ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。サポートに問い合わせて、ようやくコメントボタンが付けられました。ソーシャルボタンは、コメント欄の上に表示されることも知りませんでした。

 
  楽山の捨ててゆく時
 
 時は金なり、命なり
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25582330.html
 
 
引用して、結局、当たり前のことを、お陰様で勉強になる、時間の大切さ、時は金なり、その通り、という、宿題に困った小学生の幼稚な感想文のようなことしか書けない楽山です。書く必要のないことを書いて、一人前の言論者のつもりでいる自己満足の楽山です。
 
その一方で、批判されたことを、ことごとく無視して、無反省で訂正不能の、唯我独尊の悦楽に入るような、見かけの飾りだけの楽山であり、いちばん、時を無駄にしている楽山であります。どうか巻き込まれないでください。
 
ツイッターを眺めていたら、次のツイートが流れて来た。
「あぁ、この人話通じないな」って感じの人に出会ってしまったら2秒で諦めて感情オフモードに入るといい。真面目な人ほどわかり合おうとするから体力も感情もゴッソリ持ってかれる。わかり合うには双方の歩み寄りが必要で、相手がそれする気ないならわかり合うとか無理だから。諦めちゃっていいんだよ
 」
2秒で決断できるのはスゴイ。リプも深い言葉が沢山ついている。お陰様で勉強になる。
 
2秒で決断できるとは思えません。私は、この楽山に、数か月、振り回されました。楽山は、ああでもない、こうでもない、ていうか、かなあ、というような婉曲的な筆致と、浅ましいほどの詭弁によって、私がボンヤリ言語と呼んでいるのですが、ごまかし、振り回してきます。楽山とのコメントなどの遣り取りは、百害あって一利なしです。
 
楽山こそ、「わかり合おうとする」と「体力も感情もゴッソリ持って」ゆく人です。楽山が「双方の歩み寄り」というのは、自分に賛同するか世辞を言え、ということですから、まるで、話になりません。話にならない人については、誰も近づかないように、批判することしか出来ません。
 
上のような引用をして、またしても、自己正当化と、遠回しに他者への貶めをしてくることから、明らかですが、楽山の記事というのは、大方、このような恣意的な意図をもって書かれており、一見、まともに見せてきますが、実際は、良識に、いちばん背いているのが、楽山なのです。
 
つまり、だまされないでほしいと思います。私にとっては、いつもの楽山の卑怯な筆致です。楽山は、私の批判に対して、一度も、まともな反論や弁明をしたことがありません。同じような苦情を並べるだけだったので、直接の対話を避けています。
 
だます人なので、誰も引っかかることのないように、批判記事を書いています。アドラー教ゆずりの自己中によって、都合の悪いことを総て無視しています。このような単方向しか持たない人との会話は避けてください。無駄に疲れるだけです。
 
楽山は、自己愛性人格障害なので、孤独になっても、この記事のようなことを書いて、独りで悦に入る、ということが出来るのです。
 
しかしながら、不都合を無視することは、自らの非を認めず、反省せず、学習することが出来ないということです。したがって、知性も感性も鈍麻して、中身の殆どない記事を書いてきます。他者の文章の中から、都合の良い文言だけを書いてきます。まさに、この記事がそうです。
 
ただ自分は根が優柔不断であり、いらぬ口をはさみたい一言居士でもあるので、これを実践するのはなかなか難しい。つい先日も、ツイッター上の議論をみて、つい横から口をはさんでしまい、そのあとすぐに「しまった! これは話が分からん人だ」と気づいたものの、話を打ち切ることができず時間を無駄にしてしまったのだった。最近はネット上の巡回先を狭めて、自分の趣味と家族のための時間を増やそうとしていたのに、また振出しに戻った形であった。とほほ。
 
このように、「しまった! これは話が分からん人だ」というように、不都合を、他者のせいにしてきます。自分の非を認めません。
 
楽山は、自分と関わる人の時間を、ことごとく無駄にしてゆく魔物です。そして、反省と書いたり、この記事のように、とほほ、とか書いていますが、その実がなく、その前と全く変わりなく、勝手な思い込みを前提に書いてくるのです。この楽山の、詭弁としての、わざとらしい書き方を、トホホ言語と呼んでいます。
 
楽山は、優柔不断なのではなく、自分の都合だけで、自分のためにだけ、記事を書きます。そして、だまされた人が、やさしい人柄ですね、など、世辞を書いてくるのを待っているのです。実質的な議論や話し合いなど、全くする気がないのです。
 
楽山の記事もコメントも、どこからか、自己中心に拾ってきた、自分に賛同し、自分を褒める言葉でしかありません。楽山は、人と交わすための、自分の言葉を、全く持っていない人です。それで、自分に都合がよい言葉を引用して、べた褒めして、結局、自画自賛しているのです。
 
あまりにけちん坊すぎるのも嫌だけども、それでもやっぱり時間は大切にしたいものだ。「時は金なり」というけれど、これは控えめな言い方であって、本当は「時は命なり」といっても、ちっとも大げさではないのだ。
 
