ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  楽山の極悪引用2
 
 2021年07月03日
 『大川総裁の読書力 知的自己実現メソッド』大川隆法著
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。
 
ブログ記事の批判の前に、楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
先日、『大川総裁の読書力』が話題になっていたので、かんたんな感想を書いてみました
顔文字(にやにやした顔)
2021年7月3日
 
揶揄しようという気持ちが顔文字に表れていますが、他者のことを言うより先に、何よりも、楽山自身について、読書力は皆無であることが、今までの記事に表れてきました。自分に都合のよい文言を漁っては、引用して、一切の責任を負わない楽山だということは、何度も書いてきました。
 
楽山には、読解するための理路や、感受するための共感力が、備わっていません。人の読書力を云々する資格は、少なくとも楽山にはないということを申し上げておきます。楽山に反省力がないことが、こういうところにも表れてきます。無反省・無責任では、いかなる言い分も成り立ちません。
 
楽山が、有名人や、学者など、他者を引用して、書いてくるのを、真に受けてはいけません。楽山は、そういう人を、少しも尊敬しておらず、同格みたいな筆致であり、敬意を払ってもいないのです。楽山の引用は、自己愛・自己中からの揶揄のためであり、悪用なのです。
 
 
ここから、ブログ記事の批判に入ります。
 
*印象に残ったところ
ツイッターにて、『大川総裁の読書力』が話題になっていたので、どんなことが書いてあるのかと思いチラ見してみた。印象に残ったのは大体こんなところである。
霊言を再開したのは、元会員のなかに大川隆法は霊能力を失ったという者が出てきたからである
仏教を勉強した結果、高橋信次の仏教論は間違いであること及びそのネタ元もわかった
情報量が増えれば、体系化や見切りができなくなる?
速読できる本とできない本がある。
夏目漱石に霊界知識があれば…云々。
 
「チラ見してみた」と書いているように、楽山には、他者を云々するときの真摯な態度や動機がありません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山にとっては、他者は、自分より下で、自分を飾る材料に過ぎません。元信者としての切実な動機など、楽山にはないと思います。
 
なお、楽山は、霊能など微塵も持っていません。何か言えば、破綻し、妄想と詭弁と嘘で逃げるしかなかったからです。それで、苦し紛れに、他者を引用し云々するしかなくなっています。いろいろ引用しても、霊能者気取りの嘘とはこのようなもの・・という例でしょう。
 
 
*思ったこと
以下に、上の論点について感想を書いてみる。
どうやら大川隆法が霊言を再開したのは、「大川隆法は堕ちたので、高級諸神霊からの通信を受けられなくなり、霊言はできなくなった」というレムリアのアマーリエ氏への対抗意識のためだったようだ。
 
楽山らしく、やはり、超常の霊言がらみです。こういうことしか言えないのは、カルトと同じ穴のムジナ、即ち、楽山が、超常霊能者気取りであることを表しています。地道なアンチたちに袋叩きにされても仕方ない楽山です。知らない名前が出てきますが、気にする必要はないでしょう。
 
 
仏教を勉強したことで、高橋信次の仏教論が間違いであること及びそのネタ元がわかったとしているのはおかしい。大川隆法は時々、HSの設定を忘れることがあるが、ここでは自身が仏陀の生まれ変わりという設定を忘れているのではあるまいか。
 
「HSの設定を」忘れずに覚えておいてほしいのでしょうか。楽山は、アンチ気取りですが、今までも、アンチとは思えない超常寄りの発言がありました。恐らく、楽山にとっては、アンチとかも、どうでもいいのでしょう。楽山自身が、人の上に立つ教祖気取りの教え方をしてきたということです。
 
 
情報量が多すぎれば、情報に溺れてしまい、かえって決断ができなくなるという見方もあるが、自分には情報量が多いほど、その構造、本質は明確となり、情報の価値判断も容易になるとする見方の方がリアリティはある。
 
楽山に「情報の価値判断」を任せてはいけません。楽山こそが、嘘と詭弁と誘導と印象操作の発信元です。楽山が絡めば、カルト批判は、自慢話に変わり、真実から遠く離れてゆくでしょう。楽山は、何でも利用するでしょう。人の良心さえも、楽山には、具材なのです。
 
今までの記事から、「情報量」が多くても、楽山には、そして、楽山からは、「その構造、本質」は明確にはなっていません。生まれてくるのは詭弁だらけです。分かるのではなく分かったことにしているだけです。だから楽山の「情報の価値判断」は、デタラメです。
 
 
本には、速読できるものとそうでないものがあるという見解には同意する。本は大別すれば、情報を得るための本と、味わうための本があると思うが、後者は速読向きとはいえないだろう。
 
楽山の、ご自慢の、いい加減な読書観?です。だから、速読したつもりで、その真意を曲解して、自己正当化に当てる・・などということが平気で出来るのです。楽山が、何の情報を得るでしょう。何を味わうつもりでしょう。楽山には、我執の我欲しかないのです。
 
 
夏目漱石はスピリチュアリズムの知識を持った上でそれを捨てていたので、もし霊界知識があれば…云々というのは無意味である。
本書には、他にも論点にできそうな箇所はたくさんあったが、とりあえず今回はこれで一区切りとしたい。
 
楽山は、恐れもなく、夏目漱石のことを、楽山曲解のスピリチュアルとして持ち出すのでしょうか。お仲間だと思いたいのでしょうか。楽山自身も、このように語り継がれるであろうと言いたいのでしょうか。見苦しいピエロは、何も見抜けないのに、論点と言い、分かる超常自慢を捏造しています。
 
 
*おまけ
としつつも、最後に参考として、漱石の言葉を貼っておきたい。
 
つまり、引用だけで、楽山自身は、他に何も言えないということです。能力以上に思い上がった者の、情けない処世が表れています。
 
これは大正四年の畔柳都太郎宛書簡にある言葉である。
私は死なないといふのではありません。誰でも死ぬといふのです。そうしてスピリチュアリストやマーテルリンクのいふやうに個性とか個人とかゞ死んだあと迄つづくとも考へてゐないのです。
(『漱石全集 第十五巻 続書簡集』夏目漱石、岩波書店、昭和51年、p.440)
 」
 
楽山は、実は、自分は違うと思っています。でなければ、楽山が、仏様の心が分かるっぽい?という立場にならないからです。スピリチュアル漬けと言ってよいでしょう。漱石は、死後について、楽山の言うようなスピリチュアルについては否定しているように思われます。
 
 
さらに楽山日記の記事から、漱石の死生観がわかる文章をうつすとこういうものもある。
まず意識不明の重体になったときのことについては、こう書いている。
余は余の個性を失った。余の意識を失った。たゞ失つた事丈が明白な許である。どうして幽霊となれやう。
(『漱石全集 第八巻 小品集』「思ひ出す事など」、岩波書店、昭和50年、p.320)
 」
 
丈=だけ、許=ばかり・・と読むのでしょうか。いつものように、楽山は、解説が出来ないものだから、説明も書く気にならないのでしょう。自己中に加えて不精な男です。こういう者がリーダーにでもなったらと考えると背筋が寒くなります。
 
引用からは、漱石は、幽霊を否定しているので、リアリストという感じがします。空想~妄想屋の楽山とは全く違うので、楽山が漱石を読み取っているとは思えません。個性と意識を失ったなどと、なぜ漱石が言えるかが、楽山には、推測できないのです。
 
死について、楽山よりはマシな芝居を、漱石は演じているのでしょう。そうすることで、幽霊じゃないと言いたいのか、幽霊の怖さを退けたいのか、そこは分かりませんが、楽山のように、「死生観が分かる」などと、真に受けることは出来ないと思います。
 
というより、楽山は、引用するだけで、どう評価したかを書いていません。このように、楽山は、大した動機も考えもなく、気安く有名人の言葉面だけをを引用して、悔いることがありません。それで、箔をつけたつもりで、インテリを気取って満悦するのですから、読者には、迷惑でしかないのです。
 
 
スピリチュアルな話にはこうも言う。
假定は人々の隨意であり、又時にとつて研究上必要の活力でもある。然したゞ假定だけでは、如何に臆病の結果幽靈を見やうとする、又迷信の極不可思議を夢みんとする余も、信力を以て彼等の説を奉ずることが出來ない。
(同上、p.319)
 」
自分に經驗の出來ない限り、如何な綿密な學説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
(同上、p.320)
 」
私がHS会員だったころは、夏目漱石は菩薩とされていたように思うのだが、HS的には今はどういう評価になっているのだろうか。
 
假定=仮定、然したゞ=しかしただ、・・でしょうか。楽山は、アンチを気取っていますが、実際には、「漱石は菩薩とされていた」など、HSの見なすことに影響されたり、霊言と言ったりして、むしろ、アンチではなく、香具師的なインチキ霊能者ではないかと思うことがしばしばです。
 
(ネットより)
香具師(やし、こうぐし、かうぐし)とは、祭礼や縁日における参道や境内や門前町、もしくは市が立つ所などで、露店で出店や、街頭で見世物などの芸を披露する商売人をいう。また野師、野士、弥四、矢師[1]とも表記する。的屋(てきや)や三寸(さんずん)とも呼ばれる[2]。
 
漱石は、幽霊など超常不思議を夢見ることを、信じたり、賛成したりは、できないと言っています。なのに、楽山は、菩薩云々と書いているだけです。何も読み取っていないから、解説がまるで成り立っていない楽山です。いい加減にしてほしいです。
 
 
混濁 陰気

混濁 陰気
 
 
(2021年)
(2022年07月09日、再録+加筆)
 
 
 
  選択
 
ここに二つのボタンがある
一つは
「読み方が悪い」と言うボタン
もう一つは
「書き方が悪かったのでは」と考えるボタン
もし君が書く人なら
どちらのボタンを先に押す
 
ここに二つの刃物がある
一つは両刃の剣
人を斬るときには自分も斬ることになる
もう一つは片刃の刀
人を斬ることにしか使わない
もし君が斬る腕を持っているなら
どちらを選ぶ
 
