だだもれ楽山
 
 『吉田松陰の留魂録』紀平正美著
 2021年07月07日 楽山日記(LD)
 
 
聖書もろくに読まないし、曲解しか出来ないのに、やはりいつものように、有名人の書いたことを、またいつものように、都合のよいところだけ引用して、こんな本も読んだんだぞ・・と自慢してくる読書家気取りしかなれず、ついに、大事なことだけは学ばずに、凝り固まってゆくのでしょう。
 
*積読本発掘
本書はいつどこで購入したのかは覚えてないのだが、我家の積読コーナーで見つけたので引っ張り出してみた。大きさは文庫サイズで、本文と巻末の付録を合わせても143頁の小さな本である。前半は松陰の生涯とその時代についての説明、後半は留魂録とその註釈という構成となっている。奥付によると、昭和18年第7刷(初版昭和15年)とある。
全体を通読してみたところ、自分は次の三点に強く興味をひかれた。
 
楽山の「興味をひかれた」というのは、都合がよかったということです。公平に中立に読み取っていないことは、本の記事の漁り方、その感想の書き方に、哀れなほど、滲み出てきたのです。それで、文章を書くことが面倒になっているのでしょうか。
 
そして、写真を出すということは、読んで自分で感想文を書くのが面倒くさいからでしょう。ほれ、証拠の写真じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。見たという写真と、読んだという文章が、まるで、一致してこなかった楽山の怠慢と欠陥が、同時に表れています。
 
*松陰とイエス
まず一つ目は松陰とイエスとを並べて論じているくだりである。これは意外な組み合わせにも思えるが、一読してみるとたしかにこういう見方も可能かもしれぬ。
DSCN2974 松陰とイエス
 
「たしかにこういう見方も可能かもしれぬ」・・楽山の、いい加減な心性がむき出しになります。「たしかに」で、どうして、「かもしれぬ」なのでしょう。写真を出して、証拠あるから嘘じゃないと言うつもりなら、写真だけ出して済ませるという無理解と作文嫌いが出てしまいます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 
 (マタイ27:46、新約聖書)
 
神と人の関係において、人は、神に見捨てられたかのように死んでゆく、という預言かもしれず、また、それ以上に、苦難と悲しみの、これ以上ない共感を、キリストが、自らの心と体で、示している聖句であります。
 
*天皇
二つ目は天皇に随順することについての記述である。自分にはよく分からぬ論理ではあるが、考え方の筋道はどうにかして理解したいとは思う。
DSCN2975 天皇
 
「よく分からぬ論理」と書きながら「どうにかして理解したいとは思う」と書いて、どう理解したのでしょう。また、再度、熟読するつもりでしょうか、積読処理だから、違うと思います。できない・しないことを、まともに見せかける体質が、ガス漏れしているのです。だから、臭い。
 
*至誠と言葉
三つ目は「至誠而不動者未之有也(至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり)」という言葉である。松陰はこの言葉に突き動かされてあのような生涯を送ったのだとすると、言葉というものはやはり非常に大きな力を持っているということだろう。
 
「言葉というものはやはり非常に大きな力を持っている」ということが要旨でしょうか?・・違うと思います。言うだけではなく、行動することの大切さを述べているのではないでしょうか。なのに、言葉のほうを取るのでしょうか。ズレまくってはいないでしょうか。
 
残念なことに、自分の言葉はどうしようもないほど軽いのではあるが、今後はもっと言葉を大切にしたいと思う。また前に読書を中断したままになっている『講孟箚記』ももう一度はじめから読み返してみたい。
 
「自分の言葉はどうしようもないほど軽い」「もっと言葉を大切にしたい」・・おかしなところを、きれいごとでごまかす、という楽山の、いい加減な筆致と体質と人生が、だだ漏れしています。楽山の自己愛性・自己中体質では、何度読んでも一緒だろうと思います。
 
このように、本から、都合のよい文言を引っ張り出して、自分に都合のよいように、利用~悪用する体質であることは今までに明らかになっていますから、今後も、嘘八百の詭弁と自分飾りが続くだろうと思います。
 
書いて、批判されて、また書いて、また滑る楽山です。こういう生業を、恐らく、一生続けることになるのでしょう。しかも、それを、丁寧語で、言いふらして、ある程度、受け入れられてきたようですから、体質的な災いの恐ろしさを思います。
 
自分で書いて自分で矛盾を深める、言い訳しようとして失言を重ねる、こういうことは、ある程度、経験している人もいるだろうとは思います。私もそうです。問題なのは、楽山において、それが常態で、矛盾や失言を気にする心が無いのです。どうか、楽山に近づかないでください。
 
 
だだ漏れ

だだ漏れ
 
 
(2021年07月08日)
 
 
 本当のことは言われたくない?(信者が逆ギレする理由)
 2021年07月07日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
楽山はこの記事をツイッターで宣伝していますが・・
https://twitter.com/komo266/status/1412525692760125443
どこまで嘘が通用すると思っているのでしょう。
批判されることを、相手の逆切れだと罵りたいのでしょうか。
 
 
楽山は、都合のいいこと以外、何も思い出さない人です。楽山は、例えば信仰など、本当のこと、即ち、真実を、何一つ理解できず、ごまかすために、嘘を吐き、詭弁で通そうとする人です。世辞と空想が大好きで、本当のことを、いちばん、言われたくないのが、楽山です。
 
