中立芝居2
 
 「第四講 老友エリバズまず語る」2020年06月06日
 (『ヨブ記講演』内村鑑三)
 を改めて批判
 
 
楽山は、キリスト教と神をおとしめ、それを訂正しないまま、今度は、いかにも真面目に努力しているふうを装っています。
 
しかし、今まで書いてきたことを否定せずに、逆方向のことを書くのは、どちらも本気では書いていないことを表します。つまり、自分は中立で何教でも分かっているのですという不変の自尊過大の、虚偽のアピールでしかないのです。だまされてはいけないと思います。
 
人の言うことを受け取って書く、ということが出来ない楽山は、ひたすら聖書や本の中から、自分に都合の良いところを拾って来ては書くのです。唾液を飛ばして、自分を飾っているだけですし、言い逃れをしている見苦しさと同じです。
 
そして、最近の、反省、反省、と言いながら、人の言うことを受け取らずに、書き続ける執拗さにこそ、自己中が、他者を無視して、趣味に合うことだけを漁ってゆく自己崩壊の経過が表れています。反省とは真逆の態度であります。字面だけの反省言葉、真に受けてはいけません。
 
『ヨブ記講演』の第四講を読んだので、忘れぬうちに内容をメモしておきたい。本講の中身は前より一段と濃くなっている。
 
自尊過大のナルシシストに、信仰について、中身が濃いかどうかなど、分かりはしません。見せかけだけの字面読書の一本道は、信仰への侮辱と堕落の片道切符を売りつけることでしかありません。関心がなければ書かなければよいのに、憎しみがあるから、皮肉のように書いてくるのでしょう。
 
・エリパズの言葉は「苦難にある友」への言葉としては「冷酷」である。しかしこれは彼の問題ではなく「当時の神学思想の罪」である。
・「ヨブの苦闘は」「すべての真人の経過する苦闘である」。
 
先ず、エリバズの言葉が冷酷だと言っています。それは、本に書いてある、ということが担保だと言いたげです。エリパズだけでなく、神の意志を、人が代弁することは出来ないということです。大きなテーマとして、ヨブの友人、そして、ヨブ自身の言葉も、今の私たちへの教訓となります。
 
楽山は、その上で、さらに、「神学思想の罪」、「真人の経過する苦闘である」と、引用でしょうか、書いて、ヨブを弁護するように見せかけ、気づかれないように、実際には、楽山自身を弁護しようと言葉を潜ませてゆきます。
 
こういう文脈を、自己中と自己愛で、作ってくるのが、楽山を赦せない根拠になってゆくのです。悪魔性の陰謀が全開と見るべきでしょう。ヨブと私たちにとって、ヨブ記は教訓ですが、神を否定するためにヨブを讃えている楽山こそ、反キリスト・反宗教・反真実であります。
 
・当時の神学思想は「罪を犯し不義を計る者は皆亡び失せ、義しき者は禍その身に及ばずして益す繁栄致富するに至る」というものであるから、悲惨な状況にあるヨブは、何か罪を犯したからそのようになったのだとみなされ、悔い改めを求められる。
 
「罪を犯し不義を計る者は皆亡び失せ、義しき者は禍その身に及ばずして益す繁栄致富するに至る」
・・あまりに一面的です。信仰は、繁栄のためではなく、むしろ、どうしようもない苦難を、神のもとで耐え忍んで生きるためにあります。この取引条件のような言葉は嫌悪されるべきでしょう。
 
楽山にとっては、総ての言葉と存在について、取引、駆け引き、条件法の下卑た筋書きにおいてのみ、正誤を判断するようです。これは、真実を求める心から、かけ離れた無様であります。つまり、楽山には、人間を人間たらしめるところの "心" が欠けているのです。
 
ヨブ記全体を通して、友人はヨブを説得することが出来ず、すなわち、ヨブは、神が顕れるまで、罪を認めずに、自身を不遇を嘆き、自己正当化して、神と議論したいとまで主張を続けます。ここに、ヨブだけでなく、人間の罪の根源が表されている、という重要なヨブ記であります。
 
 (ヨブ記、口語訳)
13:2
あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
13:3
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む。
 (ヨブ13:2-3、旧約聖書)
 
ヨブ記の話というのは、人の無力と、神の絶対を、ヨブの苦境での自己正当化という罪を通して、伝えているのです。神と、人の、絶対的な違いを弁えるためです。
 
神と論ずるなんてことは、決して出来ません。私たちは、人間として、受け取れることを受け取るだけです。全部、過不足なく受け取るということもありません。だから、生涯にわたって、祈り、告白し、悔い改め、反省し、成長することが必要なのです。
 
信仰者のための聖書の読み方としては、楽山のように、史実や字面にこだわって、短絡するのではなく、大小の文脈において、聖書が何を伝えているかを考えることが大切です。楽山は、自己愛性人格障害のために、文字面を負うだけで結論し、詭弁と誘惑しか出来ない人です。
 
楽山は、人に対して、さらに、神に対しても、一段上に立って批評する、という反信仰の立場から、字面だけの同情心を装い、ヨブを無罪にすることで、聖書をけがし、神をけがし、悔い改めたヨブをけがしています。楽山の反信仰全開です。
 
人格の根腐れというのは、何を言っても書いても、態度と姿勢に、既に、表れてきたし、今回も同じことです。どんなに、謙虚芝居をしても、前にも後にも、無反応の不感不応の自己を執拗に表すことで、自己顕示と誘導のための芝居だと、バレてしまうので、いっさいは、無駄なのです。
 
人に無視されるのが嫌で、執拗に書いてきますが、誰よりも、人を無視してきたのは、楽山その人であります。これからも、恐らく、同じでしょう。おぞましいことです。
 
・4.12-21は幽霊物語であり、「ヨブを諭さんとするための技巧なるか」「かかる演劇的態度を以て悩める友を諭さんとするは、真率において欠くる所ありといわねばならぬ」。
(4.12-16について、『旧約聖書 ヨブ記』(岩波文庫、関根正雄訳)の注釈では、「神の言葉を受ける時の心理的状況を述べている。預言書にもこのような具体的叙述は見られない」としている)
 
 (ヨブ記、口語訳)
4:12
さて、わたしに、言葉がひそかに臨んだ、
わたしの耳はそのささやきを聞いた。
4:13
すなわち人の熟睡するころ、
夜の幻によって思い乱れている時、
4:14
恐れがわたしに臨んだので、おののき、
わたしの骨はことごとく震えた。
4:15
時に、霊があって、わたしの顔の前を過ぎたので、
わたしの身の毛はよだった。
4:16
そのものは立ちどまったが、
わたしはその姿を見わけることができなかった。
一つのかたちが、わたしの目の前にあった。
わたしは静かな声を聞いた、
4:17
『人は神の前に正しくありえようか。
人はその造り主の前に清くありえようか。
4:18
見よ、彼はそのしもべをさえ頼みとせず、
その天使をも誤れる者とみなされる。
4:19
まして、泥の家に住む者、
ちりをその基とする者、
しみのようにつぶされる者。
4:20
彼らは朝から夕までの間に打ち砕かれ、
顧みる者もなく、永遠に滅びる。
4:21
もしその天幕の綱が
彼らのうちに取り去られるなら、
ついに悟ることもなく、死にうせるではないか』。
 (ヨブ4:12-21、旧約聖書)
 
夢の啓示でしょうか。人は神の前に正しく清くあり得ないこと、そして、人が、いかに、はかなく、弱いものであるか、という、神と人の決定的な違いが書いてあります。
 
楽山は、これを幽霊物語と書いています。楽山が、霊能者気取りで、原始反応的に、恐ろしく幼稚で、安っぽい解釈として、幽霊物語で済ませていますが、これは、何も読み取っておらず、受け取っていない証拠なのです。
 
史実かどうかは知る由もないですが、真実を受け取るなら、中心となるのは、17節です。人は不完全で罪深く、神の前に正しくも清くもあり得ない、ということです。ヨブは、神の前に、自己正当化することで、神を不当だと言っている、という、傲慢を表しています。
 
・5.2-7は「災禍は悪の結果なりとの思想の一発表である」。
・5.17~以下は「人に挑む艱難を以て罪の結果と見、従ってこれを神よりの懲治と」した。
 
よく分かりませんが、艱難を、逐一、罪の結果と見てしまえば、強迫的となり、試練として受け取って祈り悔い改めに結び付けることは出来ないでしょう。楽山は、まさに、そういう一次元の受け取り方しかできない字面のみの思考であろうと思います。
 
神は、その民を、鍛えるために、艱難によって、試すということですが、実際問題としては、艱難がなぜ降って来るのか、人間は知らされないことが多く、知らないまま、人は、いかなる艱難も、信仰によって耐え忍んでゆく道を学ぶことになるのでしょう。
 
・ヨブ記の物語を現在の教会にあてはめると、ヨブが模範的信者であり、経済的にも社会的にも成功している間は、それは神から祝福されていると解されていても、やがて度重なる不幸にみまわれ零落すると、何か罪を犯したためであろうと推測され、教会の代表者三人…「老牧師エリパズ」「壮年有能の神学者ビルダデ」「少壮有為の実務家ゾパル」がヨブを見舞い、懺悔を勧めるために訪問したという流れになる。
 
