ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。


  「核の抑止力?」
 
根源的な疑問:
核という桁外れの巨大なエネルギーが、はたして、
過ちを常とする人類の手に負えるのか。
 
核というものがもたらす被害は
空間的にも時間的にも限定できない。
また核を作るのも管理するのも人間である。
「被害の限定困難」と「人の問題」を考えると、
核の被害を確率または確率の期待値として
数値化することは不可能に思えてならない。
 
広島と長崎に原爆が投下された時というのは、
「それが戦争だ。仕方ない。」
という言い訳が通用しない時代に
人類が突入した時であったと思う。
 
広島と長崎に原爆が投下されたとき、唯一、
不幸中の幸いと言えることがあったと思う。
それは、そのとき
日本が原爆を持っていなかったということである。
もし持っていたら迷うことなく使っただろう。
そうすればアメリカは、さらに大量の原爆を生産し
日本全土に投下しただろう。そうなると、はたして、
日本という国が現在、存在しているであろうか。
 
「核の抑止力」というのは、
核保持の正当化のために後付けされた理屈である。
核のなかった時代の武力ならば
「抑止力」は必要だったかもしれない。
しかし「核の抑止力」の本態を考えると
「もし核兵器で攻撃してきたら、
こちらもこんなにすごい核兵器でやり返すぞ」
という、核攻撃される恐怖に基づく
「脅し」だと思う。
「脅し」が永遠に脅しのままでありうるか。
否定的にならざるを得ない。
もし
脅しが脅しでなくなった場合、核ではなく
「核戦争の連鎖反応」というものを考えてしまう。
核戦争において先ず狙われるのは
相手国の核基地と政府である。
それは分かっているから、相手国も
敵のミサイルが着弾する前に
敵の核基地と政府を狙ってミサイルを発射する。
そのミサイルが着弾する前に敵もまた発射する。
その応酬によって
いったん核戦争が始まると
極めて速やかに壊滅的事態が進行してしまう。
 
核についての警戒すべき思想:
先ず原発の安全性を広める。
「事故の確率は数学的に計算すると、
こんなに低いから、原発は安全だよ」などと刷り込む。
それが成功したら
   ↓
「核兵器も管理すれば心配ないよ。
それに抑止力だし・・・」と核武装を推進する。そして
何らかの天災や人災や戦争による混乱が生じたとき
   ↓
「核兵器も小さいものなら、
必要なときには使うべきだよ。」
(小さいものなら、自衛において、
通常兵器で充分なはずである。詭弁といってよいだろう。
大きい威力が欲しいから核兵器に頼ろうとするのである。)
こういう思想の流れを作為的に
作ろうとする人々がいないことを切に祈り願う。
とともに、絶えず注意し警戒し監視すべきだと思う。
恐らく
昔、大久保利通がビスマルクに言われたとも聞いているが
「対等な武力を背景にして初めて対等な外交関係が可能になる」
という核以前の時代の古い理念を踏襲したいのかもしれないが、
終末的に近い核の時代にあっては上述の
「脅しが脅しのまま永続するか(否)」「核戦争の連鎖反応」
によって壊滅と滅亡への道を進むだけになることを危惧する。
 
仮に
日本が核武装した場合、悪意ある相手国から
核ミサイルが、迎撃も虚しく、日本に打ち込まれ
大半が民間人の100万人が死んだとする。
そのときに日本は相手国への報復・復讐として
相手国の、これまた、民間人が大半の100万人を
核兵器によって殺すべきかという問題に直面する。
もし100万人を殺せば、さらに核兵器の応酬は、
他国も巻き込んで、両国~世界の滅亡を招く
ように思えてならない。
 
わが国は、核の時代にあって、
核戦争を防ぐ方向を持つ唯一の手段としては、
いかなる他国にとっても脅威にならない国を目指す
以外にないとしか考えようがないのが今の私である。
 
たとい極端な場合の結果として
日本と日本民族が、結果として、核兵器によって滅びたとしても
日本は、けっして核兵器によって
他国や他民族を滅ぼす国になってはいけないということを、
誇りを持って、わきまえる国であって欲しいと思っている。
 


  「脳死は人の死?」
 
この命題は
倫理的にとか、または、
条件付きで真偽を云々する命題ではないはずである。
倫理よりも科学的に、
倫理とか心情とか以前の
科学の命題として考えるべきことである。
 
生死の判定には1つも例外があってはならない。
1つ以上の例外は、即、反証となる。
そのとき「脳死は人の死」は否定される。
科学の法則は、理論があっても、実験による実証を経て初めて信頼される。
脳死には理論はあるが、症例による実証がなされているのかが疑問。
例外があるかどうかは、治療継続による経過観察以外にない。
脳死状態と判定された場合、その判定が覆ってはならない。
また症例全例が心臓死に移行することを実証しなければならない。
症例数が多いほど、判定の信頼度は増す。
 
脳死判定による死の判定には1例も例外があってはならない。
もしあれば、それだけで立派な反証になる。
 
「脳死は人の死」が否定された場合
「脳死は必ずしも人の死ではない」が真となるが、
それを承知の上で、それでも遺言その他によって、
脳死がもたらす予後の苦悩を考えて、等々の理由によって、
「それでも臓器を提供したい」という人の場合どうするか
という問題にいたって初めて
脳死移植は、科学以上の、安楽死や尊厳死を含めた生命倫理の問題となる。
 
(2011年05月02日、一部加筆修正)
 

    「生存権について」

国家は国民の生存権を守るために存在し、
そのためのみに存在する。
 
生存権を守ろうとしない国家なら、
愛する必要はない。
愛国心は元々国が間違っているときに、
それを批判する精神を含む。
 
生存権とは:
(1)生物学的生存権
(2)存在権:尊厳を持って生きる権利
(3)生活権:生き甲斐・目的などを持って生きる権利
「尊厳」「生き甲斐」「目的」などは個人によって違うので
国家が直接与えられるものではない。
国家が守るべきものは(1)~(3)を可能にするために必要な
経済的また制度的基盤である。
 
生存権が、上記の(1)~(3)であり、
(2)と(3)のように個人によって多様であるのだから、
独裁政治の「逆らわなければ食わしてやる」といったものは、
言うまでもないが、生存権を守ることにはならない。
 

生存権について前に書き込んだこと:
「生存権を守れずして何が国家か
と前に書きました。私は
この権利に特にこだわっています。
生存権:(1)生物学的生存権
(2)存在権:尊厳を持って生きる権利
(3)生活権:目的や生き甲斐を持って
  生きられる権利
理想としてではなく実際に
生存権を守れるか
という観点から具体的に考えてみると、
ある程度、様々な主義主張の
無理や嘘も見えてくるような気もします。
国家は組織だから
生き甲斐を直接与えることは出来ない。
しかし(1)~(3)の土台を作ることが
国家というものの根本ではないのか。
自由・人権・内政・外交あらゆるものが
生存権に関わっており、
生存権が前提である。私は
国というものの根本を
そこから考えて見たいと思うのだが、
はぁ・・・(嘆息)。
国が強制力のみによるのであれば
財源が・・・財源が・・・
ということになる。
福祉のための献金など(福祉献金制度)
自主的なものを考えれば
国民、特に富裕者の大半が
善人で博愛精神に満ちていなければならない。
たとい無駄であっても、試しに
その精神性を問うてみる政治家は現れないのかと、
甘くてユートピアだなぁという気持ちとともに、
一縷の、そして恐らく最後の、人類への期待を
人類の存続に託してみたいわけであります。
そして、その結果、今のところ、どの主義主張も信頼できず、
どれにも与(くみ)することが出来ないという現状です。」
 

金持ちの中にも社会に貢献したいという
気持ちを持っている人はいるだろうと思う。
もしいなければ話は終わりである。
 
でも金持ちの中には貧乏人と直接
関わりたくない人がいるだろうと思う。
卑しい人で変に依存されたら困るとか・・・だろうか。
卑しいから貧乏になるのか、
貧乏だから卑しくなるのか・・・
恐らく、私は、後者が多いだろうと思うし、それよりも
貧乏でも卑しくない人が多いと思っている。
 
この国をどうしたいですか :
桁外れの金持ちと底なしの貧乏人が同居していて
心のすさんだ人が多くなり
自殺と人殺しが多くて治安も悪くなって
身を守るために自警団が必要になりそうな国ですか。
全体を改善するためには
大義のためには
弱者の犠牲は止むを得ないと考える国ですか。
 
目指すべきなのは、私が考えるに、
貧乏人がいなくなる社会ではなく、
貧乏人が元気でいられる社会です。
 
幸福になるための最低限の土台として
先ず衣食住とお金と
相談できる人間関係のある社会を
実現する方向性を持ち、
そのために具体的に努力している国と社会です。
 


  ハンカチ
               戸田聡
自分のために
誰も傷ついて欲しくない
と君は語った
しばらくの間そのことを語った
私は一枚のハンカチを渡した
もらい物であった
私が使っていた
いくたびか汚れ
いくたびか濡れ
ときにはちり紙の代わりとなり
犬が噛んだこともあった
そのたびに洗って干した
少しは汚れや
唾液や涙液が残っているかもしれない
しかし君よ
今はそのハンカチで拭くのがふさわしい
私らの歩む先に
真っ青なだけの空があるだろうか
真っ暗なだけの夜があるだろうか
うつくしさだけで住める町もなければ
みにくさだけで去れる町もないのだ
君は語り私は聞いた
海鳴りのように遠く
耳鳴りのように近く それくらい
明らかではない私らの出会いの後
いずれ君は私を忘れ
私は君を忘れるだろう
だから君よ
この一枚のハンカチを君に渡すのは
今唯一明らかな約束の在り方として
その捨て方を君にまかせるためだ
 
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まだ43歳だった・・・
(1997年3月20日、HPにアップ)
 


  なくしたアルバム
                      戸田聡
少しは懐かしくもあるけれど
格別お名残惜しいわけではない
ともかくも君らが私と別れたのは幸いだった
お互い結局
いいことばかりじゃなかっただろうから
君らが今どこにいるのか知らないが
私よりは多くの陽を浴びているだろう
私は暗いところにいる
といっても気持ちはそれほどでもない
いま会ってもわからないかもしれないけれど
君らの笑顔はぼんやり残っている
それで気分のいいときもあるのだから
起きたいときに起きて
汚れたまま街を徘徊したっていいんだけれど
なかなかそこまで気が進まない
 
私が何をしているかといえば相変わらずで
傷を集めたりしている
かすり傷、細い傷、いろいろだ
傷つきながら夢中になって
君らが丈の高い萱(カヤ)の中を
あんまり急いで走り回るから
あとで血がにじんできて
びっくりして痛がっていた傷とか
けんかしたり転んだりして
君らが遊んでつくったアザとか
私の目に
はっきり写らなかったものを集めている
そして並べてみて
くすっと笑うことだってある
君らが川や海辺や山にいても
路地や工場の跡や
お化け屋敷にいても
泥んこや田んぼとだって友達で
君らの声がきらきら輝いて
何を言っているのかさっぱりわからなくて
みんな名付けようもなくひとつだった
 
若者になって並んでいた君らはもう
埃(ほこり)を被(かぶ)った私には
ぼんやりしていて
虹の向こうでかすかに微笑んでいるんだ
あの頃は
と君らは言うかもしれないけれど
あの頃いちばん大切だったものは
君らは捨て去るしかなかったこと
私はわかっていた
君らは私と
知らないまま別れるしかなかったことも
 
君らが遊んだ人形や玩具
もう二度と触れることはないと
気づかないまま手を離した瞬間が
スローモーションのように写っているよ
 
君らが私をなくした日のこと
私は覚えている
でも君らは忘れていい
君らは皆、私を卒業していった
私は埃を被ったままでいい
これから先、君らが何か
咎(とが)められることがあったとしても
咎めるのは私の役目ではないのだから

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主語「私」=「アルバム」のつもりです。
(1997年2月21日、HPにアップ)
 

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