以上のようですから、楽山は、時間をことごとく無駄に消費して、人生の可能性を捨ててゆく生き方です。そのために、思考も情緒も、恐ろしく鈍感になり、ますます、気づきというものがなくなっています。この方向は、ずっと続くだろうと思います。真に受けて付き合えば、同じように鈍感になり、かつ、言いようもない疲労に陥れられるでしょう。それで、楽山は、満足するのです。
 
と、ここまで書いてから検索してみると、やっぱり既に「時は命なり」と言っている人がおられた。 内容紹介を読むと、時間の大切さを説いているようだ。まさしくその通りと思う。
 
ここで、単純に、誰でも知っているような「時は命なり」を「言っている人がおられた」などと、初めて聞いたかのような書き方をしています。そして、「時間の大切さ」と、これまた、当たり前のことを書いて、締めに「その通り」と言って、記事を書いたつもりなのです。自分の言葉を持たない楽山の世界に、どうか巻き込まれることのないように祈っています。
 
 
(2020年07月20日、同日一部修正)
 
 
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  知るべきこと(再)
 
 
旧約から信仰の節操を学び
新約から信仰の愛を学ぶ
 
旧約聖書から
全知全能・絶対完全・永遠不変
という神のあり方を表す言葉を受け取ることは
それを理解することではなく
(人間に理解できることではない)
神と人の決定的な違いを
創造主と被造物の決定的な違いを
あくまで人の側において学ぶことである。
 
神に対しては
人のいかなる自信も自慢も通用しない。
人のいかなる知性も感性も
そして、いかなる偉業と呼ばれるものも通用しない。
神に対して人が捧げて届くのは
正直な告白のみである。
 
それ以外は通用しないことを学ぶ。
これを信仰の節操と呼ぶ。
 
新約聖書から
救い主イエス・キリストの神性を学ぶことは
それを理解することではなく
(人間に物や肉体の奇跡は理解できない)
またそれが自分に起こると信じることでもなく
(自分に神の行為を結び付けるのは人の傲慢である)
神性が人間性の低みに身をおろした
ということを
あくまで人の側において
人間性に相応しい理解をすることである。
 
すなわち
キリストの洞察力と共感力を知り
またキリストの同伴の恵みを知ることは
信仰の愛を知ることである。
 
信仰の愛を支えとして
信仰の節操を弁えながら
耐え忍んで生きるのがキリスト者の道である。
 
 
 
神の意志と行為を決めつけて
奇跡による救いを信じるのは
神への冒涜であり偶像崇拝である。
 
信仰は、唯一、
神と人の違いを弁える節操において
厳しいと知るべきである。
 
神は友達ではない。
神は
やさしいおじさんでもお爺さんでもない。
偉い御方にとどまる者ではない。
 
絶対の正義に人間は耐えられない。
ということは
神はご自身のような正しさを人に求めてはいない。
 
神を信じるという信仰は
神の前に偽りが通用しない
ということを信じること。
 
それが神を恐れるということ。
 
神は
その初めから終わりまで
在って在る者、
人知を超えた理由とあり方で
創造主であり万物を統べる御方である。
 
 (出エジプト記、口語訳)
3:13
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
3:14
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
 (出エジプト3:13-14、旧約聖書)
 
キリストは権威ある仲保者である。
神と人の間をとりなす御方である。
ゆえに人間に共感し
その苦しみを負われた御方であり
命を惜しまぬ愛を
罪深い人間のために捧げた御方である。
 
贖罪の教理を知っても
キリストの愛を知らなければ信仰ではない。
 
キリストの愛に答えて
キリストを愛するのが信仰である。
 
贖罪の教理によって
いつも赦されるから無罪であるかのように振る舞うのは
神への直接の背きである。
 
信仰は
いつも喜びだけを与えるわけではない。
信仰は
むしろ悲しみを通して成長するために与えられている。
 
いつも喜んでいるように振る舞うのは
迫害が迫る時代と違って
現代においては、大方、嘘であり
神の前に嘘は通用しない。
 
そのようなあり方は
祈りの体裁だけを整えることであり
それによって信仰は少しも整うことはない。
 
信仰は
神の言葉だからと
聖書の文言だけにこだわることではない。
それは教条主義に陥る。
 
信仰は
聖書を興味本位に読むことではない。
黙示されていることを知ろうとするのは
信仰ではなく興味に過ぎない。
 
聖書は暗号の謎解きのために書かれてはいない。
信仰が難しい謎解きを必要とするなら
いったい誰が救われると言うのか。
 
聖書は人間のために
信仰を伝えるためにのみ書かれている。
 
信仰者を信仰にとどめるのは
キリストの愛に答える信仰者の愛であり
それゆえ人が道を外れても
神の全能もキリストの愛も滅びることはないのだから
正直に告白して赦される道は
神の側から断ち切られることはない。
 
