ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  安楽の果て
 
 『はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲』佐藤優著
 2021年03月29日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、今まで、一度もキリスト教について、真面目に、真っ当に語ったことはありません。前にも言ったように、机上の屁理屈に、学者の言葉を宛がって、もっともらしく語ったことにしてきただけです。
 
楽山は、ずうっと、自分の言いたいことを書くだけで、人の言うことを、読みもしないし、読み取れないし、読んでも感じないし、受け取りもしないし、ましてや、理解する気など最初から無いのです。冷やかしだけで、議論の主体にも対象にもならない人です。
 
神にも、キリストにも、聖書にも、全く無縁な野次馬の言うことを受け取らないでください。タイトルだけ立派で、「宗教」にも「論」にもなっていません。しかも、こういうことは、はじめてではないのです。
 
楽山は、慢心しか持たない、とても幼稚で、人の言葉を無断借用しないと何も言えないほど遅れているのに、呆れたインテリ気取りだけに満たされている精神の詐欺師なのです。
 
何度も反省とか共感などと言いながら、前後の文脈に全く変化がなく、実がなく、言葉だけ書いて、ごまかしてきた履歴があるので、楽山の言うことを本音だと思わないでください。
 
*概略
本書では宗教およびキリスト教について語られており、宗教についてはいささか難しい話もあるが、キリスト教については分かりやすく説明されている。
以下には、本書中で特に印象深かった箇所についてメモしておきたい。
 
楽山は、しばしば、"・・は分かりやすい" と言います。しかし、それで書いた感想文は、まるで分かっていないことが表れるだけなのです。どうしたら、楽山のように、謙虚さを捨て去る、かつ、それを気にしなくなる、などいうことが起こってくるのでしょう。
 
楽山については、宗教や思想や言論・・云々ではなく、精神病理のほうが、説明の的を射ることになりそうです。この世には、不治の病があることを、いつも感じさせてくる楽山です。
 
悪業の、虚言、詭弁、誇大妄想、自己中心、固定観念、訂正不能、学習障害、など、多くの言葉・用語が、楽山には、まとわりついてきます。言論の内容云々以前の問題なのです。
 
*聖書
アーネスト・ゲルナーが言うように、キリスト教という名で明確に定義できる教説は存在しません。全く反対のものが一つの器に盛り込まれているので、どこを取り出すかによってあらゆる言説が組み立て可能です。
(『はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲』佐藤優著、NHK出版、2009年、pp.153-154)
 」
「聖書からはあらゆる思想を導き出すことができる」という話を聞いたことがあるが、ここでも同じことが言われているようだ。
宗教批判者は宗教の抱えている矛盾をつくが、宗教はその矛盾故に守られ、さらには次々に生まれてくるのだとしたらおかしい。 
 
宗教は、信仰のためにあります。信仰は、思想ではありません。矛盾は、人の常としてありますが、楽山のような酷い有り様で、批判に何の返答も出来ないようになることはなく、さらには、楽山のように言い張りだけは続けるような、恥知らずにもならないのです。
 
節操のある人間ならば、ふつうは、双方向が可能です。しかし、楽山とは、まるで成り立ちません。楽山は、自我の排せつ物を、立派なもののように、排出するだけの壊れた蛇口の単方向です。
 
*人間観
自由意志によって良い選択、神に至る選択はできない。これがプロテスタンティズムの人間観の根本です。人間の自由意思というのは奴隷意思であり、常に間違った選択しかできないというわけです。
 他方、カトリシズムの人間観では、人間は神の恩寵によって正しい選択もできると考える傾向があります。 
(同上、p.171)
 」
著者によれば、プロテスタントには幅があって、ルター、カルバン、ツヴィングリは「自由意志による救済の可能性を全く認めないが」、ジョン・ウェスレー(メソジスト教会の創始者)は「人間の自由意志による救済を認め」ており、カトリックに近いという。
 
またしても、浅薄な知識をもって、受け売りの知識を、紙くずのように投げてくる楽山ですが、破れた紙片だけでは説明にならないことが、分からないようです。元々知ったかぶりをして、いい気になりたいだけだからでしょう。
 
信仰は、神に与えられた人間の自由意志を生かします。否定してなどいません。信仰告白は、そして、信仰生活は、自由意志でなければ意味がありません。
 
自由意志を病魔に操られて破壊されているのは、楽山のほうです。だまされないようにしてください。精神病質者の楽山に、まともな思考力はありません。
 
偏向した固定観念だけしか持っていないと思います。ゆえに、あとは、柔和芝居をするしかないのです。ゆえに、まともな読書も出来ないことが、今までの楽山の感想文から明らかになっています。
 
自分は人には当然に自由意思があり、これによって善を選ぶことは可能と考えていたのではあるが、最近はこのどちらにも懐疑的になっているので、上のような人間観には真実味が感じられる。とはいえ人の選択に影響を与えている存在について、それを神とするか、遺伝子とするか、はたまた環境とするかは判断しかねるのではあるが。
 
楽山が善を選んでいるとは、到底、考えられません。ずっとずっと、言論の邪魔ばかりしてきました。楽山は、懐疑的なのではなく、理解できないから否定しているだけです。計算の出来ない子供が、数学嫌いになるのと同じようなレベルに過ぎません。
 
選択に影響を与えている存在を、神とか、遺伝子とか、環境とか、言っていますが、自分の感性と思考の偏りという欠陥、その原因である自己愛性パーソナリティ障害、という病識だけは、考えない楽山であります。「判断しかねる」のではなく、明らかに、判断できない病気なのです。
 
*神とは何か?
カール・バルトは、人間が表象する神について、人間の願望が投影された神にすぎないと考えます。
(同上、p.177)
 」
神や宗教について、あれこれ考えた結果、「宗教によって明らかとなるのは神のことではなく、人の願望はいかなるものかということであり、人が神を語ろうとするとき、それは自己を語ることに他ならないものだ」と近頃は考えるようになっていたのではあるが、どうやらこんなことはとうに言われていたことらしい。
 
聖書には、願望だけでなく、戒めも書かれていますが、それを理想としても、もっと大事なこととして、神と人の関係、そして、キリストの共感と愛、という、人間にとって大切なことが書かれています。それを、全く読み取れず、弁えず、神がどうとか語るのが、呆れた自惚れ屋の楽山です。
 
楽山は、神は、人間の願望の産物だといいたいようです。願望と欲望は違います。目指すものと、有るものは違うのです。楽山のように、自らを洞察できない者は、それを、いっしょにしてしまいます。
 
信仰は、時に欲望を許し、時に欲望を抑制するように働くことさえ理解できない楽山です。そして、その根源において、欲望よりも、より高いものに、到達できないまでも、憧れをもって、生きる縁とすることがあります。それが、罪の自覚ゆえに、信じ仰ぐ、という信仰です。
 
そういう高次の精神機能が、我欲しか持っていない楽山には、理解不能なので、全部、願望という言葉で、乱暴にひっくるめて、信仰をマンガに、聖書をマンガ本にしてしまうのでしょう。
 
恐らく、そのことが、いつ読んでも、どんなテーマでも、楽山が、本能のように、言葉も、書物も、聖書も、低次元で、発育の悪い幼児の譫言(うわごと)に、無理に、まとめてしまって、何の響きもない退屈さで、楽山にだけ満悦を与え、信仰者にとっては、お話にならない原因であります。
 
楽山の語る宗教は、宗教でも信仰でもありません。楽山は、自己満足しているだけです。楽山を、聞いて、読んで、受動的に、宗教ってそうなのか・・と思ってしまう犠牲者を待っている楽山のペテンに、どうか、引っかからないでください。
 
主体的に考える人は、決して、楽山には頷きません。代わりに、楽山の、どうしようもなく整わない病魔を、そこに見るだけです。そして、それが、楽山に関わった者が受け取るところの、言い知れぬ徒労であり、消耗性の疲労であり、心ある人間が、心無い非人間に遭うという悲劇なのです。
 
