ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。サポートに問い合わせて、ようやくコメントボタンが付けられました。ソーシャルボタンは、コメント欄の上に表示されることも知りませんでした。

 
  カルトの偽装
 
   『ウチの母が宗教にハマりまして。』藤野美奈子
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12541335960.html
   楽山日記(a)
 
 
私が、シャロームのコメントを批判している間に、楽山は、また、汚い真似を始めています。楽山自身が、カルトを宣伝しながら、宗教を嘲笑うようなことを書いておきながら、前には、仏様の心や霊的なことが分かるっぽいと言ったり、クリスチャン芝居をしたり、キリスト教に幼稚ないちゃもんを付けたりしていました。今回は、嫌らしい策を弄(ろう)した、危惧を逆手に取った印象操作です。
 
そして今回の記事は、つまるところ、カルトが、自己保身と正当化のために、カルトを説明し批判しているかのような記事を載せて、自分は違うと暗示する、という、またしても、だましのテクニックで、欺きを深くしている、ということなのです。それにしても、あざとい。
 

*まえおき
巷では宗教離れが進んでいるそうだけど、どうやらその流れは自分にも影響しているらしい。最近はどうもその手のことへの関心が薄れてきている。でも今回はひさびさに宗教関連の本を通読できたので感想を書いてみたい。

 
薄れてきているなら、書かないことです。恐らく、薄れてきているというのは、嘘です。久々に、ではなく、楽山の宗教に対する怨念のような執着は常軌を逸しているのです。
 

*本の中身
本書は、タイトルからカルト批判の本だと思って手に取ったのだけれども、いざ中身を見てみると、カルト絡みのエピソードもないではないが、全体的な立ち位置は、カルト批判というより、宗教への理解を深めようというものであって、宗教信者に同情的でさえあるようだ。
もうちょっと具体的なことを書くと、本書では、ヤバい宗教にハマってる人を退会させようとしたがダメだった話、新興宗教の二世信者の彼と結婚した女性が、熱心信者の義母と衝突して難渋する話、ミュージシャンがカルトにハマって人が変わってしまった話などが紹介されている。
著者の体験談では、母親が宗教にハマり、お墓や仏壇などに百万単位のお金を使ってしまい、父親ともめた話、母親の信仰は傍から見たら奇異なものではあるけれども、数十年に渡って、自分のことはわきに置いて、ひたすら家族の健康と幸福を祈り続けていることから、やがては父も、娘の自分も、その信仰を頭ごなしに否定することはできず、尊重するようになっていった話などである。

 
この個所だけ読むと、カルトに、嵌(はま)りやすい人の話ではないかとも思えます。
 

*カルト、マインド・コントロール
本書では、カルト、マインド・コントロールについても、分かりやすく説明してくれている。
まずカルトの定義については、人権侵害や違法行為の有無が基準だとしている。カルト教団とは、非常識、アブノーマルな団体というのではなく、「憲法に定められた基本的人権を守らない団体」であり、また「あなたの入りたい宗教団体が現代の法律に触れるようなことをしていないか 入信前も入信した後もそこんとこ見極めて下さいね」とのことである。この辺りは、藤倉善郎さんの書いていた基準と同じだ。

 
やはり、楽山は、カルト保身の意図があります。人権侵害や違法行為が表れた者がカルトで、そうでない者はカルトではないでしょうか。事件を起こす前のカルトはカルトではないでしょうか。
 
違います。事件以前に、逮捕することは出来ない、逮捕してはいけない、という法制度にになっているだけです。事前の逮捕はできないということであり、カルト即ち邪悪で有害な宗教でないことの根拠には全然なっていません。これをカルトの定義としてはいけないと思います。
 
カルト思想に毒されているために、考えることが出来ないか、する気のない楽山の、好都合な言説を拾ってきての同意は、保身のための作為であります。
 
行政および法制度は、宗教の本質に迫ることが出来ない性質上、事件が起こってからしか動けない、ということを表しているに過ぎないのです。
 
明らかに人格破壊に結び付くような思想や教えは、その邪悪さから狂信でありカルトなのです。私たちは、行政ではありません。カルトを甘く見ると、この記事の楽山のような者に、だまされて、カルトを、容認するだけでなく、育てることにもなりかねません。
 
ですから、カルトであるかどうかは、だましているか、人間と社会に対して、破壊的なことを教えているか、などで判断して、情報を広く伝えることは出来るのです。特に、既存の宗教内部に巣食うカルトについては、その宗教の信仰者が、重要な情報源となります。
 
楽山のアドラー教とシャロームの無罪信条は、信じ込めば、人格を破壊するということを、まさに、楽山とシャロームの、悪意の印象操作とゲーム的な人格破壊の企みは表しています。
 
物事の理非も、理路も、平気で無視してしまう楽山の残酷は作為であります。そのために、他者の発言を出して、お墨付きのように、どうだ、と言いたいわけです。
 
前にも書いたことなのです。楽山が無視しているだけなのです。はっきり社会悪だと判明する前の段階にあるのは、異常で有害な信条なら、やはりカルトなのです。
 
楽山は、それを理解しない、つまり、これで、楽山が、カルト寄りだということが分かるわけです。これで、明らかです。楽山は、身の毛の弥立つような邪悪さをここで見せているのです。
 

・カルトの定義をめぐるあれこれ|藤倉善郎(やや日刊カルト新聞)|note
マインド・コントロールについては、「「昔からのその人らしさ」を封印したあと新しい考えを信じ込ませ まるで教祖のロボットのようにしてしまう作業のことです」「本人はあたかも「目覚めた」ように感じ普通に生活できるので操られていると気付きませんし「自ら選んだ道だ」と信じてしまいます」としている。

 
楽山は、最悪になった例を挙げて、自分は違うから安心ですよ、という誘導をしたいだけです。
そう言い、企むときの、カルトの薄笑いは、正視に耐えないものだと想像します。
 
それだけでは、ありません。結論をはっきり言わず、やさしいうわべだけの言葉で、先ず、やさしいお人柄・・などと思わせることも、実際にあるということです。やさしいお人柄と思ったら、要注意です。それが、楽山だったら、一目散に逃げてください。
 
事件を起こさないと警察は動いてくれません。だからこそ、私たちは、事件以前の日常において、反社会性や、その根となり芽となる邪悪な教えに対して、注意・警戒を怠ってはいけないのです。そして、情報を共有して、批判するとともに、近づかないように警鐘を鳴らす必要があります。
 

本来の自分を失い、教団に操られているのに、そのことには気付かず、自分のことは自分で決めたと思い込まされるというのは、なんとも怖ろしいことである。これはあまりに怖すぎる。

 
共感を装う芝居です。その通りの印象操作をしているのが、楽山のボンヤリ言語です。そして、シャロームと組んで、平気で嘘を吐き、詭弁を唱え、批判に対して嫌がらせをしてきます。
 

*反省
カルトとは人権侵害や違法行為をする団体であって、傍から見ていくら奇妙、不気味であるからといって、カルトとはいわないというのは、頭ではわかっていても、感覚的にはなかなか受け入れにくいところはある。

 
楽山は、自らが、受け入れにくい、などと、共感めいたことを語って、みんなもそうだよね、という印象を刷り込みにかかっています。私が、こんなとき、感じるのは、後に、エヘヘ、が付いてきそうだということです。
 
楽山は、またしても、カルトという印象を薄めるための、印象操作をしています。それが、楽山の凶悪さを物語ることが分からないようです。独りで、その責任を負う覚悟なのでしょうか。しかし、カルトらしさが増強されて、表れています。
 

いくら人権侵害も違法行為もないといっても、新興宗教によくある奇妙、不気味、それから悪趣味さを目の当りにしたら、どうしたって「こりゃ、カルトじゃん」という感想を抱かないではいられない。

 
私は、楽山に、楽山の書く文章から、その奇妙、不気味さ、悪趣味を、直撃弾のように感じています。注意してください。カルトは、カルトを傍観している人であるかのような芝居をしています。
 

