ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。サポートに問い合わせて、ようやくコメントボタンが付けられました。ソーシャルボタンは、コメント欄の上に表示されることも知りませんでした。

 
  嘘と世辞と侮辱(7)
 
   嘘と世辞と侮辱(6):コメント欄
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   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
   コメントを編集して記事にしています。
 
 
また、シャロームがライブドアの私のブログにコメントを書いてきました。ことあるごとに、超常カルトのシャロームは、信仰の総てを超常の業(わざ)として書いてきますが、シャロームの教理?は、自己正当化のために、出まかせに捏造されたものなので、まるで辻褄が合わず、理解不能なことばかりです。
 
その中身は、幼稚で、思慮がなく、罪悪感も、節操もない、まるで成り立たない造語的な思い付きに過ぎません。シャロームの教えと摂理を、人が信じることは、本質的にできない、ということが、シャロームには分からないのです。シャロームは、信仰を、心で受け取るということが分からないからです。
 
シャロームは、むしろ、人が理解しないことをもって、自らの優越を自慢したいだけです。どうか、相手にしないでください。批判を始めて、もう8年になりますから、既に、底が知れているので、檻の中の動物を見るような視線でいいと思っています。
 

1. st5402さん おはようございます
 2019年11月10日 09:30
(私のコメントを引用)
「弱さを誇ろう、というのは、逆説ですから、このまま、弱いんだぞと自慢するのは笑えない冗句で、弱くあることや弱さの自覚が、少なくとも強くあることや強さの自覚よりも、とても貴いのだということを、パウロは言っているのだろうと思います。」
とのことですが・・・
パウロの弱さ自覚はst5402さんのような弱さの偽装ではないでしょう。パウロの弱さ自覚は自己の全人格にかかわる生ける神のみ前におけるみじめな死の身体としての全存在にかかわる自覚であって、人間は誰でも弱いという単なる人間の言動における弱さの自覚ではないのです。

 
まず、弱さの自覚が全くないために、聖句をあげて空しく強がっているあなたシャロームに、弱さを語る資格はありません。ここにおいても、まだ、恥を知らないようだ。
 
言ってることが滅裂です。人間自らの弱さの自覚として「神のみ前におけるみじめな死の身体としての全存在にかかわる自覚」という大仰な飾りが、罪を認めないあなたシャロームの強がり豪語の、著しい的外れの証拠なのです。
 
使徒パウロの名をあげて褒めることで、人をおとしめようとしているシャロームです。それで、あなたシャロームの信仰が、まともになることはありません。
 
使徒であり預言者であるパウロを持ち上げて、まるで、ごまをすっているかのようです。あなたは、一人のキリスト者であることさえ、罪を認めず悔い改めないことで、否定しているのですから、それで、あなたと、あなたの評価が、マシになることは、一切ないのです。
 
あなたシャロームが「人間は誰でも弱い」ということを、甘く甘く受け取って、信仰者として全く実感を持っていないことが明らかです。信仰者の弱さは、神の前での弱さです。神の前に弱いからこそ、その自覚に生きることが、神の前に生きることです。
 
あなたシャロームは、またしても、それこそ安い言説を飾っては、また、尊い自覚を欠如していることを表しています。
 

だれもが負っていながらその弱さの自覚を失っているのは人と比べていてはわからず、だれでもみんな弱いというほかないのです。

 
愚かです。自分は弱い、不完全だ、ということは、人間ならば誰でも分かることです。それ以上に、さらに理解を深めることもありますが、それは、人生と、人間と、特に自分と、信仰の理解を深めることでもあります。努力しないシャロームには分からないので、神のせいにでもしたいのでしょう。
 
人間が自分は弱いという自覚を持つことを軽視しています。そして、聖人とも言われるパウロの弱さを持ち上げて、シャロームは、弱さを自覚するのではなく、総てのキリスト者という人間を軽視して思い上がっているのです。教祖シャロームは、地に落ちた雑巾です。触れると魂が汚れます。
 

そのために傷つけあったり、裁きあったり、傷をなめ合ったり、慰め合ったり、正当化しながら、生きていくほかないのです。それが私たちの弱さの自覚の実態でしょう。

 
「私たち」に、弱さではなく、人をおとしめる傲慢を、今まで、ずっと表してきたあなたシャロームは、信仰における弱さを自覚する人に含まれていません。あなたシャロームは、独り舞い上がって、聖書と聖三位を、ないがしろにしてきました。
 
あなたシャロームの愚かさは、今回も、聖書が分かるかのような、言い分があるかのような、身勝手な筆致に表れています。それは、とても、醜いことです。
 
あなたシャロームは、罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていいと言ったときに、すでにキリスト者ではなく偽者者であることが明らかとなっているのです。そうして、今も悔い改めてなどいないことが、このコメントの醜い言い訳によって、また、教えようとする態度によって、明らかになりました。
 
それゆえ、何を語っても、キリスト信仰について信頼できる言説を語ることはないのです。人をおとしめる、あなたの傲慢は、神によって、おとしめられる時を待つばかりなのです。
 

2. st5402さん おはようございます
 2019年11月10日 09:33
パウロ書いている弱さとはイエス・キリストの十字架のみじめな死の姿に自らのみじめな死の姿との出会いによってのみ与えられる自覚なのです。その自覚をとうして、神があらわしてくださる神の御業を強さと述べているのです。

(「とうして」は、恐らく「通して(とおして)」でしょう。)
 
シャロームは分からないようです。キリスト者の弱さの自覚は、パウロの言うところの弱さの自覚であること。キリスト者の救いは、パウロの言うところの救いであること、すなわち、成し遂げたことの違いはあっても、弱さにおいて、そして、救われることにおいて、使徒パウロと私たちの間に変わりはないのです。でなければ、パウロが、人々に多く語ることはないはずです。
 
そして、ご存知のように、パウロ、すなわち、パリサイ人であったサウロもまた、キリストによって救われて使徒パウロになったからです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
6:6
わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7
それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
6:8
もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
 (ローマ6:6-8、新約聖書)
 
信仰者は、罪の奴隷とならない。何故なら、祈りと悔い改めの道が与えられているからです。
 
それを、シャロームは、罪を悔い改めなくてよい自分に結び付けるという自己中心の人間離れの妄想にしています。シャロームは、ずっと、万事、このような解釈です。悔い改めなくなったらどうなるだろう、怖い、ということを感じることも考えることも出来ないのです。
 
