ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。サポートに問い合わせて、ようやくコメントボタンが付けられました。ソーシャルボタンは、コメント欄の上に表示されることも知りませんでした。

 
  神を語る軽口
 
   「宗教を語る軽口」コメント欄
    http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4940772.html
    シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、神の父性が分かるらしいです。比喩的に男性的だから、創造主を、父なる神よ、と祈ることはありますが、神は父性だ、父だ、男だ、などと決めつけることは出来ないのです。神は、神です。そういう神と人の違いの弁えを、いくら言っても分からないのが、シャロームです。
 

1. shalomです。おはようございます
 2019年12月15日 08:35

「神を、父性とも、母性とも、決められる人間はいません。」
 」
イエスさまは弟子たちにこう祈りなさいと言い、
「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように・・・」
と教えられました。
また「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。人をご自分のかたちにかたどって、男と女を造られました。」(創世記1章27節)と書かれています。
「神を、父性とも、母性とも、決められる人間はいません。」というあなたの考え方は聖書信仰に基づいてはいません。
それとも「神に変ってst5402は言う」というおつもりですか。
われらの父よ・・・父という言葉は単に性別を意味するのではなく、

 
それくらいは知っていますが、神は、人間の父性の概念で語れる御方ではありません。
 
あなたシャロームは、ボケたのか、神を、父性と決められると思っているようだが、人間は、人間の父性しか知りません。創造主の父性を決めつければ、決めつけた人の頭の中に、神を置くことです。それこそ、神と同格のつもりでいる偶像崇拝であるという証拠なのです。
 
私が言ったのは、人間の父性や母性で語れない、語れると思う者は、神を恐れない者だ、という意味です。しかし、あなたシャロームは、気安い自分信仰なので、創造主を決めつけてしまうのです。
 
父なる神よ、というのと、神は父性だ、というのは全然違います。後者は、人間の傲慢です。あなたには、分からないでしょうね。
 
それに、母性を大事にしているのは、マリアを大事にしているらしい楽山のほうです。マリアは、母性だが、楽山の決めつけが酷いので、上のようなことを書いたのです。
 
だから、文句があるなら、楽山に言ってください。また、滑っているシャローム。
 
キリストは、神を父と呼びます。それは、神の子だからです。キリスト信仰者が、神を、父と呼ぶのは、人間の言葉で本当に父なのかは分からないけれど、秩序のためではなく、キリストが赦してくださるであろうという理由に他なりません。
 
シャロームは、秩序がどうのと言っていますが、そのシャロームは、反キリストであり、秩序を云々できる人ではありません。神は父性だ、などとシャロームが言うのは、それだけ、自分は知っているという思い上がりに他なりません。
 

関係のあるべき秩序を表している大切な意味があるのです。
他の人の信仰や考え方を批判するのであれば、聖書を熟読してください。むりでしょう・・・か?・・・ね!

 
あなたが信仰?と呼んでいるものには、何の秩序もないのに?・・冗談じゃない。
 

今日も少しだけ読ませていただきました(苦笑)
先日コピペしてst5402さんの昔のコメントに(苦笑)と書いておられたのを思い出しましたので恐る恐る書いてみましたが・・・・
何かなが~いコメントありますか?
新しい年もまたお訪ねすると思います。
よろしくお願いします。

 
何言ってるのか分からない。あなたは、自分が覚えていることは、相手も覚えているという前提で言っているようだが、人間理解が無い証拠になるでしょう。
 
特に、あなたのような反キリスト偽善者のことは、資料として以外、早く忘れたいだけなのです。
 

出来れば新たな歩みをしておられるst5402さんのブログ生活と出会うことができればと期待しています。
また新しい批判の標的になられる犠牲者がないように・・・
とは言え、今年もまだ終わったわけではありませんので、

 
あなたの犠牲者を出さないためには、あなたシャロームが沈黙する以外ないと思います。
 

st5402さんが楽山さんの記事について性懲りもなく云々・・・と書き綴っておられるのは、まさに性懲りもなく8年も続けられたあなた自身の姿を、わたしや楽山さんに投影しておられることにお気づきになられるようにと思います。
Merry Christmas!
shalom!

 
前にもありましたが、自分の反省も出来ない人、あなたシャロームは、全部、私が悪いと言わないと気が済まないのでしょう。これが、投影という言葉の悪用というものです。あなたシャロームのような詭弁家には、こういう学問的に見せるやり方が重宝しているのでしょう。臭い話です。
 
(ネットより)
心理学における投影(とうえい、英: Psychological projection)とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき(否認)、自分自身を守るためそれを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう(帰属させる)ような心の働きを言う[1][2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%95%E5%BD%B1
 
相手のせいにするときに使うのは、何の妥当性もない悪用だということです。
 
だから私は、あなたの企みによる勝手な決めつけを投影とは呼ばず、また、あなたがやったように使うことは、しないのです。
 
あなたシャロームの言は、相手である私のせいにしているだけだからです。
 
みじめですね、シャローム・・
 
 
シャロームのようなカルトにおいて典型的ですが、聖霊や聖霊体験を口にする回数が多いほど、自分の言動に、信仰上の箔を付けたい欲望のほうに向かっていると考えるべきでしょう。
 
聖霊は聖三位の一つ、人は口に恐れを持つべきです。
 
自分の心の良いと思うことは、みな、聖霊の・・というような讃え方は、過剰な聖三位への讃美の弊害であり、神聖の名前だけを出すのは、カルトの自己正当化の常套手段であることを知っておく必要があります。
 
神は、その立場を考えれば、人に恐れられる必要はありますが、全能を考えれば、人に褒められる必要はないのです。心のこもっていない讃美言葉は、いちいち、神に見抜かれていることを肝に銘じるべきでしょう。
 
 
キリスト信仰は、知識や教養ではありません。条文でもありません。しかし、キリスト信仰には、ある種の、受け取る器が必要です。
 
その器は、完全?になり、負けない?ようになる、という信仰を求めるところには、決して生まれません。
 
何故なら、そこは、信仰を入れるために空いていなければならないからです。空いているからこそ、他の余計なものがないからこそ、そこには、信仰の、住まうところとなるのです。
 
器が、空っぽであり、自慢したがる高慢も、立派になりたがる欲望も、そこを支配していなければ、そこは、信仰という、潤いと温もりに、どんなものよりも先に、満たされるでしょう。
 
そこは、悲しみの涙が、解放され、立ち直るための回復の温度に、変わるところです。
 
キリストが生まれ、人間性をもって30年+公生涯を生きたのは、まさに、そのためなのです。
 
 
(2019年01月04日)
 
 
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  安易な感想
 
 
   大晦日
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12563563269.html
   楽山日記(a)2019-12-31
 

上馬キリスト教会さんのツイートを見てると、いろいろなことが知ることができて楽しいのだけど、この話もおもしろい。

上馬キリスト教会@kamiumach 
【今日は何の日】 12月31日 大晦日 日本ではクリスマスは友達や恋人と過ごしますが大晦日や正月は家族で過ごします。 キリスト教国ではクリスマスは家族と過ごしますが大晦日は友達や恋人と騒いで過ごします。 皆さま良いお年をお迎え… https://t.co/NtG5Zz14f9
2019年12月31日 06:35
 」
当該ツイートの返信に、教会で年越しそばを食べる話がでてるのもおもしろい。キリスト教というと、ちょっと異質で、敷居が高いような感じがしたりするけど、教会で年越しそばと聞くと、ぐっと身近に感じてくるのだから不思議だ。

 
キリスト者は年越しそばを食べないと、楽山は思っていたようです。このように、心のない楽山は、神聖の言葉からの安っぽい短絡や、文化的行為だけで、宗教を考えています。
 
年越しそばで、身近に感じるというのは、いったい、何を宗教だと思ってきたのでしょう。
 

今年は、上馬キリスト教会さんのツイートでいろいろなことを教わったけど、大晦日にまで教わるとは思わなかった。ありがとうございます。
また今年は、ヤフーブログから、アメブロに移動して、新たにさまざまなブログを訪問させていただき、たくさんのことを教わり、刺激を受けました。ありがとうございます。
みなさま。よいお年を!

 
自分の、至らなさや、弱さや、欠点や、悪や、罪や、偽善や、冒涜を、全く、考えず、気にもしないで、このような、白々しい感謝と挨拶を書けることが示しているのは、上から目線で良し悪しを語ってきた楽山の立場が、たとえ感謝や挨拶の世辞を書いても、それこそ、人に義を与える神の立場に近いところに思い上がり続けていることを示しているだけなのです。
 
楽山の言には、随所に、通念的な概念や話と神聖についての言葉を組み立てると宗教や信仰になるとでも言うような思慮の浅さが表れてきます。信仰の話は、高度で難しい話ではありませんが、人間の罪性を学ぶためには謙虚さが必要ですし、癒しと愛を学ぶためには人間らしい心が必要です。楽山やシャロームなどの易坊類のように、話の通じない者たちというのは、前から言っているように、人間らしい心が無いのだろうと思っています。
 
それと、反論も弁明も出来なかったことについて、無かったかのように無視して、また続けて書くことができるというのは、彼らが思っている以上に、異常なのです。単なる無知ではなく、返せなかったということに恥ずかしさを覚えない情緒の欠陥を想定せざるを得ないのです。いわゆる無恥、恥知らず、羞恥心の欠如、ということになるのです。
 
それとも恥や罪を、むしろ喜び~勲章みたいなものとして、なお、相手を笑ったり、平然としていたりできるということでしょうか。だとすれば、彼ら楽山やシャロームなどの易坊類は、ますます、誰も巻き込まれてはいけない者たちということになるのは当然なのです。それはカルト以上に狂気~病気なのですから。
 
 
   『HK/変態仮面』を観たのだが…
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12563557373.html
   楽山日記(a)2019-12-31
 

『HK/変態仮面』を観た。パンツをかぶったヒーローが出てくるコメディというくらいのことしか知らなかったのだが、想像以上のヘンタイだったので驚いた。
主人公は女性用下着をかぶって変身するのだが、使用済みでなければ変身できないだとか、自分の履いているパンツをぐいと上げて股間をもっこりさせてパワーアップとか、必殺技は自分の股間を敵の顔にぐいぐいこすりつけることだとか…まさに下ネタ満載だ。

 
こういう感想文を書くのには、とても不適切なブログをあり方を示してきたのが楽山であります。こういう記事は、カムフラージュと言ってよいでしょう。
 
こういう記事を書いて、笑い合いたいのなら、信仰や宗教を否定するような、決めつけるような記事は書かないはずなのです。依怙贔屓と詭弁と誘導で出来ている記事しか書けない楽山は、真剣な記事のあいだに、オチャラケ記事を挟むのが、ごまかしですと言っているようなものです。
 

しかもヒロインは、そういう変態仮面をかっこいいとして恋するのだからおかしい(笑)。悪者は戦闘中に、自分で自分の乳首をすりすりし続けていたのも見逃せない。
これはもう完全にネタ映画になってる。ただそれでも主人公が正義の実現のために葛藤する場面はいろいろ考えさせられるものはあった。その具体的な内容はこういうものだ。
主人公は普段は無力で悪に対抗できない。悪に立ち向かおうとしても返り討ちにあう→でも変態仮面に変身すれば無敵となって悪を倒し、正義を実現できる→ただし変態仮面に変身するには新品の下着ではなく、使用済み下着をかぶらなくてはならない→使用済み下着を持ってない主人公は正義の実現のために女子更衣室に忍び込まざるを得なくなる。

 
ある意味、楽山は、変態仮面みたいなものです。柔和な常識人を装いながら、シャロームの狂信条に呼応して、味方して、かえって、自らを辱めてきたのです。
 
哀れと言えば哀れですが、そのような情など掛けても意味がないのは、楽山自身が、シャロームに酷似していて、無反省、訂正不能、霊が分かるっぽい自覚で、ずっと、とても常識人とは思えない記事とコメントを書いてきたからです。
 
ちなみに、楽山を若者と思っているなら、じっくり見ていくか、関わらないほうがいいでしょう。若者とは思えないところがあるのは、若者言葉が、本当に若者とは感じられないほど、センスがなくて、とても不自然だからです。
 

これは「なんじゃ、そりゃあ!?」という理屈ではあるが、ひょっとしたらこれって必要悪をよしとする人に対する皮肉、風刺なのだろうか。考えすぎかな。どうだろう。

必要悪とは道徳的、法律的には悪いことであり社会的にマイナス効果があるが、それがなかった場合により大きなマイナスがある時に存在を肯定される悪のことである。
必要悪は法律で決まっていることもあるし、暗黙の了解で決まっていることもある。悪人の開き直りにも使われることもある。必要悪もまた悪であることを忘れてはいけない。 !}
・必要悪とは (ヒツヨウアクとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%BF%85%E8%A6%81%E6%82%AA
 」
必要悪について、自分は頭ごなしに否定するつもりはなく、そういうこともあるかもしれないと思ったりもするのだが、本作をみるとこの点についてはもうちょっとよく考えてみた方がよさそうな気はしてきた。

 
言ってみれば、大人数の犠牲と、少人数の犠牲の、どちらかを選ばざるを得ないときに、後者を選ぶような判断と行為のことでしょう。楽山は、ボンヤリ言語の書き方で、また、分かってない自分をごまかしています。
 
はっきりした意見が言えず、苦し紛れに、分からないくせに、「頭ごなしに否定するつもりはなく」「あるかもしれない」「よく考えてみた方がよさそうな気はして」と言って、分かってるんですけどね的な印象を与えようとする詭弁の一種です。とても、みじめな、楽山。
 

でもまあ、それはそれとして、こういう場面は見ていて和むなあ。ぎこちなさが、かわいい。

 
このような、おどけは、小芝居であります。今までも、こういうオチャラケ記事を挟んできたのが、楽山なのです。
 
そして、大事なところでは、シャロームの味方をして、理路のない詭弁を弄してきたのも楽山であります。こういう、感じない、そして、考えない、気に入らないことを全部無視する人の存在によって、シャロームは、ネットで笑いながら生き延びてきたのです。
 
