ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。サポートに問い合わせて、ようやくコメントボタンが付けられました。ソーシャルボタンは、コメント欄の上に表示されることも知りませんでした。

 
  乱れる嘘
 
   私の「無力を憐れむ?」のコメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4194103.html?1573959604#comment-3
   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)のコメント
   記事は、コメントを一部編集して書いてあります。
 
 
シャロームは、こちらの批判に全く答えられないので、嘘と嫌がらせだけをしてきます。嘘とその根底にある妄想も、整理できなくなって、乱れてきます。混乱状態に近い。
 

1. st5402さん おはようございます
 2019年11月17日 11:02
(あなたにかかわると碌なことはないのですが・・・。)
shalom
楽山さんにそのことを私が気にしていると伝えると、楽山さんは私に、これは自分のせいで始まったことですから、気にしないでくださいといってくださいました。
 <
st5402
嘘だと思います。楽山は、そういう人ではありません。」


st5402さん
楽山さんに対する根も葉もない無益な妄想批判ではなく、
前記事で、私のコメントに対してあなたが嘘だと言ったことが本当か嘘かどうか楽山さんに聞いてみなさい。

 
シャロームは、また、被害者面して書いていますが、今までのことがあるから、無駄です。
 
分からないようですね。嘘吐きに、真偽を聞くことなど、しないのです。
 
信頼を失うとは、そういうことです。あなたも楽山も、そうです。
 

shalom
(あなたにかかわると碌なことはないのですが・・・。)
 「楽山さんにそのことを私が気にしていると伝えると、楽山さんは私に、これは自分のせいで始まったことですから、気にしないでくださいといってくださいました。」
 <
st5402 
 「嘘だと思います。楽山は、そういう人ではありません。」
shalom!

 
同じことを二度書いています。中身のあることを、シャロームは、言えなくなった、ではなく、ずっと前から、言えない人なのです。嘘しか持ち合わせがないからでしょう。
 
それにしても、ずっと前から、私の批判に、まともに答えられないことで、あなたの、自己中心と、嘘と、節操のない出まかせと、妄想信条が、実証されてきているわけです。
 
さらに、あなたシャロームが、答えられないときに、興奮して、さらに、出まかせの酷い嘘を吐くことで、本性も明らかになってきているわけです。
 
シャロームの嘘については、その聖書解釈と信条において、決して人間の世界で受け容れてはいけないものとして否定されるべきものです。従えば、シャロームを神として無謬であることを認めるかのような恐ろしい妄想です。そういうことで、批判を続けてきましたが、
 
シャロームは、私が、Vという哲学者・神学者に電話して、おとしめたと言うのですが、私は、Vさんの住所も電話番号も知りません。ネットだけの遣り取りでした。Vさんは、シャロームに、よほどの負い目でもあるのだろうかと思いました。
 
ここまで、実在の人物について具体的な内容の、白々しい嘘を吐けるものなのか、と驚いたことです。シャロームとVさんとの関係が、心配になってきます。うまくいくかどうかではなく、二人の関係に、恐ろしい欺瞞と嘘があったのではないかという危惧であります。
 
もはや、ネット上でも、それを聞きただすことは出来ません。シャロームという嘘の自尊の中に、Vさんは取り込まれてきたのではないかとも思います。もしそうなら、シャロームは、人を食い物にする極悪人ということになります。
 
 
  「悪意という病」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4202269.html#comments
 

1. st5402さん おはようございます
 2019年11月18日 08:11
「ふたりは神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではないことを恥ずかしいとは思わず、互いにありのままを受け容れあい、愛し合い、神と共に歩んでいたのです。
これが神と人との最初のうるわしい姿、関係です。」


神と人との関係の初めの姿が、人が罪を犯す前の神と人とのあるべき関係の姿なのです。
人間本来の親子の関係のひな型でもあるのです。

 
神は神、人は人、神は創造主、人は被造物です。いくらゴタク並べても無駄ですから。
 
神と人が、親子のひな型でも、親と子は同格ではないのです。実に退屈な妄想です。
 

子供は大人である親と比べて感性が劣っているとは思えません。

 
感性は育てるものです。最初から完全ということはないです。育て損なうと、あなたシャロームのような常同情動となり、同じことを繰り返すようになるでしょう。生き生きした刺激を受け取る学習を怠ると、感性は単細胞になりうるということです。
 
あなたは、あなたの考え方と生き方によって、著しく劣ったものになっています。だから、あなたは、人が、つまり、あなたの言う、神の子?だから、と言って、今度は、自ら神格化して、血迷っているのです。
 

しかし、知識も経験もありませんし、自分で生活できるわけでもなく、親なしに生きることすらできません。が、人の人格としてなんの不足もなく、不完全でもありません。たとえ生まれながら障害を持っていてもです。

 
悪逆、悪徳、ここに極まれりですね。人が完全なことを、障害者に事寄せて語るのか。いかなる障害者が祝福されても、あなたシャロームは、祝福されない。詭弁腐れ。
 
障害児が、非障害児と比べて感性が劣ることはない、と言って、シャロームが語ろうとしているのは、自分は完全な感性を持っているということです。障害児・障害者をネタにした自己正当化の詭弁です。
 
障害があろうとなかろうと、何もしなければ、何もない人になる、ということを実証しているのが、まさに、あなたシャローム自身なのです。
 
「人の人格として」と言っているではないか。神ではない。嫌がらせとしか思えない。遠くへ行きなさい、どこか遠くへ。あなたシャロームが哀れでも、付き合うのさえ御免だ。
 

その姿を星野富弘さんや、水野源蔵さん、またれいわ新選組から参議院議員となられた船後さんや木村さんに見ることができます。

 
人間は誰も、神格ではありません。障害を持つ他者を利用する劣悪さ、吐き気がする。
 

2. st5402さん おはようございます
 2019年11月18日 08:16
しかし、そのような神とアダムとエバとの本来のあるべき関係が罪によって侵されることによって、神とアダムとエバの関係が破壊され、また人と自然の関係も破壊されたのです。
その結果が私たちの心、社会、世界を支配して、破滅寸前のところまで来ているのです。

 
あなたシャロームの言論は、既に破滅しています。いちゃもんゴタクの誇大妄想などやめなさい。あなたシャロームに、人間も、世界も、語る資格はありません。醜いだけ。
 

山本太郎は自分は落選しながら、船後さんと木村さんを国会に送り込んだのです。山本太郎はカトリックですが、イエス・キリストを信じるクリスチャンのようです。まるで末期症状を呈している日本にイエス・キリストによって遣わされた人の姿を見るようです。
今日も彼は泣きます。叫びます。生きようと。

 
末期症状は、いつまでも、求められてもいないゴタクを並べるあなたシャロームです。直ちに退散して、二度と出てこないように。
 
山本太郎は、イエス・キリストではありません。いつまで妄想白昼夢を見ているのか。あなたにとって、イエス・キリストが、いかに軽い存在であるかを、自ら表してしまいました。そうでなければ、人を、救い主に喩えたりはしません。あなたの底の浅い妄想信仰が、また、明らかになりました。
 

3. st5402さん おはようございます
 2019年11月18日 08:17
神との関係が本来の姿であれば、エデン園での神と人とのうるわしい交わりが、この世界の本来の姿だったのです。

