を計る者は皆亡び失せ、義しき者は禍その身に及ばずして益す繁栄致富するに至る」というものであるから、悲惨な状況にあるヨブは、何か罪を犯したからそのようになったのだとみなされ、悔い改めを求められる。
 
「罪を犯し不義を計る者は皆亡び失せ、義しき者は禍その身に及ばずして益す繁栄致富するに至る」
・・あまりに一面的です。信仰は、繁栄のためではなく、むしろ、どうしようもない苦難を、神のもとで耐え忍んで生きるためにあります。この取引条件のような言葉は嫌悪されるべきでしょう。
 
楽山にとっては、総ての言葉と存在について、取引、駆け引き、条件法の下卑た筋書きにおいてのみ、正誤を判断するようです。これは、真実を求める心から、かけ離れた無様であります。つまり、楽山には、人間を人間たらしめるところの "心" が欠けているのです。
 
ヨブ記全体を通して、友人はヨブを説得することが出来ず、すなわち、ヨブは、神が顕れるまで、罪を認めずに、自身を不遇を嘆き、自己正当化して、神と議論したいとまで主張を続けます。ここに、ヨブだけでなく、人間の罪の根源が表されている、という重要なヨブ記であります。
 
 (ヨブ記、口語訳)
13:2
あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
13:3
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む。
 (ヨブ13:2-3、旧約聖書)
 
ヨブ記の話というのは、人の無力と、神の絶対を、ヨブの苦境での自己正当化という罪を通して、伝えているのです。神と、人の、絶対的な違いを弁えるためです。
 
神と論ずるなんてことは、決して出来ません。私たちは、人間として、受け取れることを受け取るだけです。全部、過不足なく受け取るということもありません。だから、生涯にわたって、祈り、告白し、悔い改め、反省し、成長することが必要なのです。
 
信仰者のための聖書の読み方としては、楽山のように、史実や字面にこだわって、短絡するのではなく、大小の文脈において、聖書が何を伝えているかを考えることが大切です。楽山は、自己愛性人格障害のために、文字面を負うだけで結論し、詭弁と誘惑しか出来ない人です。
 
楽山は、人に対して、さらに、神に対しても、一段上に立って批評する、という反信仰の立場から、字面だけの同情心を装い、ヨブを無罪にすることで、聖書をけがし、神をけがし、悔い改めたヨブをけがしています。楽山の反信仰全開です。
 
人格の根腐れというのは、何を言っても書いても、態度と姿勢に、既に、表れてきたし、今回も同じことです。どんなに、謙虚芝居をしても、前にも後にも、無反応の不感不応の自己を執拗に表すことで、自己顕示と誘導のための芝居だと、バレてしまうので、いっさいは、無駄なのです。
 
人に無視されるのが嫌で、執拗に書いてきますが、誰よりも、人を無視してきたのは、楽山その人であります。これからも、恐らく、同じでしょう。おぞましいことです。
 
・4.12-21は幽霊物語であり、「ヨブを諭さんとするための技巧なるか」「かかる演劇的態度を以て悩める友を諭さんとするは、真率において欠くる所ありといわねばならぬ」。
(4.12-16について、『旧約聖書 ヨブ記』(岩波文庫、関根正雄訳)の注釈では、「神の言葉を受ける時の心理的状況を述べている。預言書にもこのような具体的叙述は見られない」としている)
 
 (ヨブ記、口語訳)
4:12
さて、わたしに、言葉がひそかに臨んだ、
わたしの耳はそのささやきを聞いた。
4:13
すなわち人の熟睡するころ、
夜の幻によって思い乱れている時、
4:14
恐れがわたしに臨んだので、おののき、
わたしの骨はことごとく震えた。
4:15
時に、霊があって、わたしの顔の前を過ぎたので、
わたしの身の毛はよだった。
4:16
そのものは立ちどまったが、
わたしはその姿を見わけることができなかった。
一つのかたちが、わたしの目の前にあった。
わたしは静かな声を聞いた、
4:17
『人は神の前に正しくありえようか。
人はその造り主の前に清くありえようか。
4:18
見よ、彼はそのしもべをさえ頼みとせず、
その天使をも誤れる者とみなされる。
4:19
まして、泥の家に住む者、
ちりをその基とする者、
しみのようにつぶされる者。
4:20
彼らは朝から夕までの間に打ち砕かれ、
顧みる者もなく、永遠に滅びる。
4:21
もしその天幕の綱が
彼らのうちに取り去られるなら、
ついに悟ることもなく、死にうせるではないか』。
 (ヨブ4:12-21、旧約聖書)
 
夢の啓示でしょうか。人は神の前に正しく清くあり得ないこと、そして、人が、いかに、はかなく、弱いものであるか、という、神と人の決定的な違いが書いてあります。
 
楽山は、これを幽霊物語と書いています。楽山が、霊能者気取りで、原始反応的に、恐ろしく幼稚で、安っぽい解釈として、幽霊物語で済ませていますが、これは、何も読み取っておらず、受け取っていない証拠なのです。
 
史実かどうかは知る由もないですが、真実を受け取るなら、中心となるのは、17節です。人は不完全で罪深く、神の前に正しくも清くもあり得ない、ということです。ヨブは、神の前に、自己正当化することで、神を不当だと言っている、という、傲慢を表しています。
 
・5.2-7は「災禍は悪の結果なりとの思想の一発表である」。
・5.17~以下は「人に挑む艱難を以て罪の結果と見、従ってこれを神よりの懲治と」した。
 
よく分かりませんが、艱難を、逐一、罪の結果と見てしまえば、強迫的となり、試練として受け取って祈り悔い改めに結び付けることは出来ないでしょう。楽山は、まさに、そういう一次元の受け取り方しかできない字面のみの思考であろうと思います。
 
神は、その民を、鍛えるために、艱難によって、試すということですが、実際問題としては、艱難がなぜ降って来るのか、人間は知らされないことが多く、知らないまま、人は、いかなる艱難も、信仰によって耐え忍んでゆく道を学ぶことになるのでしょう。
 
・ヨブ記の物語を現在の教会にあてはめると、ヨブが模範的信者であり、経済的にも社会的にも成功している間は、それは神から祝福されていると解されていても、やがて度重なる不幸にみまわれ零落すると、何か罪を犯したためであろうと推測され、教会の代表者三人…「老牧師エリパズ」「壮年有能の神学者ビルダデ」「少壮有為の実務家ゾパル」がヨブを見舞い、懺悔を勧めるために訪問したという流れになる。
 
このように、キリストも神も聖書も、理解の端緒にすら達していない楽山は、無理解を、自分にではなく、教会に当てはめて、教条主義と決めつけてゆこうという魂胆しか持たず、ゆえに、これからも続くのでしょう。こちらは、楽山という反信仰・反キリストの資料化を進めるだけです。
 
・「罪は災禍の源たることあれど、災禍は悉く罪の結果ではない」。キリスト、パウロなどがその例である。
・苦難の種類は三つ。一つは「罪の結果」であり、二つ目は「懲治(こらしめ)」「愛の笞(むち)」、三つ目は「信仰を試むるために下る苦難」。ヨブの苦難はこの三つ目にあたる。第一章の天国での場面でそれが分かる。しかしエルパズらは一つ目、二つ目について語るばかりである。
・「人が艱難に会したるときは、その艱難を以てその人を審判くべからずその人格を以って艱難を審判くべし」(ブレンチウス)。
 
