ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。サポートに問い合わせて、ようやくコメントボタンが付けられました。ソーシャルボタンは、コメント欄の上に表示されることも知りませんでした。

 
  無力を憐れむ?
 
   『侍』遠藤周作 2019-11-15 
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12545598721.html
   楽山日記(a)
 
 
楽山は、本を読んだことを披露したいのでしょう。キリストがどうだったかについては、決して興味本位で決めつけてはいけないところですが、楽山は、無力なキリストを描きたいようです。辻褄だけを追って否定したり、小説を持ち出して無力なキリストがいいと言ったり、キリスト者でもないのに、キリストを云々する批評家気取りをやめない楽山です。
 

*分身
ここのところ、遠藤周作の『侍』を読んでたのだが、昨日とうとう読み終えた。あらすじは、侍らが主君の命を受けて欧州に行くというものだけども、正直、序盤は少し退屈したが、中盤に入って元修道士が登場した辺りからおもしろくなった。著者の作品は、「おバカさん」「わたしが・棄てた・女」「深い河」など、イエスの分身らしき人物が登場するものが多いけれども、どうやら本作の元修道士もそうらしい。
著者は「イエスの生涯」において、イエスは現実的には無力であったが、虐げられた者に寄り添い、ともに苦しみ悲しみつつ同伴者として生きたというイエス観を述べているが、本作に登場する元修道士も無力であり、教会での生活から離れ、貧しく苦しんでいるインディオとともにあることを選択したという点では、著者のイエス観にピタリと重なる。

 
キリストの同伴は、キリスト信仰の大切な恵みです。キリストの同伴など、欲しいとも何とも思ってない楽山が、何故、キリストについて物を言うのでしょう。今までの経過からは、クリスチャン芝居や、他者の言を借りて神を否定してきた楽山は、キリストに憐れみでもかけようというのでしょうか。
 
言論の責任を負わず、好きなように、キリストとキリスト信仰を対象物としてモノ化してきた楽山とシャロームは、自分がキリストや神を批判しておいて、自分が批判されることを極度に嫌います。そういう自己中の人に、キリストとキリスト信仰は憐れまれる必要も好まれる必要もないのです。
 

また本作では、これ以外にもイエスと関連させた描写が散見される。たとえば、長谷倉らは旅先で誰からも敬遠され、孤立し、枕するところもなくなったり、宣教師べラスコはいくぶん野心まじりではあるものの愛と信仰に基づく正論を述べるも、枢機卿の語る組織の論理を前に無力であったり、長谷倉もべラスコも権力者たちの政治的な駆け引きによって不条理な扱いを受け、罪無くして裁かれることになったりしている。
自分の知識では、本作とイエスとの関連はこのくらいしか見つけられないのではあるが、おそらくは自分より知識が豊富な人であればもっとたくさん見付けられるだろう。
遠藤周作の作品はまだ少ししか読んでいないけれども、どうもこの分で行くと、その作品を開いてみるたびにイエスの分身と出会うことになりそうだ。著者は生涯を通じて自分の信じるイエスについて書き続けた作家だったのだろうな。

 
キリストを暗示するような小説の登場人物からは、作者の意図を感じることが必要ですが、キリストの分身と言い、キリストご自身ではなく、分身などと言ってキリストを云々するのは、いかにも、姑息な楽山らしいやり方です。文章は、おのれの鏡でもあります。
 
ただ、楽山が、キリストの神性を認めず、イエスという弱い人間として低く評価しても、信仰を持ち得ない者の意見ですから、神聖そのものを、讃えるのではなく低く評価したい楽山、という印象しか残らないでしょう。そのほうが、一般には受けが良いと考えたのでしょうか。
 
信仰というものを、まるで知らないくせに、一段高いところから見下ろすかのように、信じてもいないキリストをあれこれと批評する見苦しい自己顕示欲は、今に始まったことではないのです。楽山が何を言っても、神聖を見下ろす立場など、どこにも存在しません。
 

*もう一人の分身
分身と言えば、本作の長谷倉は著者の分身のように造形されている。著者は幼い頃に、キリスト信者となった母親によって、洗礼を受けさせられたあと、紆余曲折を経て信仰を持つようになったらしいけれども、長谷倉もこれと同じく、役目を果たすためにやむなく形だけ洗礼を受けることにしたのではあるが、その後イエスについて考えないではいられない状況になって行く。
著者によれば、どのような形であれどもイエスと一度でも関係したら、もう二度とイエスを忘れることはできず、そのことを考えないではいられなくなって行くものだそうだけども、長谷倉もそうらしい。

 
つまり、一度も、キリストに関心があるような、弱さや罪深さや低さの立場を認めたことがなく、社交の世辞のように妄想カルトのシャロームに仲間として無条件で賛同したり、クリスチャン芝居をしたり、嘘だらけの文章を書いてきた偽善趣味の者には、決して、さわれもしない、かすることさえないのが、キリスト信仰です。
 
しかし、楽山は、自分は知っているという自尊の闇から、今日も、空しく、ちょうど良さそうなことを書いて、盲目の自尊を満足させるのでしょうか。
 
信仰は有無であって、軽重もなく、ちょうど良いスタンスもありません。信仰はインテリジェンスでもなく、知的遊戯でもありません。知らないなら、知らない自分を書くべきところを、どうしても、知っている、ということにしないと気が済まない楽山のようです。
 

*イエス観
著者のイエス観について、上で少し書いたけれども、作中では長谷倉と元修道士の問答という形で、もっと詳しく書いてある。たとえば長谷倉は磔にされたイエス像について、「あのような、みすぼらしい、みじめな男をなぜ敬うことができる。なぜあの痩せた醜い男を拝むことができる。それが俺にはようわからぬが……」と語り、これに対して元修道士は自分も昔は同じように考えたが、「今は、あの方がこの現世で誰よりも、みすぼらしゅう生きられたゆえに、信じることができます。あの方が醜く痩せこけたお方だからでございます。あの方はこの世の哀しみをあまりに知ってしまわれた。人間の嘆きや苦患に眼をつぶることができなかった。それゆえにあの方はあのように痩せて醜くなられた。もしあの方が我らの手も届かぬほど、けだかく、強く、生きられたなら、このような気持ちにはなれなかったでございましょう」と答えている。

 
みすぼらしい、みじめな、やせた、みにくい、という軽蔑言葉を、平気で使う楽山の意図は、キリストからの救いに結び付く共感も洞察力も書くことが出来ず、使命ゆえに権威あるものとして語ったことも無視して、今まで同様、おとしめに専念しています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)7:29
それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
 (マタイ7:29、新約聖書)
 

「あの方は、生涯、みじめであられたゆえ、みじめな者の心を承知されておられます。あの方はみすぼらしく死なれたゆえ、みすぼらしく死ぬ者の哀しみも存じておられます。あの方は決して強くもなかった。美しくもなかった」とも言う。

 
遠藤周作は、キリストの奇跡を否定する傾向が、少なくとも、ある時期、あったと思いますが、キリストの肉体や物に起こる奇跡は、あったか、なかったか、今の人間は証明も出来ないし知りようもありません。だから、否定することにも意味はありません。どちらを信じても、決めつけです。信じ込んだからといって、そういう奇跡は、少なくとも滅多に起こらないという現実があります。
 