神の御業(みわざ)の強さは、何故表されるのか、人が弱いからにほかなりません。それを、あなたシャロームは、おのれの奇跡信仰によって、シャロームの神?を飾ることによって、自らの、どうしようもない弱さを、またしても否定して強がっているのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
6:10
なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
6:11
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
 (ローマ6:10-11、新約聖書)
 
罪に死ぬことは、罪が無くなることではありません。罪の奴隷とならないことです。キリストにあって神のしもべとして生きることであります。それが、信仰による悔い改めの道です。
 
ずいぶん前に、罪に死んだことを、死体に喩えて、蹴っても叩いてもビクともしないと、信仰に喩えた人の記事を、シャロームが引用していました。信仰を死体に喩えるのは乱暴すぎます。
 
しかし、まさに、シャロームの信仰は、死体のようなものです。だから、何を言われても、シャロームは、受け取らないし、気にもしないわけです。言い換えれば、シャロームと議論することは、亡霊を相手にするようなものです。
 
これが、信仰の忍耐強さと全く違うところの、異常なシャロームの不感不応です。つまり、シャロームが、びくともしないのは、忍耐強さなどではなく、何を言われても、何も感じないで、自分の言いたいことだけを書いて、人をなじることを快感としているからです。
 
ゆえに、シャロームは、こちらにとっては、疲労物質のしての機能以外、何も持ち得ないのです。そう書いたのに、まだ、書いてくるのも、その性質が為せるわざなのです。殆ど相手にはしていませんが、書いてきたことを、いちいち否定しないことには、信仰の記事にならないので、批判コメントと批判記事を書いています。
 

ですから、
 「主が言われた、「私の恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。それだから、気rストの力が私に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。だから・・・私は弱い時にこそ、私は強いからである。」と書いているのです。

>2.の6段の「気rストの力」は「キリストの力」の誤りです。<
 
あなたが、かつて「超常現象です(笑)」と言って、自らに起こった奇跡を語って、それを、恐れもなく根拠にしたように、あなたシャロームの神?は、いつでもあなたを奇跡で守る神?であり、パウロの信仰と伝道と殉教に表れる神ではありません。
 
パウロをネタにして、またしても、自分を高めようとしているあなたシャロームは、弱さ、低さ、罪深さという信仰の気付きを、何も知らないことが、書くたびに表れています。これからもそうでしょう。
 

ローマ人への手紙5~7、8章14節にもパウロはそのような自分の生々しい実体験を通して自分のみじめな死の姿について述べながら、またそのような自分を死のからだからイエス・キリストのよみがえりの命に生きる者としてくださったこと、それはイエスの死と、よみがえりと聖霊による神の恵み、たまものとして与えてくださったとイエス・キリストの父なる神に感謝しているのです。

 
ひと言で言えば、パウロには、人間としての豊かな心があったということです。だから、本当の恵みを受け取り得たのでしょう。パウロの言説には、まだ、私には、分からないでいることもありますが、少なくとも、シャロームの妄想で理解できることは何もないのです。
 
このように、神の恵みばかりを、豪語してくる、あなたシャロームの言説は、あなたにとって都合の良い恵みが、あなたにだけは来ないことをもって、泣くしかないのでしょう。
 
何故かと言えば、神の恵みが、罪深いキリスト者に、キリスト信仰ゆえに注がれるときにも、弱さを自覚しないあなたシャロームは、それが恵みだとは気づかないからです。
 

3. st5402さん おはようございます
 2019年11月10日 09:34
st5402さんはイエス・キリストは処女マリアから生まれ、罪なき神の御子イエス・キリストの死による罪のあがない、死からよみがえり、聖霊の働き、によって私たちのこの死のからだに成就してくださった神の恵み、救いを信じておられますか。これがすべての人に与えられた神の救いの福音なのですが信じておられますか。

 
私には、分からないことがいっぱいあります。人間だからです。実感のないことについて、信じているのは、あなたシャロームと同じ思いこみから信じ込みに至った教条主義に過ぎません。だから、私は、あなたシャロームを、カルトと呼んでいるのです。
 
人間は、超常の神聖の仕組みを、知識としては教理と聖書から得ていますし、それを、いつかは理解する時が来る、という希望として持つことはあっても、それを分かったかのように信じるというのは、シャロームのような傲慢な妄想家であることを表します。
 
あなたシャロームは、その超常を豪語して、自分は分かっている、そして、それによって、私を裁こうとしている、という醜いさまを、神の前に晒している自分の姿に、まだ、気づかないのか。
 
あなたの教条を披露しても無駄です。どうして、他者の信仰ばかり書いて、自らを見ないのでしょう。そういう者に、信仰の成長はなく、成長しない信仰?は、どれだけ多く言葉を放っても、臭みをまき散らす不潔な糞尿のごときものです。
 

信仰義認とはどういうことかを理解するためには、自分の本当の弱さの自覚、自分の死の姿の自覚が不可欠ですが、それは神が与えてくださる神の恵みの賜物としてのみ与えられるというのです。

 
あなたシャロームの、弱さの自覚、死の姿の自覚、いずれも、妄想です。人間の心に響くことを、わざわざ、超常の出し物に置き換えて、どこにも響かないものにして、神の恵みの賜物を、あなたの都合に合わせて、それこそ、自らを超常になぞられる、忌まわしきカルト信条です。
 
死の姿の自覚など、生きている人間に出来るはずはないのです。そのことは、全知全能の神は、既に、ご存じなのです。安い思い付きで、人を惑わすのは、あなたシャロームの常道ですね。
 
あなたシャロームは、今まで、ずっと、超人になるかのような現実離れの妄想教理を吹聴しては、神とキリストと聖霊と、信仰と信仰者を、けがしてきただけなのです。
 

パリサイ人は罪を悔い改めていることを、いつも人の面前で灰をかぶって、衣を裂いて自分が罪人であることを人の前にあらわし、自分を義としていました。
それは弱さや罪の偽装の姿でした。ですから人を裁き、人を罪に定めることを神の代行人のように行っていたのです。
それが神を見失った生まれながらの私たちの姿です。
パウロもその一人でした。

