ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。


  祈り願え      戸田聡
 
一つの死のために祈る
一つの命のために願う
祈りは気休めだ
願いは掃き溜めだ
霊的は心理的だ
真心は悪魔的だ
それらがいかに空しかったか
祈りは自慰のようなものだ
願いは強姦のようなものだ
辻褄が合うはずもない
祈り願うことは大方
やがて無能を証明する
しかし祈り
願い続ける
祈り願え
奇跡を期待してではなく
免罪符でもなく
今の今の己のために
肉体のある限り
肉欲のように祈り願え
 
(1998年3月31日、HPにアップ)
 

  無意味の意味     戸田聡
 
すべての人はそれぞれに
生まれてきた意味がある
使命さえある
私はそれに気づいていない
気づいていない以上
それは神様だけが知っている
ということだから今
私は考える動物として
生きる意味など持とうとせず
生きることは死なずにいること
くらいの無意味で充分だ
守らねばならぬ節というものがある
それがどんなに空しく
負の人生であろうとも
私はその虚無を愛さねばならない
 
(1998年8月23日、HPにアップ)
 

  愛せよ虚無      戸田聡
 
私は虚無を愛さねばならない
笑うという虚無
喜ぶという虚無
悲しむという苦しむという虚無
ああ怒るという憎むという虚無
悔いという悔い
という虚無
それらが生み出す虚無
次から次へ
虚無から生まれた虚無を愛さねばならない
頬ゆがみ鼻汁吹き出し
血管怒張し逆流する体液が蹂躙する
痙攣と脱力の狭間に揺れる短い正気の
かすめ取られた永訣の先に
なお擦りむけた薄皮の感情があるなら
使い果たし消し去るまでに
きつく抱きしめてひたすら無視するように
私は虚無を愛さねばならない
私は私を愛さねばならない
虚無は私を愛さねばならない
 
(1998年8月24日、HPにアップ)
 
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クリスチャンが見たら怒るだろうなぁ・・・
しかも、このあと「基督の歌」載せるつもり・・・

 

 
ある切っ掛けで思い出した詩のようなもの
 
 
  秘密と定め
                    戸田聡

二十年後殺人鬼になる幼児は
やはり幼気(いたいけ)であどけないだろう
鵜飼いの鵜(う)は
呑むことを許されないのに
食うために生きているように
養鶏場には首が並び
忙(せわ)しく騒がしく急(せ)くように
卵と肉
食われるために生きている
知られた秘密が
もはや秘密ではないように
羽ばたくペンギンは
水中を飛ぶ

2000年02月15日、HPにアップ)
 
 

このブログを開設する切っ掛けともなった「日常×非日常」の
コメント欄が再開しました。
これで和解かどうかは分かりませんが、
悪い方向ではないようです、と一応評価しておきます。
 
この経緯について書いた最初のほうの記事は削除しません。
必要に応じて、追加訂正、追加アップデートで私は行くつもりです。
私も「何様かになったつもり」にならないように注意しながら。
 
台風が近づいて来たようで、外はだんだん風が強くなってきました。では。
 
 


前の記事で難しいことを思い出していたので、
論理から感性・情緒のほうに行ってみます。
といっても、これも以前書いたもの・・・
 
 
  最後の夏         戸田聡
 
最後の夏よ
お前が残したものは
いつも大事なときに雨を降らせるテレビと
ぬるぬると滲むスクリーンと
戻そうとして空回りする
切れたビデオテープと
薄っぺらな模倣の繰り返す
乾いた指を湿らす舌のひび割れた日々と
もうお前を呼ばなくなったことと
お前を覚えることも
忘れることも出来なくなったことだ
 
(1998年7月14日、HPにアップ)
 
 

  生きようとして      戸田聡
 
人は自ら生まれたくて
生まれてきたわけではないのだが
生き延びようとして出来る限り
先の保証もないままに動き回る
樹木は自ら選んで
そこに生えてきたわけではないのだが
それゆえ出来る限り深く
そこに根を下ろす
そこで枯れ果てるか
そこで生き延びるかしかないからだ
 
(1998年5月26日、HPにアップ)
 
 

  誰ですか        戸田聡
 
家計簿に火をつけたのは誰ですか
それは紛れもなく私です
家中の塵や埃を濡らしたのは誰ですか
洗って奇麗な粒子にしたい私なのです
食べ物と便所と数少ない本を除いて
有るもの全てに小便引っ掛けたのは誰ですか
私以外に誰がいましょう
あなたは誰ですか
私はあなたの家計簿の
まだ書き込まれていない一つのセル
 
(1998年7月18日、HPにアップ)
 
 

 
  憲法・愛国心・刑法、その他
 (以前、別のブログに書いたことです)