でも信者本人からしたら真面目に信じているのだろうし、それを即、カルト呼ばわりするというのは、ちと不人情ではあるかもしれない。

 
どこがでしょう。人格を破壊する信条なら、早めに、問いただし、脱けさせなければいけません。カルトに囚われるということは、人生を無駄にするにとどまらず、人格破壊によって、人間らしさを失うことなのです。そういうカルトの悲惨な結果は、楽山の狡猾で冷酷は策略と、シャロームの自己中超常妄想に、つまりカルト宣伝者本人たちにこそ、既に現れているのです。
 

だいち自分の視点から相手の信仰が奇妙、不気味、悪趣味に見えたなら、相手からもこちらの信仰は奇妙、不気味、悪趣味に見えているのだろうし、それならお互い様ではある。

 
楽山は、恐ろしいことを言っています。自分という存在の、人間としての弁えを失うと、こうなります。
 
カルトを奇妙だと見ることを、カルトが正常を奇妙だと見ることと、同質と見なし、お互いさまと言っているのです。社会共通の正しさの基準は常識・良識です。楽山は、相当に、脳と心を、やられている証拠でしょう。シンプルな常識的判断も出来なくなっています。
 

とすれば、やはりカルトか否かの判断は、個人的な宗教観ではなくて、人権や法律を規準とするのが公平ではあるだろう。自分はどうも個人的な宗教観で、カルトかどうかを決めてしまうところがあるので、ここは注意することにしよう。

 
その、恐ろしい見解から、楽山は、目に見える犯罪や、人権侵害が明らかにならないうちは、カルトではないという話にしています。こういう奴は、いつかぶっ飛ばされると思います。悲鳴です。
 
もう一度言います。事件を起こさないと警察は動いてくれません。だからこそ、私たちは、事件以前の日常において、反社会性や、その根となり芽となる邪悪な教えに対して、注意・警戒を怠ってはいけないのです。そして、情報を共有して、批判するとともに、近づかないように警鐘を鳴らす必要があります。
 
 
 
   『夜の哀しみ』三浦哲郎
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12541346438.html
   楽山日記(a)より抜粋。
 
 
サイコパスは、サイコパスと疑われ、その言い逃れの詭弁を弄することによっても、分かることがあります。その他の異常人格も同様です。
 
異常人格は、統合失調症などの精神病とは全く違うということを理解してほしいと思います。
 
精神病とされる統合失調症の人は、多く、とても正直です。
 
異常人格は最悪の嘘を吐きます。
 

*悪役とサイコパス
本作の登場人物の中には、サイコ的なものが二人いる。聖次と克夫だ。聖次は自分のために人を利用し、用済みになれば捨ててかえりみず、その事に良心の呵責を感じないらしい。克夫もこれと大同小異で、人の弱みに付け込み、それを最大限に利用しようとする。人を苦しめることに楽しみを感じてさえいそうだ。

 
上のような、人間の立場や幸福や安全などを考えない楽山やシャロームには、しばしば、人を利用し、聖書までも悪用し、良心の呵責を感じない、罪悪感の欠如、弱みにつけ込んで利用する、このように書かれている通りのことを感じてきたから、私は批判しています。
 
気をつけてください。楽山は、極端な例を挙げて、それがカルトだから、自分は違うの当たり前じゃないですか、というような印象を吹き込もうとしているのです。最も憎むべきは、このように狡猾なやり方で人心を惑わす輩です。楽山は、徹底して否定されるべきであります。
 

身から出た錆とはいえ、この二人に挟撃されている登世は、本当に気の毒だ。登世はこの二人に出会わなくとも結局は道をあやまったのかもしれないが、この二人と出会わなければ大過なく過ごせたかもしれないのだから、ここは同情しないではいられない。
小説に限らず、映画やドラマでも、悪役はサイコ的な特徴を持っていることが多いが、そういうものを見るたびに、「相手がサイコパスだと気付いたら、即、逃げろ!」という教訓は本当だなと思わないではいられない。

 
ですから、楽山とシャロームからは、一目散に逃げてください。そして、誰も近づくことのないように、祈っています。
 

現実のサイコパスは、小説や映画ほど分かりやすくはないだろうが、百人に一人はサイコパスだという調査もあるようだし、用心するに越したことはない。むやみに人に偏見を持ったり、差別したりするのはよくないことではあろうが、サイコパスの疑いがある人とは、距離をとるのが無難ではあるだろう。

 
白々しい嘘です。楽山が、サイコパスだとまでは、ずっと、可能性の段階でしたが、今回の記事の騙しの白々しさを読んで、今、ここで、改めて、楽山がサイコパス、少なくとも詭弁と嘘と印象操作で人を騙すことを喜びとするサディストのペテン師だと分かりました。逆方向に言葉をいじくって、逃れられると思っているのでしょうか。
 

本作は、性に翻弄され、道をあやまった女の物語とも読めるが、サイコパスに利用され、破滅させられた、無垢な女の物語とも読めるだろうし、その意味で不倫ものではなくて、サイコホラーと言えば言えそうでもある。不倫ものには興味ないという人でも、サイコパスの怖さを知りたい人には、一読の価値ありである。

 
楽山は、良心の欠片もないのでしょう。だから、こんな白々しい記事を、平気で書けるのです。サイコパスや異常人格の怖さは、早期に知る必要があります。騙されてからでは遅いのです。
 
サイコパス、サディスト、ナルシシスト、ペテン師、情性欠如者、人間離れ、神がかり、などに、カルト宣伝者は、自己中、訂正不能、自尊過大、などの点で共通しており、良心と人間の敵であり、人類と社会の敵です。犯罪以前には、早期に発見し特定し知ること以外に予防策はありません。
 
単にワルだということではなく、憑りつかれたような強張った硬い顔をしているわけでもないのです。
 
大事なことは、この人は罪悪感がなく平気で嘘を吐いて人を騙そうとしたり操ったりするから、おかしい、という理路と証拠と情報を敷衍することしかありませんし、それを、楽山が言うようにではなく、自発的に、冷静に、早期に始めることが大事なのです。
 
 
(2019年11月03日、同日一部修正)
 
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  嘘と世辞と侮辱(2)
 
   「さりげない悪意」コメント欄
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   シャローム(シャロム、shalom、あなた、彼)のコメントの続き
 
 
驚き呆れるのですが、シャロームが説教をしてきました。今までの経過から、そんな資格、シャロームには、とっくに、ありません。いや、恐らく、最初から、無いと思います。何故なら、シャロームは、妄想を語るだけで、キリスト教の基本的な考え方さえ理解していないからです。偽善者だと、とうにバレているのに、説教者の位置にしがみつく醜い男の、言い逃れの詭弁だらけです。
 

16. st5402さん おはようございます
2019年10月31日 20:48
こんばんは
「一人も、真に受けて、シャロームの無罪妄想信仰に巻き込まれることのないように、祈っています。」
st5402さんご自身がだれよりも一番巻き込まれているのかもしれませんよ。

 
私は、批判という手間について、あなたシャロームに巻き込まれているのです。しかし、それは、私の自由意志です。それは、愚にもつかぬ説教話を、シャロームが続けるあいだ、私が生きている間は、私という信仰者の努めとして、続くのです。嫌がらせを書くのをやめなさい。あなたシャロームに、信仰を語る資格はありません。
 

イエスさまは真理はあなたがたに自由を得させるであろう,と言われただけではなく、私が道であり、真理であり、いのちなのです。

 
いくら、あなたシャロームが、キリストを讃えても無駄です。あなたシャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という、背教の反キリスト信条と、その前と後、そして、今までの発言の詭弁と嘘によって、あなたシャロームは、反キリストだとバレているのです。
 
反キリストが、キリストを讃美すれば、また、教えようとすれば、偽善と背教の罪が、増し加わるだけです。あなたは、狂っています。
 

だれでも私によらなければ父のもとに行くことは出来ないとも言われましたね。

 
その神にも、キリストにも、真っ向から背いて、背教信条を自慢してきたのが、あなたシャロームです。去りなさい。黙りなさい。あなたは、キリスト者と交わってはいけないし、ましてや、何かを教えられると思ってはならない。キリスト者を装って、それらしい讃美をすれば、何とかなるなんてことはない。
 

