ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。サポートに問い合わせて、ようやくコメントボタンが付けられました。ソーシャルボタンは、コメント欄の上に表示されることも知りませんでした。

 
  共同幻想
 
前に書いたことですが、
 
 
ほぼ恒常的で、ほぼ秩序立っていて、ほぼ双方向の感覚であれば、
人間は、それを感覚に過ぎないとは思わず、幻想だとも思わず、
実在だと思い込む。
 
つまり、実世界は、そのような感覚世界と、つまり、ある意味、共同幻想と、同値である。
 
 」
 
これは、別に、私が考えた新説でもなんでもなくて、高等なことでも難しいことでもありません。共同幻想であることと、実世界であることとは、感覚と心を与えられているだけの人間にとって、同じことだという意味です。
 
つまり、上のことは、この世の現象に実体がなく、神が、神秘の摂理として整った共同幻想を与えるのだと仮定しても、私たちは、地上で実在と同じように暮らしている、ということを意味しています。
 
例えば、仏教では、人間の存在に実体がない、という話があったような気がします。違っているかもしれませんが、空(くう)の思想とかには惹かれるものがあって、聖書では、伝道の書に、似たことを感じていました。存在を否定するものではないのです。
 
そして、このことは、科学によっても、否定することは出来ないことなのです。科学は、どのように現象が起こっているかを追求する学問であり、なぜ現象が起こるかという原因を追求することは出来ません。現象からの帰納によって法則を見出し、事件や観察によって矛盾しなければ、正しい法則だ、という追求の仕方で、世の中を便利にしてきました。
 
科学が追えないし負えないこととして、法則で総てを説明できる世界なのか、ということと、一つの法則は、宇宙の果てでも成り立つか、果てしない過去と未来においても成り立つか、ということです。科学には歴史があり、その始まりはだいたい分かっており、その終わりは人類が存続する間に限られているので、総てを明らかにすることはないでしょう。
 
科学を根拠として、神はいないと言うのは、科学教の信仰?ということになります。
 
したがって、共同幻想ではないことを、科学が証明することは出来ないのです。
 
さて、超常や人間を離れたことの嫌いな信仰者である私が、このような共同幻想の話をするのはなぜかというと、人間が共同幻想を作り出すことは不可能であり、共同幻想を造っているのは何らかの摂理ということになりますが、もし、神が共同幻想の造り主であるならば、・・ということを考えてみたいのです。神と人の違いは、ふつう思われているより、はるかに大きいということです。
 
共同幻想の考えからは、私たちには今持っているつもりの肉体という実体はなく、存在という形無きものだけがあるとして、神が、心と感覚だけを与えていて、ある程度、調和できるような、上の3条件のような世界を、共同幻想として与えているということになります。
 
キリスト信仰の神が、人格的側面を持っているのは聖書から明らかですし、それゆえに、人間に共感できる神です。しかしながら、神は、同時に、宇宙と世界の仕組みと秩序を支配する全能者でもあります。ここでは、宇宙をも支配する神であるなら、私たちが、ふだん思っている人格的な神のイメージにとどまらない摂理としての神の存在も考えてみようというわけです。
 
そうすると、私たち人間が、何らかの意識をもっていたとしても、その神に直接会えるでしょうか、否である、という話なのです。形無き私たちは、神の与えた共同幻想の仕組みについての摂理を目にしたり理解するなどということは出来ないからです。
 
実際そうであってもなくても、キリストの父なる愛の神を想っていても、神の絶対的存在ということを、本気で考えている人は、意外に少ないような気がします。
 
神は、人間の手の届かない次元におられ、そこから、私たちの次元に様々のものを与えることのできる全能の存在であることに変わりはないのです。つまり、人間が、神が神がと、口酸っぱく言えるような、お父さま的な存在だけではなく、果てしない次元を超える存在でもあるということです。
 
つまり、神は、上の共同幻想があってもなくても、私たち人間の、限られた超常ではない認識に、入りようのない存在だと言うことです。万物の摂理を支配する御方は、私たちに、導きという作用を及ぼしても、私たちと、決定的な違いがあることを認識してほしいというのが私の意図です。
 
共同幻想の考えから言えば、幻想を作り出している神に、存在の、それこそ点に過ぎないような、いや、形無きがごとき私たちが、地上において、幻想の仕組みなど知りようがなく、その造り主になど、会えるはずもないと言うことです。
 
もし、仮に、天国で、美しい楽園を与えられ、神に会えたとしたら、神が、天国という幻想と同値の世界を、恵みとして、与えて下さっていることになりますし、地上での私たちの心に与えられる恵みもまた、とても手の届かないところから与えられるものであるということになります。
 
私はそれで十分です。それ以上の責任を負うことは、むしろ、恐ろしいくらいです。それ以上の能力の自覚?は、滅びゆくカルトの持ち物です。
 
神の持つ人格性は、聖書から、神が人間に共感できる性質であることが私たちに分かるということですが、例えば、人間にはとても手の届かないところからの、恵みと赦しと癒やしと救いと導き、神にとっては、たとえるなら、指先を少し動かすだけで足りる、というほどの全能なのです。
 
