ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  楽山の企み3
 
 講演会について(幸福の科学とキリスト教)
 2020年07月28日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、白々しくも、キリスト教を褒めています。このような、あざといことを、平気でやってのける楽山には、同情は禁物です。マイナスを言って、プラスを言ったら、ゼロだ、つまり、責任はないという幼稚な姿勢を持っています。実際は、いい加減で当てにならないということです。
 
キリスト信仰を、後追いで褒めればいいじゃろ・・なんてのが通用すると考えるのは甘いのです。少なくとも、人間なら反省が必要です。それを、ずっと、楽山は、言葉だけ反省と言って、反省したことになったと思う幼稚さなのです。楽山が何を書いても、そこには、人格の未発達が表れてきます。
 
楽山は、言葉だけ、反省、有り難い、などの褒め言葉を平気で使ってきます。実際には、他者を、あざ笑っている軽さが見られるので、褒めるのは三文芝居です。反省したり褒めたりする心性はなく、ペテン師は、だますために、言うだけならタダとばかり、嘘を吐くのです。
 
楽山は、批判をかわすために、キリスト教なんて最初から分かってる?という思い込みからの詭弁です。言葉だけ、好きなように細工してくる楽山の言を、真に受けないでください。嘘を吐くことに全く罪悪感がないのだろうと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の典型です。
 
 
以前、三浦光世氏の講演会を聴きに行ったことがあるのだが、その時に印象的だったのが、会場には老若男女、実にさまざまな人々がいたことである。体の不自由な人も多くいて、ここは幸福の科学(HS)とは全然ちがうと思ったのだった。自分はHSの講演会(90年代)で、体の不自由な人が多くいるのを見掛けたことは無かったので、この相違点はすごく印象に残った。
 
(ネットより)
三浦光世(みうら みつよ、1924年4月4日 - 2014年10月30日)は東京都生まれ、北海道出身の歌人。小説家・三浦綾子の夫であり、財団法人三浦綾子記念文化財団理事長、三浦綾子記念文学館館長を務めた。
正岡子規の影響により歌誌「アララギ」に入り、歌人として出発。1949年、キリスト教(プロテスタント)の洗礼を受ける。1959年に堀田綾子(後の作家になる三浦綾子)と結婚。闘病しながら作家生活を送った綾子を口述筆記などで支え続けた。綾子のデビュー作『氷点』のタイトル発案者であるほか、1926年の十勝岳噴火を題材に『泥流地帯』を執筆することを提案した。1966年に旭川営林署を退職。
1999年、妻綾子とともに日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。
趣味は将棋で、アマ六段の腕前。2006年より社団法人北海道将棋連盟理事長を務めた。キリスト教関連の著書もある。日本キリスト教団出版局「信徒の友」歌壇選者。
2014年10月30日、敗血症のため死去[1]。90歳没。
 
自己中は、自分は知っている、分かっている、という自意識と自己顕示欲があるので、無根拠に説教をしたがり、インテリぶってきます。特に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、自己満悦の気分だけで書いてきます。丁寧語や読書家気取りに騙されないでください。
 
知らない人に、やさしく教えるのではなく、偽インテリの楽山は、心からの慈愛はなく、自分は知っている、あなたは知らないのですか、とでも言いたげに、自慢して得意になっているのです。こんな本も読みましたと自慢しているだけです。だから詳しい説明や解説が出来ません。
 
HSとの相違点を、「体の不自由な人も多くいて」「すごく印象に残った」という褒め言葉だけで、言い得たつもりになって、満悦するのでしょう。自己愛性は、言論の、あらゆる点と線と角度で、表れてきます。そうして、やさしく説いたつもりが、ピント外れになるのです。
 
事情が違うだけで、みな、平等であり、弱さという共感する立場から、他者を疎かにしないということであるのに、楽山は、憐れみの話にして傍観しているところに、どこまでも上から眺める立場しか持っていないことが表れてくるのです。
 
楽山は、未熟とか弱さとか傷とか欠点とか悲しみとかに全く共感できない人なのです。だから、自分については、成熟、強さ、正しさなど、芝居するしかないのでしょう。その高慢な精神を糊塗して隠すかのように「すごく印象に残った」という飾りをつけることしかできないのです。
 
楽山は、HSをネタにして、こき下ろし、ここでだけ、キリスト教をネタにして、持ち上げて、結局、自分はちゃんと分かってるんです、と言いたくて、実際は、愚かさを際立たせるだけで、滑っているのです。いくら書いても、何も良くならない自己中の世界に、楽山は、自我と肉体だけ生きています。
 
 
HSの教えには、病気の八割は悪霊憑依が原因になっているというものがある。心の中に悪想念が凝り固まっているから病気になるという考え方もある。白隠禅師の霊言では、何々の病気は前世で人を殺したカルマだとか、こういう性格だと痔になるとか、そんな風な発言が多くあった。大雑把に言えば、HSの教えは、心が正しいと健康で幸福になるが、心が間違っていると悪霊に憑依されて病気になり、不運続きになるということである(最近では、正しい信仰〈HS信仰〉を持っているとコロナにならないとか、信仰免疫とか言っているらしい)。
 
心という言葉から、恐ろしいほど、"霊" という言葉を使いまくった辻褄合わせです。霊が分かるっぽい?自覚の楽山は、多くを霊に結び付けてきます。このように、楽山個人カルトは、基本から、超常言葉を語ります。楽山が無視しているのは、人間の温もりと潤いです。
 
この "霊" というのが、楽山の子ども時代から、例えば仏様の心が分かると書いていたように、大好きな言葉なのです。宗教を怪談のように超常言葉で表して、温もりも潤いもないものとして、机上の字面の辻褄合わせだけの記事を、宗教を語るかのように書いてきたのです。呆れるほどの的外れです。
 
 
だから、HSでは病気の人の周囲は微妙な空気になる。信者仲間が病気になったときもそんな風になる。ものをはっきり言う信者であれば、微妙な空気をはねのけて、病気だったり、不運続きの人に向かって、心の間違いを注意することにもなる。したがって、HS教義をある程度知っている人が病気になったり、不運続きになれば、支部内では肩身が狭く、居心地の悪い思いをすることになる。
 
人間性を無視して、霊的な何ものか・・ばかり考えていると、派生してくるのは、現実無視と、さらなる超常現象解釈の拡張になります。結果から、霊?という魔法の解釈になり、救済とは逆方向にもなるでしょう。その間違いに気づかないのは、霊が分かるっぽい?自覚からの、楽山だからです。
 
楽山の因業は、霊が分かるっぽい自覚から、妖怪やお伽噺のフィクションに興味が偏って、人間性について感じることも考えることも出来ないことが、キリスト教についての、気味の悪い解釈や、誇大妄想的な、いちゃもんだけになってゆく過程と呼応しています。他者を批判しても、自分を見ない人です。
 
 
一応教義には例外事項も用意されていて、心が間違っていなくとも、悪霊に憑依されていなくとも、病気になったり不運な目に遭うこともあるとしているが、相当なご都合主義の性格でもないかぎりは、自分は例外であると信じきることは難しく、やっぱり肩身は狭く、いたたまれない気持ちにならずにはいられまい。
 
憑依のことを言っていますが、そうでないのは、例外と言い、それを、抵抗もなく、楽山は、使って「ご都合主義」と書いて、信じるのが難しいと、信じることについて整理できないのか、くどくどと混乱した文章になっています。ねじれたHS批判に、楽山の本性が現れてきます。
 
それは、楽山自身が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの自分信仰というカルトだからでしょう。楽山の怪しさは、いたるところに表れてきます。元々が、霊能者気取りで出発している楽山は、霊が分からない人を蔑み、一方で、現実に必要な心の問題を無視してきたのです。
 
 
自分が「ヨブ記」に興味があるのは、多分このことが遠因になっている。「ヨブ記」を知るきっかけになったのは、三浦綾子のエッセーで、夫婦そろって体調を崩して床についているときに、知り合いから何かの祟りではないかと心配される一方で、他の人からはヨブ記を読むことをすすめられたという話を読んだことであるが、三浦綾子にヨブ記を教えてもらったのは本当によかった。おかげで、実際に「ヨブ記」を読み、次には内村鑑三の「ヨブ記講演」を読み、それによってHSで感じた違和感の正体に気づくことが出来た。
 