イエスさまは自由を得させると言われましたが、くびきにつながれた奴隷には自由がありませんが、イエスさまは十字架というハンマーで心の鎖を打ち砕いてくださったというのが福音です。

 
そこを、180度、曲解して、勝手な信条を固定してしまって、数々の言い逃れの詭弁と、数々の大嘘と妄想に酔って、罪を気にせず、解放された気になっている見苦しい偽善者が、あなたシャロームです。あなたに福音は語れません。語ろうなどと思ってもいけません。口が罪を犯し続けるなら、切り取ったほうがマシなのです。
 

イエスさまを信じておられるst5402さんはイエスさまが与えられた自由という解放を知っておられますか?イエスさまを信じながら、自分と他者を独立した個人として受け容れられず、自分の課題と他者の課題の区別がつかないのであれば、いつも鎖に繋がれて呻きながら荒野をさまようカインの姿というのがこの世に生きる私たちの姿だと聖書は証ししていますが、その通りだと思います。

 
自らの快楽原則にキリスト信仰を当てはめて、酔い痴れているのが、あなたシャロームです。
 
自分と他者を独立した個人として受け容れていないのは、他者の意見に、何の反論も弁明も出来ないで、ぐだぐだと性懲りもなく文句を付けてくる、あなたシャロームです。そして、こともあろうに、あなたシャロームは、神と自分との違いも弁えていないから、自分の言い分に、神聖を結び付けて、そこからしか物が言えなくなっているのです。
 
いつも鎖に繋がれて呻きながら荒野をさまようカインの姿も、あなたシャロームです。カインは、捧げものが神に受け入れられなかったとき、悲しむことが出来ずに、怒りました。それは、あなたシャロームが、批判に答えられないのに、悲しんで反省するのではなく、憎まれ口や、嫌がらせや、言い逃れを書いてくる姿と同じです。
 
愚かな自分を認められず、自覚できないのは、あなたシャロームが、悲しむことを知らないからです。悲しみの中で、反省することが出来ないので、このような事態にも、相手に愚にもつかない説教?をしてくるのです。あなたの言は、あなたに返ってくるだけで、まるで成り立ちません。
 

イエスさまは私たちの心の鎖を砕いて私たちに自由を与えられたというのです。ハレルヤ!
shalom!

 
あなたは、以前、「失礼しました」と書いて、後で「負けるが勝ち(笑)」と書いてくる、という、嘘を吐き、そういうことを常習としている人です。自由など与えられていません。人の自由を、詭弁と小細工で、都合の良いように誘導して奪ってきたのです。信仰者と求道者に、偽キリスト信仰という心の鎖を巻き付けて縛ってきたのです。
 
背筋が寒くなるような所業を生業としてきて、なお、拒否されていると分かっていながら、説教を垂れようとするシャロームは、むしろ、もはや、よだれを垂らした狂犬と同じなのです。
 
何を、自分信仰の下劣な自己中心の信条しか持たない反キリストのくせに、キリストを讃美しているのでしょう。書いたこと、全部、嫌がらせでしかありません。こういうことをするのが、楽しいのか。追い詰められた果ての断末魔か。醜い。
 
あなたシャロームは、関わる人々を騙してきたのであって、誰のためにも助けにはなりません。嘘吐きシャロームの妄想を語っても無駄です。聖句を引用しても、あなたは、聖句を理解していません。聖句を悪用してきたし、今も悪用しているだけです。
 
今のままだと、あなたシャロームは、どうしようもない地上の命が終わるときに向かって、裁きを待つしかありませんが、変わる意志もないなら、黙りなさい。総ての、信仰者と求道者のために、黙りなさい。不埒者め。
 
あなたシャロームが、今、できることは、説教ではなく、何も語らず黙っていることだけです。決してキリスト者ではない、という証拠を、自らの言動で、積み上げてきたのは、あなたです。偽善者、背教者、妄想家、カルト、異常人格、情性欠如者、それが、あなたシャロームです。退きなさい。
・・全く、ホラーだな・・
 
 

24. st5402さん おはようございます
2019年11月01日 09:02
「私は、批判という手間がかかることについて、あなたシャロームに巻き込まれているのです。しかし、それは、私の自由意志です。」
そうでしょう。でも、あなたの自由意思はイエスさまが言われる自由意思とは真逆ですよ。
それは聖書をよく読めばわかりますし、十字架につけられたイエスさまの姿にそのことがよくあらわされています。

 
ほんとに、あなたは、人の言うことを聞いてないですね。前のコメントで、聖霊による自由意志と、あなたが書いたのは、あなたの妄想で、あなたは、病気で、ということを書いたのに、また、何事も無かったかのように、同じことを書いてくる。
 
あなたシャロームの言っていることが妄想だという理由は、そう信じても、何も深まることもないし、何も良くならないからです。そこを間違えたから、さらに妄想化して、あなたのような人は、腐ったヒト型動物になるのです。あなたシャロームに対しては、間違っても受け入れるなどという優しさを示してはいけません。受け入れてしまうと、ずるずると、妄想に付き合わされ、同じように壊れてゆくでしょう。
 
つまり、あなたのようになって、あなたのように信じて、いいことは何もないのです。あなたは、聖書を、まるで、読めていません。聖書は、人間離れの言葉をくっつけて神がかって、シャロームあなたのようになることを、戒めているのです。そこを間違えたから、あなたのような腐ったヒト型動物になってゆくのです。
 
あなたに対しては、徹底して、否定し続ける以外にはありません。そうして、今回のような妄想が、シャロームによって、その邪悪と狂気が、あらわにされてゆくのを、読者に見せてゆくしかないということです。
 
こういう、何を言われても、聖書を読めばわかる、などという嘘を吐き続けて、自他ともに、人間を、捻じ曲げ、滅ぼしててきたのが、シャロームというペテン師なのです。根っからのペテン師です。良心の欠片もありません。
 
信仰者には、神に祈るという日々の救いがあります。シャロームは、神もキリストも信じていないので、妄想を言い張り続けるしかありません。シャロームの妄想は、キリスト信仰を、偽りの言葉で、へし折ろうとする迫害であることが、はっきりしてきました。
 

私が会ってかかわりを持ったカルトと言われる団体の活動をしている人たちはみなさん人間的には本当にやさしくて善良で正しく生き方をしようとst5402さんのように真剣に生きている人たちでしたね。
カルトは正しい批判を装って近づいてきます。だから優しい善良な人をあざむき依存と支配の鎖で縛ってしまうのです。

 
まさに、あなたシャロームの生き方が、そうなのです。シャロームの場合は、嘘を吐くことで疲労させます。白々しいベタな言葉で相手を褒め、もっともらしい讃美で惑わせ、自分に依存しているという嘘で、侮辱し、壊してゆきます。結局は、破壊者であることがシャロームの特徴です。
 

でも本当は自由意思を奪われているのに、いや自由意思によって自分で選んだ生き方なのだとマインドコントロールされてしまうのです。

 
まさに、あなたシャロームの生き方は、それを、聖霊による自由意志、という言葉の捏造で正当化するから、もっと悪質なマインドコントロールか、印象操作になるのです。
 
キリストと聖霊という神聖なる御方の御名を出して嘘を吐くことは、神に対する最も邪悪な直接の大罪です。もはや、シャロームは、神を侮っていて、神の赦しなど求めていないことを表しています。
 
自分がカルトなのに、悔い改めの代わりに、カルトの例を挙げて、反カルトみたいに言っているのは、シャロームが、何を言われても不感不応で応えず、平気で言い逃れの嘘を重ねる極悪の背教者かつ詐欺師であることを示しています。
 
シャローム自身の口から、これからも、偽キリスト者と偽牧師ぶりが、発揮されることでしょう。
 

実は昨日も若かりし頃、統〇協〇の文〇明の車の運転手をしていたという人が奥さん連れで訪ねてきました。10年ぶりでした。一緒に食事をして、山本太郎の大分での街宣をYouTubeで3時間観ました。たがいに山本太郎の話と生き方に感動し、れいわ新選組のポスターを貼りたいと持って帰られました。
ご主人は私がバプテスマ(洗礼)を施した人ですが、今は教会を離れておられます。でもよい交わりができて楽しい時間でしたね。
shalom!