こうしてみると、この世界にはもう新しいものなど一つもないし、素人が思いつくようなことは専門家によってすでに語り尽くされているというのはその通りのようだ。
 
どう「語りつくされている」のか、私は知りませんが、楽山は、「その通りのようだ」と書いています。しかし、その語りつくされたという一部でさえ、楽山は、勘違いの連続であることが、書くものに表れてきました。
 
楽山という自惚れ妄想屋は、いったい、どういう見識を持っているつもりでいるのでしょう。罪悪感を感じ得ないから、だらだらと書いてきて、うわべだけ、まともぶれば、一人前の言論者と肩を並べているつもりになるほどの病的ナルシストです。
 
恐らく、生まれてから、まだ、一度も、真実に近づいてさえいないのではないかとさえ思われるほど、おぞましい精神病理であります。先入観が肉体を身につけ、固定観念となって保身し、不都合を無視する自己中心が、成長の無い口を育てて、不潔な唾を飛ばしているだけのようです。
 
語りつくされていることを、知り尽くしているかのような、楽山の高慢と傲慢です。謙虚というものが一切見られません。爆弾を投げておきながら、言い方だけ丁寧にする無理が、楽山の言において、あらわになっています。悲惨です。
 
*いろいろなキリスト教
宗教は特定の文化の中でしか現れません。宗教というのは文化の一形態です。キリスト教も例外ではなく、純粋なキリスト教というものはありえず、文化と融合して成立する不純なものということになります。
そうすると、それぞれの文化によってキリスト教は発現形態が異なることになる。ここに類型という考え方が出てきます。 
(同上、p.212)
 」
著者はこの一例として「西欧文化と融合した西欧類型のキリスト教」や、「スラブ文化と融合したスラブ類型のキリスト教」などがあるとしつつ、「西欧類型のキリスト教」はさらに様々な類型に分かれるとしている。
 
キリスト教を「文化と融合して成立する不純なもの」という話を引用して言っています。宗教の文化的形態と、個人の信仰そのものを、混同した誤謬であります。宗教も信仰も、どこまでも、矮小化したい楽山の目的に適っているから引用したのでしょう。
 
宗教には、個人の信仰という、いかなる類型分類も出来ず、誰も犯すことのできない領域を含んでいることには、お構いなしのようです。
 
楽山の言は、強迫的思考の限界であるところの、机上の理路で宗教と信仰を語ったつもりになるという症状です。心の無い楽山には常態です。心の問題である信仰に、類型は通用しません。
 
この症状については、前から指摘しているのですが、訂正不能の楽山らしく、無視して無学習のまま、またしても、同じ落とし穴に、机上から未整理の混線に嵌って、泥沼のような猥雑な理路に浸かって、温泉気分になっているようです。
 
世界を網羅しているかのような誇大的陶酔気分の、自分で発電できないショートサーキットが、他人の言葉頼みの依存性回路をくっつけて堂々巡りしています。
 
自分の欠点や罪のことを、一切、語ることの出来ない楽山です。このような、学者気取りと評論家気取りが、楽山の縋りつく生き甲斐になっているようです。背伸びして背伸びして痙攣し昏倒するパターンでしょう。
 
客観的に書いているように見せかけても、実は、自己中と自己愛による偏屈な主観が全体を支配していて、どこにも客観性が見当たらない、という、視野狭小と理路の混乱が特徴的な、楽山の文章です。
 
自分は遠藤周作の語るイエスに共感するところは多いのではあるが、遠藤周作は日本人に理解できるキリスト教を求めていたとのことであるし、
 
今までの記事から、楽山は、誰にも共感したことはないと思います。みんな、楽山が自分を飾るための思い込み、または、嘘なのです。遠藤周作は、私が、一部、読んだ著作からも、教会から乖離した信仰だったわけではないと思います。
 
「遠藤周作は日本人に理解できるキリスト教を求めていた」と言いながら、そのキリスト教も信仰も、全く理解していないから、読者に理解できるように説明できないのが、楽山です。こういうことから、思い上がりからの飾りだとバレています。
 
同氏については、自由で、柔和、そして、小説家ですから、人間の立場から考えるのは当然でしょう。それは、同氏の器としてあるもので、楽山が、いかに、偏らせようとしても、楽山の器では理解できないところで、活性を持っているのです。
 
楽山という我執による短絡魔が、宗教から、文学まで、何か、見なして決めつけたいようだが、度外れた無理解の誇大妄想から、自分をまっとうに見せかけようとして、滑り続けるという破廉恥をさらしているだけです。自己愛者は身の程を知らないという症状に過ぎません。
 
それなら遠藤周作の語るイエスに共感したところで、それは氏によって日本的に再解釈されたイエスに共感することにはなっても、本来のキリスト教の語るイエスに共感したことにはなるまいと考え、若干さみしい心持ちがしたものだが、上の話からすればこれはさほど気にする必要はなさそうだ。
 
「日本的に再解釈されたイエス」と言って切り捨てているところで、いかなる器も縁の無い楽山の言は終わりです。キリスト者の共感ということが分からない楽山は、有名人も侮辱するような、傲慢で、かつ、それを "気にしない" だけの、無視の鈍感を持ち合わせていることを、自分で漏らしています。
 
今まで、有名人や学者の名前を、自分の満悦や快楽のためだけに、好きなように見なし、悪用して、"気にしない" 楽山です。思想と言論の邪気として、追放されるべき人格でしかありません。
 
人間としての反省力や責任感という属性を持たず、身の程を弁えない楽山は、社会人として成り立たず、言論者としてはエラーかワームかバグという回路の混乱を招くだけです。したがって、いかなる真実追求の思想にも議論にも、参加する資格はないのです。人間として成り立っていないからです。
 
実際、楽山の言は、日常会話のゴシップ以上の機能を持っていませんし、そのような罪業(ざいごう)だけを、発言・発信として、もたらしているだけの、煩わしい自己循環性の単体に過ぎません。
 
人は純粋なキリスト教は知り得ず、その文化と融合させた形でしか認知できないのであれば、自らの属する文化を通してキリスト教を理解することの是非を論じても仕方なく、それはそのまま受け入れる他ない。
 
人間は、神ではないのだから、完全性と純粋性の総てを知ることは出来ません。まさに、信仰がそれを教えています。人間には、人間の弁えるべきことがあります。そこに信仰の中心があるのです。
 
楽山は、無理に、辻褄合わせをしているようです。「そのまま受け入れる他ない」・・・楽山が、いったい、何を受け入れたというのでしょう。楽山が受け入れてきたのは、賛同と、世辞と、褒め言葉だけです。餌をもらって尻尾を振る犬のようなものです。
 
いかなる文化を通しても、自己愛性人格には、宗教の是非など、分かりません。根底から、宗教を見くびって、もはや、人間の言葉の恩恵を、慢心だけで、超えたつもりになっている短絡志向の楽山だけが「是非を論じても仕方なく」なっているだけのことなのです。
 
今に至るまで、宗教の是非とか理路とかを、外し続けているのが、楽山その人です。しかも自覚がないから、学習もせずに、書物や学者の名前を出しては、読解不能・説明不能の自我に、いつも、慢心を塗りたくって、見せびらかし、その結果、救いがたい有り様を呈しているわけです。
 
弁えるどころか、あざ笑うように、宗教を机上でもてあそんできた楽山が、宗教について、受け入れる気もないくせに、幼稚な見方で、宗教理解を論外のように言っています。病質者というのは、ここまで外れて、自己正当化してしまうということが分かります。楽山に分からないだけなのです。
 
個人の事情によって異なる部分がありますが、そのことと矛盾なく、共有できるところがなければ、宗教も信仰も成り立ちません。楽山は、実際に信仰に救われた人がいることを無視して、成り立たないことを、自らの不遇の怨念の反発で、望み、言い張っているに過ぎないのです。
 
