ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。


  死ぬこと殺すこと・猫
 
夜の街の二車線のバイパス
猫が道を渡り始めた
途中で気づいたらしい
私がオートバイで近づきつつあった
猫は戻ろうとした
私はその反対方向に避(よ)けようとした
すると猫は急に私と同じ方向に
猫も避けたつもりだったのか
ブレーキは間に合わない
さらに避けたが猫もすうっと寄ってきて
私の足の爪先に鈍い衝撃
かろうじてオートバイの車輪は
猫を轢(ひ)かずに済んだが
私の足が猫の頭を直撃した
力が抜けたようにスピードを緩めて
バックミラー
猫は倒れていたが
徐(おもむろ)に立って
また道を渡り始めた
後ろから大型トラックが近づきつつあった
 
今更どうなるものでもなかったが
翌日その付近を探してみたものだ
血痕も肉片も猫の屍も見つからなかった
昨夜の猫の姿も分からなかった
 
(1998年6月17日、HPにアップ)
(猫は、しばしば変な動きをします)
 
 
  スポンジ
 
すかすかの空っぽの穴だらけ
穴と穴のぼろぼろの
隔壁だけで出来たような
スポンジ
この歳で記憶も能力も
スポンジでは救い難いが
もし老境というものがあったら
スポンジはわるくない
灰白色の粉(こ)を吹いたような岩
の頑固さは好まないし
暗赤色のどろどろの腐肉の上に
肥大した口だけ生き残りました
と周(まわ)りを皺(しわ)だらけにして
粘性の臭い唾液を撒(ま)き散らし
世間にしがみつく老醜はもっと嫌だ
スッポンでもスッポンポンでもなく
海綿でもなく
スポンジ
という響きのまま
スポンジになって
くしゃくしゃにされても
ずぶ濡れになっても
やわらかい弾性でゆっくり乾いて
台所か風呂場の隅(すみ)に
にんまりと坐(すわ)っていたい
 
(1999年01月10日、HPにアップ)
 
 
  メッキは剥がれて
 
板よりも紙よりも細胞膜よりも
薄いスチールをメッキして
それに塩水をかけてゆく
成長と老化
剥(は)がれてゆくメッキの中は
恐らく醜(みにく)く見にくい
好きになれない自分のために
メッキは錆びて剥がれて
ボロボロになりながら
時々そっと中身を垣間(かいま)見せる
人を愛するためには
まず自分を好きにならなければ
と多くの人が言う
でもどうしてもやってしまうなら
自己嫌悪
それは愛すべき高さを持っている
 
(1999年03月15日、HPにアップ)
 
 
 


  ある人に
 
引くに引けない柵(しがらみ)の中で
無理に無理を重ねて働いて
過労で倒れることが
予め定められた神の御旨であるのなら
私のサタンは退き
人のことを思わず神のことを思い
あなたが天に積むであろう宝
に想いを馳せるでありましょう
しかし私は生きている限り人であり
しかも不信仰な怠け者であり
人の思いから離れられません
あなたのことについて私は
まだ悟ることができません
だから私は人として
あなたの健康を祈るばかり
 
引きっぱなしで籠もる明け暮れの中で
惰眠と不眠を重ねて貪って
日毎の目覚めに仰天することが
私であるなら
祈るがいい
信仰の薄い私よ
しるしも証(あかし)も導きも悟らぬ者よ
人の健康を祈りながら
自らの不信仰告白によって
失うであろう数多(あまた)のもの
に気づくとき私の不幸とは
比べものにならない
沈黙のうちに愛されて
なお愛すべき栄光の
無償の賜物を知るだろう
 