 
  楽山の「st、楽山 問題を振り返る」
  http://mn266z.blog.jp/archives/22718002.html
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12561107920.html
 
この記事で、楽山は、次のように言っています。
 

楽山日記とは何なのかと言えば、実際のところは、平凡人が平凡なことをつづっているだけのブログだ。

 
しかし、楽山は、平凡人でありながら、信じる人にしか分からないはずの宗教の深い真実について、恐れも慎重さもなく、宗教知ったかぶりの幼稚な先入観からの固定観念と詭弁で、良し悪しを語ってきたのです。平凡な人なら言わないような宗教と信仰への侮辱を、当てつけと、お芝居と、曖昧なボンヤリ言語で、無反省に向けてきたのが楽山です。
 
楽山は、自分のお粗末ぶりと裏腹なインテリ気取りの思考力のいい加減さを、ごまかすために、このような、おどけ芝居の記事を挟んでくるのです。この、おどけの軽口で平凡人の振りをしても、決してそのような身の程を弁える男ではない。
 
好き放題に、平凡人の弁えはないのに、専門家の鋭さも深さもないまま、うんざりするような粘着性の記事を、すっとぼけて書いてくる独りナルシシストの傲慢人なのですから。
 
そういうところ、実に、シャロームにそっくりであります。そして、シャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という妄想を熱心に執拗に支持していたのが、楽山であります。気取りだけで、満悦する楽山の、おどけ芝居に騙されないでください。
 
 
  映画『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12563896877.html
  楽山日記(a)2020-01-01NEW !
 

本作のストーリーは、米英は、街中の一軒家にテロリストたちが集まっているのを確認し、ミサイル攻撃をしようとするが、その家の前にパン売りの少女が立ったことから、軍人や政治家らの間で議論がはじまるというものだ。
自爆テロをたくらんでいるテロリスト殺害のためにミサイル攻撃をすれば、高確率で攻撃対象の近くにいる少女をも死なせてしまうことになる。けれども少女のためにミサイル攻撃を中止すれば、テロリストらを見逃すことになり、自爆テロによって、より多くの犠牲者を出すことになる。この二つの選択肢のうち、どちらを選ぶかという議論だ。

 
この記事とは違うけれど、ずっと前に書いたことで、聖書の汝殺すなかれ、という教えについて、罪を考えるうえで重要なこととして、
殺人犯が目の前にいる。今なら銃で殺せる。どうするべきかという問題で、殺せば教えに反する。殺さなければ殺人犯は、自分を殺すだけでなく、さらに殺人を繰り返すだろう、さらに百人を殺すかもしれない。殺すべきか、殺さざるべきか、どちらが正しいか、どちらが罪であるか、ということを書いたことがあります。
 
外国の刑事ドラマや映画などでは、殺すことが多いようです。
 
そのときの私のテーマは「どちらを選んでも罪」だったと思います。罪を犯さない正しさは、人間には不可能である、罪なき者は一人もいない、というようなことだったと思います。
 
道徳であれ、宗教であれ、教えというものは、教えだからと、単純に守ろうとすると、ときに、矛盾を来すことがある、という思考実験的な話だったと思います。そこから、人間は、罪から逃れることは出来ない、罪なき人はいない、ということが言いたかったのかもしれません。
 
記事の話とは、どちらも罪に結び付くという点で、共通していると思います。
 
描かれるテーマは、ほかでもない、罪・・だと思います。
 
楽山は何を受け取ったのでしょう。
 

本作では、この議論が延々と続くのだが、どの登場人物も自説を主張するときには感情を抑制して、論理を通しているところは印象的である。

 
論理が通っていたのでしょうか。論理を通すことができるのでしょうか。通らない場合だからテーマになっているのではないでしょうか。
 
似たような選択において、映画などでは、その町や人々には知らせず、ミサイル発射というシーンがあったような気がします。それで正しいとは言えないが、やむを得ないという理屈になるのでしょう。
 
この問題は、つまり、どれが正しい、という結論の出ない問題なのです。
 

大きな不幸を回避するために誰かに犠牲をしいることは許されるのか、大悪を裁くために小悪を犯すことは許されるのか…といったことは、昔からある議論だけど、上のような状況がありえることからすると、まだまだこの問題は解決できそうもないな。必要悪という考え方は嫌いだけども、それをきっちり否定できないところはつらい。

 
考えただけでも、そういう場合があることは想定できるでしょう。好き嫌いではありません。
 
必要悪は、正しいか、ということでありますが、正しい悪というのは矛盾律でもあるのです。人間は、そういう矛盾の中で生きているというテーマでもあります。やむを得なかった、というのは、不可避を表しているが、正しさを表すわけではないということです。
 
善悪の二元論的に、罪を犯すな、という教えではなく、聖書の、罪なき者は一人もいないから、赦しが必要だという信仰の話にも結び付いてくる重要なテーマになります。
 

この人物は、終始、強硬に攻撃を主張していて、少女を犠牲にすることに何の迷いも感じて無さそうでサイコパスっぽかったが、最後には暗い表情をしていたのでやはり葛藤はあるのだろう。人間らしいまともな情緒をもちながら、責任ある立場に立たされている人はこういう時はかわいそうだ。

 
楽山は「人間らしいまともな情緒をもちながら」と書いて、結論は、責任者は「かわいそうだ」ということのようですが、小学生の作文ではあるまいし、書いてどうなるのでしょう。責任者の判断に命を左右される人あるいは人々のことを考えに入れなければ、感想としても結論としてもテーマとしても意味はないでしょう。
 
人間の罪というものを考えるうえで、不可欠の問題です。責任者「かわいそう」で済ませてはいけない問題だと思います。罪という問題の広さと深さと難しさを思い知らされる問題だと思います。「かわいそうだ」という結論や結びの言葉を拒む重みを持っているわけです。
 
 
今では、楽山やシャロームなどの易坊類、と呼ぶ批判対象者に、なんというか、私が、最初に反感に近い疑念をいだき始めたときの直感的な気持ちを表して、
 
・・うさんくさい・・、そして、・・いけすかない・・。
 
と言えば、彼らは、それを、無根拠に、こちらに向けて、返したつもりになるか、
あるいは、無頓着に、同じことを、平気で、繰り返し言ってくる。
 
そうやって、批判者が、うんざりするのを見て、納得~満悦するのだろう。
だから、関わらないことが、難を逃れる唯一の方法である。
 
・・ということを伝えるために批判記事を書いています。
 
 
(2019年01月03日)
 
 
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  先入観から固定観念
 
 
書かれた文字や言葉で平板な宗教概念しか受け取っていないことを指摘しても、宗教や信仰を知っているような固定観念からの見なしを語る癖をやめない楽山です。基本は、無宗教ではなく、反信仰だと思います。信仰は自分を空しくすることですが、楽山は、自己中心に、自己の下に、宗教と信仰を見ていることが表れているからです。
 
 
  ふりだしに戻る(抜粋)
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12563240017.html
  2019-12-30NEW !
 