 
パリサイ人は、悔い改めない人々です。だから、あなたシャロームと同じように、教条主義によって、心を失い、守っている、分かっている、という偽善に走ったのです。
 
パリサイ人は、弱さの姿ではありません。シャロームは、そおっと、都合よいように、言葉を忍ばせてくる卑怯者なので、注意してください。
 
「それは弱さや罪の偽装の姿でした」の「弱さや罪」の自覚は信仰につながりますが、「偽装の姿」はパリサイ人とシャロームのの偽善そのものです。シャロームは、それを並べて、パリサイ人は弱かったから偽装した、という憐れみの印象を刷り込もうとしています。とんでもない人です。
 
ずっと前に、シャロームは、苦し紛れに、偽善も罪だから、悔い改めなくても赦される、などと言っていました。偽善は、故意に欺くことで、人を騙す悪意の行為です。それを憐れんで信仰など成り立つわけはないのです。
 
今、神の代行人のように、人を裁こうとしているのは、私を問いただして、問い詰めようとする、あなたシャロームに他なりません。まさに、前から言っていましたが、あなたシャロームは、現代のパリサイ人です。教条を振り回し、全く心に信仰を受け取っていないことが明らかです。
 
パウロは、元パリサイ人サウロ、そして、悔い改めて、使徒パウロとなった人です。
そこを「パウロもその一人でした」で、あとを書かない作為の愚かさ。
 
シャロームの卑怯と愚かが表れています。シャロームが、そういう人だと分かってからは、こういうのを見ても、バカか、と思うだけです。
 
シャロームは、体質としては現代のパリサイ人、そして、罪を認めず、悔い改めず、自家製の妄想教条のゴタクを並べている裸の王様です。
 

しかし、感謝すべきかななのです。
shalom!

 
今までの、そして、今回のコメントから、申し上げます。
 
あなたシャロームの感謝と讃美は、厠(かわや)に堕ちてゆきます。
 
あなたシャロームの説教を聞くことは、信仰者にとって、大きな災いです。
 
今回、私が書いたようなことは、今までの8年間に、何度も言ってきたことです。そして、シャロームの弁明も反論も成り立ったことはないのです。にもかかわらず、また、性懲りもなく書いてくるのは、嫌がらせ以外の何物でもないでしょう。決して誰もシャロームに関わらないでください。
 
 
(2019年11月11日、同日一部修正)
(2019年11月12日、一部修正)
 
 
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  嘘と世辞と侮辱(6)
 
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   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)のコメント
 
 
シャロームは、前の記事において、聖句について質問をして、それに答えられないと、私が福音を知らないと侮辱してきました。その質問の答えは、当たり前のことで、その答えで、よく質問できたな・・と思えることでした。ただ、シャロームが人を下に見ていることが明らかになっただけです。
 
シャロームという無知が、また、忘れましたか読みましたかメッセージで、知識を自慢して、攻撃してきます。やはり、シャロームは、聖書をまともに読んではいないようです。曲解ばかりの妄想解釈を訂正不能に絶対化して、聖句の大切さを知りません。
 
自己顕示欲だけの反信仰が、信仰を語ろうとすれば、必ず、綻びと矛盾は出てくるのです。あなたシャロームには分からないだろうけれど、大事なことは弱さの自覚なのです。強がりは信仰ではないのです。あなたは、何が欠けているか、分からないでいるようですが、聖句は表しています。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
11:29
だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。
11:30
もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。
12:10
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
 (2コリ11:29-30、新約聖書)
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
12:5
わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
12:6
もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
12:7
そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
12:8-9
このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
 (2コリ12:5-9、新約聖書)
 
弱さを誇ろう、というのは、逆説ですから、このまま、弱いんだぞと自慢するのは笑えない冗句で、弱くあることや弱さの自覚が、少なくとも強くあることや強さの自覚よりも、とても貴いのだということを、パウロは言っているのだろうと思います。
 

24. st5402さん おはようございます
 2019年11月03日 10:41
「しかし、いったいいつの記事なのか、記事の時期やタイトルくらいは示すのが常識ですが、あなたには常識は分からないですよね。」
おやおや私の直前のコメントに対するコメント4でst5402さんがわざわざ引用された聖書の言葉、6で書かれた言葉ですが、もうお忘れですか。

 
あぁ、もともと、あなたが引用したわけですね。あなたの引用も、書いたことも、批判し終えたら、できるだけ、忘れないとね、いつまでも、私が覚えていると思っていたのですか。忘れ去られることを考えもしないのですか。世界は、あなた中心ですか。
 

他者の批判を憑かれたように書いているので覚えていないのでしょうね。

 
批判対象のメインは、あなたです。だから、テーマにも題材にもならない疲労物質は、批判したら、あとは、健康のために、忘れるわけです。今度は、憑りつかれ妄想ですか、憑りつかせ妄想ですか。世界は、あなたが主人公なのですか。だから、そんなに、人を下に見るのでしょうか。
 

人の言葉、思想はあなたの言葉も、私の言葉も過ぎ去りますが、イエス・キリストの言葉は過ぎ去ることがありません。

 
私は、反キリストの妄想であるシャロームの言葉が跡形もなく過ぎ去るように、あなたの聖書解釈妄想も跡形もなく過ぎ去るように、一生懸命、書いています。
 

キリストへの信仰はその言葉によって与えらます。

 
それをことごとく曲解してきたのが、あなたシャロームです。
キリストは、悔い改めよと言っているのに、悔い改めないことで明らかです。
なのに、上のようなことを書いてくるのは、背教+偽善の醜い有り様です。
あなたの有り様が、ことごとく消え失せるように、私は書いているのです。
 
シャロームの言葉が、思い出されることがあったら、ことごとく、滅びの言葉だと分かるように、そのために、私は書いています。
 

イエスさまは
「天地は滅びるである。しかし、わたしの言葉は滅びることがない」(マタイ24章35節)と言っておられます。
st5402さんはこの言葉を語られたイエスさまのおかれた背景をご存知ですか?ヨハネ14章の言葉も同じ背景ですが。
信仰の普遍、不変の礎である旧・新約聖書全体を一度でも通読されたことはありますか?

 
一度、通読してます。その時、ピンと来なかったことを、のちに、考えてゆきました。
 
そして、あなたを見て、聖書を腐らせたまま自慢する者もいることを知りました。
 

「総ての経過と文脈を無視して、その時その場で捏造してゆく、という場当たり的な作り話なので、はっきり言って、読む値打ちも聞く値打ちも皆無です。」というst5402さんのコメントはそっくりそのままお返しします。

 
「そっくりそのままお返し」は、根拠を示さければ無意味だと、私は前に書きましたが、あなたは、本当に学習しないですね。それで本当に気が済むのでしょうか、あなたという人は。
 

「昨日も今日も、恐らく明日以降も、有頂天シャロームのゴタクが続くのでしょうか。それを、止める者も、近くに誰もいないのでしょうか。」
楽山さんはかつて私のst5402さんに対するコメントに対して注意され、st5402さんが自由さんの記事にたくさんあちこちでいいね!をされた人でしたが、忘れましたか?

