ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  オカルト楽山
 
 『反オカルト論』高橋昌一郎著
 2021年04月08日 楽山日記(LD)
 
 
オカルトについて書いていますが、楽山の、霊が分かるっぽい自覚とか、心理学の「心の理論」を心霊に結び付けるとか、進化してゆく動物→人の形質についての進化心理学という科学を悪用して霊能力の根拠として書いたりとか、現実と幻想の境界不明瞭な楽山の言こそ、嘘・詭弁のみならず、人格障害からの精神障害、そして、オカルトとでも言いたいものです。
 
(ネットより)
人間行動進化学会は、進化心理学を「社会学と生物学の視点から、現代的な進化理論を用いて、感情、認知、性的適応の進化などを含めた人間の本性を解明する学際的な学問」と位置づけている[1]。
・・・
現在から過去を推測すると、ある形質が種内の個体の多くに普遍的にみられる場合、その形質は進化史の中で生存・繁殖の成功に役立つ何らかの機能を果たしてきたと考えられる。特にヒトの場合に広く見られる精神的・行動的形質をヒューマン・ユニバーサルズと呼ぶ。この適応という観点は、実際に多くの心理メカニズムをそれが正しいかどうかはともかく、合理的に説明できる。
 
進化心理学は、科学であって、どこにも、心霊の要素はありません。楽山が、こう言う詭弁を弄するのは、恐らく、勉強もせず、学習もしたくないから、安易に、霊によって特別な立場を得ようとする幼稚な子供だましなのです。
 
本書では、スピリチュアリズム、STAP騒動、旧石器発掘捏造事件、未来医療研究会、くじ、占い、江戸しぐさなど、一般にオカルトとされるものだけでなく、研究不正、迷信、歴史認識といったさまざまな事柄が問題視され、批判されている。ただそのなかでもスピリチュアリズムのフォックス姉妹とSTAP騒動の小保方晴子氏については、とりわけ詳しく、大分の紙幅を費やして語られており、本書のなかでは大きな山場になっている。
 
いつもの楽山の、こんなに読書しました自慢です。言葉だけ、だらだらと並べています。楽山の考え方を少しでも書いてしまうと、楽山のの不可解な思考と理路の破綻が表れてしまうからでしょう。
 
楽山は、言葉を、学習することなく、自分を飾る素材にしてきただけなのです。だから、実のある言葉を何も書けなくなっています。何を聞いても読んでも自分の言葉の素材に出来ないので、借り物の自分を飾る素材にしているだけなのです。全くの児戯であります。
 
その内容について簡単にふれるとするならば、まずフォックス姉妹については、彼女らが降霊会におけるイカサマ行為を告白した背景には、恋人による説得があったとのことである。当時、マーガレットは、国民的英雄であった冒険家エリシャ・ケインと深く愛し合っており、彼のために真実を告白し、降霊会で人を騙すのはもう止めるつもりだったというのだ。しかしその後、彼は突然の病で急逝してしまい、彼の実家とは不仲であったマーガレットは精神的にも経済的にも悲惨な状況に追い込まれてゆくことになったという。
 
イカサマ行為、告白、恋人、急逝、悲惨な状況に追い込まれ、・・・この話、オカルト論として、何の意味があるのでしょう。オカルト関連のゴシップでしょうか。
 
楽山は、読書においても、このように、著しいピント外れを呈し続けてきたのです。挙句の果てに、空想→妄想によって、カルト→オカルトになってきたのは、楽山その人であります。
 
オカルトを信じている人にしてみれば、「反オカルト論」には興味は持てぬかもしれないが、そうであってもこのマーガレットの恋愛について書かれた第五章だけは読んで損はなかろうと思う。このロマンスは巷の恋愛小説よりも悲しく切なく感動的な話であるし、これを読んだら大概の人はマーガレットの晩年の暮らしぶりについて同情はすれども、冷淡な感想は持てなくなるにちがいない。
 
共感性のない楽山が、ごまかしのために、いくら、学者のような教える書き方で、「悲しく切なく感動的な話」「同情はすれども、冷淡な感想は持てなくなる」と書いても、情緒を表す言葉を並べただけであることを示しているのは、まさに、楽山の今までの記事とコメントのカルト信条的な冷たさなのであります。
 
STAP騒動については、類書では語られていないこととしては、幸福の科学への言及がある(pp.130-139)。大川隆法総裁が小保方晴子氏を擁護し、HSUに勧誘していたこと、小保方晴子守護霊の霊言の内容紹介、霊言を基礎とした教育を目指した幸福の科学大学は不認可とされたこと、過去世認定のおかしさ、大川隆法総裁の長女の卒論盗用報道など、よく調べられている。この部分は信者には承服し難く不快ではあろうが、それ以外の人なら興味深く読めるだろう。
 
真実追求ではなく、ゴシップ好きの楽山は、ゴシップ的な話題に夢中になるのでしょう。つまり、他者のことを論(あげつら)うことしかできないのです。それを、学者みたいな言い方で、「興味深く読めるだろう」と言っていますが、そういう読み方が出来ないのは、まさに、楽山自身であります。
 
楽山は、真実を求める姿勢を持ちません。人より上に立つ特別な自分を見せるために、分別も理路も共感もなく、整わない文章を、平気で書き続けています。自分が気持ちよくなるために、何を言われても無視して、不感不応で、何事もなかったかのように、中身のない記事を書いて来れるのです。
 
楽山のような自己愛性人格障害者は、病識も自覚もなく、無反省に無責任に、ここまでやってしまうという症状が、楽山日記であり、他にもある楽山ブログであり、楽山のツイッターなのです。
 
楽山の、前のHNは、自由でした。楽山という言葉は中国由来でしょうか、楽な山から、自由に物を言いたいようだが、自由には責任が伴います。責任を負わない者に、自由はないのです。
 
楽山の子供じみた自由は、どこにも通ることはないと思います。無責任ゆえに信頼度はゼロ~マイナスという実績から、楽山に言論の自由を認めてはいけないと思います。楽山は無視する人ですから、楽山の書いてくるものに対しても、批判目的以外では、無視してください。
 
 
オカルトからの

オカルトからの
 
 
(2021年04月10日)
 
 
 
 「第十五講 ヨブ終に贖主を認む」
 (『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年04月09日 楽山日記(LD)
 