偽善者と背教者は
悔いることがないゆえに救われないのであって
 
神が人を見捨てることはないのである。
 
神の愛は節操のみにおいて
この上なく厳しく
キリストのもとに帰る恵みにおいては
この上なく寛容である。
 
 
(2019年07月16日)
 
 
シャローム:
批判している途上で、「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という、キリスト信仰とは正反対の信条をあらわにした。これ以後、反キリストと見なしている。
世辞と、おとしめ言葉を、同じコメントに書いて、不自然さを覚えない不感不応の、偽善者であり、サイコパスと見なしている。
 
易坊:
シャロームとともに、私の、当時のヤフーブログを荒らして、50~100コメ超の遣り取りを強いてきたカルト的荒らし。サイコパスとしか思えない。
 
楽山:
無宗教を気取りながら、ときに、反キリストの記事を書き、キリスト教をおとしめてくる。また、一方では、キリスト教的な文言を書いてきたりもするので、主張が一定しないが、唯物論や進化論を用いて、神信仰を否定するのは、やはり、反キリストとしか思えない。その後の、訂正不能、自己愛性の人格障害、学習不能、無反省、などによって、サイコパスと見なしている。
楽山は、自己中カルトのアドラー教(アドラー心理学)の宣伝をしていた。それは、楽山の自己中カルトとして、今も、様々な詭弁を弄して、続いている。
 
シャローム、楽山、易坊については、一人による成りすましの疑いもある。
 
自称マグダラと自称ヨシュア:
この二人は、最近、ご無沙汰である。
ヨシュアは、戒めを守って完全になれるのです、などと豪語して、私が批判していると、しばしば、私の個人情報を出してきて、発狂するかのように、私のことを、ダメ人間、精神病などと罵り、罵詈雑言を並べた。
自称マグダラも、同様に、批判すると、別人のように、攻撃的になるが、プププ、ケロッ、などと、奇妙な台詞を吐きながら罵る。俗的な意味で、ヒステリックである。
この二人については、一人の成りすましを疑っている。
 
アドラー心理学:
私は、カルトだと思うので、アドラー教と呼んでいる。気に入らないことは無視しましょう、あるいは、私の課題ではありませんと無視することを、誘い文句として勧めているので、"日本人アホ化計画" を企てているカルトとして批判している。楽山は、その宣伝者であろう。
"無視" がもたらすものは、学習がないために、成長しなくなることで、恐らく、人の気持ちの分からない、知性と感性が鈍麻した、ぼうっとした人格に帰結するのだろうと思います。
 
以上の者たちは、私が死んだ後も、生き続ける者たちです、巻き込まれることのないように気を付けてください。
 
 
個人の人生の最終的な闘いと、人類の歴史の最終的な闘いは、人の世界の現象としては、恐らく、普通の良心と、サイコパスとの闘いになるでしょう。
 
 
(2020年07月16日、一部修正して再録)
 
ブログ、しばらく休むことになるかもしれません。
 
 
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  議論不可の者たち
 
 
シャロームと楽山、という、一人の成りすましも疑っている二人に、特徴的に見られることを、書いておきます。まとめになっていないかもしれませんが、私自身の記憶の維持と整理のためということもあるので、時々書いてゆくことになるでしょう。
 
シャロームは、一時、名無しと名乗って、別サイトのブログを荒らしてきましたが、現在、所在不明です。楽山は、書き続けています。
 
その他、実際に見たカルトについての考察もまざっています。また、キリスト教内部にも、似たような人はいるので、そのことも含めて書いています。キリスト教の、聖句の誤解と勘違いからの批判禁忌のために、キリスト教内外で、腐った宗教として、カルトや、カルト的な偽キリスト信仰も生まれているのだろうと思っています。
 
 
サイコパス、病的ナルシスト、自己中、などと言った人格障害と、聖書の偽善者と、カルトには、類似するところがあり、これらの病者は、いたるところに紛れ込んで存在していると思います。議論や話し合いは、疲れるだけであり、全くの無意味であり、不可であります。
 
人格の異常なので、治療法がない。何らかの強制力をもって、条件反射的に、矯正してゆくしかない成り行きなのでしょう。つまり、説得は無意味かつ無効であり、代わりに、人道と法に背けば痛い目に遭う、ということを体に覚えさせることで矯正してゆくしかない者たちであります。
 
しかし、強制措置は、悪用された歴史もあり、現時点では難しいでしょう。
 
やさしい言葉や付き合いは一切無効です。こんこんと言い聞かせても、返事だけよい場合があるが、そもそも、本気というものを持たないので、無駄なのです。訂正不能で、不都合を無視してくるから、それが余裕に見えることで、ここで、だまされて、付き合ってた人もいたようです。
 
