ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  滅裂な訂正不能2
 
 2020年06月07日
 『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』レザー・アスラン著、白須英子訳
 楽山日記(LD)
 
 
前に否定されて、何も返せなかったのに、また「心の理論」のことを、前と同じように持ち出して、同じ主張をしているようです。もはや、思想が凝固して、妄想となっているのでしょう。
 
 
『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』を読了。同著者の『イエス・キリストは実在したのか?』も面白かったが、本書もそれに次ぐくらい面白い。
 
人類が神を生み出すと書いていることから、既に、人が神を作ったという無神教カルト思想前提となっているようです。恐れを知らぬ高慢~傲慢が、神不在の言い張りを重ねて、訂正不能を面白がっています。こういうのをサディストと言います。
 
その本を読んで、この記事を書いている楽山は、クリスチャン芝居をしたり、キリスト教の悪口を言ったり、幼稚な疑問で神不在を言い張ったり、逆に肯定したりと、言ってることがメチャクチャな、反キリストであります。書いて自慢することだけはやめられない自我の奴隷です。
 
 
内容はといえば、まず序盤では宗教の起源について、さまざまな仮説を紹介している。人は夢で死者と会うことで死者は今も別世界で生きていると考えるようになった、自然の脅威を目の当たりにして創造主の存在を意識するようになった、宗教による連帯団結は生存に有利であった、宗教は願望の充足のために用いられた、
 
これは、宗教の起源ではなく、楽山が、宗教を否定するために、持ち出した決めつけの曲解信条です。ここに書いてあることから生まれる宗教は、例えばシャロームの偽キリスト教や、キリスト教系カルトの発想であります。文末に、「だろうが!」・・をつけて読むべき悪口雑言であります。
 
死者に会う夢は、夢です。夢での不思議物語は、人間を生かす信仰にはなりません。
 
自然の脅威は、脅威であり、自然の驚異は、驚異ですが、それが何らかの恐れを感じるものであっても、人間を支える信仰にはなりません。
 
連帯は連帯であり、生活様式に影響はあっても、それを信仰と呼ぶのは、楽山のような、信仰の心を全く持たない者の作為でしかありません。
 
願望の充足は、必ずしも、宗教や信仰によってもたらされるわけではありません。願望には欲望が含まれることがあるから、という以上に、神を、人の願望に従わせることは出来ません。
 
楽山のような足らざる者が、上のような軽口の悪口をあげて、宗教と信仰をおとしめても、宗教と信仰は、神に対して不遜で不敬虔の愚か者の繰り言によって左右されることはなく、信仰を必要としている人々の正直さに答えて、変わることなく、恵まれ続けるでしょう。
 
 
進化の過程で獲得された「心の理論」などが宗教を生んだ等々。ここでは著者はどうも最後の仮説を支持しているらしい。
 
私の記事「心の理論」
 
「心の理論」は、進化の過程で獲得されたと楽山が書いていますが、楽山は、それを、霊感が獲得されたかのように曲解して受け取って記事を書いていたのです。しかも、今回、それを、宗教の起源として書いているのです。
 
楽山は、単なる学習障害ではなく、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、妄想性障害か、悪意の妄想として固定している厚顔無恥ということを考えるべきかもしれません。学習する気がないのでしょう。
 
あるいは、背後に、右翼系の無神教カルトのような組織があるのかもしれません。楽山は、その指示を実行していて、それゆえに、責任を一切負わないのかもしれません。妄想への執着だけになっているのでしょうか。とても危険で、恐ろしいことです。
 
(ネットより)
心の理論(こころのりろん、英: Theory of Mind, ToM)は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである[1]。
「心の理論」はもともと、霊長類研究者のデイヴィッド・プレマックとガイ・ウッドルフが論文「チンパンジーは心の理論を持つか?」("Does the Chimpanzee Have a "Theory of Mind")において、チンパンジーなどの霊長類が、同種の仲間や他の種の動物が感じ考えていることを推測しているかのような行動をとることに注目し、「心の理論」という機能が働いているからではないかと指摘したことに端を発する(ただし、霊長類が真に心の理論を持っているかについては議論が続いている)。
この能力があるため、人は一般に他人にも心が宿っていると見なすことができ(他人への心の帰属)、他人にも心のはたらきを理解し(心的状態の理解)、それに基づいて他人の行動を予測することができる(行動の予測)。
 
霊長類とは書いていますが、それは、ヒトやサルなどの動物の種類のことで、心霊現象や霊感とは何の関係もないことです。「霊」という言葉の、簡単な意味さえも、霊が分かるっぽい自覚?の楽山は区別できないようです。
 
「心の理論」は、宗教の起源とは関係ありません。他者の正誤を見分けるという発達しうる知性のことでしょう。楽山が、捨ててしまった能力です。心の理論を捨ててしまったからでしょうか、楽山は、人の迷惑を省みずに書くわけです。
 
他者に迷惑かけることを、罪悪感がないために、全く気にしない楽山という異常人格だから平気で嘘を吐くのでしょう。楽山の妄想が、壊れた人格によって、進化ではなく、心の闇の深化となり、訂正不能の方向に病理を深めているだけなのです。
 
 
中盤では一神教の起源について語られている。ユダヤ教は元来は多神教であり、「初代王サウルでさえ、息子をヤハウェにあやかってイェホナタン(ヨナタン)と名付けるのと並行して、他の二人の息子をバアル神にあやかってエシュバアル、メリブバアルと名付けていた」(p.149)し、エル(アブラハムの神)とヤハウェ(モーセの神)は別々の神(p.150)だったので、イスラエルがバビロニアに敗北したときには、「バビロニアの神マルドゥクがヤハウェより強かったというのが神学的結論」(p.139)となり、多くの人々が「名前もバビロニア風に変え、バビロニアの言葉を学び、彼らの神々を拝むようになった」(p.139)のであるが、その後イスラエルの敗北はヤハウェがマルドゥクに敗北したためではなく、すべてはイスラエル人を罰するためのヤハウェによる計画であり、「マルドゥクなど、そもそもいなかった」(p.140)とされて、神は唯一ヤハウェだけが存在するという考え方が生まれたという。
 
信仰は、昔の王様の、信仰の浮気か不倫のような背教の史実関係をほじくることではありません。楽山は、人の鼻の穴をほじくることが好きなようで、それだけで勉強した気になって、信仰の本質を何も学んでいないのは哀れというしかありません。
 
このように、字面だけ書いて、それで、説明したつもりになるのが、楽山です。しかも、聖書のあらすじをあちこち書いているようですが、あらすじを追うだけでは、聖書の理解など出来るはずはないのです。楽山には、聖書に共感するための心がないのです。
 
 
また一神教については、ユダヤ教に先んじて、アクエンアテン、ザラスシュトラらの試みがあったが、そのどちらも長くは続かず忘れられるか変質させられてしまったとのことである。キリスト教については、初期には旧約の神と、イエスの神とは別個の存在だという考え方もあったが、「キリスト教会が唯一の司教――つまり、ローマの司教下の統治システムを法的に有効にしよう」(p.172)という意図によって、唯一神とは異なる多神教的な考え方は排除されたという。
 
唯一神信仰が、陰謀の産物であるかのように書いているのは、楽山が、唯一神信仰を必要としていないからでしょう。ならば、無関係であればよいものを、自己顕示欲と、妄想のために、自分が勝ってるということにしないと気が済まないのでしょう。
 
カタカナの名前をいっぱい書いて、歴史や宗教の学者を気取っても、信仰の本質からどんどん離れるだけで、何の役にも立たない、何の益にもならない、いちゃもんに終始して、無理解の尿失禁に一途な、楽山の、独り芝居と独り言に、どうか関わらないでください。人生の大切な時間の無駄です。
 
楽山は、本を選んで、本を曲解して、都合の良い箇所を選んで、書くだけの因業です。何故なら、聖書についても、良いものを何も受け取らないまま、自尊から、分かってるんだと言い張る根性で書いてくるからです。過剰で無意味な腐ったプライドの成れの果てなのです。
 
