ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  煽動者楽山2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。
 2021年09月12日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
「見てみた」と軽く読書をして、無神教カルトの学者らしい人を、べた褒めする楽山の記事です。大袈裟に賛同するだけで、何の洞察力も直観力も理路もない楽山の稚拙な筆致と貧相な中身を見てほしいと思います。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の暗夜を徘徊する楽山です。
 
 
*ドーキンスの名言
「リチャード・ドーキンスbot」を見ていたら、名言がたくさんあったので、自分なりの感想をメモしておきたいと思う。
*超越者としての神
もし神が存在したとしても、それはどんな宗教のどんな神学者が提唱してきたどんなものよりも、はるかに巨大で、はるかに理解しがたい存在だろう。
 」
これはまったくその通り。神は人を超えた存在であるなら、人の思念の外にはみ出しており、その全体像はおろか、一部でさえも認識するのは困難だろう。
 
神の不可知と不思議は、当たり前のことです。何人も、神をこの世の事物のように対象には出来ません。人間に、さらに、楽山ごときに、分かる存在ではないのです。だから信じないのなら、黙っておればよいのに、欲求不満と自尊過大から、文句ばかり言っているのが楽山であります。
 
楽山は、神に会うこともなく、神を感じることもないでしょう。いくら、楽山が、自然の驚異や超常話で、神を語ったことにしようとしても、この2年半、全く、罪を認めず、敬虔も皆無なのは、神を知るための感受性がないということだから、何を言っても無駄なのです。
 
楽山には、宗教など語らず、それよりも、小学校の道徳を身に着けてほしいです。そこが、無反省・無責任のために出来ていないから、今も、厚かましく口出しをするわけでしょう。楽山は、書くたびに外れ、書くたびに醜く、書くたびに知能が低下してゆくようです。
 
神は不可知ということをもって、単純に短絡して、神を否定したい楽山ですが、この主張こそが、信じて、仰ぐ、という希望のスタンスを、全く、理解できない証拠として、これからも、無神教カルトの醜態は続くのでしょう。
 
 
*旧約の神
『旧約聖書』の神は、おそらく間違いなく、あらゆるフィクションのなかでもっとも不愉快な登場人物である…血に飢え、民族浄化をおこなった人間。女嫌い、ホモ嫌い、人種差別主義者、幼児殺し、大虐殺者、実子殺し、悪疫を引き起こし、誇大妄想で、サドマゾ趣味で、気まぐれな悪さをする弱い者いじめだ
 」
自分の第一印象も大体このようなものだった。旧約の神は、当時の絶対権力をもった王様がモデルになっているという指摘も、さもありなんと思える。
 
自らの不遇を、あらゆる災難を、神のせいにばかりする人もいるんですね。実際は、歴史の悲劇も、昔の物語も、皆、人のわざを見たからこそ書かれているのです。これを、不愉快だというのは、自分の不完全さも罪も欠点も、何も見ないで、他者を責めるような人物だと思います。
 
 
ただ自分は繰り返し聖書を読むうちに、神は人に何度裏切られても、その度にゆるし続けていることに気付かされ、その慈悲深さに涙がこぼれる思いをしたことがあるので、旧約の神を峻厳だが人を慈しむ存在だと信じる人がいたとしても、その気持ちは理解できなくもない。
 
「ゆるし続けて」「慈悲深さに涙がこぼれる」・・これは、楽山の自己正当化の嘘だと思います。楽山の涙を信用してはいけません。もはや、楽山が書いても、あざ笑いの履歴から、全く信用できなくなってしまっているところの、感動とか涙とかいう大根役者の大袈裟なセリフなのです。
 
昔も今も、信仰者にとって、神は、この世の成り行きを支配する御方として、その全能の権威を恐れ、罪深く病んでもいる人間に共感するキリストとして、その救い主の慈しみに癒され、ゆえに、祈り、人間らしい共感という愛の、同伴にに支えられて生きる恵みであります。
 
 
*神様いろいろ
ありえそうにない話ではあるが、もし仮に死後に神に会ったとしら、最初に私が尋ねるのは、そうだね、「あなたはどの神さんですか?」ということだろうね
 」
これは笑える。巷には各宗教の神々はもちろん、神を自称する人々も無数にいて、神様のおしくらまんじゅう状態であることを思えば、こういう挨拶もやむなしだ。
とある人は「石を投げれば神様に当たる」と言っていたけれども、これは至言だ。
 
神を自称する人と、神は違います。楽山のように神を笑う人と、信仰者も違います。楽山が、いくら石を投げても、当たるのは、楽山が妄想している偽物の紙細工だけであります。神を、十把一絡げにして遊んでいる楽山は、やがて、紙屑になるだけだからです。
 
楽山は、その思念の中で、自分独りで、おしくらまんじゅうをしているのです。それで、神がどうのと言うのだから、全く話になりません。神の大安売りをしている楽山には、決して、関わらないでください。楽山というペテン師の安物の伝道者気取りの被害に遭わないように。
 
 
*個人的な体験による神の存在証明
個人的な体験をもとにした論証は、神の存在を証明できると主張する人々にとって、最も説得力のある証明である。しかし、そうでない人にとって、そして心理学をよく知っている人間にとっては、最も説得力のないものである
 」
かつて自分が所属していた宗教団体でも、大体このような論法がされていた。信者が語る奇跡体験によって、「神の存在が証明された」「この宗教が本物であることが証明された」と結論づけるわけである。
 
心理学は、基本的に、神については語らない、そして、語れないと思います。全く分野の違うところから、神について語る者を信用してはいけないです。心理学の心理は、あくまで、人間の心理であります。まさか、心理と真理をごっちゃにしようというような安い詭弁ではないでしょうね。
 
個人の人生の必要と、個人の妄想的な思い込みを、ごっちゃにしている楽山の詭弁です。信仰を必要とする人は、神がいかに不可知でも、神を信じ仰ぐしかありません。そういう信仰者を、根こそぎ否定するのが、楽山であり、この者からは、何の助言も考察も真実も生まれることはありません。
 
 
人の記憶は書き換えられることがあるだとか、人は関係ない二つ以上のものを結びつけて因果関係があると思い込んだり、偶然にすぎない事柄にも自己流の意味を見出そうとする癖があるということにはまったく注意を払うことなく、自分の実感を最優先にして結論を出し宗教的喜悦に浸っていたのだ。
自分は心理学のことはよく知らないのではあるが、上のような信者の主張を聞く度に、その自我の強固さと、そのことに対する無自覚さに圧倒される思いがする。
 
人の記憶が書き換えられることがあっても、楽山の妄想は病理なので消えることがありません。これからも糞尿のように気色の悪い妄想的断定をしてくるでしょう。事実の意味付け、宗教的喜悦、自我の強固さ、無自覚さ、などは、皆、楽山において、訂正不能に強烈です。
 
「心理学のことはよく知らない」・・楽山は、何を知っているつもりで、図々しく書いてきたのでしょう。「自我の強固さと、そのことに対する無自覚さ」・・また人のことを言って、自己愛妄想の自分を見ない楽山です。またブーメランなのです。強固というより訂正不能なのが楽山です。
 