*イエスの教え
とはいえ、現実のイエスはどのような教えを説いたのかということは、やっぱり気になる。
 
こちらのほうが二千年前のことだから、いっそう確定できない、ということを、楽山は、分からないために、「やっぱり気になる」などと軽口で言う始末です。小児レベルの欲望でしょう。
 
「どのような教えを説いたのか」ということは、聖書に書いてあります。楽山は、そのレベルでも、聖書を、まともに読んだことはないと思います。宗教、特に、キリスト教について、楽山の言うことを信用しないでください。
 
 (▼不勉強の楽山の無知がバレています。▼)
 
関連書籍を調べてみれば、現代のキリスト教はイエスというより、パウロによるもののようであるし、悔改めよ天の国は近づいた云々というのは洗礼者ヨハネの言葉ではあってもイエスのそれとはいえないだとか、安息日についての教えはイエス独自のものとは言えず、ユダヤ教ですでに説かれていたともいう。
 
楽山は、教えについて述べず、誰によるものかに興味があるようです。洗礼者ヨハネといい、使徒パウロといい、イエス独自ではない、という、教えそのものを理解してない楽山の、安っぽい、いちゃもんに過ぎません。聖書から、何かを学ぼうという気が、元々ないからです。
 
楽山は、すべてがイエス独自の教えでなければならないという子供じみた解釈から物を言っています。イエスは、公生涯以前に、律法や戒律について、知識と、その実情を見て学んだであろう、という解釈が、楽山には出来ないのです。的外れもいいとこでしょう。
 
パリサイ人の戒律主義と対立して、イエスは、人間の心に寄り添い、心と命を生かす信仰を宣べ伝えたことが、楽山は、知識として入っておらず、学ばないままで、文句を言っているのです。
 
律法を、廃するためではなく、成就するために来た、という、イエスの言葉(マタイ5:17)も知らないようです。ゆえに、昔から安息日というものがあったけれど、安息日が戒律となっていることを批判して、イエスは、人の子は安息日の主である(マタイ12:8)と言ったことも知らないのでしょうか。
 
事前に調べるということをしないのでしょうか、思い付きで書いているのでしょうか、楽山は、何も勉強しないで、文句を言って、キリスト教を否定しています。怠慢の上で、思い上がる楽山です。
・・うわぁ、呆れる・・とでも言いましょうか、底が知れる・・楽山、最低です。
 
自分では大事なことを何も言えないために、大昔のことですから、誰が書いたかについては、正しいとも間違いとも言えないことを利用して、漁って拾ってきたらしいことを書いて、否定したつもりで満悦している楽山であります。
 
上の聖句は、キリストの使命に深くかかわることです。楽山は、聖書を、全く理解していないことが明らかになりました。それで、キリスト教を否定して、どうするんでしょう。楽山に学べとでも言いたいのでしょうか、それは永遠にありえないことです。ちょっと、言います・・バカか。
 
また、人の言うことを持ってきて、けなしていますが、楽山には、全く独自性がないという表れなのです。「もののようであるし」「だとか」「ともいう」・・この情ない書き方は、おとしめ、けなし、否定する、という目的だけで書いてくる欠陥人間の筆致として資料にしてゆきます。
 
 (▲楽山が無知であることの証拠になります。▲)
 
果たして現実のイエスの真意はどのようなもので、どのような教えを説いていたのだろうか。どうもこれは現実の釈迦は何を説いたのかという問いと同等か、それ以上に難しそうだ。
 
キリストと、釈迦と、楽山においては、十把一絡げであることが表れています。こういう人なのです。何も分かっていない、しかし、分かっているふうを装う芝居、今まで、何度、見せられてきたことでしょう。自己愛性人格障害、不治のようです。
 
*人それぞれ
ある人にとって絶対的なものはある。しかし、それはその人にとってのみ絶対的なものである。人は複数存在するのであるから、絶対的なものも複数あるのは当然のことです。そして人は、自らの信じる絶対的な原理に従って、この世界について語る。そこで語られた異なる言説の間で折り合いをつけるという作業を繰り返していくしかありません。
(同上、p.214)
 」
人には絶対は知り得ず、自分にとって絶対的なものしか分からないのであれば、それを他に強要はできず、自他の信じる絶対的なものの差異を受け入れ、折り合いをつけてゆくしかないというのは当然のことではある。
 
絶対でなくても、個人が生きる上で、必要とするものがあり、それに答えるのが宗教であり、それを、縁(よすが)とするのが信仰であります。
 
自分にとって絶対的なものが、楽山には分かるのでしょうか。そんなこと、誰にとっても、分からないと思います。だから、思想・宗教などを学ぶ意義があるのです。学ばないで慢心している楽山ならではの発言です。
 
楽山が、信じないのは、楽山の勝手ですが、「折り合いをつけて」などという言い方は、宗教と信仰に対する侮辱するための詭弁でしかありません。人々の間で、付き合いの折り合いを付けることと、信仰とは全く違います。
 
今までもあったことですが、似て非なることを同一視して、いい加減なものだと見せかけようとする楽山の、卑しく嫌らしい印象操作の企みであります。こういう手段しか楽山には無いのです。
 
楽山は、真面目・真剣を旨とする求道者と信仰者への、言論による迫害者と言ってよいでしょう。はっきり言わず、語尾でごまかすのが特徴の、ボンヤリ言語の慇懃無礼による悪魔性が全開です。
 
一神教は他に不寛容になりがちだという意見があるけれども、こうしてみると、一神教だからといって必ずしもそのようではなく、人としての相応の謙虚さを持つならば多神教的な側面を持たざるを得ず、必ずしも寛容を拒絶するとは限らないのだ。一神教は不寛容で、多神教は寛容だという単純な決めつけはよろしくない。
 
楽山のような者に、寛容になる人は、だまされている人だけでしょう。「人としての相応の謙虚さ」を、欠片も持っていないのが楽山です。
 
加えて、不寛容という成り立たない固定観念をもって、「一神教は不寛容で、多神教は寛容」などということを持ち出すのは、信仰を持たない者の、刷り込みであり、ごまかしても、むしろ、まさに「よろしくない」楽山のような人が企むものだと分かるのです。
 
楽山の言葉を信用してはいけません。何の責任も負う気はないのです。思考と感性が、滅裂に近いほど、楽山は、信仰という大切な問題について、全く圏外に向かって、呆れるほど的を外して、遠吠えばかりしています。
 
信仰を持たない人とは、限界はあっても、常識の範囲であれば、ある程度、話が通じるものです。実際、そういう話し合いの中から、新しい信仰者が生まれているのです。私も、かつて、その一人だったわけです。
 
しかし、常識も持ち合わせていない楽山のような自己愛性人格障害者とは、どのような話し方をもってしても、やはり、無理のようです。今回、それを再確認しています。理路に、接点のない妄想的破綻をきたしている楽山です。整合性も、共感も、成り立ちません。ただ、迷惑なだけです。
 
「多神教的な側面を持たざるを得ず」などという言い方で、一神教からの、トンデモ短絡を許してはいけないし、さらに、それが、寛容であるかのような詭弁を許すことは出来ません。
 
いつもながら、詭弁と捏造で、薄い思考と、鈍い感性で、丁寧に、ボンヤリした言葉遣いで、理路の厳密性を全く考慮しないで、捻じ曲げて、結論に持っていく婉曲という楽山のボンヤリ言語は、悪意と悪臭の催吐作用しか持ってはいないのです。
 
今回、楽山の病質が、惜しみなく、高慢、慢心、傲慢、気取り、不感不応、訂正不能、という形で、文章に表れています。いつもと同じように、汲み取れるところが、どこにもなく、恐ろしいほど無自覚の、言論者として欠格と言ってよい非常識の、感受性の鈍麻と理路の破綻を見ています。
 
