ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。


  悪魔の臨終
 
軽い手帳はめくられた
涙のように
パラパラと
安い花は乾いて散った
時計を手にした信仰が
秒針のように優しくうなずいて
病者を見つめ
死者を送るとき
哀れみという哀れみが
牢獄のように彼を囲んだとき
そこにいる誰もが知らないところで
とてつもなく激しい嘔吐が起こり
病者は墓穴を求め
はじけた煙のように消え失せた
かわりに年老いた天使が目覚めて言う
「あなたがたが安い施しをしたので
あなたがたが天国を約束されているなら
地獄へ落ちたいと彼は望んだ」
 
 
  感動
 
山の頂に立って
そこから空を飛べとは言わないし
山を移せとも言わないが
もう少し感動させてくれないか
目頭を焼いて楽園を追われ
いや捨てて日没へ去れと言うのか
選民を押し潰した被愛の傀儡よ
伝わらないことを誰のせいにする
読み方が悪い
書き方が悪いはよしてくれ
賛美も聞き飽きた 十字架を
重い荷物にたとえる愚は
異言を放つ教祖様方
溢れるほどのブドウ酒
産みの苦しみに快感を束ね
満腹の上に飽食を重ね
発酵しすぎた唇が
開く赤い闇が
パンのみにて生きるものにあらずと
ずいぶん酢を噛んでいる
異臭の迷路から
生まれた詩の永遠が
死の永遠へ昇天する刹那
信仰は迷いさまよい漂いただ酔いながら
久しぶりに口ずさむ
古い讃美歌に泣いて
復古、復古と愛人を呼ぶ
素直すぎる狂気の沙汰だ
 
 
  敬虔な
 
ケーケンなクリスチャンが
祈りをささげる場所になじめず
憐れみの眼差しに胸がいっぱいで
胸くそもいっぱいで
悟らない下等動物は
居場所を求めて
いい場所を求めて
あとずさりを始めた
ここでもない
そこでもない
気がついてみると後ろは崖で
もうあとずさりはできない
まわりには誰もいなかった
あざける者もいなかった
風がヒューヒュー吹いていなかった
教会はどこにあるのか
十字架はどこにあるのか
悟らない下等動物は
陰険なクリスチャンになって
祈りをささげた
ああこんなにも人畜無害であるのに
 
 
  真実
 
宗教人のあわれみは
ときどき気色が悪かったりするので
やめておいたつもりの男が
自分を憐れんだり憎んだりするので
きっと地球は丸いのだなと
あくびをして考えてみるに
 
子供を戦場に送って死なせたり
科学者を殺したりした中世の教会を経て
まだ教会というのがあるのは
昔のことを悪者にして
あれらは間違っていて
あれらは悪かったと
言えるおかげさまだったりしている
 
地球が太陽のまわりを回っていることは
今は誰でも知っているけれど
相変らず日が昇ると言い日が沈むと言っている
感覚というものから
科学はどんどん遠くなっていく
 
宗教人の求める真実が
遠くなりませんように
軽々しく人を憐れんだり
憎んだりするときに
お前が間違っていて
お前が悪いと言ってもらえる
お叱りと憐れみがそばにいて下さいますように
 
面倒は嫌いなので
青信号を
緑信号と呼ばなくてすみますように
急に地平線や水平線がまるくなったり
地球が昇ったり沈んだりしませんように
 


  聖なるあした
 
明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに
 
聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか
 
 
 ユダ
 
私はここにみる
誰よりも激しく主を裏切り
そして誰よりも激しく悔いて
悔いて改めるすべを持たず
主の復活を知らないまま
許されることを求めようもなく
自らを許さず
主に関わった様々な人々の中で
ただ一人自ら命を絶った男を
 
私はここに想う
主をユダヤの救い主と望んだがゆえに
イザヤに示された
茨の道を歩もうとされた主を
誰よりもよく知り、
激しく愛したがゆえに
誰よりも激しく憎んだ男を
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているものである。
と考えてみる必要があろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
  自殺した少女
 
