ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。


  接点          戸田聡
 
無限の一部でしかない有限
無限に成り得ない有限その
無限と有限が等号によって結ばれている
0・九九九・・・=一
限りなく一に近いけれども
決して一には成らないのではないか
でも一を三(あるいは九)で割って
再び三(あるいは九)を掛ければよい
納得せざるを得ない
数少ない無限と有限の接点のようで
しかし曲線は
限りなく短い直線の無限の連なりだし
また或る時間
長かろうと短かろうと
たとえば余命や
次から次に現在となった途端
過去となってゆく限りなく近い未来でさえ
限りなく短い時間の無限の連なりだ
いたるところにある無限と有限の接点
一×(一/∞)×∞
どちらへ転ぶか
外へ出て眺めれば改めて
あらゆるものが無限と接している
 
(1998年7月25日、HPにアップ)
 
 
  置き去りにした課題        戸田聡
 
算数で割り算を習った
小数まで計算を進めると
しばしば無限循環小数になる
切りがないとやめる
一つ置き忘れていた
逆に無限循環小数を分数に直す方法と証明
循環する数を1組だけ
整数として取り出して分子に置き
分母には同じ数だけ9を並べればよい
数学で証明できる
算数で何桁でも自然数が3あるいは9で
割り切れるかどうか調べるには
各桁の数を足した数が3あるいは9で
割り切れるかどうかを調べればよい
という便利な方法を教えられた
また一つ置き忘れていた
何故そうなるのか
数学で十進法を十のn乗を使って表す
十のn乗から1を引けば9が並ぶ数になる
9が並ぶ数は3でも9でも割り切れる
9と+1の部分に分ければ証明できる
数学で証明できる
置き去りにした課題がいっぱいある
切りがないとやめてしまったこと
教えられたまま当たり前のように
思い込み覚えていたり信じていること
長じて大方その価値を問い直すのだが
やさしさで傷つけたり
思いやりで怒りを買ったり
置き去りにした課題は一生を費やしても
解決できないほどいっぱいあって
それがどんな課題であるかも教えないまま
気付かれるのを待っている
算数を数学で証明する
ほど簡単ではないぞ
とでも言いたげに
 
(1998年10月14日、HPにアップ)
 
 
  なくてもいい時間        戸田聡
 
なくてもいい時間を過ごしている
約三億匹の精子の中から
ただ一匹だけが卵子と結ばれ
私が生まれたのに
なくてもいい時間を過ごしている
何となく残され死んだ
約三億(マイナス一匹)匹の精子から
恨めしそうに睨まれているような・・・
素っ気無く答えてみる
何なら譲ってあげてもよかったんだよ
でも私に生(な)る卵子も精子も
そのとき意識も意志も無かったのだから
しようがないじゃないか
私がいてもいなくても世界は変わらない
などという大袈裟な話を持ち出さなくても
(もちろん変わらないさ)
なくてもいい時間を過ごしている
誰も自分の必要性を
理解して生まれてきたわけじゃない
生まれた覚えはない
だがそれは生まれたときのことだ
もう大人だ必要も必然も
理解していていいはずだ
なくてもいい時間
お返ししますと言って返せるものでもない
これからもやって来るに違いない
しかしでは私にとって
なくてはならない時間とは
なくてはならなかった時間とは
なくてはならないであろう時間とは
精子から世界まで
なくてはならない時間とは
なくてもいい時間とは
また考えあぐねて過ごしている
なくてもいい時間
あってはいけないか
 
(1998年10月14日、HPにアップ)
 
 
  頂点を極める者       戸田聡
 
山頂は常に其処(そこ)から
上には登れないことを示しているのだが
登りつめた者は
まるで空までも征服したかのように
誇らしげに四方を見渡している
高い高い大気と吹き上げてくる風は
なかなか下りようとしない者たちの
有頂天の背後から少しずつ
密(ひそ)やかに帰り道を隠してゆく
 
(1998年10月22日、HPにアップ)
 


  罪のらくだ      
 
「右の頬を打たれたら・・・」
左の頬をぶん殴ってやる
か逃げるだろう
「みだらな思いで女を見た者はすでに姦淫を・・・」
みだらな思いで女を見たことのない者は
性欲の異常か病気だろう
「敵を愛し・・・」
本当に敵と思ったら
愛せるはずはないものを
「我らに罪を犯すものを我らが許すごとく・・・」
許せることもあれば
許せないこともある
許すべきではないと思うことさえある
許したつもりの心の裏側に
隠された軽蔑、あばかれるごとく・・・
 
