ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。サポートに問い合わせて、ようやくコメントボタンが付けられました。ソーシャルボタンは、コメント欄の上に表示されることも知りませんでした。

 
  アドラー教について(6)
 
   ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン)
https://www.adlersalon.com/entry/2019/05/23/%E3%80%90%E3%82%B7%E3%82%AB%E3%83%88%E3%81%97%E3%82%8D%E2%9D%97%EF%B8%8F%E3%80%91%E8%A8%80%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%84%E5%A5%B4%E3%81%AB%E3%81%AF%E8%A8%80%E3%82%8F%E3%81%9B%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%81%91
    2019-05-23  
   【シカトしろ❗️】言いたい奴には言わせておけ‼️
 
 

 

アドラー心理学サロンです。
あなたは他人に言われた言葉、他人にされたことを気にしてしまい、傷付いたことはありませんか?
世の中には価値観や考え方の違いから、とんでもないことを平気で言ってきたり、してきたりする人がいくらでも存在します。
困ったことに、あなたにとっては言葉の暴力であったり、嫌がらせになることでも、相手は罪悪感も無く、むしろ落ち込んでいたりすることもあるのです。

 
罪悪感のない人については、私も書いてきました。
 
とんでもないことをされたブログ主の経験と、その反発か復讐心が動機となっているのでしょうか、数々の暴走気味の発言は。
 

本記事では、限度はありますが、他人に何を言われても、何をされても気にしなくてなる方法について解説させて頂きます。

 
このことには、自己中に走りやすい、という指摘と批判があるということです。
 
何をされても気にしなくなる、という言葉だけだと、鈍感になり、無頓着になり、自己中になることにも結び付いてくるのです。
 

まず、他人自分にが言ってきたこと、してきたことを気にしなくてするには、アドラー心理学の代表的な考え方である「課題の分離」を理解する必要があります。

 
課題の分離を、会って言葉を交わしたその時に判断して正確にできる、という前提のようですが、そんなに容易くはないと思います。
 

アドラー心理学サロンでも様々な言葉で、この課題の分離を表現しているので、人によって捉え方のニュアンスに違いがある可能性があります。
本記事では、下記の定義でご説明致します。
「他人が自分をどう思うのかは他人の課題であり、自分の課題ではありません。他人が自分をどう思うのかを気にすることは、他人のことを変えようとする介入となります」

 
ニュアンスでは済まないことがあるから、批判が生まれます。
 
ブログ主は、定義すれば、誰にとっても、意味が定まると思っているようですが、特に、人文系や宗教や倫理の話では、定義こそが、勝手に、また、不可避的に多義に、解釈されてゆくものです。
 
他人が自分をどう思うのかを気にする自分をどうするかは、紛れもなく、自分の課題です。また、自分の思考にとどまる限り、介入とは言えません。
 
考えても仕方がない、言っても無駄だ、ということなら無視するしかありません。そこまで、確かめたほうがいいような気がします。
 
もし、少しは言いたいこともあるということなら、言った段階で、相手を変えてやろうという介入というより、相手に自分の意見を述べるだけだから関わりと言うべきでしょう。ブログ主は、”介入”という印象の悪い言葉を使って強く否定したいようです。
 

自分の課題と他人の課題を区別して、自分の課題の範囲と他人の課題の範囲の分離が必要となります。

 
上の他者のこと総てを安易に自分の外に置いてしまうことで、ぞんざいで荒っぽい不都合の無視という分離?が生まれているようです。
 

課題をどの範囲で分離していくのかが難しいところですが、あなたの嫌がることを言ってきたり、やってくる人に対しては、下記のような分離が実践しやすいと思われます。

 
苦言が、のちに、金言となることもあるでしょう。嫌がること、というだけで判断してよいのでしょうか。その前に、考える、考えるために保留しておく、ということが必要な場合もあるでしょう。
 
他者の言うことには、あまり、快感物質は含まれていないことが多いです。他者が言うときの確信と高慢の度合いにもよります。私は、他者を絶対に無視するなと言っているわけではありません。
 
というのは、高慢な者に高慢な態度で、青二才の頃の私が、青二才の他者に、あるとき唐突に、進路について「○○には向かないと思うね、うん」という言い方をされたことがあります。オレの何を知ってるっていうの?と、ふるえ上がって、物が言えなくなりました。
 
また、私の進路を閉ざすために、「向かない。ひらめきとしてね」と言った人がいます。ひらめきで、人間を扱われてはたまりません。
 
そうして、無視するべきことを無視できずにいると、トラウマになるという経験があります。今でも、思い出すと、心が、恐怖に震えます。残念ながら無視することはできません。記憶から消えないからです。
 
しかし、この記憶の対処・処理・心の整理については、今も考えることが多いです。ということは、このことで、考えを広げることも出来るということです。
 
大事なのは、無視してなかったことにすることではなく、いかに、対象化して、その影響を防ぎ、一つの資料のように、考えられるようにするか、ということなのです。
 

「他人が自分に何をしてこようと、何を言ってこようと、それをどう思うのかは自分の課題。止めさせようとする努力は自分の課題としてできるが、止めるかどうかは他人の課題」

 
つまり、ブログ主は「止めさせようとする努力は自分の課題」と自分で言っているのです。何か言い返すことは、アドラー教の「課題の分離」には反しないということです。
 
自分の精神の安定を脅かすほどに、心がつぶされたように、何も言えなくなったと思ったら、唖然としたら、ともかく、逃げましょう。
 
課題の分離の行き過ぎは、多く、自分の課題とするかどうかについて、常習的に自分の快楽原則の都合で選んでいることによって起こるようです。そうやって、取捨選択された課題は、自分の快楽課題に過ぎません。快楽だけで生きようとすることは、常識的に、否定されるべきでしょう。
 

こうした分離をすれば、嫌がらせを止めさせる努力をすることはできるが、最終的に自分への嫌がらせを止めるかどうかは他人が決めることなんだと、自分のできること、できないことを区別することができます。

 
なんとかしなきゃ、なんとか言わなきゃ、どうしたら言われなくなるだろう、という焦りを防ぐことは大切です。焦りは、心を乱すだけになるからです。
 

できる範囲で、嫌がらせを止めさせる努力をしても、どうにもならないのなら、無理して分かり合おうとせずに、嫌がらせをしてくる人の無視を決め込むか、その人のいる場所から離れるのが賢明だと思います。

 
嫌がらせかどうかを、最初の一言や、その相手に対する先入観で、早計に決めてはいけないと思います。相手が言葉と言い方に何を込めているかによります。繰り返されるかどうか、常習であるかも、確かめましょう。
 
しかし、その時の、自分の判断ですから、相手の言葉に自分が感じた嫌悪感が耐えがたいほど大きければ、今後、しばしば、その言葉のたぐいに接することからは、逃げたほうがよい、という一応の判断はできるでしょう。
 