思想宗教は、青年期以降にいろいろ凝ったり、かぶれたりもしたが、結局はもとの無宗教に戻ってしまった。自分にはやはり特定の思想宗教によって定められた教義や価値観に則って考え、行動することはできない。

 
宗教は信仰のためにありますが、信仰は、教義や価値観に従って考えたり行動したりすることではありません。メニューの中から、気に入った思想内容を選ぶのが信仰だと思い込んでいて、いつも、自己中心の思想からしか見ない人には、届くことのないものです。
 

一巡した後で、元に戻ったというのは、そう珍しくはない話だけども、どうも自分もあらゆる面でそうなっているらしい。元に戻ったというところだけをみると、それまでのことは無駄であり、徒労にすぎなかったようにも思えてくるが、ずっと同じところにいたのと、いろいろなところを巡って還ってきたのとでは、大分ちがうだろうし、経験という点では益があったと思いたい。

 
楽山の一巡は、いろいろなところを巡って、気に入った商品はありませんでした、というような受け取り方ですから、信仰とは、かけ離れた物見遊山の散歩をしてきたに過ぎません。
 
楽山は、信仰とは関係のない所を、堂々巡りしているだけなのです。そのような態度では、救いも恵みも気づくことはないのです。それに、まるで気づかずに、ペンを控えることをしないのが、楽山の高慢の表れです。
 
 
  罪の意識を利用して、人を操る?
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12563226265.html
  2019-12-30NEW !
 

加藤諦三さんの本はあんまり読んだことはないが、ツイッターに流れてくる言葉を読んでると、なるほどと思えるものは多い。たとえば、これとか。

 
(加藤諦三bot @心理学@katotaizobot )

相手の言うことに逆らったり、抵抗したり、断ったりすると、こちらが罪の意識をもってしまう時には、相手は要注意人物である。多くの人は罪の意識から相手の言いなりになる。そこが相手の付け目なのである。
2019年12月28日 04:34

 

こういうことは考えたことはなかったけど、過去を振り返ってみれば、「これを断ったら可哀想かな。冷たすぎるかな…」とか、「前にも断ってるし、そう何回も断るなんてできない」なんて考えてしまって、断りたいのに断れないという困った状況になったことはあった。
上のツイートのような見方を知ってみると、それこそが相手の狙いだったのだろうか。考えてみれば、そういう時の相手はやっかいな人が多かった。申し訳ないけどできないと断ると、怒って噛みついてきたりとか…。

 
宗教を、社交の上に載せている楽山です。
 
それに、楽山は、人を思いやったりすることができる人ではありません。約1年の間の言説に見られたのは、どこまでも自分基準で物事を考える狭量だけを感じます。「可哀想かな」「何回も断るなんてできない」なんて、真っ赤な嘘の芝居でしょう。「断りたいのに断れない」・・冗談じゃない。気に入らないことは、総て無視してしまう人です。悪質だ。
 

なんだか、そういう狙いで圧迫してきていたのだとすると、断ることに引け目を感じていたことがバカみたいだ。よし、今度からは、断る時には余計なことは考えず、きっぱり断ることにしよう。

 
断るか否かの前に、上に書いたような、思想という品物を選ぶ態度なら、宗教も信仰も語ってほしくないわけです。楽山には、知らない、分からない、という謙虚に相応しい自覚が欠けているからです。
 

蛇足ながら、メタリカのドキュメンタリーを見てたら、ジェイムズ・ヘッドフィールドが歌うことをきっぱり拒否する場面があったのだった。自分は喉が痛い、もう限界だ、だからこれ以上歌うことは御免こうむると。
自分はどうも根がどこまでも優柔不断でお人好しにできているようで、取り付く島もないほどきっぱりした拒絶は気が引けるのではあるが、今度からはジェイムズ・ヘッドフィールドになったつもりで、断るべきことは断ることにしたい。

 
まず、ミュージシャンが歌うのをやめることと、信仰を持たないことを、同次元で語ることは出来ません。楽山は、書けば、的を外してばかりです。
 
楽山は、悪意ある人です。このように、信仰を、軽く扱って書いて、気持ちがよいのでしょう。
 
 
  宗教の押しつけ
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12563222572.html
  2019-12-30NEW !
 

・海外「日本人はキリスト教徒的なのに…」 カトリック司教が語る日本での布教の難しさが話題に|パンドラの憂鬱
コメント欄を読むと、宗教の押しつけに対する嫌悪感はすごい。一神教もイメージはよくないようだ。
信者側からすると、私はこれで救われたという思いや、これこそ正しい宗教だという確信が強いほど、布教活動に熱心になるのだろうけど、一般人からすると、熱心に宗教をすすめられるほど、たとえそれが善意によるものであったとしても、押しつけと感じて迷惑するのだろうから、布教活動にまつわる問題はややこしい。

 
楽山は、いつものように、反宗教・反信仰の宣伝に専念して印象操作をしています。楽山は、一般人ではなく、宗教と信仰に強い偏見を隠し持っているので、宗教と信仰についても、一般にとっても、有害だと思います。
 

実際のところは、信仰観は人それぞれであってそれを一つにまとめ上げることは不可能であろうし、もし仮に唯一の正しい信仰があったとしても、人がそこに辿り着くには各人に定められた時があり、その時が来るまでは周囲がいくらやきもきしたところでどうにもならず、その時を早く招き寄せようと焦って働きかけても相手の心を頑なにするばかりでかえってその時を遠のかせることになりがちでもあり、結局は周囲にできることはその時が来るまで見守り続けることくらいしかないのだから仕方がない。

 
信仰観が、反信仰であるのが、楽山です。そういうベースだから、宗教も信仰も、余計なおもちゃと見なしているのです。一般的に、宗教の強制や強制的態度はカルトの特徴です。真実の宗教と信仰は、強制など出来ない本質です。
 
アドラー教に倣って、自己中を広めている楽山は、カルトの宣教を批判していますが、楽山のやり方は、ボンヤリ言語によって、"一般は・・ですよね印象"を植え付けようとしているのでしょう。こういうやり方をしてくるのが、軟派カルトの特徴なのです。
 
高圧ではなく、空約束でもなく、印象を吹き込み、刷り込んでくるのです。この記事も、はっきり言わずに婉曲的な書き方をしています。これは、言論において卑怯なやり口ということになります。
 

こういう考え方は、心が沸騰するほど信仰に燃えている熱心な信者には受け入れがたいことだろうけど、自分はかつてとある新興宗教に凝り、伝道活動をした経験からすると上のようなパターンは多かったし、

 
このように、楽山が、硬派カルトを批判しながら、自身の軟派カルトの刷り込みをしたり、クリスチャン芝居をしたり、批判されても書こうという執念深さを思うと、楽山は、とんでもない企みを持っていると判断せざるを得ないのです。
 

そのせいか宗教とは距離ができた今は、宗教を信じている時に必要なことは、人を裁いたり、善導しようとお節介をすることより、まずは自分を律しつつ、相手を信じて待つことではないかとつくづく思うようになった次第である。ちなみにこれは、宗教の布教活動だけでなく、その反対のカルト信者に対する脱マイコン活動についても言えることだと思う。

 
そう言いながら、反信仰を刷り込んでゆくのが楽山ですから、誰も読まないほうがいいと思います。自分を律するということが自己愛の強い楽山にはできないのだと思います。そして、硬派の高圧的態度ではなく、遠回しに、自分は一般人ですよ、という立場で、すりこみ、ふきこんで、ほのめかして、マインドコントロールしてゆくのが、軟派カルトの手口のようです。
 
 
  『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波文庫
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12563216235.html
  2019-12-30NEW !
 