*思い出した
前記事を書きながら、思い出したことがあるのでメモしとく。
*一つ目
もう大分前のことになるが、宏洋氏が「HSでは何でも大川隆法と同じに考えなければならない」という主旨の批判をしたときに、HSはそんなことはないと猛反論していたのだった。「HSは自由な団体だから、そういう全体主義のようなことはしない」云々と。
HSは常日頃から、大川隆法の考えに自らを合わせるべきことを繰り返し説いているのに、それをそのまま言われたら激しい拒否反応を起こしたわけである。
 
楽山とは、決して自由な議論は成り立ちません。徹底した利己主義・自己中心です。人のことを言えば、同じことを、自分が言われることを、全く理解しない体質的欠陥者です。霊能者気取りの、のぼせ感覚で、独裁を夢想~妄想しているのかもしれません。丁寧語にだまされないでください。
 
*二つ目
また先日はツイッター上にて、アンチ側が「信者は大川隆法を絶対視している」と指摘した際に、信者側からそんなことはないという猛抗議があり、プチ炎上したのだった。
いつもいつも、「大川隆法は正しい、異論は認めない」という類の発言を繰り返しているにもかかわらず、大川隆法を絶対視していると言われたら感情的になる信者が続出したのだ。
 
いつもいつも、物わかりのよさそうな言い方をしながら、疑問・批判を向けたら、途端に、被害者面をして、さらに無視してくるのが楽山です。批判者に対しては、悪口を返すか、無視してきます。どちらにしても、対話が全く成り立ちません。わがままと怨念だけで出来ているような人です。
 
反対を言い、賛成を言って、断定していないから責任はない、という言い分でした。反対したら反対した責任が、賛成したら賛成した責任が付いてくることさえ分かっていないのです。駄々をこねる小学生レベルですから、話し合おうなどとは思わないでください。精神衛生を害されます。
 
*逆ギレの理由
このあたりをみると、HSとその信者は鏡を見ないのかなと疑問に思うし、もしかしたら内心では自分たちの信仰のあり方はどこかおかしいと薄々気づきつつもそれを認められず抑圧しようとしているから、そのことを明確な言葉で指摘されるのが嫌なのかもしれないとも思えてくる。的外れな批判には失笑するだけで腹を立てることはなくとも、的確な批判で図星を指されたときは大きく動揺させられ激怒するのはよくあることなので…。
 
楽山が、いかなる批判にも反応しないのは、高等感情がないのだろうと思います。つまり、罪悪感や羞恥心などがないのでしょう。だから、何か言っても、聞かなかったことに出来るのです。自己愛性人格障害だと思います。真面目に言ったこと、楽山は笑ってると思ったほうがよいです。
 
賛同意見は、中身ではなく、賛同だから歓迎します。人間としての深みがなく、自己顕示欲に忠実で、そこからの、無反省・無責任が、密着・固着しています。この男、何を言っても無駄、何を聞いても無駄、ということを少しでも周知するために批判を続けています。
 
お節介で申し訳ないが、上の批判にキーッとなる信者さんは、この点についてよく考えてみても損はあるまいと思う。
 
このように、アドバイスをしたがります。自分は、心配ない人で、分かっている人で、君らの上にいるのですアピールをしてきます。同じ地平に立つことのできない、思い上がりがとても醜い、哀れな、病的ナルシストなのです。よく読めば、文章は拙劣で、言い放って終わりとなります。
 
上から忠告することが、楽山にとって唯一の快感なので、「お節介で申し訳ない」などとは、全く思っていません。中身の伴わない世辞を、真に受けないでください。学者気取り、評論家気取り、インテリ気取り、霊能者気取り、など、すべて、気取りだけで出来ている人です。
 
こういう楽山に対しては、楽山が人の言うことを無視するように、こちらも、批判者以外は、楽山を徹底して否定し無視するしかないのです。中身のあることは、いっさい言えない人ですから、一人前以上だと独り思い込んでいる孤独で哀れな人が、また言ってる・・と思ってください。
 
楽山は、迷惑極まりない、一つの、口と悪意周辺の、現象に過ぎません。双方向で成長可能な人格として成り立っていません。楽山は、他者の言を平気で捨てますから、こちらも、楽山の言を捨てる以外ないと思います。
 
楽山にとっては、ヒューマニズムによって同情されることが、何よりの好物なのです。婉曲ボンヤリ言語と、嘘の謙虚芝居トホホ言語に、だまされないでください。いかなる知性と情性をもって生まれてきたとしても、生まれ育って、責任と反省力を捨てた人は、人間を捨てた人なのです。
 
 
(2021年07月08日)
 
 
 
  挫折
 
捻(ねじ)れた火の玉である
守ろうとすればするほど
疼(うず)いて返される炎である
誰からとも知れず無作為に
ばらまかれる如何(いかが)わしいメールを
送られてくるたびに削除する程度の
勇気があればよいのだ
 
飛ぶこともできず枝の上で
跳ねているだけの手負いか病の小鳥の
指で抓(つま)んでも折れてしまいそうな
脚(あし)よりも細く
垂れて弛(たる)んでいる脂肪の中に
隠れている細い筋に
頼るほどに倒れそうな歩みのうちに
まるで罪滅ぼしでもするかのように
罪を滅ぼすことなどできない
と分かっているのに
今は自らの踝(くるぶし)を
挫(くじ)けるだけ挫いている
 
(90年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング