ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。


  ある誤解の場合
 
違う
誤解だ
そんなつもりはない
そんなつもりはなかった
と追いかけようとする胸をドンと打ち
行手を塞いで引き止める腕がある
数多(あまた)の覚えざる罪の
たった一つに遅れて気付いたからといって
かの強き人を今さら
追いかけて涙ながらに唾を飛ばして
引っかけた小便を呑んでくれ
とでも言うつもりか
それで今になって間に合ったり
それで済んだりすることがあるというのか
涎(よだれ)の弁解をいつまでも垂らすな
今は責めを身に負い
気付いた罪を胸に刻み
謹んで
黙殺せよ
気付かぬよりは増しだ
 
(1998年11月11日、HPにアップ)
(もちろん弁明することで誤解が解けるなら、そのほうがよいのです。
 それが困難なときもあるということです。)
(「責め・罪を身に負う」ということは、クリスチャンとしては、出来ないのです。
 出来ないから祈って神に委ねるプロセスは、ここでは省略しています。)
 
 
  秋の日・一
 
歩いているようないないような
振り返れば誰もいない
前を向き直しても誰もいない
そういうシーンが幾度となく繰り返されて
芝居は終わった
帰ろうと立ち上がれば舞台もない
出口に向かおうとすると客席もない
さわやかな秋の日だ
 
(1998年10月29日、HPにアップ)
 
 
  秋の日・二
 
毒を湛(たた)えた川があって
触れる者は次々に死んでゆく
しかし身投げする者は生き残る
すべての言葉が死語となる日
何も知らない呆けた男が一人
相も変わらず泥濘(ぬかるみ)を
と探しまわっていることだろう
触れようとして身を投げようとして
生きようとして死のうとして
生霊として死霊として
そこから始まった
そこから始まったと呟(つぶや)きながら
あくまで爽(さわ)やかな秋の日である
 
(1998年10月29日、HPにアップ)
 
 
  秋の日・三
 
スカッと青空が高い秋
雲も高い
地上のことなど・・・
もしあの雲の上にいられたら
空気は薄く紫外線を浴びながら凍る
きっと耐え切れないものばかり
届かない美しさは皆
 
(1998年11月1日、HPにアップ)
 


  罪と許し
 
思い切って言ってみます。
「罪は決して許されることはない」
 もちろんこの命題は逆説であり、それを通り越してむしろウソというべきかもしれません。罪は許していただく以外に救いはないのです。では何故こんなことを言うのかというと、「許す」ということについて少し考えてみたいのです。素朴にまず人を例にとって、あくまで人の知恵で考えてみます。
 Aという人がBという人に、窃盗でも侮辱でも何でもいいのですが、罪を犯したとします。Aは罪を悔いBに謝り許しを乞います。BはAに言います。「Aよ、私はあなたを許す」。この場合Bの記憶の中にAについて何が残るでしょう。「Aは罪を犯さなかった」「Aは罪のない人」ではないはずです。「Aは罪を犯したが罰することをしなかった」という記憶のはずです。つまり「許す」とは「罪をなくす、消す」ということではなく「罪を罰しない」ということになる。しかもそれは罪を犯した者が罪を知り悔いているから起こりうることなのです。「罪が許される」とは「罪が消える」ということではないのです。
 さて神に対してはどうでしょうか。やはり同様に考えるべきではないでしょうか。ただ神様は人が自らの罪のために本当に苦しんでいるならば、これを憐れみ「罪を罰せず、さらに慰めを与え正しく生き続けることを勧められる」かもしれません。実際に神様がどう考えておられるかはわかりません。人の知恵では神の知恵は計り難いからです。神の立場で考える愚は避けたいものです。たとえば神は全能であるから罪を消し罪を忘れることもできる、というのは詭弁です。忘れることと覚えていることと、どちらが能力であるか常識で考えれば明らかです。神はすべてを常に知っておられると考えるべきでしょう。人が知りもしない神の知恵と立場で考えようとすることは実に虚しいことだと思います。人は考える動物ですから人が神について考えるのは自由だけれども、あくまで人の知恵で想像しているに過ぎないということをわきまえるべきだと思うのです。
 人間の心では到底納得できないことを「神は云々」と考えて理屈だけで辻褄を合わせて理解したようなつもりになることは、ちょうど本当は何もわからず悲しいのに無理矢理わかったような作り笑顔を見せているようなものです。人の前ではそういうこともあるかもしれませんが、どんなにうまく作ったつもりの理屈も顔もその中にある嘘と本当を見抜かれる全知全能の神様に対しては偽りを向けてはならないはずです。また人間として考えれば悪いことだとわかるはずなのに自らの怒りを「神の御旨」に置き換えて罪を罪とも思わない場合もあるでしょう。信仰生活のいかなる場合においても人間の持っている、言い換えれば人間に与えられている人間としての知性と感性を押し殺すようなことをするべきではない。特に神様の前ではどこまでも正直な告白と祈りができるように努めたいものです。
 少なくとも一つ以上の自分ではあがないようもない罪を知り罪の意識にさいなまれて正直に告白している人にだけ「あなたの罪は許された」という言葉は命をもって与えられます。「告白すれば罪が消える」「罪を免れる」と安易に思っている人は言われるべきです。「罪は決して許されることはない」。
 