 
  イザヤ書53
 
これは…まさに
キリストそのものではないか
これこそ預言の中の予言
先見とも言うべきものではないか
と驚嘆する
 
参考書はあっさりと述べている
イエス様もこの預言書については
当然すでに読んでおられたはずです
あれ?…そうか…そうだな…
なんだそういうことか
 
まてよ…と考える
イザヤ書を読んでおられたとしても
その通りに実行すること
成就させるということが
いかに苦しく困難な茨の道であるか
それに主イエスの偉大さは
死に様だけではなかったはず
癒し・慰め・知恵と知識・預言…
それゆえ世々の聖徒も今の信徒も
(私のような者でさえ)
主イエス・キリストと仰ぎ
その名によって祈り願い
唯一の希望・頼み・避け所・
拠り所としているではないか
 
さらに驚嘆する
イスラエル人が
期待していたメシアは
ダビデの再来ではなかったか
つまり武勇と知略によって
イスラエル統一国家を再興する
政治的宗教指導者
なのに預言者イザヤは
虐げられた末の
弱気でもあるかのように
屠(ほふ)り場に引かれてゆく小羊
の道を説いている
 
もしメシアがダビデのように現れ
敵を粉砕し王国を成していたなら
(少なくとも私という)
クリスチャンは今この世にいない
 
神の御旨によって
侮られ捨てられ打たれ
砕かれる悲しみの人を
敢えて預言したイザヤ
それを成就し
人の不義と罪を負われ許される
主イエス・キリストゆえに
主の打たれた傷によって
癒された人々の一人として…
 
今一本の蝋燭(ろうそく)を灯し
小皿に立てて祈るだけの
クリスマスを過ごす
(私という)
クリスチャンの端くれがいる
 
(いつかのクリスマスに書いたもの)
 
 
  聖霊のとき
 
聖霊というものについて
眼を閉じて祈り求めながら
独り静かに想いに耽っていた
 
いかなる悪意もなく
憎しみも嫉妬も消える
裸体の体さえない忘我と
恍惚の安らぎ
至上の優しさに内も外も溢れており
もはや痛みも苦しみもなく
負うべき何物もなく
そのままで満たされている
ここは既に聖なる領域なのか
聖霊が満ちているのか
独りなのに独りだとは思えない
眼を開ければ御国にいるかのような
いかなる富をもってしても
買うことのできない
至福のとき
 
この想いのうちに
どこにいたか
思い浮かべてしまったのは
磔刑に打ち付けられて
血まみれの死を迎える姿なのだ
 
最初で最後の
最も大いなる艱難のとき
最初で最後の
最も聖なる時が訪れる
 
(※ 信仰というものを考えるとき、あるいは求めるとき、
 つまるところ、殉教ではなくても、自分が死ぬときを考えている)
 
 
  旧約・イザヤ・二十一~二十二
 
罪のために許されぬ者よ
主人の家の恥となり
死に失せて車だけが残る者よ
家の鍵を失(うしな)う者よ
開(あ)けて閉じることなく
閉じて開(ひら)くことはない
腰には産みの苦しみ臨月のような痛み
屈(かが)んで聞くに堪(た)えず
見るに堪えない
憧れた黄昏(たそがれ)は
もはや戦(おのの)きとなった
頭を禿(かぶろ)にし
荒布(あらぬの)を纏(まと)うがよい
かつて抜いた剣を捨て
張った弓を捨てて逃げて来るがよい
夜回りよ今は夜の何時(なんどき)ですか
夜回りよ今は夜の何時ですか
朝が来ます夜もまた来ます
聞きたければまた聞きなさい
また来なさい
 
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※ 聖書をモチーフにし題名にし引用した作品は、必ずしも
聖書のその箇所の内容と一致することを目的とはしていません。
 


