楽山の汚染
 
 救い、悔い改め、予定について(『聖なるもの』オットー著)
 2021年06月04日 楽山日記(LD)
 
 
恐ろしいことです。今まで、私が批判してきた約2年の間、呆れるような自己中日記を、まるで評論であるかのように書いてきて、批判されて、何も返せないのに、なおも、節操もなく書き続ける根性~性根は、とても、人間のものとは思えません。
 
偽りと、きれいごとと、嘘と詭弁を、まともに見せかけて言って、だまそうとするう楽山の欺瞞を、一つ一つ批判して否定してゆくしかないようです。
 
*予定
『聖なるもの』に、予定に関する記述があったのでメモしておきたい。
恵みの体験者は、自分の来し方を振り返ることで、いまの自分があるのは、自分自身の所業や努力のおかげではないこと、自身の意思や能力によらず、ただ自分が恵みに与り、それに捕えられ、動かされ、導かれたからだということをますます強く認め、実感する。
(『聖なるもの』オットー著、久松英二訳、岩波書店、2010年、p.187)
 」
かれは自分のすべての行為にさきんじて、救いの愛の探求と選びが働いているのを見、永遠なる恵みの神意、すなわち予定を認め受け入れる。この予定はあくまで救いへの予定である。
(同上、p.187)
 」
この感覚については自分にも多少の経験はあるし、前に記事にも書いたことがあるのでよく納得できる。
 
楽山には、恵みの経験はないと思います。そういう経験をした人の敬虔が、全く見られないからです。ゆえに、「よく納得できる」は、またしても、大嘘なのです。楽山は、他者の敬虔な態度を悪用して、自分を高めようとするだけの、病的ナルシストです。
 
*予定の発見
この考え方は意外に思えたが、言われてみれば確かにその通りだ。
「選び」の思想、すなわち神によってすでに救いへと選びだされ、予定されているという考えは、直接にはあくまでも宗教的な恵みの体験そのものを表現するものとして生まれた。
(同上、p.187)
 」
予定という考え方は、神が全能ならすべては神の意志によるのであり、予定されているだろうという理屈から生じたのだろうと思っていたが、恵みはすでに予定されていたという実感から生じたという方が説得力がある。
 
また、楽山の大嘘です。「宗教的な恵みの体験そのもの」と「予定されていたという実感」は、全然、意味が違います。ちょっと見ただけでは違いに気づかないようなところで、それを同一のように語る詭弁で、またしても、自分は分かってる人・・という自尊の肴にしています。
 
「予定されているだろうという理屈」というのは、宗教・信仰の理解ではありません。「予定されていたという実感」というのは、どういう実感なのでしょう。これだけで、実感できるとは思えません。
 
神の計画の詳細や、個人についての神の予定など、人が知ることは出来ません。またしても、楽山の、何でも分かったことにする軽口の結論なのです。どういう実感からなのでしょう。どういう説得力なのでしょう。実に不細工でポンコツの文章です。
 
*合理の領域外のこと
この考え方は、自分にはどうも難しい。
恵みを受けた者が、自分が選ばれたということを知ったとして、そのことと同時に、神はある者を祝福に、ある者を呪いに定めるなどという結論に達するということはありえない。なぜなら、「選び」とは合理の領域に属さないからだ。
(同上、p.187)
 」
 
祝福と呪いの定めは、定めるなら、神がなさることですから、人間に分かることではありません。ゆえに、場合分けして、「ありえない」、とか、「合理」などを、論ずる対象ではありません。
 
また、人間は、人間の合理しか持ち合わせていませんから、それに属さないと書きながら、ありえないと、結論を書くのは、とても、おかしなことです。人の合理さえ持ち合わせていない楽山の戯言は、いかなる真実の領域にも属してはいません。
 
救われる者はすでに予定されているという話になると、ついこんな風に考えてしまいがちではある。「救われる人は予定されているなら、救われない人も予定されているということなんだろう」「人それぞれさまざまな過程を経るとしても、最終的にはすべての人は救われ、そうでない人はいないことが予定されているのではないか?」
 