このような、人為的な、教条的な、言葉だけの分類をされても、これだけでは、なかなか、よく分かるとはいきませんが、人格によって審判されるならば、楽山のことを言っているかのようです。楽山は、いかなる審判にも耐えられないような暴言を、しかも丁寧語で、言ってきました。
 
信仰者の人格、つまり、人間としての信仰をもって、艱難に耐えて乗り越えるべきであって、人は、神の御心を想うことはあっても、審判する立場ではありません。裁く態度は、キリストを殺した偽善者の言動に表れています。
 
判断する人間の能力において、難しいことではありますが、少なくとも、これはこの罪の報いだというような決めつけをしてはいけない、ということとして受け取っておきましょう。
 
つまり、今に始まったことではないところの、楽山の、不感不応の自己愛の自己中心からの、上から見下ろすように神と人を決めつけてることが、いちばん悪い例に当たるでしょう。
 
不幸な状況にある人について、因果応報、自業自得と決めつけることはありがちなことである。宗教を信じている人が、その教義によって人を裁くというのもそう珍しくはない。恥ずかしながら自分にもそういうところがあるのだから情けない。しかもこれは間違いだと自覚していても同じ事を繰り返してしまう。ここはひたすら反省…。
 
「反省…」と言うなら、書かないことです。書いて、自己顕示していることから、楽山は、またしても、上から人を判断し審判し裁いて、読者を欺こうとしている、ということだけが表れるてきます。ちなみに、楽山は、反省という言葉を書きますが、反省の実が一度も表れたことはありません。
 
 
 2020年06月06日
 『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳
 
楽山の高慢が、いたるところに、表れるようになっています。
 
岩波文庫の『旧約聖書 ヨブ記』を読んだ。「ヨブ記」は以前、新共同訳で読んだときは文章が難しすぎて大まかな意味を推測するのがやっとで分かったという気持ちには全然ならなかったのだが、本書は巻末の注釈が充実しているので自分のような基本的な知識に欠ける者でも理解しやすくなっていて有り難い。とはいえ自分にとっては、この注釈も程度が高すぎて難しいのではあるが。
 
楽山は、シャロームと同様、ヨブ記も、聖書も、キリスト教も、キリスト信仰も、神も、キリストも、理解していません。というより、人間としての受け取り方が、まるで出来ていないのです。難しいなどと謙虚芝居をしても、批判を受け取らないまま書いてくるところに、楽山の厚顔が表れています。
 
安楽のお山の大将には、実に、安易に、誰でもなれるのです。他者の意見を無視して、こんなに本を読んだ、難しい、反省、とほほ、と書いて、あざとい芝居をすればよいのですから。ただし、これは、自他の人格の致命的な破壊を伴います。
 
今回「反省」と書いて、「とほほ」とは書いてないようですが、私が無反省と批判したときから、楽山がよく書く文言ではあります。反省するときに、わざとらしい、とほほ・・は、ふつう書かないです。楽山は、反省したことがないから、反省するときの言い方が分からないのでしょう。
 
「反省。とほほ」が、批判されたから書かないけど、相変わらず、反省の文章は、楽山にとって、分からないままです。それで「ひたすら反省」などと、単純に意味を強めていますが、前後の文脈と記事の流れには、何も変化がないのです。
 
気に入らないことを無視しましょう、という、アドラー教の信条を、楽山は前に書いて、実際、人の言うことを聞かず、都合の良いところを漁って本を引用して、読書家気取りを出すところが、まさに、楽山が何を書いても、けちな企みであることが、楽山の筆致を通して明らかになってきたのです。
 
本文全体の感想については、前に読んだ時とは印象が大分変って、ヨブとその友人たちの激しさに圧倒された。前はみな大人しい性格に思ったのだが、今回はヨブの友人たちへの反論や神に向けての言葉の激烈さ、ヨブの友人たちのヨブ批判の無慈悲さには驚かされた。これは多分前は比喩の意味がよく分かっていなかったのが、今回は注釈のおかげでその意味をよりはっきり受け取ることができたためなのだろう。
 
ヨブ記の内容から言って、楽山の「前はみな大人しい性格に思った」という感想は異常です。恐らく、注釈を経ても、楽山が、「その意味をよりはっきり受け取る」ことは出来ないと思います。受け取る器を用意する心が、自己中と自己愛のために、楽山には出来ていないからです。
 
前には、クリスチャン芝居もしたことのある楽山という人は、狼と少年の話のように、嘘を言って、結局、芝居によって嘘偽りを隠そうとしてきます。今回もまた、言いがかりと言い逃れの詭弁と誘導の企みしか出来ないところに、受ける器の病巣が、ますます明らかになるのです。
 
自分は根がどこまでもお目出度い自惚れ屋なので聖書のことは聖書を読めば分かるのであって解説書なんて必要ないと考えてしまったりもするのであるが、こうしてみるとやはり解説書はぜひとも必要だと痛感させられる。
 
楽山は、「自分は根がどこまでもお目出度い自惚れ屋」・・これが弁明になると思っているのでしょうか。自惚れ屋は、自惚れ屋であるあいだ、信仰など語れませんし、語ってはいけないのです。楽山は、自己愛性のために、たとい解説書を読んでも理解に至ることはないだろうと思います。
 
宗教的に読もうとするする場合は、知識的なことに頼らず、霊感によって読むことが大切なのだろうけれども、
 
また、霊が分かるっぽい自分を出したいのでしょうか。楽山には、今まで、霊感も、一般的なインスピレーション的な直観も、一度も、文章に表れたことはありません。汚水のように漏れてくるのは、自慢と気取りと高慢だけなのです。
 
聖書は、ふつうに人間らしい頭の知性と心の感性で読むべきですが、楽山が「霊感によって読む」などという言葉を使うとき、霊が分かるっぽいという霊能者気取りの自覚の楽山には、気色の悪い邪悪な思い込み~妄想しか生まれてはいないでしょう。楽山は、霊どころか、心が分からない人です。
 
歴史的事実に忠実に現実的に読もうとすれば当たり前のことではあるが専門家による研究を無視する事はできないのだと思う。
 
歴史的事実に忠実に現実的に読むのであっても、霊感は必要ありません。特に宗教においては、人間らしい、冷静な、知性と感性があればよいのです。受け取るべきは、史実ではなく、真実であります。楽山は、いちゃもんをつけたいので、専門家の研究を、人を無視して、やたら、ネタにしています。
 
こういうところで、専門家の研究を無視することはできない、などと、専門家の言うことが分かる自分を出してきて、自身の厚顔を表してしまうような、そして、一般を軽く見るような、楽山は、どんなに選り好みの読書を続けても、宗教と信仰の真実を受け取ることはないでしょう。
 
楽山から発せられる、「忠実」「当たり前」は、とても危険です。楽山が、真実を伝えることはないと思います。どうか、だまされないでください。
 
昔こんな奇跡がありました・・で、人は救われません。
また、史実の否定で、救いを否定することは出来ません。
 
信じれば奇跡が起こります・・で、人は救われません。
また、奇跡の否定で、救いを否定することは出来ません。
 
人間にとって、生き方を支える真実として、救いはもたらされます。
 
聖書は、歴史書ではなく、宗教の聖典であります。したがって、楽山のような者が、表面をペロペロ舐めて、あったなかったなどといって、信仰を受け取らないのは、猫に小判、絵に描いた餅、とでも言うべき体質的信仰不感症の雑言に過ぎません。受け取れないのならば、何も言わないことです。
 