 
良心のない楽山は、聖書も、神も、ヨブも、遊び道具にしています。したがって、書けば書くほど、何も理解していないことが、明らかになってゆきます。だから、引用に終始しているのです。
 
「第十五講 ヨブ終に贖主を認む」の要点を抜き出しつつメモ。
「第九章の研究」。
ヨブは「友の無情を怨じ、またその憐みを乞う」。
しかし友らの態度に変化はない。
ヨブは後世の判断を期待して、自らの言葉が書きとめられ、書物となり、岩に刻まれることを願う。
しかし後世の人々も、友と同じ人であるにすぎず、何らの望みも託すことはできぬこと、および「我を贖う者」は神の他にありえないことを知る。
 
ヨブが神を恐れていることが表されている箇所であります。信じるがゆえに、信じる神に、単に神に苦しめられていることを嘆くのではなく、神に訴えているという信仰者らしいところでもあります。神も宗教も、いつも鼻で笑っている楽山には決して起こらないことです。
 
「ヨブは己の義を証するもの地上に一人もなきを悟りて、遂に神においてそれを求めるに至ったのである」。
 
ヨブは、まだ、自身が受けた試練の意味を知りません。また自身の罪を知りません。
 
さらには「神は遂にある時ヨブの無罪を証明すると共に、ヨブを苦しめし三友を罰し給うであろう」ことを確信する。
「ヨブは友の攻撃に会えば会うほどますます明かに、ますます高く、ますます深く信仰の境地に入るのである」。
 
神は、ヨブを無罪とはしていません。いかに神に従っているように見えても、神の前に無罪の人はいません。楽山は、また、最後に神が顕れ、ヨブがひれ伏すことを無視して、間違った方向へ、印象操作をもって、読む人をだまそうとしています。
 
「ヨブは苦難を経て贖い主を知るに至り、その苦難の意味がよく解ったのである」。
「信仰は由来個人的のものである。社交的または国家的または人類的のものではない」。「我らは人類と共にキリストを知るのではない、一人にてキリストを知るのである。今の人はとかく一人にて神を知らんとせず、社会と共に国家と共に世界万国と共に神を知らんとする。これ大なる過誤である」。
 
ヨブが、苦難の意味が分かるのは、神が顕れたときであります。分かったのではなく、神を求めているのが、この章であります。「一人にてキリストを知るのである」は、至言であります。神は、その存在を政治的に集団的に知る、あるいは、知ることが出来る存在ではありません。
 
この講を読むと、人は自分を知る者のために命をも捨てるとか、信仰は個人的なことで、ただ一人、神と向き合うものだということがよく納得できる。
 
「人は自分を知る者のために命をも捨てる」と言っている楽山は、どうして、ここで、そういう解釈になるのでしょう。まだ、九章では、ヨブは、神の前に、ひれ伏してはいないのです。
 
楽山は、信仰を持っていないからであり、そのくせ、厚かましく、「よく納得できる」と言っています。嘘です。これは、楽山の自己顕示欲からの、分かっているんだという無理な主張です。ここは、ヨブも、読者も、納得するところではありません。
 
また西郷隆盛の言葉を思い出させるところもある。 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という言葉だ。
これは人ではなく、天、神と向き合おうとするところはヨブと同じだろう。ただヨブは対立者への報復を考えているのに対して、西郷隆盛にはそういう感情は見られないところは正反対ではある。
 
「ヨブは対立者への報復を考えているの」ではなく、自我の主張をしています。楽山は、何を読んでいるのでしょう。恐らく、聖書そのものをも読んでいないのではないかと思われます。
 
ヨブは、対立者ではなく、神に訴えているのです。西郷は、人格において、天という広い視野を想っているのでしょう。ヨブは、信仰において、その危機を叫んでいるのです。西郷を引用する個所ではありません。
 
いつも対立者への報復を考えて、企んでいるのは、楽山であります。
 
神による復讐についてはパウロも書いているし(ロマ12.19-21)、この辺りの聖書の考え方にはどうしても馴染めないのではあるが、これが異文化ということなのだろう。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)12:19
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 (ローマ12:19、新約聖書)
 
不完全で罪深い人が復讐をしても義とはされない、復讐は神に任せよ、という意味が、楽山は分からないので、異文化という言葉で済ませています。信仰が分からない人の言い分です。
 
「馴染めない」のではなく、悪魔のような楽山には、分かることはないのです。楽山は、分からないことを分からないと言えないので、分からないことは「異文化」という短絡で済ませるのでしょう。
 
分かろうとする姿勢が、今まで一度も表れていないのだから、理解したと言えば嘘になり、分からないとは言えないものだから「異文化」と言って済ませるとは、無責任なエゴの楽山らしい態度です。恐らく、これからも、自己中の楽山が、聖書に親しむことも馴染むこともないと思います。
 
 
(2021年04月10日)
 
 
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  努力と我執2
 
 2020年04月03日
 宗教的な不可知論者?(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 
 
楽山には、自分がどれだけ的外れか、自覚がないのです。かつ、一言も、反論も弁明も成り立ったこともないのに、書き続けるのは、意地を超えた病理があると考えるしかないでしょう。
 
今回も、身の丈に合った書き方ではなく、ボンヤリ言語で断定して悦に入っているようですが、こういう楽山の執拗さと粘着性は、"仏様の心が分からない親族に驚いた" という彼の記事のように、当たり前に霊能者としての訂正不能の自負があるからなのでしょう。
 
その霊感の表れを示すのには、ことごとく失敗しても、限界を感じるわけでもなく、恥を恥とも思わず、反省も学習もなく高じてゆく末路には、自分を認めない者たちへの復讐として、やはり、社会悪に近接してゆく危惧が大いにあります。
 
努力と我執は違うのです。楽山は、霊が分かるっぽい自覚から、努力せずに、一気に獲得できる真理への、実は怠慢根性の、安易なショートカットを選んで、いつか、評価されて褒められる、という悪夢を見続けているのでしょう。
 
この2年余り、楽山の記事を読んで批判してきたことから、楽山は、神を、否定することも、肯定することも、信じることも、できない人だと判断しています。この手の哀れな人に同情して関わると、同じように、かわいそうなほど悲惨な地獄に巻き込まれるでしょう。
 
