ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。サポートに問い合わせて、ようやくコメントボタンが付けられました。ソーシャルボタンは、コメント欄の上に表示されることも知りませんでした。

 
  楽山の幼稚
 
 『モラル・アニマル(上)』ロバート・ライト著
 2020年07月11日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25482573.html
 
 
今回も、楽山は、いかんなく、自覚のないモンスターぶりを見せています。
 
楽山の論理めいた詭弁は、扉を、その外見だけから、取っ手を握らず、開けないままで、先は空しいと言うのに似ています。扉を開けて中に入るのが面倒で、机上で、中の部屋を、決めつけて満足しています。一切の労苦をしないで、真理を得たと思いたいだけの幼稚さです。
 
本書では主に進化心理学の立場から男と女の心理について考察しているが、あっと驚かされる話が沢山披露されていて面白い。たとえば誤解を恐れずに大雑把な言い方をすれば、一夫多妻は女性に有利で、離婚は男性に有利だとか、結婚相手に求めることは男と女とではどのような違いがあるかなどだ。こういう話は実に面白い。
 
楽山は、あっと驚いたのだそうです。しかし、このような楽山の発言に、全く信頼性がないことが、一年余りの批判によって、明らかになってきたのです。
 
楽山が、あっと驚くことは、小学生なら、驚くかもしれないが、中学生なら、あまり驚かず、高校生なら、舌打ちをするようなことでした。自己満悦しかない者というのは、本当に困りものです。
 
楽山が書いていることを信頼しないでください。男女のことは、単純に割り切ることは出来ない、という当たり前のことが、楽山の頭にも心にも入っておらず、実に、安易に、自己満で、分かったとか、面白いとかいうのが、楽山の嘘っぱちの特徴なのです。
 
ただ著者の語る人間観については、人によって合う、合わないははっきりわかれることになりそうだ。たとえばまず著者は、人の心について次のように規定している。
 
人によって合う合わないがあるのに、なぜ、上では、男女のことを面白いと肯定するのでしょうか。主張の一貫性がなく、ばらばらなのも、楽山の特徴です。つまり、楽山には、一定の主張というものはないのです。その時その場で、適当に言葉の字面を並べているだけなのです。
 
利他主義、同情、共感、良心、公平などの感覚は、すべて遺伝子を基に生じている。
(『モラル・アニマル(上)』ロバート・ライト著、竹内久美子監訳、小川敏子訳、講談社、1995年、p.33)
 
遺伝子を基にしていることを知っても、予測など付かない、ということを、楽山は、考えることが出来ない人です。それで、次のようなことを言うのです。
 
おそらくは、人の精神について他の生物とはまったくの別物とし、なんらかの崇高な存在に由来すると考える人にとっては、このような人間観は承服し難いものだろうと思う。
 
崇高な存在に由来するとは、神と信仰のことでしょう。また、反キリストらしく嫌がらせの当てつけをしています。
 
こういうことを言って、自分は真理を知っているんだ、と思い込んで満悦するのが、哀れなほど低レベルのままの楽山であります。
 
そこで、止まってしまうから、誰とも共感を持ち得ないのですが、無反省で訂正不能の楽山は、そのことを無視して、学習も成長もなしに、自身の鈍い停滞を神?として、自分は、他者と違って、崇高だと思い込んで、他者を軽く見て、自己満足しているのです。
 
間違っても、楽山の、低レベル、停滞、自己満足と満悦、他者の軽視、などと、同様になってはいけません。それこそが、人格破壊による、人間の、あらゆる機能の鈍麻から停止につながります。決して、楽山のようになってはいけません。
 
また著者は、人の自由意思についてはこう書いている。
遺伝子とは、無意識のうちに私たちを動かすものなのだと頭に入れておいて欲しい。そうすれば、セックスだけに限らずさまざまな領域で、自分たちは操り人形だということがわかってくる。かろうじて手にすることのできるわずかな自由といえば、人形遣いの論理を解読することだ。
(同上、p.65)
 
楽山は、このことで満悦し、賛同しているのでしょうか。だとすれば、呆れます。
 
操り人形だと分かることも、操り人形ではなく自由意志だと思うことも、操られているだけの必然であるならば、結局、操り人形であるかどうかを考えること自体が無意味だという理路が、楽山は、分からないのです。
 