 
罪の性質によって、誘惑に乗り、本来の姿ではなくなりました。
その、罪の性質と罪への堕落が、あなたにおいて破滅的に著しいのを私は見ています。
 
挫けることなく執拗に妄想を語るあなたシャロームは、もはや、人間の意志ではなく、悪しき自尊の欲望だけによって、口を開閉して流涎しているイメージです。発作か。
 

聖書は神は神の民イスラエルの歴史によって、神と人との関係のあるべき姿と失われた姿をありのままに証言しているのです。
神はイエス・キリストを私たちとこの世界の救い主とお遣わしになる約束、契約をされたのが旧約聖書の記されていることであり、
神はその約束を成就するために、救い主としてイエス・キリストをお遣わしになられ、私たちが罪の代価として背負っている裁きを、罪なき神の御子イエス・キリストに負わせ十字架につけ罪の代価を支払い、すべての人が信仰によって罪の赦しを神の恵み、賜物として受け取ることができるように、与えて、神は神と人、人と人、人と自然の失われた関係を癒し、回復してくださっているのです。

 
このような救いの教理をを暗記するだけで信仰だと思っているのは、大間違いです。あなたシャロームの言には、救いの筋書きの言葉が並んでいるが、救いの実感のある心がどこにもない。
 
表れているのは、回復してくださった、ということに舞い上がって自己を無謬性にすることの、悍ましい惨劇だけです。
 
ゆえに、救いの筋書きだけで救われたと思い上がる心の堕落によって、神に真っ向から背いてきたのが、あなたシャロームです。ずっと前から私は言っています。
 

人がたとえ神の前に不完全で弱い存在としても、失われた関係と交わりが回復されることによって、本来のうるわしい姿とかえてるために、助けてくださっているのです。

 
その助けを、誰よりも無にしているのが、あなたシャロームです。今までの経過が、総てを示して余りあります。どこに、うるわしい姿の片鱗またh可能性があるでしょう。カルトの醜い訂正不能だけなのです。
 

一旦罪の奴隷となった私たちは、神との関係が信仰によって回復されても、なお、罪の力の攻撃にさらされ、罪の虜としてのみじめな弱さがあります。

 
今度は、罪が悪いと、罪のせいにしてきた。この経過において、誰の罪か、あなたシャロームの罪です。これは、この経過において、悔い改めない限り、変わりませんから。
 
今さら、いくら救いの教理を述べても、あなたシャロームの口からでは、糞尿にも値しないという経過と結果なのです。
 

かつてはその弱さにつけ込まれ誘惑されて罪を犯していたのですが、しかし、信仰によってその弱さが神の愛と力があらわされる恵みの水路となるのです。神はすべてのことを相働かせて益としてくださる方であると聖書に書かれているとおりです。
shalom!

 
さて、あなたシャロームは、いつ、「弱さにつけ込まれ誘惑されて罪を犯していた」のでしょう。
今、まさに、今そうなのです。お構いなしに嘘と妄想を並べています。
 
妄想が信仰?になっているあなたシャロームが、まともに見せかけるために語れば語るほど、神の裁きが、近づいてくるのですが、長びく背教によって誇大化した妄想の訂正不能によって人間離れしてしまったあなたシャロームにだけは、分からないのです。そして、人を食ったように、ほぅほぅと笑ってしまうでしょう。
 
どんなもんだい、これだけ、言えるんだ、とでも言いたいのでしょうか。救いの筋書きの正誤など関係なく、あなたシャロームに、教理を語る資格はありません。既に、かなり前に、あなたシャロームが、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って訂正しなかったことは、それだけで、キリスト者ではないことをダイレクトに表しているからです。どうにもなりませんね。
 
シャロームは、罪を認める気もなく、悔い改めをする気もないないようです。
 
悔い改めとは、罪の償いをすることではありません。罪は、既に犯したのであり、償うことは、大方、不可能です。何らかの賠償をしたからと言って、罪は無かったことにはなりません。
 
悔い改めとは、正直に罪を認めて、赦しを神に祈り願うことであって、罪を犯す前に戻ることではありません。神に対して、人間は赦されることを祈り願うしかない立場です。
 
悔い改めというのは、悪や欲望のほうから、神のほうに方向転換することです。神のほうを向くとは、即ち、主イエス・キリストの御名によって、神の前に、飾らず、精いっぱい正直に、祈ることです。
 
それだけが、神の民として、人を、罪多き暮らしから、他者から、解放すると思います。いかなるときも、向かい合っても飾らなくていい御方に、正直に祈ってください。
 
そこまで、神とキリストに対して、真剣に正直に祈ろうと努める人は、人の前では、少なくとも、あからさまに騙すための嘘は吐けなくなるでしょう。簡潔に言えば、それだけが、救われる必要十分条件である、ということは前にも述べたと思います。つまり、それが悔い改めです。
 
 
(2019年11月20日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

 
  忍ばせる敵意
 
  『ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯 原始仏教1/中村元選集 第11巻』
  2019-11-17 楽山日記(a)
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12546261256.html
 
 
いつものように、婉曲的に否定してくる文脈に、悪意を感じます。楽山が気に入らないのは、キリスト教だけではなく、仏教にも及んでいます。ということは、霊が分かるっぽい?楽山は、簡単に分かったことにならない宗教全般を彼の言葉というオモチャ箱に閉じ込めたいようです。
 

本書では、神格化された信仰上の釈尊ではなく、実際の釈尊はどのような人物であり、どのような生涯をおくったかを明らかにする試みがなされている。たとえば初期の仏典では、弟子でさえも釈尊のことを、「シャカ」「ゴータマ」などと呼び捨てであったのが、時代が下がるにつれて尊称がつけられ神格化されて行く様子を明らかにしたり、梵天勧請のような伝説はなぜ生まれたか、現実はどうだったかなどについて語られている。また当時の釈尊は剃髪していただろうから、事実かどうかという視点から見た場合は、仏像に髪があるのは間違いだと見もふたもないことも書いている。

 
大事な教えの意味を理解するのではなく、歴史上の実在と様子のほうにだけ気が向いている楽山です。この態度は、キリストについても同様で、それゆえ、宗教と信仰の真実など分かりもしないのに、なお、批評して、何の結論にも実りにも届かないのです。
 
宗教を興味本位でしか追わないことの必然であり、楽山の宗教・信仰の話が、趣味の範囲でしかなく、真実の追求から程遠いことを表しています。真相はこうだったと、得意げに自慢したい人に多い傾向です。
 
楽山の特殊なのところは、ベースに、訂正不能の自己愛があることでしょう。だから、シャロームと同様、反省をしません。シャロームと違うのは、反省したかのように言葉だけで見せかけることです。その前後で、何を変わっていないことから、見せかけだと分かります。
 

こういう試みは、信仰上のお釈迦様を大事にしたい人からしたら愉快ではないかもしれないが、自分は信仰上のお釈迦様のみならず、実際のお釈迦様はどうであったかにも関心があるので非常にありがたいし、わくわくするほど面白く読めてよい。大いに歓迎する。

 
このように、宗教を真剣に考えている人からは、まともに見える分、迷惑なことを、好んで選んで題材にしてゆく楽山です。この、わくわくは、仏様の心が分かるっぽい?と思っている楽山の、それこそ思い込みからのものであり、信仰とは何の関係もありません。
 
>とはいえ、こういう自分もかつてはこの種の試みは大嫌いだった。<
 
この種の試みが嫌いならば、何が好きだったのでしょう。そして、何故、楽山は、今も、宗教を語ろうとするのでしょう。自分は読書家で、霊感?もあるから、宗教も詳しいと言いたいだけではないでしょうか。
 

仏陀はこの世だけでなく、この世を超えた世界をも知り尽くしている故に仏陀なのであって、仏陀の超人的、超自然的な側面を除外して見ようとするならその真の姿は決してつかみ得ぬだろうし、それは仏陀を矮小化し、自分の解釈可能な範囲内に押し込めようとする甚だしく不遜で愚かな行為であり、無意味なことだと考えていたのだ。

 
嘘だと思います。本当なら、信仰を志す者の思い上がったコメントですが、楽山は、心で受け取ることが出来ず、事実や辻褄でしか、宗教を語れません。そういうやり方では、どこまで行っても、信仰には辿り着かないのです。だから、霊感?の自覚のほうを宗教より上において、やんわり否定してゆくのです。
 

でも近頃は、霊能、神通力、奇跡…という超自然的なことは、前ほどは信じなくなったせいか、そういう超自然的なことから離れてものごとを見、判断することにさほどの抵抗は感じなくなった。

 
ものごととは何のことでしょう。この記事で書いているのだから、宗教のことでしょう。だとすれば、超自然的なことから離れて、というのが、嘘と言うことになります。
 
クリスチャン芝居をしても、本を読んでも、楽山が信仰にたどり着くことがなくて、信じていないけど、何やら高まっている自分と思っているゆえに、そういう話をしたがり、宗教のことも物事として、ひっくるめて書いて、知ったかぶりで、宗教と信仰を求める人を、霊感のある?自分より下に見たいのでしょう。
 
>信仰心旺盛だった頃は、信仰がなければ真実は分からぬと考えていたけれども、<
 
嘘だと思います。楽山は、切実に求める心を表せないのです。今まで見てきて宗教について的を射た発言をしたことがありません。そのことが、信仰など持ったことがないことの表れです。楽山自身の、霊が分かるっぽい?自覚から、好きなように揶揄もして、結局は、通念的な深みのないことしか書けないのです。謙虚に反省する心のない者の必然なのです。
 
>近頃は信仰が強すぎれば現実が分からなくなると考えるようになったのである。<
 
楽山は、強い信仰など、持ったことはないと思います。強い信仰を知りもしないで、楽山の言う強さは、思い込みの強さのことでしかありません。キリスト信仰を、この方向で語られては、とても、迷惑です。分からないなら、分からないことを自覚して追求を続けるべきですが、楽山には、そういうスピリットがないということでしょう。ショップで買い物をして、それが良い品かどうか、ちょっと見て決める、みたいな感覚だと思います。
 

現実をありのままに見ようとするなら、信仰は捨てよとまでは言わないが、ほどほどにしといた方がよかろうと…。

 
こうして、信仰に、ほどほど、ということを当てはめて、まるで、何をするにもほどほどに、というベタな人生訓と同じような感覚です。そして、この発言で、宗教を低いところに貶めてきたのです。言葉や表現に気を遣うということが出来ないために、ずっと、なんの真実にも至らず、それゆえに、ボンヤリ言語でごまかすしかないのが楽山です。決して巻き添えにならないように注意・警戒してください。
 

本来、信仰は尊いことだろうけれども、それが思い込み、決めつけ、偏見のようになっている場合は、信仰が目のウロコになってないかどうか、注意が必要なんだろうと思う次第である。

 
目からウロコ(が落ちる)、というのは、ことわざになっていますが、聖書の言葉です。
 
 (使徒行伝、口語訳) 9:18
するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、
 (使徒9:18、新約聖書)
 
そして、信仰が目のウロコになっていないか、というのは意地の悪い皮肉です。聖書の言葉を利用していることが、楽山が、聖書も知っているという自慢であり、さらに、他者に向かって、信仰に注意と呼びかけるのは、自分の無理解を棚に上げて、信仰を警戒するべき対象と見なして、信仰より上?の自分を暗に誇示したいのです。警戒するべきは詭弁家の楽山です。
 
信仰は、思い込み、決めつけ、偏見のたぐいではありません。これこそ、楽山が、信仰を知らないくせに、信仰にくっつけたがる決めつけです。
 
何も理解していないから、こういうことが書けるのです。他者を敬うという心が無く、思いやりも、親切も、みな、言葉の上滑りで片づけて、相変わらず、本を引用しては、いちばん大事なことだけは語れずに、ボンヤリ婉曲で、ごまかして、インテリの批評家を気取っているのです。
 
どっちともつかない、ああでもないこうでもない、という曖昧な筆致の中に、
「信仰が強すぎれば現実が分からなくなる」「思い込み、決めつけ、偏見」「ほどほどに」
などと断定言葉を潜ませることこそ、明らかに宗教を否定したい詭弁家の言であります。
 
楽山のような人が、分かってもいない宗教と信仰について、いちゃもん付きで、煙に巻くから、宗教も信仰も、触らぬ神に祟りなしという無関心が一般の社会通念となってしまうのでしょう。
 
楽山は、自分が分からないことには、黙っているのではなく、一途になってはいけないという婉曲の自己中心の否定にしてしまいます。惑わされないでください。楽山は、宗教と信仰をけがす者であり、その言説は、ざらつく砂のように貧困で、蟻地獄のように罠にかける悪意と敵意を忍ばせているのです。
 
そういう、強い自己愛からの自己中心の者は、自己中に決めつけて、楽山の場合、それを印象操作と遠回しの言い方で、教えたがる性癖が、一貫して執拗です。そういう者は、ほぼ決まって、本当の反省をしないので、学習能力がなく、真実追求の言論者の資格はないと思っています。
 
では、日記的な記事ならいいかと言うと、いいのです。しかし、楽山が、日記的に書いていないのは、結局、宗教ぼんやり否定の文言に決着していることから明らかなのです。
 
中身はないが、高みにいるつもりになり、知識人として振る舞いたいという欲望があるので、日記のつもりでも、他者を引用したりで、偉そうに書きたがる自己顕示欲の強さが、これも執拗な習性として、出てしまうのでしょう。
 
 
(2019年11月19日、一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

 
  悪意という病
 
   私の「妄想詭弁全開」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4173311.html?1573867948#comment-6
   シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)のコメント
   実際のコメントの遣り取りそのままではなく、一部は編集して記事にしています。
 
 
シャロームの妄想解釈が全開です。昔のことを持ち出して、人を罵るシャロームです。聖書の「耳」の字も理解していない「口」だけ「王」のシャロームです。人間じゃない・・と思います。
 

1. st5402さん おはようございます
 2019年11月16日 09:05
「誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない、という、人間の罪の性質を認めて、その共感とともに、信仰の道に入ります」
 「誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない」


神は天地万物、人を造られた創造者、人は神によって土のちりでつくられ、神のいのちの息吹きを吹き込まれ、生きたものとされた被造者。・・・そのちがいあたりまえでしょう。
神がごらんになって良しとされたこと、
あたりまえのことが罪の性質ですか?

 
シャロームは、あたりまえに、わからないのか・・罪の性質・・??
 
創世記から、十字架まで、シャロームは、妄想解釈のようです。
 

アダムとエバは神に連れて行かれたエデンの園で、
「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、
恥ずかしいとは思わなかった」と書かれています。
ふたりは神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではないことを恥ずかしいとは思わず、互いにありのままを受け容れあい、愛し合い、神と共に歩んでいたのです。
これが神と人との最初のうるわしい姿、関係です。

 
アダムとエバの話は、今の私たちの話なのです。シャロームは、基本から妄想のようです。
 
「神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない」と書いているではないか。
 
完全ではないから、罪を犯した、それが人間です。それを、罪の性質というのです。そのことを創世記は表しているのです。いつ罪を犯したかという問題ではない。
 
あなたは、あなたの言うところの、うるわしい姿、即ち、素っ裸で、独り、ゲラゲラ笑っておればいいでしょう。いつまでも。誰にも影響を与えないところで。
 

創世記2章25節に書かれていますよ。
神と人、人と人の間に罪が入ってくるのは3章以後に記されています。
あなたの聖書理解、人間理解、福音理解のすべてが誤解されてしまっているおおもとですね。
おそらく人間学のみによる聖書理解なのでしょう。

 
罪の性質があるから、罪を犯した、という文脈が分からないのですか。
 
また、罵詈雑言、はさみます。・・アホか?・・
 
人間学という学問は、よくは知りません。人間として言っているだけです。
 
シャロームは、人間離れとして、妄想しています。もはや、手がつけられない人です。
シャロームは、言葉も、日本語も、文脈も、宗教も、信仰も、人格も、壊れているようです。
すました物言いに騙されないようにしてください。言ってること、メチャクチャです。
 
シャロームの仲間が、よく、放っておけるものです。
 

vさんは神学者、哲学者として福音を土台として人間学的な聖書理解をしようとしておられました。イエスの死とよみがえり、聖霊信仰もその根底にありました。そのことで、あなたの激しい批判の的にされ、中傷され、人格否定をされ苦しまれたのでしょう。

 
Vさんについては、絶交してからは知りません。
Vさんは、神学者であるのに、明らかに間違っているシャロームに対して、調子合わせをして、世辞を言い、私のコメントを隠したので、絶交しました。Vさんがどうなったのか、知らないが、あのときも、あなたシャロームが原因だったのです。本当に、あなたは、罪悪感を感じない、全部、人のせいにする、恐ろしい人、いや、人でなしです。
 

あなたは謝罪したようなコメントもされていたようですが、
あなたの姿勢はその時から一貫して変わっていないようですね。
思い当たるのではありませんか?
shalom!

 
上の件については、絶交したのだから、謝罪はしていません。
 
このように、悪魔的な人というのは、おとしめのために、手段を選ばず、今のテーマではないところから、攻める材料を持ちこんできます。私は、一貫して私が全然変わっていないかどうかは、よく分かりませんが、大筋では、あのときと大きな変化はないだろうと思っています。
 
Vさんから、人間学というのを、聞きました。シャロームのように神聖の超常をあれこれといじくったつもりで自己正当化して人格破壊に至る、なんてことのないように、人間の立場で考える人間学の立場は必要だと思います。私は、学問として勉強してはいないので、信仰者の立場から考えているだけです。
 
恐らく、シャロームに遠慮があったために、Vさんは、あの時、言論の道を踏み外しました。本当に、シャロームは、今まで、災いだけをまき散らしてきたのです。
 
シャロームのような腐れものに、決して触らないでください。恐怖のシャロームです。こういう人もいるんだということを覚えてください。
 
 
偽善者シャロームが、嘘の解釈を書くと、そこに、偽善が丸出しになるでしょう。罪の表れと、罪の性質をごっちゃにして、罪が創世記3章から書かれていることをもって、人間は造られたとき完全で罪はないという解釈をしますが、人は完全ではないことが罪を生むことになります。
 
罪のない人は神相当ですが、神が人を神として造ることはないのです。だから被造物と言って、創造主と区別するわけです。また、神は、悪魔の誘惑に乗りません。人は、悪魔の誘惑に乗りました。人には罪の性質すなわち罪性があり、ゆえに罪を犯したのです。
 
シャロームは「知性も感性も劣っており、完全ではないことを恥ずかしいとは思わず」と言って、自分で、罪の性質を表しているのです。「劣って」「完全ではない」という罪の性質です。
 
さらに、シャロームは、「恥ずかしいとは思わず」を、恥じるべき罪が無いと解釈したようですが、人は裸なのが正しいのでしょうか。恥じる心が、まだ、なかったということです。それまで、必要がなかったからかもしれません。
 
恥じる心が、今もないのは、シャロームその人であります。
 
 (創世記、口語訳)
3:8
彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9
主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
3:10
彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
3:11
神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
3:12
人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。
3:13
そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。
 (創世3:4-13、旧約聖書)
 
悪魔の誘惑に乗って罪を犯し、神の歩む音を聞いて、恐れて、裸であること知って身を隠しました。この時、人は、裸を恥じるようになりました。
 
神にとがめられたとき、男は女のせいにし、女は蛇のせいにしました。ここでは、罪の性質をあらわにして、人は、罪を犯しています。人は不完全で、罪の性質があるから、誘惑に乗り、罪を犯すのです。
 
罪を犯していないことは、罪の性質が無いことではありません。シャロームは、普通の文脈が読めないので、混同して、罪を犯すのは、悪魔の誘惑によるから、3章に入るまでは、罪の性質はないなどと言うのです。これは、昔ではなく、いつの時代でも、今の人間の、本質的な姿です。
 
シャロームには、罪は外にあるもので、自分は被害者という立場だという主張なのでしょう。そうすることで、自己正当化できると信じ込んだのでしょう。シャロームの大嘘です。
 
そして、今も、罪を恥じる心が無く、人のせいにしたり、人をおとしめたり、自己正当化だけのために聖書を解釈するのが、シャロームだということです。
 
私は、昔、批判を始める前の、出会って数年間、シャロームのことを、聖書の先生だと思っていたことがあります。とんでもない大間違いでした。シャロームは、聖書を曲げて受け取るような、悪意の偽善者なのです。
 
罪を恥じる心が、今もないのは、シャロームその人であります。都合の悪いことは忘れ、犯した罪と偽善を恥じず、無視して、偉そうに書いてくるのは、罪を恥じる心が無く、罪悪感が無いからです。
 
シャロームでも、シャロームのように自分に都合の良いだけの腐った解釈を訂正不能に持ち続けることは、ますます、罪と偽善を深め、自他の人格を破壊することだ、という程度の学習の材料にはなるということでしょう。
 
 

 
私の批判と返しに、何一つ、答えられないシャロームは、豹変しました。とうとう、ついに、シャロームは、ケダモノぶりを出して、デマ宣伝に転じました。この、荒らし体質が、シャロームの性根なのでしょう。また、シャロームのコメントです。
 

11. shalomです。 お久しぶりです。
2019年11月16日 20:01
「Vさんについては、絶交してからは知りません。
Vさんは、神学者であるのに、明らかに間違っているシャロームに対して、世辞を言い、私のコメントを隠したので、絶交しました。Vさんがどうなったのか、知らないが、あのときも、あなたシャロームが原因だったのです。本当に、あなたは、罪悪感を感じない、全部、人のせいにする、恐ろしい人、いや、人でなしです。」
あなたはVさんの職場にまで電話して、中傷し、人格否定までしたのに、謝罪もせず、絶好したのですか。それもわたしのせいだった?

 
ずっと書いてるが、何が「お久しぶり」なんだ。
 
シャロームの「あなたはVさんの職場にまで電話して、中傷し、人格否定までしたのに、謝罪もせず、絶好したのですか」・・口から出まかせの大嘘です。とうとう、こういうことまでしてくるか。シャロームは、本性丸出しで、まともなことを言えなくなったのでしょうか。
 
私は、Vさんの個人情報など知りません。Vさんについては哲学者・神学者・ブロガーということだけです。ネットだけの関わりです。それと、謝罪するなら絶交することはないわけです。
 
本性出してきましたね。それが、平気で嘘を吐くあなたシャロームです。
 
聖書解釈で、私の批判に答えられないあなたシャロームは、間違いを認めず、自分の妄想解釈を改めることもなく、反対に、興奮気味に、一方的に、でっちあげたデマで攻撃してきました。
 

「明らかに間違っているシャロームに対して、世辞を言い、私のコメントを隠したので、絶交しました。」
わたしがあなたにVさんを紹介したのは、Vさんならあなたの考えを理解できると考えたからでした。初めのうちはよい関係で、Vさんは自分の悩みをあなたに相談しておられ、あなたもVさんの相手の方に助言したりしておられましたね。しかし、今回のあなたのコメントで、Vさんがわたしの
「明らかに間違っているシャロームに対して、世辞を言い、私のコメントを隠したので、絶交しました。」ということは初めて知りました。
「本当に、あなたは、罪悪感を感じない、全部、人のせいにする、恐ろしい人、いや、人でなしです。」はあなたにもぴったり当てはまるのではありませんか?

 
自分が言われたことを、そのまま、無根拠で、こちらに向けています。恥ずかしいことです。
 
シャロームを否定できないために、調子合わせして、Vさんは、私のコメントを未承認にして、隠したのです。
 
私の様々の指摘が、図星だったようです。いよいよ答え切れなくなって、今までとは全く別人格のような、攻撃に転じました。これが、サイコパスの体質です。怖いことですが、関わってはいけません。シャロームは、狂犬と化しています。
 
ひょっとして、シャロームは、Vさんを、傷つけたのではないかと思います。傷を与えた者は、それを否定するために、手段を選びませんし、言い分がなくなると、あることないこと言って、人のせいにするのです。
 
答えられなくなったシャロームが狂犬と化した有り様です。前から言ってきましたが、シャロームは、自他の人間破壊の悲劇、惨劇を、シャロームは露呈しています。
 

12. shalomです。 お久しぶりです。
2019年11月16日 20:03
要するにあなたは自分の考えに同調していないと狂気の批判、攻撃を始めるのです。それは楽山(自由)さんにもそっくりそのまま当てはまりますね。

 
同調しないことを批判したのではなく、必要な弁明も反論も出来ないで、心無い発言を続けることに対して、批判が止むことはないということです。何度も言ってきたが、ずっと分かってないですね。
 
興奮シャロームの言葉の暴力、嘘をどこまでも決めつけて言い張るシャローム、しかも、いつもながら、何の根拠も示していません。
 

あなたにかかわると碌なことはないのですが・・・。
楽山さんにそのことを私が気にしていると伝えると、楽山さんは私に、これは自分のせいで始まったことですから、気にしないでくださいといってくださいました。

 
嘘だと思います。楽山は、そういう人ではありません。
 
>私は楽山さんの味方をしようなどと考えてはいません。<
 
いえ、味方していました。また、嘘ですね。2つ上の、わざとらしい嘘臭さ満載の発言もそうでしょう。そして、楽山も、口裏を合わせたようにシャロームに賛同していたのです。荒らしの本性を表したので、これから、さらに、ひどい発言になるでしょう。
 
それに、仲間であることを、一度も、今まで、否定しなかったのです。当たり前になっているということでしょう。仲間ではない、味方していない、ということを、今まで、一度も説明していませんから、今さら急に言っても説得力はないのです。
 

でもあなたは味方とか、カルト仲間だとか執拗に書いていますが、
常軌を逸した狂気の沙汰ですね。

 
私が、ずっと前に言った「狂気の沙汰」を、そのまま使っているだけです。つまり、相変わらず、根拠を示せない、憐れで、みじめな、そして、卑怯なシャロームであります。
 

今からでも決して遅くはありません。まだ65才ですから・・・
もちろんクライアントとして病院に行くべきです。
あなたの対応ができるお医者さんがおられるかどうかはわかりませんが・・・
今日はれいわ新選組のボランティアとして、ポスター貼りの活動をしてきました。天気もよく汗ばむような一日でした。
shalom! …

 
シャロームのボランティア活動は信用しないほうがいいと思います。ご機嫌取りと受け狙いのためにやることがあるかどうかは知りませんが、平気で、外国滞在とか、外国語の会話について、知ってるふりの嘘を吐いていました。日本語がそもそも滅裂なのに。
 
殆ど、檻の中で荒れているケダモノの観察日記になりそうです。書く手間がもったいないですが、
 
いつものように、
一度も反省しない、人のせいにする、嘘を平気で吐く、良心の直感がない、理路が理解できない、批判に対して返せない、返せないから決めつけるか嘘をでっちあげる、異常な確信に満ちている、訂正不能である、本も聖書も都合よく解釈する、解釈の殆どが間違っている、神の啓示・聖霊の導きなど超常をも自分の味方と決めつけて信じ込む、そして妄想教理を繰り返し語る、丁寧語と世辞は見せかけで野蛮・乱暴な心性を持っている、罪悪感・羞恥心の欠如、
などの、偽善者と妄想教理と病理の実例であるシャロームを見ることにも、こうはならないように、その正反対のほうに、人間と信仰者のあるべき姿を考える材料くらいにはなるかもしれないという逆の意義だけはあるわけです。
 
シャロームと楽山のような易坊類は、今後、非合法な手段を考えるかもしれません。そうなると、カルト組織であるなら、私は無力なので、姿を消してしまうのかな・・とか考えています。今回の記事は長かったけど、一応、ここまでとします。
 
 
(2019年11月18日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

 
  無力を憐れむ?
 
   『侍』遠藤周作 2019-11-15 
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12545598721.html
   楽山日記(a)
 
 
楽山は、本を読んだことを披露したいのでしょう。キリストがどうだったかについては、決して興味本位で決めつけてはいけないところですが、楽山は、無力なキリストを描きたいようです。辻褄だけを追って否定したり、小説を持ち出して無力なキリストがいいと言ったり、キリスト者でもないのに、キリストを云々する批評家気取りをやめない楽山です。
 

*分身
ここのところ、遠藤周作の『侍』を読んでたのだが、昨日とうとう読み終えた。あらすじは、侍らが主君の命を受けて欧州に行くというものだけども、正直、序盤は少し退屈したが、中盤に入って元修道士が登場した辺りからおもしろくなった。著者の作品は、「おバカさん」「わたしが・棄てた・女」「深い河」など、イエスの分身らしき人物が登場するものが多いけれども、どうやら本作の元修道士もそうらしい。
著者は「イエスの生涯」において、イエスは現実的には無力であったが、虐げられた者に寄り添い、ともに苦しみ悲しみつつ同伴者として生きたというイエス観を述べているが、本作に登場する元修道士も無力であり、教会での生活から離れ、貧しく苦しんでいるインディオとともにあることを選択したという点では、著者のイエス観にピタリと重なる。

 
キリストの同伴は、キリスト信仰の大切な恵みです。キリストの同伴など、欲しいとも何とも思ってない楽山が、何故、キリストについて物を言うのでしょう。今までの経過からは、クリスチャン芝居や、他者の言を借りて神を否定してきた楽山は、キリストに憐れみでもかけようというのでしょうか。
 
言論の責任を負わず、好きなように、キリストとキリスト信仰を対象物としてモノ化してきた楽山とシャロームは、自分がキリストや神を批判しておいて、自分が批判されることを極度に嫌います。そういう自己中の人に、キリストとキリスト信仰は憐れまれる必要も好まれる必要もないのです。
 

また本作では、これ以外にもイエスと関連させた描写が散見される。たとえば、長谷倉らは旅先で誰からも敬遠され、孤立し、枕するところもなくなったり、宣教師べラスコはいくぶん野心まじりではあるものの愛と信仰に基づく正論を述べるも、枢機卿の語る組織の論理を前に無力であったり、長谷倉もべラスコも権力者たちの政治的な駆け引きによって不条理な扱いを受け、罪無くして裁かれることになったりしている。
自分の知識では、本作とイエスとの関連はこのくらいしか見つけられないのではあるが、おそらくは自分より知識が豊富な人であればもっとたくさん見付けられるだろう。
遠藤周作の作品はまだ少ししか読んでいないけれども、どうもこの分で行くと、その作品を開いてみるたびにイエスの分身と出会うことになりそうだ。著者は生涯を通じて自分の信じるイエスについて書き続けた作家だったのだろうな。

 
キリストを暗示するような小説の登場人物からは、作者の意図を感じることが必要ですが、キリストの分身と言い、キリストご自身ではなく、分身などと言ってキリストを云々するのは、いかにも、姑息な楽山らしいやり方です。文章は、おのれの鏡でもあります。
 
ただ、楽山が、キリストの神性を認めず、イエスという弱い人間として低く評価しても、信仰を持ち得ない者の意見ですから、神聖そのものを、讃えるのではなく低く評価したい楽山、という印象しか残らないでしょう。そのほうが、一般には受けが良いと考えたのでしょうか。
 
信仰というものを、まるで知らないくせに、一段高いところから見下ろすかのように、信じてもいないキリストをあれこれと批評する見苦しい自己顕示欲は、今に始まったことではないのです。楽山が何を言っても、神聖を見下ろす立場など、どこにも存在しません。
 

*もう一人の分身
分身と言えば、本作の長谷倉は著者の分身のように造形されている。著者は幼い頃に、キリスト信者となった母親によって、洗礼を受けさせられたあと、紆余曲折を経て信仰を持つようになったらしいけれども、長谷倉もこれと同じく、役目を果たすためにやむなく形だけ洗礼を受けることにしたのではあるが、その後イエスについて考えないではいられない状況になって行く。
著者によれば、どのような形であれどもイエスと一度でも関係したら、もう二度とイエスを忘れることはできず、そのことを考えないではいられなくなって行くものだそうだけども、長谷倉もそうらしい。

 
つまり、一度も、キリストに関心があるような、弱さや罪深さや低さの立場を認めたことがなく、社交の世辞のように妄想カルトのシャロームに仲間として無条件で賛同したり、クリスチャン芝居をしたり、嘘だらけの文章を書いてきた偽善趣味の者には、決して、さわれもしない、かすることさえないのが、キリスト信仰です。
 
しかし、楽山は、自分は知っているという自尊の闇から、今日も、空しく、ちょうど良さそうなことを書いて、盲目の自尊を満足させるのでしょうか。
 
信仰は有無であって、軽重もなく、ちょうど良いスタンスもありません。信仰はインテリジェンスでもなく、知的遊戯でもありません。知らないなら、知らない自分を書くべきところを、どうしても、知っている、ということにしないと気が済まない楽山のようです。
 

*イエス観
著者のイエス観について、上で少し書いたけれども、作中では長谷倉と元修道士の問答という形で、もっと詳しく書いてある。たとえば長谷倉は磔にされたイエス像について、「あのような、みすぼらしい、みじめな男をなぜ敬うことができる。なぜあの痩せた醜い男を拝むことができる。それが俺にはようわからぬが……」と語り、これに対して元修道士は自分も昔は同じように考えたが、「今は、あの方がこの現世で誰よりも、みすぼらしゅう生きられたゆえに、信じることができます。あの方が醜く痩せこけたお方だからでございます。あの方はこの世の哀しみをあまりに知ってしまわれた。人間の嘆きや苦患に眼をつぶることができなかった。それゆえにあの方はあのように痩せて醜くなられた。もしあの方が我らの手も届かぬほど、けだかく、強く、生きられたなら、このような気持ちにはなれなかったでございましょう」と答えている。

 
みすぼらしい、みじめな、やせた、みにくい、という軽蔑言葉を、平気で使う楽山の意図は、キリストからの救いに結び付く共感も洞察力も書くことが出来ず、使命ゆえに権威あるものとして語ったことも無視して、今まで同様、おとしめに専念しています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)7:29
それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
 (マタイ7:29、新約聖書)
 

「あの方は、生涯、みじめであられたゆえ、みじめな者の心を承知されておられます。あの方はみすぼらしく死なれたゆえ、みすぼらしく死ぬ者の哀しみも存じておられます。あの方は決して強くもなかった。美しくもなかった」とも言う。

 
遠藤周作は、キリストの奇跡を否定する傾向が、少なくとも、ある時期、あったと思いますが、キリストの肉体や物に起こる奇跡は、あったか、なかったか、今の人間は証明も出来ないし知りようもありません。だから、否定することにも意味はありません。どちらを信じても、決めつけです。信じ込んだからといって、そういう奇跡は、少なくとも滅多に起こらないという現実があります。
 
またしても、楽山は、みじめであられた、みすぼらしく死なれた、うつくしくもなかった、という言葉で、逆説的に高めたふうに装いながら、実は、今までと同様、逆の逆によって、おとしめているのでしょう。
 
今までの言論の経過は、その後の解釈の方向を規定する必然があるということです。楽山が、褒めることにも、けなすことにも、信頼性はないのです。
 
相変わらず、自分で責任を負いたくないために、他者の文章をもって、当ててくる気持ちの悪さは、経過を無視して、そのとき思いつくことを書くだけという筆致に、楽山もシャロームも表れているのです。このような者たちに、今後予想されることは、物や肉体の奇跡云々より、いちばん大事な魂の奇跡さえも知らずに過ごして去ってゆくことでしかないのです。
 

自分はキリスト教信者ではないので、

 
だったら、訳知り顔に評論家気取りで書くなどということは出来ないはずです。それを、何を言われても、しないではおれないところに、霊が分かるっぽいと言う虚妄の自尊に持ち上げられた我執が見え隠れしているのです。
 

こういう著者のイエス観が、教会からどのような評価を受けているのかはよく分からないのではあるが、著者に対してはキリスト教側からの批判があるという話は聞くので、著者のイエス観はキリスト信者全体が納得できるものではないのだろうとは思う。ただ自分には、こういう著者のイエス観はよく分かるし、共感するところもある。このことを本書を読み、再認識した次第である。

 
楽山に、イエス観が分かる、ということはないのです。分かったら、信じているはずだからです。
 
楽山に、共感するところがある、ということはないのです。共感したら、今までの記事は無かったはずです。大嘘のクリスチャン芝居など出来ないはずだからです。
 
いつも、ちょうどよいと思って、嘘をあつらえる楽山は、自分の意見を修正することもなく、その場で、見繕ったことを書いて、インテリぶって、自尊を満足させているだけだと思います。そのような者の意見を、決して真に受けてはいけません。
 