 
終盤では、著者は一神教から汎神論的な信仰観を導き出している。神は唯一であり、不可分であるならば、神が創造を行う時、その材料は神以外のものではあり得ず、神自身であったことになる、創造の前には神のみが唯一存在し、不可分であれば当然にそうなる、とすれば神は神を材料として創造を行ったのであり、神と被造物とは別個のものではなく、同一である、つまりすべては神であり、神ではないものは存在せず、神はあらゆるところに遍在している云々。
 
神の一神遍在論というのはあります。一人の神が、普く存在している、ゆえに、ひとりひとりの祈りを聞いておられる、という考え方ですが、人の学説に過ぎません。そもそも、神の存在のあり方を、存在の次元の限られている人間が解明することなど、ありえないのです。
 
ましてや、楽山のような悪意の者が、悪意の方向で、いくら言葉を弄しても、ただ、楽山の愚かさを、楽山自身が目立たせるだけであり、その経過と結果において、楽山の人間性の破壊をもたらしてきたのだということを表しているだけなのです。
 
楽山は、文献を読んで書いてくる感想によって、そのまま、楽山についての実例として、病質と偽善の文献となってゆくのです。
 
 
本書全体を通読すると、著者の視点はテーマによって移行しており、宗教の起源については進化論的視点で語り、一神教のはじまりについては現実的政治的視点で語り、一神教から汎神論的な信仰観を導くときは宗教的神秘的視点で語っているようだ。
 
宗教を、信仰を、インテリ気取りで、何学的視点で・・などと言う楽山は、まず、しっかりした視点も論点も持っていません。それで、宗教と信仰の、欠片も表すことはないのです。キリストが出会って救い癒やした心貧しい人々との、典型的な対照を為している楽山です。
 
今まで、楽山が書いてきたのは、幼稚な作り話か、詭弁か、いつまでも、幼稚な疑問のままで、学習による進歩がなく、かつ、そこで慢心してしまって、神を否定してくる嫌がらせに過ぎなかったのです。楽山のようになったら正常に戻ることは困難かもしれないと思わせる記事が楽山日記には満載です。
 
 
また一神教を突き詰めると汎神論に行き着くというのは、アニミズム的なものからはじまった宗教が、多神教から一神教へと移り、しまいにはまた元に戻っているようにもみえる。ものごとはなんでも円環をなすという話があるけれども、宗教もその例外ではないとすると、これもまた解脱すべき輪廻であり業であるということにならないとは言えなそうだ。
 
「一神教を突き詰めると汎神論に行き着く」・・どういう意味でしょう。わざと複雑なことを言ったり、しかもそれを説明しなかったりするのは、君らには分からないだろうね、という、救いがたい傲慢を表すこと、楽山は、全く気づかないのです。
 
自己顕示欲によって潰してしまった人間性に残るのは、原始反応の本能から、快楽原則のみから、自慢だけしてくるような、みじめさだけになります。昨日も今日も、恐らく、明日も、じくじくした膿漏の臭気が漂う楽山です。
 
「ならないとは言えなそうだ」・・こういうのが、ボンヤリ言語の典型です。楽山は、これで、中庸、中立、優しさ、決めつけでない柔和さ、などを示したつもりなのです。言っていることの内容について、他者についても、自身についても、洞察も思考も出来ないと、こういう雑さになります。
 
本書は宗教を信じ、かつ進化論や歴史的視点から宗教を判断することに嫌悪を感ずる人にとってはあまり愉快なものではないかもしれないが、その辺りのことにはこだわらず多角的視点から宗教とは何か、または神とは何かを考えてみたいという人にとっては興味深く、一読して損はない本であると思う。ちなみに自分は後者なので、冒頭に書いた通り本書は面白く読めた。
 
宗教は、信仰のためにあります。学問は、その糧になります。しかし、偏向した妄想的観念が支配している楽山のような者が、学問に関わり、本を読み、「こだわらず多角的視点」と言っているのは、実は、宗教は、多角的視点がない、こだわりで出来ている、という偏見からの悪意の攻撃であります。
 
信仰とは神とは何かを考えてみたいという人にとっては、楽山の思考、実際は、楽山の無思考と偏見は、何の役にも立たないばかりか、同じ偏向を、ボンヤリ言語で、刷り込もうとする我執~企み~陰謀でしかないのです。どうか、楽山に、決して、近づかないでください。
 
もはや、私の、楽山批判は、恐らく、道に糞が落ちているを見つけて、糞を踏まないで、と読者に言っているようなものでしょう。楽山は、おびただしい病原を含んでいます。
 
 
排泄の病原

排泄の病原
 
 
(2020年06月08日)
(2022年06月09日、再録+加筆)
 
 
 
  病原
 
光があるから影ができる
しかし光があるから影があるのではないとも言える
夜の闇の恐怖に連なる暗さに似た
影というものの存在を目で見て知ったからこそ
影を作らせ反対側で闇をなくす
方向を持った存在を初めて知り
それを光と名付けた
 
ばい菌やウイルスがいるから病気になる
ばい菌やウイルスなど病原体そして
全ての病気の原因は
病気が起こるから探される
病気があるからそれがない状態を知る
それがありがたいから健康と名付けるがゆえに
予防しようという考えが生まれる
 
影によって光を知る
病気によって健康を知る
 
 
  眠りの音信
 
別れて久しく
音信も途絶えた人が
見知らぬ地にて永眠するとき
揮発のアンダーグラウンドに
泡沫(うたかた)の
嘗(かつ)ての縁(えにし)
は胸に巣くう鬼畜を眠らせ
血腥(ちなまぐさ)い流れを冷水に
冷水を雫(しずく)に
そして雫が形を失うとき
二つの問いを残すのです
「俺はそんなに悪かったか」
「水さえも永遠ではない」
契(ちぎ)りもなくて罪に濡れ
柵(しがらみ)を越えるよりも先に
冷たく遠く離れ去って
眠り続ける土塊(つちくれ)深く
失われゆく形骸は
永遠の水を求めて
地上からの吸引に逆らうでしょうか
 
 
  蜘蛛
 
ハンドル周りの蜘蛛(クモ)の巣を払い
殺虫剤をざっとスプレーしてまで
久し振りにオートバイに乗る
地を掃(はら)えばいい何もかも
 
山上のパーキングでバイクから降りるとき
手に絡みつきぶら下がる
蜘蛛
手を振って地面に落とす
生きていたのか ここまで
バイクにしがみついてきたのか
ヘルメットを脱いで抱えた小脇に
すっぽり抜けた俺の首
 
帰り道バイクを走らせながら
ふと古い傷口から糸のように
ぴゅっと細く噴き出す出血の痛み
殺した殺そうとした置き去りにした
ぴりぴりと折節に
覚えのある痛みだった
 
玄関に入ろうとすると
顔に引っ掛かる
蜘蛛の糸
揺れている蜘蛛を見上げながら
も少し上に張れ
と呟いて以来 出入りの際に
はっと首を竦(すく)める習いが続いている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省が大事だと分かっているなら、「人間の性」などと、誰でもそうでしょ・・みたいことを言わないはずです。書く文章の、いたるところに不心得が表れてくる楽山です。「難しいんだよなあ」・・このラフな言い方に、楽山の、孤独で荒涼とした精神の砂漠が表れています。
 
 
 
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  中立芝居2
 
 「第四講 老友エリバズまず語る」2020年06月06日
 (『ヨブ記講演』内村鑑三)
   を改めて批判。
 
 
楽山は、キリスト教と神をおとしめ、それを訂正しないまま、今度は、いかにも真面目に努力しているふうを装っています。しかし、今まで書いてきたことを否定せずに、逆方向のことを書いても、結局は、自分は中立で何教でも分かっているのです、という不変の自尊過大のアピールしか表れていないのです。
 
だまされてはいけません。人の言うことを受け取って書く、ということが出来ない楽山は、ひたすら聖書や本の中から、自分に都合の良いところを拾って来て、唾液を飛ばして言い逃れをしている見苦しさと同じです。
 
そして、最近の、反省、反省、と言いながら、人の言うことを受け取らずに、書き続ける執拗さにこそ、自己中が、他者を無視して、趣味に合うことだけを漁ってゆく自己崩壊の経過であります。反省とは真逆の態度であります。字面だけの反省言葉、真に受けてはいけません。
 