またしても、いつものように、自らの辻褄に、短絡して、酔い痴れて、のぼせて、満悦する楽山です。酷いインチキの詭弁です。
 
このような、何も良いものをもたらさない空論は、確かに、楽山の好むところではあります。意味の帰結を考えず、とにかく、結論を出して決めつけることだけが、楽山の快感なのでしょう。それで、悟ったような気持ちになるのでしょう。浅はかです。
 
恐らく、楽山は、生きることに何の望みも見い出せないのでしょう。だから、毎度毎度、気持ちの悪い詭弁の言説をもって、信仰を卑しめるサディストになっています。
 
今回は、操り人形という詭弁を語って、絶望を広め、絶望仲間へと誘いたがっているのです。楽山の言を読んでも、真実と希望の欠片も受け取ることはない、つまり、全くの無責任が楽山だということを知ってほしいと思います。
 
これはドーキンスの『利己的な遺伝子』で語られている人間観と同一のものだろう。
いくら個体レベルでは利他的に見えたとしても、遺伝子は一貫して利己主義を貫いている。
(同上、p.240)
 
遺伝子に利己があるのでしょうか。遺伝子を見ることも計ることも出来ない楽山が言っています。
 
喩えであってもなくても、遺伝子の利己主義が、人間の利己主義につながるわけではないのは、次元が違うのだし、かつ、遺伝子をモニターも出来ないのだから、常識があれば、当然のこととして、分かるはずなのです。
 
しかし、利己主義の自己中の楽山は、利己主義という言葉だけで、自らの自己正当化が成ったかのように、大発見?であるかのように、驚くべき理解?だと思い込んで、酔い痴れて、"残念だが、これが真実だよ" と言わんばかりに、書いてくるのです。
 
真実への、真っ当な追求が出来なくなった楽山は、殆ど、裸のピエロです。
 
これも上と同じ人間観だ。
 
見たことも分かったこともない遺伝子なのに、遺伝子に規定されているというだけで、総ての結論を得たかのような気分になり、その結果、虚無に陥り、努力を怠り、何も実のあることを学習できなくなって、都合の良い文言を、本を見て漁っている楽山の惨劇が表れています。
 
先に述べた通り、こういう考え方には人によって合う合わないはあるだろうが、自分はこれをユニークかつリアルに感じるタイプではある。これが進化心理学というものであるなら、もっと知りたいとも思う。
 
ユニークかつリアルではなく、未熟かつ幼稚なのです。分かっている自分という前提があると、こうなります。その後の学習を怠ってきた楽山の、これまでと、これからの、経過は、恐らく、とても悲惨です。
 
人間の心…たとえば「利他主義、同情、共感、良心、公平」、信仰、愛情、希望、うそ、エゴ、怨恨、懐疑など、崇高または下劣なあらゆる心理を、超自然的な何かを持ち出すことなく、進化論で説明できるとしたら、実に面白く、興味はつきない。
 
楽山は、"興味は尽きない" と書いていますが、それは、真実の興味ではなく、自己満悦欲求に過ぎません。自己愛性に凝り固まると、このような人格になって、あらゆる間違いが噴出してきます。
 
人間の心理を、進化論で説明することは出来ません。個別と全体、人間と人体、という、追究のワールドが全く異なります。それに、心の問題は、"論" で尽くすことは出来ません。楽山は、それも分からないのです。楽山の異常性の病理は、増幅してゆくようです。
 
楽山が欲しているのは、自分は偉いんだという満悦だけですから、そのうち、今度は、現実の市井(しせい)で、悟り?を語り始めるかもしれません。だまされた人々と、自己中のお仲間も、巻き添えになるのでしょう。
 
精神病院に収容されるでしょうか、恐らく、否です。人格障害は、医療では治らないので、扱わないでしょう。犯罪行為に及ぶまで、野放しになる可能性が大です。
 
楽山の人格の低格化は、凄まじいものがあると思います。それとともに、羞恥心もなくなり、今後、さらに絶望への妄想を、むやみに押し出してくることが予想されます。
 
関わらないことと、批判することと、情報を敷衍(ふえん)すること以外に、出来ることはないようです。楽山は、情緒も理性も、まともではなく、危険人物です。どうか、近づかないでください。
 
