ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  時と風2
 
 
時は風のようなものだ
 
あの日の時と
今の時と
それほど変わりはない
 
同じような時が日々の必要を告げる
 
あの日の風と
今の風と
それほど変わりはない
 
同じような風を頬に受けている
 
私たちの変わりようといったらどうだろう
 
時は風のようなものだ
 
流れてゆくようで
流していて
 
流れてゆくのは私たちのほうだ
 
 
私たちは時ではない
私たちは風ではない
 
時も風も空しさを感じない
感じるのは私たちだ
 
私たちは
時に乗じて風のように進むのではない
 
時にも風にも限りはないが
私たちには限りがあって
 
時にも風にも変わりはないが
私たちは変わりがあって
 
必要に応じて
受けて考えて返してゆく
 
感じるならば返してゆく
 
 
※ 
 
あの日の時と風も知らないのに
まるで比べるかのように
未知の終わりに向かって変わり続ける自分
 
その悲哀を共感できる人は信仰に向いている。
 
一方で、そういう共感を全く持ち得ない者がいて、反信仰しか語れなくなっているが、そういう者が、なぜ、生まれて、存在しているのか、という疑問は、神がいるのに、なぜ、悪があるのか、という疑問とともに、神の大きな懐に秘められているのです。
 
 
 
 (伝道の書、口語訳)1:14
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。
 (伝道1:14、旧約聖書)
 
 (伝道の書、口語訳)
2:25
だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。 
2:26
神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
 (伝道2:25-26、旧約聖書)
 
 
 (伝道の書、口語訳)
4:15
わたしは日の下に歩むすべての民が、かのわらべのように王に代って立つのを見た。 
4:16
すべての民は果てしがない。彼はそのすべての民を導いた。しかし後に来る者は彼を喜ばない。たしかに、これもまた空であって、風を捕えるようである。
 (伝道4:15-16、旧約聖書)
 
 
「風を捕えるようである」というのは、以前は「風を追うようなものだ」という訳でした。前者は、言葉から、出来ないと直ぐ分かる。後者は、追おうとすれば追えるけど、切りがなく、人生を費やすには、空しい、という感じになり、私は、後者の方を好みます。
 
信仰を持ち、日々、何かを努めるとしても、私たちは、時が経てば、寿命が尽きていなくなる存在。「風を捕えるようである」≒「風を追うようなものだ」、つまり、私たちは空しい存在だ。この地上の世界は、限りある私たち人間にとって、空しく思えてならない。
 
そのことを強調しながら、伝道者が伝えるのは、2:25~26にあるところの、神を離れては楽しめない、 ≒ 神がおられるからこそ楽しめる、という教訓的な讃美になっている。
 
地上の人の生き様が、いかに空しいかを説きながら、神のもとで楽しむことを説いている。いわゆる神への、逆説の讃美歌となっている伝道の書。私は、そういう伝道の書が好きです。
 
 
風 山

風・・山
 
 
(2020年05月02日)
(2022年05月12日、再録+加筆)
 
 
 
  影のうすい男
 
生きているのか
死んでいるのか
よくわからないほど
影のうすい男が歩いていた
まわりを歩いている人に関心を持たず
また彼が関心を持たれることもなかった
生きるとは何か
という前に死とは何か
という前に生きるとは何か
彼は今生きているのか
それとも死につつあるのか
人が「この人は死んだ」と言うとき
彼は生を終えるのか
それとも死ぬのがやっと終わるのか
彼は歩いていた
たとえ泣いていても顔に出ていない彼のまわりで
人々が通り過ぎていった
紙くずが舞っていた
いつのまにか自分がうすもやに思えるほど
何の抵抗もなく
風は通り過ぎ
紙くずのように
時間が通り過ぎていった
 
時間の前で
次から次へと
彼は通り過ぎ
目の前で果てていった
 
紙くずは遠く去って
どこかで拾われ捨てられるであろうか
彼は拾われることがなかったので
捨てられることさえできなかった
 
 
  抑圧
 
何も報告してはくれない
どうしろとも書いていない
 
誰かから誰かに
日常的に伝達される
レジメのような情報があふれている
覚えきれなくてイライラする
苦笑いとおとぼけでわたっていくうちに
足を踏み外していることや
腰が折れていること
頭が割れて欠けていることさえ
気づかないでいるのかもしれない
鏡にだって写らないのだから
 
ほとほと終わってしまいそうだよ
胸は風の吹くまま
観念も気安く通してしまうだけの
穴があいていて
時々かわいそうだよと悲しい笑顔を見せるときに
 
何も伝達してくれないものが
揺り動かして時々
何か伝えられていると
もっと大切にしたくなって
そっと手を伸ばす一冊
目に見えるピリオドから
違った恐さを夢に見て
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のようになると、間違え続けたら、詫びることも、正すことも、反省することも、学習することも、できなくなるのだろうか。同じ辻褄を、繰り言のように、言い続けるのだろうか。しかも、頭は、空っぽの世界に、ふくらんでゆくのだろうか。破裂するとき、邪悪な液でも引っ掛けるのだろうか。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
大川隆法総裁は、アーレントに習って、多数の犠牲者を出すような革命はよくないとしてます。
この考え方からすると、今、HSがプーチンを支持、応援してるのは、筋が通らないように思えました。
HSではこの矛盾をどう解決してるのでしょうか。
 
楽山は、また、身の程も弁えず、他者を批判しています。無反省、無責任で、全く「筋が通らない」のに、評論家気取りで高所から見下ろして書いています。どうして、こういう気分になるのか、それは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからとしか言いようがないのです。
 
 
 
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  楽山の人間離れ2
 
 「第十八講 ヨブの見神(二)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月03日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、人格に興味がないことが表れています。さらに、楽山は、人間ではないのかもしれません。宗教を考えるときに、自分以外のもの、被造物であるとか自然であるとかを考えて、人間の心を考えないし、心に感じない楽山が、宗教と信仰、即ち、人間を生かす道を説くことなど出来ないでしょう。
 
 
「第十八講 ヨブの見神(二)」を読んだので、印象に残った箇所と感想をメモしておきたい。
「第三十八章の研究」。
「有名なるドイツの科学者フンボルトは科学者は自然現象を説明し得るもその意味を説く能わずというた」。
海の動揺(心の動揺)は人には制御し難い。しかし「我らより熱誠なる祈の出ずる時、神はその大なる御手を伸ばして海を制し給う」。
「神の造りし荘大なる宇宙とその深妙なる運動、神の所作と支配、そこに神は見ゆる」。
「一人の人を真に知らんためには、その人の作物を見るを最上の道とする」。神を見るには「彼の所作物たる宇宙とその中の万物を見るべきである。その中に彼の真の姿が潜んでいる」。
 
この引用は、楽山の興味を表しています。「海を制し」「荘大なる宇宙」「深妙なる運動、神の所作と支配」「所作物たる宇宙とその中の万物を見る」・・楽山の誇大妄想の世界でしょう。大きく偉大な者が好きで、そういうものとの関わりでないと神を考えることが出来ないのです。
 
宗教と信仰は、人を生かすためにあります。しかし、楽山は、人間の心が分からず、ゆえに人間の存在に興味がなく、人間を見たり考えたりが出来ないために、どんどん人間離れした誇大的なものしか見ないようになっています。
 
「一人の人」である自分「を真に知らんために」自分を見ることだけは出来ない楽山です。
 
楽山自身は、今まで楽山が書いてきたものから、スケールの大きいものだけでなく、人間一人にさえも洞察や共感が出来ないでいて、できないことの反動のように、安っぽい空想だけで、宇宙と万物とかデカいものを語ろうとするのです。
 
一つには、スケールの大きなものは想像するしかないために、批判を受けにくいと見ているのでしょうか。誇大妄想的空想は、それだけで、身の程知らずを表すことになります。身近なものが、全く、意に反して、手に負えない楽山ならではの、子供じみた自慰行為の誇大広告なのです。
 
そういう事情だから、批判しても、返しも弁明も出来ないということでしょう。もう、2年以上も続いていることです。そうして、反省しない、責任は負わない、悪いことは人のせいにする、・・そういう人格が、自他を破壊する悪魔性の体質として養われてきたのでしょう。
 
 
自然の中に神を見るというのはよく聞く話ではあるし、それは自分も感じたことはある。「このようなものが偶然にできるものだろうか。そんなことがあるとは思えない。このようなものが存在するということは、やはりその背景には何らかの意思があるはずだ」など。
 
楽山の、月並みな、荘厳気分からの陶酔を語る口は、一方では、人間一人も、好きになれない、うまく関われない、共感できない、ならば、傷つけてやれ、壊してやれ、という方向に、堕ちてきたのだろうと思います。
 
私は、人付き合いが苦手ですが、聖書が、信仰が、キリストが、人間らしい道を示していることには気づいて、残り少なくなった人生において、今も、なお、人間として少しでも成長したいと思うゆえに、努力可能で修正可能な道を歩もうと努めています。楽山の語る神?は、楽山が作った張りぼてなのです。 
 
