ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  楽山の悪あがき
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。
  (4)宗教および創造論批判
 2021年09月16日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の著しい勘違い~妄想投稿が続いています。恥という感覚がないので、平気でいられるのです。人のことなど何も考えない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので、楽山という人は、投稿を続けていられるのです。
 
*つづき
前記事につづいて、ドーキンスの名言について感想を書いてみる。
*宗教と願望
不死という観念そのものは、人間の「願望本位の思考法」に迎合するがゆえに生き残り、広まっていく。そしてこの願望本位の思考法というものは無視できない。なぜなら、人間の心理は、信念を願望で潤色するという、ほとんど普遍的な傾向を持つからである
 」
宗教とは何かといえば、結局のところ、願望充足のための手段ではなかろうか。たとえば、永遠の命が欲しい人は永遠の命を果実とする宗教を信じ、上昇志向が強い人は霊格向上を説く宗教を信じ、人類救済のために働きたい人は人類救済を説く宗教を信じ、霊能力に憧れる人は霊能力を獲得する方法を説く宗教を信じるといった具合である。
 
願望充足、あるいは、欲望、と言えば、否定しやすいじゃろ・・という楽山の願望(顔貌?)~欲望が表れています。深いところが全く見えない楽山です。救いとは、悔い改め、罪のゆるし、祈り、絶対孤独からの解放、などがメインであります。
 
それを、低次元の思い込みで、願望や欲望の充足と受け取ってしまうと、空想による気休めか、空想そのものによる陶酔感になってしまいます。それを、日々、書くことでやっているのが、楽山です。病質によって、実のあることを何も受け取らなかったために起こることです。
 
だから宗教によって知ることができるのは、神のことではなく、真理でもなく、人々はどのような願望を持っているかということになる。宗教とはこの世を超えた大切なことを教えるものというより、人の心の奥に潜んでいる欲望を集積したものだということ。
 
だから宗教によって知ることが出来るのは、救いであって、願望や欲望の充足や仮想の充足が目的ではないのです。そういうことを、楽山は、全く考慮しないか、できないために、決めつけて文句を言ってきます。その結果、言うことの次元が、どんどん、原始的に、かつ、乱暴になっています。
 
宗教が平和でなく、争いをもたらすことが多い遠因は、この辺りのことと関連がありそうに思う。
 
ここで、詭弁屋の楽山らしく、宗教を争いの元だという印象操作をしてきます。楽山は、こういうすり替えしか出来ないことで、既に低次元がバレていることに気づかないのです。
 
*トンデモ批判
私は何か特定の神あるいは神々を批判しているのではない。私はすべての神、そして、いつどこで考案されたもの、あるいは今後されるものであろうとも、あらゆる超自然的なものを批判しているのだ。
 」
この徹底ぶりは、いかにもドーキンスらしい。自分にはとても真似できない姿勢である。
超自然的なものを求めるのは人の性であろうし、この性向は人が人である限り、決して無くならないだろうけれども、それだけにドーキンスの言葉によって迷信や妄想の惑わしから目が覚める人も生まれ続けるだろうな。
 
あらゆる超自然的なものに反感を覚えるなら、著者は、楽山を凶悪な敵として、ボロクソに言ってもおかしくないでしょう。霊が分かるっぽい自覚の楽山は、ネットでの引用は、バレにくいということを好きなだけ悪用して、自我を満足させて、実は、国際的な人類の敵になりつつあるのです。
 
超自然的な、即ち、超常を、何よりも大好きなのが、楽山です。だから、宗教と信仰についても、超常の空想からのストーリーや屁理屈しか言えず、心のテーマと問題を全く扱えずに書いて排泄してくるのです。どこまでも不潔な下水道にしかならない楽山です。
 
*正義と宗教
彼ら(テロリストたち)は悪によって突き動かされているわけではない…彼らは…自分たちが正義であり彼らの宗教が語りかけることを忠実に追究しているのだと感じることによって、突き動かされているのである。彼らは精神異常者ではない。彼らは宗教的な理想主義者であり、自分なりに理性的なのである
 」
正義と宗教が結びついた場合、どのような悲劇が起きうるかは、多くの人々が承知していることではある。
にも関わらず、この悲劇はなかなかなくならないのだからたまらない。
 
楽山のように、最初から、悪意をもって、宗教と信仰を悲劇の原因とみている者は、救われないばかりか、他者のための救いに至る道を閉ざして、悲劇を助長していると言えるでしょう。
 
捏造した妄想と嘘と詭弁を弄して、宗教と信仰をディスっている楽山こそ、救いがたい悲劇の種となっています。つまり、楽山は、決して、放置しておいてよい存在ではないのです。
 
*無知と教育
あなたが若い地球説の信仰者なら、あなたはバカなのじゃなくてただ無知なだけかもしれない。幸い、無知は治癒可能だ。科学本を読んでみると良い。
 」
ただ知らないだけなら学べば済むことであるが、学ぶことを拒否するのであればどうしようもない。
宗教には禁書を指定して信者の学びを妨害するところがあるし、信者は信者で自分は既に真理を知ったと思い込んでさらなる学びの意欲を持たない者がいるから残念だ。
 
楽山は、学習することが出来ない人です。自己愛性パーソナリティ障害NPDによる訂正不能のためだろうと思います。学者気取りで、学んだのじゃ、偉いのじゃ・・という三文芝居で、読者をだましてまで、自分を偉く偉く見せてきます。実際は、ゴミをまとって人間をやめているのです。
 
*創造論と天動説
創造論者は現代における、太陽が地球を回ると信じていた天動説支持者と同等だ。しかし、天動説ですら、ある程度の証拠に基づいていた。少なくとも、地球と太陽が存在してることは分かってるからね。
 」
そう言われてみれば、たしかにその通りだ。
天動説は、地球や太陽が存在するという事実から出発しているが、創造論は存在するかどうか分からぬ神は存在すると仮定した上での話になっている。
 
「たしかにその通りだ」などという楽山の誘導に乗らないでください。天動説にも劣るという言い回しで、宗教と信仰の愚かさを吹き込んでいます。なお、創造論が、神についてなら、そのような論は成立しません。神は、人の論理などには乗らない御方として仰ぐべき絶対者であります。
 
*万物の霊長?
大多数の人間の思想家たちは、チンパンジーを出来損ないで見当違いの化け物とみなす一方で、自分たち人間は全能への踏み台だと思っている。進化論者からみればそのようなことはありえない。一つの種を他の種より上に見る客観的根拠など存在しないのだ―ロバート・トリヴァース『利己的な遺伝子』の序文
 」
 
ここもそうですが、今までの著者の言い分は、昔からあるところの進化論と天地創造との論争のように思えます。しかし、科学でも、神学でも、神を語りつくすことは、決して出来ません。このことについて、どちらが真理であるかなどには興味も必要もないからです。
 
自分は以前は、人と動物は全然別ものであると考え、両者を同列に論じるのはナンセンスだと思っていた。ただ進化論について自分になりに調べるうちに、人と動物は断絶しているのではなく、連続していると考えるようになってきている。
 
惑わされないでください。そう言えばそうだなどと思わないでください。進化論は仮説です。創造論は宗教からの解釈に過ぎません。分からないと、なぜ、言えないのでしょう。
 
楽山は、進化のプロセスを知っているわけでもなく、勉強したわけでもなく、ヒトと動物の違いを学んでもいないのです。自己満足の材料を漁っているだけです。
 
そしてその結果、他人の不道徳な言動に腹が立つことが減ってきた。その人がそのような生き方をしているのは必ずしも向上心に欠け、精神性が低いせいというわけではなく、幾世代もの長い年月を経てそういう風に進化してきたのであり、本人の意志だけでは変えようもないことであるから、横から苦情を言っても仕方がないと思うようになったのだ。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDのために、精神性が低く、「向上心に欠け」ていることを、個人の意志では変えようもないと自分を慰めています。しかし、この記事もそうですが、横から苦情ばかりを執拗に言ってくるのです。
 