聞くしかない状況で、こんこんと言い聞かせられて、黙っていても、頷いても、本心は、自分にとって地獄のような時間が過ぎ去るのを待っているだけでしょう。
 
反論も弁明も出来ないので、屁理屈をでっちあげて、自己正当化をするか、あたかも、議論をしたふうを装う。何の進展も得ることはなく、疲労だけを与えてきます。
 
 
こちらの言うことを、何の根拠もなく、こちらに返してくる。ですね口調がしばしばみられる。
 
罪悪感がない、羞恥心がない、恥ずかしい自分を想定できない。不都合に際しては、不快だけを生じて、反省しない。不都合は、総て、人のせいにする。
 
元々、情緒障害があり、深い共感を持ち得ない。したがって、他者を思いやることが出来ない。つまり、自己中心であり、語る言葉は自慢になり、返す言葉は自己正当化に向かう。
 
罪の意識など微塵も持っていないが、宗教に関心を示すのは、考えなくてもいいような、安易な道を求めるからであり、超常信仰や、霊能者気取りが多い。
 
壊れた人格で、他者の人格を壊してゆく。一定期間以上関わると、同種の性質が、こびりついてきて、不可逆になる場合もあるので、要注意。
 
つまり、偽善は伝染病である。習癖や風習となることもある。
 
丁寧語と曖昧表現を、しばしば使う。柔和に見せかけている。世辞を言うこともある。
 
根底には、他者への軽蔑や憎悪があって、大方、隠しているが、皮肉や当てつけに、表れてくる。
 
カルトに多い。豪語する妄想的な硬派カルトと違って、軟派カルトと呼んでいる。
 
恐らく、脂ぎった皮膚に冷汗を滲ませて、目を見開いて、少し顔を、圧力的に寄せてくるような、念押しの態度が見られることもある。・・神は、いるんですね(!)・・など、文章においても、「ね」付き語尾の多用に注意。
 
自信に満ち溢れて、余裕があるように見えるのは、いつも、分かっているという上の立場から見下ろしているからですが、その根拠は皆無であり、むしろ、ベースは、偽りから始まっている。だから、ベースの上に積み上げるものも、偽りにしかならず、ゆえに、だますことにしかならない。
 
感情としては、快と不快の快楽原則、笑いと怒りしか持っておらず、しんみりした悲しみや悔いの情を持たない。
 
不快に対しては軽蔑と憎悪をいだきながら、相手をおとしめるための、策略や詭弁を用意してくる。誠意は皆無。勝つことと支配することだけを生き甲斐とする。宗教を、神相当になることだと曲解している。
 
知性も感性も、人間としては、欠陥だらけだが、世辞や社交の言葉で、高い地位にいることもあり、ゆえに、極めて有害となりうる。
 
知能が高くても低くても、理解は皮相な字面の概念だけで、共感を伴う深い理解は見られない。理路は、しばしば短絡する。
 
犯罪に及ばない限り法で裁くことは出来ない現状に甘えて、批判を無視してくる。まだ裁かれていないことをもって、自己正当化を図ってくる。違法行為がないからカルトではないという言い分を押してくるが、逮捕できる法制度がないだけである。つまり、犯罪がなくても、犯罪に結びつく不正であると判断した思想の類を批判することは正当である。
 
気取り:宗教指導者、聖職者、学者、批評家・評論家、インテリ、いずれも、気取りだけで、中身がなく、嘘っぱちだが、かなり本気で、指導者・人格者の自意識だけがある。
 
分かってるふうの自慢、審判する立場にいるかのような口調の筆致と自慢、わざとらしい讃美による自慢、著名人の名前を出して同列に見せかける自慢、いずれも、詭弁であり、実(じつ)が表れていないことをもって否定される。
 
 
キリスト信仰は、
人の善行でも正義でもなく、
主イエス・キリストの御名によって祈るときの、
神に対する精いっぱいの正直さのみによって成り立つ信仰です。
 
 
※ ぼやき:
 
私は、今より若き日に、罪を犯し、違法行為にも、否応なしに関わってきた罪の履歴があります。そのことを、暴露されそうになったときに、自ら告白した結果、SNSに多大な迷惑をかけたので、その後、そのことについて、具体的なことは話さないようにしています。
 
私は、もう高齢ですから、元々心身に持病を抱えている上に、視聴覚をはじめ五感も衰え、知性も感性も、大したものを持っていたわけでもないのに、さらに、衰えています。その実感からは、この地上の命を終えるときも、それほど遠くないのではないかと感じています。
 
今まで、書いてきたのは、今に至るまで私の命を支えていただいた、主に対しての、私の信仰観であります。だから、受け取る受け取らないは、個人の自由です。ただ、カルトと、偽善者と、人格異常者の、詭弁の罠にだけは、引っかかってほしくない、という願いを込めて書いてきたということであります。
 
 
 死の蒸気
 
空気・・黄土色の刑罰
海・・平たいところから飛んでくる
地球・・未知の崖
空・・不在の故郷
土・・かつて、いつか、人間
草・・帰ってきた殺陣
道・・吸い込みの架空
温度・・不活を呼ぶ落差
風・・迷惑がっている
声・・引き裂き
笑・・財布の音
訳・・蝶番
易・・失業
希望・・死の蒸気
愛・・言い訳の泉
信仰・・伴って逝く
罰・・黄土色の空気
 