それで十分なのに、人間は、神をイメージするときに、どうしても、人格をイメージしてしまいます。それで、人格的側面が際立って言われていることは、ある意味、災いをもたらしています。
 
人は、神聖を見たがります。理解したがります。そして、悪いことに、人よりも知っていると言いたがるのです。その典型が、聖書のパリサイ人であり、現代では、キリスト教内外にたむろしているカルトであります。私の焦点が見えてきたと思います。
 
神は、超常も、地上も、摂理として支配する御方です。私たちは、せいぜい日常の、限られた時空を、不完全に知って、そこで、不完全に、動いたり、何かを動かしたりしているだけの存在です。
 
共同幻想であろうとなかろうと、私たちは、神の支配下で生きています、いくらでも言い替えが出来るでしょう、神の掌中で生きています、いつも神に俯瞰され且つ詳細に見られています、神に全てを見られています、つまり、神の前で生きているのです。
 
その上で、神は、赦されることと赦されないことを明白に裁く存在です。聖書から、恵み、愛し、寛容であるとともに、同様に聖書から、戒め、懲らしめることがある、ということを忘れてはいけません。
 
そして、神は、祈りという秘密の小部屋を、すなわち、そのための小さい時空を、人のために、いつも用意して待っておられるのです。
 
私は、それで必要十分なのです。信仰に何が必要十分かは、前にも述べたように、精いっぱい正直な祈りであります。
 
神が、あたかも、身近にいるアドバイザーを兼ねたお味方であるかのように見るのは、また、人についてのことを疎かにして、神の意志と行為を、自身の信仰の知識で説明できると思って、そればかり追求しようとするのは、神の人格的イメージが勝ってしまった信仰?の、人間という被造物としての身の程を忘れた姿勢だと思います。
 
神は、神は、云々と、知ったかぶりで名指しして人間の言葉の粗野な断定の対象とすることなど、決して出来ない存在が、私たち信仰者の、信じ仰ぐ神であります。
 
人格的唯一神は、人格だけではない総ての摂理を支配する全能者です。人は、神の人格性も、全能性も、完全に理解することはありません。
 
私の言っている共同幻想は、神が、人によって限定されないことを示すための仮の理路であります。くれぐれも、逆に、自らの作りだした幻想の確信?に、また他者の作り出した幻想の決めつけに、取り込まれないようにしてください。
 
想い描くところに神はいない(シモーヌ・ベーユだったか?)。この意味は、神が、人間の理屈や想像のイメージなど、何の役にも立たないところから、人間の必要に答えて、その恵みと、甘いだけではない導きを与える御方だということでしょう。
 
私たち信仰者が、聖書を読んでいた信仰の原初において、今までにないような共感と慈しみを体験しているために、いかなる状況でも、祈らないではいられないということです。
 
そこには、共同幻想などという考えはないのですが、いや、幻想だろうが、目に見えない実在であろうが、目に見える総ての物や人や現象よりも、衝撃的に、瑞々しく受け取ってしまうものがあるからなのです。
 
それが、人の心を揺さぶり、解放し、動かすから、信仰者が誕生するのです。
 
つまり、共同幻想という考え方は、一見、総てが空しく思えますが、そういう共同幻想の世界であったと仮定しても、人に共感する神の、支配の内にいることが、心の幸いとなるでしょう。
 
神が人に共同幻想を与えているとしても、人が見るのは、神が幻想を与える姿でも理路でもなく、人の感覚によるものだけですから、証明などは出来ません。あくまで、人の想像と思考の、神についての限界のようなものでしょう。
 
しかしながら、考えることが好きな人や、考えてしまう人にとっては、人間の自由な想像力の飛躍として、現実の目に見える世界に慣れてしまった善と愛の思想から、もはや、生死を超えた生命の、被造物と呼ばれる人間の感覚に対する神の摂理の支配を想うとき、それまでよりも、はるかに大きな次元の絶対者の存在を想像することで、はるかに大きな愛の支配する世界に気づくヒントにはなると思っています。
 
神という存在、そして、神秘というものの、人には決して到達しえない秘密をもって、人は、神に対して、今まで以上に、人という存在の小ささを、不完全さを、その決定的な違いを、知るべきだという目的のための記事でもあります。その自覚こそが、信仰者に人としての敬虔を生み出すのです。
 
 
(2020年05月20日、同日一部修正)
 
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  サディスト
    楽山日記(LD)
 
 『ヨブ記講演』内村鑑三著
 2020年05月17日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24815757.html
 
 
全く反省というものが出来ず、悲しむという感情を持たず、弁明や反論の代わりに、相手を煩わせるだけの目的で、何かをしてくる、この場合、何かを書いてくる者がいます。それをサディストと呼びます。あざ笑うように良心を疲労させることだけを目的とする悪意の体質であります。
 