またしても、楽山は、みじめであられた、みすぼらしく死なれた、うつくしくもなかった、という言葉で、逆説的に高めたふうに装いながら、実は、今までと同様、逆の逆によって、おとしめているのでしょう。
 
今までの言論の経過は、その後の解釈の方向を規定する必然があるということです。楽山が、褒めることにも、けなすことにも、信頼性はないのです。
 
相変わらず、自分で責任を負いたくないために、他者の文章をもって、当ててくる気持ちの悪さは、経過を無視して、そのとき思いつくことを書くだけという筆致に、楽山もシャロームも表れているのです。このような者たちに、今後予想されることは、物や肉体の奇跡云々より、いちばん大事な魂の奇跡さえも知らずに過ごして去ってゆくことでしかないのです。
 

自分はキリスト教信者ではないので、

 
だったら、訳知り顔に評論家気取りで書くなどということは出来ないはずです。それを、何を言われても、しないではおれないところに、霊が分かるっぽいと言う虚妄の自尊に持ち上げられた我執が見え隠れしているのです。
 

こういう著者のイエス観が、教会からどのような評価を受けているのかはよく分からないのではあるが、著者に対してはキリスト教側からの批判があるという話は聞くので、著者のイエス観はキリスト信者全体が納得できるものではないのだろうとは思う。ただ自分には、こういう著者のイエス観はよく分かるし、共感するところもある。このことを本書を読み、再認識した次第である。

 
楽山に、イエス観が分かる、ということはないのです。分かったら、信じているはずだからです。
 
楽山に、共感するところがある、ということはないのです。共感したら、今までの記事は無かったはずです。大嘘のクリスチャン芝居など出来ないはずだからです。
 
いつも、ちょうどよいと思って、嘘をあつらえる楽山は、自分の意見を修正することもなく、その場で、見繕ったことを書いて、インテリぶって、自尊を満足させているだけだと思います。そのような者の意見を、決して真に受けてはいけません。
 

*ペトロの否認とイエス
ちなみに自分は、上で語られているイエスからは、ペトロの否認の時のイエスを何となしに連想する。ペトロがイエスのことは知らないと三度繰り返したあとで、鶏がなき、「主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ22:61)という場面である。この時のイエスの目は、人のみじめさも、かなしさも、すべて承知したものであり、やさしく、さみしい目であり、それだからこそペトロも泣かないではいられなかったのではないかと…。

 
キリストの優しさと眼差しのことを、楽山が言ったのなら、気色の悪いことです。何故なら、楽山は、ボンヤリ言語と私が名付けたように、真摯に語るということが、今までなかったからです。楽山が、何故、嫌いな共感のことを書き、ペテロが泣いたことを解説するのでしょう。
 
そもそも、なぜ、信じてもいないキリストのことを執拗に書くのでしょう。知ったかぶりで揶揄したいだけでしょう。本当は、信仰より、自分の知性を自慢したい、という、欲望が、今までの記事の高慢さに表れてきたのです。それを、宗教が分かるっぽい?記事にしているだけだと思います。
 
キリストは、権威を持っていても、それを振り回して従わせるような人ではなかったということであり、キリストの共感の表れでしょう。
 
ペテロは、キリストを裏切ったことを悔いて泣いたのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:33
するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。
26:34
イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。
26:35
ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。
 (マタイ26:33-35、新約聖書)
 
ということを言っていたからでしょう。つまり、他の弟子たちも、皆、裏切ったのです。
 

福音書のイエスは、やたらと厳しすぎるのではないかと感じられるときと、限りなく優しく、さらには、もの悲しく感じられるときもあるけれども、自分はどうも後者のイエスを想像すると堪らなく切ない心持ちになるようで、それだから遠藤周作のイエスに共感してしまうのだろうと思う。

 
権威を持って語るキリストと、共感するキリストが、同一であってはいけないでしょうか。楽山の、頭と辻褄だけの考え方では、権威と、哀れみ深さは、別でないと気が済まず、その狭い了見だけで、云々するしかないのでしょう。
 
救い主イエス・キリストを信じる者は、ああでもないこうでもない・・ではなく、キリストを必要とするから信じているのです。キリストを必要としない者が語っても何の参考にもならないのに、上から見下ろして分かるっぽい?楽山は、自慢をしないではおれないのでしょう。
 
切ない心持ちになる、というのは、そのまま、真に受けてはいけないと思います。今までのような、嫌らしい当てつけや辻褄合わせや引用で、キリストも神も否定してきたことと矛盾するような、今さら、心があるような書き方が通用すると思っていることが、楽山の、真実と現実のセンスからの、白々しい的外れなのです。
 
信頼を失った者は、狼と少年、というのを覚悟しなければなりません。
それが偽善に対する宿命的な報いです。
 
 
(2019年11月17日)
 
 
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  妄想詭弁全開
 
   私の記事「無知と無恥」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4165367.html#comments
   シャローム(シャロム、shalom、あなた、彼)のコメント
 
 
またしても、執拗に、言いがかりを書いてくるシャロームからのコメントです。
相変わらず、私の言ったことを、まるで受け取らないで、妄想を語るシャロームです。
崩壊が進んでいます。これでキリスト教のつもりか、・・ってことを書いてきました。
 

1. st5402さん おはようございます
 2019年11月15日 09:12
「キリスト者は、誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない、という、人間の罪の性質を認めて、その共感とともに、信仰の道に入ります。そこから、謙虚、謙遜、敬虔が生まれます。」


st5402さんは誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、
完全ではないということが人間の罪の性質と考えておられるのですか?
そんなこと聖書のどこに書いてありますか?

 
今さら、そんなことを聞くなんて、ちょっと罵詈雑言、言います、バカなんですか。
聖書から、それを学んでいないなら、聖書を読んだことにはなりません。
 
言葉だけ受け取って、込められた心を思わない者の、哀れな結末が、シャロームに表れています。
だから、空っぽに満たされていると書いたのです。
 
神は全知全能であります。人との違いです。それで分からないなんて、信仰者ではありません。
 
そういうことなら、あなたシャロームの妄想が、どんどん明らかになっていることも分からないでしょうね。恐ろしい人間離れです。
 
あなたシャロームが、自分の言動を、神に結ぶ付けるのは、そういうところにあったのでしょうか。だとすれば、あなたシャロームは、われは神なり、と言っているようなものです。すごい人間離れ、そして、神がかりであることが、あなたシャロームによって証明されました。これが、カルトでなくて、なんなのでしょう、ということです。
 
推測し予想したとおり、あなたシャロームは、頭も、心も、脳も、どんどん崩れてゆきますね。
 
これで、まだ、聖書と信仰を教えるつもりで書いているなら、説明しても分からないでしょうし、今回も、こちらが言ってきたことを、まるで踏まえていないあなたシャロームは、もはや、人間であることをやめているのでしょう。
 
問いつめだけ書いてくるのは、何の説明も説得力もない証拠です。
かといって、
あなたが説明すれば、恐らく全部、妄想をだらだら書くことになるのでしょう。
とても醜いです。
 

聖書の冒頭の創世記1~3章すらよく読まれていないのではありませんか?
ほんとうに人間の罪の性質、その罪の共感から
本当に謙虚、謙遜、敬虔が生まれるのですか?
その共感をもとに信仰の道に入るのですか?
ほんとうですか?