希望を "死の蒸気" と書いたのは、自由連想ではありますが、希望というものが、私にとって、はっきりした形ではないことと、死を思うときに最終的な希望を想わないではおれない気持ちがあるからでしょう。蒸気は、涙なのかもしれません。
 
 
(2020年07月16日、同日一部修正)
 
 
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  楽山の被害者芝居
 
 楽山日記(LD)
 『香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈2〉
 占い・カルト宗教ってなに?』香山リカ、中塚圭骸共著
 2020年07月13日 
 http://mn266z.blog.jp/archives/25501448.html
 
 
楽山は、今までもあったことですが、カルトの被害者を気取っています。しかし、楽山こそが、訂正不能、不感不応の、カルトだと思います。
 
柔和、謙遜、中庸、とほほ、何でも芝居してくるところに、楽山の恐ろしさがあり、ゆえに、それらの芝居は、ことごとく、今までの経過によって否定されています。それに対して、楽山は、何も答えられなかったのです。そして、忘れて、また、書いてくるのです。無節操と鈍麻の極みです。
 
本書は、1巻と同じく、中学生女子を主人公にした物語と、香山リカの解説という構成になっている。
 物語のあらすじは、中学生女子はひょんなことから某カルト教団のことを知り、カルトの危険性について学ぶというものである。終盤、主人公の友人が、あやしげな占い師に騙されそうになる場面はスリルがあって面白い。
 香山リカの解説では、マインド・コントロールの手口について次のようにまとめてある。これはすごく分かりやすい。
・あなたを待っていました。ここに来たのは運命です、などと言って歓迎する。
・これまでの人生は間違っていたのです、などとその人の生き方や考え方を否定する。
・これを信じればすべてが救われます、と新しい価値観を与える。
(『香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈2〉占い・カルト宗教ってなに?』香山リカ、中塚圭骸共著、汐文社、2009年、p.45)
 
運命と言って歓迎、これまでの人生は間違っていた、新しい価値観を与える、こういう勧誘と脅しが、カルトの手口、ということを書いて、楽山は自らを、カルトに対峙する者、という印象を吹き込んできましたが、いちばん、怪しいのは、今、楽山その人なのです。
 
何事についても、理解力に欠けているのに、霊が分かるっぽい、遺伝子がどうの、と書いて、知識があるかのように宣伝してきました。
 
カルトもスピリチュアルも大好きな、霊が分かるっぽい自覚?の楽山ですが、今回は、まるで、批判でもしているかのように書いています。このように、意見の方向性が、バラバラなのも、楽山の特徴です。
 
振り返ってみれば、自分がカルト宗教にハマってしまった時も、これと似た話を聞かされたのだった。たとえばこんな感じだ。
 
今までのことを訂正もしないで、このように、ときによっては、カルトの犠牲者を装います。いちばん警戒するべき相手は、今も、カルトと心霊の妄想に、こだわっている楽山その人です。
 
「あなたには大きな使命があります。天上界において『地上に降りたならば、〇〇様の下に集い、その教えを広め、人々の幸福のために働きます』と誓って生まれてきたことを思い出してください。あなたが今、〇〇様と出会ったことは偶然ではないのです。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山は、様々な詭弁で、キリスト教をけがし、自らを、まるで、学者であるかのように、刷り込んできました。その楽山が、白々しく、カルトの手口を言っているというのが、新しい楽山の手口なのです。実際は、楽山は、自分教の教祖です。
 
こうやって、楽山は、自分は違います、自分は大丈夫ですと、印象を吹き込んでゆくのです。このような騙し方は、まるで、悪魔の狡猾さに似ています。訂正も修正も学習もなく、平気で、なおも、だましてくるのは、良心のない悪魔性としか思えません。
 
「自らの間違いを反省し、この教えによって自己変革をしましょう。この教えを知る前と、知った後で変わらなかったら嘘です。本当の自分に目覚めてください。
「現代社会では、唯物論という間違った考え方が広まっているために、多くの人々が死後、地獄に落ちています。今こそ、正しい教え…真理を明らかにすべきときです。これこそすべての人を幸福にする教えです。この教えに基づくユートピア建設を目指しましょう」云々。
 
反省、自己変革、変わる、これらは、楽山には、全然、できなかったことです。ゆえに、それを、楽山は、カルトに当てはめて批判し、責任を逃れようとしてきます。
 
キリスト信仰の反省は、頼みとする方向を悔い改めて、神の前に、正直な祈りをすることです。決して、楽山が言うような、真理を明らかにすることでも、ユートピアを目指すことでもありません。
 
唯物論こそ、楽山が、その曲解によって、宗教をおとしめ、人の心を腐らせるために選んだ手法であり、それによって、唯物論をもけがし、進化論もけがし、自己流に、自己中に、悪用し、人々から宗教も信仰も心も奪ってゆく手法なのです。
 
改めて思い出すと、こんな主張はカルト丸出しであり、陳腐この上ないものだ。これで騙される奴なんかいるのかよと思わないではいられない。でも、ほかならぬ自分がそうだったのだから恥ずかしくてたまらない。根がどこまでも、お人好しの理想主義者にできていたので、重要感を持たせられ、向上心を刺激され、世のため人のために働きましょうと持ち掛けられて、コロッとまいってしまったのだろう。
 
他ならぬ自分が、カルトに嵌ったなどと言っていますが、これも、恐らく嘘です。楽山は、だますほうであり、だまされるほうではありません。楽山は、自分カルトの、霊も、科学も、分かっている、知っている、という妄想に酔って動いているだけです。
 
楽山は、恥知らずです。根が、どこまでも、悪意によって、理想も宗教も信仰も科学も自己愛の下に置いて、けがす者です。だまされないでください。
 
楽山は、信仰なんか持たずに、向上心も持たずに、世のために働くこともせずに、ゴロリと怠慢を貪って、ただ、自分の言うことを聞いておればよいと、おのれの満悦教?を広めたがっています。
 
結局のところ、宗教にしろ、占いにしろ、それによって、いい気分になったり、不安になったり、感動したりするなど大きく心を動かされたなら、そのまま突進するのではなく、ある程度の距離をとって冷静さを取り戻すことが大事なのだろう。結論を出すのはその後で十分だ。
 
ある程度の距離を取って、と言って、楽山が言いたい本音は、宗教否定であり、その矛先を、何度もキリスト教に向けながら、私の批判に答えられず、結局、自分は何でも知っている神相当のものだということを、極めて狡猾な婉曲的表現によって、植え付けようとしています。
 
楽山は、悪霊のブタのように、崖に向かって突進する厄病神として生まれたのでしょうか、楽山自身以外とは、距離を取って、信じるな、と言っているわけです。楽山の宗教観は、小学校レベルの幼稚なものであり、そこになびいたら、知性も感性も破壊されるでしょう。
 
信仰には、距離を取るとか、信じ過ぎるとか、信じ足りないとかは、ありません。人間らしい、潤いと温もり、悲しみと愛を、知る心があれば、心に響くものです。響くという共感性に、過ぎるとか足りないとかはないのです。楽山には、心がありません。だから、何も響かないのです。
 
楽山は、自分の心無いカルト思想を基準に、宗教と信仰を語っていますが、はっきり言って、楽山については、本当の信仰に触れたことが一度もない、ということが明らかになってきただけです。だから、信仰を語っても、的外れだけがあらわになってきました。
 
宗教側は「天変地異が迫っている」「早くしないと大きな不幸が起きる」などと急かしてくるかもしれないが、そんな脅しに耳を貸してはいけないのだ。こういうことは当たり前のことだけども、宗教と出会って、「これは間違いなく本物だ!」と感動してしまうと、ついつい忘れてしまいがちなことではある。恥ずかしながら自分はそうだった。この点はよくよく反省したい。
 
これは間違いなく本物だ!とカルトを信じるのは、話の辻褄にだまされているだけで、本当の感動ではありません。人間らしい良心のない楽山の勝手な見なしに、だまされないでください。
 
楽山は、だまされるほうではなく、恐らく最初から、だますほうとしか言いようがありません。楽山は、悪意の、カルト、偽善者、自己愛性人格障害、教祖願望、霊能者気取り、有識者気取りを持つ、凶悪で狡猾なカルト煽動者です。
 
楽山の言語は、一見、物わかりのいいような語り口ですが、結局、満足するのは、楽山だけであり、何も、誰も、何も良きものを受け取ることの出来ない虚偽だけにつながってゆくでしょう。
 
楽山の言は、ボンヤリ言語と私は名付けていますが、柔和に見せかける婉曲表現と、謙虚を装う芝居で出来ています。
 
この記事も、中庸(ちゅうよう)を気取っていますが、実際は、何も理解しないまま、自説だけを吹聴する、単方向の、軟派カルトの楽山の悪知恵に過ぎません。
 
楽山には、宗教を語る理路がありません、信仰を語る良心がありません。ゆえに、楽山の語る宗教と信仰には、節操も敬虔も、他にないという真剣さも、感動を呼ぶ説得力も、存在しません。
 
楽山には、小学生レベルの、軽佻浮薄の思い付きしかないのです。そこから、全く、成長していないのです。だから、読んでも、見栄と執拗さだけなので、疲労だけを、与えてきます。
 
(ネットより)
けいちょう-ふはく【軽佻浮薄】
考えや行動などが軽はずみで、浮ついているさま。▽「軽佻」は落ち着きがなく、よく考えないで言動するさま。「浮薄」は浮ついて軽々しいさま。信念がなく他に動かされやすいさま。「佻」は「窕」とも書く。
 