>分かり合えない人間は、残念ながら存在します。<
 
是としますが、出会って言葉を一言交わして、不快だから、などという早計な決めつけではなく、ある程度、常態として同じ不快が続くかどうか・・くらいは見るべきでしょう。
 

絶対に分かり合えないとまでは言いませんが、あなたから分かり合おうとしても、相手に分かり合おうとする意向が無いのなら自分の膨大な時間と労力を費やして振り回されただけの結果に終わってしまう可能性もあります。
振り回されず、どうにもならないなら関わりを断つようにしましょう。

 
相手に分かり合おうとする気持ちが無い、自己愛の強い人などがそうですが、そういう場合は、そう分かったというより、はっきり感じた時点で、問い詰め追い詰める自信がなければ、関わらないことが唯一の選択でしょう。
 
自己愛性人格障害ナルシシストやサイコパスとか精神病質と言われる人格は、変わりようがなく、どうしようもないのです。
 
昔、聞いた話ですが、ある良心的な精神病院の関係者が言ったことですが、精神病質者が入院してきたときには、先ず、多勢で取り囲んで、ぼこぼこに殴るのだそうです。そういう人は口で説得しても意味がなく、逆らうことは無駄であるということを体に教える、ということだそうです。
 
これは、ただの人間関係の悪化ではなく、極端な人格異常の場合です。しかも、昔の話に過ぎないので、そういうどうしようもない異常な人はいる、ということを言いたいだけです。
 

あまり熱心に分かり合おうとあなたから一方的に努力をしてしまうと、むしろその努力は仇となってしまい、あなたが他人の課題に介入しようとしていることになって相手を逆上させてしまう可能性があります。

 
そこまでする人は、よほど、奉仕の精神に溢れた人で、あるいは、自分は人間関係がちゃんとしていると強迫的に思い込んでいる人でしょう。
 
なんとか関係を修復しようと、焦って、機嫌を取ったり、故意に丁寧で優しい言葉を選んで使ったりする人もいるでしょうから、そこで、的を外れてゆくのでしょう。
 
相手を変えようとする批判は、しばしば、こちらが自己中になっていることが多いです。そして、その結果は、特に精神面の、健康を害することが多いと思います。しかも相手は変わらない、つまり、無益なことが多いのです。
 
私は、広く伝えて、注意喚起を促す、または、警鐘を鳴らす、ということを目的としています。
 
一部の人をもって、介入という言葉を使って、関わるな・・は、ないと思います。
 

また、あなたが自分の課題に加えて他人の課題を背負って余計に悩み苦しむだけになってしまう危険性があります。

 
むしろ、他人のことを考えるか否かを考えるているあいだ、それは自分の課題になっていますから、他人のことを自分の課題にして気にし過ぎる、捨てられない、ということでしょう。背負えない課題を背負ってしまうと苦しみが付いて回ります。
 

上記の課題の分離方法について、良く頂く反論が下記となります。
「そんなこと言ったら、お前の課題だからって言いたい放題、やりたい放題されても仕方ないってことか!?」
そんな訳ありませんよ。
そんな考え方をして他人を傷付けるような人と前述の対処と同じように関わらない方がいいと割り切った方がいいのだと思います。

 
そんな訳ないと言っても、歯切れよく、そんなふうに受け取ってしまうような書き方をしているのです。受け取る側の課題でしょうか、受け取らせる側の責任という課題でしょうか。
 
一方で、相手にしないことは、いずれ、相手も分かるでしょうから、無視は、無視した相手を傷つけます。課題の分離の出来ない相手が、どう出るか、嫌がらせや暴力に発展しないか、これは相手の課題だからと、無視できるでしょうか。
 
人と人は反応し合って生きています。課題の分離をしてもしなくても、相手によっては、結局、逃げるしかないでしょうね。
 
しかし、課題の分離を、いつも使って、不都合を無視している者もいるので、そういう者を批判するためには、相手に読ませることではなく、広く一般に情報を伝えるという方向を、自分の課題とするほうがよいと思います。です。
 

「あなたが嫌い」、「あなたを傷付けたい」という目的を持つ人は理屈が通じる相手ではありませんので、そもそも関わらないようにする努力が必要となります。

 
理屈が通じなくても、なんで、こんなことをするんだ、とか、こちらの被害を見せることで、気づく人がいることも忘れないようにしてください。冷たい心の持ち主にならないために。
 
自己愛の強い人というのは、理屈も通じず、また共感も成り立たない人です。見分けることは、とても大事です。そういう人は、高い位置を占めると、とても偽善的な社会悪に結び付くと思います。
 

自分の課題に加えて、他人の課題まで背負って生きることはできないのです。
自分の人生を生きながら、他人の人生まで生きてはいけない。

 
ですから、個人が、きっぱり、これは、どちらの課題かを、早期に、会って言葉を交わしたときに、その時その場で、見分けることが、いつもできるとは限らないのです。
 
そこに至るまでの、思慮を養う必要があります。でないと、好きなように使って、アドラーの名を付けて、心理学の名を付けて、自己のために利用するでしょう。
 
いけ好かない人と思われ、自分に、アドラー教で言われている「関わらない」対象の人格が当てはまったりすることのないように祈っています。
 
いちばん気分のよさそうなところに、アドラー教の言葉があり、曲解する者が飛びつけば、それは、とても気持ちの良い、また、都合の良い言葉として、恣意的に使われる可能性があります。
 
 
(2019年10月31日)
 
 
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  さりげない悪意
 
   ドラマ『まだ結婚できない男』
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   楽山日記(a):」楽山のブログ
 
 
ドラマ「まだ結婚できない男」は、前の「結婚できない男」から、再放送も含めて、私は、ファンですから、よく見ていました。
 
「まだ結婚できない男」について、楽山は、感想を書いていますが、その中で、ネットの誹謗中傷が描かれていることをネタにして、大きな社会問題だと、自分の罪を蚊帳の外において、言っています。
 
批判され、正当な反論や弁明をもって返すことも出来ずに、代わりに、嫌がらせ、当てつけ、雑言を飛ばし、かつ、同様のさらに酷い異常者であるシャロームに無条件に味方して、シャロームの呆れるような妄想の肩をもつ楽山の意図を考えてみます。
 
(一部抜粋のみ)

ドラマの全体の流れは、一回一回で一応の区切りをつけながらも、ネット上における誹謗中傷という事件が幹となって全体を統一しているようである。自分としては、本シリーズでこういう殺伐とした話が出てきたのは意外ではあったけど、ネットでの誹謗中傷は、いまや大きな社会問題でもあろうし、こういう現代性を取り入れつつ、桑野さんを誹謗中傷している匿名者は誰かという謎をドラマ内に持ち込むというアイディアには驚かされた。