体調を崩したときに、ヨブ記が益になるのでしょうか。ヨブが回復したからでしょうか。人は、良いことを神のわざに、災いを悪魔の仕業にしたがりますが、ヨブ記の大きなテーマは、神は、人に、災難や不幸の意味を、いちいち説明しないのだから、恐れをもって神に任せよ、ということです。
 
前に、楽山は、ヨブ記のことを書いていましたが、到底、読んで理解しているとは思えない記事でした。解釈も拙劣で、神と人の関係を考えることが出来ていないと判断されるものでした。だから、「本当によかった」「気づくことが出来た」という単純な言葉しか書けず、それらは、全部、嘘でした。
 
楽山は、解説、説明、説得する、ということが出来ないのです。これは、才能や能力云々ではなく、自分に満悦していて、深刻に疑問を持って考察できず、考察と情緒を深める意志を持てない自己愛性人格障害NPDだからです。それで、クレームを付けたり、大袈裟に褒めたりするのでしょう。
 
 
前の記事で、キリスト教の本を読むことで、HSのマインド・コントロールから脱することが出来たことを書いたけれども、これもその一例であると思う。キリスト教はカルト対策に大きく貢献しているという話は聞いているけれども、こういう実体験からそれも納得である。
 
キリスト教とキリスト信仰を否定し、おとしめてきたことについて、その無理解によって、反省もしない楽山ですから「キリスト教はカルト対策に大きく貢献している」「実体験からそれも納得である」は、反省した、よかった、と同様、決して、真に受けてはいけない楽山の辻褄合わせに過ぎません。
 
まるで何かに誰かにゴマを擂っている感じの、世辞の印象です。楽山は、言動がバラバラになって、統合した人格を欠いたブログの流れになっています。結局は、解体に向かい、スクラップに、鉄くずに、ゆくゆくは、廃人になってゆくのでしょうか。
 
楽山は、自分はちゃんとわかってるんだと示したいようですが、実質がまるでなく、自らに溺れて、自らを見失い、あちこちから噴き出してくる矛盾に、その場その場で言い訳をする亡者であります。本人が気づかないところで、信仰ではなく、悪意と病気が進行しているのです。
 
反キリスト、反宗教の、病的ナルシスト、という評価は、後追いの付け足しの、おべっかや世辞や褒め言葉では覆ることはなく、破綻百出になり、むしろ、強化されてきました。今後も変わることはないと思います。楽山は、公害を弁明するのに必死な加害者のようです。
 
楽山は、反省していると思わせるために、よかった、気づいた、納得である、といった勢いだけの肯定の言葉を並べてきます。それで、いたるところに深みのなさが表れてきます。だまされないでください。今までのことから、楽山は、真逆であり、無反省と無責任の権化のような人です。
 
だいたい、知りもしないキリスト教を、けなし、そして、ちょろっと本を読んで、ほめる、なんてのは、ありえないことです。知識は、いくら積んでも、信仰を保証しません。信仰は、心の温もりと潤いに生まれるものです。楽山にはそれがないのです。思いやりと共感がないのです。
 
信仰は、共感と悲しみを知る心を持たない楽山には生まれません。楽山は、信仰を語ることなど出来ないと思います。誰も、本をちょろっと読んで、キリスト教とは・・云々、などと得々と語るような楽山のような悲惨な有り様になってほしくないと切に思います。
 
悪名が、よそに向くことを期待しているのか、誰かが、同情してくれるだろうと思っているのかもしれませんが、方向がバラバラで偽りに満ちた楽山の言は、流れを知っておれば、わざとらしく、白々しくて、書き続ければ、いずれは、誰もが気づくことになります。楽山は、早く、書くのをやめるべきです。
 
楽山は、まだ、何か、解説か評論のようなものが書けると思っているのでしょうか。楽山は、混乱と疲労と苛立ちと迷いしか与えてこなかったのに、頷く人に対しては、しめた!とばかり、みな、だましていいとでも思っているのでしょうか。
 
それに、何度も書いたけど、言論の責任をいっさい取ろうとしない態度で、言論は自由じゃろ・・とばかり、書いていいと思っていること自体、反社会的です。無反省で無反応であります。言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。
 
これは、社会人の当然のルールなのですが、やはり反社会人だから、正常な社会人たる自覚がないのでしょう。楽山は、ブログという囲いから発信すれば、安全に人をだませるとでも思って、高をくくっているとしか思えません。
 
キリスト信仰者は、神の前で、人から神への唯一の音信の手段として、精いっぱい正直に祈る人です。地上の人の世界では、神への音信は祈りだけですが、神の全知全能を思えば、神にとって私たちを知らない時と所はないという信仰ですから、私たちは、神の前で生きているということです。
 
その神の前で、キリスト教の信仰について、悔い改めることなく、故意に、悪意で、だますために、平気で、けなしたり、ほめたり、また、嘘を吐く者を、神が赦すでしょうか、否であります。楽山の、ふざけ芝居など、一日も早く止めてほしいです。
 
 
嘘が内燃する反信仰

嘘が内燃する反信仰
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月11日、再録+加筆)
 
 
 
  自由・不自由
 
拾うも捨てるも自由
与えられるも奪われるも不自由
感謝するも迷惑するも自由・不自由
 
一生を小屋の中で過ごし
与えられた餌(えさ)を食っている隷属の畜生
 
動物園の檻(おり)から抜け出して
街中を走りまわる狼狽(ろうばい)の獣(けもの)
 
水中で呼吸はできず
空を自由に飛ぶこともできず
鋭い爪も牙も厚い毛皮もないが
その代わりの物を作り出す知恵があり
その代わり作り出した物に苦しめられる
 
買うも買わぬも自由
来るも去るも自由
狂うも障(さわ)るも不自由
集まるも離れるも自由
集められるも遠ざけられるも不自由
 
自由は広漠たる平原に立ち
不自由は狭いトンネルを歩く
しかも区別できることの方が少なく
手に入れた物に縛(しば)られる
 
貧しさ豊かさ自由?不自由?
死ぬも生きるも自由かつ不自由
 
自由は全方位が空いていて未知だから
行く先を選んで走ろうとして
迷うことも飢えることもある不自由
つまるところ
自由ほど不自由なものはなく
不自由ほど自由なものはなく
自由ほど・・・
 
その両価性を循環しながら
存在するのにも存在しないのにも
払える代価はないのです
 
 
  世辞の思い出
 
あの日しらじらしいお世辞を言われて
真に受けて
しくじった
あのときから嘘をつくことを覚えた
実際はもっと前から嘘をついていたのだが
初めて嘘をつくということを考えた
自分から出る嘘に気づいてしまった
お世辞
世辞
世・辞
今も華やかな人々の国では
標準語なのだろう
その言語を嫌いになったばかりに
しくじり続けている
 
 
  恋・悪・夢・現実
 
ただ一度の恋
の夢なら何度も見た
恋の夢はいつも変
初恋の人が禿げていたりとか
しかし今日の夢は違っていた
 
その後に出会った人々の夢だ
悪い夢ではなかったのだ
夢はいつも変な脈絡だが
あとで手痛い目に会うような
冗談めいたお世辞も言われなかったし
高慢な自我の遠回しの攻撃も
きつい一言も露骨な悪意もなかった
 
むしろ快楽のような宴の夢だった
といって実際の彼らが格別
悪人というわけではなかったし
彼らの言動は更なるその後の成り行きに
具体的には何の影響も及ぼさなかったから
印象も薄く
彼らの夢は記憶する限り初めてだ
 
なのに目覚めた後の
顔を顰(しか)めたくなる脂汗のように
べっとりと付いてくるものは
また一日ゆがんだ放物線上に
投げ出されて落ち損ねて
また夢の裏側に目覚めるまで
付いて回り続けるのだろうか
 
洗面所に行って顔を洗えば
針のように刺してくる光の明確さ
これが現実だな
間違いなく
現実
だな
・・・
 
 
 
楽山が、シリーズもののように、書いているのですが
 
 「ブログ村騒動」発言集(ピア健論争)
 2021年08月10日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。逐一批判はしません。
 
楽山は、また、似たような引用の記事を書いています。数年前の騒動とやらを、まとめたいのでしょうか。今問題なのは、楽山が、原因なのですが、その後始末の責任から逃れるために書いているとしか思えません。楽山は、それどころではない状況を無視するために他者のことを書いているのです。
 
今回は、他者からの引用のようです。例によって、記事の引用はしません。それにしても「>」が多すぎて、どこからどこまでが他者の発言なのか不明瞭になっています。記事の体裁だけ作りたいのでしょうか。あざとく、嫌味な、逃避だと思います。厚顔無恥&無知の策略です。
 