 
*おまけ
「新無神論bot」では、ドーキンスのこんな言葉が紹介している。
【無神論】我々は、かつて人類が信じてきたほとんどの神々について無神論者である。一部の人間はその信仰しない神が一つ多いだけだ―リチャード・ドーキンス
 」
これはたしかにその通りだ。無神論は悪とする人であっても、自分が信ずる宗教以外に対しては無神論者になっているものだ。
 
まず本質的に、どの神も信仰する宗教はありません。ここでは、神という名で、みんないっしょや・・とばかり、同質であるかのように扱っていることが、悪意ある詭弁であり、全く理路の欠片もなく、人間としての分別もない楽山の高い病害性と犯罪性の証拠となっています。
 
 
唯一の神は信じるが、その他の神々は信じないという者と、すべての神々を信じないという者とは、信じない神が一つ多いか少ないかということだけ…。この違いは大きいとするか小さいとするかは人それぞれであろうが、自分にはどうも後者のように感じられる。
 
楽山は、神を知らないので、恐ろしいことに、神を、物を数えるように、数えています。どの宗教についても勉強しない者が、黙する分別を持たず、偉そうに書いて、人それぞれの詭弁で、視野の狭小を、ごまかしています。見識皆無の証拠です。だから、神々という言葉が便利なのでしょう。
 
唯一神という言葉を書いておきながら、楽山は、「その他の神々」と言って、無理解を明らかにしています。万事こういう感じです。これで、キリスト教についてクレームを書いてくる身の程知らずなのです。楽山は、個人の信仰という視点が全くなくて、普通名詞で神を扱っているのです。
 
普通名詞で語るなら、楽山が、神と言うとき、それは、神ではないということです。神について、楽山は、何も語っていないということです。それを混乱させるのが楽山の悪だくみです。楽山は、ずっと、書くたびに嘘吐きなのだから、永久に物を言わなくなってほしいと思います。
 
信じないなら、信じなくて結構ですが、ならば、神も、信仰も、知らないということだから、実感も共感もないのです。そこから、知ってるつもりで神を云々することは、絵空事に悪意を含ませて、高く売りつけるような筋違いも甚だしいペテンです。
 
神を必要としないなら、信じる必要もありません。ゆえに、その人は、信仰の世界を知りません。だから、楽山が、必要としない存在について、知りもしないのに、即ち感受も理解もしていないのに、とやかく語ろうとするのは、児戯にも値せず、醜い自己顕示欲以外の何ものでもないのです。
 
 
(著者ドーキンスの笑った顔の写真、省略)
それはそうと、この画像はちょっと怖い。ハンサムな人だし、もっといい写真を使えばいいのに…。
 
酒でも飲んでいるのか、あざ笑っている悪魔のような顔にも見えてきます。楽山は、同じように笑っても、ぼんやりしているだけのような気がします。自分の顔を持たず、何も書けないものだから、また、他者の口を利用しているのが、卑怯で腰抜けの楽山です。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という病質によって、心の共感性がないのでしょう。だから、ホラーや超常などの話をたくさん書いて代償しているつもりですが、信仰は、心に受け取る賜物ですから、いくら書いても的が外れてしまうのは当然なのです。
 
楽山には、そういう不全の自覚がなく、自己顕示欲だけがあるために、ハナタカに書けば書くほど、顎が外れ、デタラメとなり、インチキとなり、害毒となり、迷惑となり、真実をけがすことになります。即ち、様になっていないのに、分かったふりをする、まさに、貧相な裸の王様なのです。
 
 
神を決めつけるのはキリスト教系カルトです。
 
神の不在を決めつけるのは無神教カルトです。
 
キリスト信仰は、個人の唯一の希望の同伴と信じて、神に祈り、キリストを愛することです。
 
 
笑っても怒っても締まりのない心

笑っても怒っても締まりのない心
 
 
(2021年)
(2022年09月21日、再録+加筆)
 
 
 
キーワード:卑怯
 
 
  夜の向こう岸
 
死者たちに見られているような
影の卑怯な歪(いびつ)さは
深まり広がる陰の暗さに
昇り沈む星々を隠されて
夜の彼岸に近くなる紫の顔や肢体のようでもあり
血まみれの上半身のようでもあり
それなのに一方で
やさしい顔で見守り
守ってくれてさえいるような
彼岸の人たちは総て知っているのに
招いているのか呼んでいるのか
拒んでいるのか憎んでいるのか
視(み)てさえいないのか
此岸(しがん)は何も教えてはくれない
ただそんなとき
管に詰まった結石が
管を切り裂きながら
内部から飛び出して
転がって小さく
もっと低く小さいところから
完璧な出血を
乞いたがっているような
寄る岸のない疼(うず)きのうちに
やがて沈まない北の星が
空に沈んでゆく頃
死者たちが見ていてもいなくても
誰がいてもいなくなっても
影は別の日の
汗に濡れている
 
 
  遠ざかるもの
 
遠ざかるものに呼びかけてはいないか
危うきものよ
あるいは君子でござるよ
君子が近寄らないのを
引き寄せようと焦ってはいないか
自業自得の危うさを
誰かの所為(せい)にしてはいないか
あるいは流れ
避けられぬ移ろいでござるよ
寒い朝と夜に震える間も
危うきものよ
森も山もこれから
枯れて華やかに色づくというに
一枚の落ち葉のゆえに
卑怯にも
遠ざかるものに呼びかけてはいないか
近づくものから逃げようとしてはいないか
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、真の仲間はいませんが、言葉だけ勝手に引用する対象は多いのです。有名人でも、お構いなしに利用してきます。こういう節操のない態度で、宗教を語れば、荒らしレベルにしかならず、卑怯と非人間性を自ら証明しているようなものだと、楽山だけは気づかないようです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
毒親のマイコンとは違うけど、
宗教の信者をやってた頃は、何に対しても「教祖はどう思うだろう」「これは悪霊の惑わしではないか」などと考えてました。
今は、退会して何年も経ってるから、もうそんなことはないけど…。
やっぱ、あれがマイコンだったんだな。こわっ😱
>>
穂野香
@TzGGYiSkTO0OkFO
9月18日
毒親のマインドコントロールが解けているかどうかが一番わかりやすいのは自分の【思考癖】だと思います。私の場合、何かあると『母がどう思うだろう…』と真っ先に考えます。自分の気持ちより無意識に母が優先になっているのです(>_<")↓
<<
午後9:38 · 2022年9月19日
 
毒親のような刷り込みでマインドコントロールの記事を書いている楽山が「毒親のマイコン」について書いています。「教祖はどう思うだろう」・・楽山こそ教祖願望の人です。「これは悪霊の惑わしではないか」・・楽山は悪霊の惑わしのようなことをする詭弁屋です。「こわっ」・・嘘です。
 
いかなる罪の責任も、まるで被害者であるかのような立場で語って、自己の正当をアピールする楽山です。自己愛病質というのは、ここまで、悪意に満ちてくるのです。意識も無意識もなく、病魔が顔を出してきます。また嘘を吐いた、という、いつものことで、赦されることはないのです。
 
 
 
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  楽山の毒満ちる魔性3
 
 人のためにできること(シルバー・バーチの霊訓)
 2020年09月01日
  改めて批判。
 
 
楽山は、反省や修正をする代わりに、ボンヤリ言語とトホホ言語の、きれいごとを書いてきます。楽山がしてきたことは、嘘と詭弁で、無責任に、人の時間を奪うことです。楽山は、結局、憎まれること以外の結果を受け取ることはないでしょう。
 