今までの楽山の言から、楽山が持っているのは執念深い悪意と共感性の鈍麻であり、持っていないのは理路と感性であり、もたらしてくるのは徒労と疲労であります。ゆえに、楽山の行方は、真実ではなく、排泄でしかありません。汚れないように気をつけてください。寒気がします。
 
 
排泄物

排せつ物
 
 
(2021年03月31日)
 
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  福音から遠い者
 
 
 楽山のツイッターですが
   ・・書くか引用しないと人生が成り立たないのでしょうか。反省はせずに。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
キリストは、アメリカや日本にも訪れていたとすることは、モルモン経、竹内文書にも一理ありとすることになりますね。
午前7:13 · 2021年3月28日·Twitter Web App
>>
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
昔の幸福の科学は、イエス・キリストの復活とは霊的な復活だと言ってた。
なのに最近は、宇宙人の協力を得て物理的復活を遂げ、その後アメリカ大陸、さらに日本の青森へ渡ったと言うことになったそうだ。訳わからん。
午前1:10 · 2021年3月28日·Twitter for Android
<<
 
主イエス・キリストは、すべての人のもとを訪ねて来られます。
 
目に見えないあり方で、ということを、霊的、という言い方もしますが、霊的と言うことで、神秘の味を人が加えたがる傾向は、あまり良いこととは思えません。
 
さらに、楽山のような者は、キリスト教が、こんなにバカなことを言っている、あるいは、言われていると、揶揄して笑うだけです。悪意と作為で物を言う者の定めなのでしょう。
 
聖書を読んで、キリストを必要とする人と、笑いか妄想のネタにする人が分かれます。
 
キリスト者であってもなくても、2つに分かれてゆきます。楽山は、後者なのでしょうか。笑いのネタばかり探しているのは。
 
神の存在や、キリストの教えに、疑問をいだくのは、正常です。そこから、人の生きた学習が始まり、神の導きが始まるのでしょう。
 
しかし、最初から、おごり高ぶり笑っている妄想家に、真実が届くのは、それこそ、ラクダが針の穴を通るくらい、無理だということです。笑えば笑うほど、怒れば怒るほど、慢心すればするほど、揶揄すればするほど、別の者に愛され、利用され、捨てられてゆくのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:23
それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 
19:24
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
 (マタイ19:23-24、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:23
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。 
23:24
盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
 (マタイ23:23-24、新約聖書)
 
地上に生きる人の信仰が、完全になることはありません。
完全という能力が人にはないからです。
 
完全な信仰を求めること自体が間違いであります。信仰が完全になる、あるいは、なったと思うなら、その思いは罪であります。人間である限り完全はありません。神の前に、信仰者であってもなくても、人は罪人です。
 
救われることと、完全になることは別です。人間の希望は、前者であって、後者ではありません。
 
ゆえに、おごり高ぶる者は、傲りを信仰し、高ぶりを信仰し、即ち、自分を信仰しているので、いかなる救いも、受け取ることがないのです。神がどうこうというよりも、人がどうこうということで、救いを受けるかどうかは、終末以前に決まってゆくものなのです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
確かに隆法って変に正直なところありますよね。信者さんたちも含めて、それがおかしいことだと考えてないから、ことさらに正直じゃなくて普通にしてるだけって感じかもしれないですが、それでも結果、正直っちゃ正直。特に信者さんは基本、ウソはよくないっていう教えにも忠実な真面目な人たちだし。
午後3:58 · 2021年3月28日·Twitter Web App
 
HSは、教祖も信者も正直だというツイートを、楽山が引用しています。「変に正直」と楽山が言っても、不正直よりは、マシです。楽山は正直なところが全然ありません。
 
ゆえに、なおさら、不誠実で、嘘吐きの楽山には、HS批判をする資格はないことになります。楽山の体質的な嘘吐きは、当然ながら、体質的な正直よりは、はるかに性悪です。
 
どんどん墓穴を掘ってゆく楽山です。既に、批判されて、その卑しさが明らかにされてゆく途上ですが、ますます、高ぶって、書いては、寒くなる楽山です。
 
 
 
※ 信仰は
 
信仰は、
静的ではなく、動的です。
守ることではなく、求めることです。
保存ではなく、成長です。
達成ではなく、努力です。
到着ではなく、旅路です。
座すことではなく、歩むことです。
境地ではなく、道です。
 
だから、気づけば誰でもできることです。
 
それを可能にするのは正直な祈りです。
 
信仰者は、
得ていると高ぶることをせず、
足らざるを知って低さの弁えを欲します。
 
偽善者は、そこを、真逆に勘違いしてゆきます。あざ笑うかのように。
 
 
 
高ぶる寒さ

高ぶる寒さ
 
 
(2021年03月30日)
 
 
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  楽山の崩壊
 
 2021年03月25日
 家田荘子さんをめぐって(宏洋と広報チャンネル)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
(ネットより)
家田 荘子(いえだ しょうこ)は、日本のノンフィクション作家、高野山高等学校非常勤講師、高野山真言宗大僧都。家田荘子オフィス所属。マネジメントはエクセリングと業務提携。
 
*霊言は信じる? 信じない?
宏洋氏と家田荘子氏のコラボ動画が発表され、それに対して幸福の科学の広報チャンネルが物申してた。
ここでは動画の発表順に並べておく。
 
霊が分かるっぽい?という霊能者気取りの楽山が、「霊言は信じる? 信じない?」などと言っています。白々しい限りです。
 
(動画省略)
 
*感想いろいろ
以下には、動画を見た感想を書いてみる。
広報チャンネルでは、家田荘子氏は「霊言は本物」と明言したかのような言い方だけども、実際はもっと控えめな言い方だと思う。
 
ちなみに、楽山が、前に自分について言っていた「霊感の一種」は、丁寧語ですが、決して控えめな言い方ではないと思います。何故なら、霊と霊能力について、しばしば、話題にしてきたからです。また、「心の理論」という心理学の話を、心霊の話にすり替えたこともあります。
 
「自分は多少冗談っぽい言い方をしたので、笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった。」
「仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。」
「ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。」
 」
 
心理学の話である心の理論を、いくら延長しても、霊感の話にはなりません。推測する機能がいくら拡大されても仏様やご先祖様などの超常の存在を推測することはありません。推測するには根拠がありますが、楽山の霊の話には根拠が全くないからです。
 
特に、楽山は、精神も推測も貧弱ですから、こういう、あからさまな間違いでさえ、訂正することがありません。訂正不能の確信~信条だと思います。自分には、霊能力があるんだ・・と言いたいために、とても幼稚な詭弁を振り回しています。
 
家田荘子氏の動画の方が、宏洋氏の動画よりも和やかな雰囲気のように感じられる。宏洋氏の動画を先にとり、家田荘子の動画はあとに撮ったということだろうか。
とすると、家田荘子氏は宏洋氏に気を使って霊言を信じているといった可能性はあるのではないか。会って間もない対談相手の実父をエセ霊能者呼ばわりすることなんてできないだろうから。
 
「気を使っ」たかどうかについて、楽山に分かることはないでしょう。楽山は全く気を使えない人だからです。心が無いものだから、机上の辻褄で思いつくことを言っているに過ぎないと思います。人間を見るセンスの無い人は、宗教を見るセンスもないようです。
 
霊現象を信じる人は、霊現象の真偽判定はゆるくなりがちだが、家田荘子氏もその傾向はありそうだ。
 
宗教についての楽山の真偽判定は、ゆるいどころか、全くのデタラメです。自分のことを棚に上げて、他者のことばかり、どうのこうのと言うのは楽山の特徴ですが、人のことを、とやかく言う資格も能力も、楽山にはありません。
 