 
コメディの中の、ネットで中傷コメントが書かれた話を、何を、そこだけ真に受けて、現代の大きな社会問題だからと、分かったようなことを言うのでしょう。このドラマは、コメディだから、見れば直ぐに、そういう社会問題を正面から扱うようなドラマでも情報でもない、ということの察しがつかないのでしょうか。
 
「おもしろかった」「桑野(阿部寛)さんは相変わらずおもしろい」「すごい」「もろにハマってしまっている」「ラブコメ要素」といったような、誰でも書きそうなベタな感想だが、そういう、まったりしたことを書きながら、楽山は、その記事の中に潜ませるように放り込んでくるんですね。
 
看過できないところとして、「ネット上における誹謗中傷という事件が幹となって全体を統一している」と言うには全く当たらないこと。どういう目で、コメディを見ているのだろう。
 
また、「犯人は誰かという推理とサスペンス」・・面白くするための設定ではあるが、前作にも、ストーカーが出てきたように、桑野が一見やばい人ように、姿勢や目つきなど、見えることと関係あるのかな・・とも思いますが、そのことも含めて、コメディを引き立てる出来事としての一要素であり、推理サスペンスではないこと。
 
部分に、主題となるようなサスペンスという言葉をくっ付けて、それを、気になってるからと重たく語って、全体を総合できずに、バランスとか、主題と副題とかを、総合・統一することが出来ないでいるようです。これは、何故なのでしょう。私も、よく分かりません。
 
楽山は、自分が、私の批判を、まともに受け取って考えることなく、また、何も返せないものだから、誹謗中傷を受けた被害者のつもりになって、過剰にシリアスになって集中し、そういうジャンルの違うドラマの要素を、コメディなのに、持ち出して的外れに大真面目に当てつけるのだろう。
 
 
実際には、誹謗中傷の言葉を、訂正不能に、理路の成り立たない同じ自己中仲間のシャロームというカルトの味方をしながら、婉曲的な言い回しで、ずっと書いてきたのは、楽山である。こういうところにも、自己中心の身勝手な見なしが表れている。
 
楽山は、執念深い尊大と怨念を、ボンヤリ言語の柔和?と中庸?の表面で隠しながら、企みの言葉の操作で、そっと吹き込んでくるカルト宣伝者に他なりません。決して関わってはいけない人です。
 
私は、毎日、批判対象のブログを覗いて、お気に入りの100くらいのブログを見て回りますが、当然ながら、お気に入りブログの中には、批判するべき対象はありません。しかし、シャロームは、約8年、楽山は約1年批判してきて、これからも批判を続けるつもりでいます。普通のブログではない、全く違う、と思っています。
 
この二人も、最初は、お気に入りに入れていたブログです。しかし、底が浅いだけでなく、かつ、悪意あるサイトというのは、しばらく付き合うと、疲れるだけだと分かるほどに、自己中な発言を言うだけで、他者の意見を聞く耳を持たない、ということを知るようになって、今日に至っています。
 
話にならないこの2つのサイトが、信仰者を含め、一般に対しても、抵抗しにくい独特の偽善的な害があることを、ずっと書いてきました。それが、批判というものです。二人とも、何か言って変わるものではないほどに訂正不能です。だから今は、機会あるごとに、関わってはいけないということを読む人に伝えるために、今までのことを含めて、批判を続けています。
 
 
楽山は、アドラー教の宣伝者です。彼の記事の中に、気に入らないことは無視しましょう、というアドラー教の言葉が書いてあります。・・と思ったら、削除したらしく、記事が見当たりません。都合の悪いことは、隠蔽して、知らぬ顔をする、という、悪い政治家がするようなことを平気でやってくる楽山です。
 
こういうところは、楽山やシャロームなどに共通した偽善者の卑怯なところです。アドラー教信者でなくなったのなら、宗教は大きなテーマなのですから、今までの記事に書いたアドラー教を勧める記事の教えをその記事とともに否定する訂正記事を書くべきだ、ということを言論者の常識として弁えていないのです。
 
好きなように、自己中心に動いているところは、まさに、アドラー教の言葉、上に加えて、課題の分離の曲解によって、自分の課題だから勝手にして、それをどう思うかは相手の課題だから知らないよ、という、アドラー教もどきのスタンスそのままです。
 
アドラー教の批判を書いたように見せかけていましたが、何も変わってはいないのです。というより、自分が元々体質的に持っていたナルシシズムからの自己中にアドラー教が適っていたから気に入って宣伝していたのかもしれません。
 
ベースにアドラー教または過剰な自己愛があるとしか思えない自己中心が、無反省と、他者の意見に対する無理解・無思考と、全体の文脈を把握できないために自分が揶揄したり否定したりできそうなところだけ取り上げて否定してくる姿勢に、今までずっと表れてきました。
 
そして、ねちねちと執拗に絡みつくような言いがかりをつけてきて、あたかも被害者であるかのように見せかけ、誤魔化すために、軟いテーマを選んで、軟い言葉で、ああでもないこうでもない曖昧ボンヤリ言語で刷り込んでくることが続いていました。
 
また、聖書を引用して、クリスチャン芝居をしたこともあります。恐らく体よくキリスト教が分かることを自己顕示したかったのでしょう。楽山には、ひとかけらの信仰もないことが、記事を削除したとしても、彼の、過剰な自尊と、別の記事の、キリスト信仰に対する、いちゃもんに、表れていて、時々に、既に、私が批判記事を書いているのです。
 
自分を高みにおいて、神がいるならば何ゆえ悪を造るのか、などと言って、悪を神のせいにする態度は、自分が悪と偽善であることを省みもしないで、自ら、滅びゆく資質をあらわにしている態度に他なりません。
 
神は、神が与えた良心によって、人が悔い改めることを期待しておられるということです。そのシンプルなことが分からず、分からない苛立ちのまま、訂正不能の自己愛によって思い上がり、アドラー教に似た学習不能と成長不能から、今もなお、神に敵対する詭弁を弄しているのが、楽山です。
 
さらに、何度も批判されて、まともに返せないのに、まだ、文句をつける、または、婉曲的に、被害者か、客観的に見ている批評家のような書き方をやめないこと、等々に、楽山の本質的な不遜と異常性が表れています。
 
 
悪の最上級が、悪を隠し善に見せかける偽善というものです。楽山とシャロームは、まさに、その道を歩んできて、相変わらず、自責の念、反省する心、訂正する思慮、いずれも皆無であります。
 
偽善の大きな特徴は、すぐには罵詈雑言を言ってこないことです。だから、ネットで罵詈雑言ばかり飛ばしてくる者たちは、悪と分かりやすく、そういう場合、偽悪者との区別のほうが大事になるでしょう。
 
