ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。


  薄いとき
 
今日は少し薄いな
と意識しながらバイクに乗っている
ハンドルがあってグリップがあって
そこへ伸びている手は私のだ
私の手だ
と意識する分だけ薄い
手も足も運転はしている
のだが前の車の後を
ついて行っているだけみたいで
ときおり冷たい風が吹いてくると
少しは違ってくるのだが
今まで事故や病気で少なくとも三度
意識を完全に失ったことがある
ぼんやりすることならもっと多い
発熱のとき
眠る直前や目覚めた直後
睡眠不足に上(うわ)の空
でも意識障害や注意力の問題とは違う
今がいつで此処がどの辺かは分かる
医学的には意識清明
眠気もない
しかし何となく薄いのだ
と意識する分だけ清明で
と意識する分だけ薄弱だ
空回りか渋滞か
脳の仕組みのどこか
そしてどこかに希薄な境界があって
そこから表に出ている薄い私が
今は橋を渡って行く
 
(1998年10月22日、HPにアップ)
 
 
  忍び寄る欠損
 
しのびよる寒さに
冬眠したがる脳を叩き起こそうとしたとき
ふと去っていった
それはまるでつい今の今まで
辛うじてしがみ付いていた
羽根か花びらのように
 
もったいない温もりを
また一つ失ったようで
ペンを転がし戻してはまた転がし
時間をつぶし空白を広げる
一画欠けた人間を
問うても問うても人は人
足りないものは足りないのだ
 
(1998年11月1日、HPにアップ)
 
 
  せぞくのカネ
 
「せぞく」の「ぞく」を離れ
「せ」に「せ」を向けた若者が
「せ」ばかり伸びた若者が
いくら鐘を叩いても
音叉を逆さに持って打つようなものだった
「せぞく」の「せ」を捨てて
「ぞく」ばかりに集(たか)る罪人が
「ぞく」ばかり食べる罪人が
いくら金を唸(うな)らせても
死亡時保険金を数えるようなものだった
かつて生まれたばかりの赤子の
しわくちゃな顔が伝えたもの
いつか死に際に見る幻に
開いたままの瞳孔が映すもの
語らぬものが示すもの
その間の張り詰めた皮膚の裂ける音
語るものが示さぬもの
その間の強張(こわば)る筋肉の擦れる音
示さぬものが語るもの
いくら遡っても手繰(たぐ)れるのは
錆びた今自身の声
いくら鐘を鳴らそうとしても
鐘の中で金の響きに耳を病むばかり
己(おのれ)を問うほど虚しいことはない
ゆえに問えと
 
(1999年01月08日、HPにアップ)
 


  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに折れて
中央は欠損していた
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
  少年と空
 
少年は空に焦がれる
少年は病んでいた
 
少年は口笛を吹き
歌を歌った
 
歌は空に流れ
きらめく無数の塵となって消えた
野に遊ぶだけの
少年の毎日
 
いつか風が吹いていた
いつか草が倒れていた
日は暮れつつあった
燃えるように誰もいなかった
 
少年が空に投げた希望も、夢も
やさしさも、光も、鏡も、人形も
ついに空に届くことはなかったが
夕暮れ、赤く焼けた大地に
空はどこまでも
少年の面影を追い続けた
 
口笛は空に焦がれる
口笛は病んでいた
 


  虚数まで
 
僕が負の平面を旅して
膨張した平行線や
無限と戯れている間
君は負を好まなかったから
似合わない帽子をかぶり続けていた
長い長い0(ゼロ)までの距離を束ねて
狭い正面を向き合ったときには
君の存在は確立した可能性の外でも
不意に現れた僕の偶然を既に作表しており
君は自らのルートを知っていたし
僕がどんなに膨らんだ式の
組み合わせを並べ替え
積み分けようとしても
用意された美文は
隣の子供をあやすように
戻しようのない速度で反応し
君は正の位置を求めて去った
計算を誤った限界値は
極限に達して改めようもなく
僕は自浄して
再び負の平面へ去るか
君が残していった
無理な帽子から
i(アイ)を追い出すしかなかったのだ
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・・
 

(※ NGワードに引っかかった。
 「小さくふるえながら」に修正してパス・・・よくわからん・・・)
(2013年04月04日、NGワード設定が改善されたことが分かったので、元の文言に修正。)
 


  聖書
 
 一般に紙は薄く、頁はめくりにくく、ボールペンで線でも引くと裏から透けて見えること多く、にじんでくることさえある。一般に分厚く、途方もないと思えて、なおかつすべての一行一行に涙流れるわけでもない。メモでもしておかないとすぐどこだったか忘れてしまう。これに一生を費やす人がいるわけだ、と他人ごとのように思う。
 聖書、バイブル。旧約聖書、新約聖書。文語訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書、共同訳聖書、リビングバイブル。
 永遠のベストセラー、というより永く買わされてきたこの書物を全部読みこなせた人がどれだけいるのだろう。たとえそらんじたとしても信仰に保証はないのだ。
 開こうとするたび、無数の異国の怪人が現れ、白髪の老人であったり、真黒な眉毛と髭の間にこわそうな目がにらみつけたりする。
 こりかたまりの戦争の話であったり、道に伏した栄養失調の嘆きであったり、熱くなって爆発しそうな顔であったり、こちらが爆発しそうになったりする。
ただときどき、ふだん嫌いな憐れみが命がけで迫ってきて、荒野や砂漠が潤ったりするので、海が割れたり死人が生き返ったりしてこんな頭持ってないと破り捨てたくなるのを、笑えなくする。
 


1996年HP開設時か、それ以前・・・
作成年月日を書いていないものは
大体その頃です。
 
 
  バベル       戸田聡
 
こがねの中でバブルははじけ
大地の下でバブルはつぶれ
多くの人々が死んでいきました
高い高いビルの中で
長い長い道の上で
人々は徒党を組み
同じ志と呼んでも
人々は集いあって
同じ情と呼んでも
ウソは暴かれることもなく
さらに高い塔をあがめるのです
人は群れとなり数となり
互いを石ころのように数え
互いをコードを頼りに送り迎え
高みを高みをと求めるのです
通じ合うルールのような暗号があふれ
通い合わない心が満たされないまま
失われたもののために
低みを流れる川のように
静かな潤いを求めたとしても
求めるとき川は枯れ
渇いたとき泉はなく
飢えたとき食物は尽き
くずれてゆく群れが
カオスの集散を重ねて
いつか恨めしく見るのです
まぶしく光るきらめきを
無機質の異星のような高い塔を
そしてようやく
自らのバブルとバベルに気づき
少しずつ届かない塔を疑い始めるのです
 
 
  友          戸田聡
 
あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
人は到底それらすべてを知り得ない
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである
 
あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである
 
 
  偽物           戸田聡
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
※ 私にとっては今も現在形です。でも、
言うまでもないことですが、
誰にでも当てはまる真理として書いたものではありません。
私が考えたこと以上のものではありません。
 

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