 
引用とコメントがつながっていないようです。
 
だから、どうだというのでしょう。万物は無常で流転しますし、実際は、楽山のボンヤリ言語に騙されたと分かって、批判に転じています。あなたシャロームもそうでした。二人が仲間だと気づいたということです。今も、私に手間を取らせることで、楽山を応援したつもりでしょうか。
 

たとえどなたかおられたとしても、楽山さんのようにst5402さんの執拗な批判の的に変るでしょうね。

 
誰でもじゃない、ふつうは違う、ということも書いたと思いますが、そのために約100人のお気に入りサイトの話もしたわけですが、何も読んでいないシャロームのようです。私が誰でも批判する奴、という先入観作りですか。あなたシャロームらしい、きたない印象操作です。
 

私は一人です。ひとりで結構ですよ。
shalom! 

 
私、二人でいたいとか、あなたの面倒見るようなこと、そんな悍(おぞ)ましいこと、書いてませんが。いつまでも、主人公であるかのように、あちこちに出しゃばって書いていたのは、あなたシャロームです。
 
あなたシャロームに好意的に関わる人が一人もいなくなるようにと心から願って書いています。
 
どうぞ、ずっと独りでいてください。ずっと、独り相撲、あなたのほうだったんですね。その割に、あなたは、仲間の数を聞いて、自分の優位を自慢し、私を、おとしめてきましたが、あれも、嘘の仲間だったわけか。
 
人神未分化という恐ろしい自分信仰で、神の意志と聖霊を自分に結び付けてしまい、悔い改めもしないで、キリスト者と聖職者を気取っているような人は、いずれ、何も学ぶところのない人として遠ざけられ、固陋(ころう)と狂乱のうちに、人生の終わりを迎えるしかないのです。
 
そういう生き方を、わざわざ、あなたシャローム自身が信仰?として、迎え入れて、詭弁と嘘にうつつを抜かしているのだから、すべては、神の恵みも幸いも賜物も、あなたが拒否しているという結果なのです。
 
 
今回は、人をおとしめることに聖句を利用しようとして、大事なことを何一つ受け取っていないことが明らかになったシャロームです。
 
そのことを通して、そのまま受け取ってはいけない「弱さを誇る」という聖句の逆説が、少し分かるようになりました。あなたシャロームが反例として言いたい放題言ったおかげで、こうだけは、なってはいけない、ということが分かるわけです。
 
つまり、あなたシャロームと違って謙虚であるべきだが、加えて、パウロが実践しているように、及ばずながら、はっきり物を言う勇気と必要を聖句からいただきました。
 
 
(2019年11月10日)
 
 
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  嘘と世辞と侮辱(5)
 
   嘘と世辞と侮辱(2)
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4024687.html#comments
   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)のコメント
 
 
やはり、シャロームは、何も感じない情性欠如者のようです。といっても、シャロームのことは、既に、サイコパスとも言っています。何も不具合を感じず、平気で、また、教えようとしてきます。遠慮というものを知らない。楽山への批判記事を妨害するために、こちらの手間を増やしたいのか。ここまで来ると、ネットの向こうで、ヘラヘラ笑っている様子を想像してしまいます。
 

17. st5402さん おはようございます
 2019年11月02日 17:59
stさんが引用された言葉の意味をご存知ですか。
14:28
『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。
14:29
今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。
それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。
  (ヨハネ書14:28-29、新約聖書)
答えは「聖句の中の、事が起った時、というのが、キリストの死と復活なのか、終末なのか、私は知りません。」でしたね。
stさんの答え・・・
それは私は福音がわかりません.、知りませんという告白の言葉です。

 
知らないなら、知らないと言います。私は、聖書に精通している者ではない。
私は、空っぽに満たされているあなたシャロームと違って、人間だから。
 
しかし、いったい、いつの記事なのか、記事の時期やタイトルくらいは示すのが常識ですが、あなたには常識は分からないんでしょうね。
 

使徒パウロは次のように書いています。
「信仰は聞くことによるのであり、
聞くことはキリストの言葉によるのである。」
 (ローマ人への手紙10章17節)

 
これを、偽善者のあなたシャロームが、引用できるってことが、あなたの厚顔無恥を表しています。
 

人と人との関係もお互いの言葉を信頼すことから始まります。

 
「聞くことによる」という聖句から、自分の言うことを聞けと言うのか。
長い間、聞いて、その邪悪を知ったから、批判しているのです。
 
あなたシャロームは、人の言うことを受け取らず、コメントを削除し、あるいは、未承認、あるいは、コメント欄廃止などをしてきました。自分でそうしたにもかかわらず、神に任せるのが一番、などと言ってきたのです。
 
したがって、私は、邪悪なあなたの言葉を、全く信用していません。にもかかわらず、コメントを書いて説教しようとすること自体が、あなたが、サディストであることを証明しているのです。
 

私たちの言葉は人間としての弱さのために、確かな信頼関係を育てることができず、かえって傷つけあうことも多いのが現実です。

 
あなたシャロームにだけは、言われたくない言葉です。
嫌がらせに過ぎません。あなたからは、何の共感も生まれません。
 

st5402さんは精神科の医師であられたのですから誰より良く理解されていると思います。

 
私は、サイコパスやサディストを直に面と向かって相手にしたことはないので、かまってあげるなんて無理ですし、あなたを理解できる人はいないと思います。どこまでも、人間の理解から乖離してゆくシャロームなど、正当には、相手にしていません。退屈しのぎでもありません。一日も早く、神の裁きが下るように祈ることはあっても。
 

生ける神には私たちのような弱さはありません。しかし、私たちの弱さを知りながらも、私たちを愛し、そのことばの約束を成就されます。ヨハネ書14:28-29のイエスさまの言葉も十字架の苦難と死を前にしてのイエスさまの言葉なのです。