最悪の偽善者は、専ら、丁寧語の世辞と社交の薄っぺらな言葉をもって、刷り込んできます。すなわち、優しそうな筆致で書いて、よく読むと婉曲的に悪口を潜ませているという形の文章によって、後から振り返るときに、こうも言ってたっけ・・という印象を残すやり方です。
 
それが長く続いていることが、人のことなど自分を褒める者たちくらいにしか見ていない彼らの企んだ誘導の技と意図なのでしょう。楽山とシャロームの悪意の根深さを表しています。
 
 
罪悪感や羞恥心を感じることがなく、自己愛が過剰で、批判されると、罵ることしかできない者たちは、私の経験の範囲で、HNをあげるなら、成りすましが疑われるものも含めると、少なくとも今まで10人くらいになります。もっといるのは確実と思いますが、10人さえも、総てを批判対象にすることは一人では到底できないので、今は、批判対象を、シャロームと楽山、そして、アドラー教に限っています。
 
その3人を、最初に無益な50~100コメ超を私に強要してきた易坊という荒らしのHNに因んで、易坊類と呼ぶことにしています。皆、似たような性質を持っていて、それらが、成りすましなのか、親類縁者なのか、組織なのか、仲間なのか、友達なのか、ネットで明らかにすることはできないでしょう。そこにつけ込んで、無責任のまま、蔓延っている現状です。
 
 
なお、偽善に近い考えや行為は、根腐れの偽善者でなくても、気がつかないまま、普通にやっていることもありますから、要注意です。折々に、自ら省みて反省してみることの大切さを思います。
 
 
キリスト信仰の立場から言うと、きわめてシンプルなことが言えると思います。
 
悪人は罪人であり、救われることがあります。悔い改めることがありうるからです。
 
偽善者は偽善者であるあいだ救われません。悔い改めることがないからです。悪を隠す偽善の行為が既に自分を善に見せかける行為であり、反省とは逆の邪悪な自己正当化という偽善だからです。
 
このように、救いを拒むのは、常に、人からであります。
 
どういう人に対しても、神が救いの約束を反故にすることはありません。神は、いつも、罪人である人間が、正直に罪を認めて告白してくるのを待っておられると思います。
 
神に対して正直に罪を告白することが、そのまま、俗でも欲でもなく、神のほうを向くという悔い改めであって、罪の償いの善の行為は、あったとしても、信仰の結果の副産物に過ぎません。キリスト信仰が、行為義認ではなく、信仰義認であるゆえんです。
 
ここで、人間に与えられる義は、あくまで、信仰によって罪が赦されるという信仰の義であって、絶対の神の義とは異なります。そこを勘違いしているカルトもいます。
 
このことは、聖書を読めば、キリストの敵は、偽善者であったことから、明らかです。
 
罪人は、キリストにとって、赦す機会を与えられた人であり、罪の自覚を持ち得ます。
 
正直に罪を認めて、その小ささの低みから謙る罪人は、
それこそ、救いの対象として、キリストに愛される人です。
 
偽善者の言は、受けが良いこともありますが、偽善を隠して企みの言葉の技(わざ)だけで書いた文章は、たとえ、一時的に得意になることはあっても、私の肉体と精神を滅ぼすことがあっても、ついには、真実を求めようとする真剣な言葉には敵いません。
 
そして、その導きと最終的な裁きは、言うまでもなく、神の業(わざ)であります。
そこに向かって、キリスト者は、一人一人が、出来ることを努めてするだけです。
ゆえに、キリストの荷は軽いと言われます。
 
 
今、「まだ結婚できない男」を見ていますが、桑野のサイトに中傷コメントを入れてくる者のことを、桑野のお母さんが、さみしいのね・・と言う場面がありました。楽山に利用されそうです。
 
桑野は、なんだか、それは、あなたの課題です・・とか、言いそうに見えますが、言わない理由があり自己中でないとすれば、桑野には、気づかないままだが、人一倍、情があるからです。
 
情の絡む場面では、情に負けることが多く、誰かのように、平気で人を無視する、なんて出来ないで、頼まれると、折れて、結局、人のために実行力を発揮する場面が、多々ありました。その辺は、批判対象の易坊類とは全然違って、魅力的なところです。
 
 
どうしようもない男は、楽山のほうでありますから、私は、冷静に、批判を続けます。正しさについては、それを求めていますが、結論は、神に任せるしかありません。長く続けるためには、淡々と続けることが必要です。
 
 
(2019年10月30日、同日一部修正)
 
謙る(へりくだる、遜る)
 
 
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  アドラー教について(5)
 
   ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン)
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    2019-02-17  
   今の苦労は、形を変えて必ず報われる
 
 
無視すれば、無視した報いが、必然となって訪れてくるでしょう。
 

アドラー心理学サロンです。
今、とても辛い状況で苦しまれている方は沢山いると思います。
そうした苦しい状況では、生きることも世の中の何もかもが絶望的に思え、未来の恐怖にすら晒されてしまいます。
そんな辛く苦しい思いをされている方に、どうしても伝えたいことがあります。
それは、、、
「今のあなたが経験している辛く苦しいことの数々は、一見何の役にも立たないひたすらに苦しいものにしか思えないかもしれません。
しかし、それはかならずいつか思いもよらない形で役立ちます。
どんな苦労も必ず、報われる時が来るのです」
です。

 
努力は報われるということは、ある程度、真実です。これは励ましているのでしょうか。
 
しかし、それは、いかなる努力をするかによるわけです。
 
自分を、一途に、被害者として、美化して、不都合な要素を無視していると、無視することによって起こってくる災いもまた、報いとして訪れることになります。いつのまにか、加害者にされているなどということも、無視の結果としてありうると思います。
 

そんな薄っぺらい励ますだけの言葉、信じられないよと思われる方もいらっしゃると思いますが、これは事実です。
苦労しているということは、努力しているとも言えます。
私は、無駄な努力は無いと考えておりますが、報われない努力は存在すると思っています。
何らかの努力をすれば、との行動を通してスキルが磨かれたりと得られるものが必ずあるからです。

 
アドラー教は、努力を勧めるだけでしょうか。気に入らないことは無視しましょう、嫌われる勇気、課題を分離して、人のことは人の課題と無視することが含まれています。この特殊性は、自己中として他者に向かいます。向けられた他者が、無反応ということはないでしょう。
 
自己中に人を無視してゆくと、無視するのだから気づかないまま、無視の対象は増えてゆきます。人間関係の問題ですから、無視の対象にされた者は、無視された体験を持って、増えてゆくのです。
 
無視は無視であり、インスタントに無関係になって解放されたように感じるかもしれませんが、
その都度、原因・結果・対処・心構えを学習して乗り越えることとは全然違うのです。
 
