楽山の偽善性2
 
 楽山日記(LD) 2020年06月17日
 『読む力 現代の羅針盤となる150冊』松岡正剛・佐藤優 著
  を改めて批判。
 
 
楽山は、有名人、知識人、学者、などインテリが大好きです。自分も同様だと思い、そう見せかけてきます。しかし、自分に好都合なところだけを引用したり、賛同したりして、結局、自分もインテリだと言いたいだけの自己顕示欲だということが、以前から、表れており、信頼度はゼロなのです。
 
常々、もっと本が読みたい、もっと読解力を身につけたいと思っているので、タイトルにひかれて読んでみた。その中身はどうかといえば、どうも自分には高尚過ぎてついていけないところも多いのだが、全体的には期待した通り面白くて一気に読んでしまった。
 
一気に読んだと言っている楽山が言いたいことはというと・・
 
面白かったところをいくつか挙げるとすると、まずは宗教の通俗化についての話がある。恐らくは学者が書いた宗教関連書籍のことを念頭においての発言のようだが、佐藤優は「面白くないし、本質において宗教を信じる人の内在的論理がわからない。これはセンスの問題ですからどうしようもないです」(p.219)とし、さらには著名な宗教学者の名を出して、「読んでいると、本当に眠くなってくる」(同上)とバッサリ切り捨てているのには驚いたし、おかしくもあった。信仰のある人には、この発言に賛成する人は多そうではある。
 
いかなるジャンルの本にも、文章にも、面白いものと、面白くないものは、あるでしょう。面白くないだけなら、読むのをやめることも出来るわけです。しかし、楽山は、自らの読解力のなさを、面白くない、眠くなる、と言う他者の言葉によって、本のせいにするという呆れた有り様です。
 
実際には、楽山の書く文章のように、面白くないだけでなく、有害な文章もあるわけです。何よりも、共感が全くなく、書いた人の妄想とインテリ気取りと無理な自慢だけというのもあるから厄介なのです。宗教と信仰にとって、妨害行為になるので、批判しないといけないからです。
 
ここで、楽山は、知識人の口から、眠くなる、という感想を持ってきます。全か無で、いつも、自分と同じ意見を漁っては、書いてくるのが、楽山の特徴です。キリスト教、面白くない、というのを、印象付けたいのでしょう。いちばん面白くなくて有害な楽山自身の記事を棚に上げて。
 
眠くなるだけなら、読むのをやめればよいのです。
 
しかし、楽山の文章は、面白くないだけでなく、狡くて、嘘や詭弁が溢れており、汚い口で、読者を誘導してきますから、キリスト者としては、読むのをやめるだけでなく、抗議の批判を書くことになります。誰も、一人も、楽山に、近づいてほしくないからです。
 
もう一つ本書のなかで面白かったところを挙げるとすると、渡部昇一が高く評価されているところだ。「世間は「右側」の色でしか見ていないけれども、非常に優れたカトリック知識人だということは、やっぱり記録に残しておかなければいけない」(p.178)と、佐藤優は最上級の評価をしてベタ褒めをしている。
 
渡部昇一のことは、よく知りません。Wikiによると、宗教の著作より、はるかに、政治思想の著作が多いようです。しかし、楽山は、カトリック知識人ということを重視しています。そういう立場の人のことを書いて、自分を高めたいのでしょう。自身の罪と偽善を棚に上げて。
 
自分は渡部昇一は大好きで愛読していた時期があったのだが、そのうちに言ってることがあんまり大雑把すぎると思いはじめて遠退き、「書痴の楽園」を見てやっぱり面白いと思いなおしそのままになっていたのだった。でも根が単純なので、氏を高評価している文章を読むと、また読みたくてたまらなくなってくる。口述筆記のものは読みやすくていいが、そうではない初期のエッセイなどは特に中身が濃くて、着眼点も新鮮で面白かったと記憶している。いま読み返しても以前のように面白いと思えるか試してみたい。
 