「だまらっしゃい」という題名について:
信仰をしばしば人間の理屈で程よく辻褄を合わせようとしてしまう
自分に対して発した一喝。信仰は理屈ではないですから。
 
  だまらっしゃい
 
全てを明け渡して委ね自分で自分に苦を強いることをやめるという考え方も
ある程度分かります。
聖霊体験については直接理解できているとは言い難いが目指す理想については共感できるところもあります。
しかしそれは基本的にイエスを主・キリストと仰いでいるという共通の素地があり加えて幾度かメールや投稿を拝読した上でお互いの信仰(観)を尊重するという認識の上に立てるようになって初めて可能になることです。
キリスト教初めてという求道者や一般の人に対して同じような言い方をすれば
前者は「頑張ってはいけないのですか?」
後者は「自我に死んで?土の器になって?聖霊様に考え行動していただく?カルトじゃないの?」ということにもなりかねませんから
そういう人には聖句の引用などから始め言葉遣いにはそれなりの配慮が必要であることは言うまでもありません。
つまり信仰観について話すとき我々の言葉は相当に特殊な言語になっている。
さりげない言葉が、ある人には特別な意味を持つことがある。
一般には馴染みのない言葉が当然のように使われたりしている。
しかもそういう特殊な言語と普通の日常会話的言語が殆ど意識されずに混ざって使われているという現状を自覚しておくことが必要でしょう。
ですから説明や返事を書くときには相手の立場を考え尊重し自分が納得できる範囲で相手にも分かりやすく…
 
ええい、だまらっしゃい!
あ、失礼。これは冗談です。というより私の頭に向かって怒鳴りました。
……………私は鬱っ気(け)もシゾっ気(統合失調症の傾向)もあって幻覚体験もありますが、今特に幻聴が聞こえたわけではありません。
私は詩のようなものを投稿していますが、説明文となると表現に気を使うだけではなく理屈を整えなくてはならず詩のようなものを書くのとは全く違う思考で違う思路を辿(たど)ることになるようです。
先走る理屈に耐えきれず「私の頭に渦巻く理屈よ辻褄合わせよ屁理屈よ黙れ。」ということでした。
 
詩は詩に感動できる人が愛する世界で詩の読み書きには詩心・感(受)性・センスなどと呼ばれる知的資産が要求されます。
信仰は前提条件として人間性以外のいかなる資産も要求しません。
この全く異なる二つの事柄ですが、奇(く)しくも共通した部分があります。
どちらも「理屈ではない」ということです。そしてどちらも独特の言葉の世界だということです。
かくして旧約聖書には詩篇があり、旧約にも新約にも心に残る聖句・御言葉があります。
しかし好きな聖句というのも人によって違います。
それは人それぞれが異なる道のり・人生経験を経て、信仰観も微妙に違うからでしょう。
そういうことで
今まで幾度か「全てを委ねる」お勧めを頂戴してきましたが、
そんなに委ねていないと思われているのだろうか…
というのが正直な感想でございます。
例えば「自分を責める」という行為ですが、
これは罪を自覚するときには自然に伴なってくる行為~現象のようなものであって自分で自分に苦を強いているわけではない。
 
自分を責めることなくして
どうやって悔いるのだろう
悔いることなくして
どうやって罪を認めるのだろう
罪を認めることなくして
どうやって許されるのだろう
 
しかし自分を責め続けることは精神衛生上よくない。
それより前に責め続けることに耐えられない。
それより前に耐えられないと分かっているから、
いつまでも責めることはしない。
ある時点で罪を悔い許しを乞い願い祈り
ボロボロの私をそのまま運んでください導いてください
と委ねるのでございます。
 
罪を認めてから委ねるまでのタイムラグの違いなのでしょうか。それとも明るい面よりも暗い面を見てしまう私の体質の所為(せい)なのでしょうか。私は自分をいつまでも責めてくよくよしている哀れな人ということになっているような気がいたします。
どう思われようとも、ちょっと遅れて委ねるという繰り返しはこれからも続くだろうと思います。
そういう前提の上で
今の私にとっては
自分を責めるということが
人間であり続けるための最低条件なのでございます。
それができなくなったら私は人間ではない、人間性を保ち得ない。私の信仰は妄想か狂信に過ぎなくなるとさえ思うのであります。
 
以上
提供は肥後の国
びっくり交信局でした。
 
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(※ このころは熊本にいました
 クリスチャンのMLに投稿した記事です。)
 