相変わらず、批判に対して何も反応しない楽山は、キリスト教関連らしい記事を2つ書いてきました。意味のある中身は殆どありません。
 
笑って楽しむのがよい、というようなことを前に言っていたオチャラケの楽山が、また、真顔の批評家気取りで、本を読んで、何かを書いたとしても、もはや、その目的は、嫌がらせと見栄以外にないのです。
 
こういうサディストの心性は、一般に、人を、だまし、傷つけて、うまくいったと思うと、自分が上だと妄想で確認して、それを悦びとしています。高ずれば、殺人的にもなり得る性質です。
 
自己愛と自己中心のために、自分で自分の人格を破壊しているので、視野も思考も概念把握も、猫の額になって、しかも、そこで、確信し、慢心し、固定しているのです。成長に必要な不全感や罪悪感、反省力と学習意欲を、慢心によって、さらに、酔って、気づかないまま潰してきたのでしょう。
 
内村鑑三の『ヨブ記講演』はいつか読もうと思いつつ積読状態が続いていたのだが、今日はようやく開いてみることができた。内村鑑三の文章は難しいイメージがあったのだが、本書は講演録であるためか思っていたよりずっと読みやすくてうれしい。適度に段落分けしてあるのもありがたい。
 
聖書を理解していない反キリスト楽山が、内村鑑三を読むことに、何か意味があるのでしょうか。また、愚にもつかぬ嫌がらせの悪口か、でなければ、舌打ちにしか値しない駄文になるだけでしょう。
 
ヨブ記は、聖書の中でも、解釈が難しく、それこそ、反キリストのネタとして垂涎の的となりやすい聖書の記事ですから、本をダシに使っても、楽山のような、怠慢で、意地だけが強いサディストが正常に正当に読み解くことは不可能だと思います。
 
まずは「第一講 ヨブ記はいかなる書であるか」を読み終わったが、このまま読みっぱなしにするとすぐに忘れてしまうので、ここに内容をメモしておく。
・ヨブ記…発端1、2章、絶頂19章、終尾42章。
・旧約…はじめ17書(歴史)、おわり17書(預言)、中間5書 ヨブ記、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌(心霊的教訓)。
・新約…はじめより使徒行伝まで(歴史)、おわりの黙示録(預言)、中間の書翰(霊的実験の提唱、教理の解明、教訓)。
・ヨブは異邦人…聖書はイスラエルの人々に限らず、普遍的人類的経典であることの証。ヨブは、ウズの地(異邦の地)に住む。
・ヨブ記は文学書としても思想書としても読むことは可能だが、信仰によってこそ了解できる。
・ヨブは神より解答を与えられていないが、それで満足、歓喜している。神との出会いがありさえすれば、明確な解答がなくともそうなる。
 
楽山が、ケチをつける順序のように書いています。一人の成りすましが疑われているところの、楽山やシャロームなどの易坊類として、忘れてしまいそうなら、メモなどせず、しかも、そのメモを、わざとらしく記事に書いたりせず、忘れて、何も書かないことです。
 
趣味で、宗教と宗教人をけがし、何も残らない廃墟の人格で書かれる記事は、存在するだけ、迷惑というものです。しかし、サディストは、それが、生き甲斐なのでしょう。
 
以前、ヨブ記を通読したときは、最後に明確なこたえがなくて肩透かしを食った気分になったのを覚えているが、内村鑑三の言葉を読んで、こたえがないことにいくらか合点が行った。その存在を感じさえすれば、何の言葉がなくとも、癒され感涙にむせび幸福感に包み込まれるという感覚は分からなくもないので…。
 
ヨブ記を読んで、肩透かしを食らった、と言っています。何も読んでいないのと同じです。悲しみの情がない人が読むと、そういう感想になるのか、と思うだけです。
 
ヨブ記は、ある意味、悲劇であり、疑いに結び付く場合もあり、深く信仰について、神について、考えさせられるところなのですが、楽山は、大仰な「癒され感涙にむせび幸福感に包み込まれるという感覚」と強い感情の言葉を書きながら、それは「分からなくもないので…」と曖昧に書くのは、情緒的表現として矛盾しています。
 
こういうところに、既に、情緒面での楽山の欠陥が表れているのです。また、楽山は、白々しい嘘を吐いています。
 
 
 人の運命は決まっている?(詩篇138 [139])
 2020年05月17日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24815564.html
 
詩篇を読んでいたら、運命論と読める箇所があった。
あなたのみ眼はわが生涯を見渡され
それらはみなあなたの書に記され、
わが日々はわたしが見る前に形造られた。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.339)
 