「腹が立つことが減ってきた」・・嘘です。あらゆる感受性が鈍感になってきて、ますます酷いことになりつつあるとは言えるでしょう。しかし、楽山には根深い怨念があると思います。それは、しばしば、楽山が理解できなかった宗教と信仰に向かっているのです。
 
他の人の場合はどうかはわからないが、自分に関しては「人を裁くな」という宗教的な戒めを守るためには、人は動物とは根本から異なり、霊的に特別な存在だと信じるよりも、進化論的に考えた方がよいらしい。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:1
人をさばくな。自分がさばかれないためである。 
7:2
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 
7:3
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 (マタイ7:1-3、新約聖書)
 
楽山の嫌がらせでしょうか。よくもまあ、この聖句を引用したものです。どういう誤読なんでしょう。この聖句は、動物は関係ありません。霊的も関係ありません。進化論も関係ありません。良心だけが必要です。人を裁けば、自分がさばかれるという意味が書いてあります。
 
つまり、人を裁けば、自分も同じように裁かれるということです。一般的には、人のことを言えたガラか・・という言い方もあります。まさに、楽山は、人格がメチャクチャなのに、人のことばかり言っています。楽山には、反省して、学習し、自分を修正する機能がないのです。
 
 
寒いくらい的外れ

寒いくらい的外れ
 
 
(2021年09月18日)
 
 
 
  二人の背教者
 
神を信じる者が多いある国に、裕福で知恵と知識に富み人々からも尊敬されている一人の学者がいた。長く神と信仰について学んだすえに、彼は公然と「神はいない」と言い始めた。くりかえし言い、手紙や書物にも書いたので人々はとまどった。彼は指導者であり、その影響力が大きかったからである。他の学者がなだめても改めようとしなかった。多くの人々が、狼狽し、つまずいた。
 
裕福でもなく知識も乏しく人々からも軽んじられていた一人の身なりの貧しい者が彼に会って言った。
 
 あなたが神はいないと思うのはあなたの勝手だし、そのために祈りも礼拝もしないとしてもそれもあなたの勝手だ。信仰は誰にも強制されない。あなたは自由である。それだけなら裁きはあなたにだけ及ぶだろうし、私には何の権限もなく、また裁くのは神であって人ではないからだ。しかしあなたは誰もが知るところで公然とそれを言って、神と信仰を否定した。
 
 全く神はいないかのような人の世である。まやかしはあっても預言もなければ奇跡もないような災いに満ち、私も教会に礼拝にも行かず私の命は絶え入りそうである。
 
 しかし神様だけを頼みとして生きている貧しい人々がいる。あなたが彼らに会い説得し彼らのひとりひとりの人生をすべて背負い信仰以外の別の方法で彼らを救えるというのなら公然と「神はいない」と言うがよい。
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HS的には、悟りの高い人は、相応の実績を示し、世間からも評価されることになってたと思う。
ある意味、悟りの高低は客観的には語れぬが実証は可能ってことかな。
この点、Pさんはツイッター上では自画自賛はあれども、実績および評価に乏しく、悟りの高さは実証できてないですね 顔文字(ぐるぐる目の顔)
 
楽山は、悟りを、高低で表して、実証可能と言って、他者を批判しています。楽山が、悟りというものを、どう考えているかが、恐怖であります。何でも分かる超能力くらいの理解なのでしょうか。
 
悟りは、救いの表れです。偉くなることではありません。
 
楽山は、何か自力の境地のようなものを考えているようです。楽山は、今も、自力の達観のような悟りしか考えることができないようです。自分はどうなのかを、全く考えないで、他者の実績を測って評価し判定するとは、呆れます。
 
楽山は、本当に脱会したアンチなのでしょうか。大いに疑問です。しかも、自己正当化として、自画自賛が、いつも表れてきたのは、楽山こそ典型であり、世間からの評価も、学者気取りで見かけだけ装ってきた楽山において顕著なことであります。
 
信仰において、悟りというなら、それは、人間の心に響くこととして与えられ、高い低いということはありません。救いは、正直な告白の祈りにおける癒しと安らぎであり、孤独からの解放であり、生きるときも、死するときも、救い主の同伴という信仰の恵みを受けることなのです。
 
自分を見ないで、人をあざ笑う楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自分は既に完成しているという妄想なので、それで、反省もせずに、せっせと愚にもつかぬ詭弁の文章を投稿してくるのです。いつも、言い方を変えても、自己中の慢心が表れる物言い・・実に気色悪いです。
 
 
 
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  楽山のよいしょ倒れ
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(3)信仰について
 2021年09月15日 楽山日記(LD)
 
 
病識がなく、自分を見ることの出来ない楽山が、いつものように、得意気に書いてきます。楽山の言は、論になっていません。言論に必要な、語る節操も、聞く耳も、持っていないからです。どれだけの有名人を巻き添えにして、詭弁を弄するのでしょう。病の根深さを思わずにはいられません。
 
単純に言って、無反省と無責任で、訂正不能であれば、言論する資格はないのです。他にも、楽山の病質については書いてきましたが、病質のために、どこまでも舐めてかかって、まともな話は通じないし、交流ができない以上、だましてくるだけですから、楽山に未来はないと思います。
 
*つづき
前記事に続いて、ドーキンスの名言についての感想を書いてみたい。
 
一日も早く、楽山が何も書かなくなる日を待っています。あらゆる言論の害悪です。
 
*信仰と無責任
信仰とは、根拠について考え評価することからのご立派な責任回避の口実である。信仰とは、証拠の欠如にもかかわらず、あるいはそれゆえの、信念のことである。
 」
これらは随分と辛辣な批判だが、前者については、自分かかつて所属していた宗教団体では、長く信者を続けている人は、信仰の根拠について深く考えることを放棄した人ばかりだったことを思えば合点がゆく。
 
信仰の根拠は、心にあります。ゆえに、理屈屋に届くことは、永遠にないでしょう。一部のカルト批判から、信仰そのものへの批判と否定を企んでいる楽山は、自己愛性人格障害の宿命のように、人間として、どこまでも、偽物の標識を持って、廃棄される吊り橋へ向かっているようです。
 
後者については、司馬遼太郎も似たようなことを言っていたと記憶している。思想や宗教というものは、その出発点は空であり、嘘である云々と…。
率直に言って、信仰というものは本来あるのかないのか分からない神をあると断言するものであろうし、その根本は空言、もしくは嘘といわれても致し方ないものではある。
 
楽山は、また、有名人の口を悪用しています。楽山には、自らを空しくする"空" という思想は分からないと思います。私も、完全に分かったわけではないですが、分からないという自覚はあります。自覚がないのが、楽山です。だから、どこまでも、嘘吐きという評価しか生まれないのです。
 
*信仰批判
今こそ、信仰に対し批判をしていくべきときだ。
午後7:39 · 2021年9月2日
 」
 
シュプレヒコールでしょうか。信仰が人類の敵だという悪意の前提が見え見えです。
 
ドーキンスの言葉には共感することは多いが、さすがにこういうところは扇情的にすぎるようだ。
自分は、信仰は人の性であり、撲滅することはできぬものであろうし、それならば信仰にはさまざまな難点があるにしても、違法行為や人権侵害がない限りはさして批判する必要はなく、人それぞれ自由でよいとする他なかろうと思う。
 
このように、有名人の言を利用しながら、自分はそれよりも上だという満悦からの印象操作を忘れないのが、楽山です。それによって、全ての言論者の敵であることが明らかになってきたのです。書けば書くほど、楽山の我欲と傲慢と卑怯さが、あらわになるでしょう。
 
道徳や人間の尊厳を無視した訂正不能の妄想的な、宙ぶらりんの思い付きを、得々と語ってきたのが、楽山です。違法行為の取り締まりは警察の仕事です。楽山のような、節操と道徳に反する非人間には、徹底した批判を続けるしかありません。
 