 
でも自然の中には美しいものばかりではなく、醜いもの、酷いことも多くある。肉食獣は他の動物を生きたまま貪り喰うし、寄生バチ、カッコウなどの残酷な習性をもつ生物もいる。これまでに多くの種が無残にも絶滅したともいう。これらの事実からすると、自然は神に由来するという考え方にはどうにも疑問を感じないで入られなくなるし、自然によって神を知ろうとするのは想像以上に困難な道になりそうにも思えてくる。もしかしたら自然の見方が浅いせいでこのような考え方をしてしまうのかもしれないが、とりあえずはこれが現時点での正直な感想ではある。
 
「醜いもの、酷いことも多くある」・・その典型例が、楽山自身であることに、自己愛性人格障害の楽山は気づかないのです。そうして、平気で、人を無視し、あるいは、悪口を言い、自己正当化の詭弁を弄して、みすぼらしい自身と我執を隠そうとしては、いっそう恥ずかしい失敗と欠陥を露呈するのです。
 
楽山は、何事についても、決して、批評、評論する立場に立ってはいけない人です。すべて嘘となり、偽善となってしまうからです。自己愛性が、自分を、まともに見せかけようとするとき、最も、人を傷つけやすくなります。どうか気をつけてください。無反省、無責任の、楽山です。
 
また、今回も、楽山は、自分を良く見せようとあがいて、結果として、わざわざ、最も見苦しい自分を表してしまいます。一生、これを、繰り返す因業(いんごう)なのでしょうか。
 
自分を見ることなく、人に向かって、書いて表すことで、泥の靴を履き、虫の羽音を立て、笑いの口を引き伸ばして、なお、人の血を求めて、歪んでゆきます。
 
 
因業の空と海と道

因業の空と海と道
 
 
 
(2021年)
(2022年05月11日、再録+加筆)
 
 
 
  なくしたアルバム
 
少しは懐かしくもあるけれど
格別お名残惜しいわけではない
ともかくも君らが私と別れたのは幸いだった
お互い結局
いいことばかりじゃなかっただろうから
 
君らが今どこにいるのか知らないが
私よりは多くの陽を浴びているだろう
私は暗いところにいる
といっても気持ちはそれほどでもない
いま会ってもわからないかもしれないけれど
君らの笑顔はぼんやり残っている
それで気分のいいときもあるのだから
起きたいときに起きて
汚れたまま街を徘徊したっていいんだけれど
なかなかそこまで気が進まない
 
私が何をしているかといえば相変わらずで
傷を集めたりしている
かすり傷、細い傷、いろいろだ
傷つきながら夢中になって
君らが丈の高い萱(カヤ)の中を
あんまり急いで走り回るから
あとで血がにじんできて
びっくりして痛がっていた傷とか
けんかしたり転んだりして
君らが遊んでつくったアザとか
私の目に
はっきり写らなかったものを集めている
そして並べてみて
くすっと笑うことだってある
 
君らが川や海辺や山にいても
路地や工場の跡や
お化け屋敷にいても
泥んこや田んぼとだって友達で
君らの声がきらきら輝いて
何を言っているのかさっぱりわからなくて
みんな名付けようもなくひとつだった
 
若者になって並んでいた君らはもう
埃(ほこり)を被(かぶ)った私には
ぼんやりしていて
虹の向こうでかすかに微笑んでいるんだ
あの頃は
と君らは言うかもしれないけれど
あの頃いちばん大切だったものは
君らは捨て去るしかなかったこと
私はわかっていた
君らは私と
知らないまま別れるしかなかったことも
 
君らが遊んだ人形や玩具
もう二度と触れることはないと
気づかないまま手を離した瞬間が
スローモーションのように写っているよ
 
君らが私をなくした日のこと
私は覚えている
でも君らは忘れていい
君らは皆、私を卒業していった
私は埃を被ったままでいい
これから先、君らが何か
咎(とが)められることがあったとしても
咎めるのは私の役目ではないのだから
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
百田氏は、及川氏とは交流があっても、幸福の科学とは距離をおいてるんだろうと思ってたけど、それは間違いだったようだ。
百田氏は何年も前からリバティ(幸福の科学)との付き合いがあったんだね。
午後7:03 · 2021年5月3日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1389158571686858752
 
また、自分のことを棚に上げて、他者のことだけは語ろうとする楽山です。自己愛に凝り固まると、こういうことになります。今まで、自分を語っても、自分はこうだ・・みたいな書き方しかできず、反省と書いても、全く自分を斬ることのできない楽山です。
 
しかも、楽山は、発言の責任を負わず、反省もしないのだから、言論や批判をする者としては、完全に失格です。そのことさえも無視して書いてくるのは、病質者だから・・以外に考えられないのです。
 
遠い先のことを慮ること、すなわち、遠慮することの出来ない楽山です。楽山には、誰も、関わらず、近づかないことだけを願っています。
 
慮る(おもんばかる)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違いを自覚できない楽山です。反省の実践が難しいのだそうです。「恥ずかしながら」は嘘です。楽山に羞恥心も罪悪感もないと思います。全部、人のせいにして、自らを省みない人です。「人間の性」と言って一般的なことのように見せかける詭弁は、しばしば、楽山に見られてきたことです。
 
 
 
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  退行の繰り言2
 
 神は、悪を容認しているのだろうか?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月29日
   改めて批判。
 
 
楽山は、今度は、HSだけでなく、キリスト教否定の、キレ気味の記事を2つ書いてきました。意地でしょうか、単純なのでしょうか、それとも、相手にしてほしいのでしょうか。読めば、語調が強くなっただけで、今までと、ほぼ同じ繰り返しです。一つ覚えのようです。
 
楽山は、正義の味方気取りで書いていますが、前に言ったことを強調しているだけです。いつまでも、その疑問の中にずっと棲んでいたいようです。実際は、思い通りにいかない人生を、神のせいにしているだけだと思います。
 
楽山は、信仰を受け取る器が、自己愛過剰の自尊過大によって損なわれているので、信仰のいちばん大切なことが分からないのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、人間性が破壊されています。しんみりとした高等感情がありません。
 
だから、結局、前後関係お構いなしに何でも利用する飢えたケダモノの根性があらわになっています。そして、ますます、自尊過大に固まってゆくのでしょう。キリスト教と人間、その一番悪い例として、楽山は、反キリストのサイコパスになっています。
 
聖書で言えば、楽山は、キリストを裏切ったユダは後悔したので当てはまらず、強いて言えば、神が供え物を受け取らなかったとき、どうしてですかと嘆くことが出来ず、砕けた魂で訴えるような悲しみをいだけず、怒るだけだったカインに似ています。
 
現代の言葉で言えば、カインは、しんみりした悲しみも罪悪感もいだけないサイコパスの始まりでしょう。その点は、楽山に似ています。しかし、カインは、やけ気味に叫びました。楽山は、ニヤニヤしながら、嘘を吐くのです。
 
 
これは本書に引用されている文章の一部である。「神が存在するなら、なぜこの世に悪があるのか?」というのは、よくある議論ではあるが、悪をゆるす神など必要ないというところまで踏み込んでいるのは随分大胆だと思う。
私は、ある残酷な男が自分の妻を二階から蹴落とし、彼女が気絶してしまうまで蹴りつづけた、という話を聞いた。私は事の怖ろしさを強く感じた。その瞬間、『そんなことを許す神など私には必要がない』という考えが私の心に閃いた。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.268)
 」
個人的な好悪で言うならば、自分は相手に対して要不要で判断するのは嫌いである。ただそれでもこの人物の気持ちは理解できなくもない。
 
どうやら、引用元も、楽山も、自分は怠けたまま、どんなときでも、めでたし、めでたし、ということにしてくれる神?でないと承知しないようです。つまり、神がいるなら、100%好都合を与えよ、と言っているのです。「理解できなくもない」・・ボンヤリ言語の曖昧語尾です。
 
神を否定する無神教カルトは、このように、不幸を神のせいにしますが、代わりの幸いを、何も用意していないのです。その無責任は、楽山に酷似しています。責任を負わず、反省もせず、人を憎んで、破壊人格になってしまった自分を、筋違いに、神のせいだと言っているのです。
 
身から出た錆を、金粉に変えてくれる恣意の命が欲しがるのは、いつも赤ちゃんのように乳を吸っていたい我がまま者の夢・幻の揺り籠のお伽噺でしかありません。このような自分勝手な怠け者たちの欲望に、神が反応して恵みを与えるでしょうか、否です。
 
前にも書きましたが、罪は、自由意志を与えられた人が犯すものです。その自由意志を成長させるのが信仰の成長ですが、この楽山と引用元は、育て損なったのを、神のせいにしています。不祥事を神のせいにしておいて、神に文句を言って、通るはずはないのです。
 
既に書いたような幼稚なことをまた繰り返して、いちゃもんによってキリスト教をおとしめてくる楽山です。このような人の言うことを受け取って、自画自賛の繰り返しを受け入れて付き合っていると、人格を破壊されて奴隷になってしまいます。決して近づかないでください。
 