言葉の字面だけを並べてキリスト教をおとしめ、今まで、殆ど聖書も本も理解できていないことが明らかになっている楽山が、「新鮮で面白かった」と言うのは、どういうことでしょう。・・説明できないから、面白かったと書くだけだと思います。読者家気取りは、前からです。
 
あとは、「読む力」ではなくて、書く方の話も面白かった。文章を書く際には誰に向けて書くか、その対象となる読者を明確にしておくべきだとか、書評における引用の必要性やケチをつけないことという心得も興味深かった。これらは文章作法の基本ではあろうが、ともすれば忘れがちなことでもあろうし、文章を書く毎に再確認しておくべきことである。
 
「ケチをつけないこと」を、こちらに当てつけてケチをつけているようです。私は、ケチをつけているのではなく、楽山が語る宗教と信仰の記事を、無理解と無責任という理由で、全否定しているのです。具体的な内容に加えて、自己愛、自己中は、宗教と信仰には、縁はないのですから。
 
本書はタイトル通りに、本、読書についての話題は豊富であるし、読むべき本のリストも提示されているので、本好きにとって楽しい本である。ただし一読すれば、まちがいなく読書欲を刺激されて、濫読したくてたまらなくなってしまうので、読書時間を十分に確保できている時以外は読むのは控えた方が無難ではある。そうしないと読みたいのに読めないというストレスで大変なことになるだろうから。
 
楽山のように、自己愛による自尊過大の人は、心で読む、心に深みを感じる、ということがないですし、そういう深みや人間味を感じさせる文章になっていないという事実経過があります。
 
そういう人は、乱読や熟読したつもりでも、少なくとも、その感想文が、誰かの糧になるということはないと思います。この記事も、解説につながることは、何も書いていません。
 
自身の意見も、一般の意見も、書かないで、解説もしていないことを、見逃してはなりません。楽山は、以前から、そういう人です。楽山は、自己愛性人格障害の自己顕示欲から気取っているだけで、読書家ではありません。
 
読むのは勝手だが、書いて公表すれば責任が生じることを知らないのでしょうか。小学校の作文も、採点がついて、公表されるのは優秀作品だけでしょう。扱っているテーマはとても大きいのに、楽山には、小学生レベルの心得も出来ていないのでしょうか。
 
自己主張ばかりして、自分に不都合な他者の意見つまり批判を無視している楽山は、いつまで、文責という責任を、自覚できずにいるのでしょうか。いつまで、この幼児性の我田引水の、無反省で無責任なのに、読書家を気取る楽山に、だまされる人が出てくるのでしょうか。
 
 
  楽山の偽善性
 
    今までに表れてきたこと。楽山についての資料まとめ。
    このまとめ記事は、加筆修正しながら、
    前半は前の記事と重複しますが、
    これからも、たびたび再録することになるでしょう。
 
 楽山についての、資料を、繰り返しもありますが、まとめて、
 あとのほうで加筆しておきます。
 
自己愛が強く自己中である。自己愛性人格障害だと思われる。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
 
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
 
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。
 
特に批判に対しては不感不応。理路が理解できないからだろう。
 
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
 
楽山本人は、自己愛性人格障害の自覚がなく、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリという気取りだけで、分かっているという我執から離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。
 
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
 
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
 
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、暗に、自慢して、自己満悦する。
 
気に入らないことは無視しましょう・・というアドラー心理学の宣伝をしていたが、それによって、自己中心にしか思考と判断を運べない。
 
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
 
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
 
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
 
聖書や、他の文章も、心で受け取るということが出来ない。
 
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、なぞっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
楽山は、学習の結果としての自身の顔を持ちません。ゆえに、反キリストでありながら、キリスト教に執着したりなど、一定の見解もなく、求めることもなく、いくつもの良さそうな仮面を作っては見せびらかし、自己顕示して自己満足するだけなのです。そして、責任を負いません。
 