楽山には独自の思想はありません。その時その場の、ちょうどいいものを、自分がひけらかすことによって、自分だけを高めているつもりなのです。楽山の、ボクはこんなに善い人アピールを受け入れてしまうと、楽山の従属物となって、自分を見失ったまま、良心を失ってゆく病魔が待っています。
 
楽山は、誰にも共感することはないでしょう。ただ、病気のエゴのために悪用しているのです。だから、人を人とも思っておらず、無視と裏切りは当たり前なのです。楽山は、無自覚に、無反省で無責任ですから、最終的には、何らかの圧力か強制力をもって排除されるしかないのです。
 
*信仰と癒やし、議論
それが「慰めになる」という理由で何かを信じようとする人を、どうして真剣に取り合えるというのだ。
 」
これには、その信仰は真実であるかどうかという議論と、その信仰による効果はどのようなものかという議論をごちゃまぜにしているがゆえの混乱がある。
 
楽山に、そういう分別があったなら、今までの単方向で訂正不能で、随時忘却によって責任逃れしながら惑わしてくるような災いはなかったはずです。混乱をもたらしているのは、他者を好きなように悪用する楽山その人であります。有名無名に関わらず、悪用の犠牲となってはいけません。
 
信仰に関する議論は、大雑把に言えば、①その信仰は真実であるかどうか? ②その信仰は真実であると感じられるかどうか? ③その信仰による効果はどのようなものか? というものがあり、それぞれまったく別の問題である。
 
信仰が真実であるかどうか、効果が何か、これは主観的な感慨であり、最終的には、神が裁くことです。しかし、真実と、真実であると感じることを、楽山は分けろと言っています。はっきり言えば、人間が言う真実は、皆、真実と感じることです。できないことを要求して、否定する詭弁です。
 
楽山は、箇条書きにして論理的に見せかけてきますが、信仰の、真実性も、感受性も、効果も、何も分かっていない楽山は、屁理屈でだましてくるので、決して相手にしてはいけません。楽山は、受け入れられるような文章の体を装うだけで、何度も言いますが、何の責任も負う気はないのです。
 
「別の問題」ではありません。信仰者は、その人生において無責任ではありません。いかなる罪も認めず、いかなる責任も負わずに済まそうとするのは、楽山という自己愛性パーソナリティ障害NPDだけです。こういう詭弁は、いずれ、想像を絶する重さをもって、楽山にのしかかるでしょう。
 
信仰は、その真実も、感受も、効果も、信じた者に暗示されるだけです。どうして、神の意志が、人に、手を取るようにわかるでしょう。本質的な不可知、未知、不明を、分かるものであるかのような言質によって、悪用してきたのが楽山です。頭がカチカチ山の楽山です。
 
それにも関わらず、信仰者の中にはこれらの問題をごちゃまぜにして、「この信仰によって大きな慰めを得たから、これは真実に間違いありません」とか、「この信仰は真実です。もし真実でないなら、これほど人々の心に訴えかけ、感動を起こさせるわけがないのです」とか主張する者が多い。信仰者は②③を持ち出すことで①について語っているつもりになりがちなのだ。
①についての議論が困難なのは、こういう混乱に原因があると思う。
 
だから、信仰には、信じるか信じないかの自由があるのですが、それを認識できない楽山は、全部を、いちゃもんの材料にしてしまうのです。一部の体験について、全部であるという言いかがりで責めています。つまり、信仰の自由の、最も凶悪な迫害者は、楽山であります。
 
信仰者は、相手を安心させるために、自身の体験を語ることがあります。それを揚げ足取りに悪用する楽山は、無知と無教養という揚げ足を取られて、さらに詭弁と嘘を重ねて保身を図ることで、人の世界で赦されず、神の世界ではさらに赦されない害毒の泥沼をさまよう者となりました。
 
*信仰は悪である!
本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。 信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。
 」
 
著者は、議論を許されなかった恨みがあるのでしょうか。前の記事のように人をマヌケ呼ばわりして許されると思うほうが無理でしょう。さらに、それを、楽山というペテン師に、まんまと悪用されています。クレームが来ないことをいいことに、楽山は、悪用の罪業だけを積み重ねてきました。
 
信仰についても、共感に基づく議論は可能ですが、楽山のような反キリストで訂正不能の変質者とは永遠に不可です。楽山は、糞尿を引っ掛ける者、今もそうです。善悪と正邪だけでなく、精神衛生において、楽山は極めて不潔です。
 
子供の宗教教育は程度問題ではなかろうか? その土地や民族の宗教的な文化伝統が自然な形で子供に伝わるのは必ずしも悪ではなかろうが、あまりに厳格な宗教教義を子供の頭に刷り込もうとするのは児童虐待であろうし、明らかに悪である。
 
程度問題ということを、いい加減かいちばん、という詭弁に誘導するのが、楽山です。信仰の真実も感受性も効果も、楽山は何も分かっていないからです。そして、強引に、児童虐待に結びつけています。悪魔性が明らかです。善を装う悪の姿が、これです。
 
信仰と議論については、まったくその通りだ。特定の信仰を絶対視し、その妥当性について議論することさえもゆるさないというのではあまりに高慢で独善的にすぎてまったくお話にならない。
 
楽山の、曖昧さと、いい加減さでは、病原となるだけで、誰も救うことは出来ません。楽山の言のベースには、何でも分かるつもりの傲慢があります。専門用語も、日常語さえも、理解せずに使いまくって、単方向に暴発を繰り返す悪魔性が、一日も早く消滅することを祈っています。
 
楽山の自己愛性パーソナリティ障害では、誰に教える資格もないと思います。本人が、それを自覚できないのも、この障害の症状ですが、巻き込まれる側にとっては、死活問題です。危険な圏内に入らないことだけが予防策となります。楽山こそ、全くお話にならない人です。
 
楽山の言は、質の悪い睡眠薬のようなものです。幻覚剤併用みたいなペテンです。むしろ毒物ですから、副作用として、知情意が鈍麻し、人格破壊が起きます。楽山と同じように、嘘と詭弁で人をだまして平気でいるような、うっすら、ぼんやり、どんよりした不感不応の自己中になるでしょう。
 
楽山は、アンチとしてカルト批判をしているつもりのようですが、宗教と信仰についての見識が、あまりに、杜撰(ずさん)で、視野狭小で偏屈で、未熟なのに、反面、自尊だけが過大であるために、妄想性にさえなっていて、自己愛性人格障害のインテリ気取りの迷惑症例となっています。
 
楽山は、何もうまくいかない人生だから、芝居を覚えたのでしょう。しかし楽山は大根です。さらに、嘘と詭弁と一体となるゆえに、ますます害悪となってきました。しかし、自我の弱い人は、だまされるかもしれません。それに味を占めた楽山が、好都合な言葉を漁り続けているという現状です。
 
肯定と否定を両方言ったら責任問題は生じないというのが楽山の言論の姿勢です。言論にプラマイゼロはありません。責任を負わず、反省もせず、訂正もしない体質的病質者が楽山です。何度も言いますが、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。楽山は、全否定され続けるのです。
 
 
だますために生まれたのか

だますために生まれたのか
 
 
(2021年09月17日)
 
 
 
  責める
 
書いた文字が
起き上がって
僕を責める
何と言って責めているのかわからないが
書けば書くほど責める
立ち上がった文字が
二人寄り三人寄って
言葉になって責める
しまいには
まわりいっぱいになって
うるさく責め続けるので
紙を破って
丸めて捨てる
書きかけの文章を捨てる
静かになった
と思ったら
捨てた紙の間から
はい上がった一人が
弱々しい声で言った
うそつき・・・
 
 
  さぐる
 
時を探っていた
恐らく一生わからないであろう
時間というものを加えた四次元を
三次元の頭で探っていた
 
寝床の中である
夢か現(うつつ)か
限りなく沈んでゆくようだ
限りなく、というもの
無限を枠に嵌(は)めるようなものだ
できるはずもない
頭も心も三次元であるかさえわからない
最近とみに平べったいから
潰れてぺちゃんこにならないうちに
自分を知りたかった
関りと拘(こだわ)りと無関係と無関心
で過ぎてきたことになって
今ここにいる自分を
 