 
罪を認めないあなたシャロームは、何も理解しておらず、何も受け取っていないということです。
 
信仰は、パーティーでも、お祭り騒ぎでも、おまじないでも、大売り出しでもありません。
シャロームの超常話の、共感など何もないところに、人間が信じられる良きものは、何もないです。
 
罪の認識からしか、信仰者の敬虔は生まれません。
 
共感は、神と人、キリストと人、人と人の関係を結ぶためにあります。何の共感も必要としないところには、先ず、関係が生まれていないのです。
 
あなたシャロームは、人間離れのペーパーか墓標みたいになって、
書類の偽造のように、契約を捏造しているのです。
 
シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。
 

st5402さんの実体験からの言葉でしょうが、
あなたの考えは自分を正当化しやすいための合理化ではありませんか?
そういう考えが際限のない自家撞着の原因ではありませんか?
shalom!

 
罪の自覚は、自己正当化をしない方向にあり、ゆえに、反省を促します。
 
あなたシャロームの醜い自己正当化を見ると、それが、実に、よく分かります。
 
私は、愚にもつかないあなたシャロームの意見を、今はもう、まともに受け取ることはないですが、まだ、あなたの正体を知らない人が、影響を受けないことを祈るばかり。あなたは、悲惨な病原となっています。
 
天地と人間の創造の話を、思慮も良心もないために、「はなはだ良かった」と言う神の言葉にしがみついて、自分も良かったのだと、悪いところはないのだと、有頂天気分となり、人間の罪を、全部サタンのせいにして、聖書の教えとは真逆の無罪妄想に仕立てて、そんなこと信じたらどういう人間になってしまうかも考えず、また、皆がそう信じたらどうなるかも考えず、自己正当化で悦に入るゆえに、学習も成長もなく、堕落し崩壊して、サタンのしもべに限りなく近づきつつある妄想の自家製の臓物が、あなたシャロームの信仰?です。・・と言っても分からないでしょうけど、分からないなら人間として最小限の常識もないということです。
 
まだ、撞着と書いてます。私の書いたこと、まるで読んでいない証拠です。
問い詰めるが、問い詰めた対象の意見を読まない聞かない、これがピュアな疲労物質のあり方です。
 
人の言うことを聞かず、教えようとするだけなのは、あなたシャロームが、他者を、モノ化して、さげすんでいる表れでしょう。
 
信仰は人間のためにあります。信仰?を受け取ったつもりで、人間離れするなら、そういう信仰?は、元も子もないものとなるのです。
 
 

8. shalomです。 お久しぶりです。
2019年11月15日 15:23
「批判するという悍(おぞ)ましいことは、早く終わりにしたいのですが、書けば、シャロームが、また・・・書いてくるので、また、批判せざるを得ない状況です。」とのことですが、
早く終わりにしたければ、あなたに自由意思があれば、いつでも終わりにできるのです。終わりにするか、しないかはあなたの意志の決断にかかっているのです。

 
あなたシャロームが、キリスト教ともキリスト信仰とも真逆のことを、平気で記事に書いてくることから、私の批判は始まっています。
 
シャロームは、丁寧語とは裏腹に、恐らく、茶化しているわけです。
 
信仰者のブログは、他にもいっぱいありますが、批判しないブログがいっぱいあるのは何故か、ということを一度も考えないあなたシャロームだから、こうなっているのです。
 
しかも、批判の意を汲むことが出来ず、執拗に、同じような超常話を書き続けるから、批判は持続するのです。あなたが、自分の異常性に気づかず、異常性をごまかして、吐き気のするような嘘の飾りの讃美言葉と言い逃れの詭弁を並べるあいだ、ずっと続くということです。
 

「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」とのことですが、8年間絶え間なく、書き続けているのはあなたでしょう。
それはあなたのブログを読めばだれでも理解できるでしょう。
私はコメントを未承認にしたり、時には削除したり、コメント欄を閉鎖したりしました。今も数多くのあなたのコメントが未承認のままミイラのように眠っています。間もなく消え去ります。

 
批判される必然を持っていて、あなたシャロームが書いて、いつもいつも排泄してきて、キリスト教のつもりで、福音をけがし、キリストをけがしているから、妄想は妄想だと言わなければならない必然があるわけです。批判対象となる文章が無ければ、批判は生まれない、という当たり前のことが分からないとは驚きです。被害者意識しかないのは、自己中心の特徴です。
 
何も理解していないのに、何も気にしないで書いてくるのは、あなたシャロームに、反省がなく、学ぶ意志もなく、妄想だけがあるからです。それをキリスト教・キリスト信仰だと思われてはいけないのです。妄想に憑りつかれているのは、あなたなのです。今となっては、分からないでしょうけどね。
 
だから、この人の言うことは、全部、間違っていて、正反対ですと、言わなければならない、という私の課題が消えようもないわけです。言論の責任を負わないならば言論の自由もないのに、おかまいなしに、言葉の暴虐を尽くして、聖書も信仰もけがして平気でいられるあなたシャロームの異常性は、これからも、ずっと批判の動機を与え続けるでしょう。
 
また、今日も、あなたシャロームの、レコーダーのような、以前とまるで変わらない、反論にも弁明にもならない不平の集積されたゴミのようなコメントを見るのは、極めて不快ですが、そのように、シャロームは言ってることが逆で、偽善の勧めに過ぎない、というアピールをしなければならないのは、最初からあなたが原因だからです。
 
批判のはじめから今に至るまで変わらない背教と、とんでもない妄想教理を、あなたは、示してきたわけだから、その責任を問われるのは、もはや宿命なのでしょう。
 

「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」と
他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのものです。

 
根拠のない決めつけが、あなたシャロームのお家芸として続いています。
 
わたしは、あなたを批判しています。神ではありません。アダムとエバの話は、人間一般の罪人の姿を表します。あなたは、また、間違えました。それが、修正不能になった偽善者の悲惨な経過です。あなたシャロームは、いつもいつも偽善の典型だけを示してきました。
 
今日のコメントは、妄想に憑りつかれて訂正不能になっている者の典型的な発言です。神は、あなたシャロームのような、不平ばかり言うような横暴な者の味方にならないのことを、カインの話が示しているのです。
 

あなたの自由意思は罪の鎖につながれたまま支配されているのです。
イエスさまは私はあなたがたに自由を与えると約束されましたが、
あなたはその自由をイエスさまから受け取ってはいないのです。

 
自由意志を、自由ではなく、罪の鎖だと、逆説を言いながら、解説を書かないのも、あなたシャロームの特徴です。あなたは、何も説明が出来ないのだから、説教など出来る人ではありません。
 
主イエスが与えるのは、魂の自由と解放という救いであって、あなたシャロームが表してきたような妄想による修正不能の自己中心の自分勝手ではありません。
 
 

9. shalomです。 お久しぶりです。
 2019年11月15日 15:25
コメントのおしまいに
「シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。」書いておられますが、


私からのst5402さんのブログ訪問やコメントは脅しであったり、嫌がらせであり、嫌がりそうなことなのですか?つまり荒しであり、
あなたの私のブログ訪問や無数のコメントも脅し、嫌がらせの類だった、荒らしだったのですか?私はそう判断しましたので、未承認にしたり、削除したり、コメント欄を閉鎖しましたが、あなたの意思に従うのではなく、それが私の意思による決断でした。