本に紹介されている体験談を読んでいると、これは自分と同じだと感じることが時々あるが、自分にとってはこの文章がまさしくそれだ。孫引きになってしまうのではあるが、こんな風に不可知論的になりながらも絶対的実在を感じるというのは本当によく分かる。
二十歳から三十歳までの間に、わたしはだんだん不可知論的となり、無宗教的になったが、しかし、現象の背後にある絶対的実在についてのあの『ぼんやりした意識』――ハーバード・スペンサーは巧みにこう呼んでいる――まで失った、とは言えない。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.100)
 」
 
楽山は、哲学者ジェイムズの体験談を「自分と同じだと感じる」そうです。理性も情感も、オモチャの作り物のように、いい加減なのに、学者か批評家気取りの自らに満悦して、肩を並べている気分でいるのでしょうか。ストーカーを見るような気味の悪さを感じます。
 
少なくとも、キリスト信仰については、楽山は、否定することにも、肯定することにも、何一つ、着手できていません。それで、学者の名前を出して、しかも、「ボンヤリ」という引用までして自慢したいのでしょうか。身の程を知らない楽山は、学者の"実在についての表現"に、"自分のボンヤリ"を当てはめています。
 
理屈で無宗教と言い、理屈で宗教と言っても、信仰は理屈ではないという部分を、楽山は、信仰について、自分の言葉で、書くたびに詭弁と循環論法が明らかになるほど、何も言えていないのです。ゆえに、また、詭弁だらけのお粗末な理屈だけで宗教を考えて、無宗教になった、ということは、ほとんど意味がありません。
 
信仰は理屈ではなく、信仰がなければ宗教は、資料に過ぎず、資料だけなら、それは、楽山の詭弁の記録と同様、信仰として何の意味もないからです。楽山は、一度も神など信じていないのに、徒労から徒労に逃げながら、いい気になっているだけなのです。
 
とはいえ当然のことながら他人の経験や思惟が何から何まで自分と同じだということは有り得ないので、この文章と自分との間に相違点がないでもない。たとえば自分の場合は、不可知論に向かい始めたのは二十代ではないし、絶対的実在に対する感覚はぼんやりとしているというよりは、真夏の太陽の光がじりじりと肌に感じられるほどにリアルである。ここは上の体験者とは違っている。
 
「真夏の太陽の光がじりじりと肌に感じられるほどにリアルである」・・じりじりと苛立って、かつ、他者を苛立たせるだけの徒労の的外れが楽山です。病識がないので、開き直ったかのように「ぼんやり」を見つけたら、見せつけるように入れてくるし、どう批判されても、平気で無視してくるのです。自分の言葉を持たない慢心したカルトの特徴です。オカルトに近いかもしれません。
 
楽山は、神を知りえないとする不可知論ではありません。反キリストであり、神否定であります。キリスト教とキリスト信仰とキリスト者に対する侮辱によって快感を得ているに過ぎません。いちゃもん屋に過ぎないのに、言論者を装う見栄だけで生きているのです。
 
ちなみにこのリアルさは、人には人知を超えた絶対的存在については確たることは何もいえないが、それでもそれは実在するだろうことを予感するいわば宗教的な不可知論者でいるときはもちろん、手持ちの材料から検討する限りにおいては、どうも創造主というようなものは存在しないようだという無神論寄りの不可知論者になっているときでさえもさほど変わらないのだから我ながら不思議であり、おかしくもある。
 
絶対的存在について、「実在するだろうことを予感する」なら無宗教ではないですし、ならば「いわば宗教的な不可知論者」などと言っていることは気取っているだけの矛盾に過ぎません。人格が崩壊に向かっていることが文章に表れてきたのでしょうか。
 
楽山は、今まで、幼稚に、単純に、屁理屈で、いちゃもんで、神を、舐め続け、否定し続けているのです。信仰者なら決して出来ないことをして、不都合を聞かずに無視して、自分だけの、押し入れの中の孤独な快感を舐めているだけなのです。
 
楽山の思想の根源は、神と人について、皮相だけを舐め続けている、というシンプルな表現しかありません。とても、良心も、思慮も、成り立たない者の立場あるいは倒れる場でしかないのです。そこで、楽山が、一人前に立っているつもりで書いてくるのは、滑稽としか言いようがありません。
 
不可知論は、楽山が前に引用してきた無神論とは違います。神を知り得ないという考えであり、神の意志と行為を人が確認できないという意味においては、神を恐れよ、という教えとともに、私も、神は不可知という立場であります。どう思い上がったら、神を知り得るなどという、私に言わせれば、背教発言が可能なのか、こちらが聞きたいくらいなのです。
 
一方、不思議ではなく、不可知でもなく、楽山は宗教も信仰も知らないのです。心に受け取ることもないし、信仰など持ったことはない。そういう内容しか書いていないのです。したがって、楽山が宗教を語ること自体が無意味なのです。
 
「無神論寄りの不可知論者」というのは、ひどい言い方です。不可知論は、神が不可知であることを表しており、無神論ではありません。楽山は、矛盾なく知ることなしに信じることはない、という考え方のようですが、人が神を矛盾なく知ることなどありません。
 
自分の非を認めない自己愛性に凝り固まって、本当に、何度も何度も幼稚な言葉で、誤謬と詭弁を弄して、楽山は、信仰とは何の関係もないことを宗教として、実に無意味な、まるで、茅(かや)の草むらの中を走るときに出来る傷のような、うっとうしいだけの嫌がらせを続けています。
 
誰にとっても、感動も意味も価値もなく、自分は批評家だ、自分は学者と同等だ、という自尊過大の執着を捨てきれないナルシシストの成れの果てなのです。
 
この感覚がどこから来るのかについては、宗教的にはそれこそが神の存在証明とされそうであるし、進化心理学的には進化の過程で獲得した本能の誤作動による錯覚とされるのかもしれず、自分には一体何が正しい答えなのかは判然としないのではあるが、ただ少なくとも自分にはどうもこの感覚を消すことは無理であって、もし仮に自分が無神論にどれだけ傾倒したとしても、無神論的有神論者、無神論的不可知論者くらいまでにしか進めず、根っからの無神論者には決してなることはできないだろうということだけは確実のようではある。
 
そもそも、信仰は論ではないし、楽山が、宗教と、進化心理学などとを、並列するところから、宗教と信仰に対する無理解と真っ赤な嘘の詭弁が始まっているのです。楽山は、論者ではないし、論者だったことも、この2年間、ありません。
 