「「神が存在するなら、なぜこの世に悪があるのか?」というのは、よくある議論ではあるが、「悪をゆるす神など必要ない」という引用をして賛同しています。自分信仰の楽山には必要ないのでしょうから、反省せず、悔い改めもせずに、滅びてゆく経過が、まずは、作文に表れています。
 
その悪こそが、楽山が振り撒いているものだということに、まるで、気づかない愚鈍を露わにしている楽山です。いずれ、赦されないときが来るのです。その時に、神は悪を許す神ではなかったと気づくことは期待できないでしょう。その時に、パニクって狂うであろう楽山です。
 
罪は人間が犯すものです。そして、人間は、警察や司法を考え出しました。人類は、少しずつだが、進歩し続けているのです。歴史は、まだ途中なのです。つまり、人間は恐ろしい性質を持っているが、正しさを求めてもいるのです。楽山たちは、文句ばかり言って、利己以外、何も求めていません。
 
そして、悔いることさえしない楽山のような者が、記事を書いて、自分で何かをよくするすべも考えないで、神を否定しながら、自らは卑怯な言論を続けているという現状では、正義の味方気取りの偽善者、つまり、偽善の隠れ悪はなくならないでしょう。
 
「相手に対して要不要で判断するのは嫌い」と言いながら「それでもこの人物の気持ちは理解できなくもない」と肯定している楽山独特の詭弁の卑怯さを覚えてください。これがボンヤリ言語という楽山の無責任言語なのです。このような人物は、宗教にも信仰にも、不要であり、さらに、害であります。
 
神は、楽山のような身勝手に合わせる御方ではありません。楽山が、神の正義を否定するならば、それ以上に、人の正義の欠片もない悪と偽善の楽山自らが裁かれることを否定したいからでしょう。楽山のような者の、正義に見せかけた安穏は、神によって守られることはありません。
 
この世に悪があることで、神に文句言っても、言ってる本人が、悪人であるだけでなく、詐欺師かつ偽善者では、話になりません。楽山は、悪魔性の無神教カルトであります。そこに、のぼせ上がっている楽山は、自らの罪と偽善も、赦されることはありません。
 
 
神は全能であり、何でもできるならば、この世の悪逆非道な行いを止めることもできるのだろう。
 
人間は、神に似せて、自由意志を持って造られた以上、楽山のような怠け者の偽善者を除いて、自分で何とかしようと考えます。そして成長し進歩するのです。
 
何でも、悪があるのは神がいない証拠じゃろ・・と短絡するような、楽山のような者は、では、神を信じないで、あなたはどう解決するのですか?・・という問いには、何も答えを用意していないのです。どこまでも、卑怯卑屈な偽善者は、楽山その人です。
 
そして、自尊を満足させるためだけに、まるで正義の代表であるかのようなふりをして、この記事のようなものを書いて、結果として、誰よりも醜い自分をさらしてしまうのです。人に嘘を吐き、人をだまして、神を呪っている楽山は、自らの存在を自分で否定しているようなものです。
 
まさに、総ての不都合を、人のせいにし、神のせいにしてきた、楽山の、自己愛性人格障害が全開です。楽山は、自らの口から出るクソを、神に投げて、どうするつもりなのでしょう、どうできると言うのでしょう。楽山の愚かさが、体質的なもので、理性も感性も無いことを、自分で証明しているのです。
 
 
でもいつまで待ってもこの世の悪逆非道な行いは無くならない。その兆しもない。
 
悲劇を神のせいにするばかりの楽山のような者が、大口たたきながら、悪行を働いて、そこにいるからでしょう。楽山には、悔い改めの兆しも見えず、ますます、のぼせ上がって、減らず口を叩き続けています。この世の悪逆非道には、大方、楽山のようなサイコパスが、関わっています。
 
 
つまり神はすぐにこれを止めようとは思っていないのだ。そんな神ならいてもいなくても何も変わらないだろうし、「神なんていらない。どーでもいい」という人が出てくるのも仕方がないことではある。
 
楽山にとっては、どうでもいい神?ですが、人間には、求道者には、信仰者には、生きてゆく上で、神が、キリストが、必要なのです。楽山が「どーでもいい」なら、何も言わないことです。楽山こそが、どうでもいい人です。真実の追求は、良心のある人が続けるのです。楽山は、全く不要な害毒です。
 
楽山は、神?をけなしながら、相変わらず、人と神のせい?にしながら、生きてゆけばいいでしょう。しかし、楽山が、必要な知性も感性も自覚も反省力もないのに、同じことを繰り返して、神否定を公の場で煽動することは、結局、楽山自身が責任を負う必然になります。
 
 
ましてや昨今は、いじめっ子だけでなく、それを見て見ぬふりをしている者も、いじめの加害者だという考え方が広まっている。これからしたら、この世の悪を放置している神もまた、加害者であり、批判されてしかるべきだということにもなるだろう。
 
神のことを言う前に、楽山は、誰よりも「いじめの加害者」であり、嘘と詭弁で混乱を招くだけの楽山自身が、批判されてしかるべきなのは、言うまでもありません。自分を正義の位置に置いている楽山の言は、いつも腐敗臭を伴ってきます。こういう男を批判するには、冷静さが必要です。
 
さんざん批判されて何も返せない楽山が、キレて、神なんていらない、ここでは、神を加害者だと、罵詈雑言相当の悪口を連打したところで、何様のつもり?・・と言われ、楽山こそ、おとなしい書き方の裏に、恐ろしい敵意と悪意を込めていることが、バレていると気づかないのです。
 
子供たちの味方をしている正義芝居をして、楽山は、何をしてきたかといえば、偽キリスト者で偽牧師のシャロームの味方をして、アドラー教の自己中の片棒を担いで、気に入らないことは無視しましょう・・なんて、自己中の無神教カルトの手先に過ぎません。
 
楽山自身は何なのか。子供を守る正義を実行したのか、否です。何も出来ないし、そんなこと考えてもいないくせに、自分を棚に上げて、正義ぶって、文句ばかり言って、苦難の世であるからこそ生きるための救いと癒しの伝道に対して、全く邪魔ばかりしている、典型的な偽善者のパターンです。
 
 
こういうことを考えるのは、宗教的には神に対する冒涜であり、悪の中の悪ということにもなるのだろうけれども、悲惨残酷に満ちている現実世界を直視する限りにおいては、この世に神も仏もあるものかという義憤を堪えるには、相当に信心深く、穏やかな性格に恵まれてでもいなければ無理な話だ。
 
神に対する冒涜、悪の中の悪が、偏向した目で「悲惨残酷に満ちている現実世界を直視する」などと言っています。それが楽しみなのでしょうね。しかし、悲惨残酷なのは、他者と神の悪口ばかり言って進むことだけは怠けている自己満悦の楽山その人であります。
 
「神も仏もあるものか」が義憤だと言っています。義憤は不正に対する正義の怒り。神に対して義憤は成り立ちません。楽山の反キリストらしい決めつけです。義憤だと言った時点で、神の恵みには気づく知性も感性も無いのです。
 
神がいないかのようなこの地上世界、それは、誰もが抱く疑問であって、人間は、そのことを考えながら、真実を求めて、成長しながら懸命に生きてゆくのです。神以外に、自らの不遇の憂さ晴らしの相手がいない男、それが、楽山です。
 
正常な人は、疑問があるからといって、とどまってなどいないのです。不平不満で文句ばかり言うのは、楽山が、そこにあぐらをかいて進まない人だからです。生きることに真剣な人は、まず、立ち直りのヒントを探すでしょう。文句ばかり言ってる楽山には出来ないことです。
 
自分を省みず、無根拠に神を否定し、そのくせ「信心深く、穏やかな性格」などと言って、口調を穏やかにしたつもりのようです。下種というのは、このようにも、卑しい書き方をする、という結論しか出てはきません。浅はかな楽山、これだけバレても、まだ懲りないようです。
 
 
これはいささかいわゆる厨二病的な思考でもあろうが、この神議論、弁神論的な問題が解決されない限りは、今後も神に愛想をつかし、見限る人は増えることはあっても減ることはないだろう。
 
楽山に「愛想を尽かし、見限る人は増えることはあっても減ることはない」でしょう。楽山は、恐らく、中2から、変わっていないのでしょう。典型的な学習・成長不全です。それで、自己陶酔するから、慢性ピエロの人格破壊が起こっているということです。学習がなくても破壊だけは進行します。
 
「今後も神に愛想をつかし、見限る人は増えることはあっても減ることはないだろう」・・まさに、楽山の"呪いの予言"です。自分の機嫌と快楽原則だけで、存在の是非まで決めつけてくる自己愛性人格障害の、人より上に立っているつもりの、インチキ説教者なのです。シャロームと気が合うはずです。
 
 
ちなみに、映画『ひ・き・こ降臨』では主人公がネットで下の画面を見る場面があった。
 
「 神様なんて本当にいるのでしょうか?
 いるとしたら、
 どうしてこれだけの理不尽が
 世の中で許されているのでしょうか 」
これは神について考えるとき、どうしても避けて通れぬ論点なのだろうと思う。
 