 
  マイナス
 
マイナスの贈り物が
喜ばれないことは知っている
受け取ってさえもらえないことも
 
それは後ろ向きの霧の眼差し
踏み付けた霜柱に眠る
後味の悪い生き物だから
しかめっ面の鼻先で飛ばされるか
このようにはなりたくない
とさえ言われるものだ
 
出口のない迷路から
屈折して飛び出した矛盾だ
でもその成行きに生まれ育って
生きている以上いまさら
プラスのプラグを差し込んで
充電することなどできはしない
 
急に残された世界で神妙になったりなど
子供のように従順になって
笑って見せたりすることには
昔から失敗してきたから
 
美しいと呼ばれる朝と朝が来るときにも
沈んでいった夕暮れの足跡を
足音を求めるばかり
腹を空かした犬に
パンのかけらをくれてやっても
犬の暮らしを知ることはない
 
名残惜しい我が身の一日と一日
そうやって生死の悔いの狭間で
沈んだ日々が朝の中で
割られた薄氷のように
覚めてゆく
 
 
  うたた寝の先
 
うたた寝の中に
忘れてしまった夢がぎっしり詰まっていて
体が重く感じられ
ふと星がよぎるように
身近な人の訪れさえ
ときに驚きに似て
 
こういう人がいて
どういう関係がある
関りはいつも違う事情にあって
その日その時一回きりであるのに
相対する人は疑うことを知らぬかのよう
そのように思慮はあいまいな現実で
そのくせ指示は明確な夢のよう
そういう混濁した明証性の先に
張られた綱の上を
この日一日と渡っていく
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
現代ビジネス
@gendai_biz
·7月3日
〈私たちは、自分が知らず知らずのうちに持っている思い込みをもとに、それに合う事実を無意識に選択して認知するからです。そして、無意識に選択した事実を頭のなかに取り込んだうえで、「ああやっぱり自分の思っている仮説は正しいんだな」と自分の信念を強化します〉
午前7:14 · 2021年7月3日
 
引用元を批判するつもりはありません。他者の言を悪用する楽山を批判します。
 
楽山は、「知らず知らず」ではなく、「事実を無意識に選択」するのでもなく、故意に事実を選択し曲解して、「選択した事実を頭のなかに取り込ん」で、信念の強化ではなく、偏見と妄想を捏造して、捏造した正義気分に酔い痴れるのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
さん
さっそく、この人は、これまでと同じことを繰り返してます。
ついさっき、私が、この人のツイートの難点を指摘したら、すぐにそのツイートを削除し、逃亡しました。
引用ツイート
★こも/楽山日記3
@komo266
 · 21時間
風刺画にノーと言うのは自由でしょうけど、他人の書いた絵を流用するのは著作権侵害の可能性があるでしょう。
また後から、バツ印を加えたなら、他人の創作物を改変したことで、これもダメでしょう。
これらはツイートのスクショよりヤバいです。お気をつけ下さい。
午後11:39 · 2022年7月6日·Twitter Web App
 
楽山は、批判されると、弁明することもなく、完全に無視してきます。卑怯で、罪悪感なき逃亡者です。元々議論など出来る人ではありません。検証可能な理路はなく、言っていることは、当たり前の通念的なことか、偏見か、でなければ、嘘と詭弁です。何も新しいことは言えない人です。
 
「著作権侵害」「創作物を改変」などと言っていますが、通らない理路と学者気取りで、人をだましてきたのが楽山です。読書感想文でも、聖書を読んでも、白々しい褒め言葉か、偏見に満ちた悪口で、深みを汲み取ることが出来ず、それで批判したつもりになるような自己満足疾患です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自他未分化の楽山は、引用と自分の意見の区別がつきません。他者の都合のよい意見を自分の意見のように言っているうちに、自尊が妄想的に増してきたのでしょう。また、一方、だんだん他者か自分か分からなくなる自我同一性障害から、倒錯へ、そして、人格崩壊~破綻に至るかもしれません。
 
 
 
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  楽山の依存性無神論2
 
 ドーキンスの話
 楽山日記(LD) 2021年07月03日
 
  類似の批判記事があります。
  「楽山の縋りつくもの」
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
という人のツイッターのようです。学者のようですが、一面的な印象です。
 
楽山を、自立した大人と思わないでください。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)だと思います。我執を満足させるために、人の口を借りないと、人の名前を借りないと、まともなことを何も言えない不全と悪性の人なのです。さらに、人の迷惑、何も考えていません。
 
 
>(楽山)
*ドーキンス
ツイッターにて、ドーキンスの『神は妄想である』について語られていたので、気になったツイートだけでも保存しておきたい。
 
いつも卑怯な楽山は、どう気になったのでしょう。悪意以外ないと思いますが、自分で書いても、ボロボロになるからと、学者らしい人のツイッターを、コピペしにくい形で、転載しています。
 
 
欧米では無神論が台頭していますが、この手の無神論Tシャツあるいはノー宗教Tシャツというのが無数にあるようです。イマジン~はもちろんレノンの「イマジン」の歌詞によりますが、自爆テロで崩壊したWTCの図柄はドーキンスが出演した英国のTVの新聞広告に由来するものでしょう。
ドーキンズやデネットの無神論は宗教を口にするいかなる人にとっても重要ではないかと私は思っているのですが、信者さん一般はドーキンスの本など読む義理を感じないでしょうし、人文系の研究者も「これは自然科学からの一方的な議論ではないか」と、敬遠する傾向があるのではないかと思います。
 」
 
だったら、書かないほうがよいと思います。早速、楽山のような自己愛性人格障害NPDの者が悪用しています。実際、自然科学からの決めつけが見られます。それと同時に、生きてゆくための支えとしての信仰が無視されていると思います。信仰に証明は付きません。
 
 
ドーキンス『神は妄想であるThe God Delusion』をどう読んだらいいか? ちょっとずつ読んでみましょう。目につく言葉を拾ってみます。第1章。ドーキンスが「神」をどういう意味で使うべきと思うかを書いた所があります。それは「①我々が崇拝するに値する②超自然的な③創造者」だ、と。
 」
 
超自然的、創造者、いずれも、聖書の超常現象ということをテーマとしています。これは、決してキリスト信仰の中心ではありません。何故なら、超常は、人間の手に負えないことだからです。「超自然」などという言葉で神を決めつける無神教カルトの神理解の浅さが表れています。
 
 
つまり、無神論者は「説明が未だつかない領域というものがある」と認める。しかし「説明がつかないのなら説明がつくまで待とう」と考える。逆に、説明のつかない現象に対して「神霊がやった」あるいは「超自然現象というものがある」と「説明」するが、宗教(神信仰、奇跡信仰)です。
 」
 
違います。多くの信仰者は、生きるための心の支えとしています。ゆえに、祈りの信仰と言えるわけです。このことを無視して、否定の的外れを言ってくるのが、楽山などの、一方的な、いちゃもん屋とか、無神教カルトの中の思い込みの強い人たちだろうと思っています。
 
無神論が、科学であるなら、宗教化してはいけないのですが。科学万能から、科学教、さらには、科学以外信じないカルトになって、余計なことを言う人が出てきているのでしょうか。
 
 
無神論的一元論は《体系的説明+空白領域》で考える。宗教的二元論は《体系的説明+神霊的説明》で考える。神霊的説明は実は説明ではなく説明のつかないものをパッケージにしたものです。そしてこの非説明的説明を認めないのは傲慢だと言う。しかしこの態度そのものが無神論者には性急=傲慢に見えます
 」
 
命といえるのは、心の救いです。それを、霊ということはあるでしょう。しかし、聖霊などの超常の心霊の説明は、人間には出来ません。悪霊も同様です。そういう言葉を使って信仰のつもりの宗教人がいたら、その人たちは、信仰者ではないということです。
 
 
「信仰の信仰」とは、自分では神様を信じていないのだけれど、信仰はとても大事だとの立場をとることです。「神の信仰」が神を信じることであるのに対し、「信仰の信仰」は信仰には美徳があると信じること。自分はその美徳に与っておりませぬと遠慮するわけですから、心理的にはやや屈折した立場です。
 」
 
信じていないけど、大事だ、という言い分は、私には分かりません。大事にするだけで、拠り所としない人には、信仰の心は、分からないと思います。なお、私は、洗礼をもって信仰の証明ということには反対です、神の保険に入ったかのように、多くの教条主義が生まれるからです。
 
 
無神論者ヒチンズによれば、⑥マザー・テレサも「神が信じられない」と神父に告白しており、このタイプに近いのだとか。神父は「そのような苦しみこそ主の十字架の苦しみです。悦びなさい」といったようなことを言う。こうなると「信仰」と「信仰の信仰」と「不信仰」の境界線がかなり怪しくなります。
 」
 
ある意味、信仰は、不信仰の自覚とも言えるところがあります。アダムもエバも、キリストに救われた多くの人々も、不信仰ながら、神に、キリストに縋りつくことを忘れなかった人たちです。救われた人々が、そのあと、価値観が変わっても、完璧な信仰者になったわけではないでしょう。
 
 
先走って言いますと信仰問題は結局「政治的」な問題だというのが私の認識です。信仰という概念で事実認識と信頼とを曖昧に結ぶ政治的レトリックから利益を得ているのが宗教者であると。もっとも宗教者はその政治性を認めないでしょう。政治性を認めないこと自体が政治的なのでは?と水掛け論になります
 」
 
政治的な問題になってゆくのは、信仰ではないと思います。したがって、「事実認識と信頼とを曖昧に結ぶ政治的レトリックから利益を得ている」のは宗教者でも信仰者でもないと思います。政治には、誰もが巻き込まれて政治を考えるでしょう。しかし、信仰が政治的になったら、信仰ではありません。
 
 
言い換えれば、ドーキンズは神の有無の問題は《経験的》な(科学的検証の対象となる)問題だと言っているわけです。ドーキンズがそう考えるのは、神学者も一般信徒も「神」を数学的な観念の類ではなく、啓示、奇跡、祈りへの応答を通じて《経験》的な領域に具体的に介入する存在と考えているからです。
 」
 
「神の有無の問題は《経験的》な(科学的検証の対象となる)問題」にはなりません。神の全能は、科学という限られた人知では測れないからです。つまり、神への信仰は、人知の及ばないところに生きる意義を託すことであります。
 
すなわち、信仰は、科学的に分かるから信じる、科学的に矛盾するから信じない、というところには、その欠片すらもありません。
 
 
《経験》に顔を出すものは、すべて科学の研究対象となります。心理的介入ならば心理学や生理学が、オカルト的介入ならばオカルトそのものの当否を決める科学が、歴史的介入ならば歴史学が関わることになる。それらのどれでもない形而上学的存在といったものが想像可能かが問題となるでしょう。
 」
 
心理学は、さらには精神医学も、一部には、人文科学の発想とか直観からの資産を利用しますから、自然科学と同列ではありません。実験、観察、帰納、演繹、という論理立て以外の筋道を使っている学問は、別の科学ということです。
 
しかし、法則性による科学が、信仰を語ることはないのです。信仰には、生きる目的とか、情感とか、愛とか、科学の扱わない問題が、濃厚に関わってくるので、何でも、何かの○○学で述べられると思うのは間違っています。
 