 
※ 近況、ぼやき:
 
言ってくることは、来てください、電話してください、行ってください・・とか指示するだけで、守れないと、こちらの事情を話した後でも、入院は来週いっぱいで終わりです・・とか脅してくる。書類だけ抱えて、自分の手は汚さずに指図だけする、ワーカー(活動員)じゃなくて、クラーク(事務員)に過ぎない。いや、もっと悪いかもしれない。
終わりです・・って、じゃ、来週いっぱいで解決しなければ、病院は、歩けない母を、裏口から放り出すんでしょうか。今の医療と福祉行政、そういう仕組みになっているんでしょうか。
 
 
(2020年07月13日)
 
 
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  楽山のケツの穴
 
 ケツの穴
 2020年07月11日
 http://mn266z.blog.jp/archives/25478868.html
 
 SNS上の誹謗中傷について
 2020年07月11日
 http://mn266z.blog.jp/archives/25478452.html
 
 今回は、抜粋です。
 
楽山が、ツイッターからコピペして書いているようです。今回は、抜粋しておきます。はっきり言えるのは、自分の、当てつけや詭弁による攻撃性、という、誹謗中傷の中でも、最も悪意に満ちた策略的な、陰険なやり方についての、反省も悔いも微塵もないということです。楽山は、そういう人です。
 
自分を、被害者の立場においても、加害者の立場には決して置かないのです。反省するはずがありません。だから、記事に引用して、笑うことが出来るのでしょう。
 
今日の私の記事は、言葉遣いが下品ですが、楽山が、すこぶる下品な言葉を使っているので、私も、思い切り、使うことにしました。なお、元々、私は、それほど上品ではありません。
 
(引用)
みんな 真剣に/受け止め過ぎなんだ/ツイッターなんて/ただの意見に過ぎない/意見はケツの穴と一緒/誰にでもある
 
楽山は、これに反応して、
 
(楽山)
これには思わず笑ってしまった。この大らかさは気持ちがいい。
ただ、この譬え話を知ってしまったからには、今後はSNS上で、汚い言葉を見掛けるたびに、ケツの穴…しかもきちんと拭いていない汚いケツの穴を連想してしまいそうだ。これはつらい。どうかそんなことにはなりませんように…(笑)。
 
「笑ってしまった、おおらかさは気持ちがいい」、などと軽い扱いで、笑う楽山です。そして、"ケツの穴"、から、「きちんと拭いていない汚いケツの穴を連想」してしまうそうです。自分のケツの穴を、除外しているから、笑えるわけです。そう、楽山は、批判されている間、ずうっとケツの穴で笑っていたのでしょう。
 
楽山のケツの穴は、そんなにきれいでしょうか、否、今までの、嘘と詭弁によって、クソまみれのような気がします。つまり、きたなく笑うケツの穴、でしょうか。
 
明らかなのは、楽山が、全く、自分のこととして考えていないこと、人のケツの穴だから、拭いてなくても笑えるのでしょう。このように、自己愛の自己中の偽善者は、病識がなく、どんなことを仕出かしても、他人事で済ませて、たとえ、批判されても、びくともしない不感不応のケツの穴?を身につけているのです。
 
(引用)
二、三の誹謗中傷に対してはスルー対応もできるかもしれないが、大量に長期にわたっての誹謗中傷に対してはスルーだけで済むわけもないということか…。
 
楽山の長期にわたる嘘と詭弁に対して、私は、一年余りにわたる批判を続けています。もちろん、ケツの穴をほじくる趣味はないので、笑ってはいません。
 
私の批判に対して、楽山は、批判と誹謗中傷を区別できないまま、趣味のようにとらえているのでしょうか、ケツの穴で笑っているようです。
 
(楽山)
たしかに、正義の立場から不道徳な行いをただすとか、自分の好きな番組を台無しにされて被害を受けたとか、そういう主張が目立つ。
こうしてみると、被害者意識だとか、正義だとかいうものは、本当にやっかいだ。
 
被害者が、被害者としての意識を持たなければ、悪が栄えるだけです。また、正義を考えないで、生きることは出来ません。
 
しかし、楽山は、「被害者意識だとか、正義だとかいうものは、本当にやっかいだ」と言っています。どういうことでしょう。
 
自身の被害者意識を認めないということは、鈍感だということでしょう。しかし、他者の被害者意識を認めない、ということは、他者に対する加害者意識も罪の意識も持たない、ということです。つまり、思いやることが出来ないということです。
 