 
あなたは、正々堂々から最も遠い嘘吐きです。洗礼を施す資格はありません。嫌がらせで書いているとしか思えません。だから、すっとぼけて、どんな白々しい嘘でも平気で言えるのでしょう。シャロームには、人間らしい感情がありません。この人、シャロームに関わり続けると、こうなるということを、シャロームが、今、表しています。
 
黙れと言っても、黙らないだけの悪意を、シャロームは持っていて、人格の破壊に伴って増悪していますから、どんどん書かせてあげましょう。こちらは、吐き気を催しながら、シャロームの邪悪と醜さを指摘してゆくだけです。
 
虚偽と悪意で出来ているシャロームを見てください。人間らしい良心という賜物を失うと、こうなるという実例であります。何も聞かず、言うだけ言ってくるシャロームを見てください。これが、前に書いた疲労物質であり、人間破壊物質なのです。
 
当分、私としては、コメントを書き、4つのブログに記事を書く題材に不自由しないようです。
 
信仰者としては、シャロームの生き様にも言動にも、一生涯、影響を受けないことが肝心です。
 
決して影響を受けてはいけない相手として、シャロームという偽善者を批判し、伝えています。
 
 
私は、しばしば弱く、ときに感情的となり間違えることがあります。しかし、私には、祈りを通して、反省し修正し、努めて成長する、という、絶えることのない恵みが、信仰によって、与えられています。
 
シャロームが、神を恐れず、書いてくることを見て、その都度、対応してゆくつもりです。
 
シャロームには、自尊と妄想信条以外、何もありません。思い出すたびに、今回のようにコメントを見るたびに、実に恐ろしい男だと思います。何より、見るたびに、彼の訂正不能と無反省という異常性を実感させられるからです。
 
(シャロームの嫌がらせコメントは、まだ、(3)へ、続きます)
 
 
(2019年11月02日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  嘘と世辞と侮辱
 
   私の記事「さりげない悪意」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4003988.html#comments
   同じアメブロ記事は
   https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12540534149.html
   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)のコメント
 
 
最近のシャロームは、名指しで批判されると、こうやってコメントを入れてくるようです。これで3回目です。そして、私は、そのシャロームのコメントを批判するわけです。
 
私の批判記事の、おもな対象は、楽山なのですが、シャロームが、コメントを入れてくるのは、シャロームの名前が出てくるからでしょうか。アドラー教もどきで無視しているように見えるお仲間の楽山の応援でしょうか。
 
私の批判記事やコメントに対して、シャロームは、一つも反論・弁明できたことがなく、気色の悪い慇懃無礼の世辞と、当てつけと嫌がらせと言いがかりと妄想だけを、無根拠に返してきたのです。
 
それだけで、シャロームは、自分は言うべきことを言ったつもりで、自己満悦できるようです。人間性を失うと、人間が壊れると、壊れた心だけで判断すると、こうなるという実例でしょう。
 
何故、書いてくるのか、かつて、シャロームのブログに私がコメントを書いてきたから、お返し、とでも言いたいのでしょう。シャロームの書くことと、私の書くことを、同質に見られてはたまりませんが、シャロームには、文字が並んでおれば、同じに見えるのでしょうね。
 
シャロームは、私のコメントの文章の理路も、道理も、情緒も、文脈も、理解せずに、以前のヤフーブログで、は、未承認のまま放置するか、削除するか、コメント欄を廃止するかでしたが、今年あたりは、未承認のままレスだけ書く、という奇妙なこともしてきました。
 
それで、書いてくるなら、説明しても分からない幼稚なシャロームに対して、私は、ずっとそうですが、削除はせず、批判材料とします。盲目の単細胞でありながら、怨念だけが強くなっているシャロームです。
 

1. st5402さん おはようございます
 2019年10月31日 12:33
少し長いのですが、引用します。
「私は、毎日、批判対象のブログを覗いて、お気に入りの100くらいのブログを見て回りますが、当然ながら、お気に入りブログの中には、批判するべき対象はありません。しかし、シャロームは、約8年、楽山は約1年批判してきて、これからも批判を続けるつもりでいます。普通のブログではない、全く違う、と思っています。
この二人も、最初は、お気に入りに入れていたブログです。しかし、底が浅いだけでなく、かつ、悪意あるサイトというのは、しばらく付き合うと、疲れるだけだと分かるほどに、自己中な発言を言うだけで、他者の意見を聞く耳を持たない、ということを知るようになって、今日に至っています。
話にならないこの2つのサイトが、信仰者を含め、一般に対しても、抵抗しにくい独特の偽善的な害があることを、ずっと書いてきました。それが、批判というものです。二人とも、何か言って変わるものではないほどに訂正不能です。だから今は、機会あるごとに、関わってはいけないということを読む人に伝えるために、今までのことを含めて、批判を続けています。」
少し寒くなってきましたが、お元気ですか。
そうですか。毎日お気に入りの100件のブログを訪ねておられるのですか。すごいですね。
お元気で毎日をお過ごしのようでなによりです。

 
いつもながら、どれだけ、私の記事を引用しても、その中身を受け取っていないシャロームであることが分かります。シャロームは、引用したのに、それを無視して、何事も無かったかのように、挨拶から始めて、すごいですね、という嘘の世辞を入れてきます。これが、首筋がかゆくなりそうな、鼻が曲がりそうな、不快と腐敗に満ちたシャロームの世界です。この、世辞と挨拶に隠れているところの、不感不応の凄みが、シャロームなのです。
 

100件のうち私shalomと楽山さん以外のブログはst5402さんにとって批判するべき対象ではないとのことで、コメントを交わし共感を深め合い共有してしておられるのかなと想像しています。

 
シャロームと楽山のブログ以外が批判対象外とは言っていません。また、しょうもない詭弁をぶち込んで、先入観を与えようとしています。シャロームと楽山のブログは、批判対象になったときから、お気に入りの約100の中には入っていないということです。また、2つ以外にも、おかしなブログがあることは、既に書いているのです。
 
(私)
「罪悪感や羞恥心を感じることがなく、自己愛が過剰で、批判されると、罵ることしかできない者たちは、私の経験の範囲で、HNをあげるなら、成りすましが疑われるものも含めると、少なくとも今まで10人くらいになります。もっといるのは確実と思いますが、10人さえも、総てを批判対象にすることは一人では到底できないので、今は、批判対象を、シャロームと楽山、そして、アドラー教に限っています。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12540534149.html
 

コメントを交わし共感を深め合い共有してしておられるのかなと想像しています。

 
コメントを交わし共感を深め合い共有しているとは、私は書いていませんね。ずっと前のシャロームと易坊や、シャロームと楽山のように、無根拠に無条件に褒め合ったり味方したりするような、まるで、互いに尻を拭き合うような、異常な依怙贔屓仲間の臭みなど皆無の、興味と好意だけの、依存関係のない他者へのブログ訪問です。
 
読んで、見て、何かを、温もりとか、人間らしさとか、悲しみとか、何も受け取らないシャロームからは決して受け取れないものを、暗示的にでも、ほんの一部でも、受け取れれば、それで、ありがたいのです。
 
前に、共感する仲間の数を聞いてきたように、これは、社交の世辞としても、本心とは程遠く、シャローム特有の悪意による、さぞかし交わりも深いんでしょうね(ほんとですか?あざ笑い)、という皮肉なのです。シャロームは、実に、人を嘲笑っている人です。決して、彼の社交の世辞を真に受けないでください。
 

世のため人のためという使命感に燃えてst5402さんおひとりで私や楽山さん批判に加えてアドラー心理学サロンの批判を毎日続けるの大変だと想像されますが・・・。お疲れがないように…。
続きます