 
というわけで、神学者や一般信徒がふつうに語っているところの《啓示と奇跡と祈りの神》それ自体はすべて科学的批判の対象となり、「あり得るか」「あり得ないか」の確率を計るべき対象となることになります。そんな神の有無をガチの不可知論の対象であるかのように述べるのは間違いだ、というわけです
 」
 
「《啓示と奇跡と祈りの神》それ自体はすべて科学的批判の対象」となるのではなく、その中の、教条主義的なところが、批判の対象となります。その典型が、楽山の語る神理解であり、浅ましい病質者の、悪口と寝言のようなものです。
 
 
一般則として、何かがあると主張したほうがその証拠を示す義務を負います。それを怠るのであれば、まわりの人間はあっさり無視してかまいません。「ここは霊のスポットだ」「証拠は?」「証拠はない」「どうやって調べる?」「調べようがない」「ではさようなら」でOKです。
 」
 
「何かがあると主張したほうがその証拠を示す義務を負います」・・いかにも科学教の信者が言いそうなことです。しかし、神の存在の証拠を、人が見つけるということ自体、もはや信仰から遠く外れたことです。信仰は人の、心に、あるものです。科学的手段で云々できることではありません。
 
 
では、神の(哲学的抽象観念としての神ではなく、啓示などにより歴史に介入するとされる神の)存在の有無については、惑星間ティーポットの場合と比べてどうなるでしょうか? 結局、個人ないし集団の言説という以上の存在性の証拠が挙がっていない以上、神もティーポットも同類ということになります。
 」
 
「惑星間ティーポット」が分かりませんし、検索しても、茶器のことしか出てきませんが、無意味な例として挙げたのでしょうか。なお、想像の産物は、自由だが、根拠を持ちませんので、信仰の根拠にはなりません。上に述べたように信仰の根拠は、個人の心の癒しの体験です。
 
 
そこでドーキンズは、有神論者に対して「君は他宗教については無神論者なんじゃないか」とツッこむという戦略を提案します。聖書の神を信じる人も、ゼウスについては(惑星間ティーポットと同様)「存在しっこない」で片づけてしまいます。だから有神論者も他宗教に関しては無神論であると。
 」
 
信仰に、論理性を求めても、結局、心にあるものを、伝達の暗号である言葉で完全に表すことは出来ないと知るべきです。しかし、ヒントにはなるわけです。科学者は、証明云々と、厳密性を誇って、得意気に信仰に関わるべきではないのです。
 
 
>(楽山)
*反省
ツイートはこれ以降も続いているが、質、量ともに素晴らしいので油断するとすべて保存したくなってしまい、きりがない。そんなわけで、とりあえずはメモはここまでとしたい。
それにしてもこれを読むと、自分は『神は妄想である』は通読済みのつもりだったが、全然読めてなかったことを思い知らされる。日暮れて道遠しを思う年になってきてはいるが、焦らず地道に精進するとしよう。
 
楽山は、「地道に精進する」人を侮辱する輩(やから)です。楽山は、怠け者なので、人の口を借り、本の言葉の表面にしがみつき、嘘と詭弁で、反キリストの悪魔性の役割を演じて、ざまあみろ、できたぞ、とばかり、笑っているのです。これほど愚かになったら、まともに生きてはゆけないわけです。
 
 
>(楽山)
*注意
上は、連投ツイートの一部を保存したものである。そのため前後のつながりが不自然なところもある。このテーマに興味のある方は元ツイートを確認してもらえればと思う。以上。
 
つまり、楽山は、自分の言葉で説明することが出来ない、と自分で証明しています。いかなる文章も、自分で理解しておくべきですが、できないものだから、名のある人の口を悪用するしかなくなっています。引用された側の迷惑は、一切考えない悪性です。楽山は、何か言われたら、人のせいにします。
 
楽山の、自己愛性の、反キリスト性が、全開です。手段を選ばす、人の口を悪用してきます。広い世界には、様々な人がいます。あちこち見まわして、人並みの理解力もない悪魔性の楽山が、HNを変えながら、悪用できる対象を探していますから、注意・警戒してください。
 
 
神を信じるとは、全能ではない自らの人としての不完全と罪性を認めることが主軸です。ゆえに、人が、神の超常の業(わざ)について、希望することはあっても、あったのだ、起こるのだ、と信じ込んでしまうことは、神に対する越権行為という背教であり、同時に、自分の心を損なうことなのです。
 
宗教の堕落についても、人間の罪性についても、聖書においては明らかです。宗教の代表者たちがキリストを殺しました。歴史においても明らかでしょう。人間には、独裁を見抜く知性も、排除する力もありませんでした。
 
堕落やカルト化や政治集団化を批判するのは善いことだと思います。しかし、そういう一部をもって全部を否定することは出来ないです。キリスト信仰者は、言論の全否定をペテン師の楽山には向けるべきですが、神とキリストに向けることは決して出来ません。既に心の恩恵を受けているからです。
 
楽山は、良識や良心が欠落していて、心の恩恵について、心の感受性がないから、理解できないのです。そうして、理解できない数々の恵みの話を、鼻先で笑ってきて、今になって、改めて、憎み、恨んで、復讐を企んでいるのでしょう。
 
 
既に受けている恩恵をどうして否定できようか

既に受けている恩恵をどうして否定できようか
 
 
(2021年)
(2022年07月08日、再録+加筆)
 
 
 
  まえがき 契約
 
今ここに保証のない契約をたてて
旅立つ前の支度のように
転がるプライドを箱におさめ
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
虚言と余言?を手紙にしたためて送ろうと思う
奴隷がしもべに変わるように祈りながら
呪いを自らに向けて
一つの段を降りてまた一つを降りて
もう降りようのないほど降りて
降り尽くしたとき
通じ合えることの乏しさを
触れることもなく
触れられることもないほどに
低く造られたことの喜びを
分かち合える友の少なさを
パン屑の奇跡になぞらえて
汚れの中に身を置いた
空しさの故に約束しよう
あなたがたは栄え
この身はいつか森の中に行って罪を悔い
見せない涙のように土に帰る幸いを知ると
 
 
 
  少年と空
 
少年は空に焦がれる
少年は病んでいた
 
少年は口笛を吹き
歌を歌った
 
歌は空に流れ
きらめく無数の塵となって消えた
野に遊ぶだけの
少年の毎日
 
いつか風が吹いていた
いつか草が倒れていた
日は暮れつつあった
燃えるように誰もいなかった
 
少年が空に投げた希望も、夢も
やさしさも、光も、鏡も、人形も
ついに空に届くことはなかったが
夕暮れ、赤く焼けた大地に
空はどこまでも
少年の面影を追い続けた
 
口笛は空に焦がれる
口笛は病んでいた
 
 
  うばわれて
 
てんは にぶつを あたえず
てんは いちぶつを あたえて
てんは いちぶつを うばっていく
むねんの こころ いかばかり
ないても
いかっても
もどってこない
 
てんは かえりみて あわれみ
なごりのようなものを のこす
 
きづいた ひとだけが
きずを しり
いやされる ことを しる
うばわれて
うばわれて
なにも なくなっていく
ときの なかで
ふりそそぐ ものを うけられる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、恐らく、信仰者を、こんなに変なことをどうして信じるんだ、バカじゃないの、という感じで笑っているのでしょう。しかし、楽山は、人間として、いちばん大事なことを、まるで感じないでいられる体質なのです。その大事なこととは、良心であり、悲しみであり、そこで、反省する心なのです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@naruse_shousetu
さん
ことの経緯を説明すると
この人は、アンチとの議論に行き詰まるたびに、自分のツイートを消したり、名前を変えたりして逃げるんです。自分の失態を隠すために…。
それでいながら、アンチに対して「セコイことするな」といったので、ブーメラン発言だと皆に笑われたのです。これが真相です。
午後10:15 · 2022年7月6日·Twitter Web App
 
楽山は、批判すると、無視する人です。ブーメランは、楽山に頻繁に起こってきました。人のことを言って、自分が斬られているのです。楽山は、厚顔無恥です。まだ、議論~論争できると思っているようですが、楽山をアンチと思って頼りにするのは、自滅行為に等しいと言ってよいでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
さん
しかもその上で、この人は私のことを嘘つき呼ばわりしています。
こんな風に自分の失態の証拠隠滅をし、さも相手方が悪いことをしているかのように印象操作するのが、この人のやり方です。
だから、アンチはもちろん、信者でさえ、この人とは距離をおいてるのが現状です。
 
楽山は、ひどい嘘吐きです。かつ、整った理路がありません。「自分の失態の証拠隠滅をし、さも相手方が悪いことをしているかのように印象操作する」のは、楽山の得意技です。まだ、他者のことが言えると思っているのは、ますます異常です。楽山とは、関わってはいけません。相手にしないでください。
 
 
後日と思っていましたが、ここに書いておきます。楽山は、危険物です。近づかないでください。
 
楽山の害毒:今までに表れてきたこと。
 
人格:
1. 自己愛が強く自己中である。
2. 自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
3. 平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
4. 深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
5. 後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
6. 罪悪感、羞恥心が見られない。
7. アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
議論:
8. 議論や交流が、整わない、できないし、する気がない。
9. 相手の意見を受け取って考えないので、反論、弁明が成り立っていない。
10.理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
11.学者・批評家・読書家気取りで、分かっているという我執から離れられない。
12.非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
13.人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
14.真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
15.ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
16.トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
17.しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
18.「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらない。
宗教:
19.反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
20.キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込んでいる。
21.HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
22.霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。
これらの詳細については、新しい情報があれば、加筆し、毎回、載せるようにするつもりです。
 
まだ、何か言えると思っているから呆れます。楽山は、人間として欠格であり、議論不可であり、危険物です。近づかないでください。楽山と交わるより、犬や猫と親しむほうが、生きてゆく上で、よほどマシなのです。
 
 
 
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  楽山の詭弁と正当化2
 
 『実践 快老生活』渡部昇一著
 2020年06月28日 楽山日記(LD)
 
 
今回は、楽山は、露骨に嘘を吐いてきます。しかも、著名人の名を借りる不遜もあらわになって、本当に、醜いさまが、バレバレになってきました。
 
 
*渡部節
佐藤優の対談本『読む力』で、渡部昇一が高評価されていたので、ひさしぶりに氏の本を読みたくなり、前々から読もうと思いつつも読めないでいた『実践 快老生活』を通読してみた。相変わらずの渡部節であり、超ど級の率直さがおもしろい。
 
楽山が「おもしろい」というのは、過激で、しかも、否定的なことのようです。そういうのは、言った人以上に、思慮のないサディストの趣味である可能性が高いということです。自分では、何も理解できず、人の言葉を、特に有名人の言葉を礼賛する卑屈で反社会的な貧乏根性が見え隠れしています。
 