楽山は、神義論を避けては通れぬと言って、神を信じないのは楽山の勝手だとしても、読者にまで、楽山のような、破壊につながる停滞を勧めているから、批判することになります。成長する人は、あまりに遠くに行って、取り残された格好の楽山の、実に、自己正当化らしい愚痴であります。
 
楽山は、自分の遅れた分を取り返せないので、神を否定して、八つ当たりしているだけです。できるだけ多くの人を巻き添えにして、いい気になりたいのでしょう。不遇と不幸を神のせいにするために、無神教カルトに縋りつくのでしょう。もう、そこには、まともな人間は、誰もいないということです。
 
悲劇の映画の心情の告白を書いて、論点と言っています。楽山は、いちばん大事な共感ができていません。不平不満にキレているだけで、悲しみが、どこにも表れていないのです。これは、サイコパスの特徴です。いちゃもんしか言えないことこそ、悲劇なのです。
 
この映画は見たことはありませんが、この台詞を言った役の中の登場人物は、楽山みたいに、文句ばかり言って神を否定する人になったのでしょうか。それでは、映画のストーリーが成り立たないと思いますが。楽山は、また、都合のよいところだけ書いて独りで満悦しているのではないでしょうか。
 
だましてでも味方を増やしたいだけの下種というのは、こういう台詞までも、自分に近いと判断して、前後関係もお構いなく利用して、自分を高めてきます。引っかからないでください。ずっと、楽山の安いペテンなのです。
 
楽山は、中二病だけではなく、言葉だけ学者を気取って、実際は発達が止まったままの自己愛性人格障害からの退行だと思います。神義論が、人によって解決されることは、地上ではないのです。神を断定することは、信仰上、控えます。神を信仰する根拠は、楽山が言っていることとは、全く別のことです。
 
 
 
 宗教を信じれば信じるほど、信仰告白は難しくなる?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)2020年04月29日
 
 
抜粋です。HSについての部分は省略します。
 
 
これは本書に引用されている手記の一節だけれども、自分もこれと同じとは言わないまでも、似た経験はある。
十六歳のとき、私は教会の会員になり、私が神を愛するかどうかを質ねられた。私は型のごとく、期待どおりに、『はい』と答えた。しかし、たちまち閃くように、私の心のなかでなにものかが『いや、お前は神を愛していない』と言った。私は自分の虚偽と、神を愛さない自分の邪悪さとに対して、恥じらいと悔いの念に長いあいだ悩まされた。この恥じらいと悔いには、復讐の神がいて怖ろしい方法で私を罰するかもしれない、という恐怖が混じっていた。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.268)
 」
 
ここを引用するのは、楽山が「復讐の神がいて怖ろしい方法で私を罰するかもしれない」という恐怖を煽りたいためとしか考えられません。それにしても、楽山の神?は、救いはしないが、復讐はする、という神?のようです。そういう神?、私は知りません。何とでも尾ひれを付けてくる楽山です。
 
 
思うに、信仰というものは、大して信じてなければなんとでも言えるけれども、本気で信じていれば信じているほど「信じます!」という信仰告白は難しくなるものなのだろう。そういえば以前、匿名掲示板において、とあるクリスチャンと議論したときに、「洗礼を受けたということは、いざという時には殉教も覚悟しているということですか」と問いかけたら、「そうあるべきだろうけれども…」とはっきりしない答えが返ってきて、それを聞いた自分は、この人は本当に信じているのだなあと思ったものだったが、HS信者が命懸けだとか不惜身命だと息巻いているのを見ても、この人は全然本気じゃないんだなとしか感じないのもそういうことなのだろう。
 
「「信じます!」という信仰告白」は、ふつう、しないです。信仰は、気合いではありません。心の静けさから信仰告白は始まります。楽山は、何も知らないのです。神への恐れを知れば、不正直に豪語することを恐れるようになります。これは、信仰の、一つの成長なのです。
 
この記事のタイトルは誤解を招きます。信じるということが楽山には理解できないのです。あるいは意図的でしょうか。「宗教を信じれば信じるほど、信仰告白は難しくなる?」のではなく、神への恐れを知る者となって豪語を避けるのは、信仰の成長なのです。つまり、それこそが、信仰告白になります。
 
 
結局、人は本気であればあるほど責任について考えるものであるし、そうであれば当然のように口は重くなり、軽はずみなことは言えなくなるものなのだ。もっとも世の中にはいろいろな人がいるわけだから、すべてがこの通りというわけでもあるまいが、少なくとも自分についてはそんな風にできているのは確かではある。
 
発言の責任能力は、キリスト者の場合、神を恐れるがゆえに、神の前において、正直であるべき、嘘は吐けない、飾ってはいけない、大口は叩けない、という自覚から、成長してゆくでしょう。信仰者は、世辞と嘘と詭弁の楽山とは、全く違う世界に生きてゆくのです。
 
楽山は、地上で解決しない疑問によって、神を否定して、そこから全く成長が見られないので、発言についても、言い放って終わり、という、シャロームと同じで、責任感は皆無です。耳ある者ではないから、聞かないで平気なのです。楽山は、世辞と嘘と詭弁だけを覚えて身に着けてきたのです。
 
楽山は、霊が分かるっぽい子供の頃(?)のまま、「心の理論」での酷い曲解、奇跡についての循環論法に気づかない、など、めちゃくちゃなことを好き放題に言って、訂正しません。そして、この3年余り、全く成長が見られません。ふつう、少しずつでも、学習してゆくものですが、楽山は違います。
 
あわせて「軽はずみなことは言えなくなる」「自分についてはそんな風にできているのは確か」・・これこそが、軽はずみな発言であり、言葉を真剣に考えていない証拠で、さらに、これは自慢になりますから、のぼせ頭で、実際、口に締まりがないということです。楽山の言は、軽はずみで出来ています。
 
今までも、楽山は、思いつきで発言し、詭弁で正当化して、それを訂正せず、今また、自慢しているわけです。反キリストは、自分しか頼るものがないので、自分の悪を、いちいち、正当化して、自慢に変えてゆく宿命になります。ゆえに、次第に、くずれが明らかになってゆくのです。
 
 
神によって、人は何を知るのでしょう。神を知って賢くなるのではありません。神の関係において、人は人を知るのです。よって、人としての身の程を弁えるのです。人間に共感するキリストに、人間が共感することこそ信仰です。その感性が皆無で、嘘と詭弁で嫌がらせをしてくるのが、楽山です。
 
 
独り繰り言

独り繰り言
 
 
(2020年04月30日)
(2022年05月10日、再録+加筆)
 
 
 
  不眠と退行
 
もう遅いから
眠ろうとするけれど
眠りに入ろうとしているのか
黄泉に入ろうとしているのか
 
後頭部に住みついている
モヤモヤとしたしこり
ときに硬くなり激しく緊張して
沸き上がってくる怒りのようなものが
その理不尽を問うては責め続ける
顔と盲目と死を含んで
叫び声を誰にも聞かせない
 
お母さん
僕のお母さん
心配しないで
あなたは何もわかっていないこと
よくわかっているから
僕が相続したと思っている
泣き虫と笑い虫をありがとう
乳が欲しい
吐き気がする
乳が欲しい
もう遅いから
 
お父さん
僕のお父さん
なぜ戦争で死ななかったんだ
なぜあなたの息子は病気なんだ
見えないルールを作って
自分を厳しく律してきたお父さん
くわっと怒って自分で苦しんでいた
お中元もお歳暮も受け取らなかった
それが立派だったお父さん
なぜ今になって
長生きして欲しいのに耳が遠いんだ
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
  退行
 
行き詰まったときには
壊してしまうこともあるが
退行することも多い
子供になる
無精髭を生やした子供
おぞましや
そのとき何処にいる
母の胎内か
揺りかごの中か
宇宙へ連なる
浮遊か
意外と墓場にいたりもする
杖をついて
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
繰り言のように、反キリスト、右翼思想礼賛、ホラーと霊の話、自己正当化、などを書き続ける楽山です。結果は、無反省、無責任、無神経、訂正不能、読書障害、自己愛妄想、ネトウヨ、本の悪用、根拠なき決めつけ・・などが表れてきただけです。楽山は、あらゆる良心による人格成長の阻害因子です。
 
 
 
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  無責任の楽山が批評(2)?
 