詩篇の箇所を書いていません。ますます、意地が悪くなっています。ここから、また、楽山の邪推で出来ているような文章が続いています。
 
 (詩篇、口語訳)139:16
あなたの目は、
まだできあがらないわたしのからだを見られた。
わたしのためにつくられたわがよわいの日の
まだ一日もなかったとき、
その日はことごとくあなたの書にしるされた。
 (詩篇139:16、旧約聖書)
 
神の全能を讃える詩のようですが、楽山は、この個所を全く受け取っているとは思えない記事を続けています。思考障害でしょうか、症状でしょうか、嫌がらせでしょうか。
 
139章には次のようなことも書いてあります。「あなた」は神のことだと思います。
 
 (詩篇、口語訳)
139:20
彼らは敵意をもってあなたをあなどり、
あなたに逆らって高ぶり、悪を行う人々です。
139:21
主よ、わたしはあなたを憎む者を憎み、
あなたに逆らって起り立つ者を
いとうではありませんか。
139:22
わたしは全く彼らを憎み、
彼らをわたしの敵と思います。
 (詩篇139:20-22、旧約聖書)
 
以前、聖書入門というような本で、聖書はさまざまな文書を集めたものなので、そこからはどのような思想でも導き出すことが可能だという文章を読んだことがある。これが正しい見解だとすれば、聖書の中に運命論と解釈できる箇所があったとしても驚くべきことではないし、それをもってこれこそが聖書の基本的な立場だと結論づけることはできないことになるだろう。
 
信仰は運命論ではありません。生きた人間と生ける神との関係です。このように、謙虚さの欠片もなく、気安く、結論してしまうのが、楽山の悪意に満ちた短絡思路なのです。
 
ひとつひとつの言葉さえ、いつも安易に間違った方向へ意味付けして固定してしまって、何も分かってなどいないのですが、反省と学習の意欲も能力もないために、分かっていない自分に気づかなくなっています。
 
「どのような思想でも導きだすことが可能」というのは、かなり大袈裟で、楽山は、恐らく、大袈裟なまま受け取っているのでしょう。以前からですが、字面通りというか、字面だけしか受け取れない楽山の情けない立場ですから、聖書を語ることなど出来ません。
 
でももし神は全知全能であるとするならば、神は将来何がどうなるかはすでに知っているのだろうし、何を起こして何を起こさないかということをあらかじめ予定していたとしても不思議はないと思える。とすると運命論、決定論、予定説などの細かい定義は一旦脇に置いておくとして、聖書は大雑把にいえば運命論的な立場にあるとしてもそれほど見当違いではないだろうし、その解釈に理があると仮定すればこの後に残る問題は、各人がこれを受け入れるか受け入れないかということだけになる。
 
将来何がどうなるかは知っている、ということが、楽山に分かるとは思えません。全能ということを、恐れをもって受け取ることが出来ない楽山は、極めて浅く、安い概念の通路しか持っていないことが、既に、明らかとなっており、そこにおいても、しばしば、とんでもない曲解と詭弁で、いい気になってきたのです。
 
そういう楽山の、恐ろしく気安い言い分として、聖書を"運命論という小箱"に入れてしまう貧困さは、救いようのないものであり、楽山その人のように、その幼稚さで思考が止まることを意味しているだけなのです。
 
そういう思想の立場などないところから、受け入れるかどうかだけ、などと言ってくる楽山の、聖書を楽山の発展性のない小箱のオモチャにしてしまう堕落した言葉に影響されないでください。それこそ、楽山は、大切なものだけは著しく的を外して、何が分からないのか分からなくなっている人です。
 
ちなみに自分はどちらかといえば前者寄りの立場ではある。以前は運命論には抵抗感があって嫌いだったが、近頃はそういったことにはこだわらない、気にしない方向に進みつつある。なぜそうなったかといえば、それにはおよそ二つの理由がある。まず一つは環境と遺伝は、自分が想像していた以上に人間の思考行動に対して影響力があることを知ったことであり、もう一つはヨブ記を読んでから因果応報という考え方と距離ができたためである。
 
「どちらかといえば」などという言い方で信仰を語ることは決してできません。徹底的に理解がないために、いい加減な言い方しか出来なくなっている楽山です。遺伝でしょうか、環境でしょうか、悪意でしょうか、そのうち、身近なことについても、何も気づかなくなるでしょう。
 
環境と遺伝、因果応報、など、重すぎるテーマを、ちょろっと書いて、言い得たつもりになるのも、楽山の筆致なのでしょう。まことに、読むたびに、身の毛の弥立つような、闇と病のワールドです。
 
善行は報われ悪行は裁かれるという期待から離れて、善行は報われなくとも悪行は裁かれなくとも自分の生き方は変わらない、自分は自分の良心に正直でいるように努めよう、それだけで充分だと思い始めたら自然と運命論に対する反発は薄れてきたのである。
 
また、楽山は、白々しい嘘を吐いています。今までのことから、楽山は、良心に正直、ということから最も遠く、むしろ、良心も正直も踏みにじって、嘘偽りで、もてあそんできたのです。
 