やわらかい羽毛の
あたたかいベッドの上で
少女は目を覚ました
そばに白い衣を身にまとった
白髪の老人が
穏やかな表情で立っていた
「ここはどこですか
天国なのですか」と
少女がたずねる前に
大きなディスプレイの画面に
映し出された光景は
家族の狂ったように泣き叫ぶ様子
恋人が悲しみのあまり酒を飲み
暴走している姿
そして自らの惨たらしい死体
些細な誤解が生んだ
少女の自殺がもたらす数々の悲劇・・・!
誰にも秘密にしていた見苦しい思い出
画面は延々と続く
少女は泣き出して言った
「お願いです
どうか私を地獄へ落として下さい!」
老人は哀しげな目で答えた
「娘よ
気の毒だが
ここが地獄なのだ」
 


  聴診器の幻想
 
悔いながら懐かしみ
死にそうで生きていけそうで
ここまでは大した心臓で
逆流の雑音を奏でる聴診器
は既に昔の熱(ほとぼり)のように
胸を叩く幻想を傍らに
後ろ向きの赤子と
笑う喀痰の老人を同時に記帳して
費え去る収支のページをめくり
破れた扇子を広げ
無知なる未知に語り続ける
初めて字を書いたときの
初めて言葉を失ったときの
初めて忘れたと言ったときの
肉体と精神の継続が
幻想でも現実でもなくなるまで
内緒話の途切れ間を
管のカルテに送り続ける
 
(1998年11月4日、HPにアップ)
 
 
  風の笛         戸田聡
 
ほとんど風のない日だった
ふと一吹きの風の中に
笛の音(ね)を聞いたような気がした
突き当たりの角をいつ曲がってきたのか
風に押されて来たかのように
一人のまだ幼い男の子が立っていた
幼年時の私の顔には似ていない
涼しげな顔が少し蒼ざめて
突き当たりに向かって歩いていく私の
手を軽く握って
親子でもないのに手をつないで
曲がり角に差し掛かった
ふと一吹きの風
笛の音を聞いたような気がした
手の中の小さな手も
その子もいなかった
私は風とは逆の方へ歩き出していた
もう戻れないと思った
笛を吹いたのは君だね
踊らなかったのは私だ
 
(1998年11月4日、HPにアップ)
 
 
  虹色         戸田聡
 
貝殻の内に眠っていた
シャボンに乗って遊んでいた
オイル溜まりに淀んでいた
油膜の表で歪(ゆが)んでいた
テレビの画面にチラついていた
眼の内外で視線を鈍らせた

お空の虹
渡らせてくれと泣いてみるか
 
(1998年12月14日、HPにアップ)
 
 
  無表情        戸田聡
 
筋肉という筋肉が
弛緩してしまったのか
硬直してしまったのか
何も語らず
動かない顔は
架空のように
時間と向き合いながら
刻々の侵入も喪失も
隠してしまった
顔の裏側の曲面に
だからきっと血みどろだ
 
(1998年12月14日、HPにアップ)
 


  接点          戸田聡
 
無限の一部でしかない有限
無限に成り得ない有限その
無限と有限が等号によって結ばれている
0・九九九・・・=一
限りなく一に近いけれども
決して一には成らないのではないか
でも一を三(あるいは九)で割って
再び三(あるいは九)を掛ければよい
納得せざるを得ない
数少ない無限と有限の接点のようで
しかし曲線は
限りなく短い直線の無限の連なりだし
また或る時間
長かろうと短かろうと
たとえば余命や
次から次に現在となった途端
過去となってゆく限りなく近い未来でさえ
限りなく短い時間の無限の連なりだ
いたるところにある無限と有限の接点
一×(一/∞)×∞
どちらへ転ぶか
外へ出て眺めれば改めて
あらゆるものが無限と接している
 