ボンヤリ言語は、狭義には、少し誇張した例を言うと、・・と言えなくもない、といったような、二重否定の肯定を多用し、自信の無さよりも、はっきりした主張を避けることで、思路の散逸や無責任につながります。
 
喩えれば、あとでつけ込まれないように、ぼかしている、または、不安で不安で、無事に帰ってくるかどうか分からない船を、遠くから、見送っているようなものです。したがって、主張のしっかりした中身がないのです。
 
それと、ボンヤリ言語は、加えて、文脈の進め方として、回りくどく、粘着するような言い方をして、楽山の記事を読む人が、ああそうですか、というような、めんどくさがりながら、受け取ったことにするという、角の立たない受け入れへと誘います。
 
私の経験から、いい文章は、その一部にでも、大なり小なり、はっとするような意外性の驚きか感動を伴います。ふつうは、そういう文章を誰もが書きたいと思うし、努力するのでしょう。楽山は、そういう文章に見せかけることだけを専らとします。
 
しかし、楽山には、良い文章を書く方向に努力する意志もなく、通念的以下の文脈になっても、既に、感動を、自己満足で置き換えているために、批判されることが、いちいち不当にしか思えないのでしょう。
 
読書において、楽山は、本当の自己満足を打ち砕くような感動をしたことがないのでしょう。だから、字面の辻褄があっただけでも、涙した、などと、また、はっとすることを、自分の言葉で表現できないために、そのまま、あっと驚いた、などという、原始的な書き方をすることになります。
 
上のような言葉の表現上の悩みは、多かれ少なかれ、誰にもあるのかもしれませんが、だからといって、あんまり、白々しい表現だけで満悦するなんてことは、ふつうの正常人にはないと思います。
 
ましてや、謙虚な自分を、トホホ言語の、わざとらしい書き方で表したつもりになるというのも、これも、同じ、まんまだけの、字面だけのものになるわけです。三文芝居なのです。
 
即ち、楽山は、自身の、字面の平面を、いつも、滑っているだけになり、他者の言葉を借りて、文章を書き、それで、足りるとか、出来たとか、のつもりになっている間、どこにも届かない字面のジレンマが続くことになり、結局、ごまかして、だます方向に行ってしまうのだと思います。
 
言語表現に向かない人は、絵を描くとか、音楽とかの、別の世界にという可能性もありますが、少なくとも、言葉と伝達の一対一対応という幻想に満悦固定してしまって、字面=言いたい内容として、読んだ、書いた、と思って、当てつけてくるだけでは、どうにもならないのです。
 
 
参考までに、前に何度も、結果だけは書いてきたことですが、次は、シャロームと楽山の関係を示している事実です。
 
 
  偽善者の自滅
 
シャロームのことです。自滅というのはシャロームの言論・信条の自滅のことです。
 
私は、シャロームには、キリスト者に不可欠の、罪の意識がないと思ったので、それと問いただしていました。すると、シャロームは言ったのです。
 
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」
 
シャロームは、悔い改めて罪を認める、ということを否定したのです。これは、いかなるキリスト教、キリスト信仰にも、ありえないこと、というより、反キリストの証明になります。
 
当然、そこを、追及することになります。
 
すると、シャロームは、その場を繕うような、白々しい詭弁で言い逃れをしてきます。
 
「悔い改めは、神が与える」
 
シャロームは、神が与えるなら、悔い改める、今は違う、とでも言いたかったのでしょう。
 
しかし、この文脈で、この発言は、シャロームがキリスト者ではないことを表しているのです。
 
なぜなら、シャロームが、今に至って悔い改めをしないのは、神が、シャロームに与えていないということになるからです。つまり、シャロームは、自身がキリスト者でないことを、自ら証明してしまっているのです。
 
そして、このシャロームの言説に、無条件で賛同したのが、楽山なのです。
 
楽山は、シャロームの妄想信条に賛同しました。このことは、楽山が、自主性の無い人であり、シャロームの、成りすまし、親族、仲間、そのいずれかであることを、楽山が、自ら、証明したことになります。
 
