ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  当てにならない3
 
 
私たちは実に当てにならない世界に住んでいます。実際は、当てにならないのは私たち人間の心であり内部なのです。神様は当てにならないかということなら、心の支えとして信じている人はいます。
 
望んだ奇跡が常に叶うという信仰?なら、当てにならないだろうということです。キリスト信仰はご利益信仰ではないからです。
 
入力は総て感覚器を通しています。内部処理は総て脳が行っています。いずれも寿命が尽きればなくなるものであり、これらは、寿命がある間は維持されるけれど、本当に変わらないで維持されているかどうか、厳密な検証は不可能である。老化もするのでしょう。
 
当てにならない世界を、当てにならない知情意をもって、断定できる何があるでしょう。しかしながら、私たちは、当てにならない世界において、当てにならない知情意をもって、判断し実行し、生きてゆくしかないのです。それが人間の不完全性そして相対性、つまり、神とは違う非絶対性なのです。
 
神が絶対でも、あるいは、たとえ絶対がどこかにあっても、私たちには絶対はない。それを知ることが信仰の始めです。自分の言動の影響を末端まで追える人はいません。風を追うようなものです。風を捕えるようなものです。
 
 (伝道の書、口語訳)
1:16
わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。 
1:17
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
 (伝道の書1:16-17、旧約聖書)
 
絶対とは不変に正しいこと。非絶対即ち相対とは可変で、ときに当てにならないこと、そして変わりうること。人間は、不完全、ゆえに、罪深いのです。神の、全知・全能、完全・絶対、永遠・不変、これらは、人の手には負えせん。この6つの熟語を否定した不完全な在り方が、人間です。
 
神の属性である不変は、変わることなく成り立つということであり、神義すなわち神の正しさを表します。人間が、絶対を目指したり思い込んだりすることは、当てにならない感覚・知性・感性をもって生きてゆくのに全く向いていません。
 
しかし、人間の正しさは、あ不変ではなく、より正しいことによって、また状況によって、否定されないとは限らないことである。つまり、正しさを追求する努力は、完全にはならなくても、好ましく望ましいとは言えるでしょう。
 
これを人間の相対性と呼びます。信仰をもっても、この相対性は変わりません。すなわち、私たち信仰者は、神ではなく、神の民であります。むしろ人間の相対性・非絶対性・不完全性を自覚することが信仰であります。
 
人間に成り立つ絶対性は、絶対は絶対に無いという循環論法にしかなりません。
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを求めるでしょう。
 
 
しかし、しばしば人は絶対を求めやすいのです。絶対を盾にして強くなったつもりになりやすい。そこで、絶対の存在を確定しようとするか、あるいは確定したつもりの言動を、神の御心だと言って神聖化しやすいのです。そこに、人間の最も忌むべき罪と偽善があります。
 
それを信仰と呼び使命と呼び確定して、感じることと考えることを疑いだと退けてしまいやすい傾向が、私たち信仰者が、最も注意し警戒するべき背教であります。絶対は神のもので、人は決して絶対を確定できないのに、気安く正邪を神の立場で決めつけやすいことが原罪の源です。
 
神とは違う人としての身の程を弁えることが信仰の始めであるのに、味方としてだけ顕れる神しか欲しがらない信仰は、戒める神と懲らしめる神を、そっくり除外して揺るがない信仰だと思いやすいです。これこそが相対的で不完全な人間の罪性である。
 
 
あらゆる理不尽な悲劇は、信仰者にも起こりうることで、その説明が地上で与えられるとは限らないのです。また、あの世のことを、人間は、天国と呼んでも詳細は知り得ません。天国を捏造する者たちを警戒してください。その理由は神の秘密ということがあります。ゆえに神秘と呼ばれます。
 
神は、いつも分かりやすく恵むわけではありません。神の御心を、人がいつも理解できるわけではありません。決めつけやすい人の罪深さゆえに、キリストは十字架の道を歩まれます。今も、これからも・・ずっとです。
 
なぜ、こんな悲劇が・・?、と思う人は、私たちの狭い見識と視野と能力では、神の無限をつかむほどの広い見識と視野と能力、すなわち、全能を理解できないことを考えるべきなのです。ゆえに、信仰は、この地上では忍耐を必要とします。
 
私たちは、この地上での短い人生の幸福を願っています。神は、総ての世界を導いておられ、私たち人間についても、地上のみならず、総ての世界での幸福を計画しておらるでしょう。それが不可知であっても、人が、神を総て理解してから信じようというのは信仰ではありません。
 
理解できたら、信じる必要はないのです。
 
 
人は絶対は慢心し訂正不能を好み、
人の相対は努力して成長することを求める。
 
人の相対の信仰に敵対するのは、いつも、人の絶対を確信し保証するカルトの類であります。人の相対性は、信仰とカルトを見分ける決め手ともなるでしょう。
 
 
Q&Aを試みてみる。
 
Q1:
相対、相対、と言うが、では、
1+1=2 という等式は絶対に正しい、ではないのか。
A:
1+1=2 という数と記号の概念を共有するところで成り立つ。
 
Q2:
悪は正しくない、善は正しい、はどうなのか。
A:
ほとんど定義を語っているだけ。人の善悪の判断は絶対ではありません。また、偽善と偽悪の問題もあります。刑罰を伴う法制度は、不完全な人間のための、必要悪であります。
 
Q3:
イエス・キリストは正しい、はどうなのか。
A:
キリストは、人の罪深さ=不完全=相対性について、優れた洞察と共感を、聖書を通して、誰にでも示しておられると思います。まさに、キリストこそが、人の相対性、即ち、罪深さを語り、共感を表しているのです。
奇跡等の超常については、神のわざとして、人が関知するところではなく、つまり、分からない、というのが、人にとっての真実であり、そう言える人が、信仰者だと思います。
 