 
あなたシャロームが、通らない文句を何度も言って、荒らしと同じ働きをしています。荒らしの易坊と息が合うわけです。
 
そういうふうに、批判を受け取らず、未承認~削除という対応しかできないことが、あなたシャロームが、反論、弁明、説明が、全くできないということを明確に表してきました。説明が出来なくて、言うだけは言う、という言論のやり方は、ありえません。
 
だから、あなたシャロームの意志は、狂っています。何か言われて、答えることのできない者が、特徴的に、安易にとってしまう強制力は、暴力であり、自尊の過大な妄想が固定観念になったものです。
 

あなたに荒らしだと指摘をされた人はかなりおられましたね。
そういう人にもあなたは荒らしだと逆レッテルを張り、成りすましだと邪推し、決めつけられましたので、皆さん離れて行かれましたが、
そうだったためしがありません。

 
批判を受け取らず、悪口と同様に、荒らしだから削除すると、いちばん言っていたのは、あなたシャロームです。言い返せないで、そう言うのは、カルトの特徴です。
 
私は、根拠を、何度も何度も示してきました。あなたシャロームは、言論というものを全く理解できないから、あなたの発言に、その度に、批判を当ててゆくしかないということです。
 
こういうことは、前にも、何度も書いてきましたが、また、同じことを書いてくるあなたシャロームは、内省不能の自覚のない惨劇とでも言うしかありません。
 

いつでも遅いということはありません。
今は恵みの時、救いの日であるという言葉が聖書にはあります。
きっと、ご存知でしょう。
shalom!

 
恵みの時、救いの日を、ずっと拒否し続けているのが、あなたシャロームです。
 
遅いも早いもなく、批判の必然は、あなたシャロームにあります。私は、キリスト者ですから、詭弁をいくら重ねても、同じことを何度言っても、その都度、卑怯で汚いあなたシャロームに、改めて、新しい批判を書く動機になるだけです。
 
 
このように、シャロームの言から、信仰者が、決して陥ってはならないところの、誤解、曲解、妄想とは、どんなものか、ということを学ぶことだけは可能です。
 
 
(2019年11月16日)
 
 
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  無知と無恥 (補足記事)
 
 
シャロームの言は、信仰に根差していないと判断しています。シャロームという人は、本当に、詭弁と言い逃れと騙しと罵りの小細工だけを覚えてきた人なんだと実感しています。
 
そういう者を批判するという悍(おぞ)ましいことは、早く終わりにしたいのですが、書けば、シャロームが、また、ボロ布のような作りごとを並べて書いてくるので、また、批判せざるを得ない状況です。
 
シャロームを、キリスト教についてただ頑固なだけの人だと思ってはいけません。彼は、そんな微笑ましい人物ではありません。権力を持たないのが、せめてもの幸い、と言ってよい人です。
 
底知れない不感不応で、訂正不能の妄想をもって、人を、騙し貶める者です。どうか、生きながらにして滅びる落とし穴からの獣道を、誰も、シャロームとともに歩むことのありませぬように、祈っています。
 
まず「嘘と世辞と侮辱(4)」において
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12542381051.html
 
(シャローム)

イエスさまは言われました。
 「私は平安をあなたがたに残していく。
わたしの平安をあなたがたに与える。
わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。
あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな。」
 (ヨハネによる福音書14章27節)
st5402さん あなたはイエスさまがどのような状況で
弟子たちに語られたのかをご存知ですか。
イエスさまが私が与えると言われた平安はありますか。

 
(記事に私が引用)
14:29
今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。
  (ヨハネ書14:29、新約聖書)
 
私は、次のように書きました。
 
「聖句の中の、事が起った時、というのが、キリストの死と復活なのか、終末なのか、私は知りません。しかし、それが、シャロームのような偽善者を喜ばせるものでないことだけは知っています。」
 
そして
「嘘と世辞と侮辱(5)」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12543556446.html
に表れたシャロームの侮辱を、もう一度、書いておきます。
 
(シャローム)

答えは「聖句の中の、事が起った時、というのが、キリストの死と復活なのか、終末なのか、私は知りません。」でしたね。
stさんの答え・・・
それは私は福音がわかりません.、知りませんという告白の言葉です。

 
ここぞとばかり、シャロームは、私の無知を、あざけるわけですが
 
信仰において、無知は罪ではありません。学習すればよいことです。
ここで、無知だと告白したと喜ぶシャロームの言は、実に醜いのです。
 
さらに、知らないことがあるからといって、
福音を知らない、という結論は、どこからも出てきません。
一から十まで間違っているシャロームであります。
 
シャロームが、自ら、いかに、自分の知識をひけらかし、それで、人をおとしめて喜ぶ人間であるかということを示しているのです。
 
ここにおいて、既に、シャロームが、恥知らず、すなわち、いかに無恥であることが表れています。
 
キリスト信仰は、無知を理由に、救われないような信仰ではありません。
 
しかし、キリスト信仰においては、
無恥の者は、敬虔のない者として、自ら救いを拒む者ということにになるのです。
 
シャロームに対して、私は、次のように、答えています。
 
「知らないなら、知らないと言います。私は、聖書に精通している者ではない。
私は、空っぽに満たされているあなたシャロームと違って、人間だから。」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12543556446.html
 
このように、知らないということ、すなわち、無知を、神の前で、隠さずに言うことが、信仰者の節操となります。
 
そうして、知ってるつもりのシャロームの答えはどうでしょう。
 

ヨハネ書14:28-29のイエスさまの言葉も十字架の苦難と死を前にしてのイエスさまの言葉なのです。

 
答えとして、何か、詳細な情報でも知っているのかと思ったら、
 
「どのような状況で弟子たちに語られたのか」と問いながら、
シャロームの答えは、
「十字架の苦難と死を前にしてのイエスさまの言葉」と言っています。
 
そんなこと、キリスト者なら、誰でも知っていることなのです。
 
私「私が上のヨハネ書の聖句について、いつのことか、はっきりとは知らないと正直に言ったら、私が知らないことを罵りながら、あなたの言うところの答えが、十字架を前にして、ということなら、キリストの使命が十字架ですから、公生涯全部が当てはまるでしょう。」
 
ただ、十字架を前にして、というのが、実際に、十字架を眼で見ていたかというと、
キリストが十字架につけられるとき、弟子は、大方、逃げていました。
 
一番弟子のペテロさえも、十字架の主イエスを前にして、鶏が三度鳴いて、ペテロが泣く、という話にあるように、逃げました。そして、自らの裏切りを悔いて、泣きました。
 
したがって、十字架に付いた時には、弟子に語ることは出来ません。十字架を目で見ていたということではなく、もっと前の、十字架の苦難と死を前にして、キリストが、十字架を、既に、考え、知っていた時ということになります。これは、キリストの公生涯の全部なのです。
 
私「それくらいのことなら、当たり前のことです。人をバカにして、言うほどのことでしょうか。あなたシャロームは、おとしめる目的だけで、実に、くだらないことを言っています。あなたが知ったかぶりで言う時って、本当に災いですね。」
 
さらに、キリストを裏切った張本人であるユダさえ、
裏切ったことを悔いて、キリストの復活を知らないまま自殺しました。
なのに、シャロームは、悔いることがありません。
 