 
『ヨブ記講演』の第四講を読んだので、忘れぬうちに内容をメモしておきたい。本講の中身は前より一段と濃くなっている。
 
自尊過大のナルシシストに、信仰について、中身が濃いかどうかなど、分かりはしません。字面(じづら)だけの読書の一本道は、信仰への侮辱と堕落の片道切符を売りつけることでしかありません。
 
 
・エリパズの言葉は「苦難にある友」への言葉としては「冷酷」である。しかしこれは彼の問題ではなく「当時の神学思想の罪」である。
・「ヨブの苦闘は」「すべての真人の経過する苦闘である」。
 
先ず、エリバズの言葉が冷酷だと言っています。それは、本に書いてある、ということが担保だと言いたげです。エリパズだけでなく、神の意志を、人が代弁することは出来ないということです。楽山は、その大罪を犯しているのです。顧みられることはないでしょう。
 
楽山は、その上で、さらに、「神学思想の罪」、「真人の経過する苦闘である」と、引用でしょうか、書いて、ヨブを弁護するように見せかけ、実際には、楽山自身を弁護しようとしています。こういう文脈を、自己中と自己愛で、作ってくるのが、楽山を赦せない根拠になってゆくのです。
 
 
・当時の神学思想は「罪を犯し不義を計る者は皆亡び失せ、義しき者は禍その身に及ばずして益す繁栄致富するに至る」というものであるから、悲惨な状況にあるヨブは、何か罪を犯したからそのようになったのだとみなされ、悔い改めを求められる。
 
ヨブ記全体を通して、人がヨブを説得することが出来ず、すなわち、ヨブは、神が顕れるまで、罪を認めずに、自身を不遇を嘆き、自己正当化して、神と議論したいとまで主張を続けます。ここに、ヨブだけでなく、人間の罪の根源が表されている、という重要なヨブ記であります。
 
 (ヨブ記、口語訳)
13:2
あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
13:3
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む。
 (ヨブ13:2-3、旧約聖書)
 
ヨブ記の話というのは、人の無力と、神の絶対を、ヨブの苦境での自己正当化という罪を通して伝えているのです。神と、人の、絶対的な違いを弁えるためです。神と論ずる、なんてことは、決して出来ません。私たちは、人間として、受け取れることを受け取るだけです。
 
全部、過不足なく受け取るということもありません。私たちは、決して、神と同等ではない、かつ、絶対でもないからです。だから、生涯にわたって、祈り、告白し、悔い改め、反省し、成長することが必要なのです。
 
信仰者のための聖書の読み方としては、楽山のように、史実や字面にこだわって、自己中の我欲に短絡するのではなく、大小の文脈において、虚心に聖書が何を伝えているかを考えることが大切です。このような記事を楽山が書いていること自体、神への冒涜なのです。
 
しかし、楽山は、人に対して、さらに、神に対しても、一段上に立って批評する、という反信仰の立場から、字面だけの同情心を装い、ヨブを無罪にすることで、聖書をけがし、神をけがし、悔い改めたヨブをけがしています。楽山の反信仰全開です。
 
人格の根腐れというのは、何を言っても書いても、態度と姿勢に、既に、表れてきたし、今回も同じことです。どんなに、謙虚芝居をしても、前にも後にも、無反応の不感不応の自己を執拗に表すことで、自己顕示と誘導のための芝居だと、バレてしまうので、いっさいは、無駄なのです。
 
楽山は、人に無視されるのが嫌で、執拗に書いてきますが、誰よりも、人を無視してきたのは、楽山その人であります。これからも、恐らく、同じでしょう。化け物よりも、ケダモノよりも、はるかに、おぞましいことです。
 
 
・4.12-21は幽霊物語であり、「ヨブを諭さんとするための技巧なるか」「かかる演劇的態度を以て悩める友を諭さんとするは、真率において欠くる所ありといわねばならぬ」。
(4.12-16について、『旧約聖書 ヨブ記』(岩波文庫、関根正雄訳)の注釈では、「神の言葉を受ける時の心理的状況を述べている。預言書にもこのような具体的叙述は見られない」としている)
 
 (ヨブ記、口語訳)
4:12
さて、わたしに、言葉がひそかに臨んだ、
わたしの耳はそのささやきを聞いた。
4:13
すなわち人の熟睡するころ、
夜の幻によって思い乱れている時、
4:14
恐れがわたしに臨んだので、おののき、
わたしの骨はことごとく震えた。
4:15
時に、霊があって、わたしの顔の前を過ぎたので、
わたしの身の毛はよだった。
4:16
そのものは立ちどまったが、
わたしはその姿を見わけることができなかった。
一つのかたちが、わたしの目の前にあった。
わたしは静かな声を聞いた、
4:17
『人は神の前に正しくありえようか。
人はその造り主の前に清くありえようか。
4:18
見よ、彼はそのしもべをさえ頼みとせず、
その天使をも誤れる者とみなされる。
4:19
まして、泥の家に住む者、
ちりをその基とする者、
しみのようにつぶされる者。
4:20
彼らは朝から夕までの間に打ち砕かれ、
顧みる者もなく、永遠に滅びる。
4:21
もしその天幕の綱が
彼らのうちに取り去られるなら、
ついに悟ることもなく、死にうせるではないか』。
 (ヨブ4:12-21、旧約聖書)
 
夢の啓示でしょうか。人は神の前に正しく清くあり得ないこと、そして、人が、いかに、はかなく、弱いものであるか、という、神と人の決定的な違いが書いてあります。そのことを自覚しない楽山のようなものは、聖句に書いてあるようになるのでしょう。かなり、厳しい戒めです。
 
楽山は、これを幽霊物語と書いています。楽山が、霊能者気取りで、原始反応的に、幽霊物語で済ませるのは、何も読み取っておらず、受け取っていない証拠なのです。ときは、絶えず、忍び寄ってくるものです。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、著しく鈍感です。
 
 
・5.2-7は「災禍は悪の結果なりとの思想の一発表である」。
・5.17~以下は「人に挑む艱難を以て罪の結果と見、従ってこれを神よりの懲治と」した。
 
よく分かりませんが、艱難を罪の結果と見てしまえば、試練として受け取って祈り悔い改めに結び付けることは出来ないでしょう。楽山は、まさに、そういう一次元の受け取り方しかできない字面のみの思考であろうと思います。
 
 
・ヨブ記の物語を現在の教会にあてはめると、ヨブが模範的信者であり、経済的にも社会的にも成功している間は、それは神から祝福されていると解されていても、やがて度重なる不幸にみまわれ零落すると、何か罪を犯したためであろうと推測され、教会の代表者三人…「老牧師エリパズ」「壮年有能の神学者ビルダデ」「少壮有為の実務家ゾパル」がヨブを見舞い、懺悔を勧めるために訪問したという流れになる。
 
このように、キリストも神も聖書も、理解の端緒にすら達していない楽山は、未熟な短絡人格らしく、無理解を、自分にではなく、教会に当てはめて、教条主義と決めつけてゆく魂胆しか持たないことが表れています。これからも続くのでしょう。楽山という反信仰・反キリストの資料化が進んでいます。
 
 
・「罪は災禍の源たることあれど、災禍は悉く罪の結果ではない」。キリスト、パウロなどがその例である。
・苦難の種類は三つ。一つは「罪の結果」であり、二つ目は「懲治(こらしめ)」「愛の笞(むち)」、三つ目は「信仰を試むるために下る苦難」。ヨブの苦難はこの三つ目にあたる。第一章の天国での場面でそれが分かる。しかしエルパズらは一つ目、二つ目について語るばかりである。
・「人が艱難に会したるときは、その艱難を以てその人を審判くべからずその人格を以って艱難を審判くべし」(ブレンチウス)。
 
これも、これだけでは、分かりにくいですが、恐らく、奇しくも、楽山のことを言っているかのようです。信仰者の人格つまり人間の信仰をもって、艱難がいかなる艱難であるかを判断するべきだ、ということでしょうか。
 