(1998年7月25日、HPにアップ)
 
 
  置き去りにした課題        戸田聡
 
算数で割り算を習った
小数まで計算を進めると
しばしば無限循環小数になる
切りがないとやめる
一つ置き忘れていた
逆に無限循環小数を分数に直す方法と証明
循環する数を1組だけ
整数として取り出して分子に置き
分母には同じ数だけ9を並べればよい
数学で証明できる
算数で何桁でも自然数が3あるいは9で
割り切れるかどうか調べるには
各桁の数を足した数が3あるいは9で
割り切れるかどうかを調べればよい
という便利な方法を教えられた
また一つ置き忘れていた
何故そうなるのか
数学で十進法を十のn乗を使って表す
十のn乗から1を引けば9が並ぶ数になる
9が並ぶ数は3でも9でも割り切れる
9と+1の部分に分ければ証明できる
数学で証明できる
置き去りにした課題がいっぱいある
切りがないとやめてしまったこと
教えられたまま当たり前のように
思い込み覚えていたり信じていること
長じて大方その価値を問い直すのだが
やさしさで傷つけたり
思いやりで怒りを買ったり
置き去りにした課題は一生を費やしても
解決できないほどいっぱいあって
それがどんな課題であるかも教えないまま
気付かれるのを待っている
算数を数学で証明する
ほど簡単ではないぞ
とでも言いたげに
 
(1998年10月14日、HPにアップ)
 
 
  なくてもいい時間        戸田聡
 
なくてもいい時間を過ごしている
約三億匹の精子の中から
ただ一匹だけが卵子と結ばれ
私が生まれたのに
なくてもいい時間を過ごしている
何となく残され死んだ
約三億(マイナス一匹)匹の精子から
恨めしそうに睨まれているような・・・
素っ気無く答えてみる
何なら譲ってあげてもよかったんだよ
でも私に生(な)る卵子も精子も
そのとき意識も意志も無かったのだから
しようがないじゃないか
私がいてもいなくても世界は変わらない
などという大袈裟な話を持ち出さなくても
(もちろん変わらないさ)
なくてもいい時間を過ごしている
誰も自分の必要性を
理解して生まれてきたわけじゃない
生まれた覚えはない
だがそれは生まれたときのことだ
もう大人だ必要も必然も
理解していていいはずだ
なくてもいい時間
お返ししますと言って返せるものでもない
これからもやって来るに違いない
しかしでは私にとって
なくてはならない時間とは
なくてはならなかった時間とは
なくてはならないであろう時間とは
精子から世界まで
なくてはならない時間とは
なくてもいい時間とは
また考えあぐねて過ごしている
なくてもいい時間
あってはいけないか
 
(1998年10月14日、HPにアップ)
 
 
  頂点を極める者       戸田聡
 
山頂は常に其処(そこ)から
上には登れないことを示しているのだが
登りつめた者は
まるで空までも征服したかのように
誇らしげに四方を見渡している
高い高い大気と吹き上げてくる風は
なかなか下りようとしない者たちの
有頂天の背後から少しずつ
密(ひそ)やかに帰り道を隠してゆく
 
(1998年10月22日、HPにアップ)
 


  罪のらくだ      
 
「右の頬を打たれたら・・・」
左の頬をぶん殴ってやる
か逃げるだろう
「みだらな思いで女を見た者はすでに姦淫を・・・」
みだらな思いで女を見たことのない者は
性欲の異常か病気だろう
「敵を愛し・・・」
本当に敵と思ったら
愛せるはずはないものを
「我らに罪を犯すものを我らが許すごとく・・・」
許せることもあれば
許せないこともある
許すべきではないと思うことさえある
許したつもりの心の裏側に
隠された軽蔑、あばかれるごとく・・・
 