 
人を救うのは史実ではなく真実

人を救うのは史実ではなく真実
 
 
(2020年06月07日)
(2021年06月18日、再録+加筆)
 
 
 
  虹色
 
貝殻の内に眠っていた
シャボンに乗って遊んでいた
オイル溜まりに淀んでいた
油膜の表で歪(ゆが)んでいた
テレビの画面にチラついていた
眼の内外で視線を鈍らせた
お空の虹
渡らせてくれと泣いてみるか
 
 
  無表情
 
筋肉という筋肉が
弛緩してしまったのか
硬直してしまったのか
何も語らず
動かない顔は
架空のように
時間と向き合いながら
刻々の侵入も喪失も
隠してしまった
顔の裏側の曲面に
だからきっと血みどろだ
 
 
(90年代か)
 
 
 
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  悪用する楽山
 
 念仏を悪用する善人?
 (『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶著)
 楽山日記(LD) 2021年06月16日
  を批判。
 
楽山は、字面の机上の表面的理解?だけですから、実質が何もないということだけが表れてきます。キリスト教において、そうであり、今度は、仏教において、また、同様です。言ってることと、してきたことが、まるで、整合しない、という病的な人物の日記です。
 
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』を読んでいたら、念仏について書いてあったのでメモしておきたい。
まず念仏には、次の誤解がつきものだったという。
「どんなに悪いことをしても、死ぬ前に念仏を唱えれば阿弥陀さまが救ってくれるんですよね。じゃあ、どんどん悪いことをしちゃいます。よし、おまえら! 偉いお坊さんのお墨付きが出たぜ、ヒャッハー!」
(『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶著、河出書房新社〈河出文庫〉、2018年、p.382)
 」
 
楽山やシャロームの意地悪な笑いじゃあるまいし、念仏を唱えれば何をやってもいい、なんてことは、恐らく浄土宗・浄土真宗の人も考えていないと思います。楽山は、今度は、すさまじい仏教への侮辱です。楽山は、野良犬から、狂犬へと向かっているようです。
 
ヒャッハー!・・は、楽山の笑いでしょう。また、楽山へのブーメランか吹き返しとなっています。いかなる良書も、自分を飾り正当化するためだけの、言葉あさりとなってしまう楽山には、実りなき砂漠の乾燥した痛い風が、返ってくるだけなのです。
 
しかし実際のところ、「そういった誤解をする者は、すべて「(親鸞が言うところの念仏の効能が働きにくい)善人」なのだという。その理由は次による。 
なぜなら、彼らは「他人に迷惑をかけようと、最後に自分だけが救われればよく、それが賢い『うまい生き方』なのだ」という価値観を持っており、その価値観のとおり「自分が正しいと思うこと」をやって満足しているのだから、実際には悪事を働いていようとも彼らは「善人」であり、「他力」の境地にいたることはないのである。
(同上、pp.382-383)
 」
なるほど、悪人正機説でいう悪人は、罪の自覚が強くあり、正しくありたいと願いつつも、それができず、残された道は他力にすがるしかないという心境にある者とすれば、上の念仏を誤解する者は罪の自覚なく、他力にすがることもなく、自分で自分の生き方を決定できると思い込んでいるのだからそれとは正反対である。
 
恐らく、親鸞の言う善人は、善人の自覚だけか、偽善者に近いのではないかと思います。人間が、完全な善の人になることは不可能です。私たち人間は、自分の言動の影響を、果てまで追うことは出来ません。ゆえに、善かれと思って傷つけることがあり、善とは言えないのです。
 
ゆえに、悪人、そして、罪人の自覚は、最低限、必要なのでしょう。その自覚のベースにおいて、キリスト信仰においては、赦しと祈りがあるわけです。それを、全く自覚しないで、無反省と無責任の生き方をしている楽山は、対立軸以外の意味はありません。
 
楽山は「自分で自分の生き方を決定」して、宗教をオモチャにしているのだから、仏教においても、キリスト教においても、正反対のあり方ということです。よりによって正反対の楽山が、他者一般のことを「正反対である」などと言うのは、自分を見ない者の宿命であり、とても、滑稽です。
 
「死ぬ間際に念仏を唱えれば救われるんだったら、それまでは好き勝手にヤリたり放題して生きようぜ」というのは間違いだと感じはしても、どこがどう間違っているかはうまく説明できなかったのだが、この解説を読んでよく合点がいった。いい気分。
とはいえ、この定義でゆけば、自分はまだまだ「善人」の傾向が強く、「悪人」になりきれていないのがつらいところだ。とほほ。
 
楽山は、そういう意味では、"善人" でもなく、罪人より悪質の、偽善者という言葉がぴったりなのです。それで、善が分かったとばかり「いい気分」なのです。自分を人間として俎上に載せることのできない自己愛性人格障害の楽山ですから、真剣味が表れたことなど一度もない人です。
 
詭弁屋そして嘘吐きの楽山の「とほほ」=テヘヘ(ごまかしウソ泣き)と思ったほうがいいと思います。病質者なので、書くことを止められないのです。おそらく、一生、しらばくれて、善人ぶっては、裏切り、疲労と徒労だけを他者に与え続けることでしょう。
 
楽山の今までを見れば、否定を言って、のちに反省も訂正もなく、肯定を言う繰り返しですから、矛盾であり、平気で言い続けるのは、責任感がなくて、高等感情もなくて、いい加減な人格であることを示すと同時に、内実は何もないということを示し続けているだけなのです。
 
 
自らの不毛を知らず

自らの不毛を知らず
 
 
(2021年06月17日)
 
 
 
  切符
 
前触れもなく場面が変わって
切符がない
切符を切る人もいない
大事な仕組みだったような気がする
探す街並みは区別がつかない
名前を忘れていることさえ忘れて
切符を探す
ここに住んでいる埃(ほこり)は
どこにでも入っていって水や油と親和する
埃を逃れて郊外へ続く道すがら
幾つもの大小の跳躍が道の限界を教えるが
切符さえあれば
切符
片道でもいい
なくした顔の数々を刻んで
切符
数々の挨拶を葬りながら
辿(たど)り着き立ち尽くす
廃線の廃虚の駅から
敷き詰められた砂利の下に
どこまでも続く線路が
片道切符を教えている
 
 
  烏兎怱怱(うとそうそう)
 
太陽が烏(カラス)だったころ
烏は金色の熱と霜を連れてきた
 
月が兎(ウサギ)だったころ
兎は満ち欠けと星を連れてきた
 
烏兎怱怱(うとそうそう)
 
兎は逃げて切り株に転び
逃げ回って草を食(は)むことに長じた
 
烏は人里を飛んで黒い雲に染まり下りて
啄(ついば)んで嘴(くちばし)を曲げた
 
日が昇ると人里に幾つもの縮んだ瞳が瞬き
月が昇ると森に光る瞳が開くのだが
 
霜から泥濘(ぬかるみ)に落ちた
かつての縁(えにし)を
星はもう映さなかった
 
(90年代か)
 
 
 
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  虎馬生産的楽山  (トラウマ反応??)
 