自分が運命論を認め難かったのは、因果応報という御利益信仰のためだったのだろう。他の人のことは分からないが、自分の場合は因果応報の世界の外側を知ることで、運命に納得することができるようになってきたといえる。
 
"因果応報の外側を知る"、どうやって知ったつもりになっているのでしょう。怖い発言です。また、"他の人のことは分からない"となどと言って、今までの、自己中、無反省、無恥、を正当化できるものではありません。自己中は、他者を思いやれない分、必ず、他者を傷つけてゆきます。
 
人は関係の中で生きています。原因があれば結果があり、他者は、楽山に、接近、交流、しかし結局、否定という判断をして、楽山の今の関係性が出来ているのです。その現状に至った運命に納得できるなどというのは、病的に異常な楽山の因業からの自画自賛でしかありません。
 
話はガラリと変わるが、上記の「あなたの書」というのは、まるでアーカーシャの記録について言っているようだ。こういう話の元ネタは古典聖典にあるのだろうから、聖書にアーカーシャの記録について書いているらしき箇所があっても不思議はないのではあるが、生まれつき根がトンデモ好きにできている自分は、こういう発見があるとついわくわくしてしまうのだから恥ずかしい限りだ。こういう悪癖はなおしたいのだが、なかなか難しいのだから残念である。とほほ。
 
(ネットより)
アカシックレコード(英: akashic records)は、元始からのすべての事象、想念、感情が記録されているという世界記憶の概念で[1][2]、アーカーシャあるいはアストラル光[注釈 1]に過去のあらゆる出来事の痕跡が永久に刻まれているという考えに基づいている[6]。宇宙誕生以来のすべての存在について、あらゆる情報がたくわえられているという記録層[7]を意味することが多い。
アカシックレコードが存在する科学的根拠はない[9]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89
 
何ごとも人間の心で受け取ることのできない者が、このような、何でも手っ取り早く分かる話に乗りやすいのは、古今東西、よくあることです。
 
楽山は、飛びついて「わくわくしてしまう」と言っています。「恥ずかしい限り」「悪癖はなおしたいのだが」「とほほ」なら、書かなければよいのです。今日も、楽山の記事は、悪意ある当てつけでオチャラケのようです。
 
楽山は、いつも、努力せずに自慢したいため、こういうところをヌルヌル滑ってゆく、という表れでしょう。そして、自己愛と妄想と曲解で、低劣な戯言を、何を言われても、ねちねち書いてくる根無し草です。
 
1年以上批判されて、何も返せないのに、この軽さが、楽山の人格を特徴づけてきたのです。迷惑だし、求道者にとって有害なだけですから、一日も早く消えてほしいブログだと思っています。
 
しかし、こういう人は、空っぽの自尊から腹を立てて復讐でもするかのように、意地になって、また空っぽの記事を書いて、煩わせ、疲労させてくるのです。
 
言い換えれば、自他の存在を大事にする尊厳としてのプライドなど、全く持っていないのでしょう。だから、いかに人間としての格が落ちても気にせずに、刹那的な感情で、その場しのぎの言葉を吐き出し、それで一人前のつもりで、何事も無かったかのように、平気で、人を大事にしない自尊としての高慢なプライドを持ち続けていられる、などということが出来てしまうのでしょう。
 
これらのことが、楽山やシャロームなどの易坊類を、人間性の欠如した疲労物質と呼び、原始反応と呼んでいる理由であります。
 
 
(2020年05月19日)
 
 
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  涯(はて)の恵み (再)
 
 
私が、いちばん嫌になる伝道~説教の形式がある。
 
これこれを信じますか。
 
この質問形式は、
信じたら信仰者、
信じなかったら非信仰者、
ということを意識するようだ。
 
嫌なのは、
「これこれ」が超常の言葉で溢れていること。
 
超常は
誰にも分らないことだ。
 
何を分かって問うのだろう。
 
さらに超常の言葉を重ねるなら
付き合うことは徒労だ。
 
そこで、何やら、皮肉や、当てつけを言い始める人は
信仰者であることを大いに疑う。
 
 
聖三位の意志と行為という超常について
分かると言う人は信用できない。
 
分かると言う人は
分かっているから考えないし、
 
さらには
神の導きがあり信仰があるのだから
人がとやかく考えることはよろしくない
などという思考停止の
おしまいの方向に行きやすい。
 
分からないという人は付き合いたい。
私も分かってなどいないと共感できるからだ。
 
全知全能の前に
何も分かってはいない人間であると
弁えることが信仰の節操である。
 
神聖について分からないと言うことが
神の前に敬虔であるということだ。
 
分かっていると言う者は魂が砕かれていない。
むしろ完全になりたがって
教条主義かパリサイ人の傲慢に近づいている。
神に義とされることが既遂の前提にさえなっている。
 