 
たとえば今の時代は、孫子を持つ幸せだとか、結婚相手を選ぶ際に遺伝について考慮すべきということは、声を大にしては言い難いところがあるが、著者はそれをあけすけに語っている。こういうことができるのは著者の他には、石原慎太郎くらいしかいないのではなかろうか。
 
楽山は、自分の子孫が持てそうになくて、結婚相手にも選ばれそうになくて、いじけた根性で、逆に、優れた遺伝子を持っている自分を夢想したいのでしょうか。それで、過激な評論を面白がるのでしょうか。しかし、楽山には評論をするような視野の広さなど皆無なのです。
 
あけすけに言うのと、嘘を吐き、詭弁を弄し、有名人の名を利用して飾り、理路も情緒もお構いなく書くのは、全く違うんだな・・ということを、楽山を通して実感します。著名人さえも、上から見下ろして楽山が、自分の知識人気取りのために、利用しているのは、実に見苦しい限りです。
 
 
*穏当な意見
とはいえ本書にはそれほど波風はたたないだろう穏当な話も多く語られている。健康のためには精神面だけでなく、栄養など唯物論的な見地からも注意すべきだとか、年をとっても詩歌などを暗唱して記憶力を磨くことができるだとか、一般の健康論をそのまま実行すればよいというわけでなく、自分の体調によって調整することが大切だとか、大方の人がなるほどと思える話もある。
 
「大方の人がなるほどと思える」などと、大人になれなかった楽山に言われたくはないのです。健康と栄養の問題は誰にとっても大切なのに、短絡して「唯物論的な見地」などとという言葉を使いたがる楽山の未熟で狭小な世界を、どうか真に受けないでください。未熟児の背伸びに過ぎません。
 
理想の老後の話ですが、楽山は、精神面が壊れ、栄養を語って唯物論と言い、人間らしさを語れません。気に入らないことをことごとく無視している楽山の記憶は虚妄以外何もないのではないかと思われます。そして体調だけでなく心の調整が狂っているために、詭弁で誘導することに専念しているのです。
 
 
論語の「七十にして心の欲するところに従って矩をこえず」という言葉についての解釈もおもしろい。これは悟りの境地というよりも、加齢によって心身が衰えてくると、「矩をこえようと思っても、もうこえられない」(p.18)というものであり、孔子はそのことを、率直、正直に語ったのだろうという。たしかに怪力乱神を語らずという立場からすると、これは精神的神秘的な境地のことではなく、著者の言う通りのようでもある。
 
若くして矩に反している楽山は、恐らくもう長い間、少なくとも一年余り、いかなる批判も無視して、自身の欲するところに従って、精神の犯罪性を発揮して、非常識なことばかり言ってきたのです。矩(のり)や法や徳は、楽山の欲せざるところなのでしょう。
 
ゆえに、楽山にとって幸いなことは、自分でブレーキをかけられないのなら、もはや、一日も早く、楽山の欲せざるところが、詭弁の記事を書けなくすることだけのように思われます。有名人に賛同して、自分もなんです・・という自己顕示欲の見苦しさを、むしろ、むき出しにしています。
 
しかし、そこにおいて、自由と勝手を、正直と恣意を、ありのままと欲のままを、すっかり混同した楽山が、石を投げながら暴走し続けているのです。いい歳をして、自慢げに、もっともらしいことを言ってるつもりの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の災いです。
 
(ネットより)
怪力乱神を語らず(かいりょくらんしんをかたらず):
怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。
 
楽山は、とても怪しげなことを、道に背いたことを、理性で説明がつかないようなことを、知ったかぶりで語ってきました。また、霊が分かるっぽい話や、不確かな、どっちつかずの、ボンヤリ言語を弄してきたのです。そうして、今回も、楽山の批判が、楽山を斬っているブーメランが実態なのです。
 
 
*知的正直
正直といえば、著者は知的正直について、「自分がおもしろいかどうかを一つの絶対的基準として読書を愛好してきた」(p.57)と語っている。これは漱石の「私の個人主義」における自己本位に通じる考え方であろうし、自分も大いに影響を受けた考え方だ。
 
正直ということには、無視しない正直さだけがあればよいのに、楽山は、他者無視と、我欲の自己中心の利己主義を持ち出して、大いに悪と偽善をまき散らしているのです。楽山は、個人主義を我欲の恣意と混同している知恵足らずの未熟者です。一見、まともに見えても、詭弁だらけの楽山です。
 
 
読書に限らず、ものごと全般について正直な感想を述べると、傲慢だとか、生意気だとか言われて責められることもあるが、他人の機嫌をとるために自分の感想を偽ったところで仕方がないし、自分は自分という独立心を持ち、権威に盲従することなく、正直な思いを忘れないのは本当に大切なことだと思う。
 
我執により我欲だけで言動している者は、楽山のように、傲慢になります。他人の機嫌を取るのではなく、他人の意見を無視しているのが楽山です。また、自己正当化の詭弁を弄しています。楽山が「自分は自分」とばかり我を通すなら、行きつく先は、反社会性でしかありません。
 
「自分は自分という独立心」は、正直で率直に物が言える人物に見られるもので、悍ましいことに、楽山の動機は、独立心ではなく他者を無視して妄想的唯我独尊に生きていて、自ら権威者のごとく傲慢であり、嘘ばかりついて、詭弁ばかり弄して、正直の欠片もない我欲の力動に過ぎません。
 
楽山は、独立心を、我欲・我執の自己中と、混同しています。これは、思考障害であり、病質からの症状に他なりません。
 
 
*簡単に天国に行ける宗教
著者は宗教についても随分正直なようで、「宗教として信じるのなら、私はどちらかといえば簡単に天国に行けるものを信仰したい」(p.227)と語っている。これはあまりに正直すぎて笑ってしまうけれども、実際、真理とはシンプルなものだろうとは思う。
 
楽山の言う「簡単に天国に行ける」宗教は、楽山のように、都合の悪いことを、ことごとく他人のせいにして、どんなに卑怯なことをしても、ヘラヘラ笑ってゆけるような天国であり、楽山の妄想の中にしか存在しないところなのです。
 
シンプルな信仰を、何をやらかしても天国に行ける身勝手と、混同しています。いったい、楽山は、どこまで、単細胞の、短絡魔なのでしょう。いつまで、自己中から迷惑想を振り回すつもりなのでしょう。自分を見ない体質は、こういう考え方になるという典型でしょう。
 
 
たとえば、三木野吉は真理については単純、明快、矛盾なしなものだと定義づけているし、晩年の釈迦は教団の内外の区別なしに法を説き、握り拳の中には何も隠していないと語ったという。丹波哲郎はスピリチュアルな教えを、「あかるく、すなおに、あたたかく」という、この上なくシンプルな教えにまとめているし、『近思録』には道というものは細く険しいものではなく、沢山の人が通ることができる大道だとしていたかと思う。
 
楽山の思考は、隠し事で出来ていると言っても過言ではありません。単純に悪、明快に暴露された詭弁、矛盾だらけで、いったいどうやって、スピリチュアルを語れるというのでしょう。凶悪な楽山は、今も、白々しい嘘をを吐いています。それで、言いえたと思う病質者なのです。
 
陰気臭くて、素直さ皆無の根性で、とても冷淡で、温もりも潤いもない人、それが楽山です。だから、安易な道ばかり、求めては、人を平気で裏切ってきたのでしょう。本当に底の浅い軽薄な、だますことだけで長らえている人のようです。
 
楽山は「単純、明快」「あかるく、すなおに、あたたかく」というのを、"何事もなかったかのようにヘラヘラ笑って、我欲だけに素直に、悪意だけを熱して" 生きることと、混同しています。そこには、熟練からの達観に裏打ちされた爽快な時空が必要であることを、楽山は、何も理解していないのです。
 
 
こうしてみると、まっとうな宗教は救いについて複雑な条件をつけたり、凡人には分からない神秘について語ったりはしないだろうし、著者の宗教選びの基準はそうまちがっていないように思える。
 
真っ当な宗教は、伝道者に、霊が分かるっぽいなどということを要求することはありませんし、ふつうの人間らしい感受性があればよいということです。また、救いは、楽山のような自己顕示欲だけの者には、全く縁がありません。すごい詭弁ばかりです。救いは、怠け者の短絡ではないのです。
 
また、神秘は神のものであります。人は人の節操を考えるべきです。ましてや、神を信じ仰ぐことは、即ち、救われるということは、神に対して、自身の下等な屁理屈を当てはめて、机上でもてあそぶような楽山には、これまた、全く縁のないものです。
 
 
ちなみに著者の弁によれば、カトリックの救いは次のようなものらしい。「カトリックの場合は、ごく単純化していってしまえば、終油の秘跡(サクラメント)を受けていれば地獄には絶対に行かないという教えである。だから私は、自分が死んだあとには確実に天国に行くと信じている」(p.228)。こういうシンプルな信仰を持てる著者は幸せだと思う。
 
このような儀式だけで天国に行けるという信仰は、自尊過大の楽山にとって、垂涎の的であり、また悪意ある揶揄の的でもあります。表している「シンプル」の意味が、楽山の下卑た見なしとは、全然、違うのです。楽山は恥ずかしくないのでしょうか。
 
楽山は、シンプルを、安易や安楽と、履き違えています。人間性の底が浅いと、こうなります。ゆえに、楽山が、語れば語るほど、救いなど、本気で求めていないことが、作為の捏造の嘘っぱちであることが表れるだけになるのです。
 
 
*勇気と正直
本書を読んで改めて思ったことだが、批判をおそれず、真実と信じることを語るという渡部昇一の勇気ある正直さは本当に尊敬する。
 
批判を受け取らず、嘘を吐き、詭弁を弄しているのが、楽山です。このように、楽山は、自己正当化のために、本を漁っては書いてきますが、いちいち、的を外して、だんだん、失敗して滑りまくっているピエロとなってゆくのです。涙の代わりに、冷や汗を散らして、迷惑なだけの楽山であります。
 
批判を恐れないことと、批判を無視することを、混同して賛同しています。このように、楽山の理路は、悪質で、ボロボロなのです。これらの、多くの混同は、詭弁でもあり、恐らく、楽山の病質的未熟からの作為だろうと思われます。
 
 
渡部昇一の本のおもしろさは、その知識と発想にあると思っていたけれども、それは表面的なことにすぎず、その底流にある勇気と正直さこそがその主因なのだろう。渡部昇一のおもしろさは、勇気ある正直さによって支えられている。
 
楽山の記事の低劣さは、その知識不足の貧相さにあるだけでなく、中身が表面的であります。そして、底流にある怒気と欺瞞こそがその悪意の主因なのでしょう。楽山の卑怯さは、これからも続きそうな、臆病なのに我欲に邁進する者の言い逃れによって続いている地獄であります。
 