 
世のため人のため、というより、信仰者の務めとして、反キリストの偽信仰の詭弁を重ねてきたシャロームを批判しています。
 
それにしても、世のため人のため、使命感に燃えて、などという、シャロームの台詞が、白々しい嘘であることは、文脈と、今までの遣り取りから明らかで、今日もせっせと偽善に偽善を重ねて、神への背きに背きを重ねている、現代のパリサイ人、いや、丁寧語の嘘のぶんだけ、さらに悪性度を増している偽善者シャロームなのです。
 
今日初めてシャロームのコメントを読む人は分からないかもしれませんが、
お疲れがないように・・は、無駄な努力をしている、という皮肉なのです。騙されていた数年+批判の8年付き合っていると、何度も何度もシャロームの嘘を味わされますから、本人は分からないから自覚しないようだが、真心でないことくらいは、こちらは分かります。それくらい根腐れの人です。
 
シャロームに褒められても、決して真に受けないでください。言っていることの大半が嘘で出来ている人です。なのに、まるで、ペテロででもあるかのように教える立場と語り口を捨てられず、不細工な詭弁と嘘を今日も書いてくるのでしょう。ゆえに、シャロームについては、きたない、きたない、と言ってきました。吐き気がするとも書きました。これからも、言うでしょう。
 
お仲間以外をそういう気持ちにさせるのが、シャロームの体質になっています。さらに、こういう成り行きの性懲りのなさは、まるで裁かれる定めの表れのように思うこともあります。
 
たぶん治らないだろうと思います。シャロームの文章を見るたびに、そう思います。息をするように、嘘を吐き、欺き、侮辱し、あざ笑うのが、シャロームなのでしょう。決して関わらないでください。
 
 

2. st5402さん おはようございます
 2019年10月31日 12:35
私や楽山さんもかつては
「この二人も、最初は、お気に入りに入れていたブログです。」
とのこと。
そういう時があったことを懐かしく思いだします。
そのコメントは今も残っていますが、
そのほか多くのコメントを交わしたyahooブロガーの方たちとの出会いも思い出を残して間もなく消えてしまうのはやはり寂しいことですね。

 
そういうお気に入りが終わったのは、他でもない、シャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という、キリスト者ならあり得ない信条が明らかになったときからです。
 
そして、そのことを裏付ける醜い言い逃れの詭弁が続いたことで確定して、今も、修正する気がシャロームにはないという成り行きです。反省もせず、懐かしむ要素など、どこにもありません。何を、寂しいことですね、などと、今さら言うのでしょうか。壊したのは、シャローム自身であります。
 
世辞と仲間意識の嘘のつきあいを、出会いと思い出と言って、寂しいと、お涙ちょうだいの、白々しい嘘か妄想の感慨を言っています。もともと共感する意志がないから、正直など考えずに、言葉の効果だけを狙って、もはや通用しない作為の虚偽を、今も武器としているシャロームです。
 

私もブログを何とか続けようとしてはいますが、
厳しいst5402さんの目を逃れながら続けるのも大変ですね。

 
私のせいにする勢いで、私の目を逃れながらでないと書けないことを、自ら、白状しています。
正直な本心で偽りのない誠意なら、誰の目に触れても動じないはずですから。
 
このように、ボロは随所に出してきたのです。その度に無視して忘れて、それが信仰?だと思い込むのです。自身の醜さに、まるで気がつかない末路です。
 

それにしてもyahooブログは便利な機能がいっぱいあって使いやすい素晴らしいブログであったと思います。感謝!感謝!

 
何を興奮したのか、わざとらしく感謝を連呼しています。まるで、ヤフーブログが消えて証拠がなくなることを悦んでいるようです。コメントが不承認で選択したものであることは、スクショ(スクリーンショット)の画像として、いっぱい残っているのです。また、シャロームが言ったことは、このコメントが新たに、私の批判とともに、残りますし、今までの私の記事にも残っています。
 

私の連れ合いも息子や娘たちもよく毎日そんなに書くことがあるねと感心していましたが、ボケ防止にもなったようです。

 
ボケ防止に、嘘を吐いてきたのでしょうか。ボケのみならず悪と偽善が進行していると思います。
 

他の多くのブロガーの方たちのすばらしい記事などもたくさん読ませていただき、刺激を受けることができ、よく引用させていただきながら、続けることができたことも感謝ですね。

 
シャロームは、どこへ行っても、自分の言いたいことを言いまくるだけでした。刺激を受け取ることがなかったと思うのは、前後で主張が、枝葉を付けることはあっても、本質的な妄想は何も変わらないからです、ずっと。
 
シャロームは、例えば思想家などの言を、自分を高めるために、べた褒めして、利用して、自分の妄想と一緒に並べて書いたりして来ました。あらゆる、真実を追求する思想的なことを書く人は、決して、シャロームに関わって、シャロームの話を聞くことのないようにしてほしいです。
 

10年以上もの長い間を振り返ると、楽しい時間を過ごすことができました。
st5402さんとは私のブログ生活の初期に出会った忘れることのできないおひとりですね。

 
毎回、今回も、身の毛の弥立つような、白々しいシャロームの世辞コメントです。
 
人間性も良心もなくなると、何を言われても、超人的に不感不応でいられるのでしょう。それを、神の平安と呼んでいました。超人と言っても、人間離れですから、上から、嘘を教えたり侮辱したりするための魔性です。何も良いものは生み出せません。私は、このようにだけは、なりたくない。
 
これだけ私が批判対象とする人は限られています。ふつう、これだけ言われると、何故と考えるはずです。理由を聞いてくる人もいるでしょうが、多くは書かなくなるでしょう。
 
シャロームには、そういう感受性が無いのです。だから、何を書いても通用しないのに、節操もなく、平気で、だらだら書いてくるのでしょう。それが、8年のみならず、恐らくは、何十年も続いてきたのだろうと思います。
 
一人も、真に受けて、シャロームの無罪妄想信仰に巻き込まれることのないように、
祈っています。
 

st5402さんはこれからも多くのブログを使いこなして充実したブログ生活を楽しみ、お元気でお過ごしください。
shalom!

 
元気で過ごしてほしいと本当に思うなら、今までの経緯を踏まえて、それを書くことなどせずに、黙っていることです。しかし、誠意ではなく、世辞でも収まらない、嘘だから、書いてくるのでしょう。私が、世辞を嫌うなら、それを承知で、うんざりするほどの世辞を書いてくる、そういうのを、サディスト、と言うのです。
 
 
前にも書き、これからも書いてゆく大事なことですが、
 
キリストの敵は、罪でもなく、悪でもなく、嘘や詭弁で善と正しさを装う者たちの偽善です。
 
神に逆らう罪のうち、最も重いのも、罪でも悪でもなく、神を恐れず、自らを高めるために他者を欺く偽善なのです。
 
神聖が見ておられるところで、心にもない世辞によって体裁だけを整えて柔和を装う偽善、自らの反逆を神聖の言葉をいじくって正当化する偽善、何があっても反省しない訂正不能でよいとする自尊によって全知全能の真似をする偽善、等々、表現は多々ありそうです。
 
いずれも、常態でなければ悔い改めることも可能ですが、常態となれば、神に対して、直接、唾を吐きかけることに相当する最大の罪なのです。
 
 
偽善と豪語で自らを高めようとする者たちは、見かけがどんなに柔和で正しそうに見えても、心に快楽原則しかなく、快で笑い、不快で憎しみをいだく者たちです。
 
罪を認めて告白できる人は、必ずと言ってよいほど、悲しみを知っています。
 
喜びを求める人は、悲しみを知っているから求めるのです。
 
喜びだけしか知らないようになろうとすることは、喜びを求めることとは違います。
 
最初から、喜びだけで生きようとすることは、笑うことしか求めないで、多くの与えられた試練の悲しみに気づかないまま、試練の中で苦しむ人を、迫害することになりかねないのです。
 
このような共感性の欠落に至るのは、悲しみを知らない人です。訪れた試練の時に、悲しみを正直に祈り、神に打ち明けることをせず、ゆえに、問うこともせず、自分で、試練を、否定したり、合理化したり、ついには、誰かを、そして、神を、恨むに至るのです。
 
 
(2019年11月01日)
 
