ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。


  児戯
 
考えることは児戯に等しく
相づち、うなづき、へつらいを
作って見せる顔を
側面にさえ持っていない
守るもの、保つもの
危うく握っているもの
笑ったような顔で手を開けば
遠く離れて戻らない
しばらくは去りゆく相対の中にいて
やがて顔がうつろになるころ
隠してすまなかった
そんな口も残さずに
入れ代わるようにすうっと
邪魔な影は消えて
後ろの鮮やかな景色が見えてくる
見ることは児戯に等しい
 
(1996年12月17日)
 
 
  あはは
 
もうじき
あはは、あはは
としか言えなくなりそうな気がする
ゆらゆら手振り足振り
あはは、あはは
それで十分な気さえする
それが善いところを死なせてくれる
悪いところがいきり立つのを丸く折ってくれる
そうやって壊れたものを
跡形もなく消してくれる
すべて悔いるものを
すべて
あはは
呆けた邪気のない声
あはは
誰にも聞こえない声
待っているだけ
君はすぐそばにいる
近づいてくる
早く来ておくれ
でもこの懐かしさは昔
君を踏み付けることで
手に入れたもの全て失うまで
きっと訪れてはくれない
今は悔いに悔いて苦しむがいい
もうじき終わる
もうすぐ来てくれる
すぐそばにいる
でもまだ来ていない
まだ僕がいる
 
(1996年12月17日)

 
 
 


  欠落の森
 
欠落の森にいつもあなたはいる
空白の重みに耐えながら
裁かれるために来たかのように
それでも変わらず土は天を仰ぎ
樹木は光を呼吸する
風は生殖器を広げ
岩は頑なに居場所を確かめる
それらは生き物であり
ここでは人が事物なのだ
人が動いて起こるもののために森は騒ぐが
人が何かを起こすためではない
人そのものが事件なのである
そうして人が過ぎ人が果てて時を刻む
あなたはずっといつも森にいる
人の移ろいという季節を見守るために
しかし人はあなたを見ることはない
事物があなたを見るはずはないのだ
事物が周辺を中心にしてしまうから
森を見れば木々は少なく空が丸見えで
生き物を見れば枯れていて軽いからと
土の上の枝を岩に投げつける
実はそうして気づかぬまま
人は投げ飛ばされ
欠落は深くなり
重くなるばかりの空白を
事物の人と生き物の森のために
支え続けるあなたこそ
何ものにも何ものとも
欠落や空白とさえ
この森に一刹那吹く
息のような小さな風ほどにも
認められることのないまま
故なく裁かれ続けるのである
 
(2000年10月29日)
 
 
  青春と反骨
 
青春
青い 春
これは明らかに老人臭さが
昔を懐かしむ名だ
青は未熟
春は陽気
青春は未熟に浮かれる
 
青春
青い春
これは明らかに生きる欲求に満ち溢れた
人の季節の名だ
青は新芽
春は芽吹き
青春は新しく活(い)きる
 
肉体はとっくの昔
青春の嗅覚も色も失っているが
懐(ふところ)のどこかに
欠片(かけら)のように熱(ほとぼり)のように
否(いや)だと言える尖端を欲しがっている
肉はなくても血の通う骨はありたいと
糸屑のように温もりのように
関わりの緒(いとぐち)を求めている
 
(2000年10月29日)
 
 
 
 


  々々破綻
 
無々と考えてあぐねて
捏(こ)ねた駄々が残るだけなら
むしろ念々に生きて
何も望まず
何も諦めず
虚々と鳴く鳥のように
何も信じず
何も疑わず
否々と猫のように
しかし叶わぬこと
すべてを疑い
すべてを信じ
すべてを諦め
すべてを望み
空転する日々
昏倒する年々は千々に綻び
離々と破れてゆくばかり
もはや何も
空々と痩せ犬のように過ぎ去って
吼(ほ)え哮(たけ)ることも出来ないまま
 
(2000年09月20日)
 
 
  老いたる男
 

独り暮らしの老いた男は
もはや写真にさえ写らないのだ
彼だけしか使わないカメラによって
撮られた景色に彼が
いるのは確かなのだが
彼がシャッターを切る限り
彼は決して写らないのだった
写真は存在でも不在でもない
 