他の人の意見では、家田荘子氏は、大川隆法による霊言のことをよく知らないで言っているのではないかだとか、大川隆法の霊能に疑念を提示すると、自身の霊能の真実性にも疑念が及ぶことを恐れたのだろうというものもあった。どれも一理ある。
 
どこが「一理ある」のでしょう。人の霊能力の話です。つまり、信じるかどうかの話です。楽山は、人の霊能の真実性を云々しても、自身の霊能を疑う気はないようです。
 
楽山は、何も学ばず、何も反省せず、何の責任も負わず、何の根拠もなく、霊能を気取れば気持ちがよくて、その勢いで、人のことばかり書けるのは、自己愛性パーソナリティ障害だからでしょう。
 
家田荘子氏が駆け込み寺の話をしているのを聞いて思い出したが、幸福の科学は清水富美加の出家騒動の時に、自分たちは駆け込み寺の役割を担っているとしていたのだった。今でもそのようなことを行っているのだろうか。
「設定崩壊」って、これまでさんざん言われてきたから、同じ言葉を言い返したいだけだろう(笑)。
 
意味がよく分かりませんが、楽山の場合、いかなる設定も、自己愛から出ていて、根拠を示すことがないため、理路として崩壊してゆく必然になります。あるいは、何らかの精神病理や欲求不満や怨念で、楽山が時に見せるところの、時と場合にそぐわない不自然な「(笑)」は、真剣味や深みのない異常者の笑いとして説明が可能になるかもしれません。
 
自分は、大川隆法による霊言は信じていないせいもあってか、それを本物だとする意見には厳しい見方になってしまうのではあるが、上の動画を見て、大体このような感想を持った次第である。
 
楽山は、誰も、何も、信じていないと思います。誰かを、何かを、信頼することも信用することもないでしょう。楽山にとって、他者は、都合のよいところを利用するだけの対象物なのです。
 
楽山が、HS批判をしているつもりなのは、自分が変質ナルシスト批判を受けていることを隠すためなのでしょうか。楽山は、一方では、キリスト教への、批判ではなく、否定を続けているのです。
 
 
 
 宏洋氏はまた嘘をついたのか?(宏洋と広報チャンネル)
 2021年03月27日
 幸福の科学とは何だろう?・・楽山ブログ
 
*しつこい
広報チャンネルの宏洋批判はよく続くなあと思うのだが、もうかれこれ「宏洋氏に物申すシリーズ」は110回なのか…。まあ、しつこさについては、自分も人のことは言えないのだが(笑)。
 
「(笑)」・・またしても、楽山は、真剣味もなく、何を笑っているのでしょう。これは、批判でも忠告でもなく、揶揄、ひやかし、あざ笑い、の類であります。自虐にしても、楽山は、こういうことしか書けないのでしょうか、他に実のあることを何も書いてないのは。
 
批判者の資格もなく能力もなく、楽山が、しつこく書くことは許されないのです。しかも、楽山のしつこさには、根拠が無く、説明の理路が破綻しているために、説得力がありません。退屈で、真に受けると、疲労と徒労が増すだけであります。
 
そして、楽山を批判すると、それに対して、楽山は、基本的に無視してきますが、前に、st問題などと題して、悪口、いちゃもん、詭弁、そして、明らかな嘘までも、平気で書いてきました。楽山は、そういうことしか書けないのです。楽山は、うさんくさい詭弁の例でしかありません。
 
・出家で芸能界電撃引退のトップ女優と婚約破棄で教団教祖の父と絶縁/名誉毀損で2億の請求
 
動画省略。
 
・宏洋また嘘!「出家で芸能界電撃引退のトップ女優と婚約破棄」?両性の合意なしに婚約などありえない。【宏洋氏に物申すシリーズ110】
 
動画省略。
 
このように、引用・悪用、つまり、ゴシップでも何でも、他者の言葉と資料を借りる、本の言葉を恣意的に利用する、・・それ以外、何も出来ないのが、楽山です。正常な議論の邪魔でしかない、余計な宣伝マンなのです。しかも、すべて、楽山自身の自己愛と快感のためです。
 
理路が成り立たない、高等感情が鈍麻していて、共感、罪悪感、羞恥心、反省力、修正能力、学習と成長の意欲と能力、などがない。不備の自覚がないのは、自己愛性パーソナリティ障害のために、自分を斬ることが出来ず、反省せず、学習機能がないためです。
 
*話題
広報チャンネルの動画は、ツイッターで話題になっていたので見てみたのだが、自分もこのツイートと同じ感想だ。婚約があったかなかったかは傍からはわからないし、現状では事実上の引退だろうし、女優として優れているにもかかわらず、一般の映画、ドラマに出演できていないのであればその方面では干されているということなのだろう。
 
明らかにゴシップですが、宗教について、真面目な話が出来ない楽山は、こういうネタに飛びついて、興味本位の悪意を増幅しています。しかも、それで、「(笑)」って満悦しているのです。
 
どういう病気になれば、このように、遊びだけで、真剣なカルトの問題に、口を挿んだり、それで、笑ったりできるのでしょうか。恥ずかしくないのでしょうか。どこまで、サディスティックに他者を舐めたら気が済むのでしょう。
 
真実の追求から最も遠いところで、滑りっぱなしのピエロが、楽山です。
 
 
崩壊

崩壊
 
 
(2021年03月29日)
 
 
 
 楽山のツイートです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
『運命の開拓』は、大川隆法の著作の中では、最も格調高い文体だったし、自分の先輩会員もかなり熱心に読み込んでたのだけど、だからこそ落とされてたのかもね。
大川隆法は自分より人気があるものは、人でも霊でも神でも、みんな嫌いみたいだから…。
絵文字(青ざめた顔)
午前9:03 · 2021年3月27日·Twitter Web App
 
「格調高い」と、褒めたり、「落とされてた」と、けなしたり、忙しい楽山です。
 
似たようなこととして、取り入るために書いているだけで、明確な主張がないために、肯定を書いて、否定を書いて、断定していないからと責任を全く負わない、という、以前からの楽山の特徴です。
 
楽山は、自分と、自分を満悦させてくれる霊の話以外は、人でも神でも「みんな嫌い」です。楽山に受け入れられていると思ったら、だまされているということです。
 
その結果、楽山の書いたものを「熱心に読みこんで」近ければ近い人ほど「青ざめた顔」文字の用途にしてしまう楽山です。
 
分かりやすいカルトとも違います。楽山は、ボンヤリ言語で真面目を装い、トホホ言語で同情をひきます。全部、「絵文字」のような芝居です。
 
楽山の言の、うわべだけの中身の薄さと軽さ、生きている実感と真剣味の乏しさ、非を求めない無反省と無責任、という、自己愛性人格障害の特徴を、見抜けるようになってほしいです。反省、共感なども、字面の抽象だけ書きますが、前後の文脈につながっておらず、実感のないものです。
 
楽山の、言葉をわざとらしく書くだけで、感情・情緒の深さを表せない筆致に気づいてください。楽山は、深く考えることも、共感することも、病質のために出来ないのです。
 
楽山の、高等感情鈍麻による基本的に乏しい表情と、時に前の「(笑)」のようにニヤニヤするのとか「ははは」の高笑いとかを、思い浮かべながら、楽山の文章を読めるようになってください。
 
他者の感情を表す「みんな嫌いみたいだから…」という婉曲表現と、「絵文字(青ざめた顔)」で、それこそ、ヒエーこわいよね・・、みたいに誘導する書き方しかできない楽山です。
 
楽山は、感情・情緒について、表現する標(しるし)としての言葉を持っていても、切実な中身を持っていない、すなわち、真に喜ぶことも悲しむことも出来ない人です。
 
自分の表現がないのです。楽山が、本や他者の文章を読むのも、リツイートするのも、学ぶためではなく、自分の都合に合わせた言い回しを拾って、利用・悪用するためです。
 
 
 
