ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。


  不眠症と祈り
 
何もかも呑み込んで夜が来る
のみ込まれて黙り込む
静けさに目を閉じる
さまざまな夜の形を打ち消して
最後に犬が吠える
眠れない人が闇に驚く
 
 祈りは夜とともにあった
 言葉は夜であった
 光は夜のかたすみに
 あやうい形で揺れていた
 祈りは涙と親しく
 いつしかお互いに拒んでいた
 涙は形にならなかった
 祈りはさまざまに否みながら
 光となって揺れていた
 光は言葉であった
 それらすべてを包み込む
 形は夜であった
 
何もかも解き放って朝が来る
沈んだ眼の水平線が離れる
あらゆる隙間から光が射し込む
数々の挨拶を抱えて出かける人々
さまざまな光の形に打ち抜かれて
眠れない人は黙り込む
 
昼となり夕となった
それがいつも一日目の終わりであり
終わりの日の始めである
 
 
  数の存在
 
名付けるのは人の都合により
数えるのも人の都合により
存在するのは神の都合による
 
人は数を考え出して便利に使った
今は数が人を便利に使っている
 
自然数の中で1が最も不思議だ
0までの道のり
マイナスまでの
小数や分数までの道のりを越えて
無限大へ
 
1からの出発
0からの出発
マイナスからの出発をして
順調に上っていった男は
限りなく大きくなることを疑いもせず
知らないところで名付けられた
虚数の束を嬉しそうに数えている
 


  口笛の頃
 
もしそんなところがあったら
耳鳴りの今を去って
口笛の頃へ帰りたい
目に写る
錆びた刃物の
耳鳴りの
闇の
ざわめきを去って
 
口笛の
その吹かれたところから
小川を渡り
水音も風音も
野原と空の
ゆるやかな
うつりになって
音がしないほどの
肌に触れないほどの
気の流れ
草の揺れ
口笛の
音色の消えていく
少し先
空に召されていく
口笛が
口笛でなくなる
あらゆる見えないものと
いっしょになるあたり
 
いっしょに遊んだ
幻の少年が
消えていった
名前を与えられ
こめられたものたちすべて
名前を失い
解き放たれるところ
 
広い
ひろい
ひろ・・・

 
 
  春の名前
 
花の色・香り・ぬくもり
風の音・水の音・きらめき
空の輝き・光
春という名の季節
その中の様々の名前
 
何を得て
何を失って
この春にいる
 
子供の頃
晴れた空のまま下りてきて
小川のまま流れてきて
菜の花を揺らしながら
虫の道のりといっしょに入ってきた
まぶしかった全ては確かに
名前など持たないまま
あの頃ひとつだったのに
 


  科学・歴史と信仰について
 
 例えば仮に、極端な話ですが、科学的に歴史上イエス・キリストは存在しなかったことが証明されたとしましょう。それはショッキングなことです。受け入れがたいことでもありますから反論を試み期待するでしょう。しかしそれが間違いなく科学的事実であるならば、私はそれを認めるでしょう。歴史上イエス・キリストは存在しなかったと。しかし一方でつぶやくでしょう。それでも私はイエス・キリストに出会ったと。ちょうど数世紀前に高名な科学者が宗教裁判でつぶやいたように。
 宗教的歴史観やそこから生まれた世界観・人生観・哲学・教義・戒律が信仰ならば、歴史観が崩れれば信仰も崩れます。前述の仮定に戻ると私を含め多くのクリスチャンが動揺するでしょう。懸命に反論した末に思い込みを強くする人もいるでしょう。信仰を捨てる人もいるでしょう。私はむしろ、それで捨ててしまえる信仰なら捨てたほうがよいとさえ思います。そういう信仰は思い込み・偶像に過ぎないと考えるからです。しかし何を言われても泣きながらでも信仰を捨てられない人がいるはずです。
 私たちは二千年近く前に完成された聖書によってイエス・キリストを知ります。しかしクリスチャンは二千年前のイエス・キリストを信仰するのでしょうか。少なくとも私は違います。私は私の人生の中で出会って今の自分を見つめ支えて下さるイエス・キリストを信仰しているとしか言いようがありません。したがってキリストは、目には見えず耳にも聞こえないけれども現存するイエス・キリストなのです。実存と言ってもいいでしょう。そしてそのお方を人生の永遠の友・同伴者として、救い主・飼い主として必要としているからクリスチャンになり今も自称しているのです。だから二千年前がどうあったにせよ自分が出会ったキリストを否定することはできません。肯定し疑わないのではなく、疑うことのできない信仰上の出来事・真実だから否定できないのであります。
 いかなる宗教も科学的事実を変えることはできません。同じように、いかなる科学的事実も個人の信仰上の真実を変えることはできません。
 
 
  神の非存在証明?
 