主よ、あなたの教えを守らなければ
罪人なのでしょうか
御国へ至る道はないのでしょうか
 
主よ、許されて御国へ至る道を知らしめたまえ
まことに私は罪人です
繰り返し繰り返し
主の教えを破るばかりか
それ以上の罪を犯し
さほど金持ちではありませんが
針の穴に向かって突進する
愚かなラクダ
主よ、あなたに許されるより救いはなく
小さな針の前で途方に暮れて
とうとう針を飲み込んで
毒を飲み込んで、瀕死の
みすぼらしいラクダ
あるいはヒトです
 
 
  イエスの教え
 
 イエス・キリストの教えの中にある到底守れそうにない、無理難題としか思えないもの。前にも述べたが代表的な三つの教えを再びあげてみる。
一、右の頬を打たれたら左の頬を出せ。
二、女を情欲の目で見たものは既に姦淫を犯したのである。
三、敵を愛し、敵のために祈れ。
 一は心の準備ができていたら、ある程度までは耐えられる人もいるかもしれない。限度はあるだろう。二は十戒の姦淫の拡大解釈と思うが、正常な性欲を持っている男にはまず無理だろう。私はその方面は恵まれない者であったが性欲自体はごくノーマルだと思う。欲求不満がようやく枯れつつあるが、それでもやはり無理難題である。十戒の解釈ならば試しに別の勝手な拡大解釈をしてみたらどうだろう。「人に悪意や殺意を抱いたものは既に盗み人をむさぼり殺したのである」と。三になると死を覚悟しなければならない。これがまず難しいことである。守れるクリスチャンがどれだけいるだろうか。私はもちろん自信がない。さらにそこまでしてこれを守ることが他の人のためになるだろうか。この教えを守った人がいたとして彼が見事に殉教したあとで敵はさらに愛する人々を数限りなく殺すかもしれないのである。極言すればイエスの教えを完全に守れる人はイエス御自身だけではないかとさえ思うのである。
 教えを守れる人がいるとすれば尊敬に値するし実際殉教した人たちがいるわけだから教えを無視することはできない。しかし教えを守れない人は天国に行けないのであろうか。イエスは罪を知る者には許しと癒しを与えた。イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人の話を思い出す。犯罪人でさえ当然の報いだと罪を認め救いを求めた者には「あなたは今日私と一緒にパラダイスにいるであろう」と言われたキリスト・イエスであるのに何故あのような厳しいことを教えられるのだろう。
 イエス・キリストはやさしかっただけではなかった。戒め・律法を守っているがゆえに罪を認めない者には徹底して厳しかった。このことと三つの教えを考える。あの厳しい教えによってキリスト・イエスが最も言いたかったのは掟ではなく戒めを守るよう示すことでもない。あの十戒よりも厳しい教えを守れないものが殆どであることは百も承知で言われている。そして教えるときにはパリサイ(ファリサイ)人や律法学者がイエスの視野の中に常に敵対してくる相手としてあったと思う。イエス・キリストは、律法を守るか守らないかで罪か義かを判断しようとする当時の風潮と形式だけの信仰にここでも挑戦している。律法を守っているから罪はないという考えには更に到底守れない教えを説くことによって、結局は罪のない者・罪を免れる者は一人もいないということを言われていたのではないか。
 罪を知り、悔い改める者が天国へ行ける。この教えはヨハネに通じる。しかし悔い改めたら改まるのであろうか、もはや罪を犯さなくなるであろうか。目覚めて勇敢な使徒となった人たちは別として、私のように悔いても悔いても罪を犯し続ける人間もまた憐れむべき罪人として見抜かれて主イエスの視野の中に入っていたと思いたい。罪と告白と悔い改め、その繰り返しの中でキリストの前に悲しみと喜びをさらけ出しながらともに歩む人間を求めておられたし求めておられるように思えてならないのである。
 
(書いたのは90年代だと思う・・)
(2014年09月18日、フォントなど、若干修正加筆)
現時点での私の解釈としては、キリストの教えは結局のところ、
  罪なき者は一人もいない
ということではないか・・と思っています。 