前々から詩篇にひかれつつも、本文だけを読んでいるとなんとなしに自分の理解に自信が持てず心許無い感じがするし、詩篇講義というような本格的な書籍は難しすぎるし、どっからどう読んだらいいのだろうと迷っていたのだが、最近、岩波文庫の『詩篇』を見て、「おぉっ! これはいい!」と思えたのはよかった。

 
詩篇だけでなく、聖書全般に、楽山の感想文は、信頼してはいけないと思います。根拠は、今までの記事に書きましたが、とても何かを虚心に受け取る姿勢ではなく、上から見下ろして品定めをするように批評する立場で、その批評は、あまりにも的を外して、見当違いも甚だしいからです。恐らく、作為であり、自尊過大の評論家気取りの、興味本位に過ぎないので、聖書から何も受け取る気はない、ということでしょう。
 

岩波文庫は、自分にとっては若干敷居が高いのではあるが、本書では本文とともに、巻末には一篇につき数行の簡潔な解説があり、なかなかいい感じだ。ようやく自分が求めていた本に出会えた気分。本当はこれも自分には難しすぎるのではあるが、とりあえずこの本を通読してみることにしよう。
本を読むとき…特に宗教書を読むときは、自分の霊感に従って読むのがもっとも大事だという考え方はあるし、実を言えば自分もかつてはそういう考え方が強かったのだった。とんでもなく傲慢なことだけど、宗教書は霊的直観がなければ分からないし、それに欠ける学者の解説を読んだって仕方がないとさえ思ってた。

 
「宗教書を読むときは、自分の霊感に従って読むのがもっとも大事」・・楽山は、霊感が分かっているつもりなのでしょうか。その楽山の霊感は、楽山が書いてきた記事やコメントのどこにも響いていないし、意義のあることを何も提供していません。楽山は、霊感という言葉だけで、何も持っていないことが、何も表していないことに、逆に表れているのです。霊感があるっぽいという思い込みにしがみついているようです。
 
楽山は、前から、霊感?が大好きで、他の人は分からなさすぎるっぽい、自分は、霊感があるっぽい、仏様の心が分かるっぽい、みたいなことを言ったりしています。宗教をそういう霊感っぽいものだという先入観があり、人間として受け取る姿勢が欠けています。
 
前には、奇跡について、とんでもない詭弁を弄していました。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12562025912.html
 
恐らく理路も情緒も、シャロームと同様、損なっている人だと思います。
 
今まで、「っぽい」「ていうか」「かなあ」「かも」「でもまあ」などの婉曲表現は、受け狙いで、決めつけをごまかすための、ですよね口調の延長にあって、楽山のボンヤリ言語のひとつで、むず痒くなるような気持ち悪い表現です。
 

でも最近は自分の愚かさに気づき始めたのと、宗教にどっぷりつかるのではなく、やや距離ができてきたせいか、やはり霊感ばかりでなく、その書物の書かれた背景、一般的な解釈などについて専門家の見解を知っておいた方がよいと感じるようになってきた。宗教書に対するこういう向き合い方にはいろいろな意見はあるのだろうけれども、少なくとも今の自分にはこういう立ち位置が自然であり、必要でもあるようだ。

 
「自分の愚かさに気づき始めた」・・楽山に限って、自分の愚かさに気づくことはないと思います。自分がどんなに愚かでも、自分を高めないではおれず、人に、いちゃもんをつけるナルシシストぶりが続いています。
 
また、宗教も信仰も「どっぷりつかる」という本質は持っていません。宗教を嫌悪している者は、物言いも雑で荒くなるということです。楽山は、思い込み信じ込みのカルトと、信仰の区別も分からないレベルなのです。
 
「背景、一般的な解釈などについて専門家の見解を知っておいた方がよいと感じる」・・楽山を警戒してください。読んで都合の良いことだけに感想を書いていると思います。専門家の意見だからと、自分の都合で選択した情報だけを与えている可能性が大です。だから、楽山の勧める本を読む気にはなりません。いままでのことから、楽山は誤解と曲解だらけだと思います。
 
楽山の、宗教と信仰に対する作為的な姿勢においては、本についても、選択して記事にすることが可能ですし、上に書いたような、宗教を、おもちゃを見る感覚や、平板で幼稚な固定観念からしか見ないことなど、看過できない問題があります。
 
宗教や信仰について理解していないなら、分かっているふうに記事に書くべきではありません。分かってない自覚がなく、分かってる自尊だけだから、まともに書いているつもりになり、結果として、書いてくるものに深みも努力の跡も見られないのです。
 
分かっていないのだから、記事にせずに勉強するべきです。それができない、それをしないのは、楽山に、別の、執拗な、自己愛、作為、故意、悪意、企みが、訂正不能に、あるからだと判断しています。ゆえに、思慮のない分だけ固定して訂正不能になり、どこまでも打算と誤算で意志が働いて、お粗末なことばかりを書いてしまうのでしょう。
 
楽山の、自慢げに、批評家のように、本を読んだからと、書いてくるのは、いい加減さをごまかすボンヤリ言語とともに、読んで参考になる何ものもなくて、読むことを誰にも勧められない記事だから、批判しているのであり、これからも続けることになるのです。
 
 
(2019年01月02日、同日一部修正)
 
 
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  信仰とは
 
 
前に書いたことも含めて、折に触れて、まとめる作業は、人間の言葉の不完全性によって、遅々として進まず、また、私の凡庸なることもあり、人間の本性として不完全であることを承知の上で、なお、努めなければならない作業となっています。
 
 
神の存在も不在も証明できない、だから信じるのだ、ゆえに、信仰なのだ、と考えていたことがあります。しかし、その場合、何をどう信じるのかという問題があり、それは、人が、こういうことだと伝えても、その人の考えであり、信じる内容が、超常のことなら、どうしてそれが正しいか、超常なのだから、人に分かるはずもないことです。
 
思い込み信じ込んで、それを信仰?と呼ぶのなら、その信仰?が、何も癒せず、むしろ、心を狭く鈍くするばかりになるでしょう。このことに、気づかなくなったら、もはや、妄想を固めているカルトに過ぎないと言ってよいのです。
 
聖書を読んでも、聖書の筋書きを、いくら懇切丁寧に言って、こんなこともして下さると、聖書の中だけで説明しても、聖書解釈としても、現実の人間に生かせるものは殆どないと言ってよいのです。
 