ゆえに、地上の現世において、いつも奇跡で守られていると言える信仰は、人が語れる信仰の言葉としては、大いに誤解を招く言葉です。神の救いは、神の意志と計画に沿うのであって、人の思惑に沿うとは限りません。
 
むしろ「イエス・キリストは正しい」という言葉で人が表すことが、怪しくなる可能性を考えるべできであり、それは、まさに、カルトにおいて著しいのです。
 
だから軽々に「イエス・キリストは正しい」と言うのは、しかも、それを己の意見の根拠とすることは、むしろ、自分は神が分かっているという信仰自慢になり、信仰からは、離れる方向だと思って注意したほうがよいでしょう。
 
このQ3のような、神の義に関することは、キリストを利用するカルトが人をだますのに使われやすく、また、反キリストが、神がいるなら何ゆえ悪があるのかなどと、いちゃもんによって神を否定するのに使われやすいです。神の義は、神のものであり、神秘であり、人に分かるわけはないのです。
 
私たち信仰者は、神が正しいと分かったから信じるのではなく、主によって愛され救われた者として、主を忘れられないゆえに信じています。そこには、愛に通じる共感が、キリストによって、聖書を通じて、もたらされているということです。
 
Q4:
信仰は正しい、ではないのか。
A:
真の信仰であれば正しいはずですが、人には絶対の正しさはありません。絶対の義を判断する能力もありません。人は出来ることをするだけです。実際には、信仰と言い、神の義を振りまわす偽善者もいます。聖書ではパリサイ人がそうでしょう。
 
Q:
相対、相対、絶対ではない、不完全、などと言っていたら、決心が鈍るではないか。
A:
それは間違っています。絶対ではないゆえに、限られた時間で、できるだけのことを考えて判断し、勇気をもって実行して、反省して、神に祈るのです。
 
相対で不完全な人間には、信仰によって、神に正直に告白して赦しを求める祈りという機会が、いつも与えられています。神に正直な祈りが出来る人は、悪意に満ちた悪と偽善を働くことは出来なくなるということはあるでしょうが、行為義認ではなく、あくまで、信仰義認によって、神の救いは与えられます。
 
Q:
では、キリスト者だけが赦されるというのか。
A:
ここは議論のあるところかもしれませんが、私は、特に教会の利益を代表する必要はないので、申し上げると、教会での洗礼に信仰の有無やキリスト者であることの証明という神秘的な意義を求めるには、キリスト教の歴史は、人によって汚され過ぎています。
 
もはや、信仰は、信じる者が祈って告白するならば、洗礼の有無には、こだわる必要はないのかもしれません。神が、偽善者でも芝居できるような儀式の有無によって、救いについて差別するとは、考えにくいです。
 
信仰者でも求道者でも異教徒でも無宗教でも、真面目に生きている人を、神は差別するでしょうか、そうは思えません。神は、総てを見ておられ知っておられるのですから、人の言動と心を見抜いたうえで、良心の発露を決して軽しめられることはなく、心に留めて、顧(かえり)みられるだろうと思います。
 
さらに、神が、宗教や信仰を通さずに、人を選んで何からの使命や役割を与える可能性は否定できません。また、そのことを、いちいち、人に説明することは、為さらないでしょう。
 
 
つまり
私たちは基本的に
神に対しては
教理よりも讃美よりも
正直のみを用意するべきであり
人に対しては
その"神の前の正直のみをもって備える"ことが大切なのです。
 
 
信仰の相対性 私たちは風

信仰の相対性 私たちは風
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年05月02日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山の経歴も怪しいと思います。楽山は自己中促進のアドラー心理学の宣伝をしていました。また、ネトウヨだと思われますし、右翼のA級戦犯を褒めていました。読書は、都合のよい文言だけを漁って、箔をつけるために引用するだけで、勘違いや嘘が多いです。有名人や学者の名前に惑わされないでください。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ろば
@robamimi0314
#幸福の科学
根拠も証拠もなく、他人を
誹謗中傷、侮辱、罵倒、脅迫する言動が多い。それを「教え」としている。
〈例〉
・自殺は罪、永遠に苦しむ。
・ガンになるのは感謝が足りないから
・鬱になる人は周りへの感謝が足りない
・教祖を神と崇めないと地獄に落ちる
午前9:36 · 2021年4月29日·Twitter for Android
https://twitter.com/robamimi0314/status/1387566470033334272
 
楽山は、根拠も証拠もなく、他人を誹謗中傷、侮辱、罵倒、強迫する言動が多いです。それを、一人前の "批評家気取り" で書いてきます。最悪なのは、まともに見せかけるために、丁寧語で、婉曲的に書くことです。また、わざとらしい芝居によって、反省、卑下、などを書いてきます。楽山は、よく読まないと楽山の悪意に気づかないような書き方をするペテン師です。
 
楽山を、批判の仲間だと思っていたら、とんでもない間違いであり、徒労と疲労と人間不信をもたらされるでしょう。楽山との交流を継続すると、楽山の体質であるところの、自己中、無反省、無視、無責任に染まって、楽山と似たような攻撃性だけの鈍い人格になる危険があります。
 
楽山は、リツイートや、ブログ記事によって、やさしそうに、一人前気取りで、誘ってきますが、決して相手にしないでください。楽山は、いかなる人の味方にもなれない自己愛性人格障害です。決して、頼りにしてはいけない人で、誰の仲間にもなれない人です。
 