 楽山に似た筆致の raku という人のツイートです。
 
raku
@rakusyo34
宗教アンチを見てて、素朴に思ったこと。
僕も宗教反対なのだが、
アンチ同士でなぜ反発するんだろう?
同じ目的、目標なら手を取り合っていけばいいのに、と思う。
なぜなんだろう?
同質は反発するから?
#宗教 #反対 #あんち #アンチ
午後0:21 · 2021年3月5日·Twitter for iPhone
 
自称アンチの楽山は、誰とも、「手を取り合」うなんてことは出来ないと思います。「同質」でもありません。書くものによって、真実を求める人々の邪魔だけをしてきます。
 
楽山は、偽者です。アンチではなく、野次馬です。いないほうがいい人です。自己顕示のために、アンチのふりをして、実は、自分の霊能を信じていますし、自分信仰の自己カルトを、宣伝しているような楽山ブログなのです。楽山とは、誰も、信頼関係は成立しないと思います。
 
楽山は、いくつかのキャラへの成りすましの疑いがあります。疑われていながら、それでも書いてくるのは、楽山が、危機意識もなく、罪悪感もなく、分別・反省力・責任感もない病質者だからなのです。高等な精神機能がないために、深いものを感じることが出来ないのだろうと思います。
 
楽山のような、思い込みが前提となって、訂正不能になっている心性では、正常ならば気づくことが、汽車の窓から見る風景のように、実感のない乾燥した絵の流れように見えるのかもしれません。深い意識を集中することが出来ないのです。
 
自己愛に囚われることは、人間を人間らしくする一番大事なものを捨てることです。
 
 
(2021年03月29日)
 
 
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  楽山を斬る聖句
 
 「第十四講 ビルダデ再び語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年03月27日 楽山日記(LD)
 
 
内村鑑三の本を引用して、まるで、論理立てをしているようです。しかし、前から書いてきましたが、自己愛性パーソナリティ障害の楽山には、論理も、理路も、情緒も、自己愛と自己正当化の方向に偏ってゆきます。また、論理どころか、できない無理を通そうという楽山の悪あがきです。
 
「第十四講 ビルダデ再び語る」の要点を抜き出しつつメモ。
ビルダデは「頭脳明晰」であり、その意見は「論理は整然」としていて、「さすがのヨブも彼の攻撃に逢いては大いにたじろい」ている。
 
ビルダデは、ヨブの三人の友人のうちの一人です。楽山が、上のように言うことには、何の根拠もありません。ここに書かれたことは、個人的な、楽山か著者の褒め言葉、という意味しかありません。楽山にとって、ビルダデは、都合がよいのでしょう。利用できるものはなんでも利用する楽山です。
 
ビルダデのように論理によってのみ判断する人は、神を弁護者としつつ神に対峙し、神を恨みつつ神に仲保者であることを期待し、「神を敵としまた味方とし」、「神を罵りまた神に憐れみを乞う」ようなヨブは、「理性と論理においては迷妄の極」ということになる。
 
ビルダデをはじめとするヨブの三人の友人は、神の偉大さを、教条的に大仰に述べているようです。それで、災難に見舞われているヨブの悲しみに答えているとは思えないという感想です。
 
ヨブは反論しますが、そこで語られているのは、自己正当化であることに変わりはないのです。楽山が、賛同して、ビルダデを「頭脳明晰」「論理は整然」と書いているのは、ただ、楽山の反キリストという目的に都合がよいからだけなのです。
 
「さすがのヨブ」を楽山は、全く理解していないことが、今までのヨブ記の記事で明らかになっています。楽山は、机上の幼稚な理屈しかありませんから、心を受け取れず、流れを把握できず、ただ、神を否定したいからにほかなりません。
 
それを指摘しても、なお、弁明せずに、主張だけを書いてくるのは、野良犬が、腹を空かして、獲物を漁って、吠えているのと同じです。犬には犬なりに条件反射的な学習機能がありますが、楽山には、人として学習することがありません。悪意だけの、いちゃもん屋、それが、楽山であります。
 
「ビルダデの悪人必滅論はヨブを指した者であることはいうまでもない」。
ヨブの苦しみは「産を失い、妻子を失い、難病に悩む類のこと」ではない。
「神は故なくして彼を撃った。神は彼を苦しめている」「彼の最も信頼する者が彼の敵となった。ために彼はこの者を離れんとしている。しかしながら失せんとしている信仰を思いきって棄ててしまうに堪えない」「失せんとするものを保たんとし、離れんとする者を抑えんとす、ここにヨブの特殊の苦しみがある」。
 
前と同じように、ヨブを、正しいのに神にいじめられている悲劇の主人公として書きたいのでしょう。反キリストらしい文脈です。こういうことを書く人で、人の話を受け取らず、共通の場に立とうともしない楽山ですから、誰も近づかないように、批判記事を書いています。
 
「 」でくくっているのは、著者の引用なのでしょうか。つまり、楽山は、自分の考えを書きません。書けないからです。何も、頭にも心にも、説明できるような、しっかりした主張がないのです。
 
にもかかわらず、完成した自己、即ち、自己愛と自己中から、都合のよい言葉に賛同して、同等の学者気取りで、勝手に、神を否定する方向に進めてゆこうとする誘導の詭弁に、決して乗ってはいけません。そういう書き方をして、ますます、醜い本性を表してゆく楽山です。
 
楽山の言については、引用でも、楽山が書いたものでも、理路を追おうなどとすると、はてしなく病的な疲労におとしめられます。それを承知で、なお、楽山は、同じ書き方をしてくるのです。それは、もはや、悪意以外ではないのです。まともでない者が、まともを装う見栄張りの姿なのです。
 
文章を読んで、一般的には、よく考えることは必要です。しかし、魂胆があり、作為と悪意があり、理路の混乱によって疲れるだけの、楽山だけは、決して相手にしてはいけません。人生の大事な時間を、楽山というドブに捨てることになります。
 
この楽山の記事において、楽山は、著者に、世辞のような褒め言葉を書いて、また、賛同していますが、楽山自身は、何も、独自の解釈の理路を組み立てていないことに気づいてください。それが、楽山です。そして、楽山の記事全体を通した特徴です。
 
伝道者である内村鑑三の言葉を、エサに食らいつく野良犬のように、悪用して、貪る、それ以上ではないのです。荒い息と、よだれの臭いだけが、楽山の出しているものです。
 
ビルダデの放った言葉によって、ヨブの「苦悩は弥増るのみである」。これによって十九章において、ヨブは「友に憐れみを乞うに至」る。
 
 (ヨブ記、口語訳)
19:1-2
そこでヨブは答えて言った、「あなたがたはいつまでわたしを悩まし、言葉をもってわたしを打ち砕くのか。
19:3
あなたがたはすでに十度もわたしをはずかしめ、わたしを悪くあしらってもなお恥じないのか。
19:4
たといわたしが、まことにあやまったとしても、そのあやまちは、わたし自身にとどまる。
19:5-6
もしあなたがたが、まことにわたしに向かって高ぶり、わたしの恥を論じるならば、『神がわたしをしえたげ、その網でわたしを囲まれたのだ』と知るべきだ。
 (ヨブ19:1-6、旧約聖書)
 
ヨブの心を察して思いやるのではなく、神の正義の全能の教条によって、ヨブを責めているのが、ビルダデです。
 
それを指摘して、苦難を神のせいにして、自己正当化に、ますます、固まってゆくのが、ヨブです。
 
ビルダデの教条は、楽山に似ています。教条とは、机上の戒めと理屈であるところが、楽山に似ています。楽山は、自分と自分の体験を考えることが出来ず、幼稚なナルシストになり、他者の言葉に依存しています。ヨブの自己正当化も、楽山に似ています。
 
楽山は、上から眺めるように、神を否定する長い文脈の一部を書いています。しかし、楽山は、ヨブ記に書かれている背教と教条的信仰の特徴の、ヨブ記の登場人物の、ヨブと友人の両方に類似点があるということです。
 