このように、キリストも神も聖書も、理解の端緒にすら達していない楽山は、無理解を、自分にではなく、教会に当てはめて、教条主義と決めつけてゆこうという魂胆しか持たず、ゆえに、これからも続くのでしょう。こちらは、楽山という反信仰・反キリストの資料化を進めるだけです。
 
・「罪は災禍の源たることあれど、災禍は悉く罪の結果ではない」。キリスト、パウロなどがその例である。
・苦難の種類は三つ。一つは「罪の結果」であり、二つ目は「懲治(こらしめ)」「愛の笞(むち)」、三つ目は「信仰を試むるために下る苦難」。ヨブの苦難はこの三つ目にあたる。第一章の天国での場面でそれが分かる。しかしエルパズらは一つ目、二つ目について語るばかりである。
・「人が艱難に会したるときは、その艱難を以てその人を審判くべからずその人格を以って艱難を審判くべし」(ブレンチウス)。
 
このような、人為的な、教条的な、言葉だけの分類をされても、これだけでは、なかなか、よく分かるとはいきませんが、人格によって審判されるならば、楽山のことを言っているかのようです。楽山は、いかなる審判にも耐えられないような暴言を、しかも丁寧語で、言ってきました。
 
信仰者の人格、つまり、人間としての信仰をもって、艱難に耐えて乗り越えるべきであって、人は、神の御心を想うことはあっても、審判する立場ではありません。裁く態度は、キリストを殺した偽善者の言動に表れています。
 
判断する人間の能力において、難しいことではありますが、少なくとも、これはこの罪の報いだというような決めつけをしてはいけない、ということとして受け取っておきましょう。
 
つまり、今に始まったことではないところの、楽山の、不感不応の自己愛の自己中心からの、上から見下ろすように神と人を決めつけてることが、いちばん悪い例に当たるでしょう。
 
不幸な状況にある人について、因果応報、自業自得と決めつけることはありがちなことである。宗教を信じている人が、その教義によって人を裁くというのもそう珍しくはない。恥ずかしながら自分にもそういうところがあるのだから情けない。しかもこれは間違いだと自覚していても同じ事を繰り返してしまう。ここはひたすら反省…。
 
「反省…」と言うなら、書かないことです。書いて、自己顕示していることから、楽山は、またしても、上から人を判断し審判し裁いて、読者を欺こうとしている、ということだけが表れるてきます。ちなみに、楽山は、反省という言葉を書きますが、反省の実が一度も表れたことはありません。
 
 
 2020年06月06日
 『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳
 
楽山の高慢が、いたるところに、表れるようになっています。
 
岩波文庫の『旧約聖書 ヨブ記』を読んだ。「ヨブ記」は以前、新共同訳で読んだときは文章が難しすぎて大まかな意味を推測するのがやっとで分かったという気持ちには全然ならなかったのだが、本書は巻末の注釈が充実しているので自分のような基本的な知識に欠ける者でも理解しやすくなっていて有り難い。とはいえ自分にとっては、この注釈も程度が高すぎて難しいのではあるが。
 
楽山は、シャロームと同様、ヨブ記も、聖書も、キリスト教も、キリスト信仰も、神も、キリストも、理解していません。というより、人間としての受け取り方が、まるで出来ていないのです。難しいなどと謙虚芝居をしても、批判を受け取らないまま書いてくるところに、楽山の厚顔が表れています。
 
安楽のお山の大将には、実に、安易に、誰でもなれるのです。他者の意見を無視して、こんなに本を読んだ、難しい、反省、とほほ、と書いて、あざとい芝居をすればよいのですから。ただし、これは、自他の人格の致命的な破壊を伴います。
 
今回「反省」と書いて、「とほほ」とは書いてないようですが、私が無反省と批判したときから、楽山がよく書く文言ではあります。反省するときに、わざとらしい、とほほ・・は、ふつう書かないです。楽山は、反省したことがないから、反省するときの言い方が分からないのでしょう。
 
「反省。とほほ」が、批判されたから書かないけど、相変わらず、反省の文章は、楽山にとって、分からないままです。それで「ひたすら反省」などと、単純に意味を強めていますが、前後の文脈と記事の流れには、何も変化がないのです。
 
気に入らないことを無視しましょう、という、アドラー教の信条を、楽山は前に書いて、実際、人の言うことを聞かず、都合の良いところを漁って本を引用して、読書家気取りを出すところが、まさに、楽山が何を書いても、けちな企みであることが、楽山の筆致を通して明らかになってきたのです。
 