そこを補っているつもりで、きっと助けて下さると現実を保証するような言い方をすれば、今度は、その責任を負わされることになります。
 
何が起こっても、これが導きなのだから、喜ばなければいけないなどと言ってしまえば、何でもありがたがる宗教になってしまうし、信徒は、先ず、受け入れないか、受け入れたつもりで思い込みを強くするだけでしょう。神の行為について、責任を負える人間はいないのです。
 
牧師であれ、信徒であれ、人に福音を伝えるとき、大事なのは、共感であります。信じなさい、救われますから、ではなく、共に人間であるのだから、一方が、もう一方に出来ることは、教理を繰り返すことではなく、教えることではなく、人間にもできることであり、それは共感することなのです。
 
そして、その共感には、明らかに、罪深い、信仰が足りない、という不完全と不信仰の共感も含まれているのです。それが無いままの、上から下への教えは、いかに、優しそうな言葉を並べても、カルトへの広い門に過ぎないのです。
 
 
信仰とは何か、ということになると、神の全知全能・完全絶対・永遠不変は、人には分かりません。人は、そういう御方あるいは存在によって、ようやく生きてゆける祈りと告白を、信仰と呼んでいる身であります。
 
そう希望し熱望することは、人の側のことですから、人にとって、一生続くことがありえます。それが、絶えることのない信仰です。ゆえに、神の側が否定することはなく、人の側が否定しない限り、永遠と呼んでいいのです。
 
つまり現象としては、神の永遠は、人が永遠の神の存在を熱望していることに他ならないのです。ゆえに、神聖について、熱望ではなく、既知のように、見える、知っている、分かっている、などと決めつけることは、思い込み信じ込みになるので、信仰においては、退けなければならなりません。
 
二千年前の、物や肉体への奇跡の事実性は、神のみぞ知ることであって、二千年前の奇跡が事実だと信じるのがキリスト者ではありません。神のみが知ることを、人があった、あるいは、なかったと決めつけることこそ、神に対する冒涜であります。
 
肉体の復活を執拗に唱えながら、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などと平気で言っている偽善者が現にいます。
 
そのような物や肉体の奇跡よりも、遥かに遥かに、大きく、かつ、人間が受け取れる奇跡を、キリストは成就しています。神の前に、祈りにおいて、願いにおいて、遜ることを知っており、かつ、正直でありうる人だけが、キリストに信仰の義を与えられ、慰めと癒しを与えられて、救われていること。
 
キリストを殺した者たちは、尊大であり、自己あるいは集団の解釈、すなわち、人による解釈を絶対としたがゆえに、戒律主義に陥り、それを守っているという慢心と傲慢によって、キリストに退けられたのです。今のキリスト者がそうであってはならないという見本となっています。
 
 
私たちが、聖書によって知るべきは、これら、神と人の違いを基本として、自らの、決して絶対ではない人間の立場を弁える節操と、絶えることのない希望を支えるのがキリストの同伴であること、という、2つに絞られてきます。
 
語るのが、聖職者であれ、一般の信仰者であれ、いかに、聖書に忠実と言われても、あるいは、面白くて詳しい説教でも伝道でも、この2つを語らなければ、説教とは言えないでしょう。
 
説教や伝道が、おまじないや、謎解き話に、堕ちることのないように、祈っています。
 
 
妄想や、真逆の解釈と信条を言いふらして、人々を惑わす者たちがいる。また、遠回しに、聖書とキリスト教およびキリスト辛苦を、お伽噺にしてしまう輩もいる。また、小理屈や屁理屈をこねては、人を罠にかけて困らせて、その様子を、面白がる者もいる。
 
今のキリスト教とキリスト信仰は、節操において、情緒において、弱いか、あるいは、カルト的になっている傾向が一部にある。信仰のカルトの方向への堕落である。
 
しかも、何か言われると感情的になりやすいので、カルトの、格好の、いじめと誘惑の対象になるだろう。カルトやカルト的な人に、近づくことなく、過ごせたとしても、意地が強くなることは、信仰が強くなることとは別の変化である。
 
思いこみや信じ込みから生まれてくる信仰は、決して人を癒やさない。むしろ、悩ませ、病ませるのである。そういう者に限って、神を恐れず、"神の平安"という言葉を繰り返す。
 
その検証が、自分で、出来なくなっている人は、既に、カルト信仰と言ってよいだろう。
 
神は完全、人間は不完全、という弁えと、神の前に、主イエス・キリストの御名によって、精いっぱい、正直に、祈りを捧げること、それが信仰であり、それ以上でもそれ以下でもない。しかし、このことさえ、守っているとは思えない場合がある。
 
 
人間は、人間の現世において起こってくるさまざまな、悪の有り様と、突然の不幸の有り様を見ることで、必然的に、それら災いの背後に今は隠れて見えないけれど、きっと、人間に対して思考の幸いを用意しておられ、大きな歴史を動かしておられる絶対者あるいはその真理存在を考えないではおれないところの、相対の存在だと思います。
 
昔の人は、考えたのでしょう。今は、こんな有り様だが、きっと、いつも、その御方が背後にはおられ、その御方の計画があって、人を選んで働かせている、そして、いつか、その御方の支配によって、救われる時と所があるに違いないと。そう思う人が出てきて、宗教が生まれることは必然だったのでしょう。
 
それは、まさに、その昔の人が、この世に絶望せずに、生きるためでした。
 
そして、そのことを今考えているのが、私たちなのです。
 
昔の人は、地上の人としては、ゼロから考えなくてはいけませんでした。その資産によって、今の人は、考える始めの切っ掛けを与えられています。
 
 
旧約聖書では、神と人が直接語り合う場面も出てきます。神という絶対者は、この世の総ての物と生き物と人を造る御方、つまり、全知全能の創造主として書かれています。
 
そして、神は、嵐や雷とともに顕れ、戒める神であり、また、ときには、懲らしめる神であることから、徹底して書かれているのは、神と人の違いであります。
 
神は恐るべき全知全能を持つ完全なる存在であること。そして、人は、全知でも全能でもなく、不完全な存在であること。つまり、神の完全を覚えることは、人自身の不完全を知ることであります。それが、人の罪性として理解されることです。
 
新約聖書では、実際に生きた人間としての体を持つイエス・キリストが中心であります。ゆえに、キリストは、様々な人々と交流をします。そこで、キリストに救われた人々と、キリストに厳しく批判された人々が分かれます。
 
後者、つまり、聖書において救われなかった人については、見える、守っている、知っている、分かっている、という自画自賛や、さらには、人を指して、あのような者でないことを感謝しますとさえ、神に言って自慢してしまう話にあるような、傲慢で罪性の自覚のない者だったため、キリストは、彼らを、徹底して批判し、退けました。
 
多くのカルトは、このようにして、退けられます。
 
ということは、カルトは、訂正不能のまま、変わらない、という性質を持ちます。ただし、聖書には、パリサイ人にも、律法学者にも、変わる、または、その可能性のありそうな例外も書かれています。そういう例外的な人がいることも、キリストは見逃しませんでした。
 