前からの疑問ですが、今さら、楽山に読者がいるのでしょうか。誰かが読むとは思えないような、不躾で、読みづらい引用で、自分の正体隠しが出来ると思っているのでしょうか。見苦しい限りです。自分の問題を無視して、他者のことばかり問題にして書きたがる体質が、剥き出しです。
 
 
 
楽山の成りすましが疑われる taka のツイッターサイトですが
 
去年の日付になっているのは引用元のツイートのほうで、リツイートは、掲載位置から見ても、最近であろうと思われます。
 
takaさんがリツイート
三浦春馬 & STAFF INFO
@miuraharuma_jp
·2020年1月29日
明るみになる事が清いのか、明るみにならない事が清いのか…どの業界、職種でも、叩くだけ叩き、本人達の気力を奪っていく。皆んなが間違いを犯さない訳じゃないと思う。 国力を高めるために、少しだけ戒める為に憤りだけじゃなく、立ち直る言葉を国民全員で紡ぎ出せないのか
午前1:33 · 2020年1月29日·Twitter for iPhone
 
楽山は、恐れを知らないようです。自殺した芸能人の、スタッフの言葉を、自己正当化のために、リツイートで悪用しているのです。厚かましさが、恥を忘れているようです。このように恥知らずの楽山が、何かの切っ掛けで、犯罪行為に走りやすい病質です。
 
楽山の場合のような、悪については、明るみに出すことが必要であり、隠すことが汚いのです。常識です。「皆んなが間違いを犯さない訳じゃない」・・詭弁です。過ちや間違いと、楽山の、故意に人を傷つけて快感を得るサイコパス的な罪は、当然、違います。後者は、許してはいけないのです。
 
正義を論じているふうな発言を選んで引用しているのが、楽山の隠れ蓑なのでしょう。楽山のような、罪を認めず、しらばっくれ続ける自己愛者に、立ち直る言葉や、励ましの言葉などは、当然、禁忌であります。故意・作為・悪意による悪だくみに対しては、批判なので、時効もありません。
 
楽山の無責任な自己愛性パーソナリティ障害NPDの体質が、表れていると思われます。殆ど、他者の言葉であること、殆ど、自分の意見を書かないこと、殆ど、放り投げて終わり、という投げ捨て投稿であることなどが、最近続けざまに書いている楽山ブログの投稿と共通します。
 
楽山は、まだ、だませると思っているようです。もはや、楽山が、常識人のような真似をすることなど、通用しないのですが、プロのペテン師なのでしょうか。ピュアな詐欺師のクリミナルマインドなのでしょうか。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
日常的に嘘を吐いている楽山は、だんだん演技的になって、俳優にでもなった気分なのでしょう。寒くなるような下手くそ芝居で、善人を気取ってきます。評論家を気取ってきます。生きていることに本音がなく、人のいるところでは芝居をするようになるのでしょう。現実には、嘘吐きでしかないのに。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはその通りだ。順調なら変える必要はなかろうが、行き詰まってるなら変革の時が来てるということなのだろう。
そういえば十代の頃、『風と共に去りぬ』で、国が滅ぶ時と興る時がチャンスだという話を読んだのが未だに記憶に残ってる。
 #本日の格言
ryuho-okawa.org
厳しい時代はチャンスの時代
厳しい時代はチャンスであり、思い切って改革をする時期なのです。 それをすれば、未来は、まだまだ、たくさん開けるのではないかと思います。
午後9:50 · 2022年8月19日·Twitter Web App
 
楽山には「順調なら変える必要はなかろうが、行き詰まってるなら変革の時が来てる」などと、他者に偉そうに言う資格はないのです。「滅ぶ時と興る時」・・自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のままの楽山には、興る時はありません。どんどん滅ぶ時が進行中です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「○○は認めがたいので、そのようには思ってはいません」
これはある意味、信仰の本質かもしれん。人は信じたいことを信じ、信じたくないことは信じないということ。一言で言えば、願望充足。
#本日の格言
ryuho-okawa.org
政治の理想
「ある民族が呪われていたり、生まれつき原罪を持っていて迫害されたりしなければならない」というようなことは認めがたいので、そのようには思ってはいません。それぞれに可能性を持っており、そういう意味での「平等性」は持っています。 ただ、「結果の平等」だけを目指すのが政治の理想だとは思っていません。目指すべきなのは、「機会の平等」「チャンスの平等」であると思うのです。
午後9:44 · 2022年8月19日·Twitter Web App
 
「人は信じたいことを信じ、信じたくないことは信じない」・・これは、楽山の本質です。楽山は、また不幸に他人を巻き込もうとしています。信仰を得たら、都合のよいことばかり起こるなどという幼稚さは、信仰にはならず、カルトになってゆきます。小学生レベルの偏見で信仰を否定してくる楽山です。
 
「一言で言えば、願望充足」というのは楽山の願望~欲望です。まともな信仰者は、全ての願望が上訴腐れるわけではないことを知っています。都合のよいことだけ信じるのは信仰ではありません。願望の中で御心に適うものを学習し成長することが信仰の目標でもあります。
 
願望~欲望の充足だけを信じるのは、楽山のような自己中のケダモノの所業であります。楽山は、信仰において大切なことを何も知らないので、あざ笑うかのように、足りない知恵と、無学を、一般則のように、振り回すしかない恥知らずなのでしょう。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
悟りを開くと、この世的なものに執着しなくなるというのは本当だと思う。
でもそうすると、高級時計の自慢したり、名誉にこだわって名誉毀損の裁判したり、霊言・講演回数や著書数を誇ったりするのは、悟れてないことになりそうだ。
ryuho-okawa.org
「真に知る」ということ
真に知るということによって、 この世的なる価値といわれるものが、 ことごとく、蜃気楼のごとく淡く、色が褪せて、 取るに足らないものに見えてくるのです。 そして、ただ一筋に、仏法真理の道を歩みたくなるのです。 そうならなければ本物ではありません。
午後9:39 · 2022年8月19日·Twitter Web App
 
信仰は「執着しなくなる」悟りではなく、最も大切なものに気づくことです。楽山には、その大切な気づきがないために「高級」「名誉」「霊言」などに執着するのでしょう。悟れていないどころか、何も気づかずに、何も知らずにいるのです。それは自らが「取るに足らないものに」なってゆくからでしょう。
 
楽山が執着しないのは、他者の心です。だから、思いやりもなく、共感もなく、反省もしないで、我欲を通そうとし、通るものだと思い込むのです。楽山の信仰についての見方は、全て、幼稚なお伽噺の蜃気楼と言ってよいと思います。それを平気で刷り込んでくる気が知れません。正気ではないのです。
 
 
 
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※ 光への工事が終わりました。パパパパと、ほぼストレスなく表示、・・速いです。
 
 
  楽山の破正顕邪2
 
 「ブログ村騒動」発言集(外伝 破邪顕正)
 2021年08月11日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
執拗につづく「騒動」シリーズのようです。楽山が書く理由は不明ですが、「数年前」と書いてありますから、他に書くことがないときに、何も書けなくなったときに、こういうことをするのだろうと思うしかありません。書いて、説明しないのが、楽山の特徴です。
 
一連の記事において、引用の「>」の使い方が雑なので、楽山のコメントなのか、後のほうにある別のHNのコメントなのか、分かりにくいです。責任の所在を不明確にするための作為でしょうか。こちらは、推測して、引用し、楽山だけを批判しています。
 
 
*まえおき
数年前、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内において、HS信者同士の争いがありました。通称、「ブログ村騒動」です。
この騒動ではさまざまな争いがありましたが、その背景には「破邪顕正」という考え方があったようです。今回はそこに関連した発言をまとめました。
編集方針は前記事と同様です。名前のない文章についてはアドレスをみれば、発言者またはその派閥の見当はつくだろうと思います。
 
学があることを見せる、いや、見せかけるために、用語の説明をしない楽山、今に始まったことではありません。「破邪顕正」とは、漢字を見れば、邪を破り正を顕す、ということだから、だいたい、分かるとは思います。つまり、意味としては、新しくはなく、当たり前の正義を表しています。
 
(ネットより)
はじゃ-けんしょう【破邪顕正】
誤った考えを打破し、正しい考えを示し守ること。不正を破って、正義を明らかにすること。▽仏教語。「破邪」は邪道・邪説を打ち破ること。「正」は「せい」とも読む。
 