*ペトロの否認とイエス
ちなみに自分は、上で語られているイエスからは、ペトロの否認の時のイエスを何となしに連想する。ペトロがイエスのことは知らないと三度繰り返したあとで、鶏がなき、「主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ22:61)という場面である。この時のイエスの目は、人のみじめさも、かなしさも、すべて承知したものであり、やさしく、さみしい目であり、それだからこそペトロも泣かないではいられなかったのではないかと…。

 
キリストの優しさと眼差しのことを、楽山が言ったのなら、気色の悪いことです。何故なら、楽山は、ボンヤリ言語と私が名付けたように、真摯に語るということが、今までなかったからです。楽山が、何故、嫌いな共感のことを書き、ペテロが泣いたことを解説するのでしょう。
 
そもそも、なぜ、信じてもいないキリストのことを執拗に書くのでしょう。知ったかぶりで揶揄したいだけでしょう。本当は、信仰より、自分の知性を自慢したい、という、欲望が、今までの記事の高慢さに表れてきたのです。それを、宗教が分かるっぽい?記事にしているだけだと思います。
 
キリストは、権威を持っていても、それを振り回して従わせるような人ではなかったということであり、キリストの共感の表れでしょう。
 
ペテロは、キリストを裏切ったことを悔いて泣いたのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:33
するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。
26:34
イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。
26:35
ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。
 (マタイ26:33-35、新約聖書)
 
ということを言っていたからでしょう。つまり、他の弟子たちも、皆、裏切ったのです。
 

福音書のイエスは、やたらと厳しすぎるのではないかと感じられるときと、限りなく優しく、さらには、もの悲しく感じられるときもあるけれども、自分はどうも後者のイエスを想像すると堪らなく切ない心持ちになるようで、それだから遠藤周作のイエスに共感してしまうのだろうと思う。

 
権威を持って語るキリストと、共感するキリストが、同一であってはいけないでしょうか。楽山の、頭と辻褄だけの考え方では、権威と、哀れみ深さは、別でないと気が済まず、その狭い了見だけで、云々するしかないのでしょう。
 
救い主イエス・キリストを信じる者は、ああでもないこうでもない・・ではなく、キリストを必要とするから信じているのです。キリストを必要としない者が語っても何の参考にもならないのに、上から見下ろして分かるっぽい?楽山は、自慢をしないではおれないのでしょう。
 
切ない心持ちになる、というのは、そのまま、真に受けてはいけないと思います。今までのような、嫌らしい当てつけや辻褄合わせや引用で、キリストも神も否定してきたことと矛盾するような、今さら、心があるような書き方が通用すると思っていることが、楽山の、真実と現実のセンスからの、白々しい的外れなのです。
 
信頼を失った者は、狼と少年、というのを覚悟しなければなりません。
それが偽善に対する宿命的な報いです。
 
 
(2019年11月17日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

 
  妄想詭弁全開
 
   私の記事「無知と無恥」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4165367.html#comments
   シャローム(シャロム、shalom、あなた、彼)のコメント
 
 
またしても、執拗に、言いがかりを書いてくるシャロームからのコメントです。
相変わらず、私の言ったことを、まるで受け取らないで、妄想を語るシャロームです。
崩壊が進んでいます。これでキリスト教のつもりか、・・ってことを書いてきました。
 

1. st5402さん おはようございます
 2019年11月15日 09:12
「キリスト者は、誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない、という、人間の罪の性質を認めて、その共感とともに、信仰の道に入ります。そこから、謙虚、謙遜、敬虔が生まれます。」


st5402さんは誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、
完全ではないということが人間の罪の性質と考えておられるのですか?
そんなこと聖書のどこに書いてありますか?

 
今さら、そんなことを聞くなんて、ちょっと罵詈雑言、言います、バカなんですか。
聖書から、それを学んでいないなら、聖書を読んだことにはなりません。
 
言葉だけ受け取って、込められた心を思わない者の、哀れな結末が、シャロームに表れています。
だから、空っぽに満たされていると書いたのです。
 
神は全知全能であります。人との違いです。それで分からないなんて、信仰者ではありません。
 
そういうことなら、あなたシャロームの妄想が、どんどん明らかになっていることも分からないでしょうね。恐ろしい人間離れです。
 
あなたシャロームが、自分の言動を、神に結ぶ付けるのは、そういうところにあったのでしょうか。だとすれば、あなたシャロームは、われは神なり、と言っているようなものです。すごい人間離れ、そして、神がかりであることが、あなたシャロームによって証明されました。これが、カルトでなくて、なんなのでしょう、ということです。
 
推測し予想したとおり、あなたシャロームは、頭も、心も、脳も、どんどん崩れてゆきますね。
 
これで、まだ、聖書と信仰を教えるつもりで書いているなら、説明しても分からないでしょうし、今回も、こちらが言ってきたことを、まるで踏まえていないあなたシャロームは、もはや、人間であることをやめているのでしょう。
 
問いつめだけ書いてくるのは、何の説明も説得力もない証拠です。
かといって、
あなたが説明すれば、恐らく全部、妄想をだらだら書くことになるのでしょう。
とても醜いです。
 

聖書の冒頭の創世記1~3章すらよく読まれていないのではありませんか?
ほんとうに人間の罪の性質、その罪の共感から
本当に謙虚、謙遜、敬虔が生まれるのですか?
その共感をもとに信仰の道に入るのですか?
ほんとうですか?

 
罪を認めないあなたシャロームは、何も理解しておらず、何も受け取っていないということです。
 
信仰は、パーティーでも、お祭り騒ぎでも、おまじないでも、大売り出しでもありません。
シャロームの超常話の、共感など何もないところに、人間が信じられる良きものは、何もないです。
 
罪の認識からしか、信仰者の敬虔は生まれません。
 
共感は、神と人、キリストと人、人と人の関係を結ぶためにあります。何の共感も必要としないところには、先ず、関係が生まれていないのです。
 
あなたシャロームは、人間離れのペーパーか墓標みたいになって、
書類の偽造のように、契約を捏造しているのです。
 
シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。
 

st5402さんの実体験からの言葉でしょうが、
あなたの考えは自分を正当化しやすいための合理化ではありませんか?
そういう考えが際限のない自家撞着の原因ではありませんか?
shalom!

 
罪の自覚は、自己正当化をしない方向にあり、ゆえに、反省を促します。
 
あなたシャロームの醜い自己正当化を見ると、それが、実に、よく分かります。
 
私は、愚にもつかないあなたシャロームの意見を、今はもう、まともに受け取ることはないですが、まだ、あなたの正体を知らない人が、影響を受けないことを祈るばかり。あなたは、悲惨な病原となっています。
 
天地と人間の創造の話を、思慮も良心もないために、「はなはだ良かった」と言う神の言葉にしがみついて、自分も良かったのだと、悪いところはないのだと、有頂天気分となり、人間の罪を、全部サタンのせいにして、聖書の教えとは真逆の無罪妄想に仕立てて、そんなこと信じたらどういう人間になってしまうかも考えず、また、皆がそう信じたらどうなるかも考えず、自己正当化で悦に入るゆえに、学習も成長もなく、堕落し崩壊して、サタンのしもべに限りなく近づきつつある妄想の自家製の臓物が、あなたシャロームの信仰?です。・・と言っても分からないでしょうけど、分からないなら人間として最小限の常識もないということです。
 