依怙贔屓(えこひいき)
 
 
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  アドラー教について(6)
 
   ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン)
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    2019-05-23  
   【シカトしろ❗️】言いたい奴には言わせておけ‼️
 
 

 

アドラー心理学サロンです。
あなたは他人に言われた言葉、他人にされたことを気にしてしまい、傷付いたことはありませんか?
世の中には価値観や考え方の違いから、とんでもないことを平気で言ってきたり、してきたりする人がいくらでも存在します。
困ったことに、あなたにとっては言葉の暴力であったり、嫌がらせになることでも、相手は罪悪感も無く、むしろ落ち込んでいたりすることもあるのです。

 
罪悪感のない人については、私も書いてきました。
 
とんでもないことをされたブログ主の経験と、その反発か復讐心が動機となっているのでしょうか、数々の暴走気味の発言は。
 

本記事では、限度はありますが、他人に何を言われても、何をされても気にしなくてなる方法について解説させて頂きます。

 
このことには、自己中に走りやすい、という指摘と批判があるということです。
 
何をされても気にしなくなる、という言葉だけだと、鈍感になり、無頓着になり、自己中になることにも結び付いてくるのです。
 

まず、他人自分にが言ってきたこと、してきたことを気にしなくてするには、アドラー心理学の代表的な考え方である「課題の分離」を理解する必要があります。

 
課題の分離を、会って言葉を交わしたその時に判断して正確にできる、という前提のようですが、そんなに容易くはないと思います。
 

アドラー心理学サロンでも様々な言葉で、この課題の分離を表現しているので、人によって捉え方のニュアンスに違いがある可能性があります。
本記事では、下記の定義でご説明致します。
「他人が自分をどう思うのかは他人の課題であり、自分の課題ではありません。他人が自分をどう思うのかを気にすることは、他人のことを変えようとする介入となります」

 
ニュアンスでは済まないことがあるから、批判が生まれます。
 
ブログ主は、定義すれば、誰にとっても、意味が定まると思っているようですが、特に、人文系や宗教や倫理の話では、定義こそが、勝手に、また、不可避的に多義に、解釈されてゆくものです。
 
他人が自分をどう思うのかを気にする自分をどうするかは、紛れもなく、自分の課題です。また、自分の思考にとどまる限り、介入とは言えません。
 
考えても仕方がない、言っても無駄だ、ということなら無視するしかありません。そこまで、確かめたほうがいいような気がします。
 
もし、少しは言いたいこともあるということなら、言った段階で、相手を変えてやろうという介入というより、相手に自分の意見を述べるだけだから関わりと言うべきでしょう。ブログ主は、”介入”という印象の悪い言葉を使って強く否定したいようです。
 

自分の課題と他人の課題を区別して、自分の課題の範囲と他人の課題の範囲の分離が必要となります。

 
上の他者のこと総てを安易に自分の外に置いてしまうことで、ぞんざいで荒っぽい不都合の無視という分離?が生まれているようです。
 

課題をどの範囲で分離していくのかが難しいところですが、あなたの嫌がることを言ってきたり、やってくる人に対しては、下記のような分離が実践しやすいと思われます。

 
苦言が、のちに、金言となることもあるでしょう。嫌がること、というだけで判断してよいのでしょうか。その前に、考える、考えるために保留しておく、ということが必要な場合もあるでしょう。
 
他者の言うことには、あまり、快感物質は含まれていないことが多いです。他者が言うときの確信と高慢の度合いにもよります。私は、他者を絶対に無視するなと言っているわけではありません。
 
というのは、高慢な者に高慢な態度で、青二才の頃の私が、青二才の他者に、あるとき唐突に、進路について「○○には向かないと思うね、うん」という言い方をされたことがあります。オレの何を知ってるっていうの?と、ふるえ上がって、物が言えなくなりました。
 
また、私の進路を閉ざすために、「向かない。ひらめきとしてね」と言った人がいます。ひらめきで、人間を扱われてはたまりません。
 
そうして、無視するべきことを無視できずにいると、トラウマになるという経験があります。今でも、思い出すと、心が、恐怖に震えます。残念ながら無視することはできません。記憶から消えないからです。
 
しかし、この記憶の対処・処理・心の整理については、今も考えることが多いです。ということは、このことで、考えを広げることも出来るということです。
 
大事なのは、無視してなかったことにすることではなく、いかに、対象化して、その影響を防ぎ、一つの資料のように、考えられるようにするか、ということなのです。
 

「他人が自分に何をしてこようと、何を言ってこようと、それをどう思うのかは自分の課題。止めさせようとする努力は自分の課題としてできるが、止めるかどうかは他人の課題」

 
つまり、ブログ主は「止めさせようとする努力は自分の課題」と自分で言っているのです。何か言い返すことは、アドラー教の「課題の分離」には反しないということです。
 
自分の精神の安定を脅かすほどに、心がつぶされたように、何も言えなくなったと思ったら、唖然としたら、ともかく、逃げましょう。
 
課題の分離の行き過ぎは、多く、自分の課題とするかどうかについて、常習的に自分の快楽原則の都合で選んでいることによって起こるようです。そうやって、取捨選択された課題は、自分の快楽課題に過ぎません。快楽だけで生きようとすることは、常識的に、否定されるべきでしょう。
 

こうした分離をすれば、嫌がらせを止めさせる努力をすることはできるが、最終的に自分への嫌がらせを止めるかどうかは他人が決めることなんだと、自分のできること、できないことを区別することができます。

 
なんとかしなきゃ、なんとか言わなきゃ、どうしたら言われなくなるだろう、という焦りを防ぐことは大切です。焦りは、心を乱すだけになるからです。
 

できる範囲で、嫌がらせを止めさせる努力をしても、どうにもならないのなら、無理して分かり合おうとせずに、嫌がらせをしてくる人の無視を決め込むか、その人のいる場所から離れるのが賢明だと思います。

 
嫌がらせかどうかを、最初の一言や、その相手に対する先入観で、早計に決めてはいけないと思います。相手が言葉と言い方に何を込めているかによります。繰り返されるかどうか、常習であるかも、確かめましょう。
 
しかし、その時の、自分の判断ですから、相手の言葉に自分が感じた嫌悪感が耐えがたいほど大きければ、今後、しばしば、その言葉のたぐいに接することからは、逃げたほうがよい、という一応の判断はできるでしょう。
 
>分かり合えない人間は、残念ながら存在します。<
 
是としますが、出会って言葉を一言交わして、不快だから、などという早計な決めつけではなく、ある程度、常態として同じ不快が続くかどうか・・くらいは見るべきでしょう。
 

絶対に分かり合えないとまでは言いませんが、あなたから分かり合おうとしても、相手に分かり合おうとする意向が無いのなら自分の膨大な時間と労力を費やして振り回されただけの結果に終わってしまう可能性もあります。
振り回されず、どうにもならないなら関わりを断つようにしましょう。

 
相手に分かり合おうとする気持ちが無い、自己愛の強い人などがそうですが、そういう場合は、そう分かったというより、はっきり感じた時点で、問い詰め追い詰める自信がなければ、関わらないことが唯一の選択でしょう。
 
自己愛性人格障害ナルシシストやサイコパスとか精神病質と言われる人格は、変わりようがなく、どうしようもないのです。
 
昔、聞いた話ですが、ある良心的な精神病院の関係者が言ったことですが、精神病質者が入院してきたときには、先ず、多勢で取り囲んで、ぼこぼこに殴るのだそうです。そういう人は口で説得しても意味がなく、逆らうことは無駄であるということを体に教える、ということだそうです。
 
これは、ただの人間関係の悪化ではなく、極端な人格異常の場合です。しかも、昔の話に過ぎないので、そういうどうしようもない異常な人はいる、ということを言いたいだけです。
 

あまり熱心に分かり合おうとあなたから一方的に努力をしてしまうと、むしろその努力は仇となってしまい、あなたが他人の課題に介入しようとしていることになって相手を逆上させてしまう可能性があります。