※ 「許し」は正確には「赦し」で、許可ではなく赦免ということだそうです。


  誤解
 
 彼がどんな不幸を背負っていたか知らない。日曜日の教会での礼拝のときだった。彼が私の横に座った。膝を閉じまるで長いすからはみ出しそうな格好で小さくなって腰掛けた。先に座っていた私はそのとき長いすの真ん中で大股開きでふんぞりかえっていたので(おやおや、ちと場所を取り過ぎたかな)と思って姿勢を正して場所を空けたつもりで少し彼から距離を取った。
 すると軽蔑されたか忌み嫌われたとでも思ったのであろうか、彼はすっと席を立ち出て行こうとした。数人の信者が彼を引き止めようとする。私は黙って座っていた。どうしたらいいのかわからなかったのである。(「どうぞ、場所あけましたからこちらの方へお座りください」と言えればよかったけど、そういうのって俺は苦手なんだ。それにしても席を立たなくてもいいじゃないか。どういう事情かは知らないが少し被害的なんじゃないの。知らない、ああ知るもんか。)恥ずかしさの反発で腹立たしく、一方で思うのであった。(こういうことで罪を犯すこともある。受け取る側の問題はともかく受け取らせ、その弁明も償いもしなかった私に罪はあるのだ。)
 昔、牧師さんから「生まれつき人を傷つけないではおれない性格の人もいる。」と聞いたことがある。自分のことか。人を傷つけないではおれないということは多かれ少なかれ誰にもあるのかもしれないが、子供の頃よく小動物をいじめて遊んでいたし無頓着で気配りのセンスもないし根はけっこう残酷なのかもしれない。
人を傷つけ、傷つけることで自分も傷ついた。自分が怖くなった。その後、いつからだったかは忘れたが、私は教会に行かなくなった。昔、静けさを求めて通っていた教会に私は向かないと思うようになっていた。あの時の彼がどうなったのか知らない。思い出すと彼が救われるなら今死んでもいいという気持ちになることがある。
 
※ 「死んでもいい」は言い過ぎでした。
 
 