楽山には、執念深い恨みの感情と、小学校レベルの理屈はあっても、悔いる、悲しむ、反省する、自分の欠点を自覚する、訂正して学習する、人の意見を受け取って考えるなど、深くて高等な思慮と感受性が欠けているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
信仰の相対性などと言ったら、楽山は、信仰は絶対ではないのだから、信じ過ぎてはいけないなどと、自らの、救いにも助けにもならないボンヤリ信仰?を勧めてくるかもしれません。楽山は、嘘と詭弁に生きている人です。楽山は、信仰など、真面目に考えたこともない人です。関わらないでください。
 
 
 
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  さかのぼる矛盾4+
 
 
 さかのぼる矛盾4+
 再録++
 
 
いたはずの先祖から
幾千年の恨みの坂を
今をさかのぼり
いずれ上らねばならぬ
 
経験は否定できない
個人にとっては真実になりうる
経験から与えられ考えたことは否定できない
しかしあまりに
出る杭は打たれて
マイナスの経験が繰り返されると
あらゆるものから身を引くことが真実になってくる
信じて待ち望むことが罪に思われてくる
御国に至ることも辞退すべきではないのか
 
母は恵方巻きを買ってきた
母と私で2本ずつ
恵方ってどこにあるんだろう
恵方に辿り着く確信があるわけでもなく
母は縁起を担ぐ
担いでおかないと不安な気分になるのだろう
母は南のほうを向いて弱った顎で
ぉんぐぉんぐと食らいつく
のどに詰まらせはせぬかと母を気にかけながら
私はむしゃむしゃと食卓でむさぼる
 
恵方というか
御国に辿り着かせてくださいと
祈ることも傲慢に思えてきて
この世の生が苦痛とともに
早く終わりますようにと
祈る先に神はいないかもしれないが
神は的外れの罪の祈りを聞いておられることを
神ゆえに人がいて
人ゆえに神がいることを
諦めきれずに
大いに矛盾して
否定できない経験と
大いに矛盾して
呂律(ろれつ)の回らぬ祈り
 
とても運が悪く階段のように
道を逸れてゆく阿弥陀クジなのかもしれない
 
主よ
私はそんなに良い人間ではありません
 
先祖を裏切り
父を裏切り
母を裏切り
人を裏切り
自らの矛盾をさらに裏切り
 
唇を切れるほど噛みしめながら
一歩一歩
絡みつく情の杭と
曲がった知の釘を
怒気の足裏に踏みひしぎ
幾千年の坂を上る
 
 
※ 私の母は、現在、介護付き老人ホームにいます。
 
 
 
  宿命と使命
 
 
幾千年の坂など
上れるわけもないのに
 
上る宿命を感じている
 
その坂以外に道はないかのように
 
引かれるような
引き裂かれるような
 
私は母に似ているがコピーではない
私は父に似ているがコピーではない
という当たり前のことなのだが
 
コピーではない自由も
既に織り込み済みであるかのような
血の筋の末端に居て
 
否定できないものが
私を縛るだけでなく
私を導いているのかもしれない
 
神はご存知であるが
私は何も知らない
 
罪の系譜
病の系譜
 
私がどうやって
福音の系譜にいるかと言えば
 
もし信仰がなくて
福音の系譜にいなければ
今、生きてはいないだろう
という否定の否定でしかないが
 
コピーではない自由も
既に織り込み済みの
それこそ父よりも母よりも
神に信頼しようとするのは
 
父と母の性格の中で
良くないものを私は既に持っていて
良いものを持っているかは不明であり
そこから逃れたい気持ちでもあったのか
 
神への全面的な信頼は
父への母への
他者へのそして自分への
全面的な信頼を否定し
依存を否定したいのか
 
しかし
そういう既知と不明からの自由や
コピーではない自由よりも
否定よりも否定の否定よりも大切なことは
 
他者よりも自分よりも大きな存在の命のもとで
地上における自我の必死と必滅の理(ことわり)よりも
 
神の存在ゆえに
人のわざの絶対を否定したのちには
人のわざの相対を生かすことだろう
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを好むからだ
 
 
さかのぼる矛盾

さかのぼる矛盾
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年05月01日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
渡辺みき四つ葉のクローバー@統一教会二世
@poo88888888
信仰の強制は虐待です。
【スピリチュアルアビュース】を広めたい。
小さい頃からこれが当たり前だと思ってた。
私たち、なんも悪くないよね。
親は間違ってたの?私は神の子なの?私は誰?
「異質」な私達を放置してきた日本社会が憎い。
でもそれもきっと、この国ではしょうがないことなんだ。
 」
午後9:57 · 2021年4月26日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/poo88888888/status/1386665675440021506
 
信仰はいやだが、スピリチュアルはいい、楽山の好みそうなツイートです。真面目に信仰を学ぶ気がなく、勝手にスピリチュアルを気取りたいからでしょう。こういうツイートを、字面だけ利用~悪用するのが、楽山の体質的な特徴のようです。
 
少なくとも楽山が神の子?でも教祖?でもあるわけがないのは、ブログでもツイッターでも、底の浅いゴシップや、いちゃもんしか言えないような、つまらない人だということだけが表れてきたからです。
 
楽山の異質性と異常性は、高等感情の感受性がない、思慮が小学生のように拙劣である、反省し学習し成長することがない、などといった経過に表れてきました。楽山のリツイートが通らないのは、これを引用している楽山は?・・スピ系になりたい大嘘吐・・きということになるからです。
 
楽山は、罪悪感がなく、全く非を認めることがないので、いつまでもいつまでも、同じことをして、同じケチをつけて、同じスピリチュアル気取りでいられるのです。正常な人なら、目から火が出そうなほど、恥ずかしくなるところでも、笑っていられる異常人格です。
 
一つには、文章の読解が殆どできないからかもしれません。あるいは、鈍麻した感受性と感情によって、批判されても、何も感じず、馬耳東風でいられるのかもしれません。ひょっとしてこの楽山の自己中は、スーパー・エクストラ・アドラー心理学的カルトなのでしょうか。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「だよなあ」「なんでしょうかね」というボンヤリ言語で、楽山が言いたいのは、自分の罪を「人間の性」と、人間一般に拡張する詭弁によって自己正当化を得ようとする欺瞞であります。言論の世界に、二度と来てはならない悪魔性の偽善者が楽山です。3年以上、変わることはなかったのです。
 
どうか、中途半端に、楽山も人間だから赦し合いましょう、などと思わないでほしいです。楽山と人間、楽山の精神と良心は、水と油です。一致することはありません。言葉を見繕って並べて、自分を善人に見せかけようとする楽山の偽善芝居には、二度と騙(だま)されてはいけないと思います。
 
 
 
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  楽山の読書と詭弁
 
 『幸福なる人生 ウォレス伝』渡部昇一著
 2022年04月29日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
反対を書き、賛成を書いたから、責任問題は生じない、という、トンデモ無責任の楽山が、まだ分からないらしく、書いてきました。人格の病気で、罪悪感がないというのは、本当に不治なのだなと感じます。羞恥心もなく反省もしないので、お構いなしに、他者をおとしめてゆくのです。
 
 
*概要
本書は評伝とも、自伝ともいえず、何と言ったらいいかわからない本である。
 
だったら書くなと言いたいが、自分が何を言っているかが分からなくなったのでしょう。楽山の、おぞましい精神世界のようです。何伝であっても、楽山に読解力はありません。今まで、偏見だけを書いてきた履歴があるのに、自分を評論家だと思い込んでいるのです。
 
 
タイトルはウォレスの評伝のようだがそうではないし、本文はウォレス自身が語っているので自伝のようだがそうでもない。では何かといえば、「はしがき」で著者のご子息が語っておられることがもっとも近いだろう。
 
こういうゴシップ的な推理話から始めて、実質のある感想・意見は書けるんだと思い込むのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴なのでしょう。本の帯と表紙だけを見て書いているような思いつきを、評論家気取りで書いてきた楽山です。
 
 
この本は、そのウォレスがまるで今の日本人に、霊界から自分のことを語っているような形式をとっている。(『幸福なる人生 ウォレス伝』渡部昇一著、扶桑社、2020年、p.3)
 」
 
やはり「霊界から」が出てきます。楽山の興味は、大方、心霊と超常に向かいます。キリスト教についても、心理学の「心の理論」も、心霊の話として受け取って、幼稚な決めつけで書き得たと思い、その超常からの教祖願望によって、自己愛だけに生きているような、本当の人間関係を持ちえない楽山です。
 
 
端的にいえば、本書はウォレスの霊言という体裁のものなのである。ただし、いい加減なトンデモ本というわけではない。ウォレスの家系、幼少年期、青年期、当時の人々の暮らしぶり、社会情勢などが実に詳しく語られている。
 
トンデモは楽山なのです。批判に弁明できないのに、平気で、無視し続けながら、なおも、その文責を負わないまま、次を書いて、当たり前だと思っているのです。これは、精神病理でしかありません。こういう人は、言論から、まず、始めに追放するべき対象です。トンデモは楽山です。
 
 
時には、同時期の日本の状況についても触れていて、ウォレスの生涯と東西の歴史を立体的に把握できるように工夫がなされている。未完ではあるが、博学な著者による大作である。
 
「立体的」「博学な著者」「大作」・・これで中身が伝わるでしょうか。万事、こういう書き方です。ほめておけば、抵抗なく受け入れられるじゃろ・・という性根で書いているのです。醜いです。楽山の褒め言葉は、全て嘘ですから、真に受けないでください。自己愛者は、本気で人を褒めることはないのです。
 
 
ずいぶん前に著者が松下幸之助について書いた本を読んで感動した覚えがあるけれども、そのことも考え合わせると、もし著者が本腰をいれて、評伝、歴史小説などを書いていたら、いくつもの名作を仕上げていたに違いないと想像する。
 
楽山の「感動」は、例えば、あいまい検索の文字列の一致のようなものです。楽山には心がありません。情感や熱意をベースに読むことがないのです。だから、自説と似たようなことを書いておれば、褒めるのでしょう。おべっかを書かないといけないのは、何も受け取っていないからです。
 
 
*カトリックとスピリチュアリズム
ところで、前々から著者の発言から、スピリチュアリズムのことはよく承知しているとは思っていたが、本書を読むと相当に深く研究している気配が感じられた。貴重な文献も収集してそうでもある。
 
ここでも、そうです。「相当に深く研究している気配が感じられた」・・気配?、なんなのでしょう。褒めるには、それなりの、評価の実質を示さなければいけません。楽山にとっては、褒めておけばよいという判断なので、だんだん、形容が、霧散するような表現になります。
 
 
そこで疑問なのは、著者はカトリックの信仰とスピリチュアリズムとを、どのように整理していたのだろうかということである。スピリチュアリズムは教会に批判的なところはあるし、キリスト教とも矛盾するところもあるので、著者の理解に興味があるのだ。
 
いちばん矛盾してきたのは、楽山です。キリスト教を史実と超常奇跡の話にして、全く的外れで、理解などしておらず、しかも、平気で否定を書いてきました。だから、スピリチュアリズムと同列におけるのでしょう。スピリットは精神のことです。楽山は、人の精神を病気にするウイルスのような存在です。
 
 
たとえば、以前の記事でも触れたことであるが、著者は「私が知る限り、キリスト教で生まれ変わりを信じる人はいませんよ。これは絶対ない」と断言していた。これはつまりクリスチャンの著者は、生まれ変わりは信じていないということでもあるのだろう。
 