神に義とされることは
罪を赦されることと同値である。
これを信仰の義という。
人がその罪深さを告白して
精いっぱい正直でなければあり得ないこと。
 
もとより人に神の義はないが、
完全になりたがるところには信仰の義もない。
 
カルトにしばしば見られる経過だが、
舞い上がって完全になりたがる分
罪の自覚は薄れてゆく。
 
 
人は人について
ある程度分かることがある。
信仰の議論は人事については成り立つ。
ゆえに
"神事を分かると言う傲慢"についても
傲慢は人の持ち物だから
ある程度は批判的に物が言えるだろう。
 
 
時空は果てしないのに
人間の時空の知識と理解が
そこに及ぶことはない。
 
人間には生涯の涯(はて)という限りがあるから
人間は時間と世界の果てしなさに決して勝てない。
 
時空の限られた人間だからこそ
神の前でだけは
精いっぱい正直でありたい。
 
それが出来ないのは
慢心~傲慢によるか、
あるいは気分か何かの変調によって
神聖に救われているのではなく
神聖と一体になった陶酔気分にいるからだ。
 
神聖の立場を欲しがってはいけない。
そこへ気持ちがゆくとき
今は小さい気持ちでも
ゆくゆく
恐ろしいカルトへの誘惑が待っているのだ。
折々に自戒するべきである。
 
 
私たちが信じ仰ぐところの
主なる神は
神の存在と教えと御心について
人の、分かっている、見える、守っている、
という慢心を嫌うと思います。
 
神について信仰について
時空の限られた人間が
それらを
分かった例(ためし)は無いからです。
 
では、どうやって
人は救われるのでしょう。
 
神について信仰について
時空の限られた人間が
本気で祈るのであれば
"悔い改めても無駄だ"というほど
神が不寛容であった例はないと思います。
 
いかなる時も
神のほうから人を見限ることはないのです。
そのしるしがキリストであることは言うまでもありません。
 
神は
人と人の世界の総てをご存知の上で
常に忍耐強く寛容に
人が正直に告白してくるのを待っておられると思います。
 
いつでもどこでも
一時はサタンのように悪くなっても
赤子のように幼稚に泣いても
神は
私たちのために
道を用意してくださいます。
 
いつでもどこでも私たちが迷っても
キリストの愛とキリストへの想いに立ち返り
信仰の道に戻れるように。
 
 
 
私は、カルトとしか思えない者を批判しています。
カルトは嘘と偽善を吹聴することを好む偽善者であります。
 
 カルトに対して
 問題にしていないみたいに
 笑うだけで何もしないのは偽善です。
 できることをしないで漫然としているのは偽善です。
 
 そしてこのように私たちは
 しばしば偽善さえも行なっています。
 罪なき人は一人もいないということです。
 
 そして、そこは、カルトの狙い目なのです。
 超然とすることは、ある意味、放置することであります。
 
 カルトは神聖または絶対が分かるという主張です。
 
 もしそうでなければカルトではなく別の宗教ということです。
 
 カルトは人が持っている完全欲を誘います。
 人は完全になりたいがために
 カルトから教祖を絶対肯定するように
 洗脳~マインドコントロールされてゆきます。
 
 カルトを誤りとするべき理由は、
 カルトの主張は広まれば反社会的になりうること
 そして、カルトの人間に傲慢を見ることはあっても
 世辞や辻褄合わせを聞くことはあっても
 敬虔を見ることがない、つまり、ろくな人間がいないという事実です。
 
批判する自信や能力や適性がないと思う信仰者は
批判をする必要はありませんが、
カルト批判を否定しないでください。
 
さらに、影響を受けやすいかもしれないので、
そういうカルト的なサイトに近づかないでください。
 
カルト批判は、ある意味、獣道を行くことです。
カルトは、そこにいて、そこしか歩けないからです。
つまり、カルトは、人間性を失ったケダモノへの堕落だと思います。
 
 
(2019年05月14日、同日一部修正)
 
(2020年05月18日、一部修正再録)
 
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  子供だましの言い訳
 
 『竒談の時代』百目鬼恭三郎著 2020年05月16日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24803695.html
 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、一転して、今までの心霊や超常の話を、子供の空想話を出すことで、それこそ子供だましの言い訳で、ごまかそうとしています。見苦しい言い訳ですが、楽山は、それで済むと思ってしまう人なのでしょう。恥とか罪とかを知る正常な心が無いのだろうと思います。
 
本書は日本の古い書物にある不思議な話を分類、整理、紹介したものである。頁を繰ってみると、死後の世界や生まれ変わりについての項目があったので、とりあえずその部分だけ読んでみたのではあるが、どうも結論としては、著者の書きぶりからゆくと、それらはみな事実であるというよりも、生きている人々の作り話ということになりそうだ。こういってしまうと何やら身もふたもない話だが、どうもそれが現実であるらしい。
 