こういう種類の偽善者は、楽山やシャロームなどの易坊類以外には知りませんが、ネットにはそういう悪意によって遊んでいる者も結構いるということでしょう。荒らしと同様だと思います。楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
それを何とも思わずに、やさしさ芝居を演じている自己中の大根役者ですから、何の影響も受けないでください。批判以外の目的で、好意的に関われば、無駄に病的な疲労だけが重なることになります。楽山は、訂正不能の病的ナルシストなのです。
 
楽山が、人のために出来ることは、何も書かないこと、何も言わないことです。何事もなかったかのように書いて満悦している姿は、人間とは思えません。楽山に対しては、好き勝手な物言いが出来ないように、浮き上がらせ、アンチ楽山の言論をもって、取り囲む以外にないと思っています。
 
 
*人のためにできること
 『シルバー・バーチの霊訓』を読んでいたら、いい言葉があったのでメモ。
地上世界はいま他人のためになる行為なら何でも必要としております。何でもよろしい。自分でこれならできると思われることをやり始めることです。すると道が開け、進むにつれてどんどん広がって行くものです。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.59)
 」
人のためになることをする。大きなことでなくても、小さなことでいい。自分のできることをする…。
元気旺盛だと、大きなことをしようとしたり、背伸びしたりしがちだけども、まずは、できることからはじめるというのはすごく正論だ。
近頃は、「ささやかだけど、大切なこと」という言葉がすきなせいか、こういう考え方は心にしみる。
 
楽山は、宗教、政治思想、カルト批判など、大きなテーマで、好き勝手に書いてきたくせに、今回は、「人のために出来ること」「心にしみる」などと、子供だましのような、きれいごとを書いています。今まで見てきて、楽山には、心にもないことです。
 
それが通ると、それでごまかせると、思っているのでしょうか。いっそう、闇を深くする楽山です。今までのことを何も訂正も反省もせずに、こういうことを書いてくるのは、魔性だけが動いているとしか思えません。「すごく正論だ」「心にしみる」・・空っぽだから月並みな褒め言葉しかありません。
 
「「ささやかだけど、大切なこと」という言葉がすき」などと、よく書けるものです。楽山の言は、ますます、催吐剤の作用しか持たないような、白々しい三文芝居となっています。執拗に書けば書くほど、楽山は満悦し、読者は、毒を食らうことになります。
 
褒め言葉と、きれいごとを、書けば、それが、そのまま受け入れられると思っているらしい楽山の、毒満ちる悪魔性だと思います。背筋が寒くなるようなホラーです。つまり、言論者としては、幼稚すぎるのです。それで、自己中なら見るべきものはありません。
 
言葉と人間について、何も分かっていない者が、なおも、心にもない教訓?を書いています。そこに自己満悦しているのは、破滅的です。大嘘吐きという印象が強められてゆきます。
 
 
*組織にはこだわらない
人のためになることをしようとするとき、特定の組織に属して行う場合もあろうが、このアドヴァイスからすると、そうすることを求められる人もいれば、求められない人もいるようだ。
あなたの場合は特定の組織内での仕事よりは、もっと広い範囲に向けるべきでしょう。
(同上p.64)
 」
「組織の歯車になるな」「人につかず、組織につかず、法につけ」というけれども、人間社会にいるかぎりは、なんらかの組織、集団に属しないというのは難しいものだ。
でも、時にはそこから出る勇気も必要なのだろう。自分もそのような勇気を持ちたいと思う。
 
組織が必要だというようなことを書いて、そのあとに、出る勇気も必要などと、白々しく、どっちつかずのことを書いて、平気でいるのが、楽山の筆致であり、楽山の言葉の世界です。どこにも、真実の主張がないのです。「勇気を持ちたい」・・楽山にあるのは悪意だけです。
 
 
『シルバー・バーチの霊訓』は、ややこしい形而上学的な議論ばかりでなく、心の教えをやさしく説いているから、それを読んでいるだけでも心が温かくなっていい。
 
(ネットより)
形而上学(けいじじょうがく、希: Μεταφυσική、羅: Metaphysica、英: Metaphysics、仏: métaphysique、独: Metaphysik)は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である[1][2][3]。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超絶したものについて考える[4]。
 
子供だましの、小さな親切みたいなことを書いたかと思ったら、今度は、"形而上学" だそうです。哲学用語ですが、楽山は、以前、心理学の「心の理論」さえ、誤解~曲解して、インチキな心霊の話にして満悦していたのです。楽山の理性は妄想的であります。
 
形而上、即ち、形を持っていない世界を、楽山は、少しも知りえないと思います。楽山の頭脳は、形而下の字面の世界でしかないことが、明らかになってきたからです。ということは、どうやら、楽山は、これからも、まだ、精神の詐欺を続けるつもりのようです。
 
やさしいことから難しい学問まで、自分は分かるんだというアピール、即ち、全能アピールでしょうか。字面だけで、整えようとする悪だくみが、見え見えです。実質は何もありません。だいいち、楽山は、理性を促す情性が欠如しているのです。
 
「心が温かくなって」・・この白々しい文言とは裏腹に、温もりと潤いを失った人間像の典型を表してきたのが楽山です。今までと同じように、楽山は、温もり、という字面だけを書いて満悦しています。こういうのは、精神の詐欺行為と言ってよいものです。
 
楽山は、本質的に、人間の心を持たない冷血漢です。その分、言葉の薄い表面だけを、やたら貼り付けて、厚く重ねて、ごまかしてくるので、注意してください。こういうことが、かえって、楽山の情性欠如者としての症状として、これからも表れてくるでしょう。
 
楽山は、人格が発達不全の上に、無反省によって自分で自分を鈍麻させて破壊してゆく人格のモデルであり、さらに、最も重大な問題として、他者の人格を破壊する人のモデルです。楽山が、人のためにするべきことは、公共においては何も言わないことです。
 
反省もせず、自己愛に凝り固まって、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。毒満ちる魔性の楽山に、誰も惑わされることのありませぬように。祈っています。拝。
 
 
嘘を垂れ流す

嘘を垂れ流す
 
 
(2021年)
(2022年09月20日、再録+加筆)
 
 
 
  潰瘍
 
手遅れの落花に目盛りを誤り
紙コップにビール注がれ
潰瘍の胃袋炭酸の重みに耐えず
発酵の流れ歯石のうちに語る
葉桜の下疝痛に舞え
充血の嘔吐の結膜
石鹸の剥離を繰り返し
乱脈の破砕の終末
タイル張りの手首を引き
酔い痴れて薄墨の彗星を探し
とても希薄な泡沫に帰すと
 
 
  毒満ちる眼(まなこ)
 
怨の妙法聖櫃に座す
臨死の刹那四方(よも)を眺む
未開の熱未だ暁光の内に在り
紫衣の薄明に降ること頻りと
煩悩疾駆して頚骨を砕く
飢えよ饐(す)えよ地に果てよ
疼痛過ぎて覚醒に及ばず
頭蓋窩に寄する烈火の華(はな)
唯(ただ)流る水銀の涙
毒満ちる眼の裏
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
余談ながら、唯一絶対神については、自分が最近読んだ本では、当時の専制君主、独裁者などがモデルになってるとしてた。
そういわれてみれば、絶対服従を求めたり、敵の虐殺命令をくだしたりするところは、両者に共通するし、これも一理あると思う。
午後9:49 · 2021年9月10日
 