 トラウマ反応!?
 2020年06月13日 楽山日記(LD)
 を改めて批判。
 
 
私には、トラウマがあるんだろうと思っています。そのトラウマに楽山は関係ありませんが、ずいぶん昔のことで、一部はブログに書いています。
 
楽山は、不感不応と無反省から、トラウマを与え続ける人だと思います。
 
楽山は、彼の特徴として、例によって説明していませんが、
トラウマ反応とは、トラウマの後に起こってくる、むしろ症状のことで、再体験、苦痛、思考や会話などの回避、反応性の麻痺、一方で驚愕反応、意欲減退、睡眠障害、などがあるようです。
 
ツイッターを眺めていたら、トラウマ反応うんぬんという話があり、次のページに行き着いた。
・自分自身のトラウマ反応にどう対応するか?
どうやら過剰な攻撃の裏には、トラウマがひそんでいることがあるということらしい。
 
楽山については、トラウマを受けて感じる繊細さは無いと思っています。したがって、心に傷を負った人についても共感できないのです。
 
カルトは、抜けた後でも、小さくないトラウマと後遺症を残す原因となりうるでしょう。楽山は、トラウマを受けやすい人ではなく、与えやすい~与える人なのです。
 
これを自分に当てはめるなら、認めるのは癪ではあるがHS批判がそれなのだろうな。大概の一般人はHSのことはさして気にせず、スルーしているわけで、自分にそれができないのはそこにトラウマがあるからなのだろう。
 
楽山は、HSを利用しているだけだと思います。楽山自身の考え方が、カルト的な訂正不能・無反省・無責任の典型だからです。
 
楽山の、不感不応の、他者無視の、無反省の訂正不能の、執拗なボンヤリ言語の、あくどい筆致は、誰の心にも消えないトラウマを残し得るものなので、以前から、決して誰も関わらないように、批判を続ける必要があると感じています。
 
一般にはあまり知られていないHSの問題点を明らかにし、社会に知らしめ、注意喚起をするために批判をしているとも言えば言えるわけではあるが、
 
楽山については、言えないと思います。楽山の卑怯さは、自身の問題点をぼかし、注意喚起をよそに向ける雑言でしかありません。だまされないでください。
 
それにしたってトラウマは皆無であり、それが批判の動機になっている可能性は微塵もないとは断言できないのだから仕方がない。
 
トラウマは、心の傷ですから忘れることなど出来ないものです。トラウマに気づいた人にとって、トラウマが「微塵もないとは断言できない」という曖昧な言い方は出来ないのです。また、白々しい嘘っぱちの捏造です。
 
つまり、ここでも、楽山は、トラウマを受けた人を、高みから見下ろして批評しているわけです。その結果、このような曖昧表現でトラウマを語る文章こそが、楽山に、トラウマに対する共感性が微塵もないことを表しています。
 
どこまで行っても、何を書いても、誰とも共感できない楽山が表れるだけです。自己愛の我執と我欲から、どこまで行っても、書けば書くほど、関われば関わるほど、他者に心配りが出来ない楽山は、他者の心にトラウマを与えるだけです。
 
考えてみれば、これは信者側でも同じかもしれない。ツイッター上の信者のなかにはアンチに対して過剰反応を示す人は少なくないが、これは過去にアンチと何かあり、それがトラウマになっているためかもしれない。
 
このように、楽山には、アンチという自覚が根無し草であり、釣り合いをとるかのように、信者側のトラウマを語って、バランス・中庸・中立を言ったつもりで得意になっています。このようなことは、元々、トラウマを受けた自覚などない部外者だから書けるのでしょう。
 
信者ブログの中には、もう何年も前に終わった話を度々蒸し返し、既にブログは止めて消えてしまった人のことをとやかく言うブログ主もいるが、これもトラウマが関係してるかもしれない。
 
自分が批判されていることを言っているのかもしれません。楽山には、悪意はあっても、トラウマはありません。そんな繊細は感性など持っていないと思います。だから、トラウマについて、他者のことばかり書いているわけです。
 
このように、他者のことばかり云々するというのが、自己愛性人格障害者の特徴です。自分を見る目がないのです。自分のことを書くときに、自分は大丈夫だけど・・という軽々しい自尊過大が表れるということに結びついてきます。
 
楽山が残した嘘と偽善については、楽山が、反省もせず、修正もせず、無視している分、いつまでも、無反省の自己中の厚顔の偽善者である楽山の心的外傷(トラウマ)を生み出す原性の遺残物として、その内容と言動を、資料として、参照できるようにしておかなければなりません。
 
ああそうだ。上とは別の信者ブログの中には以前、記事をパクられたとして騒いでいた人がいるが、この人は最近はまた別の人に向かって同じことを言っている。反省と爽快感、顔施(笑顔)、知ることと信じることなどは大川隆法の本に書いてあり、支部でも話題になることであろうし、信者または元信者であれば普通に話題にのぼることであるし、他者の文章を引用しその感想または意見を書き、長文になるときは分割するというのは一般に行われている常識であろうし、パクリ、パクられたという話にはならないと思うのだが、それにもかかわらず、パクられ妄想を持つということは、そこにはやはり何らかのピンがあるのだろう。
そういえば、大川隆法もわりとちょいちょいそういう話を繰り返しているのだった。自分の意見をパクられた、真似されたとか…。でも実際は次のようになってるんだけどね。
 
記事の引用は、批判するために必要ですが、まだ、ピンという言葉を使って、それを説明しないところに、楽山の高慢も表れているのです。HS関連など検索しても明確な答えが見つからないので分からないが、ping 応答(時間)、ピンハネのピン、・・?・・などを考えておきます。
 
パクられるということが、「パクられ妄想」とまで書いていますが、トラウマと、どう関係があって、楽山は言及しているのでしょう。楽山は、他者の記事をパクったことがあるのでしょうか。トラウマの話からは浮いているように思われます。
 
それで、相手のことを、パクられ妄想を持つ・・などと言っているのでしょうか。真相が分かれば、重大なことのような気がします。いつも、本や発言などから、都合のよい文言だけを引用してくる生業の楽山だからです。それにしても、こういうのを、理路の散逸というのでしょう。
 
根本経典からしてこうであれば、あとは推して知るべしというべきか…。(画像など省略)
とりあえず今思いついたのはこれだけだが、詳しい人であればもっと具体例を挙げられるだろう。こうしてみると、激しいパクられ妄想の根っ子には、過去にパクリを批判されたトラウマがある可能性は低くはなさそうにも思えてくる。
なんだかいつのまにか自分のHSに対するトラウマ反応が発動されて、大分話がそれてしまった観がないでもないが、結局のところ、人は誰でも多かれ少なかれトラウマがあり、それに影響されているということなのだろう。
 
"トラウマ反応" という題で、楽山が書いていることは、冒頭に書いてリンク付けているトラウマ反応とは言えないことのようです。自己愛者の特徴として、不祥事を他者のせいにする、というのがありますが、そのために、トラウマの話を持ってきて、他者をおとしめているように思えます。
 
楽山の言う「自分のHSに対するトラウマ反応」は、信用できません。楽山は、トラウマを与えるほうであり、トラウマを受け、トラウマ反応を起こすような繊細さはないと思います。筆致にも表れたことはありません。
 
トラウマというテーマは、体験からのもので症状を伴うものですから、話が逸れることではありませんし、話を逸らすことでもありませんし、ありもしないトラウマの嘘を吐くことでもありませんし、他者を無視することでもありません。もちろん、他者を責める道具ではありません。
 
楽山の言っているのは、本当のトラウマではなく、楽山のような、面の皮の厚い、罪悪感も羞恥心もない、人をおとしめてよろぶ病質、いわば、虎と馬みたいな在り方に当てはまる悪意でしょう。自己愛者は、他者のせいにするときに、都合のよい病因の言葉を探して当てはめてきます。
 