 
そこまでする人は、よほど、奉仕の精神に溢れた人で、あるいは、自分は人間関係がちゃんとしていると強迫的に思い込んでいる人でしょう。
 
なんとか関係を修復しようと、焦って、機嫌を取ったり、故意に丁寧で優しい言葉を選んで使ったりする人もいるでしょうから、そこで、的を外れてゆくのでしょう。
 
相手を変えようとする批判は、しばしば、こちらが自己中になっていることが多いです。そして、その結果は、特に精神面の、健康を害することが多いと思います。しかも相手は変わらない、つまり、無益なことが多いのです。
 
私は、広く伝えて、注意喚起を促す、または、警鐘を鳴らす、ということを目的としています。
 
一部の人をもって、介入という言葉を使って、関わるな・・は、ないと思います。
 

また、あなたが自分の課題に加えて他人の課題を背負って余計に悩み苦しむだけになってしまう危険性があります。

 
むしろ、他人のことを考えるか否かを考えるているあいだ、それは自分の課題になっていますから、他人のことを自分の課題にして気にし過ぎる、捨てられない、ということでしょう。背負えない課題を背負ってしまうと苦しみが付いて回ります。
 

上記の課題の分離方法について、良く頂く反論が下記となります。
「そんなこと言ったら、お前の課題だからって言いたい放題、やりたい放題されても仕方ないってことか!?」
そんな訳ありませんよ。
そんな考え方をして他人を傷付けるような人と前述の対処と同じように関わらない方がいいと割り切った方がいいのだと思います。

 
そんな訳ないと言っても、歯切れよく、そんなふうに受け取ってしまうような書き方をしているのです。受け取る側の課題でしょうか、受け取らせる側の責任という課題でしょうか。
 
一方で、相手にしないことは、いずれ、相手も分かるでしょうから、無視は、無視した相手を傷つけます。課題の分離の出来ない相手が、どう出るか、嫌がらせや暴力に発展しないか、これは相手の課題だからと、無視できるでしょうか。
 
人と人は反応し合って生きています。課題の分離をしてもしなくても、相手によっては、結局、逃げるしかないでしょうね。
 
しかし、課題の分離を、いつも使って、不都合を無視している者もいるので、そういう者を批判するためには、相手に読ませることではなく、広く一般に情報を伝えるという方向を、自分の課題とするほうがよいと思います。です。
 

「あなたが嫌い」、「あなたを傷付けたい」という目的を持つ人は理屈が通じる相手ではありませんので、そもそも関わらないようにする努力が必要となります。

 
理屈が通じなくても、なんで、こんなことをするんだ、とか、こちらの被害を見せることで、気づく人がいることも忘れないようにしてください。冷たい心の持ち主にならないために。
 
自己愛の強い人というのは、理屈も通じず、また共感も成り立たない人です。見分けることは、とても大事です。そういう人は、高い位置を占めると、とても偽善的な社会悪に結び付くと思います。
 

自分の課題に加えて、他人の課題まで背負って生きることはできないのです。
自分の人生を生きながら、他人の人生まで生きてはいけない。

 
ですから、個人が、きっぱり、これは、どちらの課題かを、早期に、会って言葉を交わしたときに、その時その場で、見分けることが、いつもできるとは限らないのです。
 
そこに至るまでの、思慮を養う必要があります。でないと、好きなように使って、アドラーの名を付けて、心理学の名を付けて、自己のために利用するでしょう。
 
いけ好かない人と思われ、自分に、アドラー教で言われている「関わらない」対象の人格が当てはまったりすることのないように祈っています。
 
いちばん気分のよさそうなところに、アドラー教の言葉があり、曲解する者が飛びつけば、それは、とても気持ちの良い、また、都合の良い言葉として、恣意的に使われる可能性があります。
 
 
(2019年10月31日)
 
 
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  さりげない悪意
 
   ドラマ『まだ結婚できない男』
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12540159777.html
   楽山日記(a):」楽山のブログ
 
 
ドラマ「まだ結婚できない男」は、前の「結婚できない男」から、再放送も含めて、私は、ファンですから、よく見ていました。
 
「まだ結婚できない男」について、楽山は、感想を書いていますが、その中で、ネットの誹謗中傷が描かれていることをネタにして、大きな社会問題だと、自分の罪を蚊帳の外において、言っています。
 
批判され、正当な反論や弁明をもって返すことも出来ずに、代わりに、嫌がらせ、当てつけ、雑言を飛ばし、かつ、同様のさらに酷い異常者であるシャロームに無条件に味方して、シャロームの呆れるような妄想の肩をもつ楽山の意図を考えてみます。
 
(一部抜粋のみ)

ドラマの全体の流れは、一回一回で一応の区切りをつけながらも、ネット上における誹謗中傷という事件が幹となって全体を統一しているようである。自分としては、本シリーズでこういう殺伐とした話が出てきたのは意外ではあったけど、ネットでの誹謗中傷は、いまや大きな社会問題でもあろうし、こういう現代性を取り入れつつ、桑野さんを誹謗中傷している匿名者は誰かという謎をドラマ内に持ち込むというアイディアには驚かされた。

 
コメディの中の、ネットで中傷コメントが書かれた話を、何を、そこだけ真に受けて、現代の大きな社会問題だからと、分かったようなことを言うのでしょう。このドラマは、コメディだから、見れば直ぐに、そういう社会問題を正面から扱うようなドラマでも情報でもない、ということの察しがつかないのでしょうか。
 
「おもしろかった」「桑野(阿部寛)さんは相変わらずおもしろい」「すごい」「もろにハマってしまっている」「ラブコメ要素」といったような、誰でも書きそうなベタな感想だが、そういう、まったりしたことを書きながら、楽山は、その記事の中に潜ませるように放り込んでくるんですね。
 
看過できないところとして、「ネット上における誹謗中傷という事件が幹となって全体を統一している」と言うには全く当たらないこと。どういう目で、コメディを見ているのだろう。
 
また、「犯人は誰かという推理とサスペンス」・・面白くするための設定ではあるが、前作にも、ストーカーが出てきたように、桑野が一見やばい人ように、姿勢や目つきなど、見えることと関係あるのかな・・とも思いますが、そのことも含めて、コメディを引き立てる出来事としての一要素であり、推理サスペンスではないこと。
 
部分に、主題となるようなサスペンスという言葉をくっ付けて、それを、気になってるからと重たく語って、全体を総合できずに、バランスとか、主題と副題とかを、総合・統一することが出来ないでいるようです。これは、何故なのでしょう。私も、よく分かりません。
 
楽山は、自分が、私の批判を、まともに受け取って考えることなく、また、何も返せないものだから、誹謗中傷を受けた被害者のつもりになって、過剰にシリアスになって集中し、そういうジャンルの違うドラマの要素を、コメディなのに、持ち出して的外れに大真面目に当てつけるのだろう。
 
 
実際には、誹謗中傷の言葉を、訂正不能に、理路の成り立たない同じ自己中仲間のシャロームというカルトの味方をしながら、婉曲的な言い回しで、ずっと書いてきたのは、楽山である。こういうところにも、自己中心の身勝手な見なしが表れている。
 
楽山は、執念深い尊大と怨念を、ボンヤリ言語の柔和?と中庸?の表面で隠しながら、企みの言葉の操作で、そっと吹き込んでくるカルト宣伝者に他なりません。決して関わってはいけない人です。
 
私は、毎日、批判対象のブログを覗いて、お気に入りの100くらいのブログを見て回りますが、当然ながら、お気に入りブログの中には、批判するべき対象はありません。しかし、シャロームは、約8年、楽山は約1年批判してきて、これからも批判を続けるつもりでいます。普通のブログではない、全く違う、と思っています。
 
この二人も、最初は、お気に入りに入れていたブログです。しかし、底が浅いだけでなく、かつ、悪意あるサイトというのは、しばらく付き合うと、疲れるだけだと分かるほどに、自己中な発言を言うだけで、他者の意見を聞く耳を持たない、ということを知るようになって、今日に至っています。
 