また、正義などは、厄介だから、気にしない、と宣言しているようなものです。楽山の墓穴が、どんどん深くなってゆきます。楽山は、深い深い真っ黒なケツの穴になるのでしょうか。
 
私が、楽山を批判するのは、は、被害者意識でもなければ、正義と信じ込んでのこともありません。楽山の書く宗教と信仰の記事が、カルト的で、有害と判断したから、批判しています。これは、判断であって、正義と信じ込むのとは違います。
 
楽山が正当であると分かる弁明があれば、私は、訂正するでしょう。しかし、楽山は、そのような弁明の記事を、一度も書いたことはありません。いつも、当てつけの悪口と、嫌らしい嘘と詭弁ばかりです。
 
楽山には、嫌らしいという感覚がないのかもしれません。楽山は、今回、「ケツの穴」という、絶妙な喩えを持ち出してきました。まさに、楽山の書く文章は、ケツの穴から失禁される"もの"なのです。楽山の口は、その "穴" であり、そして、その真っ赤なケツの穴を、丁寧語と詭弁のボンヤリ言語で、真っ赤な "くちびる" に見せかけてきたのです。
 
そして、あろうことか、楽山自身が、人のケツの穴を、自らのケツの穴で、笑っているのです。誹謗中傷、悪口、罵詈雑言のみならず、さらに、嘘と詭弁で塗り固めたような、嫌がらせと当てつけの言葉は、まさしく、いつも未消化の、楽山の、下痢便の臭い臭い失禁であります。自覚がないのは、痔核があるため?、そして、呆然痔疾なのでしょうか。
 
私は、批判するときには、今まで、辛辣な比喩表現も、ときに使ってきました。今回は、楽山が、いつものように自分を棚に上げて、しかし、いつもの気取りとは裏腹な、絶好の辛辣な比喩を、提供してきました。つまり、虚飾の言葉を使わなければ、締まりなくケツの穴まで落ちる楽山です。
 
当てつけのつもりが当てつけられる、人を笑えば自分が笑われる、という常識を、自己愛は、考えないのでしょうね。自業自得の因業が始まっています。
 
 
(2020年07月12日)
 
 
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  神と人と言葉
 
 
私が、理路という言葉を使い、論理という言葉をあまり使わない理由については、前にも述べたことがあると思います。論理という言葉が、いかにも理屈だけという印象があるからです。
 
数学や物理学なら、理屈だけでよいのかもしれません。情の入る余地はないからです。
 
しかし、信仰と人間について書くときには、人間の心や共感という人間性を抜きには語れないので、論理という言葉を避けています。理路という言葉で、表せているかどうかも疑問ではありますが。
 
 
信仰において、理路が必要となるのは、私の考える信仰が、人間の心や共感性を抜きにしては語れないからであります。
 
信仰が、何でも叶えられるようなご利益信仰や、超常の心性の仕組みを真理として前提とするカルトなどは、人間性については、むしろ邪魔なのでしょう。
 
ある凶悪な偽キリスト教のカルトは、私の信仰を、人間信仰だと揶揄しました。しかし、人間一般や特定の人間を絶対正義として崇めるなど出来ないのは明らかですし、人間に理解できる神?を信じるというのもまた、人間の思想を信仰するというカルトであります。
 
以前、その凶悪な偽キリスト教のカルトは、また、人間の心の、どこを探しても信仰はないと言いました。恐らく、聖書に書いてあり信仰を受け取るための "土の器" なるものが、心とは違ったところにあると言いたいのでしょう。
 
このように、カルトは、理解も出来ないところの超常を、自ら捏造して特別に見せかけるのが大好きです。ついでに、自分も特別だと言いたいのでしょう。
 
心で信仰を受け取らなくて、どこで受け取るのでしょう。心以外の別のもので受け取るというのは、明らかな空想の捏造であります。カルトは、自分は人とは違うというところを見せたがります。
 
信仰は、良心を持つところ、即ち、心で受け取るしかありません。
 
そして、人間は、神に比べて、不完全な存在である、ということが、人間に理解できるところの真実なのです。それを、前提として、話を進めなければいけません。不完全な存在である人間に、完全なる神を理解することは不可能であります。
 