そのベースは、心理学の「心の理論」を、楽山の曲解と妄想によって霊能の話にしている妄想思考に明確に表れています。ひとかどの人物を気取り続けるナルシストであり、何を言っても、修正されることのない妄想的確信なのでしょう。
 
"本能の誤作動"は、楽山が、宗教について語り出してから、ずっと起こっていることです。錯覚と見なされるのではなく、殆ど楽山の妄想なのです。感覚を正すことが無理だという妄想的な誤認識ですから、良識をもって高慢な思いを自ら戒めない楽山は、全く健全ではなくなっていて、もはや、読む人を誤作動に誘導・誘発しかねないほど有害であります。
 
名のある他者の理屈をなぞって、同僚同士であるかのように賛否を云々するほど、楽山は、思い上がるだけで、楽山の書いてくる文章は、思考と感性の第一歩から、今まで、何か分かったという結実を示せていないことが、楽山の妄想的自己愛の精神病理を表しているのです。
 
楽山の宗教観は、ホラーアニメや、霊の話、というような、趣味の見物が、楽山というフィルターを通して、楽山によって、宗教であるかのように吹聴されているものであり、楽山の言は、無と無駄を小脇に抱えて気づくこともなく、無病識の高ぶったフィクション・空想・幻想・妄想のペンを走らせて、公共に向かって発せられる迷惑メールのようなものです。
 
自分は別に無神論にそこまで入れ込んでいるわけではないのではあるが、ただそれでも根っからの無神論者には世界がどのように見え、何を感じるのかということは自分には決して知り得ないだろうことは残念であり、物足りないような気がしないでもない。結局のところ、人は自分の視点からでしか世界を見ることはできず、他人の見ている景色は分からないものなのだから、こんなことを残念がっても仕方ないのではあるが、それでもやっぱり残念ではある。
 
無神論にも、有神論にも、キリスト教にも、キリスト信仰にも、一歩も、入り込めないのが、楽山です。彼が、「入れ込んでいわけではない」のではなく、入れ込むほどの知識も感受性も、今まで示しえたことがないということです。楽山が、今まで表したのは、劣悪な詭弁と悪意だけです。楽山は、残念がっても仕方のないことに、勘違いで、残念芝居をしているだけです。
 
楽山の言は、全くの自慰行為であり、他者の意見のうち都合の良いものだけを取り上げてくる態度は、それもまた的外れになって、独りで書いて独りで笑っているだけの反復運動に過ぎません。自らの愚かさに目をつぶって書けるなんて・・と思うほどの厚い面の皮です。
 
バクテリアが、顕微鏡下で、細かく震えているように見えるのに似て、実は、主体としての存在をなしていない楽山が、真面目に考える人々を、惑わすか、苛立たせるだけで、収穫のない培地に巣食って、自覚もなく、学者気取りだけで棲(す)んで、誰も答えないところで、どんなもんだいと、得意顔で、凄(すご)んで悦に入っているだけなのです。
 
他人の見ている景色が分からないことは、他人の見ている景色を無視する根拠にはなりません。他人の見ている多くの異なった景色の表現から、思慮において学ぶこともあり、また、自分の視点を執拗に書くことは慎むのが大人ですが、楽山は、自分の視点から世界を見て、それをしつこく書いて、かつ、的外れで著しい見当違いであることに気づかないだけなのです。どうしても、一人前の学者か批評家のように振る舞いたい欲望の執念の虜(とりこ)なのでしょう。
 
一部の読者に、やさしい人柄だと、宗教と信仰の記事だと、これがキリスト教だと、平気で勘違いさせようとする分だけ、迷惑で有害です。
 
学習と我執は違うのです。
 
 
我執の澱

我執の澱(おり)
 
 
(2020年04月04日)
(2021年04月09日、加筆して再録)
 
 
※ 
 
 大人の教養TVで、幸福実現党について解説していた
 2021年04月06日 幸福の科学とは何だろう?(楽山)
 
*大川隆法の夢
ところで、宏洋氏の動画で、大川隆法は総理大臣になりたがっていたとしているが、この話の真偽については、大川隆法が自身の過去世をなんと言っているかを考えれば、容易に見当はつくと思う。
大川隆法は、自身の前世は、釈迦、ヘルメス、リエント・アール・クラウド、トス、ラ・ムーなどとしており、釈迦が王子だった以外はすべて王だったとしているのだ。生まれ変わりというものは、さまざまな家柄に生まれ変わるものだろうに、大川隆法は自分は常に王族として生まれ変わってきたというのである。
こういっては何だけども、このようなことを公言する大川隆法という人は、自らの理想、願望に正直な人であり、分かりやすい人である。
 
楽山の認識の偏奇が表れています。総理大臣になりたがっているとか、生まれ変わりがあるものとして、過去世が王だった、さまざなな家柄に生まれ変わる、などという話が必要でしょうか。
 
それより「ヘルメス、リエント・アール・クラウド、トス、ラ・ムー」について説明しないのでしょうか。さらに「自らの理想、願望に正直」「分かりやすい人」と言っています。実に奇妙な精神です。あるいは、悪意だけの、楽山からの皮肉なのでしょうか。
 
批判する気なら、それは妄想だと言うべきなのです。しかし、言えないのです。同じ穴のムジナだからです。楽山こそ、根底を流れている妄想性のベースからしか発言できないことを表しているように思えます。
 
楽山も、自己愛からの、根拠のない、霊が分かるっぽいとかの、実に奇妙な妄想に生きているからでしょうか。批判しているような、ご機嫌取っているような、まとまりがなく軸のない者が、他者のことを言えば、こうなる、という例でしょう。
 
楽山の思考は、成長し熟成するということがありません。いつも、思いつきの段階で止まって、そこで、訂正不能になってゆきます。ゆえに、深みを思うことも、悩むことも、悔いることも、反省することも、自己の責任を考えることも、一度もないということを、気にしないでいられるのでしょう。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
愛情不足のために、一体感を求めて不純異性交遊にはしる例もあるという話を読んだことがある。
親が子との時間を大事にし、夜は添い寝するようにしたら、子の不純異性交遊がなくなったと。
二世信者に性の乱れがあるとして、それは肉欲ばかりが原因だろうか。
午後9:47 · 2021年4月6日·Twitter Web App
 