一方、前者、つまり、救われた人は、キリストの前で、正直に物を言い、告白をしました。世辞のような讃美よりも、率直な物言いを大事にして、ときに、食い下がるように救いを求める人もいました。キリストは、それが、飾らない本心であったため、善しとされたのです。
 
キリストに向かって、飾らず、嘘を吐かず、罪の告白から願いまで、正直に、本気で、言いたいと思うことを言う、という祈りの原型が、ここにあります。
 
そして、それは、救われた人々が、孤独ではないことを知る初めでもあります。キリストが人間一人一人の人生に同伴するという福音の原型がここにあるのです。
 
祈りは、人から神への音信であり、導きは、神から人へ心の現象として与えられます。信仰は、神と人の双方向です。
 
 
なお、出来事の現象、つまり、成り行きとしての導きは、人には、導きだったかもしれないと推測されることはあっても、神髄については隠されているとしか思えません。それを、決めつけると、自分の推測を信仰?することになるので、注意が必要です。
 
物や肉体に起こる奇跡は、驚くことはあっても、人間は、そういう驚きを、不思議なだけで手に負えないことを、生きる理由とすることは出来ません。起こったとしても一時的で過ぎ去ることより、魂つまり心に起こって、心を震わせ動かすことだけが、生きる力になるのです。
 
物や肉体に起こることは、人を驚かしますが、それは信仰の神髄ではありません。驚きだけでは、有り難がるだけで、心が成長せず、人は、本当に救われることにはならないからです。また、総てが魔法のように、起こると言い張る信仰?も、成長の余地がなくなるので、退けられます。
 
人間は、人間に分かることと、分からないことを、分別するのでなければ、個人においても、集団においても、全体においても、楽山やシャロームなどの易坊類のような陰謀屋によって、容易く騙され、滅びに向かうように出来ているようです。
 
 
信仰についての証しとなることは、なくてはならないことは、人間の心に起こっていることを忘れないでください。心なき者たちの罠に嵌らないように注意してほしいのです。
 
 
(2019年01月01日)
 
 
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  偽善者が狂うとき
 
   私の「トンデモ信仰」コメント欄
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   シャローム(シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、遠慮も反省もなく、私のブログを荒らしてきます。特徴は、コメントが、みな、自己中心の解釈の決めつけで出来ていることです。恥を知らなくなると、こうなります。そして、最後は、理由もなく笑うしかなくなるのです。理路も、情緒も、常識も、良心も、なくなるからでしょう。
 

1. shalomです。おはようございます
 2019年12月24日 08:35
「私は、楽山やシャロームなどの易坊類については、早く忘れたいところです。しかし、彼らは、厚かましく、サディスティックに、かつ、自慢げに、信仰を妨害してきます。」
早く忘れたいが忘れられないのですね。

 
忘れられない理由は書いてるのに、何をとぼけたこと、書いているんですか。
 

それはそうでしょう。気の毒に!
それはきっとあなたの心が不自由だからでしょう。

 
忘れられない理由は書いてるのに、何をとぼけたこと、書いているんですか。
恥ずかしくないのですか。
 

イエスさまは真理はあなたがたを自由にすると言われましたし、
またイエスさまは私は道であり、真理であり、いのちである、とも言われました。誰でも私によらないでは父のもとに行くことは出来ない、つまり私も父であられる神のもとにも来ることもできない、つまり私も父なる神をも信じることができません。だからいつまでも罪の中にとどまり、不信仰に、不自由に縛られているのですと言われたのです。あなたの聖書には書いてないのでしょう。
あるいはまだお読みになっていないのでしょう。
ですから、あなたの信仰は人に妨害されてしまうのでしょうね?

 
信仰が人に妨害される、というシャロームの言い分の幼稚な詭弁を覚えてください。シャロームは、信仰は神が与えるものだから人に妨害されるのは信仰ではないと言いたいようです。だとすると、シャロームは、自分が神の操り人形のように動いているから、間違いないとでも言うのでしょうか。ならば、今まで、おびただしい嘘を吐いてきたのは、神が嘘を吐かせてきたとでも言うのでしょうか。自分の酷い背教の行為を、神のせいにしています。
 
シャロームは、私が批判してくるのは信仰を妨害されているからだ、とでも言うのでしょうか。私は、信仰を妨害されてはいないからこそ、批判しているのです。
 
人に妨害されることがあるとすれば、迫害においてですが、まさに、キリスト信仰を妨害するような妄想信条を言い張るシャロームこそが、妨害者そして迫害者なのであります。
 
それで、また、何を、こちらのせいにしてるんですか。耄碌ですか、悪意ですか。
 
あなたシャロームの説教など、もはや、言い逃れ以外の何ものでもありません。
 
罪にとどまって、罪に飼われているのは、シャロームです。今もそうです。
 
信仰を妨害しているのは、無駄なコメントを書き続けているあなたです。
 
「不信仰に、不自由に縛られている」だけでなく、背教に、妄想に、縛られているのは、あなたシャロームです。どこまでも他者を縛ろうとして、醜いコメントを書き続けているあなたシャロームです。
 
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」と言った反キリストは、あなたシャロームです。人間をやめてしまったあなたなのです。気持ち悪いです。
 

それはあなたの信仰が単なるあなたの論理妄想にすぎず、
聖霊の導き、助けなしの聖書に基づいていない信仰だからです。
だれでも聖霊によらなければイエスを主と告白できないとも聖書には書いてありますね。
他者の信仰を批判する前に自分でしっかり聖書をお読みください。
shalom!

 
楽山の応援なのか。言葉だけが滑り続けるシャローム。論理妄想?、恐らく、造語。
 
結局、シャロームの言いたいことは、批判するな・・だけで、だから言いますが、こういう腐れコメントを書いてくることが、批判の動機を、ますます強めています。
 
総ての悪と偽善は、あなたシャロームのような自己中で訂正不能の狂信条から始まっています。
 
人のケツを舐めてないで、自分のケツは自分で拭きなさい。
 

6. 楽山さん st5402さん こんにちは
 2019年12月24日 11:58
shalomです。2019年12月24日 11:42
(楽山)
「こう言っては何だがstさんのヤバさ、おかしさはブログを見れば、誰だってすぐ分かることだし、仮に分からなくてもじきに「あれ?」と気づくだろう。いちいち注意喚起するまでもないことなのだ。自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。
  でも今回の失敗で、アドラー心理学の「課題の分離」の価値を再確認できたのはよかった。自分の理解だと、この考え方は、自分の努力で変えられるもの、変えられないものを見分けて、変えられるものに優先的に取り組もうというものだけど、ついつい変えられないものに手を出してしまい時間や労力を無駄にしてしまう自分にとってはこれは本当に役立つ方法論だ。」(楽山さんのコメント)

 
楽山の、アドラー教から抜け出ていないことが分かる発言ですが、何が言いたいのでしょう。
 
楽山に、流されるほどの情はありません。
 
「余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗」・・自己中の楽山は、自分の本質的な誤謬を、被害的に解釈して、人のせいにしています。
 