 
人間は、なぜ、神を必要とし、神を信じるようになるのでしょう。それは、完全の神が理解できるからなどという、カルトが言いそうな理由ではありません。
 
人間は、生きていて、必ずと言ってよいほど、苦難に遭遇します。その苦難を、自分で克服できるとは限りません。そこで悩んでいるばかりでは、生きることが苦しくなるばかり、ということがあるわけです。
 
そういう時に、人間を、ほいほいと救ってくれる神?でははなく、祈祷だけによってご利益をくれる神?でもなく、都合の良いことが起こるかどうか分からないことを、生きる縁(よすが)として頼みにすることは出来ません。
 
思案の末に、はっきりと分からなくても、人間の世界を、大きく包み込むような神聖なる御方を、恐らく、古代の宗教発祥の時代に、考えないではおれない人々がいたのではないかと思います。
 
彼ら思慮深い人々は、そのような完全な存在を思い、そういう御方でなければ救えないほどの大きな苦難に遭った人々なのだろうと思います。その神のもとで忍耐することに救いを求めるしかなかったのだろうと思います。
 
つまり、神を思う人々は、どうしようもない苦難に対して、全知全能の神、たとえ、今は、背後にいて、よく見えない存在だとしても、そういう神が存在するのでなければ、生きられない、というほどの実感があったのだろうと思います。
 
言い換えれば、神?が完全だと分かるから信じる、というのはカルトであり、人を救える神ではない、ということです。そういう神?を信じようとする向きは、大方、自己中心で自己顕示欲の強い者たちだろうと思います。
 
神を思う思慮深い人々の願いは、たとえ自分が苦難のうちに死に絶えても、残してゆく家族や次の世代に希望をつなぎたい、という切実な思いもあったかもしれません。だから、キリストも、預言者も、世々の聖徒たちも、迫害によって死ぬことを辞さなかったのかもしれません。
 
即ち、神がいるから、神が分かるから、ちょうどよくて信じるのではなく、信仰者は、信仰や宗教よりも先に、苦難に耐えがたい悲しみをいだくゆえに、最後の希望を、神に託す人々であります。
 
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、私たちは、人の言葉で表された聖書を、人の頭の理路と心の共感力で受け取るしかありません。そこには、人間の不完全性によるリスクが伴います。
 
聖霊の導きによって、神の言葉が分かるなどと言う人には注意してください。聖霊という神格が降りているかどうか、分かるような能力は人にはないのです。
 
そういう隙間のような欲求に、入ってくるのは、悪魔の誘惑、自らの超常願望、あるいは、有頂天の陶酔気分、そして、カルトの悪意、といったものだけなのです。
 
言葉は、伝達のための暗号です。そして、一つの言葉が、必ずしも、いつも、一つの心の動きに対応するとは限りません。数学や物理学と違って、心は揺れ動くものです。経験によっても変わるものです。
 
また、人によっても、異なるものです。心の動きは、感じることはあっても、どう動いているか、はっきりモニターできるものではありません。信仰を伝えるにあたっては、そういう人間の心の不完全と不安定を弁えておく必要があります。
 
あるとき感動を覚えた対象に、次の時にも、同じ感動を覚えるとは限らず、むしろ、感動したという記憶を想起するだけのこともあるかもしれません。それほど、言葉と心の関係は、不安定で流動的なものです。
 
ただ、後になって、あれは、あのとき、あの聖句を読んでいたのは神の導きであったのかもしれない、あの成り行きは神の導きであったかもしれない、ということを思ったり感じたりすることはあるでしょう。私たち人間に許されるのは、そういう推測にとどまるべきなのです。
 
 
したがって、信仰を伝えるときに、同じ言葉を言って、同じ伝道が出来たと思うことは、人に対しても、神に対しても、不遜なことであります。また、ここでも、聖霊の導きが、神の恵みが、などと決めつけないようにしてください。人間は不完全だから、伝わらないことはあるのです。
 
もちろん、伝えるということは、信仰については、どんなに努力しても易しいことではなく、どう努力すればよいのか、とさえ思ってしまうものです。信仰は、聖書の言葉は、神聖の導きは、それを分かって不動にするためではなく、また、決して生命保険のような保証でもなく、悲しむ心を癒やし、努めることをやめない忍耐力のためにあることが多いと思います。
 