神が人を悔い改めに導く、という聖句です。↓
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:3
ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。 
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。 
2:5
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
 (ローマ2:3-5、新約聖書)
 
 
毒の花・偽善

毒の花、偽善
 
 
(2020年06月18日)
(2021年06月21日、再録+)
 
 
 
   傷口
 
面影さえもはっきりとは思い出せないのに
傷口だけは鮮明に存在して
時に血を吹く
いつこの血は絶えるのか
絶えはしない命のある間は
時に激しい出血とともに
嘔吐するのはやさしかった夢たち
喉に引っ掛かるのは空しいギャンブル
血は冷血となって足の下を流れる
感情の線を一本また一本と引きながら
 
 
  うた
 
いつか うたも
うたを うたうことも
おおきな こえを だす
あそびに すぎなく
さけに よえば
わらうほど
よわくなりましたね
ほんとうは べつの うたを
つよい うたを
つづれるほどに
ペンを はしらせたい
うたが すべてではなく
すべてが うたではなく
ウソが あそんでいる
ことばに のって
ちがう くにへ ・・・
そのくには どこにあるのか
また みちに まよいましたね
あさの きずが みつけられない
 
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山日記(a)
 『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』を見た。
 NEW!2021-06-19 テーマ:アニメ
 
これは名作。それぞれの未来がわかるせいか、なんだか、みんな可哀想で泣けてたまらん。
 
記事本文は、これだけです。「みんな可哀想で泣けてたまらん」・・オールマイティな人情家のアピールでしょうか。他に書けないのでしょうか。この感想も、ウソ臭い芝居になると分からないのでしょうか。
 
批判されている状況を無視して、こういうお気楽芝居は書いてくるのです。
あとはリンクだけのようです。
 
機動戦士ガンダム THE ORIGIN[B-ch] | アニメ | 無料動画GYAO!
 」
(リンク機能省略)
 
基本が、こういう興味・趣味しか持ってないことを物語っています。どういう状況でも、反省して何かを改善する気はなく、一方で、こういう趣味的なことは、平気だよとばかり、書けるわけです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·8時間
これは見に覚えあり!
やっぱ、HS信者だったころの自分はマイコンされてたんだなと再確認。
午前11:48 · 2021年6月20日·Twitter Web App
 
引用されている図(省略)
 
「見に覚えあり!」・・楽山には加害者として "身に覚え" があるはずです。傍観者気取りと、被害者意識で、ごまかすことは出来ません。楽山は、楽山のことを言っていることになります。
 
情報隠蔽は、こちらの言うことを平気で無視することであり、
嘘吐きは、楽山について、次々に暴露され、前から何度も言っていることであり、
 
人間離れは、楽山の大好きな超常心霊趣味であり、思想の論外超越性であり、
リアリティの操作は、キリスト教への幼稚な曲解の刷り込みであり、
 
偏見と超常話で、読者をコントローして、疲労と徒労を読者にもたらし、
視野の狭小化へと、ついには、人格破壊へと、マインドコントロールを企んできました。
 
指摘されていることは、大方、楽山が、行なってきた卑怯な手段であります。カルト批判を装って、自らの仕出かしてきた、無反省と無責任の、詭弁と嘘の自己愛・自己中思想から、読者の目を逸らそうとしています。楽山は、またしても、傍観者・評論家気取りで、だまそうとしているのです。
 
自分に欠点があることを、真剣には、認めていない自己愛性人格障害者、病的ナルシストは、攻撃するときも、褒めるときも、思いやるときも、体質的に、芝居の演技となり、多くは、自分が相手より、自分が他者より、上だということを表さずにはいられないようです。
 
自己愛性人格障害は、自己愛に固執するために、正常で冷静な理路や、豊かで繊細な感性が、働かなくなります。その結果、理路は整わず、詭弁となり、心情表現は、わざとらしく、単調で誇大的になることを、見逃さないことが大切です。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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