さて、シャロームは、十字架を前にして、という、誰でも知っているような、曖昧な答えしか用意していないのに、いつなのか、はっきりとは知らない私を、福音を知らない、という言葉を吐いて、おとしめているのです。シャロームは、人をあざ笑って快感を得る人なのでしょう。
 
つまり、シャロームの偽信仰は想像を絶するものがあるということです。
 
誰でも知っている、十字架を前にして、ということしか語れないシャロームが、こういうことで、人を侮辱して、しかも、キリスト信仰者であることとは何の関係もない、無知を、あざ笑っていることが、即、シャロームの無恥を表しているのです。
 
シャロームはどういう人物でしょうか。キリスト者の弁えを何も持っていない、そして、相手に、不十分なところがあれば、それを利用して、あざけり、それによって、自らの優越を誇る人であることを、彼は自ら表しているのです。
 
このような、シャロームの性質は、キリスト者にはありません。ないだけではなく、このような性質、すなわち、他者をおとしめて自らの知識を誇るなど、キリスト者にあってはならないことです。
 
キリスト者は、誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない、という、人間の罪の性質を認めて、その共感とともに、信仰の道に入ります。そこから、謙虚、謙遜、敬虔が生まれます。
 
シャロームのように、丁寧語で敬虔を表したつもりで、聖書の半端な知識で、聖書の先生を自負して、他者を嘲笑う者などは、キリスト者の風上にも置けない者であることが、はっきりと表れているのです。胡散臭さが特徴のシャロームなのです。
 
(ネットより)
風上にも置けない:
風上に嫌なニオイを放つものがあると、その臭いが風下にどんどん溜まってしまい、非常に臭くなってしまうのです。 つまり、「風上にも置けない」は「風上の悪臭は風下に向かってやってくる。。(つまり、風下にいる人はたまったものではない)」という科学的な根拠から来ています。
https://biz.trans-suite.jp/20717
 
だから、私は、書きましたし、いつでも言います。
私「知らないなら、知らないと言います。私は、聖書に精通している者ではない。
私は、空っぽに満たされているあなたシャロームと違って、人間だから。」
 
どうか、シャロームのような、偽者の、現代のパリサイ人の、偽善者の、恥を知らない愚か者を、ひとときでも、ほんの一部でも、信用することのないように気をつけてください。
 
シャロームは、人に関われば、人を疲れさせて、滅びに導き、自分を高める材料にすることしか出来ない者です。そのことで、シャロームは、逆に、自らを滅びに定めています。
 
あらゆるキリスト信仰とは真逆の偽善者であり、自己中心の自己絶対の妄想家です。
キリスト者と分かち合えることなど、何一つ持っていない人、それがシャロームです。
 

パウロの弱さ自覚はst5402さんのような弱さの偽装ではないでしょう。パウロの弱さ自覚は自己の全人格にかかわる生ける神のみ前におけるみじめな死の身体としての全存在にかかわる自覚であって、人間は誰でも弱いという単なる人間の言動における弱さの自覚ではないのです。 

 
シャロームは、私について、単純に、批判しているから弱さが無い、偽装だ、という短絡した判断を言っています。私は、シャロームに対して、弱さゆえに受け容れて破滅するなんてことのないように、言うべきことをはっきり言うわけです。信仰を偽装という言葉で裁くシャロームは、信仰を舐め切っているだけなのです。
 
「人間は誰でも弱いという単なる人間の言動における弱さの自覚」さえ持っていないし、弱さということが信仰に持つ深みも理解もしていないシャロームは、
 
やたら重たい言葉、全人格、全存在、などという大仰なだけの言葉で飾って「自己の全人格にかかわる生ける神のみ前におけるみじめな死の身体としての全存在にかかわる自覚」だと豪語して、
 
神の前に、自分はこんなにも重大だと思っていると見せかけようとしますが、この飾り言葉に騙されるような神ではないのです。
 
またしても、弱さ、という、誰でも理解できる言葉を、超常神秘の大仰で難しい言葉に変えて、自分は分かってる感を出したいようですが、みずぼらしいかぎりです。言葉が伝わった先を考えず、自分で発するだけで自己満足してきた結果が、これなのです。
 
信仰は、大袈裟な言い方をすればいい、というものではないのです。中身が空っぽの人ほど、飾りたがるという表れです。
 
このように、シャロームは、しばしば、造語的な大袈裟な言い方をしますが、その結果は、いつも、自ら性根の卑しさを露呈するだけなのです。
 
 
キリスト教は万民救済を目的としています。しかし、誰でも気安く救われるわけではなく、信仰には最低限必要な節操とか弁えというものがあります。シャロームと付き合って、批判して、分かることがあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
 (マタイ5:4、新約聖書)
 
この聖句を、私は、最近、若い頃に比べると、経験から、少し広がった印象で見ています。
 
救われる人間は、悲しみを知っている。そこから罪の自覚と反省と悔い改めが生まれる。
 
救われない人間は、悲しみを知らない。快楽原則の快においては、愛想笑いか、ゲラゲラ笑うか、あざ笑うかであり、不快においては、不機嫌、怒り、憎しみ、恨み、といった陰性の攻撃的な感情だけで、他者のせいにして反省せず、それゆえ罪を自覚できない。
 
 
シャロームの、わざとらしさなのですが、シャロームは、コメントを、ライブドアのほうに書いてきます。そして、そこで、私のライブドアブログを見る人が少なく、仲間がいないこと、コメントを書くのは自分つまりシャロームだけ、ということを書いて、私をおとしめ、仲間のいるシャローム自身を高めようとするのです。
 
シャロームは、アクセスやコメントの数で、ブログの価値が決められると思っているのでしょうか。それで、おとしめられると思っているという程度の低さを一度ならず表してきました。けなせば相手にダメージを与えたと満悦するのでしょうか。とてもじゃないが宗教や信仰を語れる人物ではないことを、自ら露呈してきて、なお平気でいられるのです。
 
シャロームは、約8年間の批判によって、素っ裸になっているのです。本人が何も感じないで、嫌がらせを書いてくるだけの孔だらけの空しい軽石のようなものになっています。
 
まことに、自尊だけからの信仰?と言うのは、社交の世辞に、言葉だけの感謝と讃美?をまぶしているだけの説得力のない受け狙いであり、一般の人が、時間を費やして読む価値は全くないものであって、さらに、丁寧語に騙される危険があるのでは、百害あって一利ないものです。
 
だから、シャロームに対しては、全部、罵詈雑言だけ返してもいいようなものです。しかし、そうすると、私のブログが、内容のない空しく汚いことばだらけの印象になるので、できるだけ控えて、冷静に書こうとしています。完全にではありません。
 
理路を全く理解せず、読んでもいないだろうと思われるシャロームに対して、本音を掘り返すために、時々、罵詈雑言や、特に辛辣な比喩を、書いています。理路を理解しない以上、世辞や丁寧語だけでは、ここの引用にもあるように、気持ちの悪い世辞を返してくるだけだからです。
 
そして、出来た記事を読んでほしいのは、理解力のないシャロームではなく、一般の読者であり、シャロームに近づいてはいけないことを広める目的であることは、言うまでもありません。
 
 
それと、このように、いくら批判しても、対象の悪と背教を良くするのが不可能という場合でも、悪い例は、その者が全く知らない正反対の対極に、良い例、即ち、福音を表している、ということがあります。それを知るために、なお、批判には意味があります。
 
すなわち、憎むべき最悪の悪であるところの偽善は、いつも、その対極に、愛すべき真実を暗示するという役割だけはあるようなのです。
 
 
(2019年11月15日)
 
 
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  無記名投稿?
 
