読書2
  
   読書一般でもありますが
   ここでは聖書とその関連と楽山批判がメインです。
 
 
私は、あまり本を読みません。読書障害の傾向があります。他の人々から、読書のスピードについて1時間に50~100ページ~などと聞いたことがあり、ふるえあがりそうでした。読んでいても、また、少し前に戻ったりするので、なかなか進みません。疲れます。
 
中学の頃か、パールバックの「大地」を読んだことがあります。私が読んだ唯一の長編小説です。大偉業を成し遂げた気分でした。母に告げると「続きが読めなくて残念ね」と返されました。・・これが読書好きなんだ・・と思い、自分の読書障害に気づくきっかけになりました。
 
私が読める本は、次が読みたくなるように引き込んでくれる本、または、これを読まなかったら人生成り立たない、例えば、教科書のような本、などです。この「など」は、とても狭い。
 
小説より短い詩のほうに興味が行くのは必然だったようです。現代詩文庫は十何冊ほど読んだかな。理解してるかどうかは別です。近代詩では、中原中也が、いちばん好きです。
 
それで、私には、1ページ程度のブログ、というのが合っているのでしょう。その私が本の読み方を語るのは、おかしいわけですが、本というより文章の読み方なので、1ページ、1コメントにも、共通するような読み方はあるだろう、ということです。
 
 
ネットの病的ナルシストとして私のブログで既に資料となっている楽山は、心で読むよりも、唯物論の思考が好きだと書いていました。読み方を好みで選んだりしていいのか、それで分かったような書き方をしてよいのか、という問題があります。
 
しかし、それよりも、問題なのは、楽山の言う "唯物論" という言葉です。楽山の言葉を拾ってみると、「保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので」・・八方美人が正義とでも言いたいのでしょうか。
 
実際は、自身の "根無し草" ぶりを表しています。そして、「精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。」・・どうやら、楽山に対して、心で読まない、心が無い、と言った私への当てつけのように思われます。
 
悪い意味で、すごいのは、楽山が、唯物論、というデカい言葉を、平然と使っていることです。こういう、学術用語、専門用語を使うのが、楽山の好みであり、気取りであり、見栄なのでしょう。今まで、学問の言葉を愛し、学問することをサボってきた楽山ならではのことです。
 
(ネットより)唯物論: → Wikiですが、なぜ載せたかピンと来なくなったので、文末へ移動。
 
観念論に対する唯物論。これは、自然科学の方法論のような気がします。間違っても、科学的見方からは程遠い、霊が分かるっぽい自覚の楽山には、欠片もないことだと思いますし、この唯物論で、宗教、信仰、神、などを表せるはずはないのです。
 
楽山の言葉の、とても、雑で、いい加減な選び方が表れています。機械論と創造論のことについても、同様でしょう。一般的にも推測~仮説です。聖書を読むのに、学説や仮説を学んでいなければならないというなら、信仰者になりうるのは、学者だけということになりますが、違います。
 
キリストが、誰に教えを垂れ、誰を愛したか、ということを思えば、聖書を読むときに、特殊な知能を要するような言葉は必要ないはずです。
 
それに、マルクス主義の唯物論は、革命の原動力となったわけですから、学問の外皮を持ちながら、結局は、人を動かす情動に訴えるものだったわけです。善かれ悪しかれ、心がないところに革命は生まれません。
 
上から引用しますが「理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場」「社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される」
 
世の中、金や、金や、という意味でしょうか。違うと思います。また、それが革命で良い方向に実現したとは思えない歴史だし、金は必要だけど、金だけが生き甲斐を生むとは、到底、思えません、という、一般論となっていることで、ここは十分でしょう。
 
私は、"論" というもので人間は、まともには動かないと思っているので、あまり興味はありません。物質的欲求が人を動かすというのは、悪い意味のほうで、信仰・宗教にも登場してきます。
 
楽山が、これらの論を理解しているとは、これまた、到底、思えません。そういう理論立ててゆく筆致が、楽山に見られたことは一度もありません。楽山の理屈は、これまで、結局、視野狭窄と短絡で出来ていました。
 
以上をもって、楽山は、私に、心で読んでいない、と言われたものだから、心ではなく唯物がよい、などと、短絡した視野狭窄で、前から言っている、"唯物論の字面" だけを拾って、都合よく利用し、かつ、大失敗しているだけなのです。
 
楽山が、ずっと、心霊について書いてきたことが、半端ながら、楽山の唯物論を、否定しているのです。聖書は、常識的な理路と感性をもって、キリストと救われた人々との心の交流、その愛と共感、という見方をしないならば、一行も読んだことにはならないのです。
 
楽山が、有名人や学者の言を引用して語ることは、極端に自己愛に執着して、かつ、字面だけを受け取って書いていることですから、引用元に対する侮辱であります。決して、真に受けないでください、そして、近づかないでください。
 
 
読書したふり?2

読書したふり?
 
 
(2020年06月21日)
(2021年06月27日、再録+)
 
 
 
  わかる
 
わかる
という心の励起状態は
少なくともある種の到達感
あるいは多かれ少なかれ感動を伴なう。
 
私はバカみたいに
四十代後半になって
つまり全く無益なことだが
高校数学のお勉強を時々していた。
論理であるはずの数学においてさえ
例えば二次関数曲線の長さとか、
X軸回転体の表面積とか、
1‐(1/2)+(1/3)‐(1/4)+…など、
高校の時には考えなかったことが
解けたときと似たような感じを覚える。
 
数学は独特の感覚的理解を要求するので、
高校レベルを超える数学には
もはや私の感性はついていけない。
 
詩や文学・芸術にも感性が必要だが
それもまたつくづく限界を感じる。
向き・不向きを分けるセンスというものが
いろいろな分野において要求されるが、
信仰だけは人間性以外の
特殊な感性や知的資産を要求しない。
 
理解する・わかるということは
その漢字とは裏腹に
多分に情緒的な享受であり
そこから広がっていく心の解放感
を必ず伴なう。
そうでないものは単なる辻褄合わせか
無理な思い込みに過ぎない。
 
(90年代か)
 
 
 
数学は、数学の感性と理路を持っている人の間で、交流できる言語となるでしょう。
詩は、詩の感性と発想を持っている人の間で、交流できる言語となるでしょう。
 
少なくとも日常的な人間の感性と知性を持っている人なら、多くの文章を読むことも書くことも出来るでしょう。ふつうの感性と知性は、学習することで、磨かれます。
 
しかし、その感性と知性を、努力もなしに、妄想的な前提で固定してしまう自己愛性人格障害者には、読んで受け取ることも書くことも、歪んでしまうのです。そういう者が、一人前に書こうとしても、書けないために、嘘を吐いて偉そうに見せたり、詭弁で誘導するしかなくなります。
 
体質的な自己愛者は、丁寧語や、優しそうな言葉で、取り入って、婉曲表現の多い文章に、よく読めば、偏った思想の流れが見えてくることがあります。遣り取りとしていると、学習の欠乏と、筋の通らない妄想的な内容や、隠された怨念や攻撃性が表れることがあります。
 
自己愛者は、他者の意見を受け取らずに、自分の意見を繰り返し、手を変え品を変えて、言ってきますが。訂正不能であるばかりでなく、小学生のように幼稚な内容を、学者の名前でごまかして、知識人を気取る有り様が、その異常性を見抜くきっかけになるでしょう。
 
人間は、他者の意見を受け取って、不十分ながら理解したうえで、責任をもって、つまり、間違ったら訂正や反省をすることを通して、言論を生かしてゆくでしょう。少なくとも、そういう努力の姿勢が見えてくるはずです。
 
しかしながら、自己愛者が、こちらの疑問に全く答えられず、反論も弁明も出来ないだけでなく、さらに、何も理解しないまま、自己顕示欲だけから、気取りだけで、学問や学派や学者を語る様は、とても醜いものです。そういう意味では、自己愛者は、現実のホラーと言ってもよいのです。
 
反省を全くしないこと、人のことばかり言い、人のせいにばかりすることから、自己愛者だと知ったら、その者が、決定的な破綻をきたす前に、出会ったら、逃げること、関わらないことを、お勧めします。ひどくなれば、犯罪に結びつきやすいと思います。
 
ドラマなどに出てくるような、怒りと笑いと芝居だけで出来ているような犯罪者は、自己愛性人格障害、人格破綻者、精神病質、サイコパス、情性欠如者、などと呼ばれます。似たようなものです。病識と自覚は、全く見られません。どうか、くれぐれも警戒してください。
 
 
俗にナルシストと言われる人の中には、単なる自慢好きも含まれているかもしれません。そういう人と、自己愛性人格障害者という病的ナルシストの違いですが、前者は、人が困っていたり、のっぴきならない事態であるときには、それを感受して、一気に実直になれることでしょう。
 
後者の病的ナルシストは、いかなる事態にも、どんなに人が迷惑していても、それ以前と同じように、平然と、自己愛からの発信を続けるだろうと思います。その経過は、批判を開始してから2年、変わりなく、謙虚を装って、ときに笑いながら、自慢を続けてきた楽山に、如実に表れてきました。
 
病的自己愛者には、ブレーキがかかることはないのですが、都合が悪くなって、様子を見たり、やり方を変えてみたりはあると思います。それは、反省とは全く異なるもので、策の練り直しであり、狡猾さが表れているのです。
 
(2021年06月27日)
 
 
 
2021年06月26日
三島由紀夫の霊言?
「幸福の科学とは何だろう?」ブログ by 楽山
 
楽山は、この記事で、ORによる「三島由紀夫の霊言」なるものへのリンクを貼っています。それが、どうだとかは、書かずに、リンク付けて、何が言いたいのでしょうか。楽山自身と共通点のある教祖のことを書いて、おかしいでしょ・・と言いたいのでしょうか。見るがよい・・だけでしょうか。
 
個人メールか、宣伝ビラのような考えでしょうか。書けば、見る、見れば、分かる、という気安さで書いて、ブログで発信することの公共性を、ほとんど考えない楽山です。
 
 
 
→ (ネットより)唯物論:参考までに。
観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方[1]。
唯物論は、文脈に応じて様々な形をとるが、主なものに以下のようなものがある。
世界の理解については、原子論と呼ばれる立場がよく知られている。これは原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする考え方で、場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である。非物質的な存在を想定し、時にそのような存在が物質や物理現象に影響を与えるとする二元論や、物質の実在について否定したり、物質的な現象を観念の領域に付随するものとする観念論の立場と対立する。→経験論、現象学も参照のこと
生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり、生気論と対立する。また、生物が神の意志や創造行為によって産み出されたとする創造論を否定し、物質から生命が誕生し、進化を経て多様な生物種へと展開したとする、いわゆる進化論の立場も、唯物論の一種と考えられることがある。例えば、ソ連の生化学者アレクサンドル・オパーリンが唱えた化学進化説はその典型である。
歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される、とする。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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