何よりも、福音伝道を支えるのは、聖書から受け取るところの、キリストの愛であり、キリストへの愛であります。そこが、キリスト信仰の中心であり、つまるところ、総てであるかもしれません。
 
 
※ ぼやき:
 
言葉だけ丁寧で、書類と話してるみたいで、ペラペラペラペラペラ、温もりも潤いもなくて、反応も単調で、鬱とか病歴とか個人のこと話しても、水害と天気とか話しても、言っただけ損した気分になるだけで、自分の都合しか言わないし、言葉だけ丁寧野郎で、何日までとか、脅迫めいた文言を、同じ口調で言ってくるし、甘えるなとか煩わしいとか思っていそうな、それで仕事してるつもりの、手続き的な事務連絡か、録音見本みたいな、しかも、早く済ませたい感じの早口で、ペラペラペラペラ、言葉だけ丁寧野郎の、結論を急がせる台詞だけで、露骨に責めてくる人より、気分を滅入らせる、遥かに鬱の増悪因子の、そういう人と、私は話したくない。
 
雨にも負ける、風にも負ける、・・
 
「殴られるより悪いことがある」
  ・・三島由紀夫原作映画「午後の曳航」の中の台詞の字幕。
 
 
(2020年7月11日)
 
 
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  楽山の寒い霊?
 
 『霊の研究 人生の探究』本山博、渡部昇一著
 2020年07月08日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25440976.html
 
 
楽山は、しばらく黙っていたようですが、欲望に負けたのか、意地なのか、妄想なのか、症状なのか、また、書いてきました。何を書いても、生命力のない、ボンヤリ言語の、ああでもない、こうでもない、という筆致で、無明から惑わそうとしてくるだけです。
 
*全体の感想
霊能はないという渡部昇一が、霊能があるという本山博にさまざまな質問をして話を聞くという体裁の本である。しばらく前に通読したことがあるが、例のごとく、内容はほとんど忘れてしまったので、また読み返してみた。
まず全体の流れについて述べると、序盤の渡部昇一は聞き手にまわり、自分の意見はほとんど言わない。本山博が神と仏の区別はないとしている場面では、疑問を述べるかと思ったが、そうはせずに聞き流している。
 
ここでいう神と仏の、神は、神道なのか、キリストなのかは、次の段落で明らかになります。神は、キリスト教の神のようです。
 
神と仏の区別は、人間には分かりません。キリスト教の神を信じる人は、仏については表面的な概念より深くは知らないわけです。これは逆も言えるでしょう。楽山は、また、出来の悪い書類のような字面の理解?を書いています。どこまでも見栄だけは張り続ける男のようです。
 
ただ中盤以降になると、自身の意見も積極的に話すようになり、神と仏の区別について、氏の読者であれば知っているだろう“あの話”を披露している。またキリスト教伝来前のゲルマン人は、死後、人の魂は海に行くと信じていたという話のところでは、若干激しいやり取りになっている。ここは迫力がある。これ以降はどちらも率直に意見を述べているようで、有意義な対話になっていると思う。
 
人の魂が海に行く、というだけでは、どういう状況の何のことか分かりませんが、楽山は平気なようです。楽山は、言葉の薄い概念上を滑ることしかできないからです。したがって、楽山に対話の意義も分かる道理がないのです。
 
しかし、いつものように、楽山は、有意義な対話とだけ書いて、満悦しているのです。自分だけの満悦を書いて、意味があるでしょうか。上からジャッジだけをするような審判みたいな筆致では、読書感想文にもなっていません。
 
楽山の読書は、邪悪な郵便受けのようなものです。郵便を入れる所はありますが、入れると、積み重なり、厚さを増すだけで、読まれることはない、つまり、放置され、まとめて捨てられるだけの、煩雑なチラシのようなものになってしまいます。工夫もなく、面白みもない、チラシ、それが、発表することだけは止まない楽山日記なのです。
 
そういう記事の今まで重なってきた分厚さを、楽山は、記事に書いて、独りで満悦し、読書家気取り、霊能者気取り、学者?気取りとなる人なのです。しかも、そこから、キリスト信仰を、おとしめて安物扱いしてくるのだから、決して看過できるわけはないのです。
 