 2022年05月07日
 信者と批判者の対話(3)降りかかる火の粉
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山 
  抜粋して批判。
 
 
楽山と遣り取りをして、社交だけではなく、反対意見を言うと、火の粉が降りかかってきます。楽山は、自身が批判されたときに返すだけの、まともな理路を持っていません。だから、社交の世辞と褒めてくれる人しか相手に出来ないのです。人格障害だからです。
 
 
*つづき
前記事のつづき。
*まえおき
今朝、ツイッターを見たら、初夏氏が拙ブログを話題にしていました。場所は、ここです↓
(省略)
ご覧いただければ分かるように、初夏氏のツイートは、文章の区切りと、ツイートの区切りが一致していないので分かりにくい。
ここでは分かりやすさを優先して、文章の区切りによって引用し、その感想を書くことにしたいと思います。それでは本題に入ります。
 
楽山の文章は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の我執から書いているので、真に分かりやすい文章は書けません。世辞か社交か、同じことを繰り返してくるかでしょう。そして、こちらを粘着するストーカー扱いしてきます。知性も感性も障害されている人です。
 
 
*悪癖
 まず初夏氏は、当ブログの記事について、こう書いてます。
昨日、久々に「退屈な文章」を読みました。
多数の誤解に満ちているので一文書いておきます。
①>ツイートを消して逃げることを「卑怯」と言わずして、なんと表現したらいいのだろうか?
②>根拠のない乱暴な決めつけであれば「暴言」
③>信者である(中略)大川隆法を批判することは、神を冒涜する行為(中略)信者の論理にすぎない。(中略)まずは〈大川隆法=神〉であることを証明(中略)無理である。
 初夏氏は、不必要な煽り、印象操作をする癖がありますが、それがここでも出てます。「退屈な文章」「多数の誤解」というのがそれです。
 また初夏氏は、相変わらず引用ルールを無視してます。引用するときには、きちんと引用元のアドレスなどを明示しないと、読者は、批判、引用、引用元を確認した上で判断をすることができないでしょうに。
 
楽山は、悪口を言うことだけは達者なようですが、批判の理路ではなく、相手を責めることだけが目的です。指摘はするけれど、他者の欠点を書いて、自らのことについては、全く反省しない人です。無反省、無責任、訂正不能で、書いて、公開して、褒められたいという我欲だけだと思います。
 
 
*ごまかし
①私がツイートを消す理由は「他者を傷つけるかもしれない文章を長々と掲示する事は悪行だから」です。これは社会通念と完全に一致します。③とも関連しますが、アンチ思想に立てば、消されれば困りますよね。
他者を気遣ってツイートを消した場合は、同じツイートは二度としないものです。「あんなことを言って申し訳ないことをした。もう二度と言うまい」というように。
でも初夏氏は、ツイートを削除しては、また同じツイートをすることを繰り返しています。自分のツイートに批判リプがつくと、それを消して同じツイートをやりなおすということもしてる。
上の説明では、こんな風に消したツイートと同じツイートをする理由にはなりません。よって上の理由は、後付のごまかしです。
 
どう見ても理路の苦手な人を、いじめることに快感を覚えるようです。分析や理路に見せかけたことを書いてきますが、自らは、全く責任を負う気がありません。以前、楽山は、否定を書き、肯定を書いたから、責任問題は生じない・・などと言っていました。そういう、いい加減さが、楽山の特徴です。
 
心理学を心霊として解釈したり、論理を書こうとして矛盾だらけになって訳の分からない結論を書いたり、曖昧な命題を勝手に拡大解釈して自己正当化の根拠?にしたりと、だますための嘘と詭弁しか持っていないようです。AならばB・・などといった論理学の初歩の話で混乱させてきたりもします。
 
 
*独り決め
②『アンチ論法』『「神様」のいる家で育ちました(第5話)の批判』等は、キッチリとした根拠に基づく結論です。企業秘密なので詳細は言えませんが・・・
人はだれでも、自分はきちんとした根拠に基づいて意見をいっていると思ってるものです。
だから自分で自分の意見には、きちんとした根拠があると言ってもしょうがないです。
 
楽山は、修正が出来ない人です。都合が悪くなると、スルーすると言って無視します。ときに、常軌を逸したような長い文章や多数の記事を、読者のことなど考えずに、衝動的に書いてきます。他者に分かりやすく書く、根拠を示して説明する、などが、楽山は出来ません。理路を養っていないからです。
 
 
*詭弁
③これは分かりやすい詭弁です。既に画像に記しているように「画像や言葉の対象が皆様の家族であった場合(中略) それが答えです」という事です。自身の好悪がどうであれ、他人の両親へは一定の敬意を払うのが常識です。→
2022-05-07 x
公人を批判することと、一般人を批判することを同列に扱うのは詭弁です。
 
曖昧な命題を、個別の、たとえば自分に当てはめて、また、逆に、個別のことを、一般則みたいに扱って、混乱して、混乱させるやり方ですが、初期には世辞が入るので、分かりにくいこともあります。数か月遣り取りをしたことがあり、徒労と疲労を受け取るだけでした。相手にしてはいけない人です。
 
 
*聖職者
同じく、多数の人が敬愛する人物を「私は興味が無いから」という理由で罵倒してはならない事も常識です。
私はそういうことをした覚えはないので、誰を念頭において書いているのか分かりませんが、宗教家は聖職者であろうから、よりいっそう厳しい目で見られるのは当たり前のことです。
ましてや、神を自称したならば、相当の批判、非難、嘲笑がまきおこるのもやむを得ないことです。それが嫌なら、そんなことは言わないことです。
 
楽山は、有名人の著書を読んで、自分に都合のよいところだけを引用して、自己満足する生業です。間違いを自覚できず修正しません。そういうことが、批判を始めて約3年も続いています。言論から退却するべきですが、病質のために、何とも思わずに続けていられる、これも、症状なのです。
 
 
*ごちゃまぜ
ちなみに、画像がHSの教えです。 
2022-05-07 O
何かを信じるか信じないかという問題であれば、人格者かどうかは関係あるかもしれません。
でも何かが有るか無いかという問題と、人格者かどうかは別のことです。
これらをごっちゃにしてはダメです。
 
信じるか信じないか、という問題と、有るか無いか、という問題は、どちらも、人格が関係ないとはいえないでしょう。楽山は、霊能気取りと評論家気取りがあり、何も信じてなどいないと思いますが、混乱と疲労を意図的に与えることは愚かな悪であり、それらを、ごっちゃにして、整理できていません。
 
 
*おまけ
他所で書いたことだけども、誹謗中傷に対しては、私は心の教えの実践で対応します。
2022-05-04 1人を信じ、世を信じ、神を信じよ
2022-05-04 2弱き善人であってはならない
2022-05-04 3 奪う愛はいけない
2022-05-04 4相手を変えようとするのではなく
この他には、批判というものは自分の至らぬところを教えてくれるものであるから、ありがたく頂き、反省の材料にすればよいという教えもあったでしょう。自分が他人にしたことは、やがて自分に戻ってくるという教えもあったでしょう。
初夏氏は、他人の言葉が気になって仕方がないタイプのようですが、心の教えを学び、実践したらいいと思います。
 
「批判というものは自分の至らぬところを教えてくれるもの」ならば、楽山は、批判を受け取るべきですが、実際には、都合の悪いことは全て無視してきました。実に、白々しい、そして、頑強な悪意を表しています。正気でないから、このような、心にもないことが言えるのです。
 
「自分が他人にしたことは、やがて自分に戻ってくる」・・それが、ずっと起こっているのですが、楽山に自覚は見られません。真っ赤な嘘であり、キレイごとを言って、ごまかそうとしています。いちばん、反しているのが自分なのに、まるで気づきません。
 
 
初夏氏は、他人の言葉が気になって仕方がないタイプのようですが、心の教えを学び、実践したらいいと思います。
 
楽山は、「他人の言葉が」全く気にならず、無視できる人です。そうやって生きてきたのでしょう。だから、いつも、軽々しく物を言います。自分の発言が自分を斬っていることに、まるで気づかないのです。破綻だらけなのに何度も言ってくる楽山のような人と交わると、人格を破壊される恐れがあります。
 
 
◇◆ 追記 2022.5.7 ◆◇
*忘れ物
初夏氏のはじめのツイートについて、感想を書くのを忘れてたので、ここに書いておきます
画像に記していますが、文句・悪口・挑発・アンチ論法でない限り「否定・裁き・論破」は行いません。しかし先日の某氏は、私が指摘しているように『暴言・開き直り・悪口・ズルい行動・逃げ回る姿』が著しい人でした。だから論破させて頂きました。
 
楽山は、自己中なことしか言いませんから、「論破」など出来ない人です。他者を混乱させて、参らせて、退かせるのです。楽山の屁理屈のペースに嵌ってはいけません。それは、人を傷つけて悦ぶサイコパスの所業なのです。いかなる議論にも論争にも、楽山は参加する資格のない人です。
 
 
その遺恨から、当人や彼のお友達達から、→
私へのゴウゴウとした悪口が湧き上がっています。心を鎮める事をお勧めします。
まず結論からいうと、ここでも初夏氏の悪癖がでています。それは何かというと、事実と認識判断をごちゃまぜにする癖です。
 
楽山は、宗教も信仰も知りません。頭の中にこしらえた概念を神と見なして侮辱する無神教カルトの一人です。楽山は、自己愛から、世辞は言っても、執拗に繰り返される罠であり、聖書にあるような人を獲る漁師ではなく、人を傷つける狼の性根だと思います。
 