トラウマというのは、病気・病態であり、心的外傷後症候群PTSDとも呼ばれるわけですから、「誰でも多かれ少なかれトラウマがある」・・などという気安い見解で済ましてよいことではありません。楽山はトラウマとトラウマ反応という言葉を利用して遊んでいる虎か馬です。
 
楽山は、何を言われても返せないのに、平気でいられる人です。つまり、人格からの故意の自己中なのです。トラウマを与える人であって受ける人ではないのです。根拠は、今までの総ての批判記事です。楽山の狡賢さは、卑しくて、虎、馬、というより、蛇、鼠、・・の類かもしれません。
 
もし、トラウマがない人はいない、一人もいないというのであれば、それについて人を責めても仕方がないし、それならまずは人のことをどうこう言うよりも、まずは自分のトラウマを解消することに努めるのがよさそうだ。うん。納得。
 
人を傷つけても平気な人には、トラウマはないでしょう。傷つくという心の状態が分からないのです。そういう人に限って、人を責めても仕方がない、などと言ってきます。自己愛者の書いてくることは、大方、自己正当化に過ぎません。人間になり損なっている感じが出ています。
 
そして、そういう人は、自分の無反省なことを棚に上げて、「自分のトラウマをを解消する」などと言って、「うん、納得。」などと平気で言ってきます。この作為は、あくどいです。
 
結果として、トラウマとトラウマ反応について書いておきながら、人のせいにして、自分だけの独り納得で解決を装って満悦することはとても醜い、ということが表れています。
 
楽山は、こういう人で、関わると、無反省と無責任で、こういう目に遭い、こういう返しが来る、ということは知っておいたほうがいいと思います。
 
 
虎、馬、蛇、鼠

虎、馬、蛇、鼠
 
 
(2020年06月14日、修正再録)
(2021年06月16日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
カタコルネ@堕天使にアイム・バッド
@korettedounano
衝撃の真実!キリストは青森に来ていた!絵文字(大爆笑大爆笑嬉し泣き)
#幸福の科学 #イエス・キリストの霊言
午後8:59 · 2021年6月15日·Twitter for Android
 
楽山らしい引用です。キリストの御名によって神に祈り、その臨在を信じ仰ぐ信仰に対して、どこそこに来ていた、衝撃!、キリストの霊言、ということを面白がっています。そういうことにしか関心を持てないのです。楽山は、どこまでも安っぽさだけを引用して、はしゃいでいます。
 
心貧しさは先入観と偏見のないこと、精神の貧困は先入観と偏見しかないこと、という意味を学習するための、後者の悪い典型例になるでしょう。楽山の目には、魔法の空想が映って、真実が全く映らなくなるウロコが、へばりついているようです。
 
 
 
  汚れ
 
降りくる芥
明日の今
捨てられた油
を食む魚
跳ねて弱々しく
一時(いっとき)に泳ぐ
昨日の海
降りくる塵
波が熱く
眩しい距離
受けて呑む
肉体の空
晴れ時々曇り
一時の雨
薬のにおいがする
肉の肉
今の明日
 
 
  中へ
 
赤い水を呑み続ける
未だ見ぬ土地を知識だけで語るように
骨の中へ肉の中へ土の中へ
乾きに濃縮され続ける
未だ見ぬ外界を飢餓だけで知るように
乳飲み子の川の底へ
土の中へ肉の中へ骨の中へ
 
 
  魔・興
 
魔は隠れた所に差してくるものだ
興は見る見る醒(さ)めてゆくのに
 
 
  頂点を極める者
 
山頂は常に其処(そこ)から
上には登れないことを示しているのだが
登りつめた者は
まるで空までも征服したかのように
誇らしげに四方を見渡している
高い高い大気と吹き上げてくる風は
なかなか下りようとしない者たちの
有頂天の背後から少しずつ
密(ひそ)やかに帰り道を隠してゆく
 
 
  無償
 
祝福もなく夜に生まれ
墓石もなく野辺に朽ちよ
燃える血を竦(すく)み凍らせ
今は亡き人の影を踏め
臨終の霧を呼吸し
濁りの水泡を食らっては吐き
泡吹く毒の晩餐(ばんさん)を
肝胆に秘めて漏らさず
ただ自らの牙を脆く腐らせ
折ってゆけ最早
立てず座せず臥したまま
やがて唯一の薄い揮発の間として
体内を巡る全ての血が
しずかに止まる音を聞くだろう
 
 
(90年代か)
過去作は、繰り返しアップすることになりそうです。
 
 
 
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  詩篇88
 
 「わたしの親しき友は――暗闇のみ」(詩篇87)2020年05月09日
 旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)
 楽山日記(LD)を、改めて批判。
 
 
楽山のような、キリスト教が憎くて、偽善もバレてしまって、恨みと憎しみからの悪意しか持たない者は、こういう意地の悪いことをしてくるという例です。詩篇から不吉な文言を漁って、またキリスト教とキリスト信仰をおとしめたいようです。楽山こそ不吉な男です。
 
ここにおいて、憂さ晴らしのために、"災いをもたらす"のは、楽山その人であります。
 
しばらく前から、聖書の詩編を少しずつ読んでいるのだが、「わたしの親しき友は――暗闇のみ」(詩篇87)という一節には、はっとさせられた。胸にズブリときた。訳者の解説を確認してから読み直すと、どうやら詩人は親しき友からも避けられる不治の病だったらしい。「全詩編中最も悲しい詩」といわれるのも頷ける。
 
ひどい形容です。楽山は「胸にズブリと来た」そうです。胸の中の悪意の沼にでも沈んでゆくのでしょうか。胸に突き刺さったのなら、こういう記事にはならないはずです。
 
私の使っているネットの口語訳聖書では、詩篇87は、讃美の歌であり、そのような一節はありません。たぶん詩篇88(下記)だと思います。
 
「わたしの親しき友は――暗闇のみ」に似た一説は、
18節「わたしの知り人を暗やみにおかれました。」とあります。
 
訳による聖書の節の区分が違う可能性もあります。
 
(ネットより)
この詩篇の詩人は、「私は若い時から苦しんできました。今は死を待ちます。」(16節)と歌っています。この言葉に表されているように、この詩人は、若い時から病に苦しみ、その病が癒されることのないまま、死を待つ身となっている希望なき状況に立たされています。この嘆きの言葉を述べる詩人には、慰めや希望の光は一条も差し込んできません。
彼は、「今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」(19節)とこの嘆きの祈りを結んでいます。ついに彼の深い嘆き、苦悩の問題は答えられないまま終わっています。この詩篇は答なき詩篇です。
 
まさに、命が終わろうとしているときの信仰の詩であり祈りなのです。何も良いことがなかったというときの、神に対しての告白に、信仰の凄まじい迫力が表れているのです。信仰を利益でしか考えず、何でもハッピーにならないと信仰ではないと思っている楽山には分からないでしょう。
 
この世の、どうしようもない苦難の中だからこそ信仰が必要なのです。まさに、そのような絶望的な境遇だからこそ、正直に告白し、神に救いを求めているのです。楽山のように利益と言葉面だけを追って神をけがすような恐ろしい勘違いをしてはいけません。
 
信仰は、見た目の良い言葉だけを捧げている間は未熟です。叫びのような本音を捧げることによってのみ、苦悩と死に同伴する神を知ることになるのです。この聖句は旧約ですが、新約においては、同伴者が、他でもない、キリストになります。
 
信仰は命です。キリストは救い主です。安っぽいご利益の思い込みしかなく、深い意味を何も理解しないで、信仰について、書いているつもりの楽山は、浅ましいクズだと思います。
 