これは、判断する人間の能力において、とても難しいことではありますが、少なくとも、これはこの罪の報いだというような決めつけをしてはいけない、ということとして受け取っておきます。楽山のような短絡は、厳に戒められるべきです。
 
つまり、今に始まったことではないところの、楽山の、不感不応の自己愛の自己中心からの、見下ろすような決めつけが、この悪い例に当たるということです。楽山は、楽山のどの記事においても、最悪のモデルに相応しい曲解を載せているのです。
 
 
不幸な状況にある人について、因果応報、自業自得と決めつけることはありがちなことである。宗教を信じている人が、その教義によって人を裁くというのもそう珍しくはない。恥ずかしながら自分にもそういうところがあるのだから情けない。しかもこれは間違いだと自覚していても同じ事を繰り返してしまう。ここはひたすら反省…。
 
反省しているなら、書かないはずです。書いて、自己顕示していることから、楽山は、またしても、読者を欺こうとしている、ということだけが表れるてくるのです。どこまでも卑怯な楽山、批判の貼り付けに相応しい偽善の文脈を続けています。
 
 
 2020年06月06日
 『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳
 
楽山の高慢が、いたるところに、表れるようになっています。
 
 
岩波文庫の『旧約聖書 ヨブ記』を読んだ。「ヨブ記」は以前、新共同訳で読んだときは文章が難しすぎて大まかな意味を推測するのがやっとで分かったという気持ちには全然ならなかったのだが、本書は巻末の注釈が充実しているので自分のような基本的な知識に欠ける者でも理解しやすくなっていて有り難い。とはいえ自分にとっては、この注釈も程度が高すぎて難しいのではあるが。
 
楽山は、何も分かっていません。シャロームと同様、ヨブ記も、聖書も、キリスト教も、キリスト信仰も、神も、キリストも、理解していません。というより、人間としての受け取り方が、まるで出来ていないのです。楽山の安い脳と心は、我欲に従っているだけです。
 
それでも、書いてくるたびに尊大と言われたものだから、難しい、などと謙虚芝居をして、批判を全然受け取らないまま、また、書いてくるところに、楽山の訂正不能の厚顔無恥が表れています。あらゆる救いと赦しの機会を棒に振って、楽山の人生は存在しているのでしょうか。
 
安楽のお山の大将には、実に、安易に、誰でもなれるのです。他者の意見を無視して、こんなに本を読んだ、難しい、反省、とほほ、と書いて、あざとい芝居をすればよいのですから。ただし、これは、自他の人格の致命的な破壊を伴います。
 
気に入らないことを無視しましょう、という、アドラー教の信条を、楽山は前に書いて、実際、人の言うことを聞かず、都合の良いところを漁って本を出してきて読書家気取りを出すところが、まさに、楽山が何を書いても、けちな企みであることが、楽山の筆致を通して、いつも明らかになってきたのです。
 
 
本文全体の感想については、前に読んだ時とは印象が大分変って、ヨブとその友人たちの激しさに圧倒された。前はみな大人しい性格に思ったのだが、今回はヨブの友人たちへの反論や神に向けての言葉の激烈さ、ヨブの友人たちのヨブ批判の無慈悲さには驚かされた。これは多分前は比喩の意味がよく分かっていなかったのが、今回は注釈のおかげでその意味をよりはっきり受け取ることができたためなのだろう。
 
聖書の登場人物は「大人しい」のではなく、情感が豊かな人が多いです。楽山は、そこを勘違いして、感想を書いていますが、それゆえ、的外れと、理解力不足と、単方向の我欲の醜さだけを表す結果になっています。
 
楽山の「前はみな大人しい性格に思った」という感想は異常です。恐らく、注釈を経ても、楽山が、「その意味をよりはっきり受け取る」ことは出来ないということを表しています。受け取る器を用意することが、自己中と自己愛のために、楽山には出来ていないからです。
 
前には、クリスチャン芝居もしてきたような、楽山という人は、狼と少年の話のように、嘘を言っても、本当を言っても、結局、芝居によって嘘偽りを隠そうとする方向に向かいます。まるで、安いマジックのように、インチキなのです。
 
ですから、そのような経緯を経て、今もまた、言いがかりと言い逃れの詭弁と誘導の企みという似たようなことしか出来ないところに、受ける器である楽山の脆弱な病巣が、ますます明らかになり、みじめな人格の破綻を表すことになるのです。
 
 
自分は根がどこまでもお目出度い自惚れ屋なので聖書のことは聖書を読めば分かるのであって解説書なんて必要ないと考えてしまったりもするのであるが、こうしてみるとやはり解説書はぜひとも必要だと痛感させられる。
 
楽山は、「自分は根がどこまでもお目出度い自惚れ屋」・・これが弁明になると思っているのでしょうか。自惚れ屋は、自惚れ屋であるあいだ、信仰など語れませんし、語ってはいけないのです。それを、謙虚芝居に使うところにも、楽山の安っぽい企みが見え隠れしています。
 
 
宗教的に読もうとするする場合は、知識的なことに頼らず、霊感によって読むことが大切なのだろうけれども、
 
また、霊が分かるっぽい自分を出したいのでしょうか。楽山には、今まで、霊感も、一般的なインスピレーション的な直観も、一度も、文章に表れたことはありません。汚水のように漏れてくるのは、自慢と気取りと高慢だけなのです。
 
 
歴史的事実に忠実に現実的に読もうとすれば当たり前のことではあるが専門家による研究を無視する事はできないのだと思う。
 
信仰においては、歴史的事実に忠実に現実的に、共感できる心情として読もうとすれば、霊感は必要ありません。信仰においては、人間らしい、冷静な、知性と感性があればよいのです。楽山から発せられる、"当たり前"、"忠実"は、刷り込みとして、嘘っぱちであるだけでなく、邪悪な企みに満ちています。
 
こういうところで「専門家の研究を無視する事はできない」などと、専門家の言うことが分かる自分を出してきて、自身の厚顔を表してしまうような、そして、一般を軽く見るような、楽山は、どんなに選り好みの読書を続けても、恣意しか表れず、宗教と信仰の真実を受け取ることはないでしょう。
 
ゆえに、人間性も、専門知識も、何も理解できない楽山に、真実を伝えることなど出来ないと思います。どうか、だまされないでください。関わらないでください。楽山の言を、受け取らないでください。
 
 
嘘っぱちの芝居

嘘っぱちの芝居
 
 
(2020年06月07日)
(2022年06月08日、再録+加筆)
 
 
 
  失われた一人
 
失われた夜の向こうで
一人は首をかしげ
一人は嘘をついた
まだ笑顔で泣けるだろうか
真昼の星の下で
一人は別れを告げて立ちすくみ
一人は出会いを祝福して去った
まだ影は立つことを望むだろうか
夕焼けが滲む速度の中で
一人は一人に
もう一人はもう一人に
お互いの不在について語った
灯もなく誓いもなく
まだ火に焼(く)べる信条があるだろうか
夜の向こうで灰と化した紙切れが
見ることのない朝を刻んだ
 
 
  午睡
 
椅子の背にじっと凭(もた)れていても
旅をしている気分の日は
過去とも知れず未来とも知れず
あきれるような虚空が広がって
数えきれない矛盾と嘘を受容しながら
行く先もないというのに穏やかでもなく
背凭れから満たす何物もないのに
罪を知り悔いに悔いてなお
知り得なかったものが駆り立ててくる
無謀な戦(いくさ)あるいは怒り
真実を敵とし友とし
死ねばいいと墓穴に似た窪みを探し
一方では死にたくないと必死で這い回り
数えきれない矛盾と嘘を受容してしまって
どちらの可能も不可能も怠けたまま
遺言ひとつ残さず眠り始めている
背凭れに僅かの光を浴びる日
 