トイレで放屁二発
近所の犬が二声吠(ほ)える
フ、何吠えてやがる
ここから聞こえるのかな
と苦笑した後
はたと思い出したように
今日は満月だったかと
狼男は外に出て
欠けた牙の歯肉炎を
空に向かって剥(む)き出すのだった
ぽつりぽつり雨粒が顔に落ちて
頬を伝って流れていった
 
(2000年10月10日)

 


  ばんしゅう
 
ふすまのこうずいにくらがりのせってんをすべらせておしだされるようにつづくなみきみちのあきのおわりはのこりのはっぱのむれのさきからおれそうにわかれてそらへちらされているわかれのあいさつをひとにしらせずほどうのだんさにさらさらとしるしていくしゅうせいをもってあれたすすきのにわからうみまでのしょぐうをきめてまわるせんれんされたこうてつのしぐさをたじろぎもせずまもるけっぺきさをしめしてまよういきものたちをろじょうにおいてかげというかげをたいようのつめたさになごませながらそのいちぶにばしょをあたえてわたしをたたせどうするかまかせたままじつはしたたかにときおりすうっとはりをぬくようにきょうのいのちをあしたのかぜにほそくひろげておわりのないじゅみょうをかれおちばにみせかけている
 
(1996年11月30日)
 
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  晩秋
 
襖の洪水に暗がりの接点を滑らせて押し出されるように続く並木道の秋の終わりは残りの葉っぱの群れの先から折れそうに分かれて空へ散らされている別れの挨拶を人に知らせず歩道の段差にさらさらと記していく習性をもって荒れたススキの庭から海までの処遇を決めてまわる洗練された鋼鉄の仕草をたじろぎもせず守る潔癖さを示して迷う生き物たちを路上に置いて影という影を太陽の冷たさに和ませながらその一部に場所を与えて私を立たせどうするか任せたまま実は強かに時折すうっと針を抜くように今日の命を明日の風に細く広げて終わりのない寿命を枯れ落ち葉に見せかけている
 
※「葉」を「は」ではなく「はっぱ」、等々、
句読点なしの平仮名で、どれくらい書けるかを試した徒労です。
 
 
  好きだよ
 
ああ
好きだよ
 
どれくらい?
 

弓なりに
なるくらい
 
どこが?
 
しずく 落ちて
めが ふきだすような
ようなとこ
 
いつから?
 
目を そむけても
見える から
ときから
 
いっしょにいたい?
 
ずっと
ずっと
よく 見て
うまく こなれたら
出したい
 
(96年、またはそれ以前)
 
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「詩が好きだよ」ということで・・・?
 
 


  旧約聖書について
 
なんでこんなに殺すかな・・・
と読んでいて思うことがある
イスラエル人に
異民族をたくさん殺させ
イスラエル人も背けば殺す
恐るべき大量殺戮の神様?
 
「主を恐れよ」で貫かれている
という考え方も出来ようが
少し別の見方をしてみる
 
荒地の多い陸続きの中東の地に
多民族が住んでおれば
領土を巡る戦争は
元々絶えなかったのだろう
その残酷さと
何より
それが無秩序であることに
耐えられない人たちがいて
創世神話と歴史を
唯一神信仰の立場から
預言書その他も含めて
解釈したものが旧約聖書
そうやって
警鐘を鳴らさざるを得なかった
つまり
ここは神話
ここは歴史と分けるのではなく
聖書全体が壮大な神話
 
 誰が史実を正確に知りえようか
 また正確な史実を知らなければ
 信仰は生まれないと誰が言えよう
 
その神話に
そのように書かざるを得なかった
著者たちのインスピレーション
そして
真実を見出すかどうかは
個人の信教の自由ではあるが
 
大量殺戮者は
つまるところ
人間に他ならない
 
そういう恐ろしき人間というもの
それゆえ
それ以上に最高の
恐るべき神を想い慕い
信じて頼みとするしかなかったから
信仰が生まれ
神話が生まれてきたのだろうと
 
(2007年11月25日)
 

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