次のようなことは護憲派の人たちが
すでに言っていることなのでしょうが・・・

憲法改正には危惧感を抱いております。
どちらかと問われれば私は反対です。
憲法改正をするのであれば自衛隊、さらには
その前身である保安隊や警察予備隊を作ったときに
改正すべきであったと思います。
しかしそれは出来ず、現行憲法の拡大解釈をもって
警察予備隊→自衛隊→海外派兵に至っている。

つまり憲法の拡大解釈という前例を重ねてきている
というところに危惧を覚えるのです。
前例があるということは裁判や政治においては
大きな影響を持っています。

改正された新憲法が、さらに拡大解釈される恐れが
あるのではないかという危惧であります。
さらに憲法を改正すると、
憲法改正という前例も作ってしまいます。

現行憲法も、さらなる拡大解釈の恐れはあります。
しかし自衛隊のイラク派遣も人道復興支援という
大義名分を付けなければならないほどに
ぎりぎりの解釈のところまでは来ているように思われます。

憲法が改正されたからといって
直ぐに軍国主義や戦争に走ることはないでしょう。
しかし何十年~百年というタイムスケールで考えた場合、
さらに、内的外的を問わず、何らかの大きな危機的状況
が加わった場合、等々を考えてしまいます。
為政者も国民も世代が代わった頃になりますが、
現行憲法のブレーキはもはや利かないわけです。
とんでもない為政者が現れて「平和を乱すものを
やっつけることは貿易立国日本にとって自衛権の行使である」
みたいなことを言い出し、大衆を煽りながら、
少しずつ戦争しやすい国へと変えてゆく危険性というものを
先ず問題提起しておきます。

次に愛国心教育について。
無条件に、この国を愛せますか。
私は「ノー」~せいぜい両価性です。
(私の私自身に対する感情も似たようなものですが)
生存権を脅かすほどの激しい競争社会、3万人以上の自殺、
とげとげしい人間関係、残酷な犯罪、等々問題山積の
この国を無条件に愛せますか。
愛することを教育するならば、当然
愛するに値する国を作らなければならないと思いますが。
国民の生存権も守れないで何が国家か
・・・と言いたくなるほどです。
愛国心教育をするならば大切なことは
自分の国を評価し批判できる精神を
養うことを含んでいなければならないと思います。
「日の丸」「君が代」「国家に忠誠」を押し付ける
教育であってはならないと思います。

そんなことは分かっていると言われそうですが
「日の丸」「君が代」法制化から
憲法改正への動きを見ていると、
どうも違った方向のように思われてなりません。

思想信条の自由について。
反体制的な思想であっても「思想」に留まる限り
自由だと思います。でないと国家を批判することも、
犯罪になり、できなくなるのではないかと・・・。
国家転覆計画や内乱を唱える思想についても、
「既遂」になると英雄になってしまう
というのはもっともですが・・・
事前の逮捕・取り締まり・拘束はしてはならないと思います。
私が学生の頃には平気で暴力革命を主張する人がいました。

とはいえ時代は変わり外からも内からも、いつどこで
攻撃されても不思議ではない時代になってきたからには、
それに気づいたからには、それなりの対処は必要です。
それで結局、私が大事だと思うのは思想集団についても
宗教団体についても情報収集ではないかと思っています。
犯罪の可能性を早期発見して、監視することだと思います。
そして可及的に軽微な犯罪の段階で取り締まること
しかないのではないでしょうか。そのためには
囮捜査も盗聴も必要かもしれません。盗聴については
悪用を厳しく取り締まる制度が前提になりますが。

刑法・刑罰について。
今、死刑はどういう方法で行われているのでしょうか。
絞首刑?電気椅子?注射?いずれにしても私は
今の死刑制度には反対です。改正すべきは刑法ではないか。
死刑と無期懲役のギャップが大きすぎる気がします。
終身刑というのは日本では聞きませんが、どうなっているのかな
・・・アメリカの死刑のない州では終身刑とか、懲役何百年とか
聞いたことがありますが、いっしょですよね。
遺族の無念を考えるとき殺人を殺人で終わらせるのはいけない
という理由だけで死刑廃止論を主張するつもりはありません。
思いつきに過ぎないですが、
(人為的)死刑の代わりに自然死刑
というものを極刑として考えます。これは
終身刑ですが、仮釈放なし、生涯独房、加えて
いかなる医療的処置も受ける権利を剥奪する
という点で他の終身刑とは異なる刑になります。
人によっては死刑より酷い刑かもしれません。
この極刑と無期懲役の間に上の2条件や待遇の差で
段階的な終身刑を設けたらどうだろう
なんてことを考えてみたりしています。
自然死刑なら適用しやすくなるかもしれません・・・
法務大臣が判を押す=殺すこと、にはならないから・・・?


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危ないこと、書いてるなぁ・・・という気持ち・・・
 
 

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