 
私が上のヨハネ書の聖句について、いつのことか、はっきりとは知らないと正直に言ったら、私が知らないことを罵りながら、あなたの言うところの、十字架を前にして、ということなら、キリストの使命が十字架ですから、公生涯全部が当てはまるでしょう。それくらいのことなら、当たり前のことです。人をバカにして、言うほどのことでしょうか。あなたシャロームは、おとしめる目的だけで、実に、くだらないことを言っています。あなたが知ったかぶりで言う時って、本当に災いですね。
 
いつのことかについて、根拠は示さないのですね。あなたらしい、結論だけの教示、無視します。
 

だからキリストの言葉を不動の礎にして初めて信仰が与えられるのです。キリストの言葉を自分の想いや期待に合わせていては必ずつまづいてしまうのです。

 
「聞くことはキリストの言葉による」と、さっき聖句をあげたのは、あなたシャロームです。そして、あなたシャロームは、神の、聖霊のと、うるさく言って、その聖三位を、全部、自分の都合で悪用して、裏切ってきた人です。つまり、今回のコメントこそが、嘘っぱちの無駄話なんです。
 
「キリストの言葉を不動の礎にし」たつもりの、あなたシャロームは、人間として、また、信仰者としての務めに、真っ向から、反したことばかりする妄想カルトの偽善者となっています。あなたのように罪を認めず悔い改めないと公言するようなキリスト者は、どこにも存在しません。
 

ですから使徒パウロは
「信仰は聞くことによるのであり、
 聞くことはキリストの言葉によるのである。」と書いているのです。
shalom!

 
「ですから」が、全く成り立っていないのです。邪魔をするために書いてきたんでしょう。
 
そして、福音と信仰を邪魔しているのです。まったく、あなたという人は、存在することが、何の役にも立っていないわけで、こちらも、警鐘として悪と偽善を伝えるための材料としてしか考えていません。
 
あなたシャロームは、一日も早く、ネットから消えてゆくのを、待たれているだけなんだと再認識しました。
 
今まで、3回のコメントを批判してきましたけど、真に受けてよい内容など、一つもなかったわけですから、迷惑と、疲労を与える偽善ショーをするための大根役者として来たのですか。
 
分かっていると思うけど、分かっていないような気もするが、あなたシャロームの説教を聞きたがっている人なんて、まともな人には一人もいません。それくらい害にしかならない。
 
あなたが、いい加減な出まかせを言って、自己満足するのは、こちらとしては、問題外のシャロームだから、悪性の病気が来たと思えば、批判の材料にするだけですが、それで、悦ぶあなたは、みじめ過ぎませんか。何のために生まれてきたんですか。
 
何のために生きてるんですか。何もないでしょう、あなたシャロームには。親族がいても、いずれ、真相を知って、裏切りますよ。それでも、部屋で、笑っているわけですね。驚くべき虚無を食べているようです。こうはなりたくない、という感想だけです。
 
私にとって、あなたシャロームは、批判の対象であり材料でしかありません。それも、殆ど、新しいことは書いて来ないようだから、こちらが何を言っても受け取らないあなたシャロームを、喧しく鳴ることさえなくなったシンバルを、こちらが、まともに相手していると思ったら大間違いですよ。
 
大方、無視して、今までの批判を復習しながら、退屈しのぎくらいに、半ばうんざりしながら、遠目で見ることが多くなっています。人を効率で見るのは、よくないけど、中身のないあなたシャロームには、効率そのものが、どこにも存在しないのです。
 
 
(2019年11月09日、同日一部修正)
 
 
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  他者を悪用
 
   「こうであって欲しい」という押しつけ
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12542715737.html
   楽山日記(a)
 
 
楽山は、ツイッターの他者の言葉を悪用しまくっています。自分で言うと、破綻百出であることを認めたようなものです。引用されているどの言葉も、楽山の実態とは対照的です。楽山は、何も反省しないから楽なのでしょうけど、そのために、正常な弁明が成り立たない迷路をさまよっています。
 
(楽山が引用)

自己肯定感が
安定した状態って
私の経験からすると
地味な日常にも
幸せを感じやすくなったり
人に、自分の気持ちを
伝えやすくなったり
相手の気持ちを
受け取りやすくなったり
落ち込みや、イライラ
が激減したり
そんな感じで
結構地味だけど
楽です
https://jnpta.com/seminar-event/201911-tokyo

 
楽山の「楽」は、人より上に立っていること、何を言い、何を仕出かしても、批判されず、文句を言われないことです。楽山は、反省をしない、訂正をしない、下に見る、結論が前提となったところからしか物を言わない。なのに、決めつけが悪い、などということを言ってくる。いちばん決めつけているのは、楽山。
 

ちなみに、のんさんの歌(歌詞ノマアキコ)にも、これに通ずるものはある。

 
(楽山が引用)

 ちょっと待って寄ってたかって
 あたしのあれこれ決めつけないで
 あなどるなかれ ベビーフェイス
 ホントのあたしを知らないくせに
 ・のん やまないガール 歌詞

 

こういう押しつけ、決めつけ、過干渉などは、有名人に対してのみならず、程度の差はあれども、一般人の間でもあるね。ふつうの親子関係、友人関係、恋愛関係などでもざらにある。
もちろん宏洋氏が述べているように宗教でもある。むしろ宗教では一般の場合よりも、その程度は激しいかもしれない。宗教は人に対して、ああしろ、こうしろと命ずるものだから。
ほんと、価値観の押しつけという点では、宗教はやっかいだ。まともな宗教であれば、ある程度は、個人の個性を尊重してくれるだろうからよいとしても、カルト宗教はそうじゃないから困る。

 
今回、他者の言葉、特に有名人の言葉を悪用する楽山です。
 
楽山は、自分が批判されてることが、のんさんと同じ立場だというのでしょうか。のんさんと、世間ずれの悪知恵だけの狡賢い楽山の、味わっていることが同じでしょうか。
 
それに、決めつけた決めつけない、ということが、確認も実証もしないで、一般化できることでしょうか。どこまで自分を高く見積もれば気がするのでしょう。どこまで他者を自己正当化に悪用するのでしょう。直接交わることのない芸能人だからって勝手に引き合いに出されたほうの迷惑を考える節操がないのでしょうか。
 
真実を語る代わりに、印象操作をしたり揶揄を語るような者は、他者の言葉を借りても、そこには、別の意図があり、本来のあるべき引用のやり方ではなく、悪用の企みになります。
 