愛のない楽山が、他者の愛情不足を批判しています。よく書けるものだと思います。人に寄り添うということの出来ない楽山です。もし愛すべき人々を大切にすることが出来ていたなら、今までの、無反省・無責任・無理解・無神経・破綻の経過は、なかったはずなのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·2時間
エネルギー自給率を上げることは大事ですが、あまりにそれを求めすぎると、水からガソリンを取り出すというようなトンデモ詐欺に騙されかねません。山本五十六でさえ、その被害にあったといいます。お気をつけください。
 
自己愛から、神の真理と理屈を出す、というようなトンデモ詐欺のペテン師が、楽山です。付き合えば付き合うだけ、精神神経の疲労という被害に遭い、気づかないうちに、人格を破壊され、奴婢にように、おとしめられます。くれぐれも、気をつけてください。
 
 
(2021年04月09日)
 
 
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  返信(3)超常と人間
 
 
コメントありがとうございます。
 
さて、聖霊について、改めて自分で考えてみることにしました。
至ったのは、聖霊とはキリストが、神が心の内に住まわれた状態であり、その心に従うことなのではないかと。端的には、キリストへの愛ではないかということです。[1ヨハ2:20-]
信仰があれば、聖霊が降りる。キリストが約束されたこと。
 
聖霊については
1.神が心に住んだということが人間に分かるかどうか。
2.その心に従うことが出来ているかどうかが人間に分かるかどうか。
3.信仰があれば聖霊が降りるが、降りましたと実感として経験しているかどうか。
という問題になるでしょう。
 
教派によっては、信徒は、聖霊様と呼び、昨夜も聖霊様とお話ししました、などという発言もあるかに聞いています。この問題には、人が、自己暗示して、そういう気になり、それに聖霊の名を与えてしまうという問題があります。念じればその気になる、という心理的思い込みから、求めれば聖霊と話が出来る、ということになりはしないかと危惧しています。心の中の一種の偶像ではないかと。
 
自分で思い込んだ心の中の偶像との区別がつくのだろうか、区別がつくのなら、その人は、聖なるものを見分ける聖なる分別の能力があることになり、それは、人間が聖人レベルになったということを意味していて、それだと、信仰は超常現象ということになります。本当なのかという疑いは、私がずっといだいている疑問です。超常が手に負えるのは、超常の神聖なる御方だけですから。
 
神聖が与えるから分かるようになるといっても、心の中に生じたものを、人間が、どう区別できるのだろう、信仰があれば分かりますと言われそうですが、私の信仰は、超常に生きるためではなく、この世界の日常を生きるためだと思っているので、実感として、自分が、超常の存在の意志と行為を確認できるとも、できるようになるとも、思えまないのです。
 
私たちは、正直な祈りの生活において、知らず知らずのうちに、神によって、恵まれ、運ばれてゆくのだろうから、いつも、神の民として相応しく、神聖に対しては仰ぐ姿勢しか持っていない人間として生きていないといけないと思っています。
 
聖書を読んで、キリストが、どういう人を救い、どういう人と対立したか、ということを学びました。その学習は、キリストの洞察力と共感力つまり愛であり、一生涯、忘れてはいけないし、忘れないだろうと思います。キリストについては、大事なことを学習できるわけです。
 
聖霊はいないとまでは言いませんが、人間が、それだと確認できる御方ではなく、祈りにおけるキリストと神の臨在以上の認識は、私は持っていません。聖霊は、キリストの臨在がなくなることはないという意味ではないだろうか、あるいは、神の御心に沿うような心の働き以上ではないような気がします。
 
キリストの愛に答えて、聖三位に対しては、愛することが大切ですが、それが、完全には出来ないのが人間です。神聖を愛する以上に、聖なる自分になりたがる傾向を戒めて、神聖を恐れる必要があると思います。ゆえに、神聖のなさることを、自分に結びつけて、聖霊が云々と言うようになってはいけないと思います。
 
聖書というのは、超常現象がたくさん書かれているわけですから、聖書に書いてあるから、あるんだという理解の仕方では、信仰は超常に付き合うことになってしまいます。先ほど描いた、キリストによって、誰が救われ、誰が敵となったか、ということを考えれば、そこから、神聖に対しては、恐れをもって、へりくだって、祈ることしか出来ないと思っています。
 
キリストの臨在や神の導きと区別出来ないというのはごもっともと小生も思います。神と直接的交信が旧約、新約でキリストを介した神との交信を経て、今は私たちの直中、神殿である体に宿るのが聖霊と捉えます。
 
そこで、聖書のどこが事実であったかという話になるでしょう。それよりも、事実であった、説教のための神話つまり作り話だった、どちらも決めつけてはいけないのです。聖霊を人の理解で捉えてはいけないと思います。聖霊が、私たちの気づかないうちに、私たちを捉えるのです。神聖なる聖三位は、いずれも、そのような御方として、私は恐れています。
 
聖霊が信仰を強め、聖霊が掟を守らせると言われます。従いたいと思う気持ちは、聖霊の働きであると。キリストが心の内に住まうこと(聖霊)で、信仰が強められ自らの意思がキリストに添うように働くこと。そこにキリストへの愛があれば自ずと果たされるということではないでしょうか。
 
ならば、捉えられておればよいのであって、あたかも身近にいる御方のように、あるいは、概念として理解しようとしたり、机上に置いても、言動においても、捉える必要も能力も、人にはないと思っています。
 
掟を守る事がすべてとなるような偽りの信仰は、なんとなく現代の偏った独りよがりの愛を彷彿させるのです。説かれただけで分かることのほうが少ない。私たち人間は、知らないものは想像もできない。体験したことのない愛を体現することなど毛頭できない。できると思うなら、それは知っているつもりの愛でしかない。知らない愛の在り方を教えてくれるのが聖霊で、それには、信仰それ自体が地についていなければどうにもなりません。自分の醜さを認めることのできない醜さこそが、信仰を邪魔しているように思います。
 
信仰それ自体が地につくためには・・というテーマになります。それは、聖霊をはじめ、聖三位の存在を、どう受け止めるかによるので、堂々巡りみたいな問いになりますが、大事なことは、人間として受け取れることだけを、受け取って考えるのが、信仰者の信仰のあり方だと思います。
 
知らない愛のあり方を教えてくれる聖霊という考えは聖書的であり教理的でもありますが、人間の不完全さを思えば、むしろ、知らない愛のあり方を知るようになるところに、神の支配も、キリストの臨在も、聖霊の導きも、人に知らせず、働いている、あとになって、そうだったのかな・・くらいの感慨にとどめておかないと、やがて、聖霊の行為を断定し期待し始めるようになる危惧を感じます。
 