また解説によると、「詩人の中心問題は「死」。死は詩篇において肉体の死よりも、神からの隔絶をいう」とのことである。とすると、「あなたは死者のために奇跡をなし給うや、亡霊は起き上がって、あなたをほめたたえようか」という一節は、墓の下の死者について言っているというだけではなく、信仰を失った者をも招いてくださるのかを問うているという解釈も無碍に却下されるとも限らないということだろうか。それともこれはいくらなんでも手前勝手でご都合主義に過ぎる考え方かな。
 
詩人の中心問題は、紛れもなく信仰です。だから、詩篇に載っているわけです。「あなたは死者のために奇跡をなし給うや、亡霊は起き上がって、あなたをほめたたえようか」に相当する口語訳は、私の聖書では10節になっています。未だこの世しか知らない人間の悲哀が表れています。
 
「信仰を失った者をも招いてくださるのかを問うている」・・ひどい曲解です。信仰のない者が、絶望だけになるなら、このように正直な感想を、神に向けて、88章1~2節のように、救いを乞うたりはしないでしょう。楽山の白々しい嘘の信仰芝居とは違うのです。
 
 (詩篇、口語訳)
あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって
あなたをほめたたえるでしょうか。
 (詩篇88:10、旧約聖書)
 
楽山は、根っからの反キリストなので、また、反省しないがために学習せず成長しない知恵足らずで深い理解が出来ないので、マイナスの文言が並んでいたら信仰の否定と思ってしまう単純さです。まったくもって詩篇および聖書の逆説を理解できないわけです。
 
詩篇88を読んで、大ごとだ、神否定の証拠だ、・・みたいに舞い上がってしまうような短絡だから、ボンヤリ言語でごまかしたつもりでも、キリスト教に対する悪意全開となって、滅裂で批判にもならないような、神否定の悪口を書いています。そういう文言を探していたのでしょう。
 
そういう、聖書も本も、虚心に読むということが出来ず、訂正不能の頭で、都合の良いところだけ受け取って自分を飾ることしか出来ない楽山は、まるで当然の成り行きのように、反キリストになっているのです。真実の深みという深みに、楽山にだけは、縁がないのでしょう。
 
こういう、一見、現実に照らして、神に対して、嘆くような、否定のような文章は、聖書が扱っているテーマでもあり、私が読んだ範囲だけでも、ヨブ記や伝道の書などに、いっぱい書いてあります。それらを、ことごとく、我執で解釈する的外れの楽山です。
 
答えが謎解きや道徳みたいには、はっきり書いてないと言うだけで、これで、キリストを否定できると発想する楽山は、愚かであるだけでなく、極めて質(たち)の悪い、執拗にサディスティックに攻撃してくるだけの、反キリストです。
 
信仰者は、幸不幸、喜怒哀楽、絶望希望、全て正直に、本気で、本音で、祈るということです。聖書の詩人は、そういう祈りこそが、総てを統べられる神に届き、神によって受け取られることを、たとえ苦難から臨終に向かうときも、絶対孤独からの解放があることを、知って書いているのです。
 
楽山は、快か不快かだけの原始本能の人です。極めて迷惑です。悪意の原始反応だけで学者気取りの、何もまともに考えていない人です。世辞と嘘と詭弁だけの楽山は、小学校の道徳でも学んだほうが、まだマシでしょう。楽山こそ、まさしく "手前勝手でご都合主義" の権化であります。
 
カルト的な思想というのは、大方、でっち上げの妄想から出発しているので、自分で文句を言って、その文句に自分が斬られる、というのは珍しくありません。そのことを、本人は、理解できないために気づかないという醜態です。聖書をけなす楽山は、逆に、自らの醜さを表しているのです。
 
温もりも潤いも感じさせることが出来ず、教えるためのインテリジェンスの欠片もない、自己愛性人格障害の楽山は、否定の文言を、詩人が、神に向かって叫んでいるということを考えないのでしょう。信仰を捨てたのなら、神に向かって祈りません。楽山のように悪口を言うだけでしょう。
 
と、ここまで書いて思ったけれども、ここで語られている悲しみは、多分に激しさを秘めている感じがする。日本の古典にある悲しみは、激しいというよりも、静かで乾いている雰囲気があるので、この辺りはやはり異文化ということなのだろうか。自分は優劣を問題にしたいわけではないけれども、どうもこの質的な相違に無頓着ではいられないのだから我ながら面倒な性格だ。
 
楽山は、面倒な性格なのではなく、人間らしい知性と感性の欠落です。信仰者が、いつも讃美だけを書いてくるとでも思うのでしょうか。信仰者は、本気で、神に対しているのです。
 
世辞だけを悦ぶ楽山は、日本の古典の静かで渇いている表現が、いっそう、深い悲しみを表すことも知りません。聖書を「異文化」で済ませる浅はかな楽山を相手にしないでください。
 
楽山は、義務を果たさず権利を主張し、責任を負わず自由を行使します。シャロームと同様の、全く文責というものを負う気のない、自己愛性人格障害の自己中が表れているのです。
 
既に、どこかで、身勝手な悪口を否定されたのではないかと思います。ひょっとして、キリスト教の教会にでも行って、自説を否定されまくったのではないかとさえ感じます。それで、恨みに燃えて、詭弁だけを学び、似たような偽善者シャロームと世辞のつきあいを始めたのでしょう。
 
しかし、そこは、仲間ぼめによって、怨念を培養し、自己中を貪食し、悪意と敵意を増幅して、良心を捨て去るところなのです。あるいは、シャロームと楽山は、同一人物の成りすましではないかとさえ思います。この世への怨念だけを潜熱のように深く抱えているところが一致しています。
 
 
楽山の記事は、ネットの口語訳聖書では、87章ではなく、次の88章と思われます。
 
 (詩篇、口語訳)
第88篇 1-18
聖歌隊の指揮者によってマハラテ・レアノテのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌、さんび。エズラびとヘマンのマスキールの歌
88:1わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、
  夜、み前に叫び求めます。
88:2わたしの祈をみ前にいたらせ、
  わたしの叫びに耳を傾けてください。
88:3わたしの魂は悩みに満ち、
  わたしのいのちは陰府に近づきます。
88:4わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
  力のない人のようになりました。
88:5すなわち死人のうちに捨てられた者のように、
  墓に横たわる殺された者のように、
  あなたが再び心にとめられない者のように
  なりました。
  彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。
88:6あなたはわたしを深い穴、
  暗い所、深い淵に置かれました。
88:7あなたの怒りはわたしの上に重く、
  あなたはもろもろの波をもって
  わたしを苦しめられました。〔セラ
88:8あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、
  わたしを彼らの忌みきらう者とされました。
  わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。
88:9わたしの目は悲しみによって衰えました。
  主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、
  あなたにむかってわが両手を伸べました。
88:10あなたは死んだ者のために
  奇跡を行われるでしょうか。
  なき人のたましいは起きあがって
  あなたをほめたたえるでしょうか。〔セラ
88:11あなたのいつくしみは墓のなかに、
  あなたのまことは滅びのなかに、
  宣べ伝えられるでしょうか。
88:12あなたの奇跡は暗やみに、
  あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。
88:13しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
  あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。
88:14主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
  なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。
88:15わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
  あなたの脅しにあって衰えはてました。
88:16あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
  あなたの恐ろしい脅しがわたしを滅ぼしました。
88:17これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
  わたしを全く取り巻きました。
88:18あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
  わたしの知り人を暗やみにおかれました。
 (詩篇88:1-18、旧約聖書)
 