結果の裁きは神に任されるとはいえ、善悪、正邪、正直と嘘吐き、など、様々な人間がいます。全部、後者の、即ち、悪、邪、嘘、でしかない者も救われるなら、それこそ、正義もクソもない世界なのです。楽山の宗教は、そのような、正義もクソもない救いの妄想なのでしょうか。
 
実際のところは、これらは人にはわかりようのないことなのだろう。ただそれはそうとして、この考え方は、神はすべてを予定しているが人は自由であるという考え方に似ているようではある。
「神の側から見ればすべては予定されているが、人にとっては未来は未知であり自由である」
「救われる者が予定されているとしても、それが直ちに救われない者をも予定されていると結論づけることにはならない」
 
まさに、言葉の表面だけの机上の紙上の屁理屈であります。心に迫る実感が何もない超常話なのです。それが、楽山の、駄文と唾液であり、説でも節でもなく、学ではなく、外れたままの顎関節なのです。唾を飛ばして論ずるのではなく、だらだらと涎のように垂れ流す楽山の不潔な排泄症状なのです。
 
神しか知らないことについて、浅薄な悪知恵の詭弁をもって、結論めいた言辞を弄して、結局、何の解決にも解説にもなっていない無駄を、考え方・・という言葉だけで語り、読者に見せて、独り満悦する楽山です。ペテン師のわざ以外ではないのです。
 
こうして並べてみると、やっぱり似ている気がする。でも結局のところこれは人にはいくら考えてもわからないことなのだろう。
 
分からないなら、書くなということです。解答に近づくこと、ヒントになること、糧になること、何一つ提示できないくせに、言葉の表面だけ、世辞のように設(しつら)えて、まともぶる文章は、とても醜く、さらに、とても醜い人格を表しているだけなのです。
 
分からないことさえ、分かったふうに書かないと気の済まない楽山という病者の日常です。そこに欠落しているのは、良心であり、良識であり、深謀遠慮であり、罪悪感であり、羞恥心であり、反省と自省と自制であり、ゆえに腐れ、腐れた物を、いつまでも、いつまでも、投げつけてくるのです。
 
それが、楽山の、ブログであり、ツイッターなのです。締まりがなくなり、停滞によって汚染し、いつまでも、いつまでも、公害を垂れ流し続ける楽山という廃工場の下水です。やさしい丁寧語の裏には、隠した汚物が気泡を発しており、時々書かれたものに表れます。近づかないでください。
 
前に楽山が書いていた、気に入らないことは無視しましょうというアドラー教の言葉を、まともだと受け取ってしまうと、この楽山のような、分かち合えるものが何もない凝固物+不潔な残渣として、関わる全てを汚して駄目にしてゆくのです。決して相手にしないでください。
 
 
汚染・公害

汚染・公害
 
 
(2021年06月07日)
 
 
 
  祈り願え
 
一つの死のために祈る
一つの命のために願う
祈りは気休めだ
願いは掃き溜めだ
霊的は心理的だ
真心は悪魔的だ
それらがいかに空しかったか
祈りは自慰のようなものだ
願いは強姦のようなものだ
辻褄が合うはずもない
祈り願うことは大方
やがて無能を証明する
しかし祈り
願い続ける
祈り願え
奇跡を期待してではなく
免罪符でもなく
今の今の己のために
肉体のある限り
肉欲のように祈り願え
 
 
  止めてごらん
 
焼いてごらん この網膜
裂いてごらん この硬膜
切ってごらん この動脈
湧き水だよ 面白いよ
戻してごらん この食欲
晒してごらん この性欲
潰してごらん この贅沢
どんよりだよ 眠たいよ
殺してごらん この希望
殺してごらん この無謀
殺してごらん この骸(むくろ)
どんよりと曇った日の
山奥の涌き水を止めてごらん
 
 
(90年代か)
 
 
 
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