 
  老醜へ向かう未来
 
空気の重みで窒息する
水を飲もうとして溺れる
囁(ささや)きの微細な振動で崩れてゆく
呟(つぶや)いて日が落ちる
囀(さえず)りに囲まれて朝に潜む
空気は吸わなければならない
水は飲まなければならない
囁きも呟きも囀りも
絶えることなく繰り返される
そうして老獪に敷き詰められた塵埃の先に
やがて死にゆくこと抜きには
語れない未来がある
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘と詭弁と芝居ばかりで世渡りをしてきた楽山には、リアルの人生観も、心情も、信仰も、分別もないと思います。知的な蓄えのない楽山が言ってくるのは、受けねらいか、整理のつかない理路の幼稚な単純化か、自己愛からの欲望か、悪意と敵意の詭弁でしかなかったのです。つまり、飾りの嘘だけなのです。
 
 
 
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  楽山のおぞましさ2
 
 
 2021年06月05日
 怒れる神のおぞましさ(『聖なるもの』オットー著)
 を批判します。
 
 
どこまでも幼稚なことを言ってくる楽山です。理屈にも理路にも論理にもなっていません。怠慢なのに加えて、心に共感するところがないために、聖書の文脈の流れを読み取ることが、全く出来ていないからです。こういう人が、見当外れの背伸びをしているのは、甚だ迷惑です。
 
 
*おぞましく感じられること
『聖なるもの』に神義論および自由に関わる箇所があったのでメモしておきたい。
いかにも非合理的、いやそれどころかおぞましくさえ感じられるのは、怒れる神が罪を罰する手段として罪を犯すにまかせるという発想である。
(『聖なるもの』オットー著、久松英二訳、岩波書店、2010年、p.184)
 」
 
どうしてほしいと言うのでしょう。罪を犯さないように、欠点の無いように、神が人を導かないことを恨んでいるのでしょうか。甘やかして、かわいがる神が、信仰の対象になるでしょうか。本当の悍ましいのは、不満ばかり言って、わが身を省みない者です。楽山は、その典型です。
 
 
この絶対存在者だけが現実にあり、すべての被造的存在は、たんに絶対存在者の作用――絶対存在者が被造物を存在せしめる――もしくは仮象にすぎない。被造物が自分独自のものだと思いこんでいるその働きや意思も、神の意志の通過点にすぎない。
(同上、p.193)
 」
 
反キリストや無神教徒の、一つの典型的な考え方です。罪を犯すのを止めない神にクレームをつけているのです。どこまで、わがままで、依存的で、自己中心なのでしょう。このように、読書を悪用して、空しく文句だけ言って、みんな神が悪い、そんな神はいない、と喚いているのです。
 
 
人が罪を犯すのを神が放置した例として、著者は次の例を挙げている。
そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。
(ロマ 1:24)
神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。
(ロマ 1:26)
彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
(ロマ 1:28)
 」
神は絶対、全能だとすれば、神が容認しない限りは人は罪も犯せないし、人が自分は自由のつもりでも結局は神の手のひらの上からは出られないということになるのは当然ではある。
 
聖句は、いずれも、神がどうしたかについて書いてあります。楽山のように、悪意を反省しない者には救いはないということです。救いのない者は好きなようにして、滅びを選ぶわけです。楽山は、理解力がないから、神が救うべきを見放して悪い方へ向かせたみたいな言い方をしています。
 
今、どうあるか、どうするか、という人間の問題を、全部、神が解決してくれと言ってるような、恐ろしく自分勝手な楽山の言い分です。楽山は、神の手のひらにあって、好きなように悪と偽善を為し、神を裏切り続けているのです。それで、神のせいだ?、・・ありえないです。
 
自らの罪と偽善も、神のせいにしている楽山です。かといって、救われる民になるための努力など、一切せず、神に文句ばかり言う楽山です。このような欲望だけのものを救う神はどこにもいません。つまり、悔い改めない悪が、そのまま、放っておかれて滅びるのは、人間の必然です。
 
上の聖句の3個所とも、放っておくと、不潔なことをする、情欲に走る、無価値な思いに走る、ということで、それを、神は、見抜いているゆえに、神が直接に滅ぼすのではなく、邪悪な彼らの恣意に任せているわけです。楽山は、聖書の文脈を全く理解できないまま、文句を言っています。
 
楽山には、今、それが、表れているのです。楽山は、聖書解釈もお構いなく、言葉面の奴隷となって、通らない屁理屈をこねて、悔い改めない悪い奴をも救う神でないと承知しないようです。救いのバーゲンセールでも待っているのでしょうか。
 
楽山みたいな横暴で傲慢な者たちを救うような、安売りの神はいません。信仰者は分かっています。一般の人も、ここを誤解することはないでしょう。しかし、楽山は、不正も卑怯も恥も悪も醜さも、お構いなしに、書いて来て、恥を知らない、という、独り有頂天の病質者なのです。
 
神が容認した、あるいは、しなかった、ということを、楽山は分かるのでしょうか。おかしなことを言っています。神が、いちいち、それはいい、それはよくないよ、と教えてくれるとでも言うのでしょうか。信仰など持ちえない無反省が、神を云々すると、こういう悲惨な有り様になるのです。
 
信仰者は、実践としては、信仰を学んでいる者として、学んできた信仰の良心に従って生きるわけです。楽山には、良心がないので、またしても、神と会って、取引がおかしいかのような書き方をしています。楽山のもたらす害は、このように、空疎なのに、執拗だから凶悪だということです。
 
楽山の悪意全開です。楽山と交わると、恐らく、何事も、楽山の好みで歪曲され、しまいに失敗すると、他者のせいにし、さらには、神のせいにもするということを、楽山自身が証明しています。傍らに、人も、神も、いない楽山の世界で、図々しく、書くことだけは止めないのです。
 
 
理屈ではそうなる。でも感情としては心から納得できるということにはならず、もやもやした気分が残るのは辛いところだ。
 
楽山は、理屈も理路も、まるで分かっていません。よって、納得するのは、自己愛の欲望に沿うことだけです。自分が、いかに恥ずかしいことを言っているかが、人格破壊の自己愛性のために、分からないのです。別の聖句にあるように、楽山は、自分が何をしているのか、わからずにいるのです。
 
 
*異文化
ちなみに自分がこの問題に関心を持ったのは、海外小説を読んでいたときに、「善いことも悪いこともすべては神の意思によるのだ」とか、「このような災厄がおきるにまかせた神が憎い」というような考え方が語られていたことがきっかけである。
 
楽山の大好きな考え方です。善いことに感謝せず、悪いことは、人の代表であるかのように、神のせいにします。そのような者が、いくら、文句を言ったところで、自己愛の欲望に過ぎず、誰にとっても、嘘吐きの末路でしかありません。それこそ、自己愛の「するにまかせられ」てゆくのです。
 
 
また「出エジプト記」に次のようなことが記してあったことも理由である。
主がファラオの心をかたくなにされたので、ファラオはイスラエルの人々をさらせなかった。
(出 10:20)
 」
ファラオは自分の判断で行動していたのでなく、神によってイスラエルの人々を苦しめていたということらしい。
 
こういう書き方は、上にも3つあったのと似たようなもので、ファラオはイスラエルの人々を去らせなかった。そのことを、前にも、後にも、神は、すべて、ご存知であった、という、神の全知全能を表す書き方なのです。楽山の、おぞましさは、全く違う受け取り方をしています。
 
独りだけで頷き、本も聖書も曲解するだけで書いている楽山は、読解力が著しく低下しています。邪推したい者は、好きなだけ邪推するということです。否定の前提しかないからです。しかも、恥ずかしいから人には見せずにおく、という、常識的な、最低限の質の判断すらないのです。
 
こういうことは、信仰の良心があり、聖書の文体の特徴を知っておれば、楽山のような低劣な解釈は出てこないのです。楽山は、怠慢の上に乗って、こともあろうに、神に文句を言っているが、神はもちろん、いかなる人にも、通用しないし響くこともない愚痴のようなものです。
 
聖書理解の入門さえ出来ていない楽山は、神がさせたんじゃ!・・と、神のせいにします。聖書読解の予備知識もなく、怠慢なまま、「ので」の接続詞に、こだわって、神がファラオに作用しイスラエルの人々をて去らせなかった、神のせいじゃ!・・と決めつけます。元々敵意がある証拠です。
 
 
神はファラオが罪を犯すにまかせたどころではなく、罪を犯すようにしたのだと…? 人が神を信じたり、従順になるのは本人の意志によるとばかり考えていたけれども、どうも聖書では必ずしもそういうわけではないらしい。
 