自分のスキルが磨かれることばかり感心していると、それとは別の関心が自分に向けられるという必然になるのです。最終的には、具体的なことがらとして、無視の報いは帰ってくるでしょう。増大した批判、マイナスの評価、居場所の喪失、・・それらも無視するのでしょうか、暴力沙汰にならないことを祈るしかありません。
 

努力をしても、自分が目指す目標に向けて適切な方向に努力できなければ、どんなに血の滲むような努力をしても結実して望む結果は得られないと思うからです。

 
ここで、適切な努力ということを提起していますが、適切という言葉で表すしかないほどに、最初から考えるべき、ここでは一番大事な問題は、学習せずに不都合を無視して意識と思考から排除した後には、ずっと未解決のまま残されるということです。
 

ただ、苦労という努力は普通の努力とは毛色が異なります。苦労自体は、報われる努力になると思っています。
なぜなら、苦労していれば、それによって得られることがあるからです。
それは無駄にならない努力と同じ理屈ではありますが、苦労することでもたらされる強い心、それから忍耐力は、何物にも代えられません。
強い心は、どんなに素晴らしい仕事のスキル、実績と比較しても、重要度が高いものです。
苦労を通して身に付けたこの強い心さえあれば、どんな状況からでも、いつからでも、自分の目標を実現させる非常に強力な原動力となるのです。

 
苦労は報われる努力だということと、苦労すれば何かが得られるという当たり前のことを言い、それを表すのに、強い心、という、きわめて単純な言葉を使っています。どう強くなるでしょう。
 
不都合を無視する繰り返しの生き方ですから、不都合を無視しているとき、不都合な他者を無視していることから、無視する力が強くなるでしょう。それは、
 
人間を、何を言っても、薄笑いを浮かべて去って行く無視、無頓着、無関心を、訂正不能に続ける強さであるかもしれません。これらがワンパターンに繰り返され、新しい変化や環境への対応力が失われ、知性と感性の鈍化が懸念される理由です。
 

たとえば、普通の人が思わず怯んで絶望してしまうような状況下においても、強い心を持つあなただけは平常心で果敢に目的に向かって突き進むことができるのです。

 
不都合だと判断すれば、誰よりも先に、一目散に、逃げる人になるでしょう。
 

心を磨き、強い心を持とうとする勉強会は世の中には満ち溢れており、日夜様々な人たちがこうした心を磨く訓練を受けております。

 
「心を磨き、強い心を持とうとする」という言葉は、ここでは、強さ、という言葉の説明に、不都合を無視するという、今まで言ってきた言葉を隠して、一般的に受け入れられやすい言い方にしようとする意図に満ち溢れています。
 

みんな、強い心が何よりも大切であると思っており、自分の夢や目標を達成する為に、この強い心を何としても手に入れようとしているのです。
そんなすごいものをあなたは持っているのですが。

 
そして、このような、そんなすごいもの、という盛り上げ方で、夢、目標、達成、強い心、これら、とても良いことだらけのお祭り騒ぎのような話にしています。
 

この強い心だけではなく、苦労してきたあなたには、その苦労の中、制限された環境で身に付けたスキルだってあります。

 
スキルは、どんなスキルでしょうか。自分の課題と判断したこと以外は無視するスキルなのです。苦労の中で制限された環境で、不都合な他者を無視し、不都合な結果を無視し、自己中に良いと判断したことだけをして、厚くも深くもならない人間関係の段階で他者と他者の課題と判断したことを無視するスキルなのです。逃避によって一時的に楽になった気分以上ではないと思います。
 
無視すれば、そのあとは、無視したことや人は、情報源とはならず、無視した人にとっては、無いのと同じになるからです。
 
都合の良いことを学習することは自然とできますが、それだけでは、忍耐と克服の力を養うことはできません。壁にぶつかることなく、本当の成長はないはずです。
 
ときに耐え忍んでも好きなことを伸ばす生き方、ということと、不都合を無視して好都合だけを受け取る生き方を、混同しているように思えます。
 
保留と、無視は、全然、違います。保留は精神衛生の観点です。無視は根こそぎ存在しないと見なすことです。対象を意識に起こる要素の位置に経験として置いておくか、するか、意識の外に起こる現実外の知らないものと見なすかの違いがあります。
 
できることをして、できる限界を知ることと、できるかどうか確定しないうちに、無関係にしてしまうことは、全然、違います。
 

つまり、苦労の中で培われたものは、楽観的になって前向きな姿勢さえ崩さなければ、姿や形を変えて必ずやあなたの人生に生きるようになるのです。

 
気に入らないことを無視する、と言って、苦をなくし、楽になることを主張していたのは誰でしょう。
 
嫌われる勇気で、嫌われる苦をなくし、課題の分離で、自分の課題ではないという保身の正当化を教えてきたのは誰でしょう。
 
自分がどう思うのかが全て、と言って、他者の思いの入る余地をなくそうとしたのは誰でしょう。自分の思いの中に、他者の課題ではなくても、気遣うべき他者がいるのです。
 
ここで、無視することに起因する不都合な報いがどんなに新たな苦労をもたらしても、楽観、前向き、という姿勢と行動を続けるように言っているのは、それは私のせいじゃない、という保険のためでしょうか。
 
なんでもかんでも、良い方向に解釈して、自他の欠点を冷静に見ず、総てが解決するようなことを言って、楽観、前向き、スキル、そして、幸福、という宣伝は、いつの世でも、カルトが宣伝に使ってきたところであります。
 
人間関係がうまくいかない不都合を、あるとき読んだアドラー心理学から、好都合なところを取り出して、自信過剰と自尊過大となり、部分を全体に広げて無敵の真理を説いたつもりになって、先のことを、他者のことを、不都合だからと、自分の課題ではないと、一切無視して、なにやら勝負を挑んでいる現状でしょうか。
 
 
(2019年10月29日、同日一部修正)
 
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  アドラー教について(4)
 
   ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン)
   https://www.adlersalon.com/entry/2019/10/19/053801
    2019-10-19  
   【胸糞注意】上司に言われた一言で心が壊れてしまった…
 
 
具体的な相談例について、答えるのは慎重でなければいけません。また、私としても、そういう記事についてコメントするには慎重さが要求されます。できる範囲で書いてみます。
 