自分の記憶の中にしかいない自分
それさえも忘れやすい自分
実体が欲しかった
眠りに落ちてから
底知れぬ旅に落ちてから
捕まえたかもしれない
でも目覚めたときの仕種(しぐさ)は
その記憶さえ消し飛んでいて
回る走馬燈の中の
残り少ない蝋燭(ろうそく)の
小さい炎に変わる前の
油の蒸気を探るようなものだ
 
 
(昔々・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
自分には自分の臭いは分からないというけど、Pさんもそれだね。Pさんからは自分教の臭いがぷんぷんしてるから、自分教といわれる。一字一句を吟味した上でそう結論づけてるわけではない。
一字一句にこだわってるのは、鉤括弧を多用するPさんの方ですよ。Pさんは自分教の教条主義者みたいです。
午前6:53 · 2021年9月16日
 
「自分の臭いが分からない」のも、「自分教」も、楽山にぴったり当てはまることです。アンチであるかどうかの問題ではなく、楽山は、異常者です。しかも、体質的な自己愛性パーソナリティ障害NPDです。無反省、無責任のままで、一生過ごせるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山が、誰かのことを言うたびに、ブーメランになって、楽山に返ってきていることに、楽山だけが気づかないのです。ここまで、自己愛性人格障害は、分からない人になってしまうということです。それこそ、"撲滅同盟" でも作らないと、解決しないことなのです。
 
また、楽山には、「一字一句を吟味」どころか、他者の意見など、都合が悪ければ、ひと言も受け取らないし、覚えてもいないでしょう。それで、人に対して何か意見や批判をすることなど、決して、できません。それさえ分からない人ですから、楽山を相手にしないでください。
 
人格障害というのは、昔、精神病質と呼ばれた体質の病気で、精神病と違って、有効な薬がありません。関わらないこと、相手にしないこと、批判するなら人格の異常を批判することが必須になるのです。批判するなら、不感不応の楽山には、不感不応の病質を指摘するしかないわけです。
 
人格を批判してはいけないというのは正常人の場合です。正常な関係性が成り立つ場合だけです。とうに、言論を慎んで、おとなしくしていることが必要な病質なのに、なおも、しゃしゃり出てくる楽山に対しては、病的な人格について、直接、批判してゆく以外ないのです。
 
楽山には、自慢できることも、他者が評価できることも、全くありません。それをごまかすために、婉曲的な屁理屈のボンヤリ言語という丁寧語を使い、同情を誘うためにトホホ言語という謙虚芝居や嘘の弱音や世辞を言ったりします。楽山は、まとものつもりだが、しばしば、寒気を感じます。
 
しばしば、作為的に、自分が言われそうなことを相手に向けてきます。上のツイートもそうです。病質のために、人に言っても、自分が言われても、実感と実質がないのです。だから、何を言っても言われても、平気で無視して、罪悪感を感じないでいられるのです。
 
楽山の言は、嘘と詭弁に満たされ、良心の欠損を表すだけです。楽山の言には、三文芝居のセリフはあっても、人間らしい温もりと潤い、つまり、思いやりと悲しみへの共感が見られません。乾燥しボンヤリして焦点を外した良さそうに見せるだけの言葉面はあっても、真実の欠片もありません。
 
ですから、楽山の言は、何の参考にも糧にもなりません。こちらとしては、体質的異常者の劣悪さを、資料とするために、批判を続けています。楽山が書けば書いただけ、それは、悪い言葉の例として、嘘と詭弁の具体例として、病質を表す資料となってゆくのです。
 
例えば、医者は、精神病でも、精神病質でも、ことを荒立てないことを優先します。説得して、表面的でも治まれば、それ以上は言わないでしょう。そういうことを、半端な知能で知っているところが病質者の狡さなのです。だから、丁寧語、世辞、甘い言葉・・などを多用するわけです。
 
 
 
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  楽山のよいしょ遺伝子
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(2)
 2021年09月13日 楽山日記(LD)
 
 
自分で理路を組み立てて自分なりの主張というものを書くということが出来ない楽山は、常套手段として、学者などの有名人の話を読んだとばかり、持ち前の見え透いた世辞で褒めまくって、自分も同じ立場にいるインテリだというふうに見せかけようとしてきます。
 
(ネットより)
クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年3月26日 - )は、イギリスの進化生物学者・動物行動学者である[1]。The Selfish Gene(『利己的な遺伝子』)をはじめとする一般向けの著作を多く発表している。存命の一般向け科学書の著者としてはかなり知名度の高い一人である。
 
*つづき
前記事に続けて、ドーキンスの名言について感想を書いてみたい。
 
以下、言いたい放題の、どこが迷言なのでしょう。
 
*ダーウィン
利己的遺伝子説はダーウィンの説である。それを、ダーウィン自身は実際に選ばなかったやり方で表現したものであるが、その妥当性をダーウィンはただちに認め、大喜びしただろうと私は思いたい。
 」
これはドーキンスに対する最大の賛辞にちがいない。
 
誰が誰を褒めたと言っているのでしょうか。ドーキンスは現代の人、ダーウィンは19世紀の人なのですが。
 
(ネットより)
チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin ([tʃɑːlz 'dɑː.wɪn]), 1809年2月12日 - 1882年4月19日)は、イギリスの自然科学者。卓越した地質学者・生物学者で、種の形成理論を構築し進化生物学を発表した。
 
*人という生存機械
我々は、遺伝子として知られる利己的な分子を保存するように盲目的にプログラムされた、機械的な乗り物としての生存機械なのだ。これは、私の心を驚きで満たしてしまう真実である。
 」
こういう考え方は、以前の自分であれば絶対に受け入れることはなかったのであるが、最近はさして抵抗を感じなくなっているのだから、我ながら不思議だ。人は変わるものだということなのだろうな。
 
この人たちの話に大きく欠けているのは、人間が機械だとしても、それだけでは何も変わらないということです。どう生きてゆくというのでしょう。オートマチックに生きるのでしょうか。それとも、楽山が言っていたような、自らのあらゆる問題を無視する自己中の生き方でしょうか。
 
受け入れようが、受け入れまいが、明らかになっているのは、楽山が、人間を機械だと思いたいこと、そして、機械だということだけで大喜びしている、という奇怪さであります。
 
*利己的な遺伝子
この本の主張は、我々、そしてすべての動物は、遺伝子によって作られた機械であるという事だ。
 」
マーク・トウェインの『人間とは何か』を読んで、人間機械論には合点がいったのではあるが、ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読むことで、人の利他的行為の背景についてさらに深く考える切っ掛けを得られたのはよかった。
進化論は肉体の進化に関することだけだと思い込んでいたのだけれども、人の行動および心理に関してもさまざまな謎解きをしているところには感動を覚える。
 
楽山は、短絡有頂天を喜んでいるだけで、深く考えてなどいません。さらに、楽山には、自己愛性人格障害からの利己はあっても、利他的なところは、全く見られません。それを、機械だからと言って正当化するつもりでしょうか。いったい何を悦んでいるのでしょう。
 
利他的行為の背景に機械?・・何も明らかではありません。考えるきっかけには、全くならない話です。人間を機械だと見なして、人間らしさを捨ててきた楽山の自己愛性人格障害の人生を思わせるだけなのです。自己正当化も、幼稚な短絡で、ここまで来ると、妄想と言ってよいでしょう。
 
*ダーウィン批判とマヌケども
ダーウィンの進化論に反証など存在しない。しかし、仮に反証されることがあるとしても、それは科学者によってであって、マヌケどもによってではないだろう。
 」
これは辛辣なもの言いだ。でも創造論者による進化論批判のトンデモぶりからすれば、こう言いたくなるのも理解できなくもない。
 
ドーキンスという人は、自己愛が激しそうです。そこでしょう。楽山は、自分に似た有名人がいることを悦んでいるのでしょう。しかし、批判者をマヌケどもと呼ぶことは、辛辣ではなく、暴言になり、その結果、それを悦ぶ楽山のような変質者に、へばりつかれているのです。
 
*地球外生命体と自然淘汰
自然淘汰の説明力は、この惑星の生命に関することだけではない…原理的にはあらゆる惑星での生命に適用できる。もし宇宙の他の場所で生命が存在するとすれば―私の暫定的な予測では存在する方に賭けるが―自然淘汰による進化の何らかのバージョンが、その存在の背後にあることはほぼ間違いないだろう。
 」
どのブログかは忘れてしまったが、もし宇宙人が存在するとしたなら、それは地球人と似た姿をしているだろう予測を読んだことを思い出す。その理屈は、知性を発達させるには大きな脳が必要であり、大きな脳を支えるには直立する必要がある、道具を用いるには道具をしっかり掴めなければならず、そのためには親指と他の指のように向き合った指が要る…という具合に考えてゆけば、宇宙人もきっと地球人の姿とよく似たものになるだろうというものだった。
 
ここで、楽山は、人間世界から、楽山の大好きな人間を超越した地球外生命体に、話が誇大化します。自分のメチャクチャな本性が明らかになってきたからでしょうか、いつまでも、人間外のことや他者のことばかり考えていたいのでしょう。
 
自己正当化が成り立たなくなると、何らかの陶酔傾向へ逃避するのでしょう。しかも、万歳三唱しているような浮かれようです。この楽山の記事では、何も明らかになっていません。相変わらず、構成力と説得力が、楽山には皆無だからです。
 
無神論者のドーキンスが、地球外生物が存在する可能性を否定しないというのは意外な気がしないでもないが、こういうところからするとドーキンスが厳しい宗教批判を続けているのは、頭が固くて超自然的なことを理解できないからではなく、論理的かつ柔軟な思考ができるからこそなのだろうと思えてくる。
 
地球外生物の存在可能性を認めるだけで、「論理的かつ柔軟な思考ができる」ことになるでしょうか。そう言って褒めまくっている楽山には、論理的思考も、柔軟な思考も、情緒的感受性も、一度も見られたことはありません。自分のことを省みない者は、このようになってしまうのでしょう。
 
念のために言っておきますが、キリスト教の信仰は、分かりもしない世界や宇宙を説明するためにあるのではなく、個人の人生の救済のためにあり、キリストは、そのために遣わされたのです。
 
だから、進化論と対決できると思っているような人々は、自分の持ち物を自慢しているに過ぎません。なんだか、学者の間でも、ナルシスト同士の争いになっているのではないかと危惧されます。そして、その争いを、楽山は、全く関係ないのに、たいそう、のぼせて、嬉しがっているのです。
 
今回も、楽山の酷い文章でした。謙虚さを欠いた自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自己愛に耐えられるような能力も知性も感性も持たない楽山を、着々と自己破壊に向かわせているようです。
 
 
何も持たずに よいしょ!

何も持たずに よいしょ!
 
 
(2021年09月16日)
 
 
 
  頂点を極める者
 
山頂は常に其処(そこ)から
上には登れないことを示しているのだが
登りつめた者は
まるで空までも征服したかのように
誇らしげに四方を見渡している
高い高い大気と吹き上げてくる風は
なかなか下りようとしない者たちの
有頂天の背後から少しずつ
密(ひそ)やかに帰り道を隠してゆく
 
 
  堂々巡り
 
退くときを弁(わきま)えず
進み具合を測ることも出来ずに
堂々巡りを
二十年以上続けている奴が
ここにいる
まだ続ける気でいる
 
恐れるな堂々巡りを
よく言えば回帰だ
うまくいけば螺旋(らせん)だ
 
下る方が好きなのか
誇りを払いながら
上る方が好きなのか
埃(ほこり)を見習いながら
 
どのみち切りがない
転んでも構わない
転がる間は上も下もない
上も下も気が進まないなら
そのままじっと拝んでいるか
 
変わらなくても変わってる
堂の中には何がある
せめて寝返りでも打って来い
くるくるくるくる目が回る
やっぱり続ける気色の気
何が回帰だ何が螺旋だ
堂の外はどうなってる
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
「科学」の定義を変えてしまったら、「HSの科学は、一般の科学ではなく、HS独自の科学です」という疑似科学宣言…またはトンデモ宣言になってしまうだろうに、Pさんは何考えとるんだろ?
午後7:02 · 2021年9月14日
 
また、楽山は、人のことを言っています。今回のブログ記事のように、分かりもしないのに、利己的な遺伝子という比喩表現や、人間は機械なのだ・・という説に、大喜びする楽山は、いかなる科学も理解していないと思います。楽山は、無反省・無責任の、トンデモ記事を書く奇怪な機械です。
 
(ネットより)
利己的遺伝子論(りこてきいでんしろん)とは、進化学における比喩表現および理論の一つで、自然選択や生物進化を遺伝子中心の視点で理解すること 。遺伝子選択説もほぼ同じものを指す。1970年代の血縁選択説、社会生物学の発展を受けてジョージ・ウィリアムズ、E・O・ウィルソンらによって提唱された。イギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンスが1976年に、『The Selfish Gene』(邦題『利己的な遺伝子』)で一般向けに解説したことが広く受け入れられるきっかけとなったため、ドーキンスは代表的な論者と見なされるようになった。
 
 
 
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  議論と保身(11)2
 
 嫌われる勇気
 楽山ブログのコメント欄の続き。
 私のコメントは、大方、記事用です。一部編集。
 批判対象:楽山と、シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼 )
  を改めて批判。(名前)のないところが今回の加筆。
 
 
前に、楽山、シャロームと、遣り取りがありました。シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい・・などと言ったことから、偽キリスト者、偽牧師であることがバレています。
 
(私)
だんだん、本性を表してきました。楽山とシャロームの意地の悪さが全開です。
 
(楽山)
stさんの意見は、的外れのことが多いけれども、
その原因は、この辺りにあるのでしょう。
気の毒なのは、
stさんは、構造、本質が分からないために、
自分が的外れなことを言っていることも分からず、
それがために、
なぜみんな自分の意見を理解してくれないんだという
不平不満、苛立ちを抱えているだろうということ。
 
これが楽山の筆致です。相手を可哀想な人に仕立ててきます。根拠のない決めつけです。
 
(私)
私が書く動機は、何度も言ってきたことです。不平不満や苛立ちではありません。
それが、文章から分からないのは、楽山の読解力不足です。
それに、最初から、あなた方の話で満足できる人は、いてもお仲間だけだと思っています。
 
私は、何度も言っていたわけです。
 
(楽山)
これは本当に気の毒だけども、
本人が気づかない限りは、
外から何も言っても無駄であるし、
誰にもなんともできないのだから仕方がない。
 
楽山は、丁寧語で、ボロクソに言っています。
 
(私)
仕方がないと言いながら、なお、おとしめてくるのも、
批判する大きな動機にも理由にもなるでしょう。
楽山は、化けの皮がはがれて、もろに侮辱しています。
 
(楽山)
stさんが、他人の意見に素直に従うタイプであれば、
別だろうけど、
 
楽山は、奴隷を集めているのでしょうか。
 
(私)
楽山が「他人の意見に素直に従うタイプ」と言っているのは
騙されやすくて従順な犠牲者のことを言っているのです。
 
(楽山)
そうではないのだから、傍からはどうもできない。
結局は、stさんと話しても徒労に終わるという結論になる。残念。
2019/8/30(金) 午前 9:39[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
残念と書いていますが、私のほうは、徒労は承知の上で書いています。
ある時点から、言っても無駄だろうとは思っています。
批判として、有害で邪悪な言説に、貼りつけるやり方です。
 