 
たとえば初夏氏は、次のことを書いています。
某氏には、暴言、悪口などがあった
某氏を論破した
某氏とその友人らから恨まれ、悪口を言われた
これらはすべて、初夏氏がそのように認識したということにすぎません、でも初夏氏はさも事実であるかのように書いています。
このように、事実と認識判断をごちゃまぜにして印象操作をするのは、初夏氏の悪い癖です。
 
楽山は、相手の弱みにつけ込みます。自分の弱みを知りません。自己中のために、理路は小学生並みになり、学習と成長がなく、感性は殆どありません。つまり、思いやっているような優しさ芝居はするけれど、心の温もりと潤い、本当の優しさと悲しみを持っていません。言葉面に騙されないでください。
 
 
ちなみに、まともな人は、事実と認識判断はきちんと区別しています。
 
楽山は、それが出来ない人です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のサイコパスには出来ないのです。出来ているかのような言い方は、楽山の保身に過ぎません。恐ろしいほどの先入観と偏見だけが妄想的に楽山を支配しています。
 
 
たとえば、上でいえば、きちんと某氏の発言を提示して事実を示した上で、自分はこれは暴言と判断したと書くものです。悪口、開き直り、逃げ回る姿、論破などについても、そのようにするでしょう。
 
楽山にとって、事実も真実も判断も、自己愛の世界で決めているので、客観性がありません。優しさ気取りの暴言者であります。スルーすると言って無視、衝動書き、嫌がらせ、嘘と詭弁、手段を選ばない傲慢不遜を隠しながら、餌を待っている、どす黒い人です。どうか近づかないでください。
 
 
初夏氏は、もし本当に対話を望むのであれば、ここのところはよく理解してほしいと思います。
 
人間として必要なことを、何も理解できていない楽山が言っています。それこそスルーでいいと思います。そして、決して関わらないでください。遣り取りしないでください。近づかないでください。楽山は、遣り取りと議論の対象として、甚だしく失格です。
 
 
ところで少し話は変わりますが、初夏氏のスクショ嫌いは、事実と認識判断の区別をせず、〈認識判断=事実〉と安易に考えてしまいがちで、そのためにスクショ提示の必要性が理解できないことも一因でしょう。この点についても、よく考えてみることをおすすめします。
 
楽山は、妄想と偏見ベースの誤信念による判断です。罪悪感がないので、平気で、嘘を吐き、傷つけてきます。そういう場合、丁寧語こそが、いっそう、傷を大きくします。つまり、楽山は、丁寧に、傷つけてくる人なのです。この丁寧さは、だんだん、最悪の鬱陶しさから悲劇になるでしょう。
 
言論は、事実と当為があるわけですが、楽山は、事実だの証拠だのと言ってきます。楽山の事実には多くの嘘があり、さらに、詭弁で捻じ曲げられています。楽山は、当為つまり「べき」の付くことは、殆ど持っていません。我欲が勝っているからです。
 
楽山は、事実をねじ曲げます。そして、どうするべきという節操の当為がないのです。批判してきた3年余り、楽山に対する最悪という判断は、楽山の記事を読むたびに強化されるだけであります。乱暴者だと分かるほうが、よっぽどマシだろう、という私の批判経験の積み重ねになっています。
 
 
 
 2022年05月06日
 信者と批判者の対話(2)大川隆法は神なのか?
  抜粋して批判。
 
楽山の論理モドキの卑怯さは、楽山が、罪悪感のない、一方通行しか持ち合わせず、とても卑怯な、自分のことを棚に上げたまま、人を批判し、傷つけ、あざ笑うというやり方です。しかも、それは、真実の追求とは何の関係もなく、楽山の我欲からの欲求に過ぎず、百害あって一利なしなのです。
 
 
*はぐらかし
最後に、感想を一言。
初夏氏は、いつも質問には答えず、はぐらかしてばかりなのだが、今回もそうなっている。
大川隆法が神であることを証明できるようなことを言いながら、結局、その話から逃げてばかりいる。
こりゃダメだ。
 
はぐらかしも、逃げてばかりも、楽山の得意技です。それによって、楽山の評価は、ますます、どこまでもどこまでも地獄のように堕ちてきたのです。いちばん卑怯で、いちばん「ダメ」なのは楽山です。
 
 
つまり初夏氏の主張は、〈大川隆法は神である〉という信仰に基づいているのだ。だから、教団内では通用しても、教団外では説得力は持たない。〈大川隆法は神である〉と証明できない限りは…。
 
神を証明しろ・・というのは、キリスト教について、楽山と無神教カルトが、声高に言い続けていることですが、まだ言っているということは、学習能力がないのでしょう。神を証明できたら、信じる必要はないということです。ずっと、この愚かな、いちゃもんのままなのでしょう。
 
 
もしこの証明をなくして、教団外に強要したら、それは信仰の押し付けでしかない。信仰への配慮、尊重を求めることは間違いではなかろうが、「神である大川隆法への冒涜は許されない。大川隆法を神のごとく敬え」というところまで行ったら、それは無茶である。
 
信仰における愛とか共感とかを、楽山は全く理解できないので、語ることが出来ません。神と人の関係と結びつきは、少なくとも、破れた革のような、楽山の概念では、分からないままなのです。そういう人は、この世の厄介者として生きるしかないのでしょう。
 
 
初夏氏にはこの辺りの道理を理解してほしいものだと思う。もしこの道理をわきまえず、自らの信仰による正義を振り回すなら、このような悲劇をもたらすことになるだろう。そんなことは避けるのが吉である。
 
他者に言う前に、自分が道理を理解していないのだから、楽山の丁寧を装った暴論は、思想にならず、学問にならず、共感にならず、ゆえに、愛にも見放されているようです。愛と悲しみの代わりに、笑いと憎しみを育ててきたサイコパスの楽山は、真実の敵です。
 
 
楽山は、資格のない者が、他者を批評・批判すると、身の程を弁えない、資格がない、といった評価が付いて回ることに気づかないのでしょうか。なお、楽山は、ツイッターを非公開にしましたが、また、公開に戻したようです。どういう不安定な心境で生きているのでしょう。
 
 
我が身を省みない者

我が身を省みない者
 
 
(2022年05月09日)
 
 
 
  弱気の塊
 
弱気の固まり?
弱気は固くなれないから
弱気の垂れ・流れ
垂れ流しの趣(おもむ)くままに
川を下る
 
下る傾向は持っている
遡(さかのぼ)ること
くよくよと辿(たど)ることはあっても
決して上ることはない
 
石を積む子供らはいるか
積んで崩れた石だけで
子供らのいない河原はあるか
コロイドでもヘドロでもいいが
海へ出て拡散して
海の塩になれるだろうか
 
時間の量子と波動のように
弁別も理解もできない川下へ
樹木は動かず
枝は揺れず
草は靡(なび)かず
波は風を呼ばない
波は寄せるが
水は水としての形を持たない
 
その水よりも弱く
在って在り続けよ
水は命を育(はぐく)み
ときに命を奪う
 
一滴の水にさえ
寿命は勝てないのだ
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻(くちづけ)は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る

まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない

吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
どこまでも、どこまでも、人の言うことを聞かず、世辞と社交と、何か言われると、嫌がらせだけで、生きてゆけると感じてしまうところから、楽山の人生は、すでに限界を見せてきたのでしょう。多くの不祥事が隠されているような気がします。全部、人のせいにしてきたから。
 
 
 
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  無責任の楽山が批評?
 
 信者と批判者の対話(1)暴言と正義
 2022年05月06日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
   を批判。
 
 
自分の弁明が出来ない楽山は、他者同士を争いを、批評する体(てい)で、もてあそんでいます。責任を負う気のない楽山は、議論と交流の相手として失格です。まだ悪夢が覚めないようで、評論家気取りでいるのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病気からです。
 
この記事は、当事者二人よりも、楽山はどうかという視点で書いています。他者の引用が多いですが、その批判対象の災いに、楽山がいちばん当てはまることを、楽山は気づかないようです。そのまま、楽山批判と受け取っても、大きく外れてはいません。
 
私の楽山批判というテーマに関係ない画像など、省略します。
 
 
*まえおき
ツイッター上で、初夏氏と月影氏のやりとりがあったので、その概要を記録しておきたいと思う。
双方のコメントは、「名前 コメント(日付)」という風にコピペしておく。ツイートの埋め込み、スクショなどの方法もあるが、初夏氏はツイートをすぐ削除するし、スクショは嫌がるので…。日付は煩雑さを避けるため、ツリーが変わる場合だけつけることにする。
さて、いよいよ事項から本題に入る。
 
楽山は、こちらの意見を受け取りません。なのに、議論したふうを装います。こういう人は、相手にしてはいけません。都合の悪いことは、スルーすると言って無視するのです。だから、議論の理路と文脈と流れが成立せず、読むんじゃなかったということになります。楽山を相手にしてはいけません。
 
 
*呼びかけ
まず初夏氏は、対話の呼びかけを繰り返していた。
(省略)
初夏氏は、ここでは「初夏→扉は開いてます」に変えている(初夏氏はこのように頻繁に名前を変える)。また初夏氏は、少し前から以下の主張を繰り返し提示している。
 