決めつけてきて、当てつけ、印象操作、遠回しな悪口、ホントの自分を出したことがなく、いつも隠して、体のいい言葉飾りで、人をあざむく香具師(やし)的存在である楽山は、有名人の言葉を、香具師的に流行に飛びついて、自らの怠慢ボンヤリ言語の継ぎはぎに使って悪用している、という、罪も偽善も考えることが出来なくなった人。
 
楽山は、批判を過干渉といいたいのでしょうか。「あるね」「ざらにある」という、雑な強調や、「宗教では・・激しい」などと、自らの単方向性と卑怯なボンヤリ言語と言論の廃人シャロームを応援したことを省みることもなく、決めつけて、印象を流し込んでいる。
 
「宗教は人に対して、ああしろ、こうしろと命ずるものだから」とは、正当な宗教を何も知らず何も分かっていない楽山の言。このようなことを平気で言ってくることから、楽山の宗教批評失格が明らかであります。
 
宗教は、行為そのものを命じるものではありません。行為義認は、聖書におけるパリサイ人の信仰であり、また、批判を一括して良くないと決めつけている楽山のカチンカチンの宗教観念であり、すなわち、都合の悪いことに対して排除という解決しか考えられないカルトの持ち物です。
 
正当な宗教は、干渉はしないし、むしろ、それぞれの人間性を大事にする必然があります。キリストは、様々な人に合って、それぞれを洞察し、様々な対応をしました。それを、何も読み取らないで、聖句や教理を引用してキリスト教批判めいた嫌がらせをしてきたのが楽山であります。
 
カルトは、特に楽山は、良心欠如で、さらに狡賢いから粘着して執拗で、自分の言葉が通用しなくなった必然をまるで考えず、やみくもに手段を選ばなくなっているのです。そのことのために有名人をネタにするとは、恐れを知らない。
 
カルト宗教は個性を尊重しない、ということは、軟派カルトである楽山に顕著である。手段を選ばない楽山の、無反省の執拗な、当てつけの、嫌がらせの、快感のみ追求の自慰行為あるいは憂さ晴らし。
 
苦言に表された望ましくないことを、自分に向けてみることだけはしない楽山。遠回しならいいということではない。遠回しに言えば、遠回しに自分に跳ね返ってくるだけです。
 
 
   つぶやき
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12542591917.html
   楽山日記(a)
 
 
(楽山が引用)

サイコパスは人が「いい思い」「得」をしていること、幸せであることが許せず、ありとあらゆる巧妙な妨害をする。邪悪な人が親だと、子どもが楽しそうにしていることも許せず、さまざまな圧力をかける。

 
霊が分かるっぽい楽山の「いい思い」は、偽善の成果として、人を騙し得たと思うときだろう。例えば、印象付けで、やさしいお人柄、などと言われたときだろう。それが当然だと、どう育ち、生きれば、思うようになるのだろう。
 
楽山の「得」は、やはり、人を騙し得たときだろう。褒められることだけを求めて、批判を一切無視する楽山は、反省して、欠点に気づいて改める喜びを一度も知らない。この人には、決して関わらないでほしい。
 
(楽山が引用)

三流は、人の話を聞かない。
二流は、人の話を聞く。
一流は、人の話を聞いて実行する。
超一流は、人の話を聞いて工夫する。
これは、羽生善治名人の名言だけど本当にその通り。
最近、四流の人と出会う事が多い。
四流は、人の話を聞かず、ただ批判したりバカにすることしかできない。

 
楽山は、三流のみならず、唱えて批判され否定されたことを、いつまでも、いつまでも、あたかも、新しいものであるかのように、駄々っ子のように繰り返す四流以下である。自分の話が通じないことを、批判されることを、受け止められず、相手のせいにして、バカにする当てつけか印象操作しか出来ない。そのために、有名人の名前さえ利用するとは、身の程知らずも甚だしい。
 
今回の「決めつけはよくない」と言いたいらしいテーマもそうだ。その度に、楽山の決めつけの怖さが伝わるが、そういう自省の感受性は楽山にはないようだ。なりふり構わなくなったら、もはや、自他を区別することさえできなくなる。だから、身の程知らずに有名人まで利用するのか。名のある人までを、おのれの醜さでけがすとは。
 
(楽山が引用)

優れた画家は、汚れて短くなった鉛筆を使ってさえ、美しい絵を描きあげます。「自分は罪深く、取るに足りない人間だ」と思っても、諦める必要はありません。神様は、そんな私たちを使ってさえ、何か美しいものを作り出すことができるのです。今晩も皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父

 
偽善カルトの楽山は、キリスト教とキリスト信仰を自分の幼稚な疑問で否定しようとしたり、逆に揶揄目的で、ボンヤリ言語でクリスチャン芝居をしたりするようなことさえする人です。自分の言葉で言えないものだから、どこかの神父の言葉を借りて、神父が言ってんだぞと、利用し、ますます、宗教も真実もけがしてゆく。
 
(楽山が引用)

 ✔  @kagekineko 
憎しみは捨てる。
心に炎症を起こすから。
悲しみは受け入れる。
心を浄化させるから。
その程々を悟り
気持ちを切り替える。

 
楽山の言いたいことは、一人称ではなく、自分の怨念を省みないままで、仮想の二人称の批判者に言いたいことの暗示でしょう。すなわち、憎しみを捨てよ、悲しみを受け容れよ、つまり、批判するな、と言いたいのです。
 
何故なら、一度も、楽山は、引用にあるところの自分を対象とした反省のような文章を書いたことがないからです。そういう心が無いから、そういう文章が、自分で書けないので、言葉だけ借りて、仮想の相手にだけ向けるのでしょう。
 
反省をしたことがなく、相手が悪いとしか思わない心からは、この言葉が、自分に向かうことなど、考えもしないのでしょう。こういう精神だから、記事が、自分に跳ね返ってきても、また批判されても、悪口ぐらいにしか受け取れないのです。この成長不全の男に関わらないでください。
 

心が受け入れる悲しみはその心を浄化します。ただし、その段階で気持ちを切り替えないといつまでも悲嘆にくれて心を痛めます。切り替えどきを誤らなければ悲しみとスッキリ離れられます。

 
楽山には、心に受け入れる悲しみの器が無いので、今まで、そのような悲しみを書いたことがありません。解決していないのに、切り替えたつもりでいることが、いちばんの問題だということに気づかないのです。
 
自分が何を仕出かしても、はかりごとを巡らすか、意地悪く楽しんでいるのです。この記事もそうでしょう。決めつけはよくないという話が続いていますから。このまま、偽善の反キリスト者であるシャロームのように、心と言論の廃人になりたいのでしょうか。
 