本文全体の感想については、前に読んだ時とは印象が大分変って、ヨブとその友人たちの激しさに圧倒された。前はみな大人しい性格に思ったのだが、今回はヨブの友人たちへの反論や神に向けての言葉の激烈さ、ヨブの友人たちのヨブ批判の無慈悲さには驚かされた。これは多分前は比喩の意味がよく分かっていなかったのが、今回は注釈のおかげでその意味をよりはっきり受け取ることができたためなのだろう。
 
ヨブ記の内容から言って、楽山の「前はみな大人しい性格に思った」という感想は異常です。恐らく、注釈を経ても、楽山が、「その意味をよりはっきり受け取る」ことは出来ないと思います。受け取る器を用意する心が、自己中と自己愛のために、楽山には出来ていないからです。
 
前には、クリスチャン芝居もしたことのある楽山という人は、狼と少年の話のように、嘘を言って、結局、芝居によって嘘偽りを隠そうとしてきます。今回もまた、言いがかりと言い逃れの詭弁と誘導の企みしか出来ないところに、受ける器の病巣が、ますます明らかになるのです。
 
自分は根がどこまでもお目出度い自惚れ屋なので聖書のことは聖書を読めば分かるのであって解説書なんて必要ないと考えてしまったりもするのであるが、こうしてみるとやはり解説書はぜひとも必要だと痛感させられる。
 
楽山は、「自分は根がどこまでもお目出度い自惚れ屋」・・これが弁明になると思っているのでしょうか。自惚れ屋は、自惚れ屋であるあいだ、信仰など語れませんし、語ってはいけないのです。楽山は、自己愛性のために、たとい解説書を読んでも理解に至ることはないだろうと思います。
 
宗教的に読もうとするする場合は、知識的なことに頼らず、霊感によって読むことが大切なのだろうけれども、
 
また、霊が分かるっぽい自分を出したいのでしょうか。楽山には、今まで、霊感も、一般的なインスピレーション的な直観も、一度も、文章に表れたことはありません。汚水のように漏れてくるのは、自慢と気取りと高慢だけなのです。
 
聖書は、ふつうに人間らしい頭の知性と心の感性で読むべきですが、楽山が「霊感によって読む」などという言葉を使うとき、霊が分かるっぽいという霊能者気取りの自覚の楽山には、気色の悪い邪悪な思い込み~妄想しか生まれてはいないでしょう。楽山は、霊どころか、心が分からない人です。
 
歴史的事実に忠実に現実的に読もうとすれば当たり前のことではあるが専門家による研究を無視する事はできないのだと思う。
 
歴史的事実に忠実に現実的に読むのであっても、霊感は必要ありません。特に宗教においては、人間らしい、冷静な、知性と感性があればよいのです。受け取るべきは、史実ではなく、真実であります。楽山は、いちゃもんをつけたいので、専門家の研究を、人を無視して、やたら、ネタにしています。
 
こういうところで、専門家の研究を無視することはできない、などと、専門家の言うことが分かる自分を出してきて、自身の厚顔を表してしまうような、そして、一般を軽く見るような、楽山は、どんなに選り好みの読書を続けても、宗教と信仰の真実を受け取ることはないでしょう。
 
楽山から発せられる、「忠実」「当たり前」は、とても危険です。楽山が、真実を伝えることはないと思います。どうか、だまされないでください。
 
昔こんな奇跡がありました・・で、人は救われません。
また、史実の否定で、救いを否定することは出来ません。
 
信じれば奇跡が起こります・・で、人は救われません。
また、奇跡の否定で、救いを否定することは出来ません。
 
人間にとって、生き方を支える真実として、救いはもたらされます。
 
聖書は、歴史書ではなく、宗教の聖典であります。したがって、楽山のような者が、表面をペロペロ舐めて、あったなかったなどといって、信仰を受け取らないのは、猫に小判、絵に描いた餅、とでも言うべき体質的信仰不感症の雑言に過ぎません。受け取れないのならば、何も言わないことです。
 
 
人を救うのは史実ではなく真実

人を救うのは史実ではなく真実
 
 
(2020年06月07日)
(2021年06月18日、再録+加筆)
 
 
 
  虹色
 
貝殻の内に眠っていた
シャボンに乗って遊んでいた
オイル溜まりに淀んでいた
油膜の表で歪(ゆが)んでいた
テレビの画面にチラついていた
眼の内外で視線を鈍らせた
お空の虹
渡らせてくれと泣いてみるか
 
 
  無表情
 
筋肉という筋肉が
弛緩してしまったのか
硬直してしまったのか
何も語らず
動かない顔は
架空のように
時間と向き合いながら
刻々の侵入も喪失も
隠してしまった
顔の裏側の曲面に
だからきっと血みどろだ
 
 
(90年代か)
 
 
 
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