「古い書物にある不思議な話」について「作り話ということになりそうだ」と書いていますが、前の記事で「生まれ変わりを信じることができれば便利なんだよなあと思う。」などと言ったのは、楽山です。また、霊が分かるっぽい立場から、たくさんの記事を書いてきたのも楽山です。
 
子供の発達心理学の「心の理論」という話を、霊が分かるっぽい話にしたのも楽山です。
 
奇跡について、循環論法で?分かったかのような捏造記事を書いたのも楽山です。
 
低次元の超常理解で、キリスト教とキリスト信仰と、一般に、宗教を、否定したり、深く信じないほうがよい、などという、わけのわからない信じ方に、おとしめようとしたのも楽山です。
 
はっきり間違っていたことを認めて訂正するのではなく、違うことを書くのは、その場その場で、自分の都合の良いように、いい加減に書いてきた、ということを認めたことになります。
 
まず死後の世界の話については、その形成過程をみると、人々の疑問に答える形で拡充されて行っており、はじめの嘘を正当化するために、後から話をつけ足していっているようだし、生まれ変わりについては眼前の不条理を我慢し、やりすごすために、前世の因業という話をこしらえ、それが広まったということのようだ。
 
ですから、今ここで、逆のことを言っていることは、楽山が、実に、いい加減な人物で、平気で嘘を吐き、その誤りを認めて謝罪~訂正することなく、別のことや、逆のことを、また平気で言うような人であることを表しているのです。
 
しかも、それを他者のせいにして、自分はそれを指摘しているかのような書き方をすること自体が、楽山という人が、極めて、言論というものに対して、非を認めることのできない卑怯者であり、自己中であり、無反省であり、信頼するべき何ものも持たない者であることを表しています。
 
こうしてみると不思議な話は信じ込むのでなく、自分の生活をよくするための方便として聞くか、エンターテイメントとして割り切るのが無難のようだ。
 
今まで、学者気取りで、批評家気取りで、楽山の書いてきたことを、今さら、エンターテインメントだと言えば、それはそのまま、楽山は、遊びで、キリスト教とキリスト信仰をけなし、遊びで宗教や心霊について、ねちねち書いてきたということです。
 
ちなみに余談ながら、自分の周囲にも前世を記憶する子供たちのようなエピソードはある。あくまでも知人の話ではあるが、彼は幼かった頃、生まれる前のことを知っていると言っていて、両親からそんなことがあるわけがないと笑われると、決まってこう答えたそうだ。
「ぼく、お母さんのお腹の中にいるとき、おへそから外を見てたんだもん。だから、みんな知ってるんだもん」
彼は今はもう幼かった頃の自分がそんな荒唐無稽なことを言っていたことはすっかり忘れてしまっているのだが、両親はいまだにこれを笑いの種にするので閉口しているとのことである。
 
楽山が、このように書くのは、今まで書いてきたことなんか、オチャラケですよ、と言っているようなものであり、そのことは、楽山が、いかに、お気楽に、嘘を吐く人であるかを表しています。
 
ふつう、そういう人は、叱られて、書くことを禁止されるか、控えるものですが、楽山には、その気がなく、何とか、冗談として乗り切れると考えているわけだから呆れます。
 
惑わされないためには、読者が、近づかないようにするしかない、という結論になるでしょう。楽山は、嘘を吐いても、罪悪感も羞恥心も感じない人だということです。
 
想像するに、こういうことは子供なりのユーモアで言っていたことであろうし、それならば生まれ変わりがどうこうと真面目に受け取る必要もなく、このご両親のように朗らかに笑って楽しむくらいが丁度いいのだろうと思う。
 
笑って楽しむのがいいといっています。子供の話ならば、それでいいのでしょう。楽山は、子供でしょうか。いいえ、楽山は、大人として、実に長い間、宗教や心霊や超常のことを書いてきました。
 
すでに、うんざりするくらい、都合の良い本を引用して、大きなテーマについて、空想~妄想話を書いてきて、今さら、子供の話を結び付ける詭弁で逃げようとすることによって、ますます、楽山の悪意が明らかになっています。
 
楽山は、底知れない悪意の人、または、病識のない異常人格です。
 
 
(2020年05月17日)
 
 
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  輪廻にすがる芝居
 
 読書と輪廻 2020年05月14日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24778863.html
 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、今回、まるで少年のような、読書と思想に憧れる純真な心で記事を書いている、のではなく、そのような純真に見せかける芝居をしていると思います。
 
初めて楽山日記を見る人は、ちょっと読むと、書いているのは少年だろうか、と思ってしまう、ということを狙っているのでしょうか。しかし、「残された時間を意識しはじめる年齢」、と書いていますから、今も、子供じみたことしか書けないくせに、無反省で学習しないままの未熟な中高年ということになります。
 