(楽山が引用)

人間関係で一番大事なのは、腹八分ではなくて腹六分。
夫婦、恋人、親子、仕事関係、すべて腹六分でお付き合いを。
親しき仲にも礼儀あり。
美輪明宏 名言

 
まず、私は、楽山とは、まったく親しき仲ではありませんから、礼儀を守る必要はありません。
 
楽山がこれを引用したのは、批判されて都合が悪くなるからでしょうが、都合を悪くしたのは、人間としての自然な心の進み方を拒否している楽山です。軟派カルトといっても、自分の間違いを認めないところは、やはり社会悪に結び付く危険のあるカルトなのです。
 
それにしても、有名人の言葉を利用して、弁明と反論に代えようというのは、呆れます。楽山は、自分で、自分には言葉がありません、と言っているようなものです。
 
何を言っても、反論、弁明、反省、訂正、謝罪、どれもなければ、手加減などしないのです。ふつうはあるはずの反省機能が、楽山やシャロームには、出会ってから、ずっと欠落しています。
 
しかも、テーマは、真剣に取り組むべき宗教と信仰という真実追求のテーマなのです。対して、楽山は、ふざけた軽口ばかり言ってきたのです。そのことを指摘しても、何も変わらないところも、カルトであることを濃厚に示唆しています。
 
 
ですから、
「四流は、人の話を聞かず、ただ批判したりバカにすることしかできない」が
当てはまるのは、楽山に他なりません。
 
私は、日記でも、ポエムでも、政治と思想でも、お気に入りサイトの記事を、熟読しているとまでは言えないが、楽山やシャロームの言とは全然違う人間らしい文章として、真実のヒントを探して読ませてもらっています。
 
 
楽山は、自分で書けないので、都合のよさそうな意見を探して、とうとう、有名人の言葉を、無作法に無責任に書いてくるという暴挙に出ています。それによって、結局、動機の不純と、陰険な目的によって、無反省に無理解を上塗りしてゆく愚かさを露呈しているのです。
 
気楽に有名人の言葉を、その有名人が好きだから引用するのではなく、明らかに自分の利益のために恣意的な目的で引用しています。そのことについて、何も、恥ずかしいとか、的外れであるとか、自分の欲望のための私用に供してはいけないとか、感じないのでしょうか。
 
しかも、結果として、それらの言葉に反しているのも、楽山のほうなのです。学習機能も修正機能もなく、成長するこがなかったからです。真に受けて付き合う人は誰でも、ボンヤリ言語という飴を舐めさせられることになり、真実追求からは、限りなく遠ざかり、ついには、耐えがたい疲労を与えられるだけでしょう。
 
 
(2019年11月08日)
 
 
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  流してくる
 
   自己肯定、自己受容、自己変革…
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12542303434.html
   楽山日記(a)
 
 
他者のサイトから引用して、子育ての話かな?と思っていると、結局、決めつけてはいけない、ということを言いたいようです。しかし、決めつけの権化は、楽山とシャロームであります。
 
楽山は、批判のことを決めつけだと言いたいのでしょう。私はこの記事については、楽山が、他者の引用や婉曲表現なら決めつけにならないかのような思い込みで、あるいは、策略で、ボンヤリ言語によって、先入観や印象を刷り込んできたのだと思います。
 
楽山は、
下心の陰謀によって、一般的なことのように、または、別のことのように、
やんわりと、ほのめかすように、いわば、決めつけを、流してくるのです
 
抵抗力を身につけないと、この根腐れの陰謀家の思うとおりになるでしょう。とても下等なやり方で卑しいと思います。近づかないのが一番です。
 
批判に対して、理路を正した正面からの反論も弁明もできない者ほど、相手を決めつけと決めつける以外に打つ手がなくなり、その根拠が示せないので、卑怯にも、別のテーマを装って、ほのめかすしかないのです。
 

*自己肯定
木地雅映子さんのツイートを見てたら、自己肯定感にとらわれることに注意喚起する記事が紹介されていた。

 
木地雅映子と書いてますが、リンク先に出てくるのは信田さよ子という名前です。説明しないのでしょうか。信田さよ子さんが木地雅映子さんを批判しているということでしょうか。
 

たしか、『嫌われる勇気』では、自己肯定は、自分にできないことについて、「自分はできる、必ずできる」と自己暗示をかけることで、これはある意味、自分に嘘をつくことだとして批判してた。それに対して、自己受容については、できない自分をありのままに受け入れた後で、どうしたらできるかを考え、行動することだから、よいことだとしてた。
この記事でいう「自己肯定感」というのは、このうち前者について語っているようでもあるが、後者について語っているようでもあり、どうも判然としないのではあるが、そのどちらにしても、必ずこうでなければならぬと一つことに固執している状態は窮屈だろうし、苦しいだろうな。
こうなるとまさに、「「閉じた世界」から脱出する」ことが必要になってくるわけだ。

 
引用元が、一つのことに固執している、と決めつけ、苦しいだろうな、という、余計なお世話で、また、決めつけています。まことに、楽山には、裏と表があります。どちらとも関わらないでください。
 
自分が、曖昧なボンヤリ言語で、ほのめかして、真実に反する印象操作を、気づきにくいように、流していることなど、お構いなしに、求められてもいない人の世話を、ネガティブに焼いているのです。
 
自己愛に自分勝手に満たされて、自己肯定感が訂正不能で、霊が分かるっぽい自己選択の上で、自己万能感による自己顕示と、自己受容感が過剰となって、自己責任を全く感じないで、自己の過失や誤謬を人のせいにして、ねちねちと人を罵って、かつ、何の洞察もなく、何の結論も導き出せないのが、楽山とシャロームであります。
 
楽山とシャロームの自己肯定は、自分は出来るではなく、ありのままでもなく、ただただ、既に、自分は出来ている、だと思います。だから、反省もなく、性懲りもなく、まともじゃないのに、まともを装い、平気で書き続けて、同じような知性と感性の破壊と腐敗を、繰り返し恥ずかしげもなく表してくるのでしょう。
 
そういう者が、嫌われる勇気でもって、何を言われても不感不応の自己正当化を、詭弁と刷り込みで通そうとしてくるのですから、傍迷惑~疫病的感染を撒き散らしながら、引きずりながら、近づく者を、いずれ、ずるずると同じように、だまし言葉で世をしのぎ、ですね口調で、または、ボンヤリ言語で、自己パンデミックの悪夢を見る者に変えてゆくのでしょう。
 