楽山は、本を、ただ、食べて、腹を膨らませて満足するだけの、ヤギのようなものでもあるでしょう。何を食べたかという中身など、全く吟味することもなく、ウメェェと、自分の都合だけを通して、わけもわからず排泄してきます。残るのは、中毒性の下痢でなければ、根拠のない満腹感~膨満感だけなのです。
 
楽山にとって、味わえないようなときは、もちろん説明できないので、世辞のように、有意義、と書いて終わりです。つまり、最初から、自己顕示の食欲~貪欲~貪食だけであり、伝える意志も意欲も思考も感性もないと思います。
 
*霊界観
本山博の霊界観についてはスピリチュアリズムの影響が濃いようだ。霊界の下層では、神と仏の違いなど宗教の違いが問題となっても、上層に行くほどそういう問題はなくなるというのも、スピリチュアリズム的だ。霊言では、霊媒の声ではなく、霊人が肉体を持っていた頃の声に変わるともしている。これはよく聞く話であるが、霊言の真偽を見分けるためのもっとも簡便な基準だろうと思う。
 
それで、楽山は、読者に、分かってもらおうとか、共感とか、そういうものを全く必要としていません。ならば、書かなければ、無駄がなくてよいのですが、自己顕示欲だけは、依然として、底無し沼のように深いのです。
 
霊が分かるっぽい霊能者気取りの楽山は、説明のつかないことも、"君らは分からないだろうけど、自分は分かっている、自分は教祖格だからね"、とでも言いたがっているような書き方をしてきます。
 
ゆえに、霊言の真偽を見分ける、などという自意識を平気で書いてこれるのです。そういう気取りは、だんだん隠さなくなったようです。
 
類魂のような考え方も述べている。自分はこれは苦手であるが、コップの水を大海にそそげば、再びコップに入っていた水を取り出すことはできなくなるが、だからといってコップに入っていた水がなくなったわけではないというたとえであれば、その理屈自体は分からなくもない。
 
ボンヤリ言語の言い回しで、分からなくもない、と楽山が言っているのは、コップ、水、大海、という言葉を使った比喩だけです。この比喩ではなく、この比喩が指し示すものには、共感や共有の要素がありません。しかし、楽山は、説明した気分になるのでしょう。
 
内容説明のない、値札と広告だけの、霊のバーゲンを、毎回のように、書いて満悦するだけの男に、分かち合える何があると言うのでしょう。実に、人の迷惑を考えない楽山です。だんだん、目を覆いたくなるような壊れた言語になってゆくのかもしれません。
 
霊界の話などについては、ある人の話が、他の人の話と共通項が多いことをもってそれが真実である証拠だとする主張もあれば、それは単に一方がもう一方の話を知り影響を受けたか、双方の話はともにある一つの話から影響を受けたというだけのことだろうという主張もある。
 
インチキの典型のような話です。霊界、共通項が多い、真実である証拠、影響を受けた、これらの言葉の中で、霊界は前提であり、あとは不可解な辻褄みたいなことを書いているつもりだけです。
 
いずれにも、根拠がありません。それなしでは生きられないほどの必要性も、まるで書いてありません。記事の進め方に、全く必然性が表されていません。
 
本山博とスピリチュアリズムの関係についてはどう解釈すべきか思案のしどころではあるが、自分の見立てでは正直言って後者の可能性が前者のそれより高いように思う。氏の話に限らず、霊界話というものは大方はそういうものだろう。さて、真相はいかに?
 
霊界の話を、まるで普通に存在しているものについての話のように語る楽山ですが、実際には、楽山の頭の中でだけ、つまりこれは、楽山の思い込みの中だけで語っているわけです。
 
読者と共有できるような説明が、全然、為されていません。いったい、楽山は、どういう種類の記事を書いたつもりなのでしょう。何を主張したいのか、何を受け取ればいいのか、何かを共有できるのかどうか、まるで不明です。批判以前の問題になっています。
 
それで、どっちだ、後者だろう、みたいなことが語れると思っている楽山の話の中の、前者も後者も、いくら当たり前のように語っても、ピントが、読む側と全く合っていないまま、独善的に得々と語っている自分納得の奇妙~不可解なスピリチュアル以前のガラクタ話になっています。
 