休養期間を設定しないのでしょうか。何でも原理原則で片付くものではないのですが。
 

Q1. ご相談
8月いっぱいで退職予定の者です。
5年半頑張ったつもりですが、退職届を出した際に上司と言い合いになりそれがトラウマとなり怖くて会社に行けなくなりました。それが8月1日です。
心療内科で適応障害、鬱の手前だと言われ診断書出て今休職扱いだと思います。会社からは連絡ないので休職なのか有給消化なのかさえ知りません。
電話も診断書持って行く際も安定剤を飲まないといけないほどドキドキし、パニックになります。
上司からは感情的になりました、反省してますとLINEで謝られました。が、許せません
その恫喝が無かったらここまで心は壊れてません。
6月から退職を願い出て、引き留められてました。途中、パートにとの話しを一旦受け止めましたが、その後給料面で折り合いつかず退職を再度お願いし、また引き留められ、の繰り返しで8月1日に退職届を出して恫喝されました。
上司からはLINEで自分をグーで殴って気が済むなら等言われましたが、そんな問題ではありません。
人は言葉一言で生き死にの気持ちになるのだとつくづく実感した次第です。
睡眠薬を飲まないと眠れない、起きた途端にドキドキする毎日を送り、毎日辛いです。
またその上司に今まで可愛がってきた若い同僚が私のプライベートな知られたくない話しをした事まで発覚し、人間不信です。
全てのスタッフが敵かスパイに感じます。
ストレス過多で2年で18キロほど痩せました。検査は全身しましたが異常なくストレスと言われました。
心療内科からは会社から逃げてくださいと。18キロ痩せるなんて異常事態ですよ、と言われました。
これまで、休みも返上し、寝る時間以外全て仕事の事を考えてきました。リーダーとしての責任を感じていました。
本来私は人に対して優しい気持ちで接してきました。
今は違います。妬み嫉み憎しみ。はっきり言ってこんな自分が嫌で嫌で。時間が薬かと思いますが会社の近くは通れない、怖いから。電話恐怖症にもなりました。
これでも生きなくてはいけない、苦しみを与えられ知らん顔で自分達の立場は守り守られ、こんな理不尽な事がありますか?啓発の本も読みましたよ。
私にこれ以上まだ笑顔で頑張れと言うんですか?
アドラー心理学がどうかまだ良く知らないので失礼かと思いましたが、メールを送らせて頂きました。
アドレスが私の名前ですので匿名にてお願いします。
< 
 
心がすり減って、衰弱して病んでいる可能性も否定できません。今は、心にゆとりがないようですし、感情が不安定で、不安緊張と抑うつ傾向もあるようなので、何よりも、しばらくは仕事のことは考えず、休養と薬物治療が必要なのでしょう。義務や仕事からは、離れているべき時間なのだろうと思います。
 

A1. 回答
前職で辛い思いをされたようですね…
無茶なことを要求してばかりの会社から、逃げ出すことは正解だったと思います。
身体の傷は適切に処置をすれば、相応に回復しますが心のを病んでしまうといつ回復するのかも分かりません。

 
心を病んでしまっても、治療によって、出直すくらいには回復はするでしょう。
「いつ回復するのかも分かりません」と言うべきではないと思います。
回復するかどうかについては、治療とカウンセリングによって可であり、
少なくとも改善するということを保証するべきなのです。
 

仕事は人生そのものではなくて、人生の一部に過ぎませんので仕事の為に自分の人生を犠牲にしてしまうのは馬鹿げています。

 
相談者は、退職の意志を明らかにしているわけだから、仕事のために自分の人生を犠牲にしてしまうというのとは違うような気がします。
 

心の免疫力だって身体の免疫力と同じように人それぞれ違いますので、あなたが限界だったのなら仕方ありません。

 
仕方ありません、ではなく、努力した結果だから、悔やむ必要はなく、今は、ゆっくり休養してよいことを告げるべきではないかと思います。
 

上司と分かり合おうと努力はされたようですが、これ以上関わると自分の身が持たないのであれば無理をする必要はありません。

 
これ以上関わることが無理であることは既に表れていると思うので、身が持たないのであれば、ではなく、続ければ身が持たなかったでしょうから、今は、先ず、気持ちが落ち着くまでは、心身を休めることに時間を使ってよい、という方向でしょう。
 

分かり合う努力は大切ですし、簡単に他人を切り捨ててしまうのは問題ですが、世の中には一定数は必ず分かり合えない人間が存在します。

 
上のメールを読む限り、心の負荷から解放されるべき段階であり、分かり合う努力をする必要はないと思います。無理してはいけないと言うべきかもしれません。少なくとも、今は、和解は無理でしょう。
 
誰が悪いかという個別のことも、分かり合えない人間が存在するという一般的なことも、今、考えても堂々巡りになって、かえって苦痛が増えるだけになりそうな段階だと思います。
 

無理をして自分を犠牲にしてまでそうした人達の為に自分の時間や労力を割いてあげる必要はありません。

 
相談者は、今、上司に対して、時間や労力を割く気はないように思えますが。
 

アドラー心理学的に考えると、「課題の分離」をすることによって気を楽にして頂けるかもしれません。
自分が他人をどう思うのかは自分の課題であり、他人が決める課題ではありません。

 
カウンセリングに、○○学的原理や宗教が絡むと、自説を持ち出してしまいやすいのですが、このように原則的なことを言って、相談者が、どういう受け取り方をするだろうとか、自己中推進と受け取らないだろうか、また、ここで、理屈が通用するだろうか、ということを考えるべきでしょう。今、何かの言説を説いて、その言説で、解決を図れる段階でしょうか、そこが疑問です。
 

同じように他人が自分をどう思うのかも、自分が決める課題ではなく他人が決める課題です。
もちろん、他人の考えを変えるように諭したりと努力することはできますが、本質的に人は他人を変えることができません。

 
今、相談者は、自分のことで精いっぱいで、余裕のない状態だと思いますが。課題の分離、特に、他人の課題だから、というようなことを言うことが、意味を持つ段階でしょうか。
 

他人の考え方や価値観との折り合いを付けようと試みるのは良いことですが、あなたがそこまでしたいのかどうかですね。
私なら本質的には変えられないことでいて、変えられる保証が無いことに頭を悩ませたくないので放っておきます。

 
「他人の考え方や価値観との折り合いを付けようと試みるのが良い」という段階ではないように思われます。上の相談者の「言葉一言で生き死にの気持ちになる」状況を汲み取っているでしょうか。この言葉に、少しの恐れもいだかないのでしょうか。
 

また、これ以上頑張れと言うのか?と辛い気持ちを抱えられておりますが、辛い気持ちはこれ以上、対人関係の中で傷付きたくないという目的を達成しようとしていませんか?

 
傷つきたくないというのは、達成するべき目的に向かってというよりも、やりきれない気持ちでしょう。既に、傷ついていることは明らかであり、感情は過敏で不安定です。これ以上、今ここで、頑張れる段階ではないように思われます。
 
相談者「私にこれ以上まだ笑顔で頑張れと言うんですか?」に対しては、今は、頑張らなくていいんじゃない?・・と言ってあげてよいのではないでしょうか。理屈や原理原則の解説が功を奏して分かりましたということにはならないような気がします。
 

上司とどんな言い合いになったのか分かりませんが、もう少し頑張りたいというお気持ちがあるのであれば、自分はどんなことに喜びを感じて、どんなことに嫌悪感を抱くのかを学べたとして割り切ってみるのはいかがでしょうか?