楽山は、真面目に真実を追求するブロガーとも、趣味を書くブロガーとも、日常を書くブロガーとも、全く違う人種です。妄想的結論から始まって、詭弁から破壊に至る害毒日記です。
 
性悪の根腐れの楽山に声を掛けるなら、今までも、これからも
 
・・あっちに行け・・だけです。
 
人生を大切にしたいなら、決して、楽山に関わってはいけません。
 
 
(2020年07月15日、同日一部修正)
 
 
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  楽山の非人間性
 
 『モラル・アニマル(下)』ロバート・ライト著
 楽山日記(LD) 2020年07月13日
 http://mn266z.blog.jp/archives/25501448.html
 
 
楽山の、浅はかな狙いと、見え見えの詭弁と、強烈な人間嫌いが表れています。
 
今回、動物の愛?を説いて、人間の愛よりも優先させています。楽山には、底知れない憎しみがあるようです。楽山の、人間のモラルを破壊したい願望~衝動が表れています。こういう考え方なら、道理で、反キリストであるはずだ、と思います。
 
いつもながら、とても幼稚な楽山の記事です。いくら知ったかぶりで小難しい用語を並べても、不純な動機からは、単純に不快な腐敗臭しか漂っては来ないのです。恥ずかしさを覚えない、ということが招く大きな災いなのでしょう。
 
上巻では男女の心理の相違について語られていたが、本巻ではいよいよ良心、モラルについて考察し、それらは進化の過程で形成されたものであり、それには「しっぺ返し」という生存戦略が深く関わっていることが明らかにされている。「親切な行為には親切な行為で返す」(p.42)という戦略は、はじめに親族内で、次にはもっと広い範囲で広まっていったと。
自分は利他的行為の理由については、血縁淘汰の話は理解できても、それより広い範囲を対象にした場合は、どうしても群淘汰的な考え方をしてしまっていたのではあるが、「しっぺ返し」戦略の話を読んでおぼろげながらも群淘汰は間違いだということが了解出来た。
 
進化の仮説を、了解できた、というほどに、信仰している楽山です。おぼろげながら、説明できるくらいまで、考えるべきでもあるでしょうに、説明もなく、書いていることは、楽山の自慢したい性根が独り歩きしているということです。
 
こうやって、人間よりも、動物の本能ではなく、動物のモラル?に興味をいだくことが、楽山の、人間の心を否定した凶暴性を表しています。しかも、このような話で、宗教を否定したつもりでいるのです。
 
つまり、楽山は、人間について、感じたり、考えたりすることが出来ないので、動物の世界に逃げて、箔をつけるために、進化論を振り回し、対象となる動物をもって、人間としての営みである宗教を否定したいだけなのです。凄まじい詭弁であります。
 
知性と感性を持ち得ないために、知性と感性の持ち主である人間を否定したい、という、楽山の姿が、悪意として表れてきました。みすぼらしい楽山の逃避が、ここにあります。
 
恥ずかしながら自分の内面を見た場合、利他的行為は血縁者に対しては自分に近い相手ほど何らの見返りがなくとも続けられるが、そうでない者に対してはどうしてもそんな風にはできそうもない。自分の利他的行為に対して見返りは望まない、望んではいけないと思おうとしても、他人に向けたそれに対しては何の感謝も、お礼も、見返りもない場合は単発では可能でも、長期間にわたって続けるのはどうしたって無理だ。中途で嫌になって止めてしまうだろう。この点、利他的行為の根っ子には「しっぺ返し」戦略があるというのはリアリティがあるし、事実らしく感じられる。おそらくは他の人々もそうではあるまいか。
 
(ネットより)
しっぺ返し戦略では、
1手目は協調を選択する。
2手目以降のn手目は、(n-1)手目に相手が出した手と同じ手を選択する。
例えば2手目の場合、1手目に相手が協調を選択していたら協調を選択し、1手目に相手が裏切りを選択していたら裏切りを選択する。
しっぺ返し戦略について初めて言及されたものは1965年発表のアナトール・ラパポートとAlbert M. Chammahによる「Prisoner's dilemma: a study in conflict and cooperation」(日本語訳版『囚人のジレンマ―紛争と協力に関する心理学的研究』(1983年、啓明社))においてである。この中ではSIMPLETON(バカ、マヌケの意)と名付けられていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%81%A3%E3%81%BA%E8%BF%94%E3%81%97%E6%88%A6%E7%95%A5
 
楽山は、混乱させようとしているだけだと思います。人間関係を語れない楽山は、進化論を語ることで、逃避して、そこから、無理やり、人間を語って、無理やり、人間をおとしめ、無理やり、宗教を否定したいだけなのです。
 
進化論を理解しなくても、人間は、良心を持ちうるのは当然であります。楽山の、この記事も、自己愛と、人間からの逃避、その正当化、という、楽山の、悪あがきなのでしょう。
 