11~12節が、特に、逆説的に、正直な気持ちの発露として、好きです。つまり、いつくしみは・・、まことは・・、神の義は・・、そんなはずはない、主よ、どうか救い出してください、という、世辞の讃美では済まない、なりふり構っていられない叫びであります。
 
迫害が迫っている状況なら、讃美も、迫力と勇気に満ちたものになるでしょう。しかしながら、そこそこ平穏なときに、讃美ばかりを勧めるのは、大仰な感じがして、信仰自慢に思えて仕方ないです。
 
人生において、私たちを信仰に向かわせるのは、讃美ではなく、どうしようもない悲しみだったはずです。この詩篇は、本音をそのまま叫んで、神に委ねようとしているから、好きなのです。
 
私たちは、いつも讃美したくなるほどの立派な信仰など持ってはいないのです。悔いること、改めること、望むこと、求めること、叫ぶこと、それらより、讃美が優先するとは、思えません。讃美するのが信仰・・ではありません。
 
讃美すれば、神様は、ごきげんよろしいのでしょうか、違うと思います。正直以外、神には、通用しないのです。祈るごとに、唱えるごとに、飾りは、飾りだと、偽りは、偽りだと、神様によって、すべて、見抜かれているのです。
 
こういう、逆説的だが、率直で正直な言葉が削除されずに聖書に載っているところが、私のお気に入りであり、共感であり、感動なのですが、嘘吐きの楽山には分からないのでしょう。正直な本音の告白こそが、共感に満ちた聖書の宝なのです。
 
人間の悩み苦しみの本音が表されていなければ、楽山やシャロームのような世辞付き合いしか出来ない偽善カルトの宗教に過ぎないのです。本音の告白があり、考えさせるところが、聖書の持つダイレクトでダイナミックな深みなのです。
 
いつも讃美で溢れているわけではないのが、生きる人間のための聖書です。それを上回るだけの共感と癒しと慰めと救いがあるからです。楽山やシャロームのような異常人格は、それが分からないものだから、ここぞとばかり、いちゃもんだけを吐き出してくるのです。実に不潔です。
 
本音もクソも分からなくなっている楽山と、その仲間の、白々しい嘘っぱちの讃美、讃美、讃美、そして酸味ばかりの、精神詐欺師で偽牧師シャロームの記事のようなものは、その吐物の臭気に、さらに吐き気を催すだけで、救いどころか、腐って漬物にもなりません。
 
楽山やシャロームなどの偽善者は、躓(つまず)いたら、石に、道に、道路作った人に、道路のある街に、文句を言う者たちです。そのくせ、彼らは、好きなだけ、道に唾を吐いて、人に嘘を吐いて、人を躓かせるのです。
 
分からないなら、分からないことについて偉そうに書くべきではない、ということを弁えず、文字通りに受け取って、洞察もなく、根拠もなく、キリスト教を否定してくるから、楽山の、単細胞の無理解は、迫害と言ってもよいほど、総てのキリスト者の敵となるのです。
 
次の詩篇の聖句を唱えることのできる人は、そんなに多くないと思います。
 
 (詩篇23:4、口語訳)
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
 (詩篇23:4、旧約聖書)
 
聖書と信仰によれば、神の戒めと懲らしめの、鞭(むち)は鞭だけではないことがあり、不幸は不幸だけではないことがある、杖の助けともなる、ということなのですが、その一番大事なところを、共感力と反省力が皆無の楽山やシャロームは理解していないのです。
 
どうしようもない悲劇があるからと神を否定するのではなく、どうしようもない悲劇があるからこそ、神を必要とするのです。人は、信仰によって、神と、正直な本音の付き合いをするのです。
 
楽山やシャロームの口車に乗ることの、決して、ないように、さらに、その前に、彼ら病原に、決して接近しないように、祈っています。拝。
 
 
 
楽山とシャロームなどの自己愛者は、いつも正しく、威勢の良いのが信仰だと思っているようです。その分、高慢になり、厚顔になり、傲慢になります。
 
例えば、精神的に健康で、謙譲の心を持っている人は、批判されると、しゅんとなって、書くことをやめて考えるでしょう。それ以前に、気の弱い人は、元々、楽山やシャロームのような厚かましい書き方はしません。
 
批判されて、どういうことかと尋ねてくるのは正常です。反論か弁明をするのも正常です。しかし、批判されても、何も答えないで、反論も弁明も出来ないまま、嫌がらせのように同じことを書いてくるだけなのが、楽山とシャロームです。
 
このような者たちは、決して、真面目に書こうなどとは思っていない。遠回しであってもなくても、とても、いやらしい根性の持ち主です。だから、以前は説明もしましたが、受け取り方も主張も固定していて、まるで話にならないので、今は、直接の遣り取り~交流はしません。
 
そういう者たちが、知ったかぶりで、キリスト教とキリスト信仰を、説教~攻撃してくるならば、信仰者の務めとして、できる人が率先して、たとい悪と呼ばれても、こちらの言い分だけでなく、相手の外れ方も書かなければなりません。
 
 
信仰は讃美だけではない

信仰は讃美だけではない
 
 
(2020年05月11日、同日一部修正)
(2021年06月15日、加筆して再録)
 
 
 
  絆
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない想い
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
(90年代か、一部修正)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
fk2000
距離をおいているから分かる、HSの世の中に対する影響力は微塵もない事。
午後5:20 · 2021年6月13日·Twitter for Android
 
引用元を批判する気はありません。楽山を批判しています。
 
距離を置いているから分かる。楽山の世の中に対する影響力は微塵もないこと。
しかし、個別に関わった人に対する楽山の害は、決して小さくはないことも。
 
 
 
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  後悔しない楽山
 
 後悔しない生き方(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡1』)
 2021年06月13日 楽山日記(LD)
 
 
楽山に見られるところの、わざとらしさ、うさんくささに気づいてほしいと思う記事です。
 
ザビエルの書簡集をつまみ読みしていたら、川で溺れて九死に一生を得た男の話が紹介されていた。この男は救けられたあとで、水中で死を覚悟したときをふりかえって「生きているあいだ中、自分が死ぬための準備を何もしていなかったこと」、修道院に入りたいと思いつつも「何も実行していないこと」の二つを後悔したといっていたという。ザビエルはこの話を次のようにまとめている。
私は友人や知人が、善い考えや主なる神に奉仕したいとの望みを抱きながら、実行に移す時を延ばしていると、いざ行おうとする時には、時間も機会もなくなってしまうのではないかと、気の毒に思っています。
(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡1』河野純徳訳、平凡社〈東洋文庫579〉、1994年、pp.62-63)
 」
これは出来すぎた話のようにも思えるが、この教訓はまったくその通りではあるし、それだけに耳に痛い言葉だ。自分は昔から怠け者の面倒くさがり屋で、何でも先延ばしにして、せっぱつまってから慌ててはじめるという風なので…。
 
歴史的に有名な人物の書いた書簡を、「つまみ食い」するのだそうです。恐らく、聖書も、他の書籍も、いかなる有名人の名言も、同様だったのでしょう。だから、おつまみ程度に、いい加減な記事を、趣味的に書いてきたのでしょう。書くべき必然が、どこにもありません。
 