この世で人は見えざる神・聞こえざる神に祈りを捧げることができます
ある日死にました そしてあの世あるいは天国へ行きました そこで神に会いました もうこの世を離れ聖なる領域に召されたのだから神に会っても何の不思議もありません しかし神に会っているその場において さらに見えざる神・聞こえざる神に祈ることができます それゆえ今会っている神は偽者ということになり その世界に死があれば死んで 経緯はどうあれ さらなるあの世・さらなる高次の世界へ行ったとします そこでまた神に会います しかしそこでもやはり見えざる聞こえざる神に祈ることができます この神も偽者 と さらに高次の世界へ でも同じことの繰り返し どんなに高次の世界へ行っても本物の神に会うことはできません 本物の神の姿を見ることも声を聞くこともできず それゆえ神の御旨・真意を知ることもできません これは実質的に神は存在しないことと同じではないか
もうお気づきと思いますが、以上述べた神の非存在証明モドキは明らかに詭弁です。何故ならこの世にいたときと同じ意識で考えることを前提としているからです。死後にあの世や天国があるとしても、そこで人がこの世と同じ意識や思考を持ちうるという保証も法則もないのです。「それは御使いのようなもので・・・」というキリストの言葉もあります。
死後の天国 もし在るとしたら そこでは何も疑う必要がなく それゆえ疑うなどということを忘れてしまうような世界なのかもしれない そのような世界をこの世で垣間見ることができたらいいな などということを考えてみたりもします あくまで未だこの世の人として ぽぁ~んとした夢見心地の気分で首を傾げながら 夢想して遊んでいるに過ぎませんが・・・
 
※ 直接には会えないからこそ「神」という説があるようで、
私は、かなり同意できます。分からないけれど、私のような者が、
この世はもちろん、あの世があったとしても、
神様に会って、直接、顔を見たり声を聞いたり出来るとは到底思えません。
 


  選ばれた民
 
キリスト者(クリスチャン)は神によって選ばれた民である
それを否定するつもりはないが
選ばれた、とはどういうことなのか
恵まれた、とも言えるかもしれない
しかしこういう言い方は誤解を招きやすい
選ばれた、とは優劣を意味しない
また特別に善いことをしたから選ばれたわけでもない
キリスト者でなくても優れた人はいるし
また尊敬に値する人格者であり
キリスト教についても知識を持ちながら結局
信仰には無縁なまま一生を終える人もいる
強いて言うなら助けが必要なほど愚かだから
神の憐れみによって選ばれたのかもしれないが
ことさら卑下する必要もないだろう
無理な謙譲は陰湿な思い上がりの住みかである
 
主イエスが弟子として選んだのは
人格や知識の優れたものではなく
多くは無学で愚直でありながら
人間的な感情の豊かな人々のようであるが
詳細は明らかではないはずだ
 
少なくとも選ばれるということは
選ばれる人々の都合によってではなく
秘められた神の都合によって選ばれるのである
 
だから選ばれたことは縁のようなものであって
選ばれた民は異教徒や無宗教の人々を
軽んじてはならず憐れむべきでもない
人の憐れみはしばしば陰湿な軽蔑の住みかである
 
キリスト者はただ神の都合により選ばれた民である
そして父なる神から甘くなさそうな盃を与えられた者である
人間としての喜怒哀楽を経て、離れようとしても
盃の縁のゆえに、たとえ苦くとも
盃の宴に立ち返るほかにない人間をキリスト者という
 


  自戒のために
 
曇っていても青空は在る
空より大きい雲はない
晴れていても観光バス
色分けした平面を
流れるままに忘れてゆく
網膜に写らないものから目を逸らすな
鼓膜に響かないものに耳を塞ぐな
音がしなくても歌は在る
しじまより広い舞台はない
 
(1997年8月28日、HPにアップ)
 
 
  夜の陽炎
 
みみに にぎやかに ひびくよりも
むねに しみるものが ほしいから
であいは かわすべき あいさつもなく
まちびと たえて 静寂(しじま)へ
夜の石英のように
 
たなごころに のるよりも
むねに おちるものが ほしいから
ゆくさきは すなどる なにものもなく
あしおと きえて 漫(そぞ)ろに
夜の水脈のように
 
まなこに まぶしく うつるよりも
むねを つらぬくものが ほしいから
わかれは まぼろしの ほむらに
やきつくす とわの 玉響(たまゆら)
夜の陽炎のように
 
(1999年07月22日、HPにアップ)
 

  生まれた責任
 
産んでくれと頼んだ覚えはない
と誰を責める
今を嘆くのは勝手だが
自らの責任において泣け
産んでくれるな
と頼んだ覚えもないのだ
 
(1999年07月22日、HPにアップ。
 昔を思い出したときのこと。自戒のために?)
 
(クリスチャンは、時々、まわりくどくて、
 とても陰険なことを言う。独り言です。)
 

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