  勇敢な兵士         戸田聡
 
勇敢なる兵士諸君
あるいはすべての戦う者たち
あなたがたは義によって立ち
あるいは仕事と割り切って
戦いの場へ向かい
祖国のため正義のため
殺された仲間のため家族のため自分のため
うまくいけば生き残って凱旋し
多くの人々にたたえられ
胸に輝く勲章を与えられるかもしれない、しかし
あなたがたは喝采を浴びせる人々から受けるようには
神から祝福を受けることはないだろう
いかに平和を勝ち取るという目的を持っていても
極悪人を殺すときも
人殺しを殺すときも
殺さなければ殺されるようなときも
人を傷つけ殺したならば神の前に
あなたがたは裁かれる身であり
決してたたえられる身ではない
天国に勲章も名誉も持ってはいけない
ただ裁きの日に裁きの場に立たされるであろう
そして情状酌量の余地を問われるであろう、それほどに
人を傷つけ殺すことは正義ではない
しかし心の底まで
裏の裏まで
すべてを見抜かれる神が斟酌(しんしゃく)されるとき
その計らいは限りない哀れみであり
永遠の生命へ至る道である
神の前に明らかにならないものはなく、もし
あなたがたが天国へ招かれるとすれば、それは
あなたがたが正義であるからではなく
あなたがたが、ただ
父なる神によって哀れまれた
という理由のみによるのである
何故なら御国に至る道はそれ以外になく
あなたがたを見送った私たちも
それ以下ではない罪によって裁かれるからである
 
(HP開設時か、それ以前?)
 
 
  どっちを選んでも罪
 
 仮に極端な話ですが、既に百人を殺した者が目の前にいて自分を殺そうとしたとき、彼を殺すのが正しいかどうか。殺せば理由がどうあれ人殺しをしたことになるのだから、それは罪です。決して正義ではありません。
 では殺さず殉教のつもりで殺されたとしたらどうでしょう。彼はさらに千人を殺すかもしれません。その中には愛する家族や隣人・友人も含まれるかもしれないのです。隣人を愛さなかったという、これも罪です。たとえ殉教であってもです。逃げたとしたら殉教でもなく、やはり同様に罪なのです。
 つまり殺す・殺される、どっちを選んでも罪なのです。では実際どうしたらいいのか、語る口を私は持ちません。しかし何(いず)れかの行動を人はすることになります。これは極端な場合の話です。
 しかし今の世に生きる限り、このような極端な場合でなくても何かを選びながら何かを切り捨てながら人は生きていくのですから、どっちを選んでも罪ということがむしろ多いように思います。罪を免れる世渡りの方法などない。
 義人はいない、一人もいない。キリストは罪については厳しい見方をしておられた。罪を認めない者にはあくまで厳しかった。罪が許していただくほか救いがないように、認められていない罪は許しようがないのです。
 人という罪にまみれた創造物は、神の前においては裁かれるだけの存在であるということではないでしょうか。ここにおいて私が言いたいのは人が天国というところに行けるとすれば、それは人が正しかったからとか義とされたからではない。人間は、創世記が示すように、全(まった)き正義に生きることができる存在として創られてはいない。
 人は神の裁きの場において、神に憐れまれることのみによって御国・天国へ行くことを許される。それ以外に御国へ至る道はない、というのが私の妄想的排他的確信の核心であります。
 
(1999年04月12日、HPにアップ)
 


  インフェリオリティ・コンプレックス  戸田聡
 
駄目ですね
いけません
よね
寝込んだまま動かないのは
この寒さに
やられてしまったのか
まだまだ捨てたものではない
いっぱい注(そそ)ぎたいはずだ
鼻のまわり頭の後ろ
痒(かゆ)くなってきた
体やっと起こして
洗面所へ歩いていく
頭から水をかぶる
油膜を洗い落とすように
何度も何度も
顔を洗う
ぷふぁ~っと顔を上げる
鏡の中の顔
目が二つある
鼻も口もある
その配置が人並みより
多少ズレているとはいえ
まんざら捨てたものではない
いっぱい水を浴びたはずだ
痒くなくなった

明日は成れるかもしれない
成れないかもしれない
人間に似ている
 
(2001年01月02日、HPにアップ)
 
 
  一枚の写真
 
若い頃の私の顔
写真の中の
とりわけピントのぼけた
青年よ
私はその一枚が好きだった
しかしその微笑よ
お前があまりに狡(ずる)かったので
想い出になることも
死ぬことも許されず
この顔になった
老いへの無知が傍らで狂乱している
かつての青年よ
この顔に対して
私は殺したいほど
抱きしめたいほど両価性だ
 
(1997年4月19日、HPにアップ)
 
 
  吠え面たち        戸田聡
 
吠え面ばかりが集まってくる
そんなに負けてきたのか
負けた者たちばかりなのか此処(ここ)は
私は吠え面です
私の顔は吠え面です
と言いながら
そのくせどこか
みんな顔の造作を間違えている
顎を外して叫ぶ様(さま)であったり
涙のつもりが洟(はな)垂れであったり
涎(よだれ)を垂らしていたり
笑うかのように歯を剥(む)き出した顔もある
みんな泣き損ない吠え損なっている
そして真っ黒な鼻の穴から
口臭だろうか臭い煙が
顔中の毛穴という毛穴から
糞尿のような臭い汁が噴き出している
かわいそうに
よほど酷(ひど)い負け方をしたのだ
みんなおいで
もう独りじゃないんだ
みんなで顔を整えて強くなろう
するとこちらを向いた一人が言う
あんたの顔
さっきからクソ吐いてるぜ
いちばん不潔だぜ
いちばん不細工だぜ
あんた間違ってるぜ
 
(2000年12月11日、HPにアップ)
 
 
  私の顔          戸田聡
 
私には三つの顔があった
クリスチャンの顔
医者の顔
病人の顔
もっとあったかもしれない
いや全部こわれたかもしれない
私は私の顔が嫌いだ
私が住んでいるのは
孤島であり
町であり
訪れる人といったら
セールスか集金の人ばかり
ああ 人だかり
の中の一人
顔に凄(すご)む人間
顔に和(なご)む人間
人間の顔
あるとき不意に現れ
忙しく変わる
恐ろしく歪む
疲れた
使われすぎて
もう何も表情がない
色もなくなってしまったのだ
と あきらめかけて
また不意に現れて
その人を表わす顔
その生まれ付きのために
こんなにひどくても
私の顔は
二度とないもので
誰にも渡せないことになっている
 
(1997年1月31日、HPにアップ)
 


  夜の顔の循環      戸田聡
 
ぬるい夜
ぬるい湯に
爛れるばかりの
阿片の夢に
流れ出しては崩れてゆく
この顔を直接
一生見ることはない至福よ
何のために
どのようにあり
あるいはあったのか
過去は現存しない
ただ臭ってくる
死んだ果実の
臆病な浸出が
皮肉な川を渡り
またひとつ色褪せて
薄くなった肌をなぞっては
しみる
痛みから
否応もなく
犠牲になって
消えてゆく
それが現存する
唯一の夜
 
(1998年5月22日、HPにアップ)
 
 
  形容無情       戸田聡
 
人のように
花びら一つ一つに
木の葉一つ一つに顔があったら
それぞれ別の名を与えられたことだろう
類型の名に纏(まと)められ
呼ばれ触られ楽しまれ踏まれている
名を知る前すでに感動しているのに
伝えたいばかりに名を求める
散り際に許さないでくれ
一つ一つに名を与えようとして
類型さえ覚えない私を
 
(1998年5月29日、HPにアップ)
 
 
  僅かの夜       戸田聡
 
田舎町の夜は永眠したかのように
家の外からは何の音声も入っては来ない
耳が拒んでいるだけかもしれないが
室内から体内へ押し入ってくる
拒めない
置き時計は電池式なのに
こつこつと秒針の音は骨に響き
一秒ごとに僅かずつ骨を砕いている
唐突に唸り始める旧い冷蔵庫は
叔母が死んで譲り受けた
というより勝手に貰った
その不幸という不幸を微震動に変え
脊椎を僅かずつ
ずらしている ああそれよりも
体内から体内を掻き乱し
昨日も明日も消してしまいそうな
見守る者のない烈火の揺れの
室内へも屋外へも伝わることのない
拒まれる僅か一つの夜
 
(1998年7月7日、HPにアップ)
 
 
  油膜          戸田聡
 
油膜を洗い落とす
別の油は塗らなくてもいい
洗うだけでもいい
濁ってしまうから
落とせないと知りながら
洗い落とそうとする
顔の油膜
眼の油膜
視界の油膜
記憶の油膜
死んで猶(なお)
汚れて更に
水を含んで
湧いてくるから
 
(1998年8月13日、HPにアップ)
 

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