楽山に、誰も近づかないようにと願っているわけです。
 
(楽山)
>shalomさん
私の方でも、この辺りで終わりにします。
あとは、stさんに反論してもらい、
記事保存、ブログ整理するだけ。
最後まで、
優しいお心遣い、ありがとうございました。
2019/8/30(金) 午前 9:46[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
偽善者同士の仲間ぼめは、何とも言えない気色の悪さです。
(私)
楽山とシャロームは、和みに誘ってきますが、決して和んではいけないブロガーです。
 
こういうところから、楽山とシャロームは、同一人物ではないかと疑うようになります。PCが2台以上あれば、できることです。
 
(楽山)
stさんの反論があったら、
それでコメ欄を閉めて、コピペ保存するつもりでしたが、
相変わらず、おかしなことばかり書いてます。
もうそれらをいちいち指摘する気にはなれませんが、
分かりやすい箇所を少し書くと、この辺りです。
2019/8/30(金) 午後 1:26 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
>おかしなことばかり書いています
 」
このようにカルトの浮かれ具合は、侮辱することしか出来なくなることに表れてきます。
このような人たちに、誰が導かれたいと思うのでしょう。 
 
(楽山)
「 
>>stさんとやり取りしてる自分が、ますます愚かに見えてきた。
 」
>楽山から「愚か」も飛び出してきました。丁寧な楽山の、面影はありません。
こういうことなんです。
2019/8/30(金) 午前 11:19st5402jp
 」
私は自虐的なことは、わりとよく書いてます。
自分のことを、愚か者、迂闊者、ばか…いろいろ。
だから上の文章は、いつものことです。
でも、stさんは、どうも
私がstさんのことを「愚か」と言ったと誤読してるっぽいです。
stさんはこの手の勘違いから
ああだこうだ騒いでることが、ちょいちょい見受けられます。
2019/8/30(金) 午後 1:27 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
誤読ではなく、楽山は、相手と遣り取りする自分が愚か、ということは、相手にしてはいけない愚かな者を相手にしているからという侮辱になることを知らないようです。言葉の表面しか理解できず、人の気持ちが分からない者の特徴が出ています。
 
(私)
楽山が、文脈とも筆致とも理路とも言わず、構造と言ったのは、
ニュアンスが把握できないために、機械的に考えているからのようです。
日本語のニュアンスが分からない人のようです。
これは、自虐に見せかけた侮辱です。
「stさんとやり取りしてる自分が、ますます愚かに見えてきた。」
つまり、あんな奴と付き合ってる自分が嫌になったというのと同じで、
では、stについては、どう思っているかと考えてみると、
相手している楽山自身が愚かに見えるほどに、愚かだと言っているわけです。
決して自虐ではありません。いや、寒気がするほど、悪質な言い方です。
 
(楽山)
>マリアさんは、モラハラ男は拒否するという当然のことをしただけ
 」
>楽山から「モラハラ男」とか飛び出しました。
>2019/8/30(金) 午前 11:19st5402jp
 」
stさんのなかでは、
私は「モラハラ男」は使わないことになってるのでしょうか。
モラハラ男、DV男…普通に使いますけどね。
 
ふつうに相手に向ける言葉ではありません。人間離れした楽山の常識のなさが表れています。
 
(楽山)
モラハラ野郎、DV野郎でも使えます。
マリアさんの記事を読んだら、そういう感想を持つのは当然でしょう。
ここは何というか、
楽山のまちがいを批判するというよりも、
楽山のことは全て否定したい、ケチつけたいという本音が、
あからさまになってしまってます。
カルトだから批判するのでなく、
憎くてたまらないから批判するという感じ。
これは恥ずかしいことです。
2019/8/30(金) 午後 1:32 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
楽山が丁寧ではなくなったことを言ったのですが、
「モラハラ男」のどこが普通なのでしょう。蔑称というものです。
楽山の丁寧な言葉遣いが嘘だったという意味です。
やさしそうな言い方をしてきた楽山が
野獣の本性を出しているだけだから分からないのです。
(私)
侮辱しかできないため、侮辱の度合いを酷いものになっています。
これが、ケダモノの性根というのでしょう。
嫌悪感は、半端なくありますが、憎しみではありません。
憐れみでもありません。この者たちは公共での話をする資格がない
という実感です。
 
(楽山)
上の点について、
stさんは、修正釈明するかしないか自由に決めてください。
その後は、コメ欄は閉じて、stさんとの交流は終わりとします。
2019/8/30(金) 午後 1:33 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
相手が悪いと決めつけたうえで、修正釈明する自由と修正釈明しない自由いう選択を与えていますが、楽山が決めることではなく、余計なお世話なのです。言えることがなくなっている表れです。
 
(私)
俄然、命令調になってきた。
ふざけないでください。荒らしの本領発揮の筆致が出ているということは、
今までの丁寧な書き方が読者を騙すための三文芝居だったということです。
野獣登場ということです。あなたは、そういう人。
 
(シャローム)
> st5402jpさん こんにちは
 
(私)
この白々しい挨拶のことを言っても、同じように書いてくるのは
底意地の悪い証拠ですが、前にも書いたと思うが、
シャロームは、またしても、むしろあざ笑うかのように挨拶を入れてきます。
これが、シャロームの、不感不応のモンスターたるゆえんです。
 
(シャローム)
「(私)
私が書く動機は、何度も言ってきたことです。不平不満や苛立ちではありません。
それが、文章から分からないのは、楽山の読解力不足です。
それに、最初から、あなた方の話で満足できる人は、いてもお仲間だけだと思っています。
2019/8/30(金) 午前 11:37st5402jp返信する」
 」
長いお付き合いですが、stさんの批判に同調し、支持し、交わりを続けている方はおられますか。
stさんの執拗なたくさんのコメントを読まれ、stさんにやめるようにたくさんコメントされた方を思い出しますが、stさんも覚えていて、それらの人はみんな荒らしであって、私のなりすましであるとか、仲間であるとか繰り返し書いておられますね。みなさん読解力がなかったのでしょうか。
2019/8/30(金) 午後 1:58 [ shalom ] 返信する
 
(私)
私は、シャロームと楽山をいっしょに批判しよう、ではなく、何よりも二人に関わらないようにと、いつも、お願いしています。だから、シャロームに関わる人が少なくなればよいのです。いなくなれば、もっとよいのです。
(私)
数を頼むのは、下種の勘繰りです。私に、批判をやめるように言ってきた人は、事情をよく知らないか、シャロームの丁寧語に騙されている人です。シャロームは、悪性度が、普通とは違うのです。そのことが、このシャロームの嫌らしい嘲りのコメントに表れています。そして、シャロームにだけは、分からないのです。
(私)
シャロームは、お前には仲間がいないだろうと、私をおとしめています。
神に従っている人は、このような、自分のほうが偉いみたいな言い方はしません。
シャロームが、神もキリストも聖霊も信じておらず、恐れてもいない証拠です。
(私)
カルトには仲間がいるものだから、このように、
仲間がいないだろうと、侮辱してくるのは、今に始まったことではないのです。
シャロームの本質は、他者を下に、自分を上に置くことだという表れなのです。
仲間が多いかどうかで、測れると思っている偽善者の吐く息を覚えてください。
 
(シャローム)
stさんに同調し、支持し、私に対して注意された方のHNを教えてくださいませんか。私は一度もSTさんのきびしい度重なる警告にもかかわらず、一人もおられませんよ。
 
こういうとき、誰々とHNを書いてしまうと、その人が攻撃されて、大いに迷惑するわけです。実際は、私は、今のところ、一人であり、独りであり、その方が、自分の言葉を鍛えながら書くことが出来るので、誰かの助けは必要としていません。
 
さらに、キリスト者には、祈りがあります。祈りは一人でするものであり、そういう時間が大切で、そこで、一息ついて、かつ、内省することも、静けさのうちに、慰めを得ることもあります。
 
キリスト信仰の神は、キリストに表されたように、愛の神ですが、一方で、戒める神でもありますから、いつも神が自分の味方ということではないのです。しかし、神の前でのみ、人を気にせず、正直に告白できることがあります。
 