  宗教
 
 私は宗教は嫌いである。できれば最小限の道徳とヒューマニズムをもち、宗教に関しては無神論というよりは無関心でいたかった。多くの日本人がクリスマスにはケーキを食べ、大晦日には除夜の鐘を聞き、年が明けると初詣に行く。しかして三つの宗教のどれも本気では信じていない。私はそれさえも面倒くさくてしないですませたいと思う。
 キリスト教だけでも百を越える教派があると聞く。キリスト教を名乗る新興宗教などを加えるとその数の多さにまず疑問を抱く。さらに宗教人の哀れみの表情や態度に、悟らない下等動物をみるような蔑みの目を感じてしまう。それでも悪意がなければ、苦い吐き気を隠しながらも何とか耐えられる。
 私は愚か者である。と言ってみてもしようがないが、加えて人に言えるほどの何の才能もない。無能と言ってもいい。自らは悪意をもち、あるいはもったことがあるにもかかわらず、自らに向けられた悪意・作為には耐えられず逃げるほどに気は弱いようだ。それを神様にお祈りしても勇敢な正義の味方になるわけでもなく有能になるわけでもない。その気の弱さと社交性の乏しさのせいであろうか、私は独りでいることが多く、独りで考えることが多い。独りで存在することの耐え難い不安が私をキリスト教に向かわせたのかもしれない。そして聖書に表わされた人のような神のような生き方と死に方をしたイエスキリストのへの想いが断ち切れないために今も聖書を少しずつ読むという生活になっているようである。
 イエスは常に貧しい人たちを訪ね彼らとともにあり慰めと励ましを与え、どういう癒しかはよくわからないが病気を癒したという。広く(旧約)聖書に通じていて、それを人のために生かし、終生富を求めず、私利私欲を求めず、最後には抵抗も言い訳もせず、十字架につけられ死んだ。福音書はキリスト・イエスの肉体をもった復活を説いている。しかし肉体をもって復活されたのなら、忙しくはなるだろうが時々天から下りてきて困っている人々を当時のように助けに来てくださればよいのにと思う。
私についていえば復活は聖書を通じての霊的な精神生活以上には起こっていないので、それ以上を無理に信じる気にはなれない。今でも私は宗教は嫌いである。あまりお近づきになりたくない。しかし私は全く個人的にイエスの存在を必要としており、イエスを主と呼ばざるをえず、キリスト(救い主)と呼ばざるをえず、それよりも存在することの孤独と不安を癒してくださる同伴者・永遠の友として頼みとせざるをえない。
 


  心情的矛盾律、体験宗教・人間宗教
 
まず一つの命題を考えてみよう。
 
私は偽キリストである。あなたは私を信ずるか。
私は偽預言者である。耳ある者は聞くがよい。
 
これは論理的矛盾律ではない。
しかし心情的には、
偽キリストが自分を偽キリストと名乗ったりはしないだろうし、
本当のキリストなら、これまた偽キリストと名乗る必要はない。
よってこれは心情的には矛盾律であって、
つまりどちらも成り立たない、どちらでもないのである。
本物ではないのだから、この矛盾律をもって
私は「偽キリスト教」なるものを展開しようと思ったのである。
 
しかしこれは誤解されやすく、
また悪用されるかもしれない。
わざと偽キリストを名乗って
本物でないことをよいことに
好き放題に謎めいたことを言い(まさに私か?)
人々を惑わし
結局、利をあさる者が出ないとも限らないのでやめた。
 
私はあくまで人間として
俗人として
人の知りうる神あるいは信仰とは何かを考えていきたいのである。
神の存在も不在も証明することはできない。
だから信仰なのであり宗教なのであろうが、
人の知恵で測れない神を信じることには危険が伴う。
恐ろしい思い込みに陥ることさえある。
 
信仰に至るとは信じることではない。
人の知恵からみれば聖書によって
人生において否定することのできない「このうえない同伴者」、
すなわちキリスト・イエスに出会うことである。
それが神を知ることの始めであり終わりである。
限りであり、全てである。
神とその知恵を直接神様から知ることはできないから
信仰に至る過程で神の導きがあったとしても
それを同定することは人間にはできないから
キリスト・イエスを知ることで神を知るほかはない。
そういう意味で信仰に至るとは信じることではない。
永遠をともにするに足る同伴者に出会った、言い換えると
一生の付き合いになりそうなお方に出会ったという
精神生活上の宗教的霊的体験を持つ者をキリスト者(クリスチャン)という。
その体験は劇的に感動的に起こることもあろうが、
いつの間にか忘れられず考えてしまっているようなあり方もあると思う。
 
この、体験に重きを置き、人間としての限界を知るキリスト教を
体験宗教・人間宗教と呼びたい。
 
 
※ ここでは宗教と信仰をあまり区別していないようです。
広い意味では似ているかもしれませんが、
宗教は、信仰の切っ掛けになるとはいえ、教義が付き物です。
信仰は個人にとっての経験です。といっても言い尽くせない。失礼。
 

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