まさに、このことです。キリスト教について、生まれ変わりを問題にしています。楽山には、生きている間のことは、どうでもいいのでしょうか。信仰は、人が生きるためにあります。いくら考えても分からない超常や霊が中心ではありません。楽山は、まさに、ホラーです。
 
 
でもスピリチュアリズムでは基本的に生まれ変わりを真実だとしている。著者はこの矛盾をどのように解決していたのだろうか。この問題について触れた文章があるなら、ぜひ読みたいと思う。
 
生まれ変わりについて、こだわり、他の記事では、史実にこだわり、霊にこだわり、どちらも、キリスト教を否定するためのようです。一方で、楽山の精神は、無反省、無責任、嘘と詭弁、刷り込みと詭弁、幼稚な芝居心、努力せずに高みを誇るなど、最低の病質を表すばかりです。
 
楽山は、人をだます嘘と詭弁だけを性癖として身に着けてきました。楽山には、一般常識、良識、良心、共感力、冷静な理路、罪悪感、責任感羞恥心、など、いずれも欠けています。楽山の記事は害毒です。恥さらしになっていることに、楽山は、まるで気づかないのです。
 
 
 
もう一つ、楽山の無責任が表れている記事を再録しておきます。
 
 
 「幸福の科学」の自己責任論について
 2013年02月22日 楽山日記(LD)
 に対する私の批判記事↓
  ここで、改めて批判しておきます。
 
 
自己責任論は、私的な問題のみならず、
公的な問題にまで適用しようとするとおかしなことになりがち。なぜなら、公的な問題を、私的な責任問題としてしまうなら、公的な問題は解決されないままに放置されることになるから。
 
責任問題を、公的と私的に分けるのは、楽山の詭弁です。責任問題は、公私問わず、誰が責任者か、どういう責任かを、追及することです。楽山は、こう言う詭弁を、自己保身のために使ってきます。理路は滅裂に近いと思います。
 
 
たとえば、危険な道路で事故が多発しているとき、事故に遭うかどうかは、各人の運転技術の問題であり、自己責任だとすれば、危険な道路はいつまで経っても危険なまま放置されてしまう。 
 
事故が頻繁なら放置されることはないでしょう。そして、楽山の責任も、最後まで追及されなくてはいけません。それに責任の問題について、「公的な問題を、私的な責任問題としてしまう」・・おかしいです。責任は、公私問わず、責任者が負うべきものです。
 
こういう詭弁を吹き込んでくるのが、楽山という無責任です。追放しても、またどこかで、悪さをするでしょう。その都度、その場から追放されるべきです。楽山の発言こそが、放置してはいけない「危険な道路」なのです。早く、言論の場から、いなくなってほしいです。
 
 
 自己責任論は、
反省のための心構えではあっても、必ずしも事実とは限らない。何らかの問題が発生した場合、すべての責任は一方にあり、他方にはまったく責任がないという事例は少ない。その割合は、3:7、2:8などいろいろだろうが、大概は、当事者双方に責任がある。
 
それは、裁判が明らかにすることです。楽山が、いかに、責任を負う気がないかが表れています。事実とは限らないから、反論と論争になることはあるでしょう。気持悪いのは「双方に責任がある」と言っている楽山は、あらゆる発言において、一度も責任を負うたことがないのです。
 
 
自己責任論は、こういう現実を承知した上で、反省の動機づけとして、あえて、いったんはすべての責任を引き受けようとしているだけである。必ずしもすべての責任がその人にあるというわけではない。
 
責任問題は、当事者にとって、決して、そのまま、曖昧に済ませてはいけない問題です。「反省」という言葉を書きながら、その前後で何も変わらず、反省することのない病質者の楽山には、責任者として、追放以外にないのです。楽山が、いかに、自分の庭で正当化しても、通りはしないのです。
 
 
自己責任論はマインドコントロールに悪用され得る。たとえば、宗教教団において、自己責任論を徹底すれば、信者は自分を責めることはできても、教祖や教団の責任を追及することはできなくなる。
 
責任を問えばマインドコントロールになるというのでしょうか。裁判、あるいは、批判によって、楽山のようなアンチ気取りの病的な偽者を、正常人の罪から区別することは、どうしても必要です。楽山の理屈は詭弁であり、自己中の言い逃れであり、全く成り立ちません。
 
 
既にいろいろなところで指摘されているように、自己責任論は本来、自分に対して適用するものである。より詳しく言えば、自と他の関係において、自分に対して、「すべての責任は自分にある」というものであって、相手方に対して、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
 
決定的な発言ですが、楽山は、いかなる不祥事においても、一切、責任を取りません。こういうことが出来るのは、人間が腐っているからです。しかも、この記事だけでなく、詭弁付きです。人を批判しても自分の責任を負わない害毒には、決して近づかないようにしてください。
 
 
また、他と他の関係について、第三者の立場から、どちらか一方に向かって、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
 
楽山の責任は、楽山だけの言動によるものですから、その責任の全てを負わねばなりません。軽口でキリスト教と良心をおとしめた責任です。さらに、言い逃れに、悪口と嘘と詭弁を弄してきた責任です。そして、今では、反省を全くしないというサイコパスの責任も加わります。
 
 
以上自己責任論というものはいつでも、どこでも、誰にでも適用できるわけでもなく、さらには使い方を間違えば、人を深く傷つけることにもなりかねず 毒性も強く、その扱いには細心の注意が必要なのではないかと思う。幸福の科学の界隈では自己責任論によって他者を責め、裁こうとする事例が少なくないようなので自分なりの考えを書いてみた次第である。
 
楽山が、いかに責任を逃れたいかが表れています。楽山は、今まで、いかなる責任も負う気がないということが明らかになってきました。他の人はともかくとしても、一度も責任を負う気のない楽山は、書けば醜い自己正当化の刷り込みにしかなりません。
 