そこが、いつも訂正不能の妄想を味方とする楽山やシャロームとは、根本的に違うところです。
 
(私)
シャロームは、私が孤独であることをもって、仲間のいる自分を誇っているのです。このように、数に物を言わせることが、何よりも、シャロームが下種であることの証明なのです。
(私)
こういう、卑怯で、低劣で、嫌らしい皮肉を言ってくるのが、化けの皮の剥げつつあるシャロームの特徴なのでしょう。もっとひどくなるでしょう。
(私)
真実は、孤独のうちに、目覚めとして、開かれるものです。
シャロームのように、誰かを騙して、誰かに褒められて、開かれるものではないのです。
ましてや、シャロームの最悪な皮肉や当てつけで、真実が明らかになることは永遠にないのです。
 
(シャローム)
確かに自由さんは初め、私のコメントが皮肉のようで、そんなコメントがSTさんの批判を招くのではないのではないかと注意されたことは覚えています。
 
(私)
批判というものは、特に務めと意識している批判者にとっては、偽善者のコメントなど、全く当てにはしていないのです。
 
(シャローム)
はじめ好意的にstさんにかかわっておられた方は私がSTさんの思いや気持ちをよく理解されると思ってSTさんに紹介したverさんと今から一年ほど前から関わりが始まった自由さんでしょうか。
しかし残念ながらおふたりとも結果はご存知の通りです。
いくつものブログを開設して、つづけるのも大変でしょう。
stさんも5402生まれなのですから、若いとは言えませんが、徒労に終わるのではないでしょうか。
それともまた新しい人を探し出して続けられますか。
続けるのも自由、やめるのもSTさんの自由な意思にかかっているのであって、誰の責任でもありませんよ。
Shalom!
2019/8/30(金) 午後 1:58 [ shalom ] 返信する
 
(私)
ずっと前に関わった人のHN"ver"を持ち出してきました。手段を選ばないシャロームです。"ver"がシャロームを批判できなかったため、シャロームは、ネット寿命を延ばしていますが、それを、まるで、正しいことであるかのように言っているシャロームの無反省は、妄想宣伝家の、パリサイ人以上の偽善者ならでは・・なのでしょう。
(私)
この「Shalom!」という挨拶も、嫌がらせとして、いつも付けてくるのです。
シャロームは、悪意の人、時々の最後には脅迫しか手段がありません。
侮辱して悦ぶサディストだと書いたのは間違いではなかったようです。
(私)
そして、恩着せがましく、丁寧語で、お前しだいみたいなことを書いてきます。
この丁寧語に騙される人が、いなくなることを祈り願って止みません。
(私)
私は、もとより、孤独を覚悟の上で、批判しています。新しい人を探し出して世辞を言って、認められたがっているのは、シャロームに他なりません。
(私)
私の自由は当たり前のことです。言論の自由を勝手と勘違いして、言論の責任を負わないシャロームは、長きにわたって、嘘八百の妄想を宣伝してきました。総ては、シャロームの無責任で起こっている闇の不祥事を、私は、私の責任の範囲で批判しています。
 
verさんは、神学者のようでしたが、知識があったと思うけれど、なぜか、シャロームに反発することが出来ないようでした。こういうことから、キリスト教を悪用する、楽山やシャロームを含む群れか、同一人物の成りすましか、という推測になってゆきます。
 
シャロームは、社交の世辞で物を言うので、シャローム批判を始めた頃、別の人から、失礼なことを言ってる・・というコメントをもらいました。また、楽山には、やさしいお人柄・・というコメントが寄せられていました。ここが、脅威となり得るところです。
 
詐欺師は、うわべだけ、やさしいのです。そういう言葉に、人が弱いことも承知の上なのです。今の時代、だまされないための教育・・なされているでしょうか。そのためには、必ず、人の言うことを、鵜呑みにするのではなく、真意、深み、文脈を読み取ることが必要になります。
 
シャロームshalomは、平和という意味のヘブライ語の挨拶の言葉だそうです。楽山は、中国の観光地の名前から取ったのでしょうか。いずれにしても、あくどい2人、というより、同一の一人かもしれません。楽山は、他にも、多数のHNを使っています。
 
 
楽山の名は、隆かもしれません。それで、ツイッターの raku も taka も、楽山である可能性が高いです。筆致や内容も、ほぼ似たような方向性で、内容が薄く、ゴシップや興味本位のものばかりです。つまり、何かを真剣に考えて思想をまとめるということをしない人です。ひやかしだけなのです。
 
このシャロームと楽山の思想には軸がなく、ゆえに広がらず、その場その場で、体のよさだけを書き、真っ当な理路もなく、一定の結論もなく、いいかげんな先細りに終始します。求めているのは、分かっているらしいと受け取らせて好意的なコメントで満悦したいだけなのです。
 
ゆえに、言ったことに、一切責任を負いませんし、反省もしません。その時、その場限りで、言いたいことを言い、後は、大方、忘れているのだろうと思います。じっくり考察して真実を追求する人ではありません。自分の満足だけを求める自己愛性人格障害だろうと思っています。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自己中のために、自分を見ることが出来ません。自分というのが既に完成している病状で訂正不能だからです。ちゃんとしていると見せかけるために、反省、共感、とほほ、痛い、などという言葉だけを書きますが、反省も共感も後悔も出来ない人です。
 
信仰は、神の辻褄を分かることではありません。キリスト教の信仰は、聖書に表されたイエス・キリストに惹かれることです。悲劇が起こっているのは神のいない証拠のように言うのは酷い的外れです。逆であって、悲劇が起こっているから支えが必要だという動機から信仰は始まります。
 
キリスト教批判には多くの共有できる実がありますが、楽山の言には実がありません。信仰を受け取る心の問題を、楽山は、全く理解できません。出まかせの幼稚な辻褄で欺いて、他者の信仰とその始まりを妨害しているのが、楽山であります。楽山とは意見交換が成り立ちません。
 
キリスト信仰者は、神の辻褄によって信じるのではありません。ゆえに、神がどうのと、辻褄ばかり語っている楽山は、だいたい無神論者でさえありません。楽山には、いかなる論も成り立っていません。小学生が、屁理屈を繰り返して駄々をこねているようなものです。
 
信仰は、理屈では表せません。信仰は、人間らしい温もりと潤いを持った心で受け取るものです。もちろん、受け取らないのは、個人の自由です。しかし、受け取っていないのに、文句だけ言って、信仰と神を、机上の空論として扱う弊害をもたらしているのが、楽山その人であります。
 
真実の信仰者からは、体験と心情が表れてくるでしょう。偽信仰者もたくさんいて、シャロームがその典型です。楽山と同一人物かもしれません。宗教と信仰を、手のひらで、机上で、語れると思っているこの二人には、どうか近づかないでください。信仰について恐ろしく愚鈍なのに執拗です。
 
 
毒満ちるまなこの裏

毒満ちる まなこの裏
 
 
(2019年09月07日)
(2021年09月15日、再録+)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
(昔々・・)
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  戦争の時代2
 
 
私は、戦争を経験していません。1954年生まれで、「戦争を知らない子供たち」の世代です。そして、年を取りました。それはもう、すっかり老人になりました。
 
私の父は熊本が本籍で、母は静岡で生まれたそうです。日本人ですが、父は、今の韓国の仁川(インチョン)で生まれたそうです。
 
そして、父と母は、ともに、今のJTBの前身の、前身の、・・中国の青島(チンタオ)の交通公社に勤めていて出会ったそうです。つまり、そういうことが可能になる時代に私の親は生きていました。
 
二人とも直接の戦闘には遭遇してはいないようですが、父と母は、別々に、引き上げ船で、大陸から日本に帰ってきました。私の両親は、日本が、朝鮮と中国を侵食していた時代から、戦中戦後を生きてきました。
 
だから、私は、子供の頃から、戦争のことや、戦後の酷いインフレや、貧しい暮らしの話などを、親から聞いていて、そのために、テレビの、戦争の特集や番組も、わりと見るほうだったと思います。
 