   虫のように迷惑
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   コメント欄
 
 
私の記事に、シャロームのコメントです。楽山の応援でしょうか。無記名ですが、読んでいるうちに、シャロームだと分かります。シャロームの、丁寧語と、根拠なく強がる言い方との、アンバランスが見えてきます。シャロームの強がりは、みな、訂正不能の自己中と傲慢から来ています。
 

1. st5402さん おはようございます
 2019年11月13日 08:49
「人間の意見というものは、同じ集団でも一致は、なかなかしないものであり、ゆえに議論のあるところだと思います。楽山は、安易に引用し、安易に比較していると思います。こういうのを、決めつけと言うのです。」


人間の意見は一致しない…だから議論のあるところ・・・は結構ですが、議論の結果、必ず一致するわけでもありません。人間は有限で、相対的で死すべき存在ですから、人間の意見はすべて限界があり、相対的、むなしく消え去るものです。聖書には人の言葉は過ぎ去ると書かれています。だから、引用し、比較することは当然でしょう。

 
どなたですか。妙に丁寧に書いていますが、シャロームですか。
コメント者の名前を書いてください。
 
記事の引用部分は、キリスト教組織内部のことを書いているのですが、それはいいとしても、
必ず一致するわけでもない、有限、相対的、ということと、むなしく消え去るもの、ということとは一致しません。
 
「聖書には人の言葉は過ぎ去る」とは、どこに書かれていますか。文脈は、正しく把握しているのでしょうか。また、一面的な意味で使っていませんか。
 
「引用し、比較することは当然でしょう」の意味と意図が不明ですが。
 
いずれにしても、ならば、だからこそ、聞く耳を逸らしてはいけない、ということです。
 

それを決めつけと決めつけるなら、st5402さん、あなたが他者を批判し書いていることはすべて決めつけになりませんか。

 
決めつける、ということは、訂正不能にする、ということです。記事に書いたことですが、断定表現にも「と思う」は付いてくるわけですから、私のほうは修正可能です。ただ、私が意見を修正するだけの説得力のある記事とコメントの文章が無ければ、修正のしようがないわけです。
 

わたしには人間としての理路、人間らしい心があるから、私が書いている批判は正しい批判だと決めつけ、他者の人格否定、誹謗、中傷で満ちていますが、そういうのを自家撞着というのです。

 
(ネットより)
「自家撞着」という四字熟語の意味は、自分自身(あるいは同じ人)の言ってることや行っていることの辻褄が合っていない様を表している言葉です。
https://driver-times.com/driver_work/driver_biz/1057650
 
自家撞着の意味が間違っていると思います。撞着は突きあたる、つまり矛盾のことで、そういう意味なら、矛盾を指摘しないといけません。執着と勘違いしていませんか。
 
言いがかりの詭弁ですね。
楽山とシャロームの言に、人間としての理路も、人間らしい心も、感じないならば、それを、どうして、正しいと言えるか、ということを考えれば、明らかであり、批判することは、正しい、と言うより、必然であります。
 
「他者の人格否定、誹謗、中傷で満ちています」などと言われても、根拠があってのことです。人格が異常ならば、人格も批判対象になります。
 
楽山とシャロームは、状況に、まるでそぐわないような丁寧語で、人を、おとしめてきます。そういうのを、殴られるより悪い、という言い方をします。丁寧に書けば礼儀に適うとは限らないのです。経験からの学習を怠ってきた結果でしょう。
 

あなたはその天才か?それともミイラ取りがミイラになったということでしょう。

 
丁寧語が、崩れてきました。
上に書いたことは、天才でなくても、当然、分かるはずです。何を言っているのですか。
 

あなたほどではないと思いたいのですが、言い過ぎでしょうか。
朝から申し訳ありません。失礼しました。

 
乱暴な言葉 + 謝罪の言葉、あなたの言は、一貫性がありません。
 
楽山の言は、根拠が無く、訂正不能で、説得力もなく、子供が通念的なことから思いついたようなもので、大人が信仰に当てはめるには深みのない固定観念です。
 
シャロームの言は、根拠が無く、訂正不能で、説得力もなく、神聖を自らに結び付けており、ずっと変わらないから決めつけであり、すこぶる異常であり、妄想です。
 
上のコメント者のボックスに shalom と書くようにしてください。
無記名の場合、また、卑怯者という形容が強化されるでしょう。
それと言葉に注意を払ってください。結局、全部、記事にしていますので。
 
 

8. st5402さん おはようございます
 2019年11月13日 11:44
「私自身が、バランスのとれた中立で柔和なキリスト者でありたいとは思っていないから」


賢明なあなたにはわかるでしょう。
アドラー心理学によれば、公平にあなたにも、私にも、
ほっときなさいということだと思いますが・・・。
コメントするのは私だけですから。

 
いつも強がり、上から物を言うあなたシャロームは、やはり愚かです。
それに、私が批判しているアドラー教を持ち出すとは。
 
ほっときなさい、・・誰の言葉でしょう、今、あなたが言っているだけです。命令形は笑止です。
ほっとくかどうか、これは私の課題です。アドラー教、分かってないですね。
 
それに、私は、誰にも、ほっときなさいとは言っていないわけですし。
 

「私は、今回も、罵詈雑言を挿んで書いていますが、」とのことですが、いつものことだと誰もが分かっていますよ。

 
だから、今回も、と言っています。やっぱり、人の話、聞いていないですか。
 

「それと言葉に注意を払ってください。結局、全部、記事にしていますので。」
いいですね。言葉に注意を払う、お互いに。
恥はわがものですから、
どうぞ全部記事にしてください。
shalom!

 
こういう言い方が、強がり、さらに、脅し文句みたい、とか考えないですね、あなたは。
 
私は、言葉に注意を払った結果です。丁寧語で書けば、あなたは、世辞を返して、何も気にせずに無視できるからです。それが、あなたシャロームの生き方だと分かっています。
 
恥も罪も認めたことのないあなたシャロームが、恥はわがもの・・とは、恥も気にせず無視できるのならば、それは、恥知らず、または、無恥と言うのです。
 
これからも、あなたシャロームは、自己中心、無視、無理解、無反省、無知と無恥、神聖妄想を、惜しみなく漏らしてゆくでしょう。
 
 
ここに表れているのは、言い換えれば、正直な人や、キリスト者は、自己中心ではない、無視はしない、理解に努める、反省する、神聖を自分に引き寄せた冒涜などしない、ということです。
 
 
改めて補足

アドラー心理学によれば、公平にあなたにも、私にも、
ほっときなさいということだと思いますが・・・。

 
アドラー教は、課題の分離ということを言っています。公平に・・ということとは違うでしょう。
むしろ、アドラー教で、今、問題となっているのは、自己中と受け取られやすいということです。
 
シャロームは、課題の分離ではなく、課題を統一したかのように、アドラー教より上の立場から、公平に、と言っています。これは、至上の神の目線なのです。これは、神と人との未分化、というより、未熟または無恥であり、シャロームの、自己の破綻をもたらしています。こういうことが随所に表れてくるのが、神聖引き寄せシャローム教カルトの特徴です。
 