楽山は、恐らく、自由→楽山だけでなく、数えきれないHNを使っていると思います。シャロームshalom、易坊なども、仲間ですが、成りすましかもしれません。ヤフーブログ時代には、他にも、様々なHNが荒らしてきたことがありますが、楽山かもしれません。
 
 
*応答
上の呼びかけに、月影氏はこのように応じた。なかなかに手厳しいが、初夏氏のこれまでの言動を知る者にとっては当然の指摘ではある。
月影2nd
よく分からん御仁だね(呆)。私は名前を変えて来たキミとずっと直接対話して来ているぞ。自らブロックして隠に籠って持論垂れ流していたのは誰だ?
『私から距離を取り』
こう言う嘘を直ぐに吐くから皆から信用されないのだ。
私は自分の論が正義だなど言った事ないし思っても居ない。私の暴言とは?
午後8:19 ・ 2022年5月5日・Twitter for iPhone
 」
 
「ブロックして隠に籠って持論垂れ流」すのは、楽山が、ずっとやってきたことです。楽山とは、双方向が成り立ちません。楽山とは、対話になりません。楽山を相手にするのだけは、やめたほうがよいと思います。単方向の垂れ流し、批判に返しても、無根拠の、いちゃもん発作の機関銃です。
 
 
月影2nd
自らのツイートを消して自分の言葉に責任を持たない卑怯な行為はやめなさい。
質問にまともに答えなさい。
ちゃんと前に答えているだの、読み取れ無いだのと誤魔化す事もやめなさい。
対話相手に意思を伝える努力をしなさい。
批判と暴言の違いくらい理解しなさい。
加納氏の態度を見習いなさい。
 」
 
楽山は、こちらの批判に答えることが出来ません。また、ツイッターを非公開にしました。楽山は、嘘と詭弁と怨念しか持っておらず、理路が組み立てられないのです。つまり、楽山は、批判と、悪口の区別がつかないのです。こういう楽山に、他者を評価したり、他者に意見するという資格はないです。
 
 
月影2nd
これらは何も特別な事ではない。議論する上で普通の常識。
私は幸福の科学と幸福実現党、大川隆法氏が、外に向けて発している言動を扱って批判している。その言葉通りに受け止める。信者独特の解釈は一切しない。教義にも興味は無い。現実的問いに、宗教解釈で返答されても納得しない。理解したかね?
 」
 
楽山には「議論する上で普通の常識」がありません。否定を言い、肯定を言ったから、責任問題は発生しないなどという、信じられない詭弁を、平気で言ってきます。真理と心霊の区別もつかない人です。遣り取りのための言葉と心と、どちらもないので、嘘を吐き、詭弁を弄し、混乱させてくるのです。
 
 
*混迷
これ以降、わちゃわちゃがはじまる。
扉は開いてます
>私の暴言とは?
相変わらず文章が弱いですね。
①『卑怯者 ・・・中略・・・ いつもの様に反論出来ずに逃げを決め込む(呆)』といった類いの暴言と記しています。
②また、添付の画像にも書いています。
>私は自分の論が正義だなど言った事ないし思っても居ない。
 」
 
楽山は、衝動的に多数の記事を書いて来たことも、長いだけの記事を書くこともあります。それは、楽山が、自分はこんなに書けるんだ・・と自慢し、威嚇するようなものです。楽山には、節操がなく、何かを追求する気もありません。楽山は慢心して、出力だけですが、それは放尿のようなものです。
 
 
扉は開いてます
相変わらず文章が弱いですね。
アナタの中に何らかの「正義」があるので、延々と粘着するわけですよね。
③その「正義」を語って下さいとリクエストしています。
質問が難しくて、理解できない状態でしょうか?
 」
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の自己中なので、自我と我欲に、固定して執着しています。それを、ごまかすために、冷静を気取りますが、理路の破綻が、3年にわたって、バレてきたのです。それで、また、書いて公開するというのは、病質ゆえなのです。
 
 
扉は開いてます
月影さんへ
文章をしっかり読みましょう。
そして、しっかりと記しましょう。
 」
 
楽山は、文章をしっかり読めず、独りよがりで、勝手な偏見と解釈で、キリスト教を否定したり、部分肯定したりしてきました。このことから、楽山は、無反省、無責任、無理解、わがまま自己中であり、殆ど、子供のような意地しか持っていないと判断しています。
 
 
月影2nd
ダメだねキミ(哀)。
ね、自分が日本語を読み取れないって事を自覚出来ないね。私がキミに提示した条件を、全く理解出来ないとは。
自分の正義に酔ってるのはキミ。そもそも私は『正義』って言葉を信じてたのは小学生まで。この世に絶対の正義などない。と、私は思っているしね。大人になりなさい。
 」
 
つまり、楽山は、普通の「日本語を読み取れない」人です。それを「自覚できない」ために、書いただけで、自己満悦できるのでしょう。これは、人間として異常であり、論者として欠格であり、人間関係として不成立であります。
 
「絶対の正義」は、神のものであり、人には手に負えない者です。楽山は、今まで、相対=非絶対を、まわりくどく書いたつもりで、実際は、自己の絶対に固着してきました。まことに、楽山は、髭の生えた子供なのです。誰の助けにも参考にもならないと思います。
 
 
扉は開いてます
私は①②③を返答しています。
これに対するアナタの見解は?
 」
月影2nd
①この手のノラリクラリのやり口が卑怯と示している。暴言と解釈するのは勝手だが、私に暴言の認識は無い。キミを憐れんでは居るがね。
②それらもキミがお得意の他人の発言を切り貼りしているシロモノ。その中のどれが私のモノで何を言っている具体的に示してから質問しなさい。
 」
 
楽山はねちねち執拗で、それで、大量の記事を一度に書いてきたりしたのでしょう。「ノラリクラリのやり口が卑怯」で、多く、他者の発言を切り貼りすることで、ごまかしてきます。自分では、何も成立せず、何も書けず、何も出来ない人なのです。上っ面を舐めてご機嫌の楽山に関わらないでください。
 
 
月影2nd
③本当に読解力ないね(哀)。
私は絶対の正義などないと思っているので、私の中の正しさを、他者が正しいと受け止める事を求めない。大川隆法が正しいと思って、他人にそれを強要する君達とは倫理観が違うのだよ。
 」
 
楽山は、自我が絶対の正義になっています。ゆえに、いつも、上から教える、評論する、という態度で書いてきます。全体のベースが自己愛前提なので、楽山の書くことは、成り立ったことがありません。それで、インテリ気取りで無責任に書いて自己満足するネットに巣食っているのでしょう。
 
 
月影2nd
キミは話をすり替えていくので、以降は私の示すテーマにのみ質疑応答します。それ以外は無視するからね。幼稚な話に付き合いきれん(滅)。
大川隆法氏の霊言が社会的に認められる方法。
大川隆法氏が神である証明。
キミの具体的で現実的な回答を期待します。
 」
扉は開いてます
>キミは話をすり替えていくので、以降は私の示すテーマにのみ質疑応答します。
オイオイ、それは話しのすり替え過ぎでしょ。いくら何でも、それはムチャ過ぎますよ。
私は①②③を返答しています。 これに対するアナタの見解は?
扉は開いてます
特に、③アナタの「正義」は何ですか?
私は始めから、これをお聞きし続けていますが、まだ、お答え頂いておりません。
扉は開いてます
絶対の正義ではなく、アナタの「正義」を問うているのですよ。
 」
 
楽山は、何事につけ、暫定的な結論さえ持ちません。責任を負いたくないのです。楽山にとって、言論は、真実の追求ではなく、ニヒルのオモチャに過ぎません。誰とも、対話が成り立たないのが、楽山です。丁寧で常識を装って書いてくる楽山の言説を、どうか、真に受けないでください。
 
 
*論点整理
以上が、今回のやりとりの概要だが、次に個人的な感想を述べてみたい。
まずここでの論点は、このようなものであるらしい。
①「卑怯者」と暴言を吐かれた!
②神仏を冒涜、風刺、嘲笑するのはけしからん!(添付画像)
③月影氏の正義とは?
 