相変わらず、プロデューサー気取りか、編集長気取りで、楽山は、自分が、なれない、できない、通用しないところを、お伽噺のように、独り芝居で演じて、満悦するのでしょう。楽山の人生は、芝居で出来ており、真実・真理・現実がないのだと思います。「破邪顕正」に、ずっと背いた来たのが楽山です。
 
 
*これもおもしろい
上とは違った意味で、これもおもしろい。口が悪いことで有名な英さんを正義感が強いとべた褒めした人が、コピペ攻撃で有名なポン吉さんを正義の人といった人を批判するという……。
 
このように、楽山は、他者の名を出し、他者を指して、他者のことをとやかく言って、邪悪だとけなして面白がることしか出来ません。自分を見ない者の地獄が、既に表れているのです。
 
 
 
選挙中おじゃまします
「某掲示板におかしな書き込みがある。アモーレさんのブログのコメント欄が発端」という連絡をいただき、確認のためにおじゃましております。
かつてLiberty webで、英の降魔成道さんと喧々諤々の議論をしていた、私 着ぐるみと他のお二人とも、アモーレさんのブログで、英さんに対して謝罪したことはありません。
今後英さんに対して、謝罪することもありません。
一体何が原因の謝罪かも理解不能です。
最近忙しくしておりますので、幸福の科学会員さんのブログに訪れることも殆どできませんので、無責任な書き込みに、これで終止符を打てたらと思っております。
 
楽山が、謝罪したとしても、現実感のない楽山の嘘ですから、無責任な楽山への批判は、無視が長期にわたって訂正不能であることを確認した時点で、楽山への信頼度ゼロが既に始まっており、楽山の記事がなくなるまで、止むことはないでしょう。信頼回復は、楽山の場合、ほぼ不可能だと思います。
 
 
*破邪顕正と公開処刑
ひょっとしたら、レオさんたちが法友批判しているのは破邪顕正の一環なのでしょうか。
そうして、レオさんたちの法友批判(破邪顕正)を、ぽん吉さん、コウさんらは「公開処刑は止めろ。法友を屠るのか」と非難しているという……。
レオさんたちの法友批判は、破邪顕正なのか、公開処刑なのか、それとも他の何かなのか、これはなかなか難しい問題です。
*結果から逆算すると
とはいえ、リバティwebのコメント欄が閉鎖されたという結果からいえば、そこでは破邪顕正というより、荒らし行為が横行していたんだろうなあとは思います。
 
楽山の記事とコメントは、人間離れした楽山芝居から楽山自身への、"破正顕邪" とでも言うべきものです。言論と言論者を、宗教と宗教人を、公開処刑ではなく、謀殺~暗殺してゆくことになる、というより、楽山が、自身の鈍麻病を伝染させることによって、実際、やってきたことです。
 
つまり、楽山というペテン師の言は、無反省に、無責任に、評論家気取りやインテリ気取りなど様々な気取りや、見せかけの丁寧語、ボンヤリ言語、トホホ言語、三文芝居、などによって、真面目に真実を追求する人と努力に対する、悪質な荒らし行為であります。
 
3年以上批判しているのを承知の上で、それを無視して、平気で、自分の言いたいことだけ書き続けられるという楽山の心性には、いつも呆れます。不都合を無視、罪悪感なし、ということでしょうが、それにしても、人間としての性質を、良心を、どんどん捨ててゆく楽山です。
 
私が関わりのないカルトの話でも、楽山という無神教カルトの話でも、一貫しているのは、人を欺くという罪悪が善を装うという偽善の色彩を帯びてくると、人間性がなくなり、いくら丁寧語を並べても空しく、ケダモノの臭気だけが、悪臭とともに噴き出してくることでしょう。
 
 
臭気はケダモノ

臭気はケダモノ
 
 
(2021年08月12日)
(2022年09月10日、再録+加筆)
 
 
 
以下は、失恋の詩ですが、なぜか、ここに載せたくなりました。対話というものが、成立しない状況は、いろいろあります。また、言葉というもののもたらす罪もあるでしょう。
 
真実と詩情から離れれば、世の中には、言葉に、対話に、悪意と嘘と詭弁を載せて運ぶ病原菌のような人もいるのでしょう。腐敗は感覚を鈍らせ、悪臭には慣れるからです。
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  古い端末
 
誰かを判別し
誰かを裁いたかのような日々の終末
誰も愛さなかったことの結末は
ひとつの端末のように
ここにまだ残っていて
狭い箱の中で
飛び散る暗号をころがしては
間違った解読を遊んでいる
 
遠い遠い昔
「一応働いてもらってるから」
君は笑いながら言ったのち
求める位置へ去っていった
 
一応働かなくなってしまって
たまっていくほこりを払うように
たまに体を動かしてみる
腰と首と頭と
どこからどこまでだろう
解読できない痛みが
壊れかけた端末に年齢を刻み
安否だけは知りたいけれど
不意に現れるデータひとつひとつの
とびとびに欠けた部分の
傷つけたり壊したりの
入力を拒み
修正をできなくしている
もうこの顔しかない
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までの記事の流れに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
真実は、飾る言葉ではなく、事実でも喩えでも、人間性の精いっぱいの叡智なのです。決して、偽善者やカルトやサイコパスを飾るためにあるのではありません。楽山の妄想は、どこまでも言葉と人間に対する侮辱であり、正直の結晶を、病原の伝染から腐敗に変えてしまいます。
 
 
 
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NTTより電話がありました。今日が、光接続の工事です。私はネットの仕組みが分かっていないので、ブログを休むのかどうか分かりません。
 
 
 「排泄の口、誰の前で幼子?」3
 を修正して再録します。
 
 
  排泄の口(改)
 
神も聖書も謎だらけですが、
救いと恵みの後に先に戒めがあっても
祈る姿勢くらいは持っていられるでしょう。
 
しかし信仰と聖句について
言行不一致の不正直な人が
同じようなことを言ったりすると
なぜか違和感から不快になることさえあります。
 
自分も言うかもしれないのに
だから
悔い改める正直さだけは持っていたいです。
 
人間はおかしいところがいっぱい、
不完全、欠点だらけ、罪深い、ちょっと変、一面的、
など、いっぱいあって
つくづく聖なることを語るには向いていないと思います。
 
人間としては
聖なる言葉・恵み・教えを説くより
聖ならざる自らの不完全を語るほうが相応しいと思います。
それによって
聖なる御方に寄せる希望は生まれるでしょう。
 
自らの不完全さすなわち罪深さを抜きにして
ありがたい恵みばかり説くのはカルトの所業です。
 
慢心して
ときに強迫的に
神の言葉だからと思いこみ信じ込んで
自我の教条の奴隷になっている者がいます。
 
意地が強くて悪い頑固な人間が
聖なる神の救いを得々として語る口は
汗腺か皮脂腺か
あるいはもっと臭くて不潔な
しぶきを飛ばす排泄の管になりうるのです。
 
 
 
  誰の前で幼子?(改)
 
聖句「幼子のように」が
「素直に」の意味であるとしても
それはキリストの前でのみ成立する姿勢であります。
そしてそれは正直さに他なりません。
 
神にキリストに
完全に従順であることは人間には出来ません。
だから悔い改めの祈りがあるのです。
 
キリストの言葉を今の時代
直接聞くことは出来ないのだから
実際には説教者の語る聖書解釈や信仰の話を
信仰者は自分の思いや経験と照らし合わせながら
自分の罪や悔いや欠点に思いを致すことによって
正直に祈り
赦しと導きを乞い願い
信仰の成長を期待することになります。
 
したがって「幼子のように」は
人である説教者の言うことを素直に
さらに無条件に受け入れよという意味にはなりません。
 
ましてや
疑問や反対意見があるときに
その発言を封じる説教者は偽善者であります。
 
そういう説教者は信仰者を
幼子に対するように子供扱いして
キリストの代弁者として
神の権威の立場から物を言うでしょう。
 
キリストが語るなら
幼子のように素直に聞くのが信仰者だが
説教者はキリストではありません。
 
説教者はキリストではなく人に過ぎないのだから
説教者が語ることを
決して「幼子のように」素直に鵜呑みにしてはいけません。
 
巷にもそして特にネットには
おかしな説教者がいっぱいいると思っていたほうがよいでしょう。
 
従順な人を悦び迎え
従順でない人に不機嫌になったり冷たくなる説教者は
ひたすら正体を隠しながら
往々にして偽りを聖句の字面だけで飾り
「幼子のように」隷属することを求めてくるのです。
 
