ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
   キリスト教の国
 
 あまねく世界のはてまでも述べ伝えられるべき主イエスキリストの教えは日本には十分に伝わっているとはいえない。
 十六世紀に日本に伝わったキリスト教は、その後の迫害によって途絶えた。わずかに残った隠れキリシタンは土着宗教と化してしまった。見事に殉教した人たちは世の終りまで帰ってくることはあるまい。明治以後に様々な教派のキリスト教が日本にも伝えられた。戦争と迫害を経て今なお少数派である。しかし日本のキリスト教が少数派であることを恥じる必要はあるまい。多数派であればよいというものではない。
 ローマで大迫害の後キリスト教が公認されたことをもってキリスト教の勝利と見なすことは、その後の中世の教会の犯した過ちを思えば受け入れがたい。
 また現在、世界のキリスト教の国と呼ばれている国々をみるがよい。それらの国に犯罪の絶えたことがあったか。人殺しの絶えたことがあったか。戦争の危険のなくなった国があったか。それらの国々のキリスト者を侮辱するつもりは毛頭ない。どの国にも尊敬すべき指導者はいるだろうし、彼らを慕う信徒も多いだろうと思う。
 
しかし天国は未だ来ていない。天からも来ていない。地上にも実現していない。宗教的に「キリスト教の国」と呼べる国はまだ一つもこの世には現れていないのである。
 
(※ 隠れキリシタンの人々のことを「土着宗教と化してしまった」と
 書いてしまったことについて深くお詫びいたします。
 禁教の時代に信仰を守り続けた長い年月は、大変な代々のご苦労とともに、
 たたえられるべき勇敢さだと思い知らされることがあり、今はそう思っています。)
 

   日本
 
 この国は狭い国土ながらも亜熱帯から雪国までを有し、四季に富む緑豊かな国である。島国であり異民族に蹂躙され支配された歴史をほとんどもたない。
 イスラエルは長い歴史の中で独立国家を維持していた時期は約五百年くらいであり、異民族に何度も支配され蹂躙され散らされた苦く長い歴史をもっている。
 日本は異国の技術を取り入れ加工し発展させることが上手であり、異国の文化を本質よりも風俗習慣として取り入れる特徴をもつ。日本の文字は中国から、ローマ字は欧米から、宗教にいたっては先進国ではめずらしくいまだに多神教が残っている国であり、一方では仏教の影響を強く受け、またキリスト教の影響も受けている。しかしそれらは宗教というよりも文化・風習となってしまっていて、御先祖様を敬う心はあるけれども、熱心に宗教を求める者は少ない。変化に対する適応能力に優れているがゆえに、熱しやすく冷めやすい、拾いやすく捨てやすい、流行りやすくすたれやすい。
 荒野と苦難の中に育ったユダヤ教から生まれたキリスト教の本質を日本人が理解するのは難しく、望みがあるとすれば同じ喜怒哀楽をもつ人間であること、そして日本には日本の苦難があり、これからも来るであろうから、宗教を求める人々はいるということであろう。栄えた国はやがて衰えるときが来るからである。
 キリスト教は日本において必ずしもメジャーな宗教となる必要があるかどうかは疑問でもある。メジャーであればあるほど慣習に堕してしまいそうで、むしろマイナーであるからこそある程度純粋性が保てるという部分もあるかもしれない。
 
荒野に乳と蜜の流れる国を夢見た異国の民に向かって
この国に荒野はない、見ることもなかろう、と言えるだろうか
緑と水に恵まれた国は
海に限られた土の上で
それ以上に人と文明にあふれ
緑と水を汚してゆく
それゆえ自らの狭い領域を守ろうとしながら崩れ
つまずく者たちにとって川ではない
結びつきのうすい人々の流れ、緑ではないそのざわめき
人波は嵐のように彼らをおびやかし
怒りと災いがふりかかる中、乳と蜜は悪しき誘惑
絆を求める声は心のうちに叫ぶ
私が頼りにするものはどこにあるのか
私をとどめる絆はどこにあるのか
ただ肉体が生き
命は物と金で商われるだけなのか
ただ肉体が死に
死は物と金で商われるだけなのか
そのときどれだけの者が答えられるだろう
いつか人はおびただしい人々の中で
独りで荒野に立っている自らの姿に気づくかもしれない
乳と蜜、緑と川と水、国と民と人々、人間
悪魔は誘惑を用意してほくそえみ
神はそれらすべてを見ておられる
 

  求めよ
 
求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのであろうか
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれない
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなる
しかし相手が神様となると事情は違うだろう
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持つ
 
無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もない
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分である
 
偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるであろう
 


  ある朝
 
浅い眠りののち
終わろうとしている秋の
まだ暗い朝に目覚める
昨日のことを
「だったようだ」という
思い出し方をする
頭の中にもやのように
場所も定まらず
迷う悔い
何か言い損ねた
言葉でもあったのか
メモ帳に小さく書き留める
今日の予定
すでに果たされなかった夢の色
うつして小さなバラ色だ
空が白む頃には
今日の命たちの
また喜びと悲しみが始まる
捨てかねている命に幸いを
昔の歌を口ずさみながら
泣けてくる心に別れを告げて
朝の祈りをこめて
昨日にさようなら
もう少し眠れていたら
見たかもしれない夢に
さようなら
 
 
  うた
 
いつか うたも
うたを うたうことも
おおきな こえを だす
あそびに すぎなく
さけに よえば
わらうほど
よわくなりましたね
ほんとうは べつの うたを
つよい うたを
つづれるほどに
ペンを はしらせたい
うたが すべてではなく
すべてが うたではなく
ウソが あそんでいる
ことばに のって
ちがう くにへ ・・・
そのくには どこにあるのか
また みちに まよいましたね
あさの きずが みつけられない
 
 
  ろうそく
 
ふっ と
乱暴に吹き消されて
実はすすと煙でしたと見られる前に
黙って消えていくつもりかい
一二月には銀紙に包まれて
クリスマスケーキをきれいに飾っていた
小さい 赤い 細い ろうそく
季節外れの春の夜に見つけて
ほんの戯れに
今しがた火を灯した
クリスマスであろうとなかろうと
色が何であろうと
ろうそくは ろうそく
時がいつであれ
しずかに灯って
尽きれば静かに消えていく
その仕事をするためだけに
火をつけられるのを待っている
ろうそく
小さな 赤い
しずけさに耐える
 
 
 
 

 


  旧約・哀歌・三
 
鞭(むち)打たれよ
肉と皮は引き裂かれ骨は砕かれよ
自らを囲み閉じ込め
遠い昔に死んだ者のように
暗闇に住んで出て来ぬがよい
祈りは斥(しりぞ)けられ
道を離れ見る影もなく
灰の中に転がされよ
平安を忘れた幸福を忘れた
主に望むところのものも失(う)せ去った
苦艾(ニガヨモギ)を食らい
胆汁を戻しまた呑みこみ
自らの内部にて項垂(うなだ)れよ
軛(くびき)を負わせられるときには
救いを静かに待ち望むがいい
独り坐って黙しているがよい
口を塵(ちり)に埋(うず)めよ
どうして呟かねばならないのか
自分の罪を罰される
のを呟くことが出来ようか
主が天から見下ろしてこの無為を
顧(かえり)みられる時
にまで延々と及ぶがいいのだ
 
(1999年01月23日、HPにアップ)
(聖書をモチーフとした作は、必ずしも 聖書の当該箇所との
 内容の一致を目的としているわけではありません。)
 
 
  乞食としては
 
物乞いはしてないつもりだったのだが
施(ほどこ)しを受けている
これから先の保証は全くないのだが
今は現に施しを受けている
体力も意欲もある人々が
なかなか職にありつけない時代に
おかげで当初の予想より
ずいぶん経済的寿命が延びている
限りある運命の
徒(いたずら)のようで
拒むことをしないまま
この不安な仕組みを
有り難がってもいるのだから
右や左の旦那(だんな)様と
こちらから呼びかけて
深く頭を下げねばならないだろうか
それとも存在と引き換えでしょうか
あるいは不在と引き換えでしょうか
と尋ねてみるべきだろうか
施しとは別に今日も今
一日四回として処方された定期薬を
ゆっくり一服のむ
 
(1999年01月24日、HPにアップ)
 
 
  逃げる月
 
息子は暖炉に引き籠(こ)もり
炭(すみ)から石灰へと化してゆく
娘は街で乳首と皮を売り尽くし
路地裏の溝(みぞ)に住むことになる
母親は血走った眼で台所へ行き
コトコトと指を刻(きざ)み始める
父親は揺り椅子(いす)に腰掛け
新聞を眺めながら煙草の火を吸い込む
逃げる月日に追い立てられて
逃げたいのか休みたいのか遊びたいのか
しかし何事もなく夕食が終わり
父親はベッドに横になり眠ろうとするが
玄関のドアをノックする音がする
起きて行ってドアを開けても誰もいない
明るすぎる暗すぎる冷え冷えとして
手を擦(こす)りながら一歩外へ出れば
劫火(ごうか)のように天に向かって
燃え上がる家を背にして突っ立っている
 
(1999年02月05日、HPにアップ)
 
 
 


