ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。


ゆく夢
 
 
未来は砂漠の蜃気楼を
羊がふらついて歩いている
 
過去は洞窟を色違いに塗り変えた
あれはあったのか
本当にあったのか
 
今は失われる
色も、形も
ヒト、人、人間
モノ、物、動くもの、止まるもの
 
食うことも出すこともなく
何も必要ではなく
何も期待されず
ゆえに何も失望されず
 
ぼんやりと有るか無きかの意識で
大きく映るスクリーンに
この世を眺めることができたら
 
心気は霊のようなものになり
洞窟を染めて
羊に乗って
姿を涙ぐんでなくしながら
フワフワしていたい
 
(2011年07月03日)
 
 
 
炎症
 
 
炎症は燻(くすぶ)り続けているので
矢も盾もなく異国語のように甲斐なく叫ぶ
へぶりぎゃぶりぎゃあ
鎮痛剤は歯痛に働き
飲みすぎた抗生物質が胃から臭ってくる
ボツリヌスは耐性に痺れたまま
あらゆるトキシンはペニシリンは
病気が当てはまる不審者に親しみながら
冤罪のスキームで常同の書類を呼ぶ
溶かせるものがあるならば
吊るされたドクターの膿(うみ)を出したい
牧場に散らばる羊飼いの糞が
通りがかりの風に乗せて
実の生(な)る木の対称を崩して
異境の象形を鬼籍に収めんとするは
鎮まるものがないからか
燻(いぶ)し出された不協和の傷が
さびしい夕陽の眼差しに冷めて
次の発病のために
町から遠く
癒しの種を土中に葬るまでは
奇声の熱は夜に任され
サイコの草原に隠されてゆく
束の間ひっそりと暗闇の質量に
 
(2011年07月03日)
(2011年07月05日、若干修正)
------------------------------------------------------
ポエムらしいポエムを、と思っていたけれど、私らしく、
結局奇怪なものになりました。失礼・・・

人から聞いた話ですが、昔、外国の人に英語で何か聞かれて、
日本の高校生が、英語が分からないものだから、
へぶりぎゃぶりぎゃあ・・・と、やけくそで言って、
外国の人は肩をすくめて去っていったそうです。(笑)
中学と高校で英語は習ったけれど、私も
英会話、聴いて分からず、しゃべれません。(苦笑)
日本人の若者が英語で話しているのをテレビなどで見ると
うらやましい・・・といっても私は努力しなかっただけで、結局は
母国日本語のコミュニケーションにも不自由してるのに気づくことになって
伝わらない、伝わってこない・・・へぶりぎゃぶりぎゃあ・・・(悲・苦笑)
 
 
 
 


過激に
 
 
信仰は過激でなければならない
もちろん暴力という意味ではない
いかなる場合も強制力は不可である
 
微笑みを絶やさず柔和に
などというのは
自らの失敗に気づかないだけだ
 
話し合うことに
人によって気遣いは必要だが
遠慮や忌憚があってはいけない
疑問を抑えこんではいけない
信仰は本質的に
人の側からは
自発的でしかありえない
だから
不穏当である・・・などと
一方的に判断して
自発的なものを抑え込んだり
排除したりするのは
自らの傲慢に気づかないだけだ
 
話し合うことは深めることだから
自分の都合に信仰の名をつけて
話を取捨選択するのは
自らの不遜に気づかないだけだ
 
へりくだる姿勢というのは
神に対して自らを低めることだ
神を恐れることだ
人に対しても何も強いることなく
また自分の思いで
神や人を決め付けないことだ
だから口数の少ないことや
控えめであることと勘違いしてはいけない
ましてや何でもありがたがるような
弱者の道徳を教えるのは
自らの尊大に気づかないだけだ
 
それでも傲慢は教え
不遜は微笑み
尊大は優しいだろう
隠れて人を侮辱しながら
 
傲慢・不遜・尊大は
すぐ傍にいて
従属されることを喜び
偽善へ向かう道を
信仰の硬化と破綻という
失敗の典型によって
常に反面教師として示している
 
(2011年07月02日)
----------------------------------------------------
今日はどうしたんでしょう。
もうすぐ死ぬんじゃないだろうか・・・(苦笑??)
 
 
 
 


思いは
 
 
思いは残る
愛も憎しみも
好意も悪意も敵意も
コンプレックスも
わだかまりも
 
神に対しても同様に
思いは残る
救われた癒された
奇跡だ
・・・・・・
何ゆえ我を見捨て給ひしか
何ゆえ我を造り給ひしか
なぜ・・・こんなことを・・・?
 
思いはまた
人の常として
変わる
人に対しても
神に対しても
 
人はそれを知らないことがある
神はそれをご存知である
 
変わらないという傲慢は
変わることを認めない
ゆえにそこで
安定化してしまう
岩の名を持つペテロではなく
まさに岩になってしまう
氷になってしまう
硬い物になってしまう
 
人は解(ほぐ)れることがある
神は解れさせることがある
 
傲慢は解(と)けない
変わらないことによって
安定して
永遠に解けない難問のように
神と人の間に固まって
開(はだか)る
 
(2011年07月02日)
---------------------------------------------------
今日は妙に多作だな・・・悪魔でも降りたか・・・?
 
 
 
 


笑うがいい
 
 
キリスト信仰者とは
こんなものだったかと
激しく怒り
嘆き悲しみ
批判し
皮肉を言い
悪鬼に近く
それゆえ壊れ
自らを失ってゆく
 
気力を失うか
先に死にでもして
私の口が止まったら
跡形もなく消え失せたら
笑うがいい
 
「我は神の意を得たり」
「神は我が意を得たり」と
感謝と讃美の祈りを捧げるがいい
私は自分に対して以外
笑わない
笑ってはいない
 
あなたは笑うがいいのだ
あなたは逆らうものを葬り去ることに
まんまと成功して
笑うがいいのだ
失意と絶望のうちに狂い
地獄へ落ちてゆく者を
 
「最後まで神を知らずに終わったのは残念です」
とでも神妙に語り
あるいは語らず
陰で
ほくそ笑むがいいのだ
 
氷の家の主(ぬし)よ
 
(2011年07月02日)
 
 
 
 


封殺する物
 
 
封殺、封殺、封殺、封殺、封殺、封殺、封殺
無限に繰り返したい「封殺」
人間ならば出来ないこと
それに対する反応を
無視、無視、無視、無視、無視、無視
人間ならば無傷ではないはず
 
何を言っても反応がない
正面を向かない
無駄
 
これは駄目だと
早々に諦めて
こちらも無視すればよいのに
何故?
牧者だから?
付き合いが長かったから?
 
人間の感情に反応しない
人間ではないのかもしれない
感情のない物体?
 
社会のモノ化を嘆いていたその人が実は
モノ?
今までずっと人ではなく
モノを相手にしてきたのか
モノがこんなにも長い間
人間を演じられるのか
 
モノは
人をモノ化して省みることがない
 
前と同じ手法だが
別の牧者の苦労話を引用するのは
自分も同様だと言いたいのか
その括りは
「楽しんでいる」
 
心身の乱れが悪化する

悪くなる
悪くなる
鈍くなって
一面的になって
モノ化してゆく
 
「楽しんでいる」を見ながら
また今日も死にたいと願い
死なせてくれと祈る
 
大祭司
あなたの信仰は
人を封殺して悔いることがない
 
(2011年07月02日)
------------------------------------------------------
いろいろな経緯で私を忌み嫌った人たちでさえ
今まで私を封殺することはしなかった。
早くもとのペースに戻りたい・・・戻れないのか・・・
 
 
 
 

このページのトップヘ