そのような説教者を裸にしなければなりません。
 
ただ御一人の飼い主たるキリストに
飼われて生きる羊たる信仰者は
少なくとも
そのような説教者に近づいてはいけません。
 
飾らず偽らず隠さない説教者は
信仰者に教える人ではなく
信仰者とともに考え
ともに思い悩む共感者でいなければいけません。
 
「幼子のように」は人に対する従順を意味してはいません。
 
また、神に対する従順は人には確定できません。
 
ゆえに「幼子のように」という聖句は
先入観や固定観念にとらわれていない幼子のように
反省と修正と学習を可能とする虚心をもって
聖書の教えを受け取って考える心を意味するとしか言えないでしょう。
 
このことは説教者だけでなく
信仰者が信仰者や求道者に語るときも同様であります。
 
 
自分を含めて、人のもとにあれば、人を恐れるが、
 
神のもとにあれば、神のみを恐れる。
 
 
心貧しさ = 余計な先入観のないこと  = 柔軟で成長可能 = 幼子 =  敬虔
 
精神の貧困= 余計な先入観しかないこと = 固着と成長不能 = 偽善者 = 傲慢
 
 
少なくとも現代において、神・キリスト・聖霊は、目に見えません。神にお任せするのは、非力でも人が精いっぱい、できる範囲で、正しさを求める言動に努めた上でのことです。神にお任せすると言って、努めず、学ばず、考えないのは、安穏教であって、キリスト信仰ではありません。
 
人には考えることと感じることがあります。このことに無頓着になっているような信仰はありません。神は、人を、感じて、考え、行動する存在として造られたからです。聖書の、悲しみ苦しむキリストを忘れてはいけません。精いっぱいを尽くしたのち、祈りに答えて、安らぎは与えられます。
 
"精いっぱい" というのは、作業や結果の量ではありません。
 
マタイによる福音書22:37,39
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
 
"精いっぱい" は、個人によって違います。病気の人は治療と療養で精いっぱいでしょう。怠慢で人をだましてあざ笑う楽山などは、精いっぱいだったことは一度もないのだろうと思っています。
 
 
信仰は道 道は学習 思い込みの固定は妄想

信仰は道 道は学習 思い込みの固定は妄想
 
 
(2011年)
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2022年09月09日、再録+加筆)
 
 
 
  ふくらむ陰と影
 
雨に濡れ風に飛ばされ日に焼かれてもなお
個は個でしかあり得ないのに
ふくらみすぎた陰(かげ)の中に
ちっぽけな影が没してゆく
 
個は集まり固まり
個々は要素の数になってゆく
 
にもかかわらず影は
ふくらみすぎた陰の中へ向かう
埋もれてゆく虚像として
 
しかし当然そこには影の存在する場はない
したがって凍結も燃焼もできないまま
伝えようとする目論見は
陰という巨大な虚像の中で
鏡の枠に括られた自分が
常に自分とは違うように
すでに語るに落ちて足りない
 
だから個よ
たったひとつの
あまりにも限られた真実でさえ
もはや死ぬことでしか伝えられない
しかし個よ
しかも死をもってしても伝えられない
 
さらに自(みずか)ら死を選ぶことは
自らにまつわる真偽
と虚実の伝達をも
ともに殺してしまうことに他ならない
 
 
  眠りの傾斜
 
今にも折れそうな枝に吊した
虚脱の揺籃に
身を委ねて眠ろうとする
永久(とわ)
果てもないエロスの海は
まだ跳ねている夢でいっぱい
霞(かすみ)のように
手繰(たぐ)る十進法の指を折り
待ち侘びて怠い
漠(ばく)のうちに
崩れ落ちた楼閣
残骸が潤いを求める
ときに休息の伽(とぎ)の傾き
海と揺籃
 
 
  約束のない地へ
 
無情でも無常でもなく
速度を測れる暇も与えず
出会ったものは皆お互い
それぞれ一目散に駆けてゆく
 
宝の地図を焼き捨てて
地図に名のある町を捨て
すべての飾りを脱ぎ捨てて
古びた預言を拭い捨て
もはや信じられるのは
されど信じられないのは
歌が止むときだけだ
 
 
  いだかれて眠るとき
 
昔覚え
昔忘れた幼い言葉に
包まれて眠る夢の中に
生き生きと遊んでいる
雫の時
まるで未知のように
幼子とひとつ
そのときは長さではなく
そのときは広さではなく
そのときは名前ではなく
滴り落ちる前に
影絵のように切り抜かれて
短い目覚めの朝
心残りに細い記憶を
たどれば呟くのだ
何か低く
きらめいていたと
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
Pさんの書き方だと、一般のアッパレな「高校生」だと思えるけど、実際は占いビジネスで稼ごうとしたり、HS支部長からもう関わりたくないと言われてる特殊な人で、手放しで褒めるのは無理なんだよなあ。
Pさんは、印象操作のために重要な事実は伏せて報道するという悪徳マスコミと同じやり方してる。
午前7:15 · 2021年9月7日
 
楽山が、印象操作を批判しています。今まで、人それぞれ、自分を貫く、個人の自由、などといった広い意味の言葉で、まともだと印象を吹き込もうとしてきたのは、楽山であります。この3つ、いずれも、公共の福祉に反しない範囲、迷惑かけない範囲、という条件が付くわけです。
 
このように、公共の害として、詭弁と印象操作によって、自己正当化を企んできた楽山に、他者の悪徳を批判する資格はないと思います。楽山は、恐らく、自分のしたことを記憶できないのだろうと思いますが、ならば、なおさら、平気で書いてはいけないことがあるはずです。
 
楽山は、若いのかどうか知りませんが、大人でしょう。決して、アッパレなどではなく、人のことを言える立場も器量もないと思います。褒めるどころか、今まで、やってきたのは、詭弁、嘘、印象操作、無視、無反省、無責任、・・どこまでも、追及されてしかるべき人です。
 
振り返って、私は・・と言えば、特に優れたところもなく、褒められたものではありませんが、そういう自分の有り様を、少なくとも、ある程度、折に触れて内省もしています。そういう自分を弁えてさえおれば、どこまでもハナタカな楽山に対して、批判を遠慮する必要はないと思っています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、自己顕示欲から、多数のHNを使って成りすまし、無責任に、あちこちで言いたい放題で、否定を言い、肯定を言って、断定していないから、責任問題は生じない、などと言っていました。そういうのは、混乱させるだけだと分からず、百害あって一利ないことを繰り返しています。
 
 
 
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  楽山のねっとり右翼2
 
 『餓死した英霊たち』藤原彰著
 2021年08月22日 楽山日記(LD)
 
 
楽山がネトウヨぶりを発揮して、戦争を不可抗力と主張して、危ない方向へ誘導したいようです。楽山は、その時点でアウトです。既に、あちこちでアウトですが。自己顕示欲だけの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)者が縋りつく右翼思想に付き合わないでください。
 
 
*きっかけ
もう随分前のことになるのだが、ひょんなことから知り合ったお年寄りと雑談するうちに、いつのまにか戦争の話になり、南方に行った兵隊の大半が餓死または病死したと聞いたことがあり、そのことについて書いた本はないかと探していたところ本書を見つけたので読んでみた。
 
戦争の話というのはトラウマを語ることにもなり得る重いテーマですが、「ひょんなことから」知り合って出てくるようなものでしょうか。そもそも、楽山のような軽薄な人が、深い経験を持つ人と語り合うなどということが、まず、信用しかねるわけです。
 
しかも、結局、記事の中身は、本を読んだだけの楽山の話であり、体験談とは別の話なのです。面談したというのは、また、成りすましと捏造の悪意で出来ているような、楽山の、インテリ気取りの、自慢したいだけの、作り話ではないでしょうか。
 
 
*概要
まず本書は前半において、ガダルカナル、ポートモレスビー攻略戦、ニューギニア、インパール作戦、フィリピン戦、さらには中国戦線でも餓死、病死が多かったとしている。太平洋での戦いだけでなく、中国での戦いでも食糧難、栄養失調に起因する死が多かったというのは意外である。
後半ではこのような悲劇の原因は、日本軍の補給・人権の軽視、精神主義の偏重、作戦参謀らの能力、人格的欠陥などが原因であったと指摘されている。これらはすべて著者の言う通りであり、もっともな理由なのだろう。
 
楽山の意図は、次に、明らかになります。「著者の言う通りであり、もっともな理由」と言いながら、全然、逆の方向に誘導してゆく、気持ちの悪さが表れています。何だか、右翼の誰かに言われて書かされているのではないかという感じもするような、下手くそな文章の運びでもあります。
 
これから、もっと、ボロを出してゆくのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害(自己愛性人格障害)の宿命でしょうか。柔和を装い、婉曲と詭弁と嘘を表してゆく楽山は、むしろ、自慢したいらしい思想モドキによって、滅びつつある自らの姿を表してゆきます。
 
 
*賭け?
ただ、日本軍が兵たちに降伏を禁じることなく、「もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われたのである」(p.265)というのはどうであろうか。
『人種偏見』(ジョン・W. ダワー著)の内容が真実だとすると、日本兵が降伏しさえすれば、米軍から人道的な処遇を得、餓死、病死、玉砕、自決以上に過酷な運命と対峙することにならなかったとは限らないのではなかろうか。この辺りのことはやはり大きな賭けにならざるを得なかったのではないかと思う。
 
「降伏しさえすれば、米軍から人道的な処遇を得、餓死、病死、玉砕、自決以上に過酷な運命と対峙することにならなかったとは限らないのではなかろうか」・・なんてまわりくどい言い方なのでしょう。過酷な運命の二重否定+否定疑問による肯定です。楽山のボンヤリ言語の中でも最も劣悪な長さです。
 
降伏を禁じることはない、降伏すれば助かったとは限らない、と言って当時の日本の軍部の戦争犯罪を、不可抗力として、免責したいという、ネトウヨらしい意図です。事実関係について、私は、よく知りません。しかし、情報操作の腐敗臭がプンプンしてきます。
 
本来、兵士に自決を勧める国は、ろくでもない国だと思います。楽山は、そういう詭弁の群れの中にいるのでしょう。しかし、いちばん臆病で、自己中で、戦争中でなくても、卑怯に言い逃れている楽山こそ、最も人間離れした自己中であり、戦場では最初に仲間を放って逃げる輩だと思います。
 
戦後の人間として、実際はどうであったかについては、詳しく知らないのだから、本を読んだからと、降伏したら皆殺しの恐れもあるみたいな書き方をして、疑問を投げておきながら偏向した結論を、ボンヤリ曖昧な言い回しで刷り込んでくる楽山が、最も邪悪であります。
 
それは、楽山が、今まで、嘘を吐き、詭弁を弄し、他者の意見を無視し、言うには言うが聞かないという成り立たない身勝手に偏重した態度で、反キリストの考えや、右翼の賞賛や、自己正当化の言を、重ねてきたという負の実績があり、その時点で、信頼度ゼロだからです。
 
楽山が何か書けば、決して鵜呑みには出来ず、その裏の意図があるということが、2年半にわたって、積み重なってきたのです。ここで、また、このようなインテリ気取りの発言を、平気でしてくることが、失敗や悪に不感不応で、何も感じないでいられる病質の表れだということです。
 
戦争は、決して是とはされません。その惨禍が、歴史として明らかになっていることを、ねじ曲げて正当化してゆく姿勢は、戦争正当化から戦争讃美へ向かう姿勢であります。それをしているのが、楽山というペテン師の反キリストのネトウヨとなれば、ますます、信用してはいけないと思います。
 
楽山は、反キリストのネトウヨから、本格的な右翼思想家として出世したいのでしょうか。今さら真面目に書いた姿勢を見せても、その根底にある腐った自己顕示欲と自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)は、否むべくもなく、楽山がどこにも立場のないことを示しているのです。
 
 
人類の恥 架空の演壇に立ってご機嫌のペテン師

人類の恥 架空の演壇に立ってご機嫌のペテン師
 
 
(2021年)
(2022年09月08日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
みんなの動画(動画省略)
@minnano_dougaww
·22時間
お母さんのいじめに対する教育が素晴らしすぎる…
午後10:10 · 2021年8月21日
https://twitter.com/minnano_dougaww/status/1429068465474727941
(このリンクは動作しないようです。)
 
いじめは、謝っても、傷は残り、完全に元には戻らないことがあります。謝ったからいいじゃろという言い訳は成り立ちません。あとで謝るような、悪いことはしないようにしましょう、という話であります。決して、謝っても無駄だから謝らなくていいという話にはなりません。
 
世の中には、楽山のように、何を言われても平気で同じことを言い続け、反省しない人もいます。訂正すらしない人もいます。この話は、一方で、そういう人の悪意を際立たせてもいて、そういう人は、さらに、救いがたいということを忘れてはいけません。楽山を相手にしてはいけません。
 
その根底には、病質として、自己中があり、罪悪感や羞恥心の欠如があるのです。楽山は、また、勘違い、あるいは、故意に、都合がよいと思ったのか、自分の罪が軽くなりそうだ、みんないっしょだろ、みたいな印象を吹き込もうとしています。楽山の印象操作に騙されないでください。
 
楽山のように、自分で語らなくても、婉曲表現や暗示で詭弁を仕掛けてくる人がいるという例です。楽山は、このように、自己の正当を暗示するために、言い訳みたいに、今までも本などから、都合のよい文言を漁っては引用して、自己正当化を試み、己の醜さを増幅させてきたのです。
 
 
 
  動物気分
 
人は鳴かない
時鳥(ホトトギス)が鳴いている
部屋の中までよく響く声だ
確かに「てっぺんかけたか」
とも聞こえるが
それより、・・ホットットギス、・・と
自分の名を唱えているようにも聞こえる
 
人は飛ばない
 
蠅(ハエ)が一匹
部屋の中を飛び回る
死んだ誰かの生まれ変わり
 
まだお恨みですか
 
でもまさに五月蠅(うるさ)い
スプレーで狙い撃(う)ち
二度外れ
三度目に命中
 
鳥の声は聞きながら無視
何の生まれ変わりだろうと
虫は殺して
せいぜい黙(もだ)すこと数分
 
またどこからか飛んでくる蠅
隙間だらけの家の外では
犬があちこちで吠えている
 
この町にどれだけの猫の眼差し
動物は何でも知っていて
知らない振りをする
 
ふと鶯(ウグイス)はまだ鳴いているだろうか
と徐(おもむろ)に出かける支度を始める
 
山に向かって
人は鳴けない
人は飛べない・・・から
 
 
  忸怩(じくじ)
 
怒りは常に自らを嘖む
烈火のごとく
仮借ない呵責である
 
繰り返してみるがいい
あらゆる初(うぶ)と
あらゆる甘さを廃された
否定しようのない道は
そこで完結し
進めぬ先を更に塞ぐ
それゆえ泣いても笑っても
人の顔は美しく
自らは常に醜い
 
怒りは嘖む
滑稽なほどに
火は常に焼かれている
 
 
  忸怩たるもの
 
独り思い倦(あぐ)み
独り遊び学ぶことしかできない
忸怩(じくじ)たるものよ
そのままでいいとは言わない
しかし今こうあること
しか考えられないあいだは
そうありなさい
 
さいわいなるかな弱きものよ
役に立たない力なき腕よ心よ
自らを責め呵(さいな)むものよ
 
烈々たる強き腕は未熟な腕を取り
助けることができるが
脆弱(ぜいじゃく)な腕や心を気づくこともなく
ずたずたに切り裂き潰すこともあるのだ
 
だからたとえ侮(あなど)られ嘲(あざけ)られ
さらには総ての嫌悪と憎しみが向けられて
死ねばよいと思われているとしても
今日一日のパンが与えられているなら
今日一日のうちに死んではならない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
共感性皆無で不感不応の自己愛者、楽山を批判するには、理路の正しさに努めるだけでなく、怨念か幽霊にでもなるような情熱~情念が必要です。楽山は、変性し崩壊してゆくプロセスにあります。企めば企むほどに失敗ばかりの楽山の人生を描くのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山の醜い虚栄2
 
 『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著
 2021年09月05日 楽山日記(LD)
 
 
聖書のいちばん大事なことを、全く理解していないのに、なおも、自分は分かってるつもりで重箱の隅をつついて満悦する楽山の、みじめな姿が、あらわとなっています。楽山には、聖書の知識はありません。いちばん大事な理解を飛ばして知識とは言えないからです。
 
既に浅薄だということがバレているのに、虚栄に走る楽山は、人間性の破壊された悲惨な姿を露呈するだけなのですが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山だけは、客観視ができないために、気づかないのです。見栄だけを張ることの醜さを、楽山によって学ぶことになります。
 