 
割り切って、と言って、割り切れるでしょうか。相談者の文章に表れたものを個別に検討することなく、自説の有効性を主張しても、万能薬の宣伝のようで、恥ずかしいことになるのではないかと思います。ブログ主は、誰でも、アドラー教の説教をすればピンと来るはずだと思っているのでしょうか。
 

世の中に良い人悪い人、良い会社、悪い会社があるのではなく、それは全て自分がどう思うのか次第です。

 
これは、ひどいです。悪い人や悪い会社はないのでしょうか。すべて自分の思いだけでしょうか。相談者に、いたずらに負荷をかけてしまっています。
 
ブログ主は
「どれだけその人のことを考えてあげても、親切に手助けをしても無駄な人は必ずいる」
と言っていたではないか。どうしようもない悪い人がいるという意味ではないのか。
 

一般的に悪いとされているブラック企業でやりがいを感じて活き活きと働かれている人もいれば、雇ってくれる会社が少ないからありがたいと感じている人もいます。

 
さらに、ひどい。ブラック企業というのは、やりがいを感じる余地があるのだろうか。何ゆえ”ブラック”と言われているのでしょうか。雇用が少ない中で雇ってくれてありがたいと思うことが、ブラック企業に対する解決策なのでしょうか。
 

自分のことを良く知っていると、自分にとって良い会社、良い仕事が判断できるのでより充実したワークライフを送れるようになれます。

 
ブログ主は、自分が何を言っているのか知っていないようです。このように、相談者の気持ちを思いやることをせず、能天気に自説を語るようでは、下手をすると、ブログ主が、ブラックと言われかねないでしょう。
 

せっかく学べることがあったのだから、もう一度良く自分を知ってトライしてみよう!と前向きに考えてみることも一つの考え方ではないかと思います。

 
「言葉一言で生き死にの気持ちになる」と言って、鬱(うつ)の、しかも、崖っぷちの心境の可能性も否定できないような相談者に対して、前向きに、トライしてみよう、とかは禁忌です。
 
相談者に心の余裕がない時に、平気で、単純な元気づけや、アドラー教の原則を書いて、説教者の心が、冷静に、正確に、過不足なく、相談者に伝わるとは思えない。
 
すさんだ解釈として受け取られたり、相談者の心が、さらに、荒れてゆく原因になる可能性を考えないのは大いに疑問です。しかも、それを、相談に答えるお手本でもあるかのように公開するのは、いかがなものかと。公開について、相談者本人の承諾は、当然、得ているのだろうとは思いますが・・。
 
鬱の人は、元気がなく、悲しそうにしているとは限らず、通念的には鬱らしく見えない鬱、すなわち、鬱には、焦燥感が強く、刺激的、攻撃的な鬱もあるので、要注意です。
 
また、アドラー教の原理原則であるところの、自分を知ることと、前向きに考えることを、平然と勧めています。豪語と断定が多く、情緒を汲み取れず、アドラー教の宣伝文句に囚われているならば、こういうカウンセリングに、ブログ主は向かないと思います。
 
個人の日常においても、また職業的にも、カウンセリングは、理路ではなく、対応だと思います。
 
むしろ、理屈や辻褄を言ったり原理原則で押すことは、むしろ、控えるべきなのかもしれません。
 

過去の辛い経験を忘れ去るのに良い方法がありますが、何がどのように嫌だったのか、どんな時に思い出しては辛くなるのか、すべて紙に書き出して下さい。
そうすると、自分の気持ちが沈んでしまう条件を知ることができるので、意識的に該当の条件を避けるように工夫することで心の健康を保つことができます。

 
このことを言いたかったのでしょうか。だとすれば、上の、自分の思い次第、自分を知ること、前向きに考えること、などを、その余裕のないところで、持ち出してくる必要ななかったでしょう。
 

「エクスプレッシブ・ライティング」という手法であり、心療内科や精神科でも取り入れられているシンプルながらもちゃんとした心理療法です。

 
(ネットより)
エクスプレッシブ・ライティング(Expressive Writing:筆記開示):
「つらい気持ちが楽になるだけでなく、「頭が良くなる」「免疫力が上がる」なんて効果も確認されているからすごい。」
「「メンタル安定」「ストレス解消」など様々な効果が確認されている。」
「エクスプレッシブライティングの最大の効果は、「幸福感が高まり、ネガティブな感情が減る」ことだ。」
https://www.wanabe.net/entry/expressive-writing
 
などと書いてありますが、ちょっと言い過ぎの感もあります。
 
思っていることを整理して、実際に書いて、それを見ることで、自分を文章にして対象化することになり、自分の気持ちと向き合うことを容易にし、促進するのかもしれません。こういうことは、日常でも、日記とか、ネットとかで、便利に使っていることではあるでしょうが、悩んでいるときには、意識して、自分の気持ちを書き出して、より客観的に整理しておくことが必要でしょう。
 
 
(2019年10月28日、同日一部修正)
 
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  アドラー教について(3)
 
   アドラー心理学サロン
   https://twitter.com/PositiveSalon
 
 
言葉は、いつも一面的です。かつ、人によって、話すときも、聞くときも、心の持っている内実が異なることが多いのです。一言で、人格全体が関わる問題が、きれいに解決するなどとは思わないほうがいいです。多くの要素と要因を含む問題が大部分だから、短く言い切ることは危険を伴います。
 

誰だって生まれてくる境遇を選ぶことはできません
あなたの生まれた家族があなたの家族で、あなたの生まれた環境があなたの環境です
自分にあるものを使ってなるべく多く望むものを手に入れることができたらそれで十分なのです
他人と自分を比べる必要なんか無い
人は自分にできることしかできない

 
これは、アドラー心理学という名前を出して語る必要のない当たり前のことです。
 

仲間を作って安心しようとする人は、自分が無いだけ
共通の目的を持ち、自立自走できる仲間以外はなれ合い・もたれ合い
相互依存関係の中で成長できることはありえない
弱虫がわらわらと群れているだけ
自分の意見が無いのなら、何もしないで大人しく平和に暮らしていた方が自分にとって幸せですよ

 
依存関係の心理・病理についても、ずっと言われていることですし、アドラーの名を出す必要はないでしょう。ただの、仲間、なれ合い、もたれ合い、では済まないこともあるわけです。トラウマとなり、執着・強迫となり、ストーカーともなりうるものです。
 
このことを言葉だけ知っていて、単細胞の幼稚な精神で利用して、惹きつけるような魅力もないのに、お前は私に依存しているから批判してくるなどと言ってくる愚か者もいます。
 