  わかる
 
わかる
という心の励起状態は
少なくともある種の到達感
あるいは多かれ少なかれ感動を伴なう
 
私はバカみたいに
四十代後半になって
つまり全く無益なことだが
高校数学のお勉強を時々していた
論理であるはずの数学においてさえ
例えば二次関数曲線の長さ
X軸回転体の表面積
1‐(1/2)+(1/3)‐(1/4)+…
など高校の時に考えもしなかったことが
解けたとき似たような感じを覚える
 
数学は独特の感覚的理解を要求する
高校レベルを超える数学には
もはや私の感性はついていけない
詩にも感性が必要だが
それもまたつくづく限界を感じる
向き・不向きを分けるセンスというものが
いろいろな分野において要求されるが
信仰だけは人間性以外の
特殊な感性や知的資産を要求しない
 
理解する・わかるということは
その漢字とは裏腹に
多分に情緒的な享受であり
そこから広がっていく心の開放感
を必ず伴なう
そうでないものは単なる辻褄合わせか
無理な思い込みに過ぎない
 
 
  耐える
 
もちろん聖書
キリスト教の聖典は
手を置いたり抱いたりして
お呪(まじな)いをするための
分厚い直方体ではない
生きている間に読むべき書物である
しかし
聖書の一行に縋(すが)って生きている人と
聖書の総てを諳(そら)んじている人の
信仰に優劣が付けられるだろうか
 
いかに聖句を用いたとしても
理を蓄え
学ならしめようとして
論を振りかざすことは
とても順調な耳鳴りのようなものだ
信仰は理でも学でも論でもない
 
あるニュース
人災か天災か忘れた
突然わが子を失った母親が
まるで感情をなくしたような顔で言う
「かなしいけれど神の計画だからしょうがない」
恐らくそう教え込まれてきたのだろうが
唖然!?…
それで本当に納得しているのか
 
ある映画
フランス映画だったと思うが題名は忘れた
妻子を殺された主人公が
礼拝堂のキリスト像を
壁に叩きつけて割ってしまう
そして復讐を果たし終えた主人公は呟く
「もう…何も…」
それは喪失感か
あるいは復讐の空しさか
 
耐える
という愛の行為は
耐えがたい状況における感情
を吐き出すことなしに始まるだろうか
(感情の発散は
 詩の持つ唯一の効用と言われるが
 もちろん詩だけではない)
書くこと・話すこと
何よりも神の前に総てを
背教の念も不信仰も
さらけ出して告白したいと思う
 
神の前で背教の念など以ての外?
背教の念を抱いたことなど全くない
と言えるならそれでよい
しかし少しでも覚えがあるのなら
告白しないことは自分を偽り
神を偽ろうとしていることになる
不義を喜び真理を喜ばないで
真実に蓋をすることになる
 
人前では隠したいこともある
繕(つくろ)わねばならないときもある
喋(しゃべ)りすぎて損をした気持ちにもなる
しかしクリスチャンにとって
人から神へ訴える唯一の手段
祈りの場においては正直でありたいと思う
 
 
  地獄について
 
 地獄については、もっぱら肉体的苦痛を与えられる所として絵画などにも描かれているようです。
 あくまで想像~空想に過ぎません。仮に地獄という所は私にとって一番恥ずかしい・怖いと感じることや、これだけは嫌だと思う場面が延々と繰り返され続く場と考えてみる。だとすると肉体的であっても精神的であっても、これは実に耐え難い所だと思います。
 キリスト教では前世や輪廻という考え方はない。でも敢えて空想してみます。私は何度も自殺したのではないか。つまり自殺者は天寿を全うするまで生まれ変わって人生をやり直させられる。そして同じあるいは似たような試練によって試みられる。
 たとえば自殺して死んで聖なる領域に行くと御使いか誰かに「お前もう??回目だぞ。今度は天寿を全うして来い。天国はお預け。」と宣告される。そのときは何度も自殺したことを自覚できて悔いもする。
 しかし生まれ変わったときには、もうそのことは忘れている。そして未来にどんな試練が待っているかも知らないで、ある時までは元気に育って生きてゆく。そしてまた・・・
 この繰り返しが天寿を全うするまで続くのです。あくまで空想なのですが、それが地獄だと考えると自殺だけはしたくない。それだけは勘弁願いたい。
 

言葉遣いは人によって違うと思いますが・・
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  宿業と運命
 
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり
 
運命は天にあり
宿業は我にあり
 
我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し
 
あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり
 
 運命という言葉は、立ち向かうべき障害という意味で使われることと、予め決まっているどうしようもない定め即ち運命論の運命という意味で使われる場合とがあるように思われる。キリスト教で運命というときには前者の方が多いと思う。
 後者の場合自分の人生の責任をいわれもない第三者に帰するようだし、キリスト教では人知で計りがたい神の計画や神の導きということは言われるが運命論を説いてはいない。
宿業という言葉は仏教用語なのでよくは知らない。前世の因果を考えているわけではない。しかし「目一杯生きてきたけど、こうなるしかなかったよな」というような気持ちをもって自分の人生を振り返ってみるとき運命という言葉は使いたくない。勝手な解釈ではあるが今のところ宿業という言葉が少し好きだ。他に適当な言葉が見つかるといいのだが。
 