 
*通読
何年か前に本書を開いたときは難しすぎて読み通すことはできなかったのだが、先日また開いてみたら今度は最後まで興味を持って読むことができた。これはうれしい。本書の中で、特に印象に残った箇所について以下にメモしておきたい。
*熱心党
まず著者は、イエス在生の当時、その弟子に熱心党に属する者がいたという話はきっぱり否定している。
熱心党そのものはイエスの生きていた当時はまだ存在していなかった。あるいは、存在していたとしても、人々の間で問題になりうるほどの活動はしていなかった。
[省略]
マルコが福音書を書いていた五十年代(もしくは六十年代)になって、ようやく熱心党の活動が顕著になってくる。
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.93)
 」
「イエスの死からユダヤ戦争の勃発まで、約三十五年間であ」り、これはさして長い期間には思えぬかも知れぬが、日本の歴史にたとえれば「日本の一九三五年に、七十年の新左翼の存在を予測」できたかということにもなるし、この点を考えれば、この三十五年間という期間がどれほどの時間かは想像できようとのことである。そうして「熱心党の活動が顕著になってくる」のは、「マルコが福音書を書いていた五十年代(もしくは六十年代)」だという。
自分は、ユダは熱心党であり、イエスがユダヤ人の独立解放の救世主となることを期待していたものの…云々という話を信じていたのだが、どうやらこれは全くの見当違いだったようだ。
 
二千年前の話に確定はないと思います。楽山だから都合のよい否定の方向に確定したいのでしょう。それに、熱心党がどうとかいうことは、今の信仰には何の影響もないのです。いつものように、史実がどうとかでキリスト教を否定できると思っている楽山の無知と無恥が表れています。
 
聖書の、いちばん大事なところを、全く理解していないことが明らかになっている楽山ですが、なおも、いつものように、他者の口を借りて、分かってるんだと、まるで学者のように気取ってきます。読むことが、災いにしかならない者もいるということです。
 
なぜ、娼婦や取税人が天国へ行くのか、キリストがどういう人を救ったのか、大事なところをすっ飛ばして何も理解しないのでは、聖書を語ることは、どこまでも、無意味であります。つまり、楽山にとって、読書は、インテリ気取りの飾りに過ぎないのです。
 
 
*書きかえ
本書では、聖書の書きかえについていくつかの指摘があるが、そのうちの一つをここにメモしておきたい。
マルコは二度「怒る」という語を用いてイエスの行為を描写している(三・五、一・四一。このうち後者は写本によっては「憐む」という動詞に書きかえられている)。ところがイエスを怒らない柔和な人にしたかった後の教会は、この二箇所とも削ってしまった(マタイ八・三、一二・一二、ルカ五・一三、六・一〇)。
(同上、p.293)
 」
新共同訳で確認してみると、たしかにマルコにある「怒って」(3:5)が、他ではなくなっている。また後者は「深く憐れんで」(1:41)としてあった。これらは写し間違いではなくて、著者の言う通り意図的な書きかえだったのだろうな。
 
理解も信仰もないのに、知識人を気取ろうとすると、細部を知っていると見せかけることになるのでしょう。無視してください。楽山は、重箱の隅をつつきますが、重箱に何が入っているか、全く知らないままなのです。悲惨な楽山は、読むことより、目を失うほうが幸いでしょう。
 
細かいところをあげてケチを付ける楽山の評論家気取りは、見るも無残な病質からの虚栄心の災いであります。こうはなりたくないし、かつ、こうなってしまわないように、気をつけるべきだという、戒めとしてください。聖書は、細かいところにこだわらなくても、命を救う力があります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:27-28
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:27、新約聖書)
 
神レベルの正しさとは、こうであると語ることで、人間は、みな罪人であることを教えている聖句です。しかし、新共同訳では「女」を「人の妻」と書き換えて、キリストの教えを、月並みな安い道徳におとしめています。新共同訳は、神を、人の掌に乗せようとする悪魔の訳です。
 
 
*楽天性
個人的にはイエスには悲劇的でさみしそうなイメージがあるのだが、著者はそれとは反対にイエスの楽天的なところを繰り返し指摘している。
ここにもイエスの、神と神のつくった自然とに対する、実に楽天的な信頼感があふれている。
(同上、p.307)
 」
著者がその根拠としている箇所を確認してみると、たしかにこれは楽天的といえそうだ。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。だが、あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
(マタイ6:26)
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
[省略]
あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。
(マタイ7:8-11)
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
(マルコ4:26-29)
 」
改めて読むと、神に対する信頼感はすごい。これを読むこちらの方まで心が落ち着き暖かくなってくる心持ちがする。なんというか、つい武者小路実篤を連想してしまう。
こうしてみると、キリスト教からニューソートが出てきたのは、必ずしも反発反動というわけではなく、当然の流れだったのかもしれぬという気がしてこないでもない。
 
「神に対する信頼感はすごい」・・キリストは神の子と言われているのだから当たり前です。楽山は、何も知ろうともせずに、外から石を投げてきますが、そのたびに、ボロを出しているのです。それでも自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だから書いてくるのです。
 
プラスのこと、プラスの喩えを、キリストが言えば、楽天的なのでしょうか。キリストが洞察力と共感性あふれており、十字架で死ぬことを覚悟するほどの人だから、真実として言えるのです。
 
楽山が言えば、ウンコを投げつけられるでしょう。今、そんな感じです。汚い楽山です。
 
楽山は、自己愛性人格障害のために、自分の表現を持ちません。真摯に学ぶ、ということを怠ってきたからです。そういう場合、楽山が今までもしてきたことですが、難しい言葉や文章を引用して、べた褒めすることです。楽山の崩壊した虚栄の魔界です。
 
(ネットより)
ニューソート(New Thought、新思考)は、19世紀アメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつ、一種の異端的宗教・霊性運動である。現世利益の追求を戒めるキリスト教プロテスタント系カルヴァン主義への反発を背景に生まれた[1]。
ニューソートは、聖書の内容を従来とは違う立場から解釈しようとするもので、「人間の意識は宇宙と繋がっている」と考え、その根拠を聖書に求めるのが主流である[4]。
ニューソート:ウィキペディア
 
「神に対する信頼感はすごい。これを読むこちらの方まで心が落ち着き暖かくなってくる心持ち」・・アホのべた褒めの、世辞そして嘘ということです。ひねくれついでに、正当が分かってもいないのに、超常のカルト的異端に走る楽山です。当然の流れだそうです。
 
「実に楽天的な信頼感」「たしかにこれは楽天的といえそうだ」・・キリストの教えは、決して「楽天的」ではありません。楽山が楽天的だと思うのは、神が与える「良いもの」を全く知らず、字面の狭い通念だけで判断しているからです。楽山は、キリストさえも、あざ笑いのネタにしています。
 
「心が落ち着き暖かくなってくる心持ち」・・嘘です。かつ、作為の、べた褒めの幼稚さと言ってよいでしょう。楽山の心が落ち着くことは、なかったと思いますし、ありえないことです。楽山は、いつも、分かっていることにするために、わざとらしい台詞しか言えないのです。
 
 
*罪
著者によれば、イエスの楽天性は、自然に対してだけではなく、罪に対しても変わらなかったらしい。
ともかくこういうイエスだから、人間の数多くの行為を洗い上げて、どれが罪になるかを定めて断罪し、あるいはそもそも、人間存在そのものが罪なる存在であるとみなす、などといった発想からはほど遠かっただろう。この人の楽天ぶりは、そういった陰湿な思想とは無縁である。
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.271)
 」
 
キリストが救った人々と、キリストが厳しく批判した人々の違いを考えないのでしょうか。誰よりも、罪については厳しい見方をして、罪を認めた、あるいは、認めざるを得なかった人々を選んで、愛し、救いました。そこを理解してないのは、楽山と同じで、浅い辻褄合わせだけの思考のようです。
 
キリストは「罪になるかを定めて断罪」するスタンスは持っていません。それはキリスト信仰ではありません。この著者は、楽山と同様、無理解であります。しかも、それを楽天性と言ってしまうのは、著者は、キリストについて、真面目に考えていない人なのでしょう。
 
(ネットより)
田川 建三(たがわ けんぞう、1935年 - )は、日本の新約聖書学者、著述家。大阪女子大学名誉教授。宗教批判を通じて現代批判を試みた著作でも知られる。「神を信じないクリスチャン」[1]を名乗る。
1935年東京生まれ。聖学院高校、東京大学宗教学宗教史学科(1958年卒業)
文献批判に立脚した新約聖書学の伝統の上で、キリスト教批判や宗教批判、そして現代社会批判を展開したことで知られる。
 