神を、人間の専制君主や独裁者と混同して、おとしめる楽山の企みです。神と人の違いを弁えない無知の怖さを感じます。絶対服従を求めるとか虐殺命令とかは、人からしか出てきません。加えて、欺きもペテンも、楽山のような無理やりな悪意の人からしか出てきません。
 
楽山は、神に、絶対服従を求められたり、虐殺命令をくだされたりしたのでしょうか。だとしたら、幻覚か妄想ですので、一切の発言をやめて、療養するべきです。全く、神と人の区別も出来ない宗教マニアというのは、しばしば著しく無分別で危険です。
 
神が、人に何を求めているかは、信仰者の人生によって違うでしょうし、はっきりしているわけでもないし、ましてや、楽山がやっているように一般化してしまうなどは決して出来ません。書くたびに、無知と無恥の弊害をまき散らしている愚劣な楽山です。
 
一日も早く、楽山のように、腐った主張の無理を恥ずかしげもなく排泄してくる輩が、いなくなることこそ望ましく、それは、トイレ掃除のようなものになるでしょう。楽山の欲求不満は、もはや、あらゆる悪臭にもまして、便器の汚れたヌルヌル状態であり、最悪の不浄であり不潔であります。
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
無反省で無責任が体質ということは、批判を受け取らないということであり、それで批判されなくなると、悦んで、何も気にせずに、何事も無かったかのように、平気で、見た目、明るく、白々しく、ヘラヘラと書いてくるということです。即ち、似たような嘘と詭弁で刷り込んでくるということです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ベジータからプライドを奪ったら、角を矯めて牛を殺すことになりそうだけどね。
プライドには直すべきものもあるだろうけど、個性として尊重すべきものもあると思う。
引用ツイート
大川隆法【公式】本日の格言
@hs_word
 · 
9月17日
【プライドの角を矯(た)める】信じ合う心を弱めるものは何であるかというと、各人の個我、個我のプライドです。
プライドの角が出すぎるがために、共に相和していくことができなくなっていくのです。
その事実に気がついたときに、プライドの角を矯(... https://ryuho-okawa.org/quotes/20220917 #大川隆法
午前7:43 · 2022年9月18日
·Twitter Web App
 
根拠のない歪(いびつ)なプライドだけで、チクチク刺してくる評論家気取りの楽山のような者もいます。楽山のプライドは、「個性として尊重すべきもの」ではなく、根拠のない優越妄想、そして、白々しい嘘と詭弁となって、嘘を垂れ流しながら、平気で人を傷つけ疲れさせて、満悦するのです。
 
楽山のような人が、病識も罪悪感もなく、自他を、雑言によって摩滅させ、消耗する相手を見て悦に入り、勝ったつもりになります。楽山は、そのような、ウソ~クソの国に住んでいるのですが、結局は、支離滅裂になって、それを取り繕おうとして、さらに混乱して、人格崩壊に至るでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
柳本伸良@物書き牧師
@yagiyomogi
「宗教」と「宗教カルト」の違いは、金銭的・身体的・精神的被害をもたらす反社会的な集団かどうかです。①それらの被害が複数報告され、②刑事裁判や民事裁判が複数起こされ、③被害者の会が存在する……という宗教団体は、ほぼ「破壊的カルト」と言って差し支えありません。
午前7:49 · 2022年9月19日
 
楽山は、アンチのように見せかけた無神教カルトです。嘘と詭弁で騙すことは、少なくとも、精神的被害をもたらします。何も分からない人だと気づいたときの、徒労感と精神疲労は相当な被害であります。それをせずに放置すれば教祖願望からカルト集団~組織になる恐れがあります。
 
「被害が複数報告」「刑事裁判や民事裁判が複数」「被害者の会が存在」・・これは、一定の規模を持つ組織となった場合の闘い方で裁判に必要なことでしょう。その前の段階で気づいた場合、批判する意欲と適性のある人が個別に批判することが必要です。
 
 
 
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  詳細不明の楽山
 
 『「人間」らしさの構造』渡部昇一著
 2022年09月18日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
自己実現について書いています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が自己実現するなら、恐ろしいことになります。自己中が自己実現するなら、妄想世界か犯罪にしかならないからです。楽山に必要な自己は、檻の中にしかないと思っています。
 
「頑張ろうという気分になることができるのはよい」「人の心を元気にする良書だ」・・相変わらず、月並みな褒め言葉です。あとは、記憶違いの話が、半分以上で、合わせても短く、中身が、極端に貧困な記事になっています。書いて発表できることに呆れます。加筆する気なのでしょうか。
 
 
*元気が出る本
 本書では、生きがいとは自己実現であり、そのためにはまず内なる声に耳を傾けることが肝要だとしつつ、これを実践して生きがいを見つけ、自己実現を成し遂げ、幸福になった例を数多く紹介している。
 
楽山が自己実現を語るとき、それは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の欲望を表すことになるので、信頼度はゼロです。どうか騙されないでください。楽山は、無反省、無責任の、嘘と詭弁で書いて、人を丁寧語で、たらしこむペテン師です。
 
そういう人だから何を言われても書いてくるのです。罪悪感がないのです。楽山と付き合えば、それで楽山は悦に入り、受け容れた人は精神を破壊されるでしょう。何の罪悪感も感じていないからこそ、3年以上批判されても、平気で書いてくるのです。書くほどに醜い楽山ですが、自覚は皆無です。
 
 
現実はそう甘くはなく、誰もが本書の事例のように成功できるとは限らないだろうが、それはそれとして本書を読めば自分も内なる声に耳を傾け、頑張ろうという気分になることができるのはよい。これは人の心を元気にする良書だと思う。
 
「それはそれとして」という、とても、いい加減な言い回しを見逃さないでください。書くことが面倒くさくなっているのでしょう。ならば書かなければいいのに、病質のために、書かずにおれないのです。そうして、恐らく、一生涯を、他者に迷惑をかけることに費やしてゆくのでしょう。
 
楽山は、頑張ったことはないと思います。頑張って整っている芝居だけを覚えてきたのです。だから「頑張ろうという気分になることができるのはよい」などと平気で書いてきます。「人の心を元気にする」ことは、楽山には出来ません。病質のために、思いやる能力がないからです。
 
だから、平気で、自分の罪を自覚しないまま、勧めたり、アドバイスみたいなことを言ったりできるのです。他者がどうなろうと、完全に無関心でいられるという一種の感情鈍麻であり、その流れで、自己正当化はしても、罪悪感は感じず、反省も後悔もしません。厚顔無恥の典型でもあります。
 
 
*記憶違い?
ところで、久方ぶりに本書を再読してみて、なにやら自分はしょうもない記憶違いをしていたような気がしてきた。
これまでは、「内なる声を聞け」という教訓はスピリチュアリズムの本で知ったとばかり思っていたのだが、もしかしたらそれは記憶違いで、実際は本書で知ったのかもしれない気がしてきたのだ。本書で「内なる声」について何度も何度も繰り返し言及しているのを読んでいたら、そう思わないではいられなくなってきたのだ。
 
楽山は、内なる声を聴くことはありません。内なる罪を自覚しない者が、内なる声に耳を傾けることはないのです。自分を上において、人に、下を眺めるように、アドバイスするスタンスは、実に、身の毛のよだつホラーと言ってよいでしょう。楽山は、スピリチュアルでも何でもない、欲望の動物です。
 
 
「内なる声」の大切さについては、スピリチュアリズムの本でも、本書でも、どちらでも説かれているから、はじめにどちらで読んだかはどうでもいいことではあるが、今回再読するまで本書のことはすっかり忘れてしまっていたのにはいささか動揺せずにはいられない。やはり再読は大事だと改めて思った次第である。
 
楽山には何の関係もない「内なる声」について、楽山は知っているかのような嘘を吐いています。何度、本を読んでも同じだと思います。内省の一つもしたことはないのです。それをごまかすために、反省芝居や、読書家気取りで、自尊過大の醜い自我を表してゆきます。もはや人間ではない者の所業です。
 
この読書感想文も、詳細不明です。この短い記事で、楽山は、何が言えたと思うのでしょう。書いたから伝わったと思い込むのでしょうか。楽山は、独り、自我の妄想部屋に棲んで、発信だけは続けていて、その発信は、本人にも、他者にも、何の参考にも糧(かて)にもなりません。よく平気でいられる。
 
 
寒いのは書いたことにする詳細不明

寒いのは 書いたことにする詳細不明
 
 
(2022年09月19日)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
  ありがとう
 
誰も読まない詩を綴り
誰も理解しない文章を書き
誰も聞かない歌を詠み
誰にも伝わらないもどかしさだけで
誰にも伝えられない痛々しさだけで
何を暗示したかったのだろう
寝起きの顔のまま
泥濘(ぬかるみ)の足取りで
伝わらないものか
伝わるものか
の足取りで 四角いポストに入れた
少し奥まで手を突っ込んで入れた
正直なつもりの
過ちを束ねて
この町の
ただ一度の一瞥にありがとう
そして帰ってゆく
自分の周りに
自分で作った格子窓から見るために
遠い国を
遠い国を
さようなら
 
四九八九、きゃんせる町、こどく市、もろはの県、ウソの国
 
 
「ウソの国」という言葉、結局は私が一生引きずっていく言葉・テーマなのではないかと思っている。
「天国はここにある、そこにあるというものではない。天国はあなたがたのただ中にある」という聖書の言葉がある。必ずしも天国との対比で考えてきたわけではないのだが、今のところ敢えて次のように言っておこう。
 
ウソの国はここにある、そこにあるというものではない。しかしわが身・わが心の内と外のいたるところにある。まずは自分の中に潜むウソを見つけることから、ウソの国への果てしない旅が始まる。私が考え、書いているところの、ウソの国は、神の国の、ネガなのかもしれない。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の書く文章は、精神年齢に合ったものになってゆくような気がします。思考が長く続かないのかもしれません。ちょっと書いて、すぐ嫌になって、そこで結論とする癖がついてきたのでしょうか。意地を張って長い文章を書いたら、嘘と詭弁と無駄話の大安売りの大迷惑になるでしょう。
 
楽山のような無神教カルトは、神の奇跡と事実にばかりこだわって、神の御心やキリストの共感には不感であるため、キリスト信仰から大きく外れた宗教観を持ち、それによって、的外れに神を否定しています。それはもう、とても乱暴な話であり、心を持たない強欲な人間離れに過ぎません。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「謀略論に関心がある人」も、マイコンされやすいですね。
>>引用ツイート
紀藤正樹 MasakiKito
@masaki_kito
20時間
紀藤弁護士が教える「マインドコントロールされやすい人」の10項目 https://tokyo-sports.co.jp/entame/news/4446791/ 1)大学進学(2)新入社員(3)環境変化(4)新しいことにチャレンジしたい(5)社会に役に立つことがしたい(6)素直な性格(7)完璧主義(8)孤独(9)健康不安(10)マイコンに絶対かからないと思っている
<<
午前10:11 · 2022年9月18日
·Twitter Web App
 
注意してください。「謀略論に関心がある」楽山は、生業としてマインドコントロールしてくる人です。楽山は、仏様の心が分かるっぽい体験?から、霊能、謀略、右翼、無神教カルトに興味があるようで、そういう記事を書いてきました。しかし、読んで糧(かて)になる記事は一度も書いたことがありません。
 
楽山は、社会に役立つことがしたいのではなく、役立っているつもりかもしれません。実際は、有害な社会の敵です。霊能などに努力せずに到達しているつもりです。素直ではなく正反対のサイコパスです。完璧な自分を妄想しています。どこまでも病識も罪悪感もない人です。
 
 
 
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  楽山の余計な感想
 
 『私の死亡記事』文藝春秋[編]
 2022年09月16日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
楽山は、短くて、上手とも思えず、深い考察もなく、なぜ、感想を公開するのでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの自己顕示欲によって、それが、まともだと、楽山には思えるのでしょうか。思考と意志の異常なのでしょうか。
 
いつものように「すごい」「すきだ」「考えさせるものがある」「さすがだ」で、独自の思想など、一言もありません。恥を知らなくなると、このように、短くて、粗雑な記事を書いてくるという例になります。楽山も、自分の死亡記事でも書きたいのでしょうか。
 
 
本書は著名人が自分自身の死亡記事を書くという企画によるもので、100人あまりが参加している。このような企画を思いついた編集者はすごい。
 
楽山は、永遠に生きるつもりでしょうか。自分自身の死亡記事を読んでも、楽山は自身の、記事にならないかもしれない死亡や、無名の死について考えることがないのでしょうか。深い心がないと、このような、乱暴で雑なことを、ぽろっと書くしか出来なくなるという例です。
 
 
ではその中身はどうかといえば、ざっと見たところでは、ほとんどの記事が自己の業績を事細かに並べ、意識が高く、幸福感に満ちており、いかにも著名人らしい文章となっている。そんな中で中野翠だけはたった二行の文章と墓の絵だけで済ませているのは微笑ましい。この方のユーモアと美意識はすきだ。
 
見れば本のようですが、「事細かに」・・細かだからなんだというのでしょう。「意識が高く」「幸福感」・・何が言いたいのでしょう。いったい何を伝えたいのでしょう。ゴシップ好きの、好事家の、趣味以上ではないところの、雑文を書いて、楽山は、どこに満足できるのでしょう。
 
 
死因については、老衰や病死としているものが多いが、安楽死としている人も少しいる。奥付を確認すると本書の出版は2000年10月となっているが、この頃はすでに延命治療を厭う空気はあったということだろう。ちなみに西部邁の「私の死亡記事」は老いと自死について記されており、さまざまに考えさせるものがある。
 
「さまざまに考えさせるものがある」・・どう考えたのでしょう。それを書かないで、ブログ記事になるのでしょうか。主題は何なのでしょう。楽山は、自分の死について書くのでしょうか。死なないと思っているのでしょうか。また、いつものように、高みから眺めるだけでしょうか。気色悪い。
 