 
  光の子
 
 心の真っ直ぐな人、愚直なほど素直な人、教えられたことを受け入れるほかにないほど心寂しい人は幸いである。仮に光の子と呼ぶことにしよう。
 しかし光の子は真っ直ぐであるがゆえに道を誤れば悪い方向へ猪突猛進してしまう危険を持っている。しかもいったん信じてしまうとなかなか改めるのが困難である。今の世にまれな宝を持ちながら導くもの・信じていく過程の善し悪しによって義人ともなり悪人ともなりうるほどに危うい人である。
 人は一生に二度以上親を持つことがある。最初は肉親の親あるいは育ての親である。二度目以降は人生を根底から変えてしまうような感動的体験である。後者はその後の人生を決めてしまうほど大きな影響を持つ。
 原体験ともいえる二度目の出会いを親と呼ぶのは、人は最初に乳を与え抱き育ててくれた肉親を親と認識するのと同じだからである。成長してから苦難や悩みに直面したとき最初に救いの手を差し伸べてくれたものを親と認識するのである。それは宗教であるかもしれず思想であるかもしれず人物であるかもしれない。それらは多かれ少なかれある種のしがらみのようなものを伴っているものである。気をつけなければいけないことは今の世に生きているという現実の中で、その親となるものが必ずしも常に善いものであるとは限らないということである。悪いしがらみに取り込まれる危険は誰にでもある。
 人は無人島にでも住まないかぎり、しがらみというものから自由にはなれない。しかし人生の父として母として自分を取り巻き支配するしがらみを選ぶことはできるかもしれない。よいしがらみに出会った人は幸いであるが、善いしがらみか悪いしがらみかを区別するのはたやすいことではないと思う。そして始めは善いしがらみでも悪くなっていくことだってあるだろう。
大切なことは自分が良心を持った人間・人格であることを常に自覚して内省することであろう。いかなるしがらみの中にいても人間離れしないことを深く強く心に刻み付けておくことである。人間離れした親は人間離れした子を育てる。人間離れしたしがらみは人間離れした命令を下し隷属を要求する。そして光の子はその純粋性のゆえにしばしば誰よりも先にその犠牲になるのである。
三度目の親を持つことがあるとすれば、その出会いは二度目の親との出会い以上のものであるはずだ。それは二度目の親との決別を決心させるほどに人間的な感動を伴う、あるいは否定することのできない、あくまで人間的体験である。物や肉体に起こった奇跡はやがて忘れ去られる。魂に起こる奇跡は決して忘れることはない。
 
 
  天国とは
 
 天国といえば一般に考えられているのは死んでから行くところだろう。雲の上のような世界で恐らく着物は白い衣でエンジェルがひらひらと舞い戦争も争いもない永遠に平和な世界、といったところか。
 聖書によれば主の言葉に「御使いのようなもので」「嫁ぐことも娶ることもない」とある。これと前のイメージを合わせてみると、何とまあ退屈なところでしょう、遊ぶことも働くこともないのかしら、ということになってしまう。
 さらに主の言葉に「天国はあなたがたのただ中にあるのだ」。これでますますわからなくなる。死んでから行くところではないのだろうか。しかし自分たちのただ中にあるといわれても頭は混乱するばかりで、これはまいった。天国は神の国、聖なる領域であるから人の知恵で理解できるような性質のものではないのだ。結論として、わからないとしか言いようがない。
 しかし後者の言葉を考えているうちに、ふと思うのである。洗礼を受けているいないにかかわらず聖書とキリストに関わり今も関わり続けている人は少なくとも一度以上、天国を垣間見ているのではないだろうか。もちろん目で見たのではない。宗教的にいえば霊的体験である。一般的な言い方をすれば「癒された」「慰められた」「励まされた」あるいは去り難い縁のようなものを感じた、といった精神生活上の出来事としての体験である。それは幻覚や超常現象のような人間離れしたものではなく、あくまで人間的な暖かい感性に響くものとして体験されている。だからそれを体験した人は今も聖書を読みイエス・キリストの教えを知りたいと願い続けているのではないだろうか。
天国がどこにあろうと、どんなに理解し難いものであろうと、一度は垣間見ている。今はそんな気持ちで神の国を待ち望んでいるのである。
  
 
(書いたのは1996年、またはそれ以前か)
(2013年10月30日、若干修正)
 

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