私は、信仰を語る上で、○○学というのを、あまり信頼していません。信仰は、心の問題だからです。著者は、キリストを見下ろしているような気さえします。「人間存在そのものが罪なる存在であるとみなす」のではなく、人間は、必ず罪を犯すという本質なのです。著者は信仰者ではないようです。
 
聖書の学者が、信仰者でなければ、何の意味もありません。誰の助けにもなりません。楽山と似たような妨害者です。それにしても、楽山の聖句の選び方は、悪意によるものです。楽天的なキリストが、十字架につくでしょうか。類は類を呼ぶという記事になっています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 
 (マタイ26:39、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 (マタイ27:46、新約聖書)
 
キリストが、その優れた弁舌の能力によって、パリサイ人に、少しでも歩み寄る姿勢を示せば、十字架は、免れたでしょう。しかし、キリストは、十字架の道を歩まれました。十字架は、どこまでも、悲劇です。それは、私たちの悲劇だからです。
 
 
これについてもその根拠を確認してみると、たしかにそのようである。
はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
(マルコ3:28)
「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
(マルコ2:5)
 」
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
2:4
ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。 
2:5
イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
 (マルコ2:4-5、新約聖書)
 
赦されたのは、病人です。人々は、何とか、キリストのもとに連れてこようと努めました。楽山の言うことは、悪意による言いがかりです。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
3:28
よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。 
3:29
しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。 
3:30
そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」と言っていたからである。
 
楽山は、恣意と悪意によって、キリストを汚しました。しかも、悔い改めることなく、今回も、その反キリストぶりを発揮しています。引用された学者は、楽山というネズミ男に、好きなように悪用されています。楽山は、自らが赦される余地を、自ら捨ててゆくようです。
 
 
ちなみに著者は、これらの言葉についてこう書いている。
右の中風患者の話にせよ、この明快な宣言にせよ、別に、罪が赦されるために悔い改めねばならぬとか、悔い改めにふさわしい実を結べ、とか、洗礼を受けろとか、そういったことは一切言われていない。ここに洗礼者ヨハネとイエスの決定的な相違がある。 
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.275)
 」
 
 (マタイによる福音書、口語訳)4:17
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
 (マタイ4:17、新約聖書)
 
この学者は、何を言っているのでしょう。ひょっとして、楽山と同じ反キリストなのでしょうか。はっきり言いますが、信仰の無い神学者や宗教学者ほど、無意味な職業はありません。信仰者の共感がないのです。結局、楽山のような無神教カルトに利用されるだけでしょう。
 
悔い改めは、神の前に正直に祈ることであります。悔い改めたからといって、完全な正義の人になることはありません。信仰は、成長するための道です。一気に悟る境地ではありません。こういうことは、何度も書いてきたのですが、楽山は、聞く耳も、感じ取る心も、持っていないようです。
 
 
また、マルコ3:28の後の文章についてはこう書いている。
(原始教団はこのせりふの明快さにたじろいで、「しかし聖霊の冒涜は赦されない」とつけ加えてしまった)。
(同上、p.275)
 」
そう言われてみれば、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に許されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコ3:28-29)というのは、但し書きの部分は、前文の断言を弱めるために後から書き加えられたという感じがしてこないでもない。
 
聖霊を汚すのは、神聖をけがすことだからです。聖三位をけがしてはいけない、という当然の教えであります。神聖をけがすことは、楽山が、長いこと、続けてきたことです。それで、学者気取りでいるのだから、語ること自体が、疫病のように忌まわしいことなのです。
 
付け加えたのであろうとなかろうと、楽山のように、神をけがし、キリストをけがし、聖霊をけがす者が赦されないのは、当然のことであります。悔いることなく、改めることなく、遠慮することさえなく、駄文を書き続ける楽山の、自己正当化の尿臭が汚らわしいだけです。
 
 
*洗礼者ヨハネとキリスト教
上はイエスについての記述だが、著者は洗礼者ヨハネについてこう書いている。
その宗教的厳格さを極限までおし進めたのは洗礼者ヨハネであった。
[省略]
このヨハネが人々に対して呼びかけた言葉が、「悔い改めよ。神の国は近づいたのだ」(マタイ三・二)であった。
(同上、p.264)
「悔い改め」とそれに伴う「罪の赦し」という、通常いかにもキリスト教的と思われている宗教行為と宗教理念にしたところで、洗礼者ヨハネの宗教行為の中心にすえられていたものであって、イエス自身はそのどちらの言葉もほぼまったく口にしていない。 
(同上、p.267)
 」
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
1:14
ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、 
1:15
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
 (マルコ1:14-15、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)4:17
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
 (マタイ4:17、新約聖書)
 
悔い改めは、生きる寄る辺を、世俗から、神に求めることです。つまり、信仰と、信仰生活に、なくてはならないものです。楽山にだまされて、行為義認と勘違いすることのありませぬように。
 
 
著者はこれに続けて、「最古の福音書マルコにおいて、「悔い改め」という語は、後述する一・一五を別とすると、洗礼者ヨハネ(一・四)とイエスの弟子達(六・一二)の活動を表現する場合にしか用いられていない、というのは象徴的である」とし、さらに続けて、「ルカは、「復活した」イエスが弟子達に、洗礼者ヨハネとまさに同じことを宣教するように、と命じる場面を作文している」と指摘しつつ、「洗礼者ヨハネの説教の型が、キリスト教化されて原始教団によって継承されたのである」としている。
どうもこの辺りのことは、この間、『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』(中村圭志著)で読んだことと同じことを説明しているようだ。これは専門家の間で定説になっているのかどうかは知らないが、いかにもありそうなことだという感じはする。自分には学がないので、著者の言葉の真偽を確かめ、自分の意見をはっきり固めることはできず、「…と思う」「…と感じる」と呟くことしかできぬのがつらい。
 
信仰を知らず、さらに、信仰を否定したい楽山が「…と思う」「…と感じる」としか書けないのは、知らないのに書いてくる傲慢であり、惑わしであり、自己顕示欲であり、侮辱なのです。楽山は「学がない」というより怠慢であり、知ったかぶりのために書いて、人の意見は無視する単方向の害毒です。
 
聖書は、それを読んだ人に何を残すかが大切であって、それが救いになってゆくことは、信仰者が証拠なのです。だから、聖句に、ああだこうだと、いちゃもんを付けること自体が無意味なのです。受け取った人は、受け取ったものを忘れられず否定できないから信仰なのです。
 
史実性にこだわって、大切なものを見逃してゆくのは、知性が勝っている人に見られると思います。信仰は、辻褄合わせではないので、いくら、キリスト教と信仰を傷つけても、傷つけた人の資料が出来るだけで、何も解決しないのです。信仰は共感性の無い人には分からないと思います。
 
引用元の学者は、厚顔無恥で恥を知らない楽山によって、好きなように悪用されています。楽山は、いつも、婉曲表現で語って、責任を負わない人です。嘘吐きの楽山が「つらい」なんてことはないでしょう。そして、ますます反キリストに徹しているようです。
 
書籍紹介一覧は省略します。楽山は、いちゃもんを付けても、キリスト信仰に代わる良きものを、ひとかけらも提示できないのです。何も解決できない惨めなクレーマーなのです。書けば書くほど、楽山の汚さが伝わってくるのに、楽山は独り悦に入って、また、嫌われに来るのでしょう。
 
 
著者の率直な書評は、キリスト教に疎い自分にも、それぞれの書物がキリスト教においてどのような位置にあるかが察せられてありがたい。
 
楽山が紹介してくるのは、大方、信仰否定に関する書籍だと思います。字面だけなぞって、都合のよいところを引用~利用~悪用するなど、率直さが皆無で嘘吐きの楽山が、本を悪用することは、そこに諸悪の根源を表すことになるでしょう。楽山は特別の滅びですから、楽山にだけは関わらないでください。
 
 
すり込み業者

すり込み業者
 
 
(2021年)
(2022年09月07日、再録+加筆)
 
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省が難しいのだそうです。これは、人間であるのは難しいと言ってるのと同じです。その通りに、楽山は、人間らしいことをやめてきたようです。平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、人の口を悪用して刷り込み、悔いず、反省せず、不感不応で、訂正不能で、・・何も残らない表象です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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