 
最後に本書中でもっともおかしかった文章は、自分にとっては横尾忠則のものだった。それは死んで霊となった横尾忠則本人が霊言をするという体裁になっているのだが、「波動」「送信」「受信」というスピリチュアリズムの設定に則っているところはなかなかに芸が細かい。さすがだ。
 
「おかしかった」で「さすがだ」だそうです。楽山は、人の死に、おかしさを求めているのでしょうか。「霊」「霊言」「波動」とは、HS回帰でしょうか、それとも、スピリチュアル賛歌でしょうか。「芸が細かい」・・どこが細かいのでしょう。「さすがだ」・・どう、さすがなのでしょう。
 
身の程知らずのインテリ気取りの、楽山の、評論家気取りが、有名人について、ふつうやらない自分の死亡記事を書いたことを述べて、述べるだけの記事です。本一冊分を、ブログの薄く浅く短い記事一つで済ませて、何が言いたいかというと、自分の有名人気取りを表しているようなものです。
 
自己顕示欲が強いために、生について、特に死について、何も考えられない人なのでしょう。だから、他者の死についても、遊び道具にして、深刻味もなく、スパイスもなく、褒めたからええじゃろ・・という安易さになります。思いつきだけで、いつも、書いては捨ててゆく楽山です。
 
楽山には、自分の死亡記事は書けないと思います。病質のために、知性と感性がなく、つまり、理路と共感がなく、生も死も考察できないからです。いつまでも、偉くなる夢を見ているのでしょう。楽山の老後と死は、とても恥ずかしいものになるだろう、という予感しかありません。
 
いつもながらの、楽山の、小学生レベルの作文です。これで文章を書いたつもりでしょうか。何が言いたくて書いているのかが、全く不明です。何も求めておらず自己顕示欲だけで書くと、こうなる、という例です。3年以上見ていますが、何の魅力もなく、何のためにもならない駄文への誘導です。
 
騙されることのないように、楽山に、誰も関わらないでください。関わる価値はありません。楽山の自己満足なら、ノートに書いて、机にでもしまっておくべきです。それを見せて、さらには、嘘と詭弁で、誘導し、騙してくるから、楽山は、いつまでも、どこまでも、病質からの、悪質なペテン師なのです。
 
私は、過去に数か月遣り取りをして、こちらの発言を全く受け取れないことから批判に転じて、今に至っています。3年以上批判しても変わらないのは、自己愛性パーソナリティ障害NPDという病質だからです。本人だけが、それを理解できず、ヘラヘラと、正常人を気取って書いてくるのです。
 
この楽山の記事は、自分は読書家で書評もするのです・・ということを顕示したいのでしょう。騙すための世辞は言っても、共感力がない楽山の丁寧語に騙され続けると、楽山の文章に誘導されて、疲労して奴隷みたいになるか、人格が鈍麻して、それこそ、読む人が、おかしくされる恐れがあります。
 
 
拙文の豆まき

拙文の豆まき
 
 
(2022年09月18日)
 
 
 
  人間不信と手袋
 
誰も信じることができない
と君はいう
 
自分だけが頼りかと聞けば
その自分自身が
いちばん信じられないと君は言う
 
信じるに足る人がいるものかと
食ってかかる君がいる
 
君は限りなく零下へ凍りつくことで
冷たさを凌(しの)ごうとしている
冷たさにそれ以上の冷たさで
 
されど君よ
そういう冷たさに耐えるための手袋を
人は全く持っていないだろうか
 
信じるに足る人はいない
しかし逆に全身を任せるように
信じられることに
君は耐えられるだろうか
 
君が誰かを凍りつかせないために
資格のない不遜の礫(つぶて)だが
砕けることが出来るうちに投げておこう
 
絶対零度に人は耐えられないように
絶対孤独もあくまで離人の世界だ
 
氷結しているような孤独でも
人が温もりのゆえに苦しみ
冷たくなろうとすればするほど
冷たさに痛く赤く染まる頬があり
手袋で隠そうとするから
手袋で温(あたた)めている
 
そういう手袋は常に懐(ふところ)の奥に
はにかむように柔らかく用意され
出番が始まるのも終わるのも待っている
 
 
  千巌山・二
 
「血」の果てまで続く復讐
は神様に任せるとして
もう一度ぐらい
行ってみたい 千巌の
お山へ
絶筆かもしれぬ
老人会の落書きを見に
乱暴に刻まれた岩の
下手くそな相合い傘を呪いに
 
景色はしばらく眺めるだけにして
何も書かずに帰って来よう
いずれすべては消されるのだから
もう一度だけ行ってみたい
消えないのは感謝で
消えるのは悦(よろこ)びになる日
 
それぞれの孤独の上に
何も置かない
天と地の山へ
 
 
  氷の泡
 
氷の中の気泡である
身動きが取れない
殻を破ってあげようと
氷を割れば
消滅する
 
氷の中の気泡である
位置は分かるし
見えているようだが
見えるはずはないのである
気泡は空気なのである
 
氷にしたって
求めて取り込んだわけではない
氷は無色透明だ
 
気泡にしたって
望んで入り込んだわけではない
空気は無色透明だ
 
せいぜいできることといえば
出来上がる前の
水や温度と出会(でくわ)したときに
弱いものの常套手段だ
できるだけ小さく
できるだけ多く
できるだけ速く
できるだけ密に寄り添い合って
白い氷にしてやった
 
透かして見ることできないだろう
ざまあみろというわけである
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
地獄に堕ちるのが怖くて、やめたいけど、やめられないというのは本当につらいだろうな。
宗教は違うけど、自分もそういう恐怖心に悩んだことがあるから分かるよ。
>>
紀藤久保内弁護士「私たちはサタンではありません/私たちはあなた方の敵ではありません/家庭連合を離れてしまうと"地獄に落ちてしまう"そう信じてやめられない方がいるかもしれません/でも大丈夫です/家庭連合をやめて地獄に落ちた人はいません」霊感商法対策弁連が集会で呼びかけ
<<
午前7:36 · 2022年9月17日
 
今は、すっかり、悪と偽善が身について感じなくなっていることを、楽山は、前は地獄に落ちるだろうと「恐怖心に悩んだ」が、今は、悩まなくなったと言っているのでしょうか。それこそ、罪悪感の欠如であり、自分の悪に気づいていない証拠になります。最近は、証拠になることが多い楽山です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
カルト教祖も、この流れになってるかも。
<<
じゅんご
@jungo_FanMarke
9月16日
嘘をつかれたら「信じてあげる」ことです。そうすると、もっと大きな嘘をついて自滅していきます。
<<
午後7:57 · 2022年9月16日
 
楽山の言うことを信じなくても、楽山は「もっと大きな嘘をついて自滅して」ゆくようです。ふつうの作文も、無味乾燥になって、自己正当化と、正常人芝居に、明け暮れているのでしょうか。芝居では、何の改善もしないし、自分を見ない限り、悪と偽善に変わりはないでしょう。
 
批判の目的は、一般の読者に、病質者そしてペテン師である楽山の存在を知らせて近づかないようにしてもらうことと、併せて、楽山の、ネットの言論での居心地を悪くすることであります。したがって、楽山が批判を読むかどうかは分からながら、見ても、いい気持はしないように書いています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
最近は、短い記事を書くことが多いようです。自分でも、まとまらなくなってきて、長い文章を書くのが面倒になったのでしょうか。くどくど、ネチネチと、長文を書かれるより、そのほうがマシかもしれません。いずれにしても、理路のない賛辞が多く、人格の荒廃が進んできている可能性があります。
 