本道を歩けないものだから、脇道から、くどくど悪口を言っている楽山が、分かる、という類の言葉を吐くたびに、みじめになる自分を見ないことで、ますます、いじけて、折れ曲がってきたのでしょう。今回の楽山の記事のテーマは、楽山の意志の裏返しとして、結局、楽山の、みすぼらしさだけを、浮き彫りにしています。
 
ちなみに著者はこういう相互利他性について、人以外にも、チスイコウモリやチンパンジーの例を挙げて説明している。チスイコウモリは、満腹している個体は腹の中の物を吐き出して飢えている個体に分け与え、あとで両者の立場が逆転したときには、前のお返しとして今度は逆に食べ物を分けてもらうのだという。
 
動物のことばかり言及しています。動物を褒めています。楽山は、人間が嫌いなのです。それで、人間についても、動物と同列で語ろうという的外れの欲望だけが見えてきます。
 
またチンパンジーは仲間同士で協力して敵と戦ったり、「愛撫をして元気づける」(p.46)こともあり、さらには裏切りにたいしては憤慨した様子を見せたりもするという。こうしてみると利他的行為は人に限定されるものではなく、人と動物とでは程度の差はあっても連続しているということは否定できないだろう。
 
楽山は、動物が、愛したり、憤慨したり・・がある、というより、そう見える、ということに注目して、人と動物が連続しているなどと言い、これで、動物を語れば、人間も語れる、という情けない傲慢を表しているだけなのです。
 
人を、人間を、人間性を、語れない楽山という存在が、動物に注目する姿であり、文章の詭弁的な解釈と解説をもって、浮き彫りになるだけなのです。何も、良いことを伝え得ない楽山の宿命的言説であります。誰にも認めてもらえないヒト型動物の自画自賛です。
 
ウォレスは人の肉体については進化論で説明できても、その精神についてはそれはできず、神によって吹き込まれたものだと考えたらしいが、ことここに至っては人の肉体だけでなく、精神についても進化によってできたという主張を覆すのは難しかろうと思う。
 
楽山は、このような、恐ろしい結論を用意していました。人の精神について、何も語れない楽山の、自慰的な湯治が、この記事です。
 
これで、何かを語ったつもりになるのだから、楽山は、人間というより、ヒト型動物に堕ちているのでしょう。楽山の言について、詭弁による自己正当化と美化の意図以外、何もないことが、楽山自身によって、証明されているのです。
 
著者は註の部分で「おそらくいつの日か進化心理学者は、私たちが「良心」と呼ぶつかみどころのないものが、実はさまざまな機能を果たすためにデザインされたひとつひとつの適応からできあがっていると証明してみせるだろう」(p.272)と大胆なことを書いているが、これが本当に現実になるかどうかはともかくとして、今後ますます良心が存在するということの神秘性、宗教性は失われて行くと考えて間違いはなさそうだ。
 
つまり、楽山は、私が、良心と呼んでいるもの、ひいては、信仰と呼んでいるものについて、否定したいということでしょう。その手段として、呆れたことに、動物を持ち出して、言い得たと思っているのです。哀れ、というより、みじめなほど、ひねくれてしまった楽山であります。
 
楽山の言は、自分は人間について何も語れないから、人間が憎い、と言っているに過ぎません。
 
もちろんこれは人に良心がある理由について神を持ち出さなくとも説明できるということであって、神は存在しないということまでは言えないのではあるが、ただ今後ますます神の領域は狭まってゆくということだけは確かではあろう。
 
人間は、神から与えられた良心によって、信仰を知ることが出来ると思っていますが、楽山は、良心がある理由を、進化論によって?説明しようというのでしょうか。何という的外れなのでしょう。
 
楽山によれば「今後ますます神の領域は狭まってゆくことだけは確か」なのだそうです。どこから、そんな結論が出てくるのでしょう。誰が、神の領域を狭くできるというのでしょう。
 
反キリスト全開で、神を対象物として、ゴタクを並べ、しかも、結果として、楽山の、人間性の欠如という悲惨だけが、詭弁の悪臭を伴って、明らかになっています。
 
楽山の、反人間、反信仰、反キリスト、反宗教、反社会性の獣性、といったことだけが、明らかになっている楽山の記事でした。妄想に浸って、独り、悦に入る、というのは、そんなに楽しいのでしょうか。悍(おぞ)ましい限りです。
 
 
近況?:
(心の形象化つまり詩のつもり)
 
 老醜
 
未熟なることの罪は
痴呆なることの誉れのように
表裏の旅路を恥辱とともに
繰り返し繰り返し
 
砂鉄を舐めた唾液でも
空欄を満たさないではおれない闇に
薔薇と痂皮の区別もつかぬ夕刻を待ちながら
好みの整頓を執拗に渇望し
乳呑み児の標本に
食い物の血を植えている
繰り返し繰り返し
 
 
(2020年07月14日)
(2020年07月15日、一部修正)
 
 
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