神の御心が、祈れば分かるとばかりに、自分で考え判断することを放棄しどこからともなく聞こえる声を待ち望む。これは人間でありながら人間性を忘却する・葬り去ることだとは気づきもせずに。見た夢は神の啓示だと思い込む。啓示がないのは、行いが至らない(戒律を守れていない)からだと、自分の信仰の在り方をそっちのけで傾倒していく。
 
自分と自分の今までの生き様を思えば、聖霊を受けて、何か正しくなり、高潔になり、神の御心に従っているとは、直感として、とても言えない、ということは分かるはずなのです。
 
一般的にも視野狭窄し、教理の概念だけに集中したり、人間として考える努力を怠り、神聖へ、超常へ、と向かう傾向は、稀ではないようです。信仰は、人が人として生きるためにあります。人が人間以上になるためではない、ということを肝に銘じたいと思います。
 
>戸田様の執筆ペースを乱しているのではないかと
 
執筆というほどのものではないですし、考える機会を与えられて感謝です。拝。
 
 
超常と人間

超常と人間
 
 
(2021年04月08日)
 
 
  楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·2時間
OR、HSは、日本の領土、経済、国民の生命財産などは守るといっても、日本の文化伝統は軽視してます。
日本の領土、経済、国民の生命財産は守っても、文化伝統が失われたら、それは日本を失うことであり、日本を守ることにはなりません。
OR、HSには、この点に注意してほしいです。
午後8:26 · 2021年4月7日·Twitter Web App
 
防衛問題、日本の文化伝統の軽視、というような国の重大問題を語るのに、楽山は、「日本を失うこと」とまで言いながら、結びには、あっさり「注意してほしいです」とだけ書いています。お店か何かで、気をつけてくださいね・・と同じ程度の、クレームか小言を言うような書き方です。注意してほしいと言えば、良くなる問題でしょうか。責任を負わないで、逃げ口上ばかり書いてきたツケが回ってきているような気がします。
 
理路のテーマの重大性の認識を表すのに、表現の強さと重みがバランスを欠いています。結局、楽山は、危惧というものを、真剣に考えていないのだろうと思います。あるいは、日本語の語彙とセンスが、不自然な気もします。楽山は、日本人なのでしょうか。
 
 
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  逆説2
 
 
ある事柄について神の御心を思います。
悪のほうに従ってはいけないと思えば
善のほうを選ぶはずです。
しかしそれは完璧でしょうか。
 
先ず、人に、善悪の判断が、
神と同様に正しく出来るでしょうか。
否であります。
 
既に完璧な正しさについては不可であると
何度も書いてきました。
 
人の語る正しくて人生肯定的なことが
神の御心とは限らないということです。
 
かといって否定したら正しい
というわけでもないのは明らかです。
 
では、少なくとも成長するために
どう学習すればよいでしょう。
 
世の中には逆説というものがあります。
多くの格言が
そして何より聖書の言葉が
逆説に溢れています。
 
否定には闇の部分が含まれ
闇の部分を知る者は
闇によって、
その逆である光を知るのでしょう。
 
さらに人の言葉は
飼いならされたかのように月並みになり
人を裏切ることがあります。
 
逆もまた真なりとも言いますが
人の言葉では
逆のほうが真と思えることもあるということです。
 
逆説は、必然の光なのです。
 
罪を犯さない人が救われるのではなく
罪人だからこそ救われるとは
 
罪を犯すから救われるということではなく
罪を犯す人間という自覚があるから救われる
という説明が可能な逆説なのです。
 
人はみな罪人であるのに
信仰によって罪はなくなると言う者は
信仰を理解してはいない。
 
詳しくは知らないが
仏教に似たような教えがあるのを
知っている人は少なくないでしょう。
 
善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや
(歎異抄 by 親鸞)
 
他力を頼むことで往生を遂げる教えだと書いてありました。
https://1kara.tulip-k.jp/wakaru/2016111279.html
 
キリスト者において他力とは
神の赦しと導きと救い、すなわち、神の力に他なりません。
 
それほど、人の頼りなさを知っている人の言葉なのでしょう。
 
キリストも、また、いかに人が頼りないか、いかに罪深いか、
いかに闇が多くを支配しているか、ということを知っている御方であったと
聖書を読めば分かるはずです。
 
親鸞については
高校のとき通っていた教会の牧師さんが
親鸞の言うことはキリスト教に似ていると言いました。
不思議なことだと思って
大学の時に「歎異抄」(たんにしょう)の小さい文庫本を読みました。
問答の部分は、私の性分でしょうか、私には分かりにくいものでしたが
他力という言葉が心に残りました。
私自身が、自力について、絶望に近かったからです。
 
多くの私の記事にも表れている通り
キリストについて書くのと違って
私が自分発信で書く私個人のことは
失望、落胆、絶望、自虐に溢れているのです。
それは、今も、多くそのままであり、
それゆえに、赦しと癒しと救いを必要としています。
 
罪を犯したり災難に出会うのはつらいことですし、
加害であっても被害であっても、
信仰が育つから良いことだなどと言いたいわけではありません。
 
ただ、そういう機会には、誰もが出くわす可能性があり、
そういうときに、"過剰に" 被害的・他罰的にならないために、
また、そういう体験が尾を引いて後の人生を損なうことのないように、
信仰は、世の中や個人の思惑に左右されるよりも、
より大きな心によってコントロールされる生き方がある
という福音でもあるのでしょう。
 
嘘と詭弁で人を操ろうとするカルトの主張に惑わされることなく、リップサービスや、豪語や、飾り言葉や、電飾や、お祭り騒ぎに呑みこまれることなく、この地上の闇に目を向けることを忘れないことが、光を求めるために必要だと思っています。闇を知ることで、人は、光を知るからです。
 
 
私は、キリスト信仰のことを書いてきましたし、これからも、生きて書けるあいだ、キリスト信仰について書いてゆくつもりです。
 
キリスト教内外のカルトは、大きいこと、めでたいこと、救われること、恵まれること、ありがたいこと、安心することばかりを、これからも語って、人を惑わしてくるでしょう。
 