 
 
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  楽山の粗雑な心理3
 
 素朴な真理(シルバー・バーチの霊訓)
 2020年09月07日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、今まで、虚言、偏見、決めつけ、無反省、無理解、自己中、自己愛性パーソナリティ障害、等々を指摘されてきて、いっさい弁明できないという経過でありながら、平気で、以下の記事の始まりのように「素朴な真理」などと書いてくるのです。
 
それは、楽山が、自身の "粗雑な心理" によって、自らの悪と偽善を無視して、なおも、何かを教えたがる自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)がもたらす惨劇に他なりません。罪悪感や、恥ずかしい、という高等感情が、楽山には無いのです。
 
素朴な真理という言葉で、楽山が言いたいのは、素朴だから誰でも簡単に手に入るので、自分も真理を知っていると言いたいがための詭弁なのでしょうか。楽山は、真理を、草花のように美化しているようで、実は、命のない造花のように、軽く見なして、自己正当化を飾る詭弁屋に過ぎません。
 
楽山は、最早、詭弁以外、何も言えなくなっています。弁明が何も出来ないために、批判者を無視して、一般読者をターゲットに、詭弁で騙(だま)そうという詐欺師の企みです。このような下等な策略に、決して、だまされないようにしてほしいと思います。
 
 
*素朴な真理
これは自分にとっては、耳に痛い言葉だ。
本当に必要なのは単純で素朴な真理なのです。新しい大真理ではなく、驚異的な啓示でもなく、新しい神勅でもありません。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.86)
 」
以前、自分は、「新しい教えが説かれた」「旧来の思想、宗教すべてを統合する教えだ」「高級霊界からのメッセージ」「△△の霊言」というような新興宗教の宣伝文句を真に受けて、信じてしまったことがある。
 
楽山には、耳にも心にも痛覚がないという特徴があります。自己愛が勝っているために、殆ど本能のように、自分に都合の良い話しか受け取らないし発信しないのです。ゆえに、「自分にとっては、耳に痛い言葉だ」というのは、嘘です。こういう嘘を平気で言う人です。
 
今に至るまで、霊が分かるっぽい、本もたくさん読んだ、という特別の気取りが、書くたびに、楽山の文章に表れてきました。それゆえに、他者への侮辱や嫌がらせの攻撃を含めて、楽山の、自分への誇大妄想的慢心は、無反省のきれいごとを平気で書いてくる白々しさとなってきました。
 
こういうことを書くのは白々しいという、良心の好ましい知性による気づきと自覚と、高等感情が、楽山には無いのです。読者を舐めて、言葉だけ反省と謙虚に見せかけたトホホ言語が、今も、通用すると思っているのです。楽山は、カルト被害者でも批判者でもありません。加害者であります。
 
 
心の教えとは、難しい神学や哲学体系とはちがって、単純、素朴で、誰にでも理解できるものだとか、真理は永遠不変という話は知ってはいた。でもそれでも「新しい真理が説かれた」「高度な教えが説かれている」といわれれば興味を持たずにはいられなかったのだ。「いま、天上界の秘密が明かされる」「××事件の霊的真相を解明する」という話にも釣られてしまった。
 
自身を省みることもなく、永遠不変の真理を得られると思うこと自体が、楽山に傲慢不遜のベースがあることの証明であり、さらに反省も後悔も修正もせずに、書き続ける楽山には、真実は、狂気と入れ替えに遠ざかるだけで、決して見えてはこないと言えるでしょう。
 
言葉面だけの反省めいた記事であり、その反省の質量は、今までの不祥事の悪質な積み重なりから見れば、全く相容れない軽さであることを表しているだけです。即ち、その場しのぎに安いペンキを塗るように気安く反省したと言われても、その "粗雑な心理" が、書くものに表れて不正直が暴かれます。
 
また「心の教え」が誰にでも理解できるものと言っていますが、真摯で謙虚な心を持っている場合であって、自己愛で傲慢になった楽山のような者には、単純も素朴も理解できはしないのです。当てはまらない自分を棚に上げて、何を「知っていた」というのでしょう。
 
 
でも、心の教えというものは、古典聖典を開けばいくらでも書いてあるし、日めくりカレンダーにあるような名言名句、ことわざなどでも十分であろうし、そこいらじゅうにあふれていて、改めて教えてもらわなければならないようなものではないのだ。ましてや、どこかの宗教団体だけが独占しているものでもない。
 
心の教えというものは、これで十分ということがない、という特徴があるのに、それを、楽山は、「十分であろう」などと、全く理解できていないことを露呈しています。楽山においては、総ての概念が、風船のように軽くなります。実際には、風船は、そのまま、楽山の存在の軽さなのです。
 
聖典と、ことわざを、同じように並べていること、「そこいらじゅうにあふれていて」「教えてもらわなければならないようなものではない」などという、軽薄に思い上がった見なしは救いがたいもので、楽山の、自己愛と他者への見下しの野蛮さを表しているだけなのです。
 
人生を支えるのが目的で書かれた聖典と、場合によっては言えてるねという程度の軽いノリで頷くことわざとは、明らかに成立と存在の理由とプロセスが違います。これは常識と言ってよいでしょう。楽山は、そこも分かっていません。
 
このように、基本的なところを全く弁えない楽山の言葉に対する認識の甘さと、軽さと、いい加減さは、目を覆わんばかりです。思慮というものが育っていない楽山の、粗雑な見なしは、災いです。楽山の言を真に受けると、心の教えも、心自体も、楽山のように、失ってゆくでしょう。
 
「どこかの宗教団体だけが独占しているものでもない」という言い方で、楽山が言いたいのは、楽山の、自分が教えて何が悪いという開き直りです。いつも、薄汚い狙いがあって物を言う楽山には、無反省と無責任のために、人に教える知性も感性も資格も能力もありません。
 
 
今になって振り返ってみれば、新興宗教の宣伝文句に惑わされていた自分はつくづく愚かだったと思う。こんなことを書くと、「今だって、大して変わらんだろ」という厳しい意見もありそうだが、一応その後、新興宗教は退会したわけだし、その分だけは進歩したと思いたい。反省。
 
進歩したと思いたい、と言って、"反省"、という言葉を付けて反省になるでしょうか、否です。これは、自己満足に過ぎず、「新興宗教の宣伝文句に惑わされて」愚かだったと、被害者のように罪をカルトという他者に向けている時点で相変わらずアウトです。この3年数か月、何も進歩が無い楽山です。
 
また、今に至る経過を見れば、反省になってなどいないのは明らかなのです。楽山は、自分教という唯我独尊の境地を、いつも、出してきては、他者を上から見下ろしているだけでしたし、今も、そうなのです。この記事でさえ、人など芝居で簡単にだませるとでも思っている放屁に過ぎません。
 
楽山は、字面の辻褄合わせでは、軽さ、実感のなさ、嘘臭さが表れるだけだということに気づかないようです。無反省と無責任は、必然的に、学習しないことになり、成長しないことになります。その見本のような成り行きを進んでいるのが、楽山その人です。
 
