ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。


  惑いの台詞
 
わかっているさ
が繙(ひもと)こうとしているのは
解けない帙(ちつ)の夥(おびただ)しい中味
 
勝手だろ
が映し出す姿は
儘(まま)ならぬこの世の物事に
圧倒されている詰めの甘い自分
 
ほっといてくれ
が教えることは
ほっとかれて為し得る事の乏しさ
 
詰まるところの惑い
まだ団居(まどい)を求めているか
中身のある談笑を信じたいか
 
(2002年09月16日)
 
 
  弱虫
 
明るく見えても
穏やかに見えても
やさしそうに見えていても
ときおり激しさや険しさや苦悩を覗かせるのは
押し潰されそうになりながら
消え入りそうになりながら
懸命に重たいものを支えているのかもしれない
常にプラスの方を向いていなければ
常に前向きでいなければ生きられぬ
というほどに
だとすれば
暗さを暗いまま
激しさを激しいまま
腐肉を腐肉のまま押し出してしまうのは
すでに認めざるを得ないのだが 改めて
不治の弱虫だと
ある日ふるえるように 思う
 
(2002年09月27日)
 
 
 
 


  膨らむもの
 
日常から膨(ふく)らむものがある
過去から膨らむものもある
未来から膨らむものはない
それは未来に任(まか)されている
未来に向かって膨らむもの
それは現在に任されている
 
(1999年07月29日)
 
 
  眠りの傾斜
 
今にも折れそうな枝に吊(つる)した
虚脱の揺籃(ゆりかご)に
身を委(ゆだ)ねて眠ろうとする
永久(とわ)
果てもないエロスの海は
まだ跳ねている夢でいっぱい
霞(かすみ)
手繰(たぐ)る十進法の指を折り
待ち侘(わ)びて怠(だる)い
漠(ばく)
粉々に崩れ落ちた楼閣(ろうかく)
残骸が潤いを求める
ときに休息の伽(とぎ)の傾き
海と揺籃
 
(1999年08月03日)
 
 
  ふくらむ陰と個
 
雨に濡れ風に飛ばされ日に焼かれてもなお
個は個でしかあり得ないのに
ふくらみすぎた陰(かげ)の中に
ちっぽけな影が没してゆく
個は集まり固まり
個々は要素の数になってゆく
にもかかわらず影は
ふくらみすぎた陰の中へ向かう
埋(う)もれてゆく虚像として
しかし当然そこには影の存在する場はない
したがって凍結も燃焼もできないまま
伝えようとする目論見(もくろみ)は
陰という巨大な虚像の中で
鏡の枠(わく)に括(くく)られた自分が
常に自分とは違うように
すでに語るに落ちて足りない
だから個よ
たったひとつの
あまりにも限られた真実でさえ
もはや死ぬことでしか伝えられない
しかし個よ
しかも死をもってしても伝えられない
さらに自(みずか)ら死を選ぶことは
自らに纏(まつ)わる真偽
と虚実の伝達をも
ともに殺してしまうことに他ならない
 
(1999年08月05日)
 


  知らない町
 
昔、駆けていった子供らが
大人の顔で帰ってくる
知らない町へ行ったらしい
蝶々追いかけていた子供らが
花を咲かせておいた
その一輪を
その匂いを
また蝶々が追いかける
知らない蝶々は
区別がつかない
知らない子供らは
知らない大人になる
花を知らない大人たち
匂いをかいでごらんなさい
においに覚えがないのなら
今ここは知らない町です
 
 
  初夏
 
夏の光めがけて
手元がくるった
水があふれる
きらきらと
小さく跳ねる水の光
閉じこめられた夏
 
 
  夕日と私
 
水平線のかなたに沈んでゆく夕日
太陽から見れば
地球の輪郭の上に
最初から見えない私
私は夕日と呼んでいる
夕日は名付けない 何も
 
人が物を表す
物が人を表す
 
やがて海は去り
道は流れ
街は近づき
光が増え
減って
いきなり
闇を脅かすものが侵入する
私の部屋だ
部屋の私だ
一日の終わりだ
誰のだ
 


  夜景
 
そこに集(つど)う
幾千幾万の人影を
完璧に無視できる距離において
街の灯を愛でる人影は佇(た?)つ
 
 
  大火の記憶
 
真夜中遠く離れた家から眺めていた
炎が町を覆い尽くし
巨大な生き物のように
うごめく炎の先から炎が分かれ
さらに火が分かれて舞い散っていた
数日経って行ってみると
道路が瓦礫を整然と分けていて
自分が町のどの辺にいるか
わからないほど見通しがよくなっていた
 
 
  飛行の記憶
 
初めて乗った飛行機はセスナで
飛行場開設記念の遊覧飛行
あまり高くは飛ばず雲の下
模型のようではあったが
道路や家がはっきり見えたのに
不思議と人の姿が
一人も目に映らなかったことを覚えている
 
 
  他人事
 
車で里から戻る途中
渋滞に巻き込まれて苛々していた
帰ってからテレビの中で
車が列をつくって
何か順番を待っていた
 
(以上4つ:1999年01月10日)
 


  朝の空
 
まだ寒い春の朝まで
根を詰めても
孤独の論理は情けない
隘路(あいろ)はどこに開かれるか
空は雲に覆われているが
雲が雲だと分かるのは
光が満ちているということだ
春の便りもちらほら
固陋(ころう)の身にも舞い降りる
光が光だと分かるのは
目が見えるからではなく
心が開かれているからだろう
小さく開かれた
心の隙間を満たす分だけの
光は常に与えられていて
底知れぬ闇をうっすらと照らす
闇の底が見えるわけではないが
闇が闇だと分かるのは
光のプロセスが幾筋か
さらなる徒労への兆しとして
朝を告げているからだろう
時は今
今は思い
肩をすぼめて見上げれば
日は隠されているが
地の上には果てしなく
空は覆われているが
雲の上には果てしなく
天と点
昇天の日には会えますか
 
 
  死ぬ気・死んだ気
 
「死ぬ気になれば
 何でもできるじゃないか」
本当に死ぬ気になったら
死ぬことしかできないのではないか
他に何もできないと感じるから
死ぬ気になってしまうのではないのか
 
「死んだ気になれば
 何だってできるじゃないか」
「死んだ気」とは何なのか
誰が死んだ気になれるというのか
死んだ人だけではないか・・・
いや死んだ後に「死んだ気」など
残り得るのか・・・そんなこと
誰にも分からないではないか
それに死んだ後に
「死んだ気」になったところで
意味がないではないか
 
この二つの言葉は
本当に「死ぬ気になる」前の
まだ「死」について
考えることのできる人の言い分
またそういう人に対する言い分
と言うべきだろう
だから
「死ぬ気」に捕まってしまう前に
「逆境の日には考えよ」
(伝道の書七章十四節)
 

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