つまり、ヨブ記は、宗教に関わる人間が犯す過ちの典型を表し、図らずも、根拠のない反キリストと幼稚な教条主義の楽山に当てはまることを描いているという結果になっているのです。楽山は、自分の過ちを見ているようなものです。楽山は、不感不応の病質のために、気づかないのです。
 
内村鑑三はヨブをよく理解し思いやっているが、それだけ三友に対して手厳しいことになっている。内村自身、ヨブと同じく深く悩み苦しんだ経験がある故なのだろう。
 
災いにおいて、自分の非を認めず、他者のせいにして、聖句を生かすことができず、自己愛に固まって、反省できない偽善者には、必然的に、よくあることです。聖句が自分に当てはまることに、まるで気づかないのです。ひどくなっています。
 
「深く悩み苦しんだ経験がある故なのだろう」などと、わざとらしく共感の言葉だけ書いて、上から、傍から、内村鑑三と、ヨブと、ヨブ記を読んで書いているつもりで、他人事として評価している楽山が、とても、滑稽です。
 
 
気づかない

気づかない
 
 
(2021年03月28日、同日一部修正)
 
 
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  うそのまま2
 
 ありのままの自分でいること
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD)
 
 
反省・修正をする気がない者は、びくともしないと言いたげに、びくともしないことこそが不自然極まりないところでも、いっそう、我を張ってくるものです。
 
今までの2年にわたる経過から、いくら飾っても、いくら謙虚や中庸を装っても、既に、数々の嘘や詭弁がバレているのに、楽山は、その恥ずかしさを感受できないのだろうと判断しています。
 
仏様の心が分かるっぽいと言ったり、発達心理学を心霊の話にしたり、哲学者を心霊学者と言ったり、語っている詭弁が循環論法の矛盾を来たしたり、愚かさを積み上げてゆく不感不応の醜態。
 
最近は、ありのままの自分でいることをよしとする考え方に共感するようになっているのだが、どうやらこの考え方は随分古くからあるらしい。
このように本能的に自然のままに反応すること、このようにあらゆる道徳的な詭弁や強弁から解放されていること、これが古代の異教徒的感情に一種の威厳を与えて人を感動させるのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.135)
 」
 
嘘吐きが、ありのままでいるのだそうです。楽山は、意地の悪い快楽刺激にしか反応できない人です。そして、人を傷つけても、疲れさせても、迷惑をかけても、悔いることがありません。罪悪感がないからです。楽山のありのままは、詐欺師のそれでしかないのです。
 
嘘吐きを止めない楽山です。飾ることを止めない楽山です。ありのままを善しとすることが真実に生きることなら、上にあげたような今までの経過は無かったはずです。
 
また、嘘を吐いています。"道徳的な詭弁" というのは、古い形式的な道徳を皮肉った言葉なのでしょう。楽山は、非道徳的で詭弁屋、つまり、偽善者です。詭弁は、嘘の一種であり、道徳に反することです。うっかり受け入れたりしないでください。どこまでも狡猾な楽山です。
 
楽山にとっては、自然のままであることは、道徳から解放され、悪意をもって、嘘を吐き、詭弁に専念することのようです。楽山の本能だから、良しとするのでしょう。
 
シャロームにおいてそうであったように、理路の崩壊が、さらに進んでいるようです。だんだん、言い張りから、ケダモノの遠吠えになってゆくでしょう。その分、楽山の偽善の証拠が資料としてそろって、批判はシンプルになってゆくでしょう。
 
ちなみに、これと似た考えは、佐々木丸美の小説『雪の断章』においてもっと踏み込んだ形で詩的に表現されている。
私は雪の言葉を聞いた。
裏切りがあるから信じ、崩れるから積むのでしょう、溶けるから降るように。
降ることも溶けることも自然の意思で行為は同じ。なぜ積むのが大切で崩れるのが哀しいの? 信じることよりも裏切ることの方がなぜいけないの? 同じ心から生まれたものに正しいとか正しくないとかってそれはどういう意味なの? 
(『雪の断章』佐々木丸美著、講談社、昭和56年、p.120)
 」
 
楽山の、小説家の口を悪用した悪意の意志表示です。既に、ケダモノなのでしょうか。思考も情緒も意志もない雪という自然現象のお伽噺の因果に喩えている小説の悪のセリフを、そのまま真に受けて、変わっているから気持ちがいいのでしょうか、真実であるかのように語ります。
 
裏切ることも、同じ人間の心から生まれているからいいんだ、正しいとか正しくないとかないんだ、とでも言いたいようです。恐らく、楽山は、人間としての基本的な節操・分別さえも持っていないのでしょう。
 
楽山は、信じることは裏切りだ、積むことは崩れることだ、降るのは溶けることだ、だから、自分が悪を働くのは善だ、正しいとか正しくないとか無いんだ、裏切りがなぜいけないんだ・・とでも言いたいのでしょうか。逆説の悪用です。雪の言葉ではなく、表現というものを全く知らない楽山の臭い臭い詭弁です。
 
思考と情緒と意志を常識として持っている人ならば、小説の文学的逆説の価値を認めても、こういう楽山のような、小説の文言を悪用して、善悪の判断を拒否して自己正当化を謀(はか)るような、愚かで乱暴で、かつ、人間としての無思慮を証明するような悪の言葉には、同意しないはずです。
 
恥ずかしながら自分は元々は堅苦しい主義や封建的道徳よりは、情緒で判断する傾向が強い方であったが、
 
楽山は、情緒ではなく、快楽原則で判断していると思います。なんでもかんでも、自分に都合がよければ拾ってくる作業を読書と呼んでいるのです。楽山は、思考だけでなく、情緒的感性も壊れているということが、随所に表れてきたからです。
 
情緒的判断の対比に、「堅苦しい主義や封建的道徳」としか書けないところに、まともな道徳による判断の欠如が、真実に目を向けないことが、さらに自慢として、表れています。堅苦しくない自分、反封建という前提で、婉曲的に、見苦しく自己正当化を図ろうとしています。
 
主義や道徳は、堅苦しかったり、封建的であったりするものばかりではないでしょう。人間ならば守るべき節操というものがあります。楽山には、それがないから、詭弁で自己正当化するしかなくなっているのです。楽山日記は、悪意の産物であり、善意の知性に見せかける罠であります。
 
宗教に凝るようになってからは何事もその宗教の規定する是非善悪によって判断し、実際の行動はもちろん、ものの見方や考え方、喜怒哀楽などの感情さえもコントロールしようとするようになっていったのだった。しかも自分のそれだけでなく、周囲の人に対してもそうしようとしていた。いってみれば典型的なマインドコントロールというやつである。
 
楽山を、間違っても、HSというカルトを克服した人などとは、思わないでください。楽山が、ずっとしてきていることこそ、カルト宣伝と質的に何も変わらないことなのです。
 
でも近頃は、その反動のせいか、それとも元々の性質に戻ったせいか、宗教の価値観に自分を合わせようと躍起になるよりも、生来の情緒を取り戻し、その情緒に素直でありたいと思うようになってきている。
 
反省みたいに言っていますが、何ごとも自分の規定する是非善悪によって判断し、人に対しても、ボンヤリ言語で暗示して、マインドコントロールしようとしている経過が、楽山日記です。
 
楽山の "生来の情緒" は恐ろしいものがあると感じています。曲がった知性の総てを自己正当化だけに費やして、反省も学習もせず、都合のよい文言を漁っては、有名人の名前で、自らの正当性を刷り込むなどは、人間味から遠く、非人間の鬼畜に近いものを感じます。
 
また、こういうところでは、きれいごとしか書けないのも、楽山の特徴です。超常の心霊好みで詭弁屋で人間離れしたことばかり書いている楽山のどこに、取り戻せる「生来の情緒」があると言うのでしょう。楽山は、嘘っぱちの霊感の優越意識を満足させたいだけだと思います。
 