ここで、楽山の、とても卑怯な印象操作と誘導です。本人の意志ではなく、神が、悪いことをさせるんじゃ!・・と言いたいところを、言葉だけ、婉曲的に和らげるという、楽山らしい刷り込みです。何も理解できない者が、飲み込めなくて、見苦しい嘔吐を、まき散らしているのです。
 
神と人は双方向であります。おしゃべりトークできるわけではないけれど、祈ることが人から神への唯一の音信とも思います。しかし、横暴を尽くそうとして、双方向を拒む者に、神は、癒しも救いも与えはしません。おぞましいのは、楽山です。
 
放っておけば、楽山のような者は、さらに低劣化して、自分で自分の首を絞めてゆくのです。その間に、どれほどの他者を巻き添えにするでしょう。好意的なコメントが寄せられたことがあります。楽山は、人間なんて、ちょろいと思っているようです。近づかないことだけが予防になります。
 
 
神は絶対であるとするとこういう考え方に行きつくのだろうけれども、自分にとってはこれはまったく意表を突かれる思考であるし、驚き感動しないわけにはいかない。異文化に共感し同化するのは難しいのではあるが、その発想を学び理解はしたいものだとは思う。
 
楽山の、上記の理路から、"神の絶対" の正しい認識には至りません。楽山は、神の絶対という言葉を、"神は暴君" という意味に受け取らせようとしてきます。知恵の代わりに、詭弁と嘘を習慣づけてきた楽山は、これからも、都合のよい文言を漁って徘徊する野良犬の生業なのでしょう。
 
「驚き感動」「学び理解はしたいものだとは思う」・・嘘です。今まで約2年間、何も学ぼうとしてこなかった訂正不能の楽山です。恐らく、少年の頃から、そうなのでしょう。何かを、真っ当に学ぶことはないだろうと思います。今の自分の状況さえ、把握できないでいるからです。
 
「感動」という肯定的な言葉を、軽く書いて気が済む楽山です。感動などしていないと思います。実際、文句ばかり言っている文脈です。よさそうな言葉だけ書いて、読者に受け入れられることを狙っているペテン師の見苦しい筆致になっています。
 
 
悍ましい詭弁 汚い舌

悍ましい詭弁 汚い舌
 
おぞまし・い【×悍ましい】 の解説
[形][文]おぞま・し[シク]
1 いかにも嫌な感じがする。ぞっとするほど、いとわしい。「口にするのも―・い事件」
2 我 (が) が強い。強情だ。
「かく―・しくは、いみじき契り深くとも絶えてまた見じ」〈源・帚木〉
3 たけだけしく、恐ろしい。こわい。
「いづくにも守護といふものの、目代よりは―・しきを据ゑたれば」〈増鏡・久米のさら山〉
goo辞書:おぞましい
 
 
(2021年06月06日)
(2022年06月07日、再録+加筆)
 
 
 
  今日の穴
 
今日の野原には
幾つもの穴が空いていて
何かのバイパスのようでもあるが
 
広くて滑りやすい入口からは
思いのほか真っ直ぐで
 
公園で砂を崩す子供が
ほつれを千切った縫い目の糸を追いかけて
 
青年の初めて着た背広姿が
いつも歩く散歩道の一歩一歩
 
死を弄(もてあそ)べる老人が
落ちたら戻れそうにないのに
なぜか幾度も幾度も滑り込んでゆく
 
さらに滑り込んだ先が
儀式の形骸であるのか
冒険であるのかさえ垣間見る前に
もう明日の人になってしまって
 
深遠に立つことも沈むことも出来ないまま
仕方なく虚無が生まれては打ち消される
 
 
  退行
 
行き詰まったときには
壊してしまうこともあるが
退行することも多い
子供になる
無精髭を生やした子供
おぞましや
そのとき何処にいる
母の胎内か
揺りかごの中か
宇宙へ連なる
浮遊か
意外と墓場にいたりもする
杖をついて
 
 
  夢より勝手に
 
まだ生きてたの
と言うのだ
かつての好ましからざる同僚が
まるで家畜を見るような目で
悪し様に言うのだ
もちろん夢の話だ おぞましい悪夢だ
 
いったいどんな思惑(しわく)が見させたのか
汗をかいて目が覚めた
朝だ 夜は眠れたということだ
しかも晴れだ
何と裏腹な・・・こんな目覚め方
窓もドアも開けていないのに
蠅が一匹部屋の中を飛んでいる
 
まともなパターンの睡眠
悪夢のうちに取れましたと
日記に書いて落ち込んで
またベッドに入って
ふて寝して一日を過ごすか
 
嫌だな 夢にまで負けるなんて
気晴らしに出かけたからといって
どうなるものでもないが
二十日間ずっと眠っていたオートバイ
タンクの汚れをざっと拭(ぬぐ)って
起こして 逃げるとしよ
 
まとわりつく夢を振り切って
かつて衝突して骨折した防波堤のある
海沿いの道へ 晴れた春の海が
待っているということはないのだが
それで我が身の汚れが
拭えるわけでもないのだが
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
ざっくり言えば、そうなると思います。
「何も考えず判断せず、黙ってついてきてください」
「私の説いた教えによって考え判断し、ついてきてください」
考えても考えなくても、判断してもしなくても、どっちにしろ大川隆法の言葉に従えってことは同じ。
午後7:45 · 2021年6月5日·Twitter Web App
 
「何も考えず」判断するのが楽山です。何も考えた跡が見えないのだから、黙っているべきですが、好きなように、思い付きで、言うだけは言うのです。反省はしないのです。訂正はしないのです。責任は負わないのです。無神経で、心が無いのです。だから、何も理解していないのです。
 
しつこく、信仰について、神について、否定してくるのですが、それに代わるような、救いのための教えのようなもの、糧になるようなもの、ヒントになるようなもの、助けになるようなもの、はっとさせるもの、何も持っていないのです。厚かましさだけで書いて、書くことで満悦するのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省は、難しいなら、しないでよいというものではありません。反省しない人は、人間ではないと言ってもよいほど大切なことです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからでしょうか。反省しないから成長していない、ということの典型が、楽山なのです。
 
 
 
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  信仰と固定(再)3
 
 
人間が、神と関わることは、祈りであり、それが全てであります。
 
神が、人間と関わるのは、人間には、知る由もないことであります。
 
人間は、神の全能を知って、神の味方になるのではなく、神を恐れるべきなのです。
 
神を理解すること、神の意志を受け取ること、神の御心を行うこと、これらは、努力目標ではあっても、出来ると思ってはいけないことです。
 
人間が、その身の程を弁えず、神の御心を知って行っているという立場に立とうとすると、神のためにと勘違いして、やたら讃美しまくるようになります。発言がカルトに似て一方向になり、視野と思考が狭小化して、自由な思考が妨げられ同じ言葉が多くなり、声だけが大きくなります。
 
 
信じられることは、信じるようになることは、人間性で理解できて、人間性で共感できることです。それらが心を動かすからです。信仰を固定することは、動こうとする心を止めることであり、祈りによって折々に与えられる癒しよりも、固定して成長しない凝固と思考停止を願う反信仰であります。
 
聖書にはたくさんの奇跡が書かれていますが、人間が、神とキリストから受け取ることが出来るのは、人間の知性の範囲で理解できることであり、人間の感性の範囲で共感できることです。つまり、人間として、心の奇跡は、しんみりと受け取れますが、物や肉体の奇跡は信じ込んではいけないことです。
 
物や肉体の奇跡は、神のわざであり、人間の生き方とは異なるからです。人間を超えた物事を理解できるのは、人間を超えた存在になることですが、地上の人間である限り、人間を超えることはありません。その弁えが信仰の節操です。神を恐れるという言い方もします。
 
神や聖霊が教えてくれたからだ、と言うならば、超えた存在ではない人間に、教えたのが神や聖霊だと、どうして分かるというのでしょう。恐らく、大方は、その人の自己顕示欲だと思います。
 