  履き物
 
スリッパは
履く人の足になじむほどに
柔らかくなり汚れてきて
つぶれたり破れたりした
靴はいっときの化粧のように
磨かれて光沢を放つが
なじむほどに皺が増えたあげく
裂けて笑ったりもした
 
おおかた人の寿命よりも短く
人の重さを背負いながら
なじんだ末に捨てられる
のはまだいい方で
なじむこともなく
ある日下駄箱のもう片方を開けると
埃をかぶったままの
硬い顔が並んでいた
 
(1997年5月31日、HPにアップ)
 
 
  過ごし
 
佇んでいるつもりでも
飛んでいたり
歩いているつもりでも
回っていたり
走っているつもりでも
それが自分じゃなかったりする
 
起きているか
眠っているか
集中しているか
散漫であるか
何かしているか
何もしていないか
いや何か思っていた
何かしていたはずなのに
比べようもない
永遠からやって来たような
長くするものがあり
短くするものがある
何もかも思いのほかだった
私は過ごしていたのか
私が過ぎていたのか
 
この二年はまるで
まばたきする間だったのに
あの二十分は
まだ終わってさえいないんだ
 
(1996年11月30日、HPにアップ)
 
 
  私の分
 
私はもう何もしなくていい
広い空も青い空も遠くていい
私は物乞いはしない
でも乞食でいい
ここでひび割れていればいい
秋は窓近く佇んでいる分だけで
若い光を少し恵んでくれた
小鳥はカーテンの向こうから
朝のさえずりを誰かに与えながら
身近な空を切り分けて風に似せてくれた
私はもう何もしなくていい
遠くでざわめく予感のような流れの合間に
耳元で舞っている塵の分だけの
冷気の苛立ちと
星屑の痛みをほんの少し
入れることのできる器であればいい
 
(1996年ごろか)
 
 
  遥かに得たもの
 
四角い風船に乗っていました
確か子供のころはそうでした
誰かが吹いたのです
過ちなど何もないと
四角でよかったのです
乗っていたでよかったのです
計る必要などないのです
過ちなど何もありませんでした
今はもう乗ることも
引かれることもなくなっても
何も失ってはいない
一度だけで充分でした
静かに手に入れたはずなのです
身の内にも外にも
風船の自在な中身だけを
 
(1998年1月4日、HPにアップ)
 
 
 


    夜汽車
 
一、眠れない夜汽車の旅に
  うす目をあけて外を見ていた
  またひとつ明かりが消えて
  静かな闇へ
  別れてゆくね
  流れゆく光に追われ
  いつか名もない過去へ帰ると
 
  残された 灯(ともしび)そっと
  消して あなたの
  旅が始まる
 
二、できるなら夜に抱かれて
  僕も小さな夢になりたい
  時のない眠りの中へ
  退く愛を許していたい
 
  この身には測りしれない
  あなたの世界 たとえようもない
 
  そこにだけ あなたの夢が
  あるというのか
  まだ問われずに
 
三、眠れない病の夜を
  遠い旅路へいざなう汽車に
  どれほどの明日(あす)を拒んで
  よどむ命をまかせたのだろう
 
  戻れない時へ幾度も
  今日も別れを繰り返すだけ
 
  今はただ まぶたを閉じて
  これが最後の
  あなたへの歌
 
四、やがてまた窓にもたれて
  うす目をあけて外を見ていた
  ほのめく闇 重なる光
  いつか全てが同じところへ
 
  いつの日か僕も去るだろう
  それが約束 尽くせぬ歌に
 
  残された灯(ともしび)そっと
  隠して 僕の
  旅が終わると
 
(1997年1月8日、HPにアップ)
(2013年05月27日、若干修正)
 
 
  すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした
その目は絶えず中空(ちゅうくう)にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱はふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
 雲がわき
 雲が飛び
 雑多な雲が流れ
 千々に流れて
 虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
(1997年1月8日、HPにアップ)
 
 
 

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