 
(2019年11月14日、同日一部修正)
 
 
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  虫のように迷惑
 
    2019年11月12日
   『神は妄想か?』の感想つづき
   http://mn266z.blog.jp/archives/22036873.html
   楽山日記(仮)
 
 
心で聖書の言葉を受け取ることの出来ない楽山は、またしても、反信仰、反キリスト教の記事を、辻褄をいじって書いてきます。こういうところからは、信仰は生まれないという記事です。楽山は、神を、自らの視野の中に収めようと、いじくっているだけです。感性の直観がないのでしょう。
 

マクグラスの『神は妄想か?』で、ルターの考え方を紹介した箇所があったのでメモしとく。
著者によれば、ルターの考え方は次のようなものだという。「神は人間がまず何かを神に対して行うように要求することなく、人間に救済というすばらしい賜物を与えてくださるはずであるというキリスト教信仰の中心的テーマは、人間理性によっては決して完全に理解されえないということであった。通常であれば、人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要があるとの結論を出すであろう。だがその考えは、救済を人間が努力して獲得するもの、あるいは人間が救済に値するものと見なしているのであり、神の恩恵という福音を傷付けるのだとルターは考える」(pp,29-30)

 
「人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要がある」というのは全く通常ではありません。これは、人に気に入られようとする処世などの話です。それで神を語ることは出来ません。楽山は、嫌らしい俗物の話を、神との関係である信仰に持ちこんで、信仰をけがしています。
 
人間には、心に感じるということがあるのが通常ですが、楽山には、その感性がないために、神への信仰につながる何ものも持つことが出来ないのでしょう。
 

この辺りに関連したことは、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史(下)』の12章にも記述があった。ここではカトリックの考え方も提示して、宗教戦争と絡めて説明している。
プロテスタントは神の「神聖な愛は限りなく偉大なので」「神への信仰を告白した者全員に天国の扉をあけ放ったと信じていた」が、カトリックでは「信心は不可欠ではあるものの、それだけでは十分ではないと主張した。天国に入るためには、信者は教会の儀式に参加し、善行をなさなければならない」といい、これに対してプロテスタントはそういう「報いの概念は神の偉大さと愛を見くびるもの」であり、また「天国に入れるかどうかは自らの善行にかかっていると考える者は誰であれ、自分の重要性を誇張しており、十字架に架けられたキリストの苦しみと人類への神の愛は不十分だと言っているのに等しい」(pp17-18)としたという。

 
この引用は信頼度ゼロの楽山によるものですが、本当でしょうか。そもそも、カトリックで意見は統一されているでしょうか、プロテスタントで意見は統一されているでしょうか。人間の意見というものは、同じ集団でも一致は、なかなかしないものであり、ゆえに議論のあるところだと思います。楽山は、安易に引用し、安易に比較していると思います。こういうのを、決めつけと言うのです。
 

ちなみに、信仰と行いについては、アスランの『イエス・キリストは実在したのか?』によれば、エルサレムにいたヤコブと、他の場所にいたパウロとでは意見対立があったとしていた。一応確認してみると、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)と、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)というのは、確かに衝突しているようではある。

 
楽山の浅知恵が、また曲解を広めようとしています。
「信仰を持っていると言う者がいても」、信仰を持っているとは限らないわけです。最悪の例が、シャロームであります。彼は、もはや、悪魔のほうに近い悪意の存在と化しています。
 
信仰の義というものは、本当の真実の信仰があれば、信仰者らしい行いが伴うはず、ということが前提であります。そこを考えることの出来ない楽山が、信仰と、行いを、言葉だけで勝手に独立させ分離して、またしても、混乱を招くような嫌がらせをしています。甚だ迷惑です。
 
楽山こそ、クリスチャン芝居をしたり、否定したり、好きなように妄(みだ)りに書いて、人を迷わせる者となっている反キリストの偽善者であります。シャロームより分かりにくい分、質(たち)が悪いかもしれません。
 

最後に、現時点での自分の考え方を述べておくと、実際的な面からいえば、信仰のみでよしとするよりは、信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべしとする方がよさそうではあるが、

 
楽山は「信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべし」と、小学校の道徳のような安っぽいことを言っていますが、そのことさえ全く守らず、嫌がらせばかりしてきたのが、楽山とシャロームなのです。
 
それに、人間が信仰を持つ、ということを、全然、理解していないから、さらに日々善い行いをする、などと、行いを別のものとして、書き加えるのです。
 

現実への影響は考慮せず理屈だけで考えれば、信仰のみとする方が筋が通っているようには思える。

 
理屈だけで考えるのは楽山の壊れた理路であり、楽山は、心で感じ取れないから言っているのです。
 
ですから、申し上げます。理屈の辻褄だけを追ってはいけません。信仰のみ、という言葉について、人間を考えてください。真の信仰を与えられた人間は、どう行動しますか。あれは信仰だから別とばかり、悪いことをするでしょうか、否です。
 
楽山の低劣な詭弁に、決して誰も関わることのないように、
主イエス・キリストの御名によって祈ります。拝。
 

たとえば神は絶対であれば、人の行いによってその判断が変わるはずもなく、もし人の行いによって救う救わないの判断が変わるのであれば、神の判断は人に依存していることであって絶対ではないことになってしまうだろうし、

 
楽山は、神を、おのれの堕落した頭の中に、安いイメージの存在として描き、神の不変をもてあそんでいます。神は、人の知恵で、ましてや、楽山などの浅知恵で測れる御方ではありません。
 
神は、全知全能ですから、既に、総てを承知の上で、人の成り行きを定めているわけです。神は、人に依存しているのではありません。来るべき人が来て、ご自身の前に正直な告白を捧げるのを待つ、という有り方を選んでおられるとも思います。
 
しかし、神は、神は、・・の辻褄だけで考えていると、楽山のように意地汚い罠に陥るだけでしょう。そう、罠に堕ちているのは、楽山なのです。でき損ないの思路で、いちゃもんだけを、繰り返している、その口は、神の敵たる何者かに寄ってゆくようになるのでしょう。もはや、その代行者のようです。
 

それに神の愛が無限であればその愛は人の行いによって左右されるような小さなものではなかろうし、だいち人は先天的な資質、環境などが整ってこそ…もっといえば神による支援、導きがあってこそ善行が為せるのであって、

 
神の無限を、いつも無限の愛だけを注いでくる、というような楽山の気安い神?実験室からの暴言です。恐らく、楽山やシャロームは、神の愛のひとかけらも知らないままで終わるのではないかと思います。
 
神と人は、双方向です。人が祈り、神が導きますが、それは人に、いつも分かるようなものではありません。全知全能の総てを知りえないからこそ、信仰者は、その存在と可能性を唯一の希望として生きるのです。
 

人が独力で善行を為せるし、それによって自分で自分を救えるというのはいささか傲慢にすぎるように思えなくもない。そんな風にいろいろと考えると、行いによって救われるというのは何かちょっと違う。

 
知る限りでは、独力で何の善行も為しえていないばかりか、人を惑わすような臭い言葉ばかり、婉曲的に書いて、人を、怒らせて、快感を覚える楽山です。ベースの感情は、不機嫌と嘲笑いで、シャロームと同様だと思います。
 