楽山の変わらぬ性質として表れてきたのが、過去の間違いを決して認めないことです。反省しているなら、もはや、嘘を吐いたりも詭弁を弄することもないでしょうし、さらに、だらだらと書いてくることさえ、しないはずだからです。
 
楽山の反省の弁は、自身を低くする謙虚とは逆であって、むしろ対極にあるもので、真っ向から、何の罪悪感もなく、自分はこんなに謙虚だと見せかけるための、白々しい芝居のです。
 
具体的に間違いを認めて反省するのではなく、そして修正するのではなく、曖昧に「生来の情緒を取り戻し」などと言っているのは、またしても、有能な人間だと自慢したいだけなのです。
 
楽山は、ずっと、狂った情緒のままに、反省せず、整わない詭弁を弄しているだけです。宗教の価値を、楽山は、全く知りません。そういう、自我しかない心性ですから、生来の情緒など持っていないと思います。あるのは、イド的欲求だけのように思います。
 
こういう態度はかつての自分のようにすべてを宗教的規範に合致させないではいられない熱心な宗教信者からは毛嫌いされ、時には退転者、落伍者の烙印を押されてしまうものではあるけれども、自分はこの過程において、信仰を捨てることで真の信仰を得るとか、修行を放擲することで修業目的が達成されるということを経験できたのはよかった。
 
楽山は、自身を宗教的規範に合致させることなど、恐らく、無かったのではないかと思います。楽山の記事は、ずっと、自己中精神、自身の霊感自慢でした。楽山が信じて、訂正不能なのは、自己顕示欲による心霊が分かるっぽいという自慢からの我欲に過ぎません。
 
それに、キリスト信仰は、規範や道徳に合致させる教条主義を行為義認と呼んで否定して生まれてきたものです。そのことを、旧勢力に殺される路程で、明らかにしたのはキリストご自身であります。いつものように、楽山の、宗教に対する無知が表れています。
 
楽山の宗教理解・信仰理解は、超常ホラーアニメを見た子供の感想のように、極めて幼稚であることが表れてきました。楽山は、娯楽の視野と真実の追求を区別できない人です。
 
しかも、もはや、訂正不能のようです。学ぶことなく、言い張り続けるのは、とても醜いことですが、楽山は、罪悪感も羞恥心もないために、気づかないのです。
 
自分を向上させようとするときは、「~ねばならぬ」という理想にこだわり、努力することも必要な場合もあるのだろうけれども、これとは別にありのままの自分に正直になり、自然体でいることも大事なのだと思う。
 
むしろ、逆に、人間から、当為、即ち「ねばならぬ」や「するべき」の追求を除いてしまったら、楽山のような、極めて傍迷惑なケダモノになるということです。
 
楽山において、ありのままは、自然体ではなく、天然の我欲のみ、すなわち、うそのままです。
 
当為は、理想ではなく、人間が節操を保つために現実に必要なものです。そのために、人間は、真実を追求し、当為を考え、反省し、修正し、成長するのです。楽山は、それを否定しています。
 
楽山の、きれいごとのボンヤリ言語「ありのままの自分に正直になり、自然体でいること」は、良心も感性も思慮も捨てて、ケダモノになることを意味しています。
 
警戒してください。楽山は、ちょうど「狼と少年」という童話と逆の、狼は来ないから、自身はまともだから、今のままで安心と言っているようなものです。楽山自身が狼だからです。
 
小説というフィクションにおける反発~逆説という表現を、読み取らず、学ばないで、逆に、真に受けて悦ぶ楽山の著しい詭弁です。
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山が、自分では何も言えないものだから、またしても、他者のツイートを引用して、拡大解釈で曲解して、自己正当化に励んでいるようです。誰が何と言おうと好きなことをしておればよいと自分に言い聞かせているのでしょうか。人の口を、どこまでも、悪用する楽山です。
 
楽山にとって、人生とは、嫌なことを無視して、どんなに人が思おうとと、好きにやっていることが一人前に過ごしたことになると思っているのでしょう。楽山の今までの自己中を続けるぞ・・と、これからも、自分だけを愛し続けるのに、字面だけ都合のよいツイートを引用しています。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
·7時間
幸せになる1番簡単な方法は時間の使い方を見直す事だ。嫌いな事をする時間を減らして好きな事をする時間を増やすだけ。例えば、無理して人付き合いするのはやめて代わりに読書や創作等1人で楽しめる趣味に没頭する。ウジウジ悩む代わりに運動して心身共にリフレッシュする。これだけで超幸せになれる。
午後7:10 · 2021年3月25日·Twitter for iPhone
 
「嫌いな事をする時間を減らして好きな事をする時間を増やすだけ」・・楽山は、自分の好きなことだけしていようと思っているようです。楽山のような病的ナルシストは、こういう発言を、自分の好きなようにしてよい、それが自由だからと、自己中で妄想的に曲解して、そういう言を探しては悪用します。人間ならば持っているはずの深い思考・理解・共感がないからです。
 
何となく読んで、ふつうに同意してしまうと、じわじわと自己中が、楽山から、うつされることになります。楽山は、ふつうではありません。自己中で曲解して引用したものを、なぜ、何度も何度も、手を変え品を変え、読ませようとするのでしょう。
 
他者から不快を与えられたから、別の他者の口を使って、これ、もっともでしょう、当たり前に正しいじゃないですかぁ・・という感じで、自己満悦して、刷り込もうとしてくるのです。
 
それにしても、詭弁が成り立たないと、別の詭弁を出してくる、しかも、他者の言を勝手に解釈してのことだから、どこまでも、精神の貧困と狡猾さだけが伝わることになります。
 
「無理して人付き合いするのはやめて代わりに読書や創作等1人で楽しめる趣味に没頭する」・・この言が、成り立つのは、大人として、責任を弁えて行動する人の場合です。
 
楽山のような自己愛性パーソナリティ障害では、無反省・無責任の体質によって、趣味、読書、創作、いずれも著しく偏ってゆきます。
 
趣味に独りで没頭して、誰にも迷惑をかけないなら、自由です。しかし、もしそうなら、何も書かず、リツイートでも自己中が表れるのだから、引用して書くなどということはしないはずです。
 
どうしても、自己正当化しないと気が済まないから、都合の良い文言を、他者の言に求めて、出してくるのでしょう。
 
リフレッシュによる気分転換と、自閉による逃避は違います。自閉による逃避は、無視することと同じです。目をつぶり気をそらすことでは、悪意と病質が沈殿して蓄積されるだけです。
 
人の言うことは聞かず、自分の言いたいことだけを言う、これが、まさに、自閉の生き方です。ということは、今までも、楽山が、ずっと、やってきたことです。リフレッシュではなく、自己中が、無視を続けて、自閉するだけです。
 
過去の問題を反省しないまま、無視して、ふつうに過ごしているつもりでいると、結局、また、活動を再開するときに、同じ経過を辿ることになります。
 
人間は、学習することで成長します。学習するために、不完全な自分を意識し、自分に非があれば反省するわけです。その姿勢が、楽山には全く見られません。リフレッシュどころか、自己中再確認、それが、この楽山のリツイートなのです。
 
問題を無視して自閉することで、リフレッシュされるものは何もありません。フレッシュなものは何も生まれません。自己中→自閉→・・ここに、また、同じように、自己愛で物を言う楽山が表れるだけなのです。
 
それこそ、嘘を、嘘のままを保存し、嘘のままにして、そのうち、また、書き始めたら、嘘を吐き始めて、今までと同じように、迷惑をかけ、誰かを害するだけなのです。
 
 
独りで過ごす嘘吐きの日々

独りで過ごす嘘吐きの日々
 
 
(2020年03月22日、同日一部修正)
 
(2021年03月27日、再録+)
 
 
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