もし、純真な人であるならば、批判されていることに、平気ではいられないはずです。何か反応し、書くのをやめるか、なぜ批判されるのか、について問うてくるはずです。
 
実際には、楽山は、どれだけ批判をされても平気で無視して、同じことを、幼稚だろうが、無礼だろうが、妄想だろうが、平気で書いてくる人だ、という恥を知らない実績が、既に、私のブログに資料として残っている段階です。
 
そのことを知っておれば、純真どころか、それこそカルト妄想家そして策略家の成人、あるいは、狡さと頑固さだけを身につけた老人、あるいは、幼稚なことしか言えないのに一人前の振りをする見栄っ張りの頑固な夢想家としか思えないわけです。
 
しばらく前に、『岩波文庫解説総目録1927‐1996』を古書店で見つけて購入して以来、ずっと積読状態だったのだが、先夜から寝る前にあちこちつまみ読みしている。
ビジネス書100冊とか、名著100冊とか、古典の要約をまとめたものとか、その類の本はそんなに読みたいとは思わないのだが、どういうわけか目録を眺めるのは昔から好きではある。
でも、はたと気が付いたけど、若い頃は目録を見るたびに「これ読もう」「これも読もう」とわくわくしたものだったけれども、今は「これ読めない」「これも読めない」と若干しょんぼりした気持ちになってる(笑)。自分に残された時間を意識しはじめる年齢なので、ついついそうなってしまうのだ。
 
問題は、ここからです。楽山は、しょんぼりするような人ではありません。むしろ、しょんぼり、とか、シュンとなる、という、しんみりした悲しみや落胆を感じることのできない人だと思います。
 
だから、しょんぼりという悲しみの情感を書いたのに、気安く「(笑)」を入れてきます。文脈にも年齢にも合わない書き方になるのは、自他未分化のまま生きてきたことの表れなのかもしれません。
 
こんなときは、つくづく、生まれ変わりを信じることができれば便利なんだよなあと思う。それを信じていれば、こんな風に考えることができるだろうから…。
 
ここの、生まれ変わりを信じることができれば、と言いながら、"便利"?という言葉でつないでいるのは、ここも独特の気色の悪い「(笑)」が付きそうなことを書いている、むしろ、バカにしているのではないかとさえ感じます。
 
つまり、宗教について、実感もないし真剣に考えることもない人の筆致です。
 
「人生に無意味なことは一つもない。努力が無駄になることはない。仮に今生では報われなくても、来世で報われる。今生での学びは魂の奥底に蓄積され、来世できっと役に立つ。 現代の日本では、古今東西の古典名著が翻訳出版されており、安価で購入できる。図書館を利用するなら無料で読める。人類史上、これほど恵まれた時代はなかった。この時代に生まれ合わせておきながら、それらの本を読まないではもったいない」
 
ここでは、それこそ、輪廻バンザイとでも言うようなことを引用しています。「無駄になることはない」「来世で報われる」「来世できっと役に立つ」と持ち上げるのは、煽動家の筆致です。
 
そして、「読まないではもったいない」という引用で、輪廻への興味を煽り、実際は、それこそ、楽山にとって輪廻がネタになることを自認しアピールしたいようです。
 
輪廻思想は差別を生みやすいという欠点もあるが、来世への希望によって努力を促すというよい面がなくもない。生まれ変わりを信じる人々がいつの時代にも存在するというのは、こういう風に何らかの利点があるからなのだろうな。
 
輪廻しましたという証拠も、輪廻するという根拠もないのですから、輪廻は、想像上の仮説であり、宗教的な思いです。この世で、つらいときに思い描いて、慰めにする人もいるでしょうし、個人の思いにとどまっておれば個人の信仰の自由、という部類の話です。
 
しかし、楽山の筆致は、煽りの後、輪廻思想という思想が既に正しいと認められているかのような批評の書き方になっています。差別をが生みやすい、というのは、どういうことが、説明していません。ということは、これから、いつものように、ねちねちと書いてくるのかもしれません。
 
ならば、楽山が、これから、ボンヤリ言語で書いてくるかもしれない輪廻の話については、楽山と同じ軽さで、悲しみさえも「(笑)」って語るであろう楽山の言には、読者のほうが「(笑)」をつけて、読者を笑ってバカにしている姿勢を、丁寧語とボンヤリ言語でごまかしてくる楽山を、冷静に見てゆく、という態度が必要になります。
 
しかし、楽山の書くことなど、読まないのが安全策です。楽山には、今まで、約2年、いつの日も、命という重要なテーマについて、宗教や思想について、真剣味を装うことはあっても、真剣に考えて書いた内実は一度もなかったのです。
 
今までの私のブログという資料からは、楽山は、真剣味のない、心霊家気取り、批評家気取り、インテリ気取りで、しかも、嘘吐きで、不屈の、訂正不能の、意地っ張り、厚顔無恥、見栄っ張りです。ぬるぬるした油膜のような、手ごたえのない文章を書いてくるでしょう。
 
 
(2020年05月16日)
 
輪廻(りんね)
煽る(あおる)
 
 
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