まだ、撞着と書いてます。私の書いたこと、まるで読んでいない証拠です。
問い詰めるが、問い詰めた対象の意見を読まない聞かない、これがピュアな疲労物質のあり方です。
 
人の言うことを聞かず、教えようとするだけなのは、あなたシャロームが、他者を、モノ化して、さげすんでいる表れでしょう。
 
信仰は人間のためにあります。信仰?を受け取ったつもりで、人間離れするなら、そういう信仰?は、元も子もないものとなるのです。
 
 

8. shalomです。 お久しぶりです。
2019年11月15日 15:23
「批判するという悍(おぞ)ましいことは、早く終わりにしたいのですが、書けば、シャロームが、また・・・書いてくるので、また、批判せざるを得ない状況です。」とのことですが、
早く終わりにしたければ、あなたに自由意思があれば、いつでも終わりにできるのです。終わりにするか、しないかはあなたの意志の決断にかかっているのです。

 
あなたシャロームが、キリスト教ともキリスト信仰とも真逆のことを、平気で記事に書いてくることから、私の批判は始まっています。
 
シャロームは、丁寧語とは裏腹に、恐らく、茶化しているわけです。
 
信仰者のブログは、他にもいっぱいありますが、批判しないブログがいっぱいあるのは何故か、ということを一度も考えないあなたシャロームだから、こうなっているのです。
 
しかも、批判の意を汲むことが出来ず、執拗に、同じような超常話を書き続けるから、批判は持続するのです。あなたが、自分の異常性に気づかず、異常性をごまかして、吐き気のするような嘘の飾りの讃美言葉と言い逃れの詭弁を並べるあいだ、ずっと続くということです。
 

「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」とのことですが、8年間絶え間なく、書き続けているのはあなたでしょう。
それはあなたのブログを読めばだれでも理解できるでしょう。
私はコメントを未承認にしたり、時には削除したり、コメント欄を閉鎖したりしました。今も数多くのあなたのコメントが未承認のままミイラのように眠っています。間もなく消え去ります。

 
批判される必然を持っていて、あなたシャロームが書いて、いつもいつも排泄してきて、キリスト教のつもりで、福音をけがし、キリストをけがしているから、妄想は妄想だと言わなければならない必然があるわけです。批判対象となる文章が無ければ、批判は生まれない、という当たり前のことが分からないとは驚きです。被害者意識しかないのは、自己中心の特徴です。
 
何も理解していないのに、何も気にしないで書いてくるのは、あなたシャロームに、反省がなく、学ぶ意志もなく、妄想だけがあるからです。それをキリスト教・キリスト信仰だと思われてはいけないのです。妄想に憑りつかれているのは、あなたなのです。今となっては、分からないでしょうけどね。
 
だから、この人の言うことは、全部、間違っていて、正反対ですと、言わなければならない、という私の課題が消えようもないわけです。言論の責任を負わないならば言論の自由もないのに、おかまいなしに、言葉の暴虐を尽くして、聖書も信仰もけがして平気でいられるあなたシャロームの異常性は、これからも、ずっと批判の動機を与え続けるでしょう。
 
また、今日も、あなたシャロームの、レコーダーのような、以前とまるで変わらない、反論にも弁明にもならない不平の集積されたゴミのようなコメントを見るのは、極めて不快ですが、そのように、シャロームは言ってることが逆で、偽善の勧めに過ぎない、というアピールをしなければならないのは、最初からあなたが原因だからです。
 
批判のはじめから今に至るまで変わらない背教と、とんでもない妄想教理を、あなたは、示してきたわけだから、その責任を問われるのは、もはや宿命なのでしょう。
 

「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」と
他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのものです。

 
根拠のない決めつけが、あなたシャロームのお家芸として続いています。
 
わたしは、あなたを批判しています。神ではありません。アダムとエバの話は、人間一般の罪人の姿を表します。あなたは、また、間違えました。それが、修正不能になった偽善者の悲惨な経過です。あなたシャロームは、いつもいつも偽善の典型だけを示してきました。
 
今日のコメントは、妄想に憑りつかれて訂正不能になっている者の典型的な発言です。神は、あなたシャロームのような、不平ばかり言うような横暴な者の味方にならないのことを、カインの話が示しているのです。
 

あなたの自由意思は罪の鎖につながれたまま支配されているのです。
イエスさまは私はあなたがたに自由を与えると約束されましたが、
あなたはその自由をイエスさまから受け取ってはいないのです。

 
自由意志を、自由ではなく、罪の鎖だと、逆説を言いながら、解説を書かないのも、あなたシャロームの特徴です。あなたは、何も説明が出来ないのだから、説教など出来る人ではありません。
 
主イエスが与えるのは、魂の自由と解放という救いであって、あなたシャロームが表してきたような妄想による修正不能の自己中心の自分勝手ではありません。
 
 

9. shalomです。 お久しぶりです。
 2019年11月15日 15:25
コメントのおしまいに
「シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。」書いておられますが、


私からのst5402さんのブログ訪問やコメントは脅しであったり、嫌がらせであり、嫌がりそうなことなのですか?つまり荒しであり、
あなたの私のブログ訪問や無数のコメントも脅し、嫌がらせの類だった、荒らしだったのですか?私はそう判断しましたので、未承認にしたり、削除したり、コメント欄を閉鎖しましたが、あなたの意思に従うのではなく、それが私の意思による決断でした。

 
あなたシャロームが、通らない文句を何度も言って、荒らしと同じ働きをしています。荒らしの易坊と息が合うわけです。
 
そういうふうに、批判を受け取らず、未承認~削除という対応しかできないことが、あなたシャロームが、反論、弁明、説明が、全くできないということを明確に表してきました。説明が出来なくて、言うだけは言う、という言論のやり方は、ありえません。
 
だから、あなたシャロームの意志は、狂っています。何か言われて、答えることのできない者が、特徴的に、安易にとってしまう強制力は、暴力であり、自尊の過大な妄想が固定観念になったものです。
 

あなたに荒らしだと指摘をされた人はかなりおられましたね。
そういう人にもあなたは荒らしだと逆レッテルを張り、成りすましだと邪推し、決めつけられましたので、皆さん離れて行かれましたが、
そうだったためしがありません。

 
批判を受け取らず、悪口と同様に、荒らしだから削除すると、いちばん言っていたのは、あなたシャロームです。言い返せないで、そう言うのは、カルトの特徴です。
 
私は、根拠を、何度も何度も示してきました。あなたシャロームは、言論というものを全く理解できないから、あなたの発言に、その度に、批判を当ててゆくしかないということです。
 
こういうことは、前にも、何度も書いてきましたが、また、同じことを書いてくるあなたシャロームは、内省不能の自覚のない惨劇とでも言うしかありません。
 

いつでも遅いということはありません。
今は恵みの時、救いの日であるという言葉が聖書にはあります。
きっと、ご存知でしょう。
shalom!

 
恵みの時、救いの日を、ずっと拒否し続けているのが、あなたシャロームです。
 
遅いも早いもなく、批判の必然は、あなたシャロームにあります。私は、キリスト者ですから、詭弁をいくら重ねても、同じことを何度言っても、その都度、卑怯で汚いあなたシャロームに、改めて、新しい批判を書く動機になるだけです。
 
 
このように、シャロームの言から、信仰者が、決して陥ってはならないところの、誤解、曲解、妄想とは、どんなものか、ということを学ぶことだけは可能です。
 
 
(2019年11月16日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

このページのトップヘ