彼らは、戒める神と懲らしめる神を無視しています。にもかかわらず、恣意的に聖句を引用しては、大仰に、神を讃えます。讃美すれば熱心な信仰だと、高をくくる連中をキリスト者として認めないために、私は、ずっと批判を書いています。
 
彼らカルトは、罪を認めたくないがために、神を誉めておけばよいと思っているのです。それも、人を欺(あざむ)くためであり、本気で讃美する信仰など欠片(かけら)もないのです。そのような、讃美が偽りであり、罪を認めない者たちに、神が、信仰の義を与えることはなく、不法の者として処することは明らかであります。
 
 
  信じて信じて
 
一見あの世を信じ
この世を諦めているように見える信仰も
あの世の天国に望みを託しているのは
あの世の幸いのためだけではなく何よりも
今のこの世を生きるためにそう信じている
 
したがって
いかなる知恵と知識に満ちた信仰も
例えば
山上の垂訓から
神の前に
身の程が情ないものだと気づいて
死ねば天国へ行けると単純に信じて
信じて信じてそれだけを
望みとしている信仰に優るものではない
 
 
  神とキリスト
 
この世から見れば神の正しさは
分からないのが正常です
 
神様は不公平です
神様は不平等です
神様の計画は理解できません
神様は不平等に才能と運を与え
神様は不公平に貧富を作ります
神様の御心はわかりません
 
これらを感じないで
神を讃えるのは信仰ではありません
 
神は全能だから
人の正直な気持ちを既にご存知です
 
理解を超えた全知全能に
耐えられないから
全知全能の父なる神
お近づきに
なりたくありません
 
もし神様が来られたなら
恐れおののき
あわてふためき
逃げられないと知りながら
逃げ惑うでしょう
 
けれどキリストが来られたなら
列の一番後ろでもいい
岩陰からでも木の陰からでも
覗(のぞ)くだけでもいい
ついていきたいと思うのです
 
主イエス・キリストは言われました
「今悲しむ者は幸いである」
そして悲しい生と死を歩まれました
 
全知全能には耐えられないから
我が主はイエス・キリストです
神様への祈りも
神との和解も
神の愛も
キリストにおいてしかなく
だから人間としては
共感の救い主キリスト以外の
神を知らない
 
 
(ずっと昔+)
 
 
逆説

逆説
 
 
(2020年04月01日、同日一部修正)
(2021年04月07日、再録+)
 
 
 楽山に筆致が似ている人ですが
 
raku
@rakusyo34
·2時間
ひとの人生にどうのこうの言える資格はないと思った。
その人にはその人の景色しか見えないと思ったから。
木しか見えていない人に、森全体が見えている人が、あなたおかしいよと言っても伝わらないことと一緒。
午前0:57 · 2021年4月4日·Twitter for iPhone
 
楽山は、人の人生に大きな影響を与えることのある宗教について、特にキリスト教について、否定して、どうのこうの言ってきました。楽山には、楽山の欲望しか見えていないと思います。
 
我欲しか見えていない人に向かって、おかしいということは、誰も、おかしな人に、これ以上近づいてほしくないことを、できるだけ多くの一般の人々に伝えるためです。
 
森全体が見えている自覚で物を言っているのは、楽山ですが、それは妄想で、実際には、森全体が見えている人などいないと思います。
 
皆、限られた視野しか見えていないから、情報交換も、他者の見識も、必要になります。そこに、しゃしゃり出てきて、整わない余計なことを言って、疲れさせたり、混乱させたりしているのが楽山です。
 
楽山は、倒錯した邪悪な思惑によって、真実の追求のための言論や交流を邪魔して、幼稚に偏ったことばかり言い、真剣味もなく、「(笑)」や「ハハハ」などのように、勝ったつもりで、ほくそ笑みと、あざ笑いと、高笑いを向けてくるのです。いつ見ても、現実離れした言い分が、とても醜いです。
 
 
(2021年04月07日)
 
 
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  返信(2)
 
 
先日コメントをさせていただいた者です。
返信をどうもありがとうございます。
今回も非公開コメントとして送信いたします。
人を信じすぎる、と言われてしまったからでしょうか。不確実性の中で、無自覚な共依存が増大し、自分の判断、考えというもの、それこそ自信(自分の責任)が保てない乱暴な社会になってしまっているように小生も含めて感じています。
 
様々な共依存が支配しているように思います。縛りと気安さがあると思います。そこで、同じことを言い、讃美し合い、団塊となるのが、安心なのでしょうか。そこから離れると、言い知れぬ不安・孤立感・孤独に襲われるのかもしれません。
 
できることは、極めて限られているけれど、この地上で、精神において個として自立するために、神聖の存在を信じているのに、そこでも集団への従属が強いられているところがあるのでしょう。
 
私は、一人の信仰者として信仰を持つ者を思う気持ち(愛)を示されている戸田様の言葉を贈り物として受け取っただけです。神の御前で人間である自らの正しさを疑う姿勢、謙虚で敬虔な姿勢について共感を抱きました。
 
「自らの正しさ」が否定されて、疑いに満ちた行き場のない状況で、キリストの共感と、神の寛容が、救いになっていると思います。
 
信仰こそが人を救う、それが最も尊重されることならば、その神髄を聖書全体が通して語っているはずで、それに気づかせていただいたように思います。私はメシアニックという立ち位置から聖書について学んでいましたが(互いが互いを補足しあうという事から旧約も新約も通しで。無意味なものを神はこの世に残されはしないとも思い…)、基本的には聖書が説くのは宗教ではなく、神と私(人間)の関係であると思っております。響くことしか受け取らない、というのは本来の形かもしれません。それこそ聖霊の成すことなのかもと思います。
 
私は、聖三位のうち、聖霊という存在が、いまいち、分かりにくく、キリストの臨在、神の導き、ということと区別できずにいます。いずれも目に見えない御方ですが、神については旧約に、キリストについては新約に、その言動が記されているので、どういう御方か、少なくとも想うことが出来ます。嘘を嫌う御方だろう、そして、愛と共感に満ちていて、不完全な被造物である人を救う意志のある御方だろう、そして、とても、寛容な御方なのだろうと思っています。
 
聖霊については、ヒントさえも書かれていないような気がして、霊+聖で、聖霊と言われても、概念上の言葉のようで、ピンときません。
 
今、信仰に情熱を持ち、自分が正しいと信じ、隣人愛を前面に押し出した多くの宣教者を目にします。(聖職者ではないです)「隣人愛から私は●●をしている、自分は謙虚、神の言葉を代弁している。」と言い、ただ…何かが違います。キリストもパウロもこんなことを口にせねばならなかったことはないのです。
 