 
ウソッピ物語 嘘っ屁の言い逃れ

ウソッピ物語 嘘っ屁の言い逃れ
 
 
(2022年04月29日、一部再録+加筆)
 
 
 
  うしなったよる
 
みそこなった このみちは
たれのみち どこへ つづく
みうしなった このよるは
たれのよる なにを つつむ
みすてられた このときは
たれのとき いつを かくす
みな ねむるころ
めさめる いまを さかいに
みとどけたい あしたを
くらやみの くさむらの
むしたちの こえと
むねにおちる しずくの おとが
なくしたものを ひろげながら
とおくへ くぎってゆく
 
 
  かえらないもの
 
もう そこには ないのですね
うつむいた ときから
もう そこには いないのですね
なぐさめようもなく
うなだれた ところから
ひとは みな かえってゆきます
たずねびとが みちに まよい
たびびとが よわきになった そのみちを
ふたたび あう やくそくも できないまま
みつからない ひみつを のこして
いいつたえと なぞの あけくれに
ひとは みな いってしまいます
ないものと いないもの もう
たれも さがしは しないのですか
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
本も読めていない。理路も組み立てられず、詭弁の悪用しかない。信仰も宗教も、まるで理解していないのに、書くことに慢心して、内省できず、ろくでもない記事だけ書いてきます。嘘と詭弁が明らかになった今では、意味など無く、否定するしかない楽山の老廃物です。
 
思慮と高等感情、楽山においては、さらに劣化してきました。楽山が、大きなテーマ、つまり、宗教、信仰、真実、などについて書いてくることは、まるで、楽山のハラワタに溜まった汚い老廃物を垂れ流してくるようなものです。楽山の汚らしさを、その都度、味わうことになります。こうはなりたくない。
 
私はキリスト者のつもりなので、信仰の記事やポエム的なものを書きます。絶対の正しさはないので、修正や加筆することも多いです。
 
楽山は、批判に全く答えることなく、悪口を衝動的に多量に書くか、無視するだけの訂正不能です。どう生きたら、こういう人間になってしまうのでしょう。
 
 
 
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  いちばん大切なもの2
 
 
この世において、キリストの心が伝わるのを妨げようとする者の話には、聖書とキリストの話を、奇跡や超常の話ばかりにして、史実か事実かどうかで追いつめるてゆく、というやり方です。それは、いちばん大切なキリストの心から遠ざけようとする誘惑なのです。
 
反キリストや無神教カルトは、キリスト教について、人間離れした呪(まじな)いか魔法のような超常現象だけを伝えて、人間の、共感できる心から離してしまう誘惑をしてきます。
 
キリスト教について、聖書を実際の史実として、神がいるなら、奇跡が起こるなら、復活したのなら、などの仮定から、無節操な自分信仰から、おかしい、という仮定法をもって、神はいない、聖書は虚偽だと主張し、キリスト教を否定する誘惑です。
 
超常に信仰は要らない。そして、信仰に超常は要らない。
 
神は、人と、取引はしない。信仰は真実であり、史実に依拠しない。
 
疑問は、自分信仰を否定しても、疑問であり、そんなことはない、そんなことはないと、無理に疑問はないかのように、疑問を否定して凌ごうとするならば、既に、反キリストの術中にはまっていることになります。疑問は、祈りにおいて、そう感じている自分を正直に告白するしかありません。
 
聖書や教理の、現実における疑問には、私たちは、共感を持てるはずです。それが、人間らしさであります。何ごとも動じないのは、神だけです。私たちは、疑問は疑問として、解決するのではなく、無視するのでもなく、"分からない箱" に入れて保留するべきです。
 
その上で、福音伝道者すなわちキリスト者は、超越性ではなく、成長し得る知性と感性を持ち、良心を持つ人間性から、信仰を考えて伝えることが使命であります。
 
否定するだけのお気楽な者たちが語れないこと、それが、キリストの心なのです。
 
人間に共感するキリストの心に、私たちが共感することによって、信仰は生まれます。
 
超常現象に驚たり信じ込んだりすることからは、真のキリスト信仰は生まれません。
 
肉体や物への奇跡は、少なくとも滅多に起こっていないが、
魂の奇跡は、キリスト以後、二千年にわたって起こっており、多くのキリスト者が生まれているということです。
 
魂の奇跡、と言うのが、超常的だと思うなら、心の奇跡、でもいいのです。
 
信仰の誕生は、趣味的なものではなく、超常現象でもないところの、人間が生まれ変わる、というのが超常的であるなら、人間を目覚めさせるところの、心の価値観がどんでん返しになるような、その後の人生において決定的な変化ということです。
 
それは、絶対孤独からの解放に表れ、共感に表れ、感動に表れ、愛に表れ、新しい価値観に表れ、温もりとして表れ、潤いとして表れ、祈りとして表れてくるものです。
 
何よりも、そこには、聖書に表されたような、キリストの同伴、すなわち、キリストの洞察と共感と慈愛の同伴が、人を絆(ほだ)すしるしとして顕れるからです。
 
反キリストや、好事家の、聖書の話には、それらが、スコ~ンと抜けているのです。
 
 
前に書いたことですが・・
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:38
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 
10:39
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 
10:40
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 
10:41-42
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
 
先ず、この個所を読んで、キリストはマルタよりマリヤを好んだとか、マルタの信仰よりマリヤの信仰のほうが上だ、という解釈をしないようにしてください。このような読み方は、反キリストや好事家が、キリストの心をけがすためにする読み方です。
 
キリストの、マルタへの愛を見逃してはいけないと思います。ここでのキリストの言葉は、マルタのために語られています。そして、私たちのために語られているのです。
 
「マリヤはその良い方を選んだ」というキリストの言葉は、マリヤの信仰の優越を表しているのではなく、マリヤは、マリヤの出来ることの中で、間違ってはいないということ。マルタは、マルタの出来ることをしていたが、マリヤと比べることで心を煩わしていました。
 