楽山は「卑怯者」です。「冒涜、風刺、嘲笑」によって、神を、紙くずのように扱うのも楽山です。悪い言葉が、たいてい、楽山に当てはまるのは、なぜでしょう。楽山には正義がなく、正義につながる素材もなく、正義を求める心もないからだと思います。
 
 
*暴言と批判
①については、双方の言葉を比べるとこうなる。
初夏氏
「アナタはいつも、私から距離を取り『卑怯者 ・・・中略・・・ いつもの様に反論出来ずに逃げを決め込む(呆)』といった類いの暴言を吐いて来ました。」
月影氏
「自らのツイートを消して自分の言葉に責任を持たない卑怯な行為はやめなさい。~省略~ 批判と暴言の違いくらい理解しなさい。」
 
楽山は、ツイートを非公開にして「自分の言葉に責任を持たない」で、好きなように言いたいのでしょうが、それは「卑怯」者の所業です。そういう「卑怯」さは、前からでしたから、特に、驚くこともないですが、破綻百出で、なお、平気でいることが、恐ろしい病質なのです。
 
 
月影氏は、初夏氏が自らの言葉に責任をもたず、すぐツイートを消してしまうことを卑怯としている。つまり、きちんと根拠を示した上で、卑怯な振る舞いを批判している。
根拠のない乱暴な決めつけであれば「暴言」だろうが、相応の根拠があり、大方から同意を得られるだろう評価による発言を「暴言」とするのはむちゃである。というか、ツイートを消して逃げることを「卑怯」と言わずして、なんと表現したらいいのだろうか?
一方、初夏氏はどうかといえば、都合が悪くなれば自ツイートを消して逃げることを繰り返してきたことは伏せて、自らには何らの落ち度もないのに、「卑怯者」呼ばわりされたかのように書いている。これはズルい。
 
楽山について言えば、「乱暴なな決めつけ」で「暴言」と同等であり、それが、常態となり、日常となり、人生となっている人です。楽山はどうかと言えば、スルーすると言って無視しながら、私のサイトに書き込んで文句を言いたいようでした。とんでもないことです。
 
楽山との遣り取りは3年前に、多大な疲労を残して終わっています。何を言っても無駄・・ということを、遣り取りのリアルタイムで味わい続けていたら、こちらの人格が破壊されてしまいます。楽山が、理路を混乱させる悪性の変質者だからです。
 
 
*冒涜、風刺、嘲笑?
添付画像(省略)をみると、アンチ諸氏は神を冒涜している云々と書いてある。信者である初夏氏にとっては、〈大川隆法=神〉であろうから、大川隆法を批判することは、神を冒涜する行為になるのだろう。
でもこれはあくまで信者の論理にすぎない。もし大川隆法を批判することは、神を冒涜することであるというなら、まずは〈大川隆法=神〉であることを証明しなくてはならない。これをせずして、信者の論理を他者に当てはめようとしても無理である。
また月影氏は、HS批判はしても、風刺、嘲笑はしていないのではあるまいか。とりあえず自分にはそういう印象はないので、月影氏に風刺画がどうこう言っても見当違いと思う。
 
画像のセリフを書いておきます。
「人が最も残虐になる時は『悪に染まった』ときではない!!」
「真偽どうあれ、『正義の側に立った』と思ったとき」
なかなか、深い逆説だと思います。楽山の丁寧語の偽善に当てはまると思います。
信仰者である私は、自分を、正義の側にいるとは思いません、思えません。
 
既に取りざたされているORよりも、いまだ、目立たず、無名で、こそこそと、餌をあさるネズミのように、あちこちに向かって、自己愛・自己中から発信して、教えようとして、意見を言って、責任だけは負わない楽山のほうが、悪性度は高いと思っています。
 
 
*正義
 正義については、よく使われる画像にこういうものがある。(画像省略)
正義という快楽
月影氏はその発言からすると、正義についてこのような考えをもってそうである。
とすれば、月影氏に「正義を語れ!」というのは、トンチンカンにもホドがあるということになる。正義は主張すべきでないと考える人に、正義を主張せよと言っても仕方がないではないか。
初夏氏は、お手軽に正義を語るけれども、本来、正義とはそう簡単なものではない。この問題についてはもっとよく考えてみることをおすすめしたいと思う。
 
正義は「主張すべきでない」のではなく、人間は不完全だから、絶対の正義になることはないし、絶対の正義かどうかの判断そのものが出来ないと思います。誰も、自分の発言の影響を、果てまで追うことも、捉えることも出来ないのです。超常に舞い上がる楽山のようになってはいけません。
 
楽山の正義は、今までのことから、賛成でも反対でもなく、結論を出さないことになるようです。しかし、絶対でなくても、一定の正義を持っていない楽山は、それで、嘘を吐き、詭弁を弄し、人をだましてきたのです。暫定的な結論さえ、まとまらない楽山は、信頼性を失ってゆくでしょう。
 
楽山には、見解の芯がありません。楽山と付き合うと、そういう無為という人間失格~喪失の世界に住むことになります。それで平気なのです。いい加減が正しいと思っているのです。そのような人は、どこに行っても来ても、何の役にも立たないし、何の参考にもならないのです。
 
 
何処を向いても偽善の汁が出る

何処を向いても偽善の汁が出る
 
 
(2022年05月08日)
 
 
 
  ペンペン草
 
思い出すことは多いけれど
思い出と呼べるものがあっただろうか
思い出と、思い出し
しずくと、したたり
したたる果汁と
しぼり出す果汁
果汁を思う
思いは重い
物思い
果汁の味
果実の香り
草花の匂い
色、形
いつだったか
ペンペン草
生えていた
どこまで実際
どこまで想像だろう
危うい危うい
人の顔、その輪郭も
形も色も
印象ほどには
はっきりしないのに
覚えていると思っている
ぼんやりとでもいい
命ある間に綴ろうと
思い出のペンペン草、残りの
ペンが乏しく生える
 
 
  まずい味噌汁のんで
 
足元をすくわれたと思って
ポンと辞表を置いて
「くそくらえ」とでも言ってから
帰ってきた腐った脳みその
脳だけ置き忘れてきたので
俺の椅子に誰かがすわり
俺の机に知らない本が積まれ
ガヤガヤと会話が音になり始める
今朝を日常だと思ってしまう
 
 
  荒療治
 
ダニか他の虫刺されか
赤いブツブツ
かゆいけれど
かけば汁が出てひろがる
悪いものはたいていそうだ
毒には毒をと
タバコの火、近づけて
熱さが、痒みから痛みへ
一、二秒がまんして
軟膏を塗る
この荒療治は、しばしば
やり過ぎて水疱をつくる
破って中の液を
ティッシュで吸い取り
また軟膏を塗る
何カ所かやって
ひとつだけ治らない
絆創膏でかぶれて
ますます赤くなって痒い
悪いものはたいていそうだ
またタバコであぶったり
ちり紙でゴシゴシこすったり
手持ちのあらゆる軟膏を塗ったのち
愚かなことをしたと気づく
愚かなものはたいていそうだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
既に、悪行の破綻する末期が来ているのに、気づかないというのは、災いです。無意味な大量の投稿も、非公開も、他者の引用も、新しいことではなく、卑怯な病質の表れなのですが、楽山の因業でしょうか、全く気づかずに、まともに書いているつもりなのです。
 
 
 
 楽山のブログにコメントが付き、楽山がレスしています。
1. 月影2nd2022年05月06日 21:13
纏めて頂き恐縮です。
私のコメントには誤字脱字やらおかしな文章もあろうかと思いますが、気にしないで下さいませ(笑)。
リプを早くしろと煽られてたし、楽しい休日の夜、映画を観ながらだったので集中力も多少欠けてましたので。
但し、私の主張と発言の内容は、訂正も修正もするつもりは有りません。
楽山さんのブログを読まれる方にどう受け止められるか分かりませんが、幸福の科学を信奉する信者の全てが彼(対話相手)の様な人ではないのは承知しております。
あくまで私が批判し解答を求めているのは、幸福の科学と大川隆法氏であり、その言動です。教義の中身にはそもそも興味が有りませんので、批判は致しません。
長々と失礼致しました。
 」
 
2. 楽山2022年05月06日 21:49
丁寧なコメント、ありがとうございます!
私の方からも、幸福の科学の信者だからといって、みながこんな風ではないことを重ねて書いておきたいと思います。私が直接知っている信者さんは、大概が善意の人たちであるし、ツイッター上でも、きちんとした信者さんはおられます。心の教を学び、人格を磨いていたり、勉強家だったり、思い込みではなく、きちんとした事実認識に基づく発言を心がけていたりなど。
私は幸福の科学を批判することが多いのですが、ここはハッキリ書いておきます。
 
楽山のほうは、世辞と思いやり芝居が並んでいます。「大概が善意の人たち」と言っていますがアンチではなかったのでしょうか。「心の教を学」んでいない楽山です。「人格を磨いて」いない楽山です。「勉強家」ではなく都合のよい字面を漁っている楽山です。「事実認識」のない恣意の楽山です。
 
このように、かなりのインテリでも、楽山にだまされて、信頼してしまうと、ゆくゆく、人格破壊につながりそうなほどの混乱と疲労をもたらされる危険があります。楽山は、世辞と嘘の丁寧語で、すり寄って、どっちつかずの、いい加減さで世渡りをしている評論家気取りです。
 
楽山は、いわゆる偽善者なのです。3年余り批判しています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと思います。無反省、無責任、訂正不能で、好意的な言葉は全て嘘です。不祥事を全て他者のせいにします。最近になってツイッターを非公開にするのは、何か秘密がある証拠です。
 
楽山は、ネトウヨでもありますが、相手を振り回して快感を得たいのだろうと思います。霊能妄想があり、教祖願望があると思います。アンチであれば、信者については、「善意」云々だけでなく、基本的な曲解の信じ込みを言うはずだと思います。楽山には主張の軸はないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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