神様を信じるのも大事ですが、行いにも気をつけましょう、善い行いをするように努めましょうというのであれば了解できるけれども、行いによって救われる、行いがなければ救われないというところまで行ったら行き過ぎだろう。個人的には知行合一的な考え方には魅力を感じないこともないけれども、それを人に可能とし、自分だけでなく他人にも義務づけるかのような発想は無茶だと思う。

 
またですが、楽山は、小学校の道徳のような、甘くて易しく優しい言い方をしないと分からないようです。しかし、小学校レベルの言い方は、大人は、むしろ、不十分だから、しなくなったのです。
 
楽山は、小学校レベルにとどまっているのでしょうか、だったら、ここに書いたりせず、小学校に行くべきです。それとも、さらに親身になって、ほおずりでもしてほしいのでしょうか。
 

ついでに恥ずかしながらもう少し自分語りをすると、自分は元々は宗教の教えは実践しなくては意味がないという考え方をしていた。その頃は、ヤコブの手紙にすごく共感したのだった。上に提示した「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)という言葉など。

 
同じことを繰り返す厄介となっている楽山は、宗教の教えを実践したことがあるとは、到底、思えません。現に、くだらない軽口で、邪魔ばかりしているからです。
 

でもその後、自分には実践は無理じゃないかと感じるようになった。三浦綾子のエッセーで、聖書の一節を徹底的に実践してみることを推奨しているものがあって、自分なりにそれっぽいことにチャレンジしようとしたものの全然だめで、自分の至らなさを実感してからは、今度はパウロの言葉に感動するようになったのだった。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ロマ3.20)など。

 
皆、楽山の信仰?実験室での、リトマス試験紙だけのように安い思考実験だと思います。楽山の今までの文脈から、良心と呼べるものを感じたことがありません。くだらない軽口で、邪魔ばかりしているからです。
 
教えを実践しようと努める信仰者は、自分の至らないことを知っているので、このような軽口は叩きません。体験談ではなく、ヘラヘラ笑って見せびらかす自己顕示欲だけを感じます。
 

ただ自分は無宗教なので、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)という考え方はよく分からない。宗教を信じて、それゆえに自分は救われたと実感して歓喜している人はいるし、自分もそういう感覚を味わったことは無くもないので信仰によって救われるというのは分かるようにも思うが、信仰のみによってしか救われない、信仰が無ければ救われないという風になるとちょっと分からなくなる。

 
無宗教が、何故、知ったかぶりをして、聖書や本の言葉などを書いてくるのでしょう。分からないなら、求めるべきであり、信仰者の言うことを聞くべきであり、文句を言える段階ではない。
 
楽山の、いつもの到達点である、ああでもないこうでもない、結論がまるで出てこない、というボンヤリ言語の話になってきました。楽山が、「そういう感覚」というのは、恐らく、カルトやカルト的な人に見られるところの、冷たいのに押しだけ強い薄笑いの悟り顔のことでしょう。既に、楽山の書く文章に表れているのです。とても気持ちの悪い筆致として。
 

上にちらと書いたように、神が絶対ならその判断は人の行いのみならずその思いにも影響を受けることは無かろうし、その愛が無限であるならその人の能力を超えて到底実行できないようなことを救いの条件として設定したりはしないだろうと思うので…。なんといったらいいか、大概の宗教は救いについて何らかの条件を提示しているものであるし、神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ないような感じがする。神を信じるほど宗教は信じられなくなるというのはおかしな理屈のようでもあるけれども、自分はどうもそうなってしまうようだ。

 
また、神?実験室の話です。神と人は双方向というのは、何度も書いてきたことですが、楽山は、人の意見などどうでもいい人なので、全く学習効果がありません。書くことと教えることだけに、満悦するというのは、シャロームと同じです。ゆえに、成りすましを疑っています。
 
決めつけはよくない、という記事も書いた楽山が、神を決めつけています。
 
上の「大概の宗教は救いについて何らかの条件を提示しているものであるし、神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ないような感じ」
 
このお粗末な宗教観・信仰観は何なのでしょう。
 
キリスト信仰に、取引のような条件はありません。神との契約は、信じて頼む契約です。神の前に、祈りにおいて、正直でさえあれば、信仰は、成立します。信仰をねたんで、自らの不全を認めない楽山の、これは、埒(らち)もない攻撃であります。
 
楽山は、自分が一番偉大だと思っているから、神に嫉妬でもしているのでしょうか。そして、神が偉大であれば、ではなく、神を偉大とすればするほど無宗教になる、と言っています。どうして、人が、ましてや、楽山が、神を偉大とするかどうかを決めるのでしょう。神を、楽山の机上で扱えるオモチャにしてしまう、これが、楽山の恐ろしい決めつけです。
 
「感じ」と書いていますが、だまされないようにしてください。ひどいことを言っているのを、曖昧な言い回しでごまかしながら、やんわり、ぼんやり、その邪悪な決めつけの印象を吹き込もうとしているのです。
 
恐らく、楽山には、思想など、何もないのだろうと思います。楽山は、何物にも染まらないと自慢したいのでしょう、しかし、最も悪い者に、染まってきたようです。
 
人に出来ないことを、神は、人に、救いの条件として設定しているでしょうか。偉大→無宗教、信じる→信じられなくなる、おかしな理屈、と結び付けてくる楽山は、これからも、おかしな理屈しか言わない小学生であり、しかも、宗教の敵、キリストの敵、総ての真面目に生きている人の敵です。
 
楽山は、それこそ、井戸端でしゃべる噂話レベルのような、小便臭いこと以外、何も書いてきませんでした。難しい本や、有名人の名前は、自己顕示のために利用しているだけだと思います。反宗教、そして、反キリスト、嘲って笑うゲーム感覚、というシャロームと同じ有り様になっています。
 
楽山は、人を、怒らせて、悦ぶ、そういう面だけが、目立ってきました。それ?らしくなったということでしょうか。
 
 
私は、今回も、罵詈雑言を挿んで書いていますが、私自身が、バランスのとれた中立で柔和なキリスト者でありたいとは思っていないから、このような、ゴミ虫のようにネットに巣食うヒトを相手にしているのだろうと思います。良心を虫食むのが大好きなゴミ虫です。
 
私がバランスが取れた中立で柔和なキリスト者でありたくないというのは、相手が、バランスを保って批判することが全く通用しない、彼ら、ゴミ虫だからです。
 
ネットで罵詈雑言ばかり言っている人は、ひどいと分かる分だけ、まだマシなのです。
 
つまり、何より、バランスが取れて中立で柔和だと見せかけて人を騙すのが、彼らゴミ虫だからです。ゴミ虫は、ごみ溜めによく見かけられ、新鮮な死肉や、寄ってくる他の虫などを食べます。
 
楽山やシャロームなどのカルトは、もし権力を得たなら何人でも人を害するでしょう。ゆえに、社会悪だと判断しています。ゆえに、多くの人に、広く知らせる必要があります。そこに、批判の必要性が生まれます。
 
彼らには現実での無知によって、どうしようもない欲求不満があると思います。そのための深い怨念によって、深く潜入して、暗くて見えにくいところに侵入して、邪悪を潜ませて卵を産みたがっている者たちです。そのために、反動のように高く舞い上がる尊大さによって、限りなく、否応もなく、自らを、無恥に導いてゆくのです。
 
 
(2019年11月13日)
 
 
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