楽山は、「いざ行おうとする時には、時間も機会もなくなってしまう」というザビエルの言葉を受けて、同情を誘いたいのでしょうか。しかし、「耳に痛い言葉」「反省。」「自分は昔から怠け者の面倒くさがり屋」「せっぱつまってから慌ててはじめる」は、嘘です。
 
楽山は、「反省、とほほ」と書いたことがありますが、その前後で、全く変わりなく、今に至るまで、ずっと、自己中の、偏向した記事でした。自分を見ることが出来ないのです。また、楽山は、他者の言うことを、すべてと言ってよいほど、無視してきました。何も変わっていないのです。
 
したがって、他者の言葉が、「耳に痛い」こともないのだろうと思います。平気で、無視して、平気で、同じようなことを繰り返し書いてくるのです。人間として大切な反省をせず責任を負わないのですから、「面倒くさがり屋」ではなく、体質的に怠慢で、学習意欲がないのだと思います。
 
都合の悪いことを平気で無視するので、「せっぱつまってから慌ててはじめる」のではありません。慌てたのなら、あわてて訂正や反省を書いた記事があるはずですが、全く見られません。前に、アドラー教の、気に入らないことは無視しましょう、という信条?を書いて宣伝していました。
 
このように、楽山の軽々しい芝居は、うさんくさくて、嘘だと分かる人もいるでしょう。楽山というHNを見たら、あるいは、話に出てきたら、嘘吐きだと教えてあげてほしいと思います。この2年間、いいほうには何も変わっていません。
 
今になっても、こういう白々しいことを書いてくるところを見ると、やはり、原因は、元々訂正不能の自己愛性人格障害NPDだと思います。平気で、嘘を吐くのです。それに引っかかって、「やさしいお人柄ですね」というコメントが付いたこともあります。
 
今でも、そういう嘘が通用すると思っているのです。知性・感性・洞察力・共感力は、自己中によって鈍麻しています。だから、また同じことを言えるのでしょう。ふつうなら、察しが付くところを、気づかない哀れな人です。それにしても、よくも、また、白々しいことを書いてくるものです。
 
こういうところは本気でなおさなければならないなと思う。
 
ですから、これも、嘘です。この2年余り、楽山の本気は、自分を改善する方向に向いたことはありません。楽山に、「本気」はないと思います。「直さなければならないと思う」も嘘です。前から書いてきた自己愛性人格障害によって、楽山は、自分を直す必要を感じないからです。
 
直す気があるなら、とっくに、反省して、この記事のような言葉面だけでなく、記事の内容に、はっとさせる何らかの変化があるはずです。何もないとしか言いようがありません。はっきり言って、こういうことを言うときの楽山は、笑っていると思います。嘘が上手いつもりでいるのです。
 
ただ、だんだん、白々しさが増しているようです。人格破壊が、また、進んだのかもしれません。少しずつ、内面に比例した、下手くそを、否応なしに出してしまう、という傾向はあるでしょう。嘘の理路、自己中の辻褄合わせは、いずれ、無理を生じることが考えられるからです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
ナタリー・ポートマン守護霊の霊言では、その美しさを強調しているが、
本人は、見た目で判断することに思い切りダメ出ししとるじゃないかい。
・ナタリー・ポートマン、女性を見た目で評価する軽薄な価値観を批判
午前7:07 · 2021年6月13日·Twitter Web App
心機一転★こも楽山
@komo266
「宗教者よりも、あの世を信じない唯物論者の方が倫理的なことが多い」という話があるが、これもその例か。
午前7:11 · 2021年6月13日·Twitter Web App
 
何も信じておらず、人を惑わし傷つけるだけで、無反省・無責任の、反倫理・反キリストが、楽山です。今日も、霊言とばかり、知ったかぶりで、女優のことを言っています。こういうゴシップと、宗教・信仰とを、同じオモチャ扱いで、雑に、批評する軽々しさが、楽山の特徴です。
 
「宗教者よりも、あの世を信じない唯物論者の方が倫理的なことが多い」などという決めつけは、反キリストならではの暴言です。キリスト教の悪口だけは忘れないようです。好きなだけ、ゴミをばらまいて、自己満悦の散歩でしょう。日課のように公共を荒らしています。それしか出来ない人です。
 
今まで、理路は好きなように捻じ曲げ、知識は小学生レベルの拙劣な理解、共感の深みは皆無であり、我執だけが強く、芸能・作家・宗教家・学者など、遠慮もなく勝手に引用して、同じ悪口を、繰り返し言ってきます。真面目な態度が皆無で、様々に言っても、結局、偏向した揶揄の域を出ません。
 
楽山は、何気なく書いているつもりでも、揶揄しか出来ない体質は表れてしまいます。自己愛性人格障害の因業だと思います。それを隠そうとする欲動と、自慢しようという欲動によって、楽山は、だんだん、曇りガラスのような、正直も本音も見えない人になってきたのでしょう。
 
楽山は、今まで、我執と怨念によって、同じことを繰り返し書いたり、思いつきを書いたり、安定しない、いい加減さを、表してきました。それもこれも、一切、責任を負わないし、負えるだけの芯を持っていないことを如実に物語っているのです。
 
※ 
 
こういう楽山のような人は、書いてくる文章を観察し、筆致を、つまり、書き癖のようなものを、できるだけ読み取ってゆくしかありません。したがって、継続的に、経時的に、今まで2年間、そして、これからも、楽山の記事を、読み続ける必要があるのです。
 
楽山の体質は、人の言うことを無視して平気でいることです。それを利用して、鈍麻した警戒心と散漫な注意力のために平気で書いてくる記事が、資料となりうるのです。楽山には、バレるから書かないでおこう、という選択肢が想起されないのだろうと思います。白々しさに気づかないからです。
 
 
後悔しない体質

後悔しない体質
 
 
(2021年06月14日)
 
 
 
  惑いの台詞
 
わかっているさ
 が繙(ひもと)こうとしているのは
解けない帙(ちつ)の夥(おびただ)しい中味
 
勝手だろ
 が映し出す姿は
儘(まま)ならぬこの世の物事に
圧倒されている詰めの甘い自分
 
ほっといてくれ
 が教えることは
ほっとかれて為し得る事の乏しさ
 
詰まるところの惑い
 
まだ団居(まどい)を求めているか
中身のある談笑を信じたいか
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッター追加ですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HSの場合、
「神に従順であれ」というのは、
「大川隆法に従順であれ」という意味になってしまうからね。
大川隆法の教えに、異論を述べたり、従わなかったりすると、
「従順でない」「自己中だ」と叱られてしまう…これはもう話にならん(笑)
午後7:20 · 2021年6月13日·Twitter Web App
 
楽山は、いかなる不正も批判する資格はありません。楽山はアンチではありません。楽山は、自己愛性人格障害です。他者を揶揄して遊んでいるだけです。だから今日も「((笑))」と書いて結んでいるのです。軽薄で、表面的であり、真摯さ、真剣味が、何もない人です。
 
自己中の楽山を鵜呑みにすると、人格を破壊されます。人を誘導して、だますような、楽山に従順であってはいけません。自分の害悪に気づけない病気の体質なのです。悔いることも改めることも反省することも責任を負うことも出来ない人ですから、近づかないでください。
 
楽山は、いつも正しく中立な自分に従えと言いたいのです。サイコパスでサディストで、他者を下に見て、学者気取りで教えたがるのは、カルト教祖気取りの人格です。ゆえに、双方向が成り立ちません。一見、まともなことを言っているように見せかけている分、いちばん悪性度が高いのです。
 
 
 
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