楽山は、時々、この記事のような、今までのことを無視して、軽い調子の反省言葉を書いてきますが、それによって明らかになるのは、楽山が、いかに、軽佻浮薄に、まるで冗談か世間話のように、気安く言葉を並べる人であるかということです。実際、何も変わらず、反省は嘘です。信頼度はゼロです。
 
 
地上は、国と国ではなく、民族と民族でもなく、良心とサイコパスの闘いだと思います。サイコパスというのは、良心を持たないために、自分の利益と快感だけを求めて、笑いと怒りしか持たず、悲しみの情感を持たず、ゆえに、罪悪感も、責任感も、反省する心も、持っていない者たちです。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)や、ほぼ同質のサイコパスは、笑いと憎しみだけが言動を支配し、共感と悲哀の情緒を持てないために、総ての不祥事を人のせいにして、自己愛性から反社会性を帯びてくる必然が生まれます。人類の敵はサイコパスです。
 
 
 『奇跡との出会い。 心に寄り添う。3 』
 (幸福の科学のドキュメンタリー映画)
 2020年09月08日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
箇条書きです。小学生でも、もっと深い感想を書ける子はいるでしょう。
 
*メモ
映画『奇跡との出会い。 心に寄り添う。3 』を見た。
以下に、映画を見ながら書いたメモをまとめてみる。
・はじめから宗教色濃厚。
・証言者のなまりがいい。誠実な感じがする。
・写真はどれもいい感じ。
・インタビューに答えている人たちはみんな、人柄がよく、すごく善良にみえる。
全体的にいって、想像していたより、ずっとよかった。
本作をみていると、みなさん幸福でよかったと思うし、幸福でいる人に対して、宗教問題について傍からどうこう言う気にはならないもんだなと思う。
 
「誠実な感じ」「信仰による安心感」「写真はどれもいい感じ」「インタビューに答えている人たちはみんな、人柄がよく、すごく善良にみえる」「想像していたより、ずっとよかった」「みなさん幸福でよかった」等々、書いています。「感じ」「みえる」「よかった」・・稚拙で曖昧な感じが目立ちます。
 
一見して、楽山が書いている感想は、バラバラな感じの断片だけです。逐一批判が出来ないような書き方です。その分、この楽山の書いた記事が、まとまった意見にも批判にも弁明にもなっていない、ということが表れてきます。しかも、必要な反省ではなく、またしても、他者について判断しています。
 
 
幸福でいる人に対して、宗教問題について傍からどうこう言う気にはならないもんだなと思う
 
この軽さが、楽山の、宗教軽視~反宗教の意見なのでしょう。それで、宗教問題について、誰が、傍からどうこう言っているというのでしょう。余計なことを言ってきたのは、また、何の参考にもならないことを言ってきたのは、批判しにくい形で、今、余計なことを言っている楽山であります。
 
HSの映画について、楽山は、大方、肯定的なことを書いています。HS批判をしていたのではないでしょうか。一貫性がないという楽山の特徴が表れています。つまり、楽山にとっては、宗教など、自分満悦のための材料に過ぎず、どうでもいいのです。
 
つまり、楽山は、宗教を信じている人をバカにして、上から見下ろしているだけなのです。楽山は、宗教と信仰の深みを何も知らないし、知ろうともしない自己満の人です。ならば、黙っておればよいのです。楽山が何かを言って、宗教が助かるわけでも、廃れるわけでもありません。
 
楽山の言は、ただ、鬱陶しいだけで、疲労をもたらすだけで、邪魔になるだけであり、楽山の言は、ことごとく意味がないのです。さらに、意見の遣り取りでもしようものなら、さらに、ひどいことになることを経験しています。楽山は、徒労だけをもたらす人、けっして関わってはいけない人です。
 
 
世の中には不思議なことはあるだろう。不思議なことがあっても不思議ではない
 
元々、霊が分かるっぽい自覚だけの楽山は、不思議に関心があり、不思議な話が大好きな、髭の生えた子供に過ぎません。自己満悦の自己愛から、心霊が分かって知っているつもりの楽山は、自分を出したくて、宗教を論(あげつら)い、結局、茶化しているだけなのです。
 
宗教の不思議な話も、ましてや宗教の共感にあふれる話は特に、楽山には受け取る感性がないのです。浅い先入観が、そのまま偏見になっていて、元々、霊と超常趣味の楽山は、そういう幼稚な興味だけで、宗教に関わり、けなしたり、ほめたりします。
 
楽山は、宗教の超常的な字面が生んだ寄生虫のような存在です。楽山は、宗教と信仰にとって、ただただ傍迷惑なだけの存在です。楽山を相手にしないでください。楽山の、深みのない、丁寧語や、やさしげな言葉に、どうか、だまされないでください。
 
 
全体的にいって、想像していたより、ずっとよかった。
本作をみていると、みなさん幸福でよかったと思うし、幸福でいる人に対して、宗教問題について傍からどうこう言う気にはならないもんだなと思う。
 
「ずっとよかった」・・こういう感想が多い楽山です。小学校でも注意されそうです。
「宗教問題について傍からどうこう言う気にはならないもんだ」・・うるさいほど、いやらしいほど、宗教について、愚にもつかぬことを、どうこう言って揶揄してきたのが、楽山です。
 
 
食えねぇってば・・

食えねぇってば・・
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月17日、再録+加筆)
 
 
 
  暑い
 
顔に皮が張り付いて
少しずつずれていく
にじむ足取りで
目線が濁り始める
 
耐えることは愚かで
拭うことは卑怯で
罪悪の糸がゆるく伸びて
どこへ向けようもない苛立ちが
狭い遊び場を探す
 
指に噛みつき糞を浴びせる雛鳥を
壁に叩き付けようかと捕まえて
手の中のあまりに小さい温もりに
手は泥人形の手
泥人形は泥になる
泥の命は誰に任されている
 
全ては未定のまま歩きだす
小鳥のように飛び交うテニスボールが
はね返す澄んだ涙腺に
どこへ向けようもない沈黙が
皮ごと顔を覆い隠す
 
 
  食欲と孤独と忍耐
 
ブラウン管を見ていた
あれが人間だよ
というふうに眺めていた
この世の寄生虫
まだ食欲と僅かの信仰があります
 
信仰は食欲を超えられるだろうか
希望は愛はどうだろうか
試す機会はあるだろうか
森か山の中に行って土へ帰ることなど出来はしない
虫のように小さく干涸(ひから)びることも出来はしない
ヒトの肉体を持っている以上
食欲がなくなれば
ここで腐臭を放ち膨らみ
蛆(うじ)が湧き蠅(はえ)が飛ぶのだ
 
まだ食欲があります
何も感じなくなる前に
最後まで残る問いは
食欲と孤独と忍耐の三つであり
最も長い泡沫の管は食欲であり
最も腫れ上がる虚無の空洞は忍耐であり
耐えて意味なく萎(な)えて耐え難く
しかして最も大いなるものは孤独である
 
多くの悲劇の預言者において
恐らく一見そうであったように
一人の愚かな凡夫において
恐らく実際そうである
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、反省力、責任感、思いやり、悲しみ、など、高等感情に属する心がありません。そう見せかける芝居を書いてきますが、実感が文章に表れたことがないのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で慢心しかないために、学習せず、育たなかったのだろうと思います。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
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