そこにおいて人間は、神を恐れているか否か、神の前に敬虔であるか否かが表れてきます。神聖を知らない私たち人間が、神聖が教えたと言い張るのは傲慢です。神聖を振り回す人は、自らを神聖とする信仰自慢と人間離れの自分信仰です。
 
物や肉体の奇跡そのものを信じることは、人間を、人間らしい心の成長から遠ざけ、超常の超人願望に結びつける、という危険な方向を持つからです。人間が理解できて、感動できて、信仰になるのは、生きている人間の心を動かす言葉です。
 
物や肉体の奇跡を信じるのは、ご利益信仰に過ぎません。物や肉体の奇跡は、人知を超える神を恐れるためにあり、恐れるべきことであり、神にお任せするしかないことです。人知を超えている奇跡を、人知が理解することは出来ないのです。そういう奇跡は、人が生きる縁(よすが)にはなりません。
 
分からないことは神にお任せする。このことは、限りある人間の能力を思えば当然であります。物や肉体の奇跡は最初から分からないことであります。
 
したがって私たちは、奇跡で救われた人が、なぜ、いかなる経緯で救われるに至ったか、キリストが、なぜ、その人を憐れんだか、という、心の奇跡または魂の奇跡、それこそ軌跡、すなわち、人間の心で追えることを考えることが必要です。
 
信仰においては、物や肉体の奇跡そのものに拘泥してはいけません。物や肉体の奇跡で救われると信じるのは、まさに、キリストを試みた悪魔の誘惑にあるように、石がパンになる=物への奇跡、この世の栄華によって悪魔を崇拝=奇跡の実現で神ならぬ者への崇拝へ向かうことです。
 
現にそういう超常妄想カルトがいて、人を騙しているのがこの世界です。もはやそういう者は悪魔にしか見えません。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
4:3
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。 
4:4
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。 
 (マタイ4:3-4、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
4:8-9
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 
4:10
するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
 (マタイ4:8-10、新約聖書)
 
 
知性と感性は、特別な才能ではありません。神が人に与えた賜物として、人間ならば誰でも持っているもので、その中に不完全ながら、思慮が含まれ、理路と分別が含まれ、良心と共感が含まれ、温もりと潤いが含まれ、かつ、成長しています。
 
人は、その賜物によって、聖書を理解し、信仰に至ります。人間の信仰理解は、完全な理解ではなく、心を動かすものを受け取ることです。
 
聖書は人の心を動かします。聖書から、そして、体験から、神とキリストに出会い、共感し、聖三位は、信仰の対象であって、敬って友だちのように仲良くする対象ではありません。信仰は、動かし気づかせるのであって、固定することではありません。
 
信仰は、固定した安穏ではなく、成長する共感なのです。信仰者は、訪れる様々の出来事や疑問に揺れながらも、去りがたい愛と希望と信仰に生きることになります。そこに不変の境地はありません。共感と学びと成長を促す道があります。
 
神を知ることは、人間が自らの罪深く不完全なる身の程を知ることです。キリストを知ることは、人間が、キリストからの共感の尊さを知り、自らが生きて共感を伝えることの尊さを知ることです。信仰は、超常が、超常ではない人間に共感することを知った人間が、そこに生き方を見い出してゆく道です。
 
 
※ 
 
神は、全知、全能、絶対、完全、永遠、不変の存在です。
人間は、全知ではない、全能ではない、絶対ではない、不完全、永遠ではなく限りがある、変わりやすい存在です。
つまり、神を知ることは、人間が自らを知ることです。神を信じることは、人間が神を恐れ、自らを弁えて生きることです。
 
神ならぬものを信じてしまうと、神を信じるために必要な知性も感性も損なわれてゆきます。心について考えない者が受け取るのは、手っ取り早く得をしたいがための奇跡と超常であり、あるいは知っていると自慢するために他なりません。
 
それゆえに、そういう者は、理解も共感もなく自己中心に、やたら讃美しまくって、奇跡の必然を自己暗示して、信じ仰ぐ希望ではなく、思い込み信じ込む固定観念となり、心を訂正不能にして、柔軟性と共感を失ってゆくでしょう。
 
このような信じ方が、思い込み信じ込むカルトの信仰?であり、自分で神を決めつけてしまう信仰です。そうなると、まず自分の人間性を破壊し、次には関わる人に作用して、他者の人間性をも破壊してゆきます。それは人間離れの心性を固定して、信仰のカルト化が始まってゆくプロセスなのです。
 
 
思い込み信仰

思い込み信仰
 
 
(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年06月06日、再録+加筆)
 
 
 
  わからないと
 
わからないと
なぜ言えない
 
まずいものを無理やり飲み込んで
頭のどこかから笑みをとってつけて
力み続けるつもりか
飲み込んだのは食べ物だったと
なぜなら飲み込んだから
という理由しかないのに
 
わからないと
なぜ言えない
 
辻褄を合わせて硬直した顔は
喉に引っかかった異物のために
すでに歪んでいるのに
誰にも文句を言わせないと
ここからは通さないと
道を塞ぐとき
思いも塞がってしまうのだ
 
わからないと
なぜ言えない
 
絶対に耐えられるのか
本当にわかっているなら
わかっているという顔をして言ってくれ
 
 
  わかったと
 
信じて疑わない信仰は
何を信じてわかっている
信仰を信じられる自信があるというのか
 
投げかけられた笑みは
バケツ一杯ひっかけられた冷たい水だ
 
哀れみの施しを受けて
この身はずぶ濡れだというのに
たった一歩の歩み寄りさえできないほど
この身は凍りついたというのに
 
今も変わらない信仰で
明るく笑っていられるなら
わかったと信じていることが
試されるときまで
 
読み方が悪かったのではない
書き方が悪かったのだと
飲み込めない異物を
残したままにしておこう
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Megmix43
@hamayokomegumi
「幸福の科学を下支えするカルチャーは「努力・精進」です。」と建て前では「努力・精進」を謳っておきながら、「英会話ペラペラ祈願」とか「強力ダイエット祈願」とか「突然秀才になるための祈願」とか自助努力を否定する祈願ばかりなのは何故だろう?しかも成就率は金額に比例ww
午前8:21 · 2021年5月24日·Twitter Web App
https://twitter.com/hamayokomegumi/status/1396607209417547778
 
ツイート元ではなく、ずっと、楽山を批判しています。「努力・精進」をしなかったし、する気もないのが楽山です。ゆえに、霊とか、超常とか、自分の浅薄な結論で宗教を語っても、そこから進歩する生産性がありません。不都合を総て無視して、自己愛の自己満悦に浸る異常者だと思います。
 
そして、都合のよい文言を探しているだけなのに読書家気取りで、例えば「心の理論」という心理学を、心霊に結び付けて、霊が分かるっぽい自覚を語り、自分を霊能者や学者と同列に並べて、自己満足しているだけなのです。これだけ孤独な慢心に陶酔し続ける人は、正常だとは思えません。
 
楽山には、決して、関わらないでください。詭弁で、混乱させて、相手が疲れるのを、楽しむサディスト的な人格であり、まともに受け取っていると、こちらの、理路と感性が鈍麻してゆきます。この約2年半の間、楽山を読んできて、何か良いことの糧(かて)になったことは一度もありません。
 
※ 
 
人間は、何か分からないことに出会って、悩み苦しみますが、その袋小路や堂々巡りから、分からない自分、限界のある自分、不完全な自分を、自覚するときに、そのことを、正直に祈る相手を得ることは、恵みとなり救いとなりうるでしょう。
 
信仰は、超能力が身についたり、矛盾のない神聖の仕組みが分かったから信じることではありません。そういう思想は、むしろ、信仰とは逆で、思い上がりの原因になるだけでしょう。ゆえに、神聖が分からない・・ということは、信仰の動機にこそなれ、決して、信仰の否定にはならないのです。
 
楽山は、この点において、正反対の先入観を訂正不能に持っているために、神がいるなら悪を退治しないのはおかしいじゃろ・・などと言って、神を否定できた気分になるのです。この幼稚さは、思考力と感受性を育て損なって、異なる意見や批判を無視してきたからでしょう。
 