主よ、あなたの教えを守らなければ
罪人なのでしょうか
御国へ至る道はないのでしょうか
 
主よ、許されて御国へ至る道を知らしめたまえ
まことに私は罪人です
繰り返し繰り返し
主の教えを破るばかりか
それ以上の罪を犯し
さほど金持ちではありませんが
針の穴に向かって突進する
愚かなラクダ
主よ、あなたに許されるより救いはなく
小さな針の前で途方に暮れて
とうとう針を飲み込んで
毒を飲み込んで、瀕死の
みすぼらしいラクダ
あるいはヒトです
 
 
  イエスの教え
 
 イエス・キリストの教えの中にある到底守れそうにない、無理難題としか思えないもの。前にも述べたが代表的な三つの教えを再びあげてみる。
一、右の頬を打たれたら左の頬を出せ。
二、女を情欲の目で見たものは既に姦淫を犯したのである。
三、敵を愛し、敵のために祈れ。
 一は心の準備ができていたら、ある程度までは耐えられる人もいるかもしれない。限度はあるだろう。二は十戒の姦淫の拡大解釈と思うが、正常な性欲を持っている男にはまず無理だろう。私はその方面は恵まれない者であったが性欲自体はごくノーマルだと思う。欲求不満がようやく枯れつつあるが、それでもやはり無理難題である。十戒の解釈ならば試しに別の勝手な拡大解釈をしてみたらどうだろう。「人に悪意や殺意を抱いたものは既に盗み人をむさぼり殺したのである」と。三になると死を覚悟しなければならない。これがまず難しいことである。守れるクリスチャンがどれだけいるだろうか。私はもちろん自信がない。さらにそこまでしてこれを守ることが他の人のためになるだろうか。この教えを守った人がいたとして彼が見事に殉教したあとで敵はさらに愛する人々を数限りなく殺すかもしれないのである。極言すればイエスの教えを完全に守れる人はイエス御自身だけではないかとさえ思うのである。
 教えを守れる人がいるとすれば尊敬に値するし実際殉教した人たちがいるわけだから教えを無視することはできない。しかし教えを守れない人は天国に行けないのであろうか。イエスは罪を知る者には許しと癒しを与えた。イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人の話を思い出す。犯罪人でさえ当然の報いだと罪を認め救いを求めた者には「あなたは今日私と一緒にパラダイスにいるであろう」と言われたキリスト・イエスであるのに何故あのような厳しいことを教えられるのだろう。
 イエス・キリストはやさしかっただけではなかった。戒め・律法を守っているがゆえに罪を認めない者には徹底して厳しかった。このことと三つの教えを考える。あの厳しい教えによってキリスト・イエスが最も言いたかったのは掟ではなく戒めを守るよう示すことでもない。あの十戒よりも厳しい教えを守れないものが殆どであることは百も承知で言われている。そして教えるときにはパリサイ(ファリサイ)人や律法学者がイエスの視野の中に常に敵対してくる相手としてあったと思う。イエス・キリストは、律法を守るか守らないかで罪か義かを判断しようとする当時の風潮と形式だけの信仰にここでも挑戦している。律法を守っているから罪はないという考えには更に到底守れない教えを説くことによって、結局は罪のない者・罪を免れる者は一人もいないということを言われていたのではないか。
 罪を知り、悔い改める者が天国へ行ける。この教えはヨハネに通じる。しかし悔い改めたら改まるのであろうか、もはや罪を犯さなくなるであろうか。目覚めて勇敢な使徒となった人たちは別として、私のように悔いても悔いても罪を犯し続ける人間もまた憐れむべき罪人として見抜かれて主イエスの視野の中に入っていたと思いたい。罪と告白と悔い改め、その繰り返しの中でキリストの前に悲しみと喜びをさらけ出しながらともに歩む人間を求めておられたし求めておられるように思えてならないのである。
 
(書いたのは90年代だと思う・・)
(2014年09月18日、フォントなど、若干修正加筆)
現時点での私の解釈としては、キリストの教えは結局のところ、
  罪なき者は一人もいない
ということではないか・・と思っています。 

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