しかも、その語り口だけで、満悦して、霊界話はそういうものだろうと万人の共通の話題であるかのように、真相はいかに?などと、興味津々に見せかけています。何を考えて記事を書き、何を期待して記事を公開しているのでしょう。
 
楽山に共感できる人がいないことのほうが妥当であり、むしろ共感できたら、頭の構造はどうなっているの?、おかしいだろう、という方向に、逆に、頷ける記事になってしまっているのです。楽山の単方向の独り言~独り芝居は、今も続いているようです。
 
以上、書いてきたことより、楽山には、思案というものはないのだろうと思います。説明のない前提があって、あとは、その場その場で取り繕ったような辻褄めいたものを当てているだけで、それ以外の、説得力の必要なところが、全然、表れていないのです。
 
これは、書くことに、自慢以上の目的がないことを示しています。
 
楽山というインチキワールドで、得々と霊界が分かる楽山自身を前提にされて付き合わされては堪(たま)らない、という記事です。どうか、間違っても、批判的な目以外で、関わることのないように願います。
 
しつこく、丁寧語で書いてゆけば、誰かが、読んでくれて、頷いてくれて、だまされてくれるだろう、という企みの意図なのでしょう。そこからは、楽山教?へのマインドコントロールと脅迫でも待っているのでしょうか。そういう、浅ましい楽山の、哀れな犠牲者にだけは、決してならないでください。
 
 
(2020年07月10日、同日一部修正)
 
 
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  非合理と合理
 
 
人にとって神は
そして信仰は元々非合理である。
人の理解と把握には限界があるからだ。
 
神の合理を人は理解できない。
 
人知は
神を信じる信仰という非合理と
人の合理を区別するために与えられている。
 
恐ろしいのは
信仰という非合理を
人の合理に結びつけることだ。
 
非合理について
人の合理で確信しうることは何もないのに
非合理が合理に
神の思いが人の思いに
合一すると思い込むところから
神の名のもとに信仰は変質して
訂正不能の確信?に堕ちてゆく。
 
人の信仰という非合理の自覚は
祈りをもたらし
それを必要とする人を救いうるが
 
人の確信という合理化された非合理は
人を、いわれなき罪と報いに定める。
 
 
(2019年06月01日、修正)
 
 
  器
 
信仰に必要なのは
復興ではなく改革である。
 
大昔のような
一途なだけの信仰の復興というのではなく
原初の信仰として
人間を弁える信仰への改革である。
 
信仰を、人知によって語りうるものだけを受け取り
人知によって語れないことを神に任せる人の器への改革であり
 
それは解釈信仰や奇跡信仰や史実信仰などの
人知によって神を語る人知信仰からの脱却である。
 
人知を超えることが出来ない人間は
生きている間は神を仰ぐのであって
人の意志を
絶対の神の意志と一致させることは出来ない
ということを知ることが信仰である。
 
信仰の成長とは
決めつけを避けて成長を期し
神へ祈ることを知る「人に帰る」ことである。
人間の温もりと潤いを失いかけた心に
人間らしさを
神の支配の意識によって
キリストの愛によって取り戻すのが信仰である。
 
 さもなければ
 信仰に熱心であればあるほど
 信じれば信じるほど
 人の器は
 土の器?から神の器を目指すことになり
 土の器に秘められた人の信仰は
 神の器に背くだろう
 そして人知信仰が破壊してゆくのは
 そういう土の器?すなわち人の思いこみ信仰に他ならないのである
 
善き信仰は
自らの土の器とその中身を
神によって鍛えられ
神のもとで育てられることを喜ぶだろう。
 
 
(2011年12月02日、また同日若干修正、失礼)
(2019年06月01日、修正)
 
(2020年07月09日、修正再録)
 
 
近況:
テレビの放送の「命の助かる可能性の高いほうに移ってください」みたいな言い方が、何となく縁起でもないような気がしていましたが、被害のニュースや映像が増えてゆくと、さすがに、災害においては、そういうことを考えるのが、いちばん大事なんだと思うようになってきました。今のところ、うちに被害はありませんが、報道では、長崎県も避難した人は少なくないようです。
(7月8日午後11時20分現在)
 
 
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