さらに、楽山は、信仰の代わりに、何か救いになることを提示できるかと言えば、何も用意してはいないのです。楽山の言ってることは、神義論・弁神論でもなく、もはや、論でさえなく、宗教嫌い以上に、自身の高慢からの、詭弁説教であり、病的ナルシストの症状に過ぎません。
 
極端なことを言えば、楽山の、元々の本来の人格が見えません。時々に、様々な、芝居、装い、偽装、詭弁、嘘、成りすまし・・を演じているのでしょう。本音というものがなく、虚偽の人格だけが豊富なのかもしれません。私は、楽山が表してきた偽りを批判していることになります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の文章は、真剣味がない、新しいものがない、深みがない、だるい、独創性がない、良さそうに思えても洞察がない、読む前と呼んだ後で広がるものがない、しばしば詭弁であり、幼稚な短絡であり、印象操作であり、刷り込みであります。
 
楽山に疑問を投げても何も返ってこず、楽山は、同じことを繰り返してきます。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、共感がないからです。議論は進まず、訂正不能の楽山の言に惑わされていると、人格も、響きを失い、鈍く乾いてゆきます。
 
 
 
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  矢印の人々3
 
 
神話と奇跡信仰に生きる人たちは、都合のよい出来事を奇跡に結びつける。「何度、奇跡に救われたことでしょう」「私たちは、いつのときも安らかです」・・怪しい宣伝文句になってゆきます。カルトに顕著ですが、キリスト教にも、そういう傾向を持つ人がいるようです。
 
自分に都合の悪い出来事、悲惨な死や自殺については、語ることが背教であるかのように、無かったこととして口を閉ざし、記憶から消してしまうかもしれません。考えても結論は出にくいけれど、本来、最も重要な人生の課題なのです。
 
ひどい偽善者になると、強烈なベクトルを持っていて、いつも自分の味方をする神への信仰になり、違うベクトルに対しては、びくともせずに、逆に、へし折って悔いることがありません。
 
そして優しさのつもりで、気に入らない人に対して、冷ややかに「彼は少し冷静さを欠いたようです」というような、慇懃無礼な冷酷さだけが目立つことがあります。
 
言い古された言葉を並べただけで、納得し陶酔するような、彼らがこしらえた感謝のレセプターは、人間的感性のレセプターを押し潰すほど強力な条件反射になっているでしょう。人間同士の共感のない讃美には、救いの共感も生まれません。
 
いつどこで起こる災いも不幸も、自分と同じ信仰を持たないからだという因果律を当てはめて、ひたすら硬直した薄笑いの伝道を続けるでしょう。いつどこで起こす災いも不幸も、不都合な因果を無視する彼らの黄金律によって、すべて信仰の名の下に隠して、彼らは結束し増殖するのです。
 
彼らの強さによって、何度、正直な人間性は潰されてゆくことでしょう。彼らは、実に、まるで肉欲のように、いつも単方向のベクトルを突出させ、固定したレセプターによって机上の奇跡を引っ張ってくるのです。
 
 
 
注意してください。
世の中には
やさしい言葉しか使わない信仰者がいます。
やさしい言葉しか使わないカルトもいます。
やさしい言葉しか使わない病質者もいます。
 
優しい言葉や、丁寧な言葉を書いて、理路や文脈に隠された悪意を隠している者がいます。いたわりの言葉は嘘で、へりくだりは芝居です。じわじわと恣意の狭小な思想を刷り込んできます。そういう人の言は、思想も体験も、実感がなく、月並みで、単調で、感動を与えないのが、特徴です。
 
穏やかさ以外を隠して表に出さず、いつも余裕ありげに振る舞い、悟りの境地を得ているふうの、うわべだけの偽信仰者や偽伝道者たちの穏やかでない正気も狂気も、私は書いてゆくしかないようです。そういう人は、正直な助言をせず、正直な祈りをしない人たちです。
 
 
思い込みの単方向

思い込みの単方向
 
 
(2011年)
(2019年)
(2021年)
(2022年06月05日、再録+加筆)
 
 
 
  存在について
 
私たちが存在し、存在していることを自覚しているのは、いかなる科学的、または、哲学的プロセスを経ていても、全て、私たち人間の五感を通して得られたことを元にしています。つまり、五感のない存在は、何も認知しえず認識しえないという厳然たる事実があります。
 
私たち人間は、五感を通して、自他の存在を受け取っており、それ以外を得てはいません。そこから感受し、思考によって、この世界の有り様を考え、認識しようとします。私たちは、全能者、あるいは、時空の摂理が設定した舞台で踊る踊り子なのでしょう。
 
 
 奇跡について
 
肉体の復活を実際に起こったのだと信じしまうと、それは驚くべき超常の奇跡だから、信仰の中心になり、日常の出来事や、心よりも優先されやすくなります。そうすると、自分にも奇跡が起こることを信じることが中心になるでしょう。
 
私たちは、超常の奇跡が起こるから信じたのでしょうか、否です。キリストの愛と共感に惹かれて信仰者になったのです。それなのに、分かりもしない魔法のような奇跡が起こることを信仰の中心に置いてよいのでしょうか、否です。
 
驚くべき超常の奇跡については、・・起こったかもしれないし、起こればよいけど、"分からない" ですと答えるべきなのです。神のものは、神に任せるべきであって、私たち人間が、あったなかったを決めるべきではないということです。超常の奇跡に依存するのはカルトのやることです。
 
私たち一人一人の、奇跡を信じます・・という告白において、私たち人間にとっては、物や肉体の超常奇跡ではなく、人間としての心に起こって、共感できるゆえに生きる縁(よすが)となる魂の奇跡こそ、信仰の中心にあるべきなのです。
 
 
 
  人の季節
 
うっとうしい梅雨である
眠れない夜である
と思っているうちに朝は早く
日差しはなく
薄暗く
薄明るい
 
ゆるさない
と幾度も心の中で
わめいたと思うのだが
どういうわけがあったのか
特定の人に対してだったか
背教のつもりだったのか
 
それらよりもずっと多く
自分に対してだったような気がする
言った後で何の救いも
希望もなくなることに
おののいて
聖書の幾頁かをめくる
 
特別新たな感動が
生まれるわけでもなくて
 
もはや信仰は凝り固まった
しこりのようだと考えるけれど
 
しこりはまだ
ほんのわずかに
熱を帯びている
ぬくもり
と懐かしい友を呼ぶようにつぶやく
 
ひょっとしたら
ゆるさない、ではなくて
ゆるされない
ゆるされるものか
であったかもしれない
 
熱は癒え
冷たい氷は溶け始め
また新しい罪が生まれる
ゆるしていただくほか
救いも希望もありません
と産声(うぶごえ)を上げる
 
あらゆる季節の
人間の
冬の終わりに
幾度も幾度も冬
の終わりに
 
 
  夕日と私
 
水平線のかなたに沈んでゆく夕日
太陽から見れば
地球の輪郭の上に
最初から見えない私
私は夕日と呼んでいる
夕日は名付けない 何も
 
人が物を表す
物が人を表す
 
やがて海は去り
道は流れ
街は近づき
光が増え
減って
いきなり
闇を脅かすものが侵入する
私の部屋だ
部屋の私だ
一日の終わりだ
誰のだ
 
 
  酸素
 
酸素が必要だ
 
目は開いている
呼吸が止まった
 
わずかに声帯を震わせて
圧迫された息が解放される
 
 0・一秒いや0・0一秒
 気道の中に閉じ込められた空気は
 誰にも見えない闇の中
 誰にも見えない方向に
 壁を打ち破ろうとした力
 熱の加速
 神経が電撃となり
 筋が一挙に統制され
 収縮したことは確かだが
 
呼吸が再開した
収縮を繰り返す筋肉
目は開いている
動いている
眩しい視線と
光が天に走る中
呼気のように汗が吹き出す
さらに激しく取り込まれる空気
 
酸素が必要だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
不感不応の単方向の意見を繰り返してゆくと、その間、無思考になり、修正不能になり、それを、常識であるかのように、繰り返して、自ら、考えない人生をアピールしてゆくことになります。単方向の、単一次元の、何の面白みもない頭から、平気で、ぬるりと、つんのめってくる見苦しさです。
 
 
 
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