キリストの言葉は、マルタのために語られている。そして、私たちのために。
 
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」
 
キリストは、マルタがマリヤと同じようにしていたら、もてなす人がいなくなることは承知の上で、マルタに対して、マリヤと同じようにせよということではなく、マリヤは、これでよいと、信仰の義を与えます。
 
そして、マルタには、慈しみと親しみを込めて、名前を二回呼んで、山上の垂訓と同じように、思いわずらう必要のないことを語っているのです。信仰の優劣ではないのです。
 
 
信仰の義

信仰の義
 
 
(2020年
(2022年04月29日、再録+加筆)
 
 
 
旧約と新約聖書に書かれている数々の超常奇跡を読んだときに、話にならんとあきらめる人と、そのまま奇跡が起こると信じこんでしまう人、・・この2つの場合は、キリスト信仰には至らない例となるでしょう。
 
物や肉体の奇跡という超常のことは、神に任されるべきことです。人がどうかできることではありません。つまり神の行為であり、人の信仰の信条とは成りえないのです。奇跡が起こるという希望を抱くことはあっても、奇跡が起こると信じ込むことは、神の行為を決めつける冒涜です。
 
私たちが受け取れる、そして、受け取るべきことは、キリスト・イエスの、人々に対する共感性にあります。人々の置かれている状況と事情を洞察し共感するキリストからの教えは、人間がいかに不完全であるか、そして、キリストがいかに共感しているかが分かります。
 
ゆえに、人生におけるキリストの同伴を受け入れることが信仰です。言い換えれば、イエス・キリストの御名によって、神に祈ることが、信仰であります。正義や善は、信仰に伴うことがありますが、信仰そのものではありません。ゆえに、罪人にも信仰が生まれ得るのです。
 
そういう目で聖書、特に、新約聖書を読むと、いかに、不完全の自覚を持っている人ばかりが救われているか、ということに気づくのです。不幸の分、自分を空しくしているような人々なのです。取税人、娼婦、姦淫を犯した人、病人、犯罪人・・などです。絶対孤独から絶望していた人々です。
 
一方、キリストの敵となったのは、自分は高いと思っている人々でした。高慢はくじかれ、傲慢は裁かれるというのが、キリストの教えです。聖書では、例外はあるようですが、パリサイ人や祭司、そして、言葉だけに詳しいと思われていた律法学者たちでした。
 
こういうキリストに憎まれた偽善者になってしまう恐れは、今の時代でも反キリストとして、キリスト教の内外に、たくさんいるわけです。絶対孤独から解放された人が、裸の王様になってはいけないということです。また、安っぽい教条主義だけで、自己満足してはいけないということでもあります。
 
キリストの共感を受けて、キリストに共感する人は、キリストの民となり、キリストの同伴をもって、絆(ほだ)され、そして、生き直し、比喩的には、生まれ変わるゆえに、正直な祈りを、人から神への唯一の音信として、信仰生活を送ることになります。正義と善は、ここでも、結果に過ぎません。
 
キリスト信仰の福音は、正義や善を勧める教えではありません。もちろん悪を勧める教えでもありません。一途に救いを伝える教えです。一途に、孤独ではないことを知らせる教えです。正直な祈りだけで、信仰の義を与えられて生き直す日々を伝えています。
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  無の真実
 
独り思いは掌中に風化し
砂のように行方も知れず
毀(こぼ)れ落ちる
 
後には何も残らないか
と尋ねられれば独り思いは答える
毀れ落ちたという真実が残ると
 
それは意義や意味
といったものには縁のない
売れない虚無の踊り子だ
 
しかし売り出し中の
毳毳(けばけば)しいダンサーよりも
しばしば長く残る
 
拍手喝采のない舞台で踊り続け
舞台を選ばず外でも内でも
ホーホーラララ・・・♪
 
けれど耳に聞こえず目に見えず
掌中から去って久しく
ときに手のひらよりも胸に
遠い浜からの潮風を通す
 
 
  相対性情緒
 
討論会というものにおいて
喧々囂々(けんけんごうごう)の論争を経ても
一定の結論に達することが殆どないのは
それぞれが異なった譲れない一線を
結界のように引き直し引き直し
自らのベクトルに乗っていながら
しかも語ろうとしているのは
絶対的な速度の源についてであるから
そこで起こり語られる
あらゆる現象も事物も時間も空間も
知識や論理さえ
多様に歪み変形し展開するために
絶対的な真理を見出すよりは
相対的な誤りを見逃すほうが
はるかに容易(たやす)く
すれ違う脈絡の渦の中で
感情の起伏は激しく波打つのに
論者は知性と理性をもって語るように
義務付けられているから
討論会は結論を出すことが
目的でもなければ期待でもなく
論争があるということを示す
統一されない場にならざるを得ず
よって周りで見ている人々は自らの
自転する思考に乗って公転するように
目を回しながら注目し
サラウンドしながらラウンドする
ノイズのような声に聞き耳を立てている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のボンヤリ言語というのが「大事なことだと分かって」「実践するのは難しい」に表れています。反省できなければ人間ではないということを、難しいことのように言うのは、反省する気がないということで、「んだよなあ」という語尾で「人間の性」と一般化するという気色の悪さです。
 
楽山の文章を見るとき、体質として性癖として身についてきたボンヤリ言語と、三文芝居のトホホ言語に、安っぽく同情するか、気持ち悪い作為だと気づくかで、楽山の罠にはまるかどうかが決めってくるようです。嘘と詭弁だけの楽山は、善きものをことごとく捨ててきたのです。
 