 
この見立てが当たりか外れかは分からないが、本書を読んで自分はそのように思った次第である。自分は生まれつき根がどこまでも臆病にできているし、渡部昇一とは考えが異なるところもあるが、この勇気と正直さは見習いたいと思う。
 
当たりか外れか分からないでも書いてくる楽山です。そして、反省しないのです。楽山のこういう無責任発言には、ごまかしの曖昧後の悪用とともに、それでも人間か!・・と疑いたくなるほど、いつも呆れるばかりです。
 
楽山の、いつの見立ても的を外れていて、何を読んでも自己正当化しか見えてはこない楽山であります。楽山が正論のつもりで書けば、楽山自身が矛盾するというブーメランなのです。楽山は、厚顔無恥であり、今まで一貫して、勇気と正直さに真っ向から背いてきたのです。
 
楽山は、どういうわけか、勇気と正直さの代わりに、怒気と嘘を覚えたようです。よく読めば、実に、全体に、その悪意を湛(たた)えているのが、楽山日記なのです。また、妄想的に勘違いして、見倣いたいと言っているのは、恐怖としか言いようがありません。
 
しかしながら、今回のように、自己正当化が見え見えのようになってきたのは、人格破壊が進んで、ネズミのような、子供だましなのに何処もだましの狙いで書いてくる、嘘吐きチェーンメッセージの根性を、楽山の壊れつつある人格が、隠せなくなってきたのかもしれません。
 
楽山の自己正当化は、だんだん下等になってきて、著名人の言葉さえ、単純に真逆に悪用して自己満悦するようです。言葉を、ことごとく勘違いし、または、わざと曲げて、言い逃れたつもりで、もはや、内容がありません。殆ど自滅を暴露しています。
 
こういう者が、実際、世の中にいるのです。カルトには、特に多いと思います。しかも、シャロームもそうだったように、決して、珍しくはないのです。良い言葉を、自分の都合の良い意味にだけに解釈しますから、良い意味に受け取る社交の人々は、簡単に、だまされてゆくでしょう。
 
楽山の病質的な卑怯さや詭弁や嘘が、今回、実に、分かりやすいものになって表れています。どうか、楽山には、決して、関わらず、近づかないようにしてください。
 
 
焼き切れる本性

焼き切れる本性
 
 
(2020年)
(2022年07月07日、再録+加筆)
 
 
 
  冷たい風
 
冷たい風
動かぬ山
火の国の 火の山
ときに山肌の色を変えて
煙と雲の向こうに
命を生む太陽
命を奪う太陽
 
冷たい風
動かぬビル
人の国の 人の山
ときに人々の顔色を変えて
雑踏と騒音の向こうに
命を生むシステム
命を奪うシステム
 
冷たい風
ふらつく私
私の国の ウソの山
ときに人々の顔色におびえて
心と体の中に
明日を生む命
明日を奪う命
 
 
  太陽に抜かれて
 
見なければ抜かれることはなかったのに
じかに目を合わせて 見てしまった
あわてて瞳孔をしぼっても
もう遅い
 
見てしまった
形の 秘密を 守るために
見なければ抜かれることはなかった
剣の 一つが
瞳をつらぬいて
焼き付けた残像が
視界をさえぎり
やがて 頭痛を呼んできた
 
見たものは
抜かれた魂の幻と
めまいと
歪んだ形から
まるで不治の病のように
守りようもなく残されて
脈を打って光る
暗点
 
直接 見ては
ならないものがあるらしい
 
 
  捨てる
 
破り捨てることは
いつでもできる
書くことはいつでもできる
わけではない
 
捨てることはいつでもできる
君の中の僕の記憶のように
何てやすやすと
僕はまだ生きているのに
 
書いたもの全部
引きずって
何て重たいと
つぶやいたのは
書かれたものたち
 
もう放しても
いいよ
 
 
  創造
 
今の今
今しかない
今に長さはない
時に長さはない
時などない元々
神は今を創造された
人は過去と未来を想像している
感じる
感じるから存在する
存在するから居場所を求める
場所などない元々
神は存在を創造された
存在は場所を想像している
そのように
神は人を創造された
人は神を想像している
 
ばあちゃんが失禁した
ばあちゃんは落ち着かない
ばあちゃんはわからない
何もわからないから
わからないことをする
それが病気だから
病的なことをする
と思われてきた
ばあちゃんは感じる
感じるから想像する
想像がはっきりしないから不安になる
感じるから不安になる
不安だから落ち着かない
ばあちゃんは失禁する
存在するから失禁する
 
存在するから不安になる
不安になるから言葉を求める
人は言葉を求める
言葉は神であった
言葉は神から贈られた
ウソは人から送られてくる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の大方がバレているのに、まだ書こうとします。このことが、不治の病質を証明することになるのに、わざわざ、書いてくるのです。文章で、まともだと言いたいのでしょうか。結果は、真逆となっているのです。
 
 
 
 楽山のブーメランツイッター
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは、その通りですね。
ゴリ押しは奪う愛なので、人は逃げて行くのでしょう。
 
何を言われても、楽山が、同じ方向のことを訂正不能に執拗に繰り返すのは「ゴリ押し」に近く、それで議論を凌いでも、途方もない精神的ダメージを受けた側は、逃げるというより、相手が人間とは思えなくなり、二度と対等の議論などしないが、体質と実態を暴くための批判の動機を得るのです。
 
一方的で、しつこく粘着する楽山の主張は、その理路の単方向を見抜かれて、また、その方向の、人に対する精神の害毒性を見抜かれて、いずれ気づかれて、結局、孤立し、居場所を失ってゆくでしょう。予想されたことであり、予測通りに、楽山の無恥も無視も、じわじわと知られてゆくのです。
 
 
 
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  油膜の視線3
 
 「第三講 ヨブの哀哭」(『ヨブ記講演』内村鑑三)
 2020年05月30日
   を改めて批判。
 
 
楽山は、信仰という重要なテーマについて、要点をメモしておくと言っているようですが、楽山の言う要点とは何なのでしょう。メモとは何なのでしょう。楽山は、油膜のように、ボンヤリした視野で、ボンヤリした言葉の筆致で、惑わしの無神教カルトを宣伝してきます。
 
個人的なメモならば楽山のノートにでも書いて自分だけ読めばよいのに、メモと言いながら、公開して人に見せようとする自己顕示欲と、さらに、メモと言いながら、易々と"タブー"に触れてしまうところに、今までの例のごとく、楽山の厚かましさが表れているのです。
 
 
内村鑑三の『ヨブ記講演』の第三講を読んだので、例のごとく、その要点をメモしておきたい。
・ヨブ記第三章の研究。
・七は完全を意味する。七つ目の艱難で、艱難はその極に達する。
・友の見舞いを受けて以後、七日七夜、言葉を発せず。
・ヨブは艱難にあっても、神も社会も他者も呪わず、「その生まれし日を詛った」。
・ヨブは死を思うも、自殺は考えなかった。
・聖書にある自殺の場面は四ヵ所。イスカリオテのユダ、サウル(サムエル前31)、アヒトベル(サムエル後17)、ジムリ(列王記略上16-18)。
・「人の苦痛は人の慰謝を以て慰めることは出来ない。ただ主キリストを知りてすべての苦難に耐え得るのである」。
・パウロはキリストを知っており、ヨブは知らなかった(コリント後4-8以降、ヨブ42)。
 
パウロは、新約聖書の人です。ヨブは、旧約聖書の登場人物です。ヨブが、イエス・キリストを知るはずはないのですが、ヨブはキリストを知らなかったと、わざわざ書いているのは、どういう意味でしょう。旧約で預言されたメシアを知らなかったという意味で言っているのでしょうか。
 
この、どこにも広がらない紛らわしいメモは、何なのでしょう。ひょっとして、デタラメなのでしょうか。口から出まかせなのでしょうか。要点にも、ヒントにも、記事の序文にも、まるで、なっていません。楽山は、「読んだ」と言って、読んでいません。理解せずに、悪口を書く人です。
 
 
キリスト教において自殺はタブーになっているという話はよく聞くけれども、キリスト教とホスピスの関係を思うと、自殺はタブーとはいえ、それは何が何でも生きられるだけ生き続けなければならぬというわけではなく、延命を拒否して死を受け入れることは必ずしも否定していないようにも思える。おそらくはこの辺りについては、外部からはうかがい知れない難しい議論はあるのだろうな。
 
楽山の気安さが表れています。「キリスト教において自殺はタブーになっている」ということを平気で言ってますが、実際には、キリスト者も自殺することがあります。そのことは、本人にとってはもちろん、関わった人々にとっても不幸としか言えません。
 
そのことを、恐らく、楽山は、キリスト教に従わなかった人という見なしで済ませてしまうのでしょうか。「難しい議論はある」と思うならば、書かないことです。それと、ホスピスや延命拒否のことは、自殺とは切り離すべきことです。なんでもかんでも、おとしめる材料にする楽山です。
 
タブーは、禁止事項とか禁忌ということですが、自殺というのは禁止されたら、しないものなのか、なぜ、自殺は禁止となっているのか、ということが、ふつうは、考えるべき問題となるのですが、禁止か、禁止でないか、ということしか、楽山は考えることが出来ないようです。
 
自殺してしまうと、この世からは手の伸ばしようがない、ゆえに、自殺だけはしてくれるな、という切実な思いが表れていることなども、楽山は気づかないのでしょう。タブーとか戒律ではなく、最も大きな悲しみとしてとらえている、という視点が、楽山にはないのです。
 
そして、楽山は、代わりに、ホスピスの話をしています。ホスピスの「病からの死を受け入れること」と、自らを殺すという自殺の問題は、決して、同じ問題として考えることは出来ないはずですが、楽山は、"死を受け容れる"という字面だけで、同列に考えてしまうのでしょう。
 
このように、問題意識がズレてゆくのが、楽山の、学習と成長のない、字面の連想だけの思考の特徴であります。そうして「うかがい知れない難しい議論はある」などと、実にお気楽に人任せにしてゆくのです。書く必要など、見せる必要など、考える必要など、どこにもないのが、楽山の文章です。
 
こうして、読む側にとってはメモにも要点にもならない文章を、書いて見せてくるのが、楽山の自己顕示欲の特徴です。こういう自己顕示欲だけで、いちゃもんを書いて、知識人を気取るのが、楽山ですから、楽山の相手をすることは、楽山の肴(さかな)になることに他なりません。
 
こういう楽山の主張を、何気なく読んで、何となく頷いてしまうと、受け取った側の思考も影響を受けてルーズになってゆくのです。かといって、反発すると、今度は、楽山の執拗さに疲労させられてしまうのです。関わらないこと、関わったら直ちに逃げること以外にはありません。
 
こういう意味で、楽山の文章は、キリスト教とキリスト信仰について、さらに宗教一般について、無意味で無益なだけでなく、有害だと判断しています。相手にしないでください。楽山は、ケチを付けているだけの、参考にならない、中身のない、いちゃもん屋に過ぎません。
 
 
ちなみに仏典では、悟りを開いた僧が自死する場面が描かれていたりするが、釈迦はこれについてはキリスト教一般とは異なる見解を語っている。当然のことながら、一つの事柄についての判断は、宗教によって異なるということなのだろう。
 
そして、異なる宗教を巻き込んで、釈迦の見解がキリスト教とが異なるとか、一つの事柄についての判断は宗教によって異なるとか、同じようなことを2回言ってるような書き方で、記事を終わるのです。これが、読者にとって、何の要点に、何のメモになるというのでしょう。
 
自らの汚水の中を、自らの濁った眼では見えないために、歪んだ角膜の表面だけで眺めているような楽山からの、雑で不鮮明で不透明で、かつ、無反省で無責任で、退屈で迷惑な思考・思想・宗教観の駄文に染まらないように、決して近づかないでください。
 
 
油膜の宣伝ビラ

油膜の宣伝ビラ
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月06日、再録+加筆)
 
 
 
  油膜
 
油膜を洗い落とす
別の油は塗らなくてもいい
濁ってしまうから
洗うだけでもいいから
落とせないと知りながら
洗い落とそうとする
顔の油膜
眼の油膜
視界の油膜
記憶の油膜
死んで猶(なお)
汚れて更に
水を含んで
湧いてくるから
 
 
  ぶっつけ問答
 
企みや謀(はかりごと)に対しては
 
人となりを見る そして
 
倶(とも)に天を戴(いただ)かず
血の果てまで続く復讐は
百代祟(たた)りて余り有る可し
 
これほどの憎しみを
そっくり神に委ねようというのだ
 
でも言ってしまった
 
鼬(いたち)の最後っ屁として
負け犬の遠吠えとして
 
今一番つらいことは?
眠りから覚めることだ
 
今一番後悔していることは?
生まれてきたことだ
 
生まれる前に戻りたいと?
戻れはしない既に生まれたのだから
 
ではどうしたいと?
今どうするわけではない しかし
いずれ最大の罪と知りながら
最大の罪を犯すことになるか
あるいは耐えるだけ耐えて
遊べるだけ遊んで学べるだけ学んで
糧食尽き果てて息絶えるか
 
委ねたお方に任せるのでは?
任せたいが肉体が弱すぎる
 
まだ信じてはいると?
信じていると思ってはもらえまい
しかしまだ拘(こだわ)ってはいる
 
では聞くが自らの憎しみに対しては?
ゆえに知る
罪があれば裁きがあり
いずれ罰が下ると
 
自らの悲しみに対しては?
ゆえに知る
一縷(いちる)の憐れみの絆あらば
いずれ覚めることのない眠りを賜(たまわ)るであろうと
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
オネスト井上
@honest_inoue
自分の思想や信条が自分にとってはベストであっても、他の人には必ずしもそうではないということを世の中の人々は認めています。
でもカルトはそうではない。
自分の宗教こそ唯一正しく、それを他の人は知らないといけないと本気で信じている人々です。
そりゃ、相手していると疲れますよね。口を開けて冷や汗をかいた笑顔
午前2:18 · 2021年6月7日·Twitter Web App
https://twitter.com/honest_inoue/status/1401589427130888196
 
引用元を批判する気はありません。引用しているカルト思想の楽山を批判しています。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ゆえに、何を言われても、自分の思想と信条、つまり、自分は整っていて、分かっているという我執から逃れられず、都合の悪いことは無視し続けて、キリスト教否定など、同じことを、無反省・無根拠に繰り返してきます。
 
しかも、一切、責任を負う気がなく、学者気取り、知識人気取り、霊能者気取りで、丁寧語で書いてきますが、批判されると、嫌がらせのようなことを返すだけになります。楽山は、一種のカルト思想~妄想症と言ってよいでしょう。正直と誠意から、最も遠い人です。
 
楽山の相手をしていると、疲れるだけでなく、長期に及べば、人格を破壊される恐れがあります。楽山は、罪悪感や羞恥心がないので、成長のための学習能力が欠落していると言ってよいでしょう。ゆえに、粘着して訂正不能の他害性を持っています。丁寧語と婉曲表現にだまされないようにしてください。
 
なお、楽山は、体質的な精神の歪みのために、だましの詭弁は持っていても、能力においても、視野においても、誰かの助けになるようなこと、糧になるようなこと、ためになるようなことを、一切、提示することが出来ません。分かっているように見せかける芝居しか出来ない人です。
 
楽山のような最も悪質な詭弁屋は、まともな理路に見せかける体裁だけの詭弁と、訂正不能の妄想とを、組み合わせてきます。柔和芝居や謙虚芝居として、丁寧語、曖昧表現、若者言葉を使うこともあります。決して、真に受けないでください。楽山に関わらないでください。言論の敵です。
 
 
思いついたので書いておきますが、あるとき正しかったか、光る言葉を語ったか、何か良いことを言ったかということよりも、生きてゆく間、反省と修正と学習が可能であったか、勉強不足を自覚できているか、ということのほうが、はるかに大事だろうと思っています。
 
その見地から見ても、楽山には、受け取り方の幅がないということです。奇跡といえば、実際あったのかどうかだけにこだわり、いちばん大事なこと、人間の心に響くキリストの共感には、全くの無頓着で不感不応なのです。この視野の狭小化は、自己愛性人格障害によるものなのでしょう。
 
二千年前に物や肉体の奇跡があったことを聖書が書いてあるからといって、では今は?・・と考えると、そのような奇跡、先ず、めったに起こっていないわけです。キリスト者が生まれるには別の何かがあるのでは?という問いに、楽山は進めないのです。そこから進歩しない異常が病質なのです。
 
旧約と新約において、様々語られる超常現象としての奇跡が、あったかどうかにかかわらず、キリスト・イエスは、もっと大切な魂の奇跡において、充分に、救い主なのです。それを理解しない楽山は、学習も成長もしないまま、割れて捨てられ汚れた能面のように、醜い表現と表情をさらしています。
 
もっとも大事なこととして、脱落者あるいは被害者として、ひょっとして、ヤケクソから自殺か、犯罪者にでも落ちかねない人が、キリスト者になる、ということは、地上の理不尽によって生じた多くの怒りと憎しみを、キリストに、神に、預け任せるという魂の奇跡なのです。
 
こういう信仰者の決意の重さを、楽山は、まるで考えておらず、彼の多くの怒りと憎しみを狡い復讐だけに当てて、刹那的な悦楽だけを求めて、嘘と詭弁を弄している生業(なりわい)です。そういうことを続けているあいだ、キリストも神も、楽山が人間として理解することはないのです。
 
楽山は、心の傷の癒しも手当ても、何も持ち合わせないまま、ホラー趣味と、キリスト教へのいちゃもんに、現(うつつ)を抜かしているのです。誰も癒やせない、誰も立ち直らせ得ない、そういう人が、自己愛のためだけに書いているのが、楽山のブログとツイッターであります。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
残念ですとかガッカリしたなんてほとんどは「お前が私の思い通りに動いてくれないのがムカつく」の言い換えだからシカトでいいよ。理想押し付けガッカリクソ野郎の操り人形になるために生きてるわけじゃねえだろ?「そうですか。それは大変でしたね。ほなさいなら」で終わりでいいよ。気にしてたら損。
午前8:14 · 2021年6月8日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/badassceo/status/1402041246193913856
 
引用元ではなく、引用した楽山を批判しています。楽山の、わざとらしい丁寧語による悪意を連想します。「ほなさいなら」で終わるならいいけど、楽山は、いつまでも、いつまでも、減らず口で、ネチネチと書いてくるのです。気にしたら損です。誰の役にも立たないのですから。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
濁った眼で見ても、自分は見れない。ゆえに、ますます濁って、何を見ても、その真実に近づくこともなく、先入観と偏見と思いつきと妄想の奴隷となって、こう書いておけばいいじゃろ・・という、ごまかしと飾りで、うまくいっているつもりになってしまうのが、楽山の病気です。
 
楽山は、新しい意見を、受け取ることも、発想することも出来ないようです。だから、受けのよい丁寧語で書いて、既存の意見を、あたかも、広い視野を持っているかのように、しつこく繰り返してきます。そのように繰り返すことこそが、学習不能の病質であることを、さらに表す経過と結果です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  有名人を悪用する楽山3
 
 『人は、なぜ他人を許せないのか?』中野信子著
 2020年06月14日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の偽善性:今までに表れてきたこと。
1.自己愛が強く自己中である。
2.後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。不感不応。
3.議論や交流が、できないし、する気がない。
4.反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
5.キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込んでいる。
6.ボンヤリ言語:直球ではなく、曖昧で婉曲的な言い方をして印象を刷り込もうとする。
7.平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
8.相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
9.深い情感がなく、共感性がない。
10.理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
11.学者・批評家・読書家気取りで、分かっているという我執から離れられない。
12.罪悪感、羞恥心が見られない。不感不応。
13.トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。
14.アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
15.HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
16.霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
今回も、楽山は、学者気取り、読書家気取り、インテリ気取りの、醜い婉曲的嫌がらせだけで、何の反論にも弁明にもなりません。また、有名人の記事を悪用しています。つまり、字面だけ、都合の良いところだけを引用し、箔を付けたつもりで、もっともらしく見せかけています。
 
 
中野信子氏の著作は何冊か読んだことがあるが、どれも面白かったので今度は本書を読んでみた。やっぱり面白い。その内容は自分の理解ではおよそ次のようなものだ。
 
以下のようなテーマを「やっぱり面白い」と言う楽山は、やっぱりおかしい、と思います。興味本位で話のネタにしても、加害者は、ことごとく、楽山に当てはまるからです。
 
 
誰かの加害行為によって被害を受けたら、それに憤りを覚えるのは当然である。しかしネット上においては、有名人の不祥事などに対して、自分は直接被害を受けていなくとも、当事者とは何の交際もなくとも、激しく怒り、攻撃的な書き込みを執拗に続ける人たちがいる。なぜそのようなことになるのか。その一因としては、人は「他人に『正義の制裁』を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出され」るということが考えられる。「この快楽にはまってしま」うと、いつも他人を攻撃せずにはいられなくなり、「いわば『正義中毒』」のような状態に陥ってしまうこともあるのだ。こうなると「自分と異なるものをすべて悪と考えてしま」いもする。
 
憤りを覚えるのは当然と書いていますが、ならば、楽山は、なぜ、憤って書いているこちらの、上の箇条書きに結び付く指摘をしている批判に答えず、無視して、婉曲的な記事ばかり書いて、当てつけてくるのでしょう。やり口が卑怯で汚い楽山は、また、斬ったつもりで、斬られています。
 
こちらからの批判とは関係ないと楽山が仮に言ったとしても、こちらが書いた批判の後、批判に関係のあることを、他者の文章を引用~利用して書いてくるという自己正当化のための作為的な当てつけの特徴が出ています。当てつけしか出来ない楽山です。
 
楽山は、"正義中毒"と書いていますが、正義は中毒なのでしょうか、否、本当の正義には反省機能があるので、実際は、中毒ではありません。偽の正義は、楽山が、今、有名人の本をネタにして書いているこの記事のことです。"自己中毒" とでもいうべきものです。
 
楽山の、慢心や自己中こそ、正義の振りをして、中庸の振りをして、実際は、キリストと神を幼稚な疑問のまま貶めてきた偽善であり反キリストなのです。楽山は、自分で理路を組み立てることが出来ません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴が今までも表れてきました。
 
楽山は、この記事で、批判している奴は正義中毒じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。批判を無視して、他者の口を利用して、当てつけを書き続ける楽山こそ、正義に見せかける自家中毒です。楽山の毒は、他者を疲労させ、かつ、加害者の楽山自身を、いっそう、腐らせ、破壊してゆきます。
 
それが、反キリストで偽善者であるシャロームの、"罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい"、という反キリストの信条に無条件賛同をするという経過になっています。キリスト信仰とは、真逆の信条で、これが、シャロームが、偽キリスト者、偽牧師であることの証拠になっています。
 
この記事もですが、楽山の正義は、本当の正義ではなく、自己正当化の保身に過ぎず、自我への執着のために、正面を向いて答えられず、他者の意見を悪用するという卑怯な経過が続いているのです。楽山の企みは、有名人を引用し、評論家の筆致に似せて、気取って見せている醜悪な詭弁であります。
 
楽山は、批判と悪口の区別が出来ず、自分と異なる意見、また、自分に対する批判を、総て悪と考えて無視します。そして、有名人まで利用して当てつけのような記事を書きますが、それが悪である根拠を示したことがありません。判断の基準が、楽山自らの快楽原則にしかないからです。
 
 
ここから抜け出すには、どうして人を許せなくなってしまうのかという「脳の仕組みを知っておく」ことが肝要である…云々。この後著者は、正義中毒と脳の働きとの関係を説明し、その予防と対策についていくつもの提案をしているのだが、これについてはネタバレになるのでここでは控えておく。
 
楽山は、脳の仕組みを知る、という、たいそうなことを、さらっと書いて、予防と対策などと言っていますが、肝心の中身は、今回 "ネタバレ" などという俗語を使って、書こうとしません。以前、"神通力" とかについても許可制などと言って同様でした。楽山に著作権はないのですが。
 
有名人の著作であり、自分が書いたわけでもないのに、どうして、ネタバレを気にするのでしょう。恐らく、楽山は、他者の者と、自分のものの、区別がつかないのだろうと思います。他者の文章が都合がよいと利用して、自分が書いたような幻想に生きているのでしょうか。
 
つまり、自他未分化が見られ、付随して、本についても詳しい理路を理解していないか、秘密性で気取るのが好きなだけだと思います。結論だけ当てはめても、引用するだけ悪用になり、無駄なのです。自身の言に説得力の無い楽山の策略に過ぎません。
 
 
自分にとって本書中で特に面白かったのは次のような意見だった。正義中毒は特定の誰かに限ったものではなく、「人間である以上、どうしようもないこと」であり、誰もがそのようになりうるということ、近年の研究によって、保守かリベラルかは先天的に決まっている部分がないとはいえず、いわば生まれつきの保守脳、リベラル脳といった分類は不可能ではないことがわかってきたということ、
 
楽山の理路は、どうしようもないことは、どうしようもない、誰もが成りうる、先天的に決まっている部分がある、生まれつき、などという、その中間にあるものを考えない短絡なのです。どうしようもないことなら、近づかないことですが、その対象は、まさに、楽山であります。
 
分からないことを保留に出来ず、分からないと言えず、何でも分かっている自己愛によって、場当たり的に、バタンバタンと薄板を叩いて当てはめるような雑な思考で、結論を書いて、ひと仕事したかのように満悦してゆくのでしょう。
 
"決まっている部分がないとはいえず" というボンヤリ言語ですが、曖昧ながら、印象付けるために、その場で、のぼせて書いてくるのは、曖昧でも、当てつけと刷り込みには十分という計算があるのか、今までも繰り返されてきたのです。
 
自己愛性人格障害の楽山は、こういう印象操作や刷り込み的な物言いしか出来ないのです。自らの独創性で書くことが出来ず、理路と共感の貧困な楽山の中には、暫定的にも確かに主張できるものが、何も無いからでしょう。発想できない貧困が、病質の思い上がりだけを持っていることになります。
 
 
脳には正義中毒を抑制する働きをもつ部位があり、それは25~30歳頃に成熟し、加齢とともに脳の他の部分と同様に衰えるものであり、これはキレる高齢者、暴走老人と呼ばれる人々と無関係ではないこと、
 
"キレる高齢者、暴走老人" とは、読んだ本では一般論であったとしても、楽山は、老人である私に批判されているという経過において書けば、恐ろしく侮辱的な当てつけになる、ということを狙っていると思います。逆らう者には病名を当てて貶める楽山の処世なのです。
 
楽山の病質から、こういう言葉選びに、自己愛と他者侮蔑の症状が出てしまいます。つまり、反論も弁明も出来ないために、楽山は自身に対して批判する者を、異常者としてしか見れないのです。丁寧語の裏に隠された楽山の悪意が、今回も表れています。加害性として重症だと思います。
 
表面だけ丁寧な言葉を連ねても、引用とはいえ、このような言葉を選び、使うところに、楽山の、決して穏やかではない原始的で暴力的な体質・情動が表れます。引用し丁寧語で婉曲的に書いたことで責任回避しているつもりの一種の罵詈雑言なのです。
 
つまり、またしても、自己中で無反省で、引用元を含めて他者の迷惑などは、いっさい考えない楽山の厚顔無恥が表れています。丁寧だが、暴力的、ということがありうるという例です。そのような例がもたらす悪は、暴言以外にも、白々しい偽善や嘘や当てつけがあるということです。
 
 
脳の機能にはネガティブフィードバックというものがあり、他を攻撃すればそれを抑制しようとする働きがあること、同一人が正反対または矛盾する価値観を持つことがあるのは、社会的な価値観の大変化があった場合に対応するためではないかという仮説があること…などだ。
 
フィードバックなど、抑制機構は、価値観の大変化に対応するためでしょうか。個人の、生存のための日常的な他者との人間関係の学習などが関係しているのではないでしょうか。話を大きくして、正論に見せかけています。
 
楽山の筆致の特徴として、自分を除外して、大方、受け売りから、単方向に執着して誇大的になる傾向が認められます。冷静な学問なのだと見せかけたいのでしょう。
 
概念の字面だけを追ったような書き方です。フィードバック、矛盾する価値観、攻撃と抑制、というような、抽象的な、それだけでは中身の具体性・現実性が乏しいような高尚に見える書き方を、楽山は好むのです。そして、それで辻褄があったような専門家気分になって満悦するのでしょう。
 
だから、楽山の文章には、説得力が無いのです。うっかり、なんとなく、鵜呑みにして、褒め言葉など書いてしまうと、疲労だけを味わわされる地獄が待っています。
 
 
自分は、他人を批判した後に、もの言えば唇寒し秋の風という気分になることは多いし、
 
嘘です。執拗に、中身の無い自説を、他者の本の言葉を借りてまで、書き続けることは、そのような恥を知っている人なら出来ないはずです。楽山は、明らかに違います。同情をひくための、トホホ言語の典型で、つまり、常套手段としての、嘘の芝居なのです。
 
やんわりでも、きびしくでも、否定は否定、当てつけは当てつけ、嫌がらせは嫌がらせなのです。見た目は控えめに、中身はドロドロ、という偽善者が使う口車です。"キレる高齢者、暴走老人" という楽山の言葉の選択に、楽山の凶暴になりうる攻撃性が潜んでいるのです。
 
 
保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので、どうして自分はこうなんだろうと疑問に思うこともあったのであるが、
 
楽山は、どちらにも共感してしまうなら、矛盾ですから、書けないはずです。その時その時で、好きなように書いている自分の精神不安定と厚顔無恥に気づいていない楽山の愚痴です。これも自己正当化のために同情を誘う詭弁屋の、芝居がかった嫌らしい "トホホ言語" の三文芝居なのです。
 
 
本書によればどうやらこれはネガティブフィードバックだとか、価値観の大変化に適応するための生存戦略という面があるということらしい。
 
ネガティブフィードバックは、調節機能だと思いますが、生存戦略ではなく、反省の向上の動機になることです。説明抜きで、そう言うだけで、楽山は、満足するのでしょうが、嘘です。楽山の価値観は、ずっと、我欲に他なりません。
 
こういう分かったふうだけのきれいごとは、偽牧師シャロームshalom の大仰な誇大言語の筆致に、よく似ています。楽山やシャロームや易坊などの易坊類と呼んでいる者たちには、一人による成りすましの疑いを持っています。
 
 
終戦時、日本の勝利を信じていた熱心な愛国者のなかには、自決したり、発狂したりした人もいたというし、これから類推すれば、相反する価値観を同時に持つというのは、価値観について社会的な大転換があった場合に備える生存戦略としては確かに有効ではありそうだ。
 
楽山の、まとまらない言論を、こういうことで正当化できるものではありません。楽山は、相反する価値観を包含するような、いかなる言論も持ち合わせてはいません。どちらにも無責任で無反省であることが、うんざりするほど、表れてきたのです。楽山は、刷り込み屋であって、言論者ではありません。
 
楽山は、反省と学習を経ていない分、思想も言葉遣いも、未熟で、いい加減です。ここでは、また、短絡して、「相反する価値観を同時に持つ」というアンビバレンスか統合失調的な結論を書いて満悦し、疑問を感じないようです。
 
楽山は、"相反する価値観を同時に持つ" という字面だけを受け取って、批評家気取りで、自分もです!、有効ですね!、という気になって、辻褄合わせだけの満悦気分に浸っていますが、矛盾した言動の正当化と、相反する価値観の受容は、全然、違います。
 
相反する価値観とは、楽山のように両方持ってふらふらすることではなく、結局は、あらゆる価値観を、絶対とせず、訂正不能とせず、相対化して学習可能としておくことでしょう。自己中という訂正不能の単方向に固執する楽山とは、正反対の考え方です。
 
 
本書のおかげで、自分の心の動きについて長年に渡って疑問に思っていたことについて解決の糸口を見つけたようでうれしい。
 
何も解決していませんし、糸口さえも、楽山は、勘違いしているようです。このように、本を読んでも、そのたびに、勘違いし、誤読し、曲解し、偏見を強化して、妄想化して、決めつけて、自己満足して、独りよがりの思いこみを深めてゆくだけの楽山です。
 
 
それにしても、人というものは、脳の機能、適者生存といった視点から見ると、本当に面白いものだ。道学者的な視点からこのような問題を論じれば、「精神修養が足りん!」ということで終わってしまうのであるが、人を生物として見れば人をより深く理解できるし、さまざまなことを考える切っ掛けにならないとも限らないということなのだろう。
 
楽山は、何を面白がっているのでしょう。人を生物として見れば、と言っていますが、今まで、どう思っていたのでしょう。楽山は、人を無生物として、物として、見てきたのでしょうか。それとも、人間が厄介だと言いたいのでしょうか。非人間性の辻褄合わせが表れています。
 
生物として見れば、深く理解できるのでしょうか。違うと思います。楽山の言は、何の切っ掛けにもならないと思います。人は人です。人として生きたくないのでしょうか。脳科学の本を読んで、いや、眺めて、何を受け取ったつもりでいるのでしょう。空恐ろしいものを感じます。
 
「切っ掛けにならないとも限らない」・・こういう婉曲表現がボンヤリ言語の典型です。楽山は、謙虚のつもりで、随所に書いていますが、中身は同じであり、無理解で無意味の責任逃れにしかなりません。楽山自身の人格崩壊の切っ掛けになってゆくでしょう。
 
 
自分は元来、道学者であり、精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。
 
道学:
(ネットより)
1 道徳を説く学問。また、道徳を学ぶこと。
2 儒学。特に、中国宋代の朱子学。宋学。
3 江戸時代の心学(しんがく)のこと。
4 道家の学問。道教。
 
楽山のどこが学者なのでしょう。楽山は、道学と、体の良い "学" をつけても、道徳を学ぶことなどしていません。また、楽山は、いかなる論者にもなりえておらず、いわば見栄張りと遠吠えだけです。だから自尊と保身のために、ボンヤリ言語を、まるで体質のように多用し、平気で嘘を吐くのです。
 
楽山の言論は、嘘と飾りの化粧くずれです。中身がないから、失敗して、病識もなく、それこそ、精神が、小梅太夫かチンドン屋のような、ふざけた装いになっているとしか思えません。道学というより道化であり、誰にとっても有害無益なチンドン屋だと、つくづく思います。
 
 
まとものつもり?ちんどん

まとものつもり? ちんどん
(ちんどんは、チンドン屋が安い宣伝でチンチンドンドン鳴らす擬音語でしょうか)
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月05日、再録+加筆)
 
 
 
  美しい表情
 
人間の表情の中で一番美しいのは
笑顔だと思っていたことがある
しかし愛想笑い・軽薄な笑いや
悪意に満ちた笑みもある
嘲笑や
謀(はかりごと)がうまくいったときの
ほくそ笑みなども。
 
どんな無益なことでもいい
仕事・学術・研究と呼ばれなくてもいい
何かに夢中になって
興味と
苦悩の色さえ入り交(ま)じった
一途なときの表情が
今は一番美しいと思っている
 
大真面目な漫画の落書き
誰にも読まれない滅裂な文章を書く夜
血が上り巡り巡る孤独な机上の空想は
冷血の川下へ寒く流されて
賽(さい)の河原の石積みに崩れながら
なおも求めつづける熱意によって
直(ひた)向きに凍り続ける顔
 
本当の楽しみは
誰からも与えられず
誰にも見えないもの
冷血の俎(そ)上において燃え上がり
常同行為のうちに焼け落ちる作業場だ
 
 
  知識と視野
 
知識が乏しくて視野が狭いと思っている人、一面的な知識しか持っていないために視野が狭いと思わざるをえない人は幸いです。何故ならこの世には自分の知らないことがたくさんあると思わざるをえないが故にこそ自分の視野の外に無限の未知の空間・キャパシティを残しているからです。
 
全知でも全能でもない人の知識・知恵・視野など、たかが知れています。人の視野の狭さを指摘する者の心の中には、相手より自分の視野が広いという思い上がりのようなものを感じます。
 
視野は
その狭さを痛感しているとき最も広く
少しでも広いと思ったり
狭さを自覚しないとき最も狭い
 
私に誇れるものがあるとすれば
私の知恵と知識の乏しさの自覚であり
私の視野の狭さであり
私の愚かさであり
私の不信仰であり
私の信仰である
 
 
  自信
 
かつて
思い上がりや
うぬぼれなら
体験したことがあるが
自信というものを味わったら
どんな気分になるのだろう
 
キリリと座しているコンピューター
今は何も映さぬディスプレイ
ディスクの中には山ほどの情報が
壁を作っておさまっている
 
朝になったら
いろんな人達がいて
おしゃべりや
物忘れをします
 
謙遜と自信
オペレーティングシステムの上で
ソフトな対話
電源を入れれば
カラフルな画面の上で
動きまわるソフトウェア
 
小さな扇風機がこちらを向いている
お前は回るだけだだったな
まわりはハイテクがいっぱい
 
お前は居眠りするだけだったな
まわりは複雑な自信がいっぱい
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
記事、読みました。「死人に口なし」ということを連想しました。立花隆氏とご遺族に同情します。
幸福実現党には、こういう死者を貶める恥ずべき行為には毅然としてノーといえる正義の政党であってほしいと思います。
午後1:10 · 2021年6月26日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1408638768739799040
 
「死人に口なし」「死者を貶める恥ずべき行為」と書いていながら、「正義の政党であってほしい」これ、アンチHSのスタンスでしょうか、希望を申し上げる書き方になっていると思います。幸福実現党の総裁はOR、つまり母体はHSでしょう。心ない楽山の、虚言に心なしでしょうか。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
mi-mollet/ミモレ
@mimollet2015
·6月15日
心に深い傷を残す、親に虐げられた記憶――。大人になってなお、そのトラウマに苦しむ人は少なくないといいます。
「毒親」でも介護するべきなの?
しんどい親子関係を今すぐ終わらせる方法とは
午後1:26 · 2021年6月15日·Twitter Web App
https://twitter.com/mimollet2015/status/1404656537159700480
 
引用元を批判するつもりはありません。引用した楽山を批判しています。
 
楽山のような病質、即ち、心に深い傷を残す自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の加害は、徒労と疲労と、ネットだけでなく人間を信じられなくなるトラウマを与え、全く気にすることなくキレイごとを言い、もてあそんで笑うことです。
 
楽山のような慮外者に、自らの人権と尊厳を踏みにじられてはいけません。害毒となる悪しき人間関係からは、直ちに逃げるべきです。自分を守るために、楽山を相手にしないでください。決して楽山に関わってはいけないと思います。
 
楽山は、批判されると、批判者を、"善魔" と言っていましたし、また、"正義中毒" と呼んでいます。善は、魔でしょうか。正義は、中毒でしょうか。それについて詳しい説明が、楽山は、全く出来ないのです。人間に分かる根拠を、霊能者気取りの楽山こそ、善魔そして正義中毒だからです。
 
誰よりも、楽山こそが、偽善者、善の仮面をかぶった悪魔性、すなわち、善魔、そして、逆らうものを、正義中毒と呼んで、呼ぶだけで、何も説明できない不全の者です。楽山は、だますための詭弁だけで、整った理路を持ちません。丁寧語に、だまされないでください。
 
楽山が、善魔と言い、正義中毒と言っても、妄想話、超常話、批判を無視した自己正当化などを書いても、楽山自身が根拠のある反論も弁明も出来ません。こういう欠落の経過が、逆に、楽山が詭弁屋であることを示しています。楽山は、善ではなく魔であり、正義ではなく自己中毒です。
 
つまり、楽山の言は、他者に言ったつもりでも、ブーメランのように自分に返ってきます。そして、そのことが表すのは、無反省・無責任の、善の見かけの魔、そして、正義を中毒におとしめる偽善者、楽山です。このようなブーメランは、楽山が、でっち上げの正論を書くたびに起こってくるでしょう。
 
楽山が、いくら、目新しい学術みたいな用語や、善魔、正義中毒、などと言っても、そこに、根拠という実がないのです。NPDの楽山は、靄(もや)のような言辞で、理路をごまかし、詭弁と誘導をもって、嘘っぱちで無責任な楽山の詭弁を刷り込んでくるだけの地獄の木っ端役人です。
 
 
楽山が、いくら論理ぶった書き方をしても、自己愛のために、冷静な理路にはなりません。だから、見栄を張って、学者を引用し、見かけだけ学問を気取ります。実際には、楽山は、学問より、超常話が好きですが、自己愛者だから、のめりこんで、現実離れして、膨張して、破れてゆくのです。
 
楽山には、しんみりと悲しんで自分を悔いて振り返るような高等感情がありません。同様に、罪悪感や、羞恥心や、共感や、反省する心がありません。ゆえに、言葉だけの同情や卑下を繰り返します。トホホ、反省、共感、胸に刻んで、・・などです。言葉だけなので、正体を知ると吐き気がします。
 
楽山は、遣り取りが核心に触れると矛盾が噴出します。否定を言い、肯定を言ったから、責任問題は発生しない、と言って、非常識が信条?~妄想なっているので、無反省、無責任です。楽山に、だまされ続けると、以上に述べたような、楽山に似たような他害的な崩壊人格になってゆくでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、謙虚芝居を書いても、自分が正しいという自己愛妄想がベースになっていて、自分を正すことが出来ません。既にバレています。代わりに、他者の人格を破壊する方向に嘘と詭弁を弄する加害者となっています。楽山のイメージとして、狐のような、しかも、陰気臭いニヤケ顔を想像しています。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは、その通りですね。
ゴリ押しは奪う愛なので、人は逃げて行くのでしょう。
 
「ゴリ押しは奪う愛」・・ごり押しの、どこが愛なのでしょう。ゴリ押しすれば、それは愛に反する圧力です。どうして「奪う愛」などと楽山は言うのでしょう。楽山自身に、愛のつもりで奪ってきた履歴があるのでしょうか。今も続いているのでしょうか。
 
楽山は区別できないようだが「ごり押し」は、自己中が、よかれと思って押し付けてしまう偽善です。愛に反することであり、愛の要素は少しもありません。楽山が、また、軽薄な判断をして、言語の未熟を表しています。楽山からは、早く逃げてください。
 
 
 
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