ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。サポートに問い合わせて、ようやくコメントボタンが付けられました。ソーシャルボタンは、コメント欄の上に表示されることも知りませんでした。


  ハンカチ
               戸田聡
自分のために
誰も傷ついて欲しくない
と君は語った
しばらくの間そのことを語った
私は一枚のハンカチを渡した
もらい物であった
私が使っていた
いくたびか汚れ
いくたびか濡れ
ときにはちり紙の代わりとなり
犬が噛んだこともあった
そのたびに洗って干した
少しは汚れや
唾液や涙液が残っているかもしれない
しかし君よ
今はそのハンカチで拭くのがふさわしい
私らの歩む先に
真っ青なだけの空があるだろうか
真っ暗なだけの夜があるだろうか
うつくしさだけで住める町もなければ
みにくさだけで去れる町もないのだ
君は語り私は聞いた
海鳴りのように遠く
耳鳴りのように近く それくらい
明らかではない私らの出会いの後
いずれ君は私を忘れ
私は君を忘れるだろう
だから君よ
この一枚のハンカチを君に渡すのは
今唯一明らかな約束の在り方として
その捨て方を君にまかせるためだ
 
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まだ43歳だった・・・
(1997年3月20日、HPにアップ)
 


  なくしたアルバム
                      戸田聡
少しは懐かしくもあるけれど
格別お名残惜しいわけではない
ともかくも君らが私と別れたのは幸いだった
お互い結局
いいことばかりじゃなかっただろうから
君らが今どこにいるのか知らないが
私よりは多くの陽を浴びているだろう
私は暗いところにいる
といっても気持ちはそれほどでもない
いま会ってもわからないかもしれないけれど
君らの笑顔はぼんやり残っている
それで気分のいいときもあるのだから
起きたいときに起きて
汚れたまま街を徘徊したっていいんだけれど
なかなかそこまで気が進まない
 
私が何をしているかといえば相変わらずで
傷を集めたりしている
かすり傷、細い傷、いろいろだ
傷つきながら夢中になって
君らが丈の高い萱(カヤ)の中を
あんまり急いで走り回るから
あとで血がにじんできて
びっくりして痛がっていた傷とか
けんかしたり転んだりして
君らが遊んでつくったアザとか
私の目に
はっきり写らなかったものを集めている
そして並べてみて
くすっと笑うことだってある
君らが川や海辺や山にいても
路地や工場の跡や
お化け屋敷にいても
泥んこや田んぼとだって友達で
君らの声がきらきら輝いて
何を言っているのかさっぱりわからなくて
みんな名付けようもなくひとつだった
 
若者になって並んでいた君らはもう
埃(ほこり)を被(かぶ)った私には
ぼんやりしていて
虹の向こうでかすかに微笑んでいるんだ
あの頃は
と君らは言うかもしれないけれど
あの頃いちばん大切だったものは
君らは捨て去るしかなかったこと
私はわかっていた
君らは私と
知らないまま別れるしかなかったことも
 
君らが遊んだ人形や玩具
もう二度と触れることはないと
気づかないまま手を離した瞬間が
スローモーションのように写っているよ
 
君らが私をなくした日のこと
私は覚えている
でも君らは忘れていい
君らは皆、私を卒業していった
私は埃を被ったままでいい
これから先、君らが何か
咎(とが)められることがあったとしても
咎めるのは私の役目ではないのだから

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主語「私」=「アルバム」のつもりです。
(1997年2月21日、HPにアップ)
 

「日常×非日常」 批判。
 
記事を見ると、
パワースポットで「聖なるものに出会い、」には隣人愛がないゆえに自己満足・・・
という文脈になっている。それゆえに
「隣人愛のないところに聖なるものとの出会いはない」
という文脈は整っていると思える。私は間違ったのだろうか。
少し間違ったかもしれないので、その点は謝罪したいと思う。
しかし
何故パワースポットの話しの例という流れで語り終えなかったのだろう。
なぜ私は前コメントのように受け取ってしまったのだろう。
少し離れて書かれている短い言葉
「隣人愛のないところに聖なるものとの出会いはない」
は、あとで思い出すと、そこだけが印象に残る。
短く最後に語られているだけに、格言か、聖書の箴言の一節のように、
パワースポットの話しの流れとは乖離してゆく印象である。
そうなると私の前コメントのような見方が出てくる。
 
そういう短い文を最後に書くことは必要であろうか。
そこだけが独立して記憶される可能性を考えると・・・
 
例えば対偶命題にすると
「聖なるものとの出会いがあるならば、そこには隣人愛がある(生まれる)」
となって受け取りやすい。
ただ
「隣人愛のある・ない」や「聖なる出会いはある・ない」も
独立した文・結論となりうることを考えると・・・
 
「隣人愛のないところに聖なるものとの出会いはない」
だけが印象に残った場合、前コメントのような批判は出て来やすい。
 
うがった見方として、パワースポットの話しは、話しのつなぎに過ぎず、
「隣人愛のないところに聖なるものとの出会いはない」
という結論だけを本当は言いたかったのではないか
となると話しは全然別になってしまう
ということを申し上げておきたい。
あまり格言的格好付けは、やりすぎないほうがいいということだろう。
 

  母とマットレス
              戸田聡

老いたる母がいて
まだ生きている
ROM化したルーチンのように
毎日買い物に出かける
そこそこ元気だ
母は腰掛け付きのコタツテーブルを買った
私は予測もし注意もしたが
椅子のほうが立ち上がりやすいのも事実だ
母は年老いたのである
予測どおり母は居眠りして
時々椅子から落ちる
ドッテンと落ちる
母が居眠りをしていることに気づいたら
マットレスを折りたたんで
椅子の横に敷くことにした
母は椅子を肘掛け付きに替えた
なおもマットレスは必要だ
今度は椅子ごと倒れると予想している
 
 

「日常×非日常」 批判。
 
以前から
「神は未来を知らない」を、学説ではなく「事実」だと言い張ったり、
孤独な人への死刑宣告となりうるような
「共感できる人間関係のないところには希望はない」
といった疑問だらけの不用意な問題発言が目立っていた。
それが漸く一段落ついたような気持ちのときに下の記事である。
 
モノローグ・自戒だという言い訳は通用しない。
一般に公開されている以上、学者だけではなく、
一般の人も一般のクリスチャンも見るからである。
しかもコメントに対して答えることも説明することも
貴殿は放棄したのである。
 
私は神学そのものを毛嫌いしているわけではない。
今回ブログを立ち上げたのは
コメント欄が閉鎖されたからという理由と、
そのあとの記事に
 
「隣人愛のないところに、聖なるものとの出会いはない。」
と書いてあったからである。
 
「聖なるものとの出会い」のある・なしを、
それは個人の神との間の秘め事であるはずなのに、
人間である貴殿が、条件をつけて、何故語れる。
これもまた孤独な人への死刑宣告となりうる。
 
結局、前記事における①について努力する気など元々なく、
自説を訂正する気もなく、自説の断定的発言を続けるために、
うるさく書いてくるコメントが邪魔になって
コメント欄を削除したと推測せざるを得ない。
 

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