だから、政治家というのは、必要悪であり、基本的に、信じてはいけない人で、批判か皮肉か風刺の対象になることが多い人々という印象を持っていました。事実や報道は、それを裏切らなかったような気がします。
 
 
しかし、現在、40代~それ以下の人々は、親も戦争を知らない世代であります。恐らく、親からも、戦争の話を聞いたことはないのではないかと思います。
 
 
そして、平和が、当たり前に続くもので、戦争は、遠い昔の話になっているのではないか・・という若い世代にとって、戦争は、活劇以上ではなくなっているのではないかと思うこともあります。実際、私なども、戦争を活劇のように、特に映画など、見ていたところもありました。
 
上記の若い世代は、戦争を、殺人が日常的に起こる悲劇として見る視点を持っているでしょうか。SF、アニメ、ドラマ、映画などと同じような、アクションの視点で見ていたりしないでしょうか。
 
私が幼児から子供の頃は、ちょうど映画の「三丁目」の時代になります。子供のとき三輪車のミゼットを実際に見た記憶があります。月光仮面からウルトラマンまで、裕次郎や、若大将の時代でもあり、1950~60年代です。私は、ゴジラなど怪獣映画が大好きでした。
 
75年前、私も生まれていない時代に、日本は、ほぼ廃墟となりました。75年というのは、平均寿命より短いわけです。僅か人の一生にも満たない時間のうちに、国が壊れ、国が変わったのです。また、逆方向に変わらないと誰が言えるでしょうか。
 
歴史は繰り返すと言われ、また、歴史は繰り返すようで繰り返さないと言われます。私は、歴史は繰り返さないが繰り返すように見えるところもあるなどとも思っています。
 
美辞麗句を、やさしい顔で語るだけの政治家はいないでしょうか。
 
皮肉を言いますが、昔、プクチノジージツという鳥の鳴き声を聞きました。福祉の充実という選挙演説でした。福祉のことは、前にも後にも、その一言だけでした。言っとかなかきゃということだったのでしょう。ジージツ、ジージツ、・・
 
今の親世代は、いい言葉を、いい意味に受け取るように教えてはいないでしょうか。若い世代は、男女や人間関係の糸をどう絡ませ、どう解いてゆくか、という話に偏ってはいないでしょうか。
 
美しい、正しい、ということが、目標ではなく、無条件の前提になってはいないでしょうか。
 
忘れれば忘れるほど、戦争の時代は、国民にとって未体験になって、悲劇的な事実の迫真性が欠けてゆき、威勢のいい活劇の声となって、大声で吹聴されてゆくでしょう。世界の目まぐるしい政治の変動によって、戦争をめぐる事情も目まぐるしく、世界では、戦争が実際に起こっています。
 
外国の戦争のニュースは、人がたくさん殺し合って、たくさん死ぬという、警察が役に立たない事態のニュースであります。警察より組織・結社・軍隊が物を言う時代かもしれません。世界には、独裁、あるいは、それに近い政治体制が、相変わらず多いのです。
 
自己中で身勝手な、妄想家、詭弁屋、偽善者、カルト、嘘吐き、詐欺師、などが闊歩しやすい時代は、無理が通りやすい時代であります。きれいごとで、だましたり、ごまかす者が生きやすく、真実の追求が滞ってゆく時代でもあります。それは、隠し事が疫病のように蔓延する時代でもあるでしょう。
 
 
政治でも宗教でも思想でも、イデオロギーは、心の面倒を見ません。
 
イデオロギーの概念は、言葉を繰り返すことが主体となり、心が疎かになりやすいのです。
 
イデオロギー化すると、教条主義に似て、安易に言葉を覚えて思い込む方向に流れやすく、言葉の字面のみで固定されやすく、人間の心から乖離する固着と暴走の傾向を生みやすく、それで正しいと思い込みやすい傾向があります。つまり、イデオロギーは、自己正当化しやすいのです。
 
悪い時代が繰り返さないのは、悪い時代があったという認識が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、悪い時代にしないための警戒心が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、国民が、皆、具体的に政治活動をするのでなくても、国民が、安穏として油断すれば、国というものには、戦争に近づく危険性が常にあることを、それは知らないうちに進行するという可能性を、国民が、忘れないでいる間だけなのです。
 
 
きなくさい、うさんくさい、そこに愛はあるんか

きなくさい、うさんくさい、そこに愛はあるんか
 
 
(2020年09月02日)
(2020年10月28日、一部修正)
(2021年09月14日、再録+)
 
 
 
  未来電子国家
 
アイドルは要らなくなるだろう
顔・形はもちろん声だって
コンピューターで作れるようになる
しかもユーザーはソフトウェアを使って
さらに自分の好みに変えられる
人の感情の特性を分析して
ムードいっぱいのメロディの
作曲さえできるようになる
 
悪者たちは重要人物の情報を
写真や映像から手に入れて
実際にスキャンする以上に
本物に近似した虚像を作る
ある日突然
大国の大統領が
とんでもないスピーチを始める
電子クーデターの始まり
電子犯罪の進化だ
 
パソコンはなくなるだろう
通信速度が今の電話回線の
数百~千倍になれば
今のハードディスクと同じくらいだ
カードかボードのような端末だけになって
家の中では壁がスクリーン
テレビとディスプレイモニターを兼ねる
声やいろんな入力の仕方で
オンラインでリアルタイムで
出力されたり手に入ったりする
でもその恩恵にあずかれる人の方が
だんだん少なくなったら
しまいに戦争か?
電子と原始
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る
 
まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない
 
吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
(90年代~?)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·10時間
帯を見て期待して読んだけど、『三四郎』を感じさせるのは、与次郎的なキャラがいることくらい。
全体の雰囲気は、書き手の自己陶酔、自意識過剰、気取りが、文章の表面ににじみ出ていて、延々、他人の自慢話を聞かされている気分にさせられる。→
午後7:57 · 2021年9月11日
 
ORの小説のことです。批判目的ではなく、「帯を見て期待して」読んだそうです。紹介文で持ち上げて、落とすやり方でしょうか。楽山の立場は、何でしょう、立場とかあるんでしょうか。アンチHSではなかったようです。人をあざむく者というのは、怖いです。
 
自己陶酔、自意識過剰、気取り、これは、自己愛性人格障害である楽山の特徴です。楽山は、アンチどころか、ORにあこがれていたのではないかと思います。HSの幹部になりたかったのではないでしょうか。いや、自分が教組になりたくて、妬んでいるのでしょうか。
 
ちなみに、私は、楽山を批判するようになってからは、楽山の記事を「期待して」読んだことはなく、「期待して読んだ」と書いたこともないです。楽山は、人の心に、すぐには気づかないような、汚いシミをつけてゆく人です。正体を知ってからは、クズだと思っています。
 
楽山が自認しているキャラは、バランスのとれた人物、アンチカルト、常識あるアドバイザー、宗教に通じている人、・・というところでしょうか。これらを、全部、否定形にすると、楽山の本性が浮き彫りになります。偏見・非常識・無恥・無知・無反省・無責任が、大根役者の楽山なのです。
 
 
 
 
 
 信仰について、2年前の記事より断片
 
 
キリスト者の正しさは、言動の正しさではありません。
 
キリスト者の正しさは、祈りと赦しが必要なほど切実な告白の正直さにあります。
 
すなわち、神の前に、キリストの御名によって祈る心得は、正しさではなく正直さであります。
 
神に背くような、人間としての弁えの鈍い者たちは、やたらと正しい立場を売りに出していますが、
 
私たち信仰者は、既に、自らが正しくないことを認めた人間であります。
 
そのような人間が、救いを求めるところは、豪語ではなく、礼儀ではなく、美辞麗句ではなく、世辞ではなく、思い込みではなく、ただ神に対してのみ、一途に正直であろうとすること。
 
そのただ一点においてのみ、救われる信仰者がいて、救い主がいるのです。
 
 
 
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