*自己変革
上記の記事中、この辺りは、自己変革について疑問を提示しているようだ。

(楽山が引用・始め)

「どのようなキャッチフレーズが登場したかを振り返ってみると、「自分を愛せなければ他人を愛せない」「あなたが自分を好きでなければ他人に愛されるわけがない」「自分を愛せるように」「自己肯定感を高めるための法則」「自己肯定感の低いあなたに足りないもの」などなどです。
共通点は、多様な説明や切り口があるにもかかわらず、最終的には自分で自分をどうにかできる、しなければならないという考えに帰着することです。
一見、自分は自分次第という希望を与えるように思えますが、最後は自分しかいないというどん詰まりの考え方ではないでしょうか。まさにこれこそが、自己選択・自己責任の罠なのです。」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68128?page=4

(引用終わり)
 
引用されたところからは、有名らしい人が、言葉の曖昧なところを、なんとか主張としてまとめて、言い切ろうと努めている姿勢がうかがえます。
 
言葉は、絶対ではありません。話し手の言葉が与える心の動きが、聞き手の言葉となって出来る心の動きと、同一ではないのです。それで、人間は、いつも苦慮することになります。
 
ところが、全く苦慮というものを、最初から最後まで、しないのが、楽山です。だから、有名人だろうが何だろうが、自分の身勝手な目的で利用するのに、遠慮もしないし、何の罪悪感も良心の呵責も覚えないのでしょう。
 

自己変革にしろ、自己責任にしろ、一面の真理を有しているのはまちがいないのだろうけれども、上にも書いた通り、こうでなければならぬと強く思い込んでしまっている場合は面倒なことになりがちだ。
人にはそれぞれ個性があり、抱えてる事情もちがうし、さらにはたとえ同一人物でもタイミングということもあるものだ。その時々によって、その人にとって自己変革や自己責任が必要なときもあろうが、それとは反対にそんなものは要らないときがあるのは当然だ。自分を変えるべきときもあれば守るべきときもあり、自分でやるべきときもあれば他人を頼っていいときもあるみたいに。
でも、あまりに強く一つことに執着して、こうでなければならぬと思い込んでしまうと、この辺りの臨機応変さがなくなるから苦労することになる。

 
今までの経過から、自分を変えることの全くできない、ゆえに、変わろうともしない無反省の訂正不能の楽山が、自分を変えるべきときもある・・などと書いてくるのは、まことに、笑止であります。
 
また、他人に頼るのは、無条件賛同のお仲間たちだけで、特に、シャロームのような、もはや、人間とさえ思えないガチガチの訂正不能の権化たる舞い上がった妄想家だったりするわけです。
 
その楽山は、言葉に苦慮することの共感の代わりに、臨機応変という言葉だけによって、軽く済ませて、自分は臨機応変やってます大丈夫みたいな慢心に居るのです。慢心から物を言えば、慢心しか伝わらないことを知らないのでしょう。
 
だから、情の薄皮で共感を装ったつもりの楽山の言葉は、読む人に、苦痛と疲労を与えるだけか、何も与えないかの、どちらかになってくるのでしょう。楽山は、参考になるような意見を何一つ提示できたことのない人です。
 
だから、少しでも化けの皮がはがれたら、楽山やシャロームの言は、こんな奴に騙される人がいるんだろうか、と思うような、知恵の浅い言論であり、ごまかしだらけであり、どうしようもなく身勝手な自分を、正当化して売り込んでいるだけじゃないか、と言ってもいいような人物です。
 
気づいてしまえば、その程度なのです。大いに害になっても、何の参考にもならない人です。だから、嘘や、間違った印象や概念を、決めつけを、先入観みたいに心に貼りつけようと、ごまかし、ごまかし、流し込んでくるのです。
 

その意味で、この言葉はよく納得できる。
(楽山が引用・始め)
そもそも万人にあてはまる子育ての「正解」はない。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68128
(引用・終わり)

 
そして、結論に、何を持ってくるかといえば、
 

結局のところ、人生、教育、価値観、人生観など、人に関するものは、こうでなければならぬと一律に決めつけることはできず、人それぞれとしか言えないことがほとんどではなかろうか。ここは自分もうっかり忘れてしまうことがあるのではあるが、よくよく自戒したいと思う。

 
子育てから、人生、教育、価値観、人生観、つまり殆ど全部に広げて、楽山は、結局、一律に決めつけられない、人それぞれがほとんど、という、個別から、恐ろしく乱暴に、同じ安易な結論で、つまり、子育てというテーマから離れたところで、様々なテーマを、安易にひっくるめて、言い得たと悦に入っているのです。
 
結局、子育てのことではなく、この方向に、記事全体が方向づけされていたことを知ってください。これが、楽山の恣意なのです。
 
これが、楽山という反省と学習と成長を拒否した心の貧困からの物言い、それでも批評家気取りだけはやめられなくて、下種の勘繰りに至るしかなくて、安易に短絡することしか出来ない物言いなのです。「自戒したい」は、白々しいリップサービスまたはカムフラージュだと思います。
 
楽山は、反省する、という、正常な人が当たり前に努めていることが、一貫して、できない、または、しない人です。ゆえに、失敗を認めず、本当の柔和ではなく、言葉だけを軟らかくしたボンヤリ言語にして、出来たと満悦し、しまりのない文章を出してしまうのでしょう。
 
楽山は、決めつけの問題を正面から書けば、誰かを決めつけだと決めつけることになり、また、もともと、自分が決めつけで出来ていることを指摘されるのが目に見えているから、印象を流してゆく以外に、何も書けないのです。
 
ゆえに、楽山は、いつも自分が整っているつもりの位置から物を言います。その位置は、自分でこしらえた薄氷で、そこで溺れ、そこで凍り付き、そこで割れてゆくだけであるのに。
 
 
※ 
 
キリスト信仰においては、何ごとにつけ、出来ることをする、そのように努めることを旨とします。
 
ただし、その結果を総て神に任せるのだ、と言うのには語弊があります。シャロームのようにならないために、自分が行った結果は、自分が受け止めなくてはいけません。
 
しかし、信仰者は、受け止めることで生じる悲しみや辛さを、祈りによって神の前に正直に捧げて、赦しと癒しと導きを願う道があります。その道を信仰と呼んでいるのです。
 
 
(2019年11月07日)
 
 
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