カウンセリングの世界ではよく過去と他人は変えられないと言われますが、
自分の無力感や敗北感、挫折感に苦しめられている人は変えられない過去と他者を批判して変えようとし、それがうまくいかないと非難中傷したり、人格否定に走りやすく、自分の苦しみを過去や他者に転嫁して自分を守ろうとしてしまうようですね。

 
前からですが、自分さえ弁えないシャロームは、言い逃れに、私が、いかに、みじめで、病気であるかを説明しているつもりのようです。私を、患者に仕立てないと気が済まないようです。
 
シャロームの場合、決して自分の無力感や敗北感、挫折感に苦しむことがなく、人を苦しめ、逆らう者を、誹謗中傷したり、人格否定に走ったり、罪と偽善を、他者に着せて、保身したつもりになるようです。
 
もはや、人間ではなく、鬼畜の様相を呈していることに気づかず、丁寧語で飾ればバレないだろうという単純さで、罪に罪を、偽善に偽善を、恥に恥を、上塗りしてゆくのです。
 
私の挫折感は、あまり書いていませんが、そういう記事もたまにはあり、あなたシャロームの背教と反キリストと違って、ことさら隠す気はありません。それ以上に、私の個人的な弱さを、妄想的解釈でネタにして、それで批判してくる、という病理を捏造することこそ、あなたシャロームの病理なのです。
 

「自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。」(楽山さんのコメント)…ということの原因も自他の区別、課題の区別ができないために陥りやすい要因のようですね。

 
楽山の失敗の原因を、「自他の区別、課題の区別ができないために陥りやすい要因のようですね」と言っています。・・楽山と仲たがいでもしたのか・・
 
自他の区別が出来ていないのは、こうして、迷惑も省みず、鋭さや説得力の、まるでない当てつけや嫌がらせをしてきて、自己の正しさを主張したつもりのシャロームのことです。他者の思いを、自分で捏造して、説明した気になっている、という、とんでもない未分化なのです。
 

なかなか誰もが俺は、私は大丈夫とは言えない罠だと思います。

 
ただ、シャロームだけが、大丈夫の立場に立って、自他の区別なく、捏造に捏造を重ねている醜態であり、このようにだけはなりたくないという自他を破壊する人格の姿です。私はこれを、ふつうに、悪魔性と呼びます。
 

ですから他者を批判せずにはおられない人も自分と他者との区別、課題の区別ができないために、アドラー心理学の自他の区別、課題の区別が心情的に受け容れることができずにいたずらにアドラー心理学もも批判せずにはおられないのですね。
それがst節(ブシ)の妄想的理路、印象操作の本質なのですね。
shalom!

 
シャロームは、自他の区別ができず、シャロームのことを私が言ったところの、ボロクソ節、妄想、印象操作を、もじって返して批判返しをしたつもりなのです。他者を、我がことのように、区別できずに、捏造の解説を得々と語っています。
 
単純すぎて、説得力が無いばかりか、自分の醜さをモニターできない性質を惜しみなく、あらわにしています。こういう人を見つけたら、先ず、即、言論の場から追放するか、でなければ、逃げるしかありません。百害あって一利なしです。
 
自他を区別できないために、シャロームが、妄想的理路、印象操作、など当ててくる・・こういうことは、自分の部屋で、ゲヘヘと笑いながら、よだれを垂らしながら、壁か鏡に向かって言って、できたぞ、返したぞと、独りで分かったつもりになっておればよい。
 
全く、理路、根拠、どちらもない、折り紙を紙くずにするに等しい言語。あなたシャロームが、治らないということだけは、よく分かりました。
 
楽山やシャロームなどの易坊類の本業であるところの、荒らしのための荒らしになっています。羞恥心のない人間もどきの醜態をさらしているのです。
 
シャロームは、妄想信条のために、必要な最低限の知能も失い、自分の言葉を育て損なっているために、わけもわからずに、こちらの言葉の真似をすることしか出来なくなっています。
 
私が言ったことを主語を代えて私に向けるところの、おうむがえし、本に書いてあった言葉を繰り返すインテリ気取りの猿真似、それらは、楽山にも共通していますが、シャロームは、恥も、罪も、偽善も、醜さも、お構いなしです。・・殆ど、シャロームの訪問は、汚染物質漏出警報と言ってよいでしょう。
 
 
   私の「しらばくれる」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5062659.html
   シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
楽山やシャロームなどの易坊類の、大仰だが、品のない笑いが目立っています。
 

1. 楽山さん st5402さん こんにちは
 2019年12月24日 12:13

「私は、そろそろ、死んでもおかしくない年齢に到達しているので、暴力ではなく、法的制裁でもなく、批判を続けることに、結果によらず、迷いはないのです。一生、出会いたくないような者たちに、私は出会ってしまったのですから。」
 」
そう迷いはないのですか!素晴らしい!
でも、一生、出会いたくないような者たちに、出会ってしまったのですから」なのですね。 お気の毒に!

 
「一生、出会いたくないような者たち」・・あなたシャロームのことなのですよ。分かっていますか。分かっているけど、「なのですね。 お気の毒に!」と、とぼけているのですか、ひらきなおっているのですか。それで、また、あなたは、のぼせ口調で、みにくく笑っているのですか。
 

わたしのほうこそ、あなたよりもいつ死んでもおかしくない年齢に到達していますが、
私はst5402さんに出会ったことを決して悔いてはいませんよ。
申し訳ありません!(笑い)
おかげで楽山さんにも会えたのですから!(再び笑い)
ありがとうございます!
shalom!

 
シャロームの、いかにも、サディストらしい発言です。そう、このように、シャロームには、いつも、慎重、敬虔、慎ましさの代わりに、白々しい世辞と讃美と、「(笑い)」があります。笑うことで、相手を見下ろして、勝った、と思いたい欲望が、節操もなく漏れ出しているだけなのです。一種の浮かれパニックと言ってよいでしょう。
 
シャロームの「(笑い)」は、冗談ではなく、和みでもなく、余裕を見せたいのでしょうが、下品で愚劣で凶悪な、あざ笑いです。ニコニコの談笑ではなく、笑う理由のない状況での、しまりのない、だらしのない、ゲヘヘ・・のシャローム、なのです。
 
今まで、ずっと荒らしコメントで、嫌がらせを書いてきて、「悔いてはいませんよ」・・それはそうでしょうね、あなたは、悔い改めない反キリストですから。
 
「申し訳ありません!」と矛盾した(笑い)、そして、(再び笑い)、そのあとに、実に白々しい「ありがとうございます!」で、何を言いたいのでしょう。感謝では文脈が成り立たないから、感謝に見せかけた皮肉でしょうか、破綻を隠さなくなったのでしょうか。
 
こういう人に、捕まった人は、確かに、人格は破壊されるだろうということを、シャローム自身が表しています。シャローム自身が、既に、破壊が進行した人だから、こうなるのです。
 
・・もう、誰も、だまされてはいけません。
 
 
(2019年12月31日、同日一部修正)
 
 
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