 
 
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  神について語るには4
 
 
キリストや聖霊についても同様ですが、神という御方を考えるとき、全知全能の神については、私たちの概念の箱には到底納まらないということを先ず言いたいのです。神と聖書について人間が持つべき箱は、修正可能な分かった "つもり" と、分からない保留の箱だけです。
 
したがって、「神」を概念や観念として言葉で考えることは、無理すれば、人が全能者を扱うことになり、教条主義という罠に堕ちるでありましょう。最悪の例を、一人は10年、もう一人は3年、批判しています。全能者は人に扱われるような御方ではありません。
 
つまるところ、全能ではない人が、神の概念を語ることは困難であり、語るにあたって、少なくとも恐れを持たなければなりません。
 
では神について語ってはいけないのかということになりますが、恐れを持つということは、語るなということではなく、語る内容を言葉で決めつけてはいけないということです。どういう姿勢で神を語ればよいのでしょう。
 
神そのものではなく、導き、憐れみ、戒め、懲らしめなど、神が人に及ぼした作用の、人における経過と結果から、推測できるものを語るべきなのです。
 
その場合、導きを受けた人のことを語ってもよいし、そういう人の様子や経緯から推測できることを語ってもいいでしょう。神そのものは、人によって捉えられるものではありませんが、神が人に及ぼした影響
つまり人の信仰については、人は不完全ながら知りうるということです。
 
そういうことですから、人が聖三位について語るとき、最も多く語れる対象はキリストであります。人格としての言行録が福音書としてあるからです。
 
その中の物や肉体の奇跡については、なお人間の理解の届かないところにあります。キリストについて、物や肉体の奇跡を追いかけて、魔法使いの言行録みたいに語ってはいけないと思います。そういう奇跡は
人間の守備範囲外にあるからです。
 
キリストと、キリストが救った人々との交流から、救いとは何か、キリストが批判した人々との遣り取りから、救われないとは何か、こららのことを学ぶことは、決めつけない限り可能でしょう。
 
またキリストを信じることで、自分に、そして人間関係に、さらに思考や感情に、そして人生に、どのような変化があったのかを語ることも可能でしょう。
 
そこから推測できるところの、信仰がどうあるべきか、信仰者がどう生きるべきか、などに話を広げてゆくことも出来るでしょう。
 
信仰者として心が揺さぶられることは、キリストからの愛に、そしてキリストへの愛に帰してゆきますが
信仰者の人間としての営みの成り行きにおいて、総じて、導きは祈りに帰してゆきます。祈りは、その日までの経過であり、その日からの出発点なのです。
 
 
神様のことは、徳の高いお爺さんか先生がいるから話を聞いて仲良くしましょう・・ではないのだから、会えば分かるわけでもないのだから、会って直接話を聞ける相手でもないのだから、信仰者は、善の代名詞みたいに気軽に話のネタにしてよいことではありません。
 
また、カルトのように、自分の見なしを大仰な小理屈?の教条にして、形容だけ大袈裟にして、大真面目を装って嘘を吐いて、神の意志と行為を決めつけてよいわけもありません。
 
神聖について、人が持つべきなのは、確信ではなく、恐れであります。
 
人に起こることというのは、聖書からだとしても、よく語られる超常話が人を救うのではなく、つまり物や肉体の奇跡ではなく、人間であれば理解できるような、人間の喜怒哀楽とか愛とか洞察とか、人間に共感できることだけが人を救うのです。
 
私たちを惹きつけ共感させることが、聖書にはたくさんあります。そこに価値を見出した人は、理解できないことや疑問や矛盾は、人ゆえにいだくものとして保留するのです。
 
聖書が教える信仰は、自らの経験と思考の届きうるもの、すなわち、人間であれば理解できること、共感できること、それらをもって問いかけてきます。
 
信仰の学びとは、こんな不思議の奇跡のわざが起こるんだ・・すごぉい!・・というような、奇跡の粗筋と一覧を覚えることではなく、主イエス・キリストが思いを共にして下さるという孤独からの解放を、人間らしい温もりと潤いの心で、聖書から学び、考えて、伝えてゆくことなのです。
 
ここでいう学習とは、聖書を読み、心に響いたことを、体験において考えてゆく作業であります。それは、その人の生き方の問題であり、人間関係の問題であり、人間とは何かという問題になります。キリスト信仰は、それらを、道徳としてではなく、良心の生き方と在り方して学ぶことなのです。
 
 
共感と学習の道

共感と学習の道
 
 
(2019年、2020年、2021年)
(2022年04月28日、再録+加筆)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
人間が持ちうる
最も良質な
精いっぱいの
神への告白は
讃美ではなく恐れである
 
神の全能への恐れと
それを憐れむキリストの共感が
キリストへの共感を生むとき
キリスト信仰は生まれる
 
 
 神への恐れ
 
人間は
神について確信的に知ることなど出来はしない。
神は偉大というのは
私たちには知りえないほど偉大だということだ。
神は永遠というのは
私たちには到達できないほど永遠ということだ。
 
そこを取り違えた者たちが
神の言葉を代弁するかのように豪語するのは
"紙の言葉" をもてあそぶことに過ぎない。
 
机上で神をもてあそぶ者たちに惑わされないように
 
私たち人間は
お笑いのように
泣き笑いのように不全であります。
 
先ず
神を恐れることを学んでください。
 
次に
恥ずかしく、泣き、笑われる、私たちに
同伴し、寄り添い、共感し、共感を与える、キリストを覚えてください。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省が大事なことだと分かっているなら、いつでも、反省は出来ることなのです。それをせずに「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などと言っているのは、反省する気のない者か、反省ということを知らない者でしょう。育たなかったのでしょうか、反省と学習の精神が。
 
 
 
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