この宣教者の発言は、自慢ですし、「神の言葉を代弁している」と言った時点で、自らの罪性を無視して、絶対性と無謬性を唱えているので、私に言わせれば、人の立場を弁えない背教に思えます。
 
正しさの根拠は、歴史であり、書物であり、科学であり…人が作ったものです。そのどれが正しいと判断するのも人間で、まるで謎解きが出来たことを知らしめているだけのような怖さを感じます。心情が異なると根拠が異なり、順じて説くことが異なってしまうのです。聖書は万人のためのもの、なのにです。
 
謎解きが出来て何でも分かっているつもりになっているところが、既に、おかしいわけです。こういう発言を見るたびに、人間の、罪性、不完全、非絶対性、ということを再認識します。信仰者であろうと、聖職者であろうと、同じですから。
 
「キリストにおいて生まれ変わったら人間の罪の性質はなくなるのだから、信じたらそれはもうない」と豪語する人たちは自分の偽りに気づけていないように思うのです。そうであるために、たくさんの戒律を守るのです。個人的には、戒律を守ることで本当に嘘偽りなく罪を遠ざけられ、またそこに確信(不完全である自覚)が伴うのならすべきだと思いました。キリストは『法律や預言を廃止するために来たのではない』と仰いました。
 
律法を成就するために来たという聖句があったと思います。パリサイ人は、律法を、戒律として守ればよいという主義によって、人間の深い心情を損なっていたからだろうと思っています。キリストの言葉は、律法のための人、ではなく、人のための律法、という意味の成就だろうと思っています。
 
私たちが本当に生まれ変われるとしたら、それは肉であるこの体がなくなるときではないのでしょうか。
 
よく分からないのですが、生きているあいだ肉は付いていますから、死ぬ時という意味でしょうか。死後のことは人には分からないので、神に任せるしかないと思っています。
 
だとすれば、そういう超常のことより、もっと、地上で、倒れそうな時に、死んでしまったような気持ちから、生きてゆこうと思い直すという人間の人生の再出発のことを人の復活として考えたいです。
 
こうしてお話をさせていただきながら思うことは、『わたしの軛は軽い』『自分の十字架を背負って』というのも、多分『授けられた信仰の度合いによって』と同様に、各人が信仰を何と心得るのかで軛も十字架も異なり、それは自由意思の範疇にあるのかもしれません。伝わり辛い思考・表現かもしれません。
 
『わたしの軛は軽い』・・キリストが、人々の罪を背負って十字架につくゆえに。キリストが与える荷は軽い、キリスト者への縛りは自由意志を妨げるものではない、というくらいの意味に受け取っています。おかげで、今、自由に考え、書いています。
『自分の十字架を背負って』・・十字架は、罪のしるし、しかし、罪なきキリストが負うたゆえに、逆説的に、信仰による解放のしるしとなっていることでしょうか。
『授けられた信仰の度合いによって』・・信仰者それぞれに、役割・使命は違うということでしょうか。生きて証しを立てるか、死んで証しを立てるかを含めて。
 
私は、聖書にはすべての答えがある、そう思って勉強していました。今も、まだそう思っています。何が何のために、そしてなぜ創造されたのか(自分も含めてです)。何がどうして善とされ悪なのか。どこからきて、何を全うしどこへ行くのか。神は分別を教えてくださると思っています。しかしそれを行うのは自分で、神は自由意思を最大限尊重されるお方です。でもだから、人間の私はいつも不完全です。
 
聖書と信仰生活上の体験とでしょうけれど、私は、何らかの楽しみをもって、祈りの暮らしを送れたらいいと思っています。
 
私たちが生涯理解することのない皆無・零から万物を創造された方の偉大さを、それを想像することですら成しえない無力さを、信仰の理由にしています。なくても生きていける人がたくさんいるのに、弱い私は考えずにいることなんてできない。これからもです。
 
キリスト者として共感いたします。拝。
 
>※記事についている写真と一言、個人的には楽しんでいます。
 
手持ちの画像が少ないので、色を変えたり、文字を入れたり、
・・似たような画像が多いと思います。失礼。
 
 
これも、記事にしたいと思います。
 
信仰は、人間としての、思慮においては分別、情においては共感であります。
 
 
共感3

共感
 
 
(2021年04月06日)
 
 
※ 上の記事とは別儀であります。
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·7時間
初期のHS本では
批判は、自分の至らぬところを教えてくれ、さらには自分の名を広めてくれる有り難いものだとか
自分は間違ってなくとも、相手が怒っているなら、自分の何かが相手を不快にさせたのだろうから、そこは謝るべきとしてたと思う。
この点、荒井氏はHSよりも心の教えに忠実ですね。
午前6:45 · 2021年4月5日·Twitter Web App
 
楽山は、至らぬところを指摘しても、返してくるのは、いちゃもんだけで、不感不応の無視であります。楽山は、自分の名を広めるためだけに書いてくるとしか思えません。書かないと自尊が保たれないので、衝動的か、反射的に、性分だから書くのかもしれません。
 
楽山は、アンチHSではありません。楽山という自己愛性人格障害者は、幸福の自分教の奴隷であり、言ったことの責任を負う気などありませんから気をつけてください。宗教の教えとか忠実ということから、最も遠い人です。楽山の言うことを真に受けないでください。
 
楽山の詭弁は、丁寧語に隠れて、直ぐには気づかない人が多いかもしれません。私も、数か月、楽山の嘘と詭弁に、だまされ、すかされ、ごまかされ、はぐらかされ、疲労しました。
 
よって、その場で短いことを書く感じのツイッターベースではなく、おもに、じっくり考えて書けるブログ記事ベースで批判を続けています。ツイッターにもコピーはしています。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4月4日
信者は減ってない、増えていると主張するとは、
大きく出ましたな。ははっ。絵文字(笑った顔)
 
楽山は、真実を分かち合うという姿勢がなく、ただ「ははっ」と笑うことで満足するようです。人が、いさかうのを、楽しんでいるようです。人が、自分に負けるのを、悦びとしているようです。誠意の欠片もないと思ったほうがよいです。
 
 
(2021年04月06日)
 
 
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(古い記事は載っていません)
 
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