その時
その時は理由もなく
見捨てられた路地裏の扉を開く
そうして傾いた壁と影の間に
時間を泳ぐ蛍火を
その時は条件もなく
見放された旅に行く先を告げる
そうして寺院の古き呼び名と敷石の間に
金箔よりも薄い宇宙の星を
写す 刻み込むなら今 と
何故なら決して
与えはしない から
路地は長く続かず
旅人はいずれ去り
再び見捨てられ見放されるとき
幻ではなかったと
うちに鳴り響く鐘の音に刻もうとしても
その時はすでに過ぎ去っている
あらゆるレンズは役に立たない
共鳴しない響きは振幅を失う
果てしない遠景を前に呆然と残される
二度とない約束を破った後のように
(1997年4月29日)
テレビをつけようとして
テレビをつけようとする
やめる
しばらくしてまたテレビを
しかしやめる
特に見たい番組があるわけではないが
テレビをつけようとする
そして何故かやめる
そして何故か正座している
昔々叱られるのを待っていたときのように
(1997年5月4日)
泥の視線
空を向いて笑った
踊るように泣いて笑った
波動は発条(ぜんまい)よりも古く
破り捨てた画用紙の佇まいで
見下ろされたものが次々と
潰されてゆく地平で
虹の滴(しずく)を浮かべては沈む
泥の視線をこよなく愛した
(1997年5月11日)