強く見せる努力ではなく、強くなる努力をしましょう
大きく見せようとするのではなく、大きくなるのです
承認欲求を満たすことを目的にしていると、目先の快楽に覚えて本当の幸せを取りこぼす
あなたは凄い人に見られたいのではなく、凄い人になりたいのではないのですか?
過度な承認欲求は害です

 
承認欲求が励みになることもありますが、目標への努力の動機としては、的外れであります。
本来の目標を定めて自覚することが大事でしょう。
 
強く見せるのではなく、強く、大きく見せるのではなく、大きく、と言うのは、
見せかけではなく、目標と推進の内実のことでしょう。
 

ネットであなたに絡んでくる人達は、醜い劣等感と承認欲求の権化
実際には無い権力を振りかざして、誰かにマウントを取ることしかできない
満たされない承認欲求を、満たす錯覚に溺れた人達です
現実世界で努力する勇気を失い、強く見せる努力しかできてない
覚せい剤中毒者と大して変わりはしない

 
ボロクソに決めつけています。このブログ主は、ときどき暴走するようです。
ひどい目にあって恨んでいるか、他者と強調することが苦手か、
容赦しない言い方、というのではなく、見方が、しばしば偏っています。
 

多くの人達は自分に嘘を付くことによって、自分の首を絞めている
本当は納得できていないのに、無理矢理に自分の都合の良い解釈をしようとする
一時的には自分の気持ちを落ち着かせることはできても、長期的には自分を苦しめるだけ
ありのままの自分を偽らず、本当の自分をさらけ出して幸せになろう

 
文脈を整えたほうがいいです。納得できていないのに、自分に嘘を吐いて、都合の良い解釈をして、かえって、自分の首を絞めることがある、という言い方にしないと、前段落と同様、暴走してボロクソになるわけです。
 
ありのままの本当の自分をさらけ出すことは、誰に対してでしょうか。いつもやっていいことでもないような気がします。本当の自分を自覚することが大事なのです。幸せになろうも短絡です。
 

【こんな人には要注意】
下記に当てはまる人は、他責思考で自分を肯定するだけ。
・自分の都合のいいように、あなたの話をまとめ上げる
・常に悪者探しをして、解決策を見つけようとしない
・他人のあら探しをしては、文句ばかり言って自分では何もしない
・他人を守る為ではなく、自分を守る嘘を付く

 
自己中な人のことを書いているようですが、分かるでしょうか、かえって、アドラー教は、このように解釈されやすく誘導されやすい危険要素があります。自分の悪や罪や偽善や失敗や的外れを、あとは自分の課題ではないと無視して、反省しない人が出てくる可能性に注意するべきです。
 
歯切れよく語ろうとしすぎるからです。
カルトに見られることですが、短い言葉で全体を表そうとするのは無理があります。
 
他者を無視することは、自分の利益を肯定して、他者に対しては不利益や邪悪を結び付けやすいからです。そうして、しでかしたことについては、それは、あなたの課題だと決めつけて平気になってしまう危険があります。
 
不都合な刺激を無視し続けていると、羞恥心や罪悪感が麻痺してゆく可能性があります。羞恥心や罪悪感を失ってしまうと、恥知らずな言動をして、その自己正当化に、嫌われる勇気を持ち出す危険があります。短く言い切って幸福を約束するのは、カルトの特徴だということです。
 

他人に何をされようが、傷付く必要は無い
どれほど酷いことを言われても、最低なことをされたとしても、それをどう捉えるのかは自分の課題
他人が何を言うのか、何をするのかは他人の課題であり、制止することはできても本質的には変えられない
何をされても、相手の意図を実現してやらなくていい

 
どう捉えるかが自分の課題と言いきっていますが、その捉え方が自分勝手になる可能性を考えるべきでしょう。前段落と同じように、自己中に解釈して、問題をさらに、難しく、また、修正不能にしてしまう恐れがあると思います。
 
自他の課題を分ければ、なんでもすっきり解決するようなことを言っていますが、課題を分けられない他者がいて同じ社会に生きていることを考えないのか、また、人間はしばしば感情的になることを考慮しないのか、という疑問が残ります。
 
こちらが課題の分離をしても、相手は分離していない場合、また、相手の理解度が劣っている場合、不意に、不当な反応が返ってくることも考えるべきでしょう。ブログ主は、無責任だから、気持ちよく言っているだけでしょう。
 
相手の意図を実現するのではなく、相手の反応をケースバイケースで予測しておくことも必要になるのです。そのためには、共感と共有の出来る別の他者との連携も必要となり、問題は単純ではないということです。
 
言い放って、決めつければ気持ちはいいでしょうが、こちらだけすっきりしても、課題の分離が正しくても、感情のもつれなど副作用が、こちらの不利に働く場合を考えるべきでしょう。それは、自分の課題ではない、という主張が、いつも通るとは限らず、いつのまにか、恨まれていることもあるのですから。
 
正しいのだからそれでいい、という当為を、現実に当てはめる無理があるように思えます。いくら恨まれても構わないというなら、それは、自己中に生きるのと変わりなくなり、あいつは自己中だと、あちこちで言われることにもなりかねません。
 
あとの責任を一切負う気のないブログ主は、歯切れの良い言葉で教えるだけで、結果は相談者の課題と思っており、逃げの姿勢を最初から持っているわけですから、そういう人の短絡気味の豪語によって、振り回されることのないようにしたほうがよいと思います。
 
 

羨ましいくらいキラキラした人を
見ても嫉妬しなくていい
あなたの見ている他人の人生なんて
無数にあるうちのほんの一面です
他人の一部分を羨ましがっては
かけがえのない自分を否定してはいけない
あなたは、あなたでしかない
かけがいのない、たった一人しか
いない自分を最大限に活かそう

 
だからといって、短絡した自己中になってはいけません。
人は、他者との関係性に生きています。人間は不完全だから必ずと言ってよいほど、傷ついたり、傷つけられたり、傷つけたりします。人間は、関係という相対性の自覚を捨てると、不完全だけになり、自己中が自らの理路も情感も次第に鈍らせ壊してゆくのです。
 
むしろ、いろいろな食い違いやストレスについては、相談できる関係性を持つことが必要です。そこにも、絶対正義はありませんから、学習可能であるべきで、訂正不能にしてしまうのは、人格の活性を失うことに等しいのです。ゆえに、修正可能な学習機能が、いつも必要なのです。
 
気に入らなければ無視、という態度は、いずれ、自分に跳ね返ってくるでしょう。
無視すれば無視が、罵れば罵りが・・。
 
ここで言えることは、
歯切れのよさそうな他人の言葉に踊らされてはいけない、
総合する能力が乏しいところに歯切れ良い言葉は誘惑になり、
その結果を自分ひとりで負うことが、いっそう、つらい場合があるだろう
ということです。
 
 
(2019年10月27日、同日一部修正)
 
諍い(いさかい)
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