話にならないこの2つのサイトが、信仰者を含め、一般に対しても、抵抗しにくい独特の偽善的な害があることを、ずっと書いてきました。それが、批判というものです。二人とも、何か言って変わるものではないほどに訂正不能です。だから今は、機会あるごとに、関わってはいけないということを読む人に伝えるために、今までのことを含めて、批判を続けています。
 
 
楽山は、アドラー教の宣伝者です。彼の記事の中に、気に入らないことは無視しましょう、というアドラー教の言葉が書いてあります。・・と思ったら、削除したらしく、記事が見当たりません。都合の悪いことは、隠蔽して、知らぬ顔をする、という、悪い政治家がするようなことを平気でやってくる楽山です。
 
こういうところは、楽山やシャロームなどに共通した偽善者の卑怯なところです。アドラー教信者でなくなったのなら、宗教は大きなテーマなのですから、今までの記事に書いたアドラー教を勧める記事の教えをその記事とともに否定する訂正記事を書くべきだ、ということを言論者の常識として弁えていないのです。
 
好きなように、自己中心に動いているところは、まさに、アドラー教の言葉、上に加えて、課題の分離の曲解によって、自分の課題だから勝手にして、それをどう思うかは相手の課題だから知らないよ、という、アドラー教もどきのスタンスそのままです。
 
アドラー教の批判を書いたように見せかけていましたが、何も変わってはいないのです。というより、自分が元々体質的に持っていたナルシシズムからの自己中にアドラー教が適っていたから気に入って宣伝していたのかもしれません。
 
ベースにアドラー教または過剰な自己愛があるとしか思えない自己中心が、無反省と、他者の意見に対する無理解・無思考と、全体の文脈を把握できないために自分が揶揄したり否定したりできそうなところだけ取り上げて否定してくる姿勢に、今までずっと表れてきました。
 
そして、ねちねちと執拗に絡みつくような言いがかりをつけてきて、あたかも被害者であるかのように見せかけ、誤魔化すために、軟いテーマを選んで、軟い言葉で、ああでもないこうでもない曖昧ボンヤリ言語で刷り込んでくることが続いていました。
 
また、聖書を引用して、クリスチャン芝居をしたこともあります。恐らく体よくキリスト教が分かることを自己顕示したかったのでしょう。楽山には、ひとかけらの信仰もないことが、記事を削除したとしても、彼の、過剰な自尊と、別の記事の、キリスト信仰に対する、いちゃもんに、表れていて、時々に、既に、私が批判記事を書いているのです。
 
自分を高みにおいて、神がいるならば何ゆえ悪を造るのか、などと言って、悪を神のせいにする態度は、自分が悪と偽善であることを省みもしないで、自ら、滅びゆく資質をあらわにしている態度に他なりません。
 
神は、神が与えた良心によって、人が悔い改めることを期待しておられるということです。そのシンプルなことが分からず、分からない苛立ちのまま、訂正不能の自己愛によって思い上がり、アドラー教に似た学習不能と成長不能から、今もなお、神に敵対する詭弁を弄しているのが、楽山です。
 
さらに、何度も批判されて、まともに返せないのに、まだ、文句をつける、または、婉曲的に、被害者か、客観的に見ている批評家のような書き方をやめないこと、等々に、楽山の本質的な不遜と異常性が表れています。
 
 
悪の最上級が、悪を隠し善に見せかける偽善というものです。楽山とシャロームは、まさに、その道を歩んできて、相変わらず、自責の念、反省する心、訂正する思慮、いずれも皆無であります。
 
偽善の大きな特徴は、すぐには罵詈雑言を言ってこないことです。だから、ネットで罵詈雑言ばかり飛ばしてくる者たちは、悪と分かりやすく、そういう場合、偽悪者との区別のほうが大事になるでしょう。
 
最悪の偽善者は、専ら、丁寧語の世辞と社交の薄っぺらな言葉をもって、刷り込んできます。すなわち、優しそうな筆致で書いて、よく読むと婉曲的に悪口を潜ませているという形の文章によって、後から振り返るときに、こうも言ってたっけ・・という印象を残すやり方です。
 
それが長く続いていることが、人のことなど自分を褒める者たちくらいにしか見ていない彼らの企んだ誘導の技と意図なのでしょう。楽山とシャロームの悪意の根深さを表しています。
 
 
罪悪感や羞恥心を感じることがなく、自己愛が過剰で、批判されると、罵ることしかできない者たちは、私の経験の範囲で、HNをあげるなら、成りすましが疑われるものも含めると、少なくとも今まで10人くらいになります。もっといるのは確実と思いますが、10人さえも、総てを批判対象にすることは一人では到底できないので、今は、批判対象を、シャロームと楽山、そして、アドラー教に限っています。
 
その3人を、最初に無益な50~100コメ超を私に強要してきた易坊という荒らしのHNに因んで、易坊類と呼ぶことにしています。皆、似たような性質を持っていて、それらが、成りすましなのか、親類縁者なのか、組織なのか、仲間なのか、友達なのか、ネットで明らかにすることはできないでしょう。そこにつけ込んで、無責任のまま、蔓延っている現状です。
 
 
なお、偽善に近い考えや行為は、根腐れの偽善者でなくても、気がつかないまま、普通にやっていることもありますから、要注意です。折々に、自ら省みて反省してみることの大切さを思います。
 
 
キリスト信仰の立場から言うと、きわめてシンプルなことが言えると思います。
 
悪人は罪人であり、救われることがあります。悔い改めることがありうるからです。
 
偽善者は偽善者であるあいだ救われません。悔い改めることがないからです。悪を隠す偽善の行為が既に自分を善に見せかける行為であり、反省とは逆の邪悪な自己正当化という偽善だからです。
 
このように、救いを拒むのは、常に、人からであります。
 
どういう人に対しても、神が救いの約束を反故にすることはありません。神は、いつも、罪人である人間が、正直に罪を認めて告白してくるのを待っておられると思います。
 
神に対して正直に罪を告白することが、そのまま、俗でも欲でもなく、神のほうを向くという悔い改めであって、罪の償いの善の行為は、あったとしても、信仰の結果の副産物に過ぎません。キリスト信仰が、行為義認ではなく、信仰義認であるゆえんです。
 
ここで、人間に与えられる義は、あくまで、信仰によって罪が赦されるという信仰の義であって、絶対の神の義とは異なります。そこを勘違いしているカルトもいます。
 
このことは、聖書を読めば、キリストの敵は、偽善者であったことから、明らかです。
 
罪人は、キリストにとって、赦す機会を与えられた人であり、罪の自覚を持ち得ます。
 
正直に罪を認めて、その小ささの低みから謙る罪人は、
それこそ、救いの対象として、キリストに愛される人です。
 
偽善者の言は、受けが良いこともありますが、偽善を隠して企みの言葉の技(わざ)だけで書いた文章は、たとえ、一時的に得意になることはあっても、私の肉体と精神を滅ぼすことがあっても、ついには、真実を求めようとする真剣な言葉には敵いません。
 
そして、その導きと最終的な裁きは、言うまでもなく、神の業(わざ)であります。
そこに向かって、キリスト者は、一人一人が、出来ることを努めてするだけです。
ゆえに、キリストの荷は軽いと言われます。
 
 
今、「まだ結婚できない男」を見ていますが、桑野のサイトに中傷コメントを入れてくる者のことを、桑野のお母さんが、さみしいのね・・と言う場面がありました。楽山に利用されそうです。
 
桑野は、なんだか、それは、あなたの課題です・・とか、言いそうに見えますが、言わない理由があり自己中でないとすれば、桑野には、気づかないままだが、人一倍、情があるからです。
 
情の絡む場面では、情に負けることが多く、誰かのように、平気で人を無視する、なんて出来ないで、頼まれると、折れて、結局、人のために実行力を発揮する場面が、多々ありました。その辺は、批判対象の易坊類とは全然違って、魅力的なところです。
 
 
どうしようもない男は、楽山のほうでありますから、私は、冷静に、批判を続けます。正しさについては、それを求めていますが、結論は、神に任せるしかありません。長く続けるためには、淡々と続けることが必要です。
 
 
(2019年10月30日、同日一部修正)
 
謙る(へりくだる、遜る)
 
 
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