罪のらくだ      
 
「右の頬を打たれたら・・・」
左の頬をぶん殴ってやる
か逃げるだろう
「みだらな思いで女を見た者はすでに姦淫を・・・」
みだらな思いで女を見たことのない者は
性欲の異常か病気だろう
「敵を愛し・・・」
本当に敵と思ったら
愛せるはずはないものを
「我らに罪を犯すものを我らが許すごとく・・・」
許せることもあれば
許せないこともある
許すべきではないと思うことさえある
許したつもりの心の裏側に
隠された軽蔑、あばかれるごとく・・・
 
主よ、あなたの教えを守らなければ
罪人なのでしょうか
御国へ至る道はないのでしょうか
 
主よ、許されて御国へ至る道を知らしめたまえ
まことに私は罪人です
繰り返し繰り返し
主の教えを破るばかりか
それ以上の罪を犯し
さほど金持ちではありませんが
針の穴に向かって突進する
愚かなラクダ
主よ、あなたに許されるより救いはなく
小さな針の前で途方に暮れて
とうとう針を飲み込んで
毒を飲み込んで、瀕死の
みすぼらしいラクダ
あるいはヒトです
 
 
  イエスの教え
 
 イエス・キリストの教えの中にある到底守れそうにない、無理難題としか思えないもの。前にも述べたが代表的な三つの教えを再びあげてみる。
一、右の頬を打たれたら左の頬を出せ。
二、女を情欲の目で見たものは既に姦淫を犯したのである。
三、敵を愛し、敵のために祈れ。
 一は心の準備ができていたら、ある程度までは耐えられる人もいるかもしれない。限度はあるだろう。二は十戒の姦淫の拡大解釈と思うが、正常な性欲を持っている男にはまず無理だろう。私はその方面は恵まれない者であったが性欲自体はごくノーマルだと思う。欲求不満がようやく枯れつつあるが、それでもやはり無理難題である。十戒の解釈ならば試しに別の勝手な拡大解釈をしてみたらどうだろう。「人に悪意や殺意を抱いたものは既に盗み人をむさぼり殺したのである」と。三になると死を覚悟しなければならない。これがまず難しいことである。守れるクリスチャンがどれだけいるだろうか。私はもちろん自信がない。さらにそこまでしてこれを守ることが他の人のためになるだろうか。この教えを守った人がいたとして彼が見事に殉教したあとで敵はさらに愛する人々を数限りなく殺すかもしれないのである。極言すればイエスの教えを完全に守れる人はイエス御自身だけではないかとさえ思うのである。
 教えを守れる人がいるとすれば尊敬に値するし実際殉教した人たちがいるわけだから教えを無視することはできない。しかし教えを守れない人は天国に行けないのであろうか。イエスは罪を知る者には許しと癒しを与えた。イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人の話を思い出す。犯罪人でさえ当然の報いだと罪を認め救いを求めた者には「あなたは今日私と一緒にパラダイスにいるであろう」と言われたキリスト・イエスであるのに何故あのような厳しいことを教えられるのだろう。
 イエス・キリストはやさしかっただけではなかった。戒め・律法を守っているがゆえに罪を認めない者には徹底して厳しかった。このことと三つの教えを考える。あの厳しい教えによってキリスト・イエスが最も言いたかったのは掟ではなく戒めを守るよう示すことでもない。あの十戒よりも厳しい教えを守れないものが殆どであることは百も承知で言われている。そして教えるときにはパリサイ(ファリサイ)人や律法学者がイエスの視野の中に常に敵対してくる相手としてあったと思う。イエス・キリストは、律法を守るか守らないかで罪か義かを判断しようとする当時の風潮と形式だけの信仰にここでも挑戦している。律法を守っているから罪はないという考えには更に到底守れない教えを説くことによって、結局は罪のない者・罪を免れる者は一人もいないということを言われていたのではないか。
 罪を知り、悔い改める者が天国へ行ける。この教えはヨハネに通じる。しかし悔い改めたら改まるのであろうか、もはや罪を犯さなくなるであろうか。目覚めて勇敢な使徒となった人たちは別として、私のように悔いても悔いても罪を犯し続ける人間もまた憐れむべき罪人として見抜かれて主イエスの視野の中に入っていたと思いたい。罪と告白と悔い改め、その繰り返しの中でキリストの前に悲しみと喜びをさらけ出しながらともに歩む人間を求めておられたし求めておられるように思えてならないのである。
 
(書いたのは90年代だと思う・・)
(2014年09月18日、フォントなど、若干修正加筆)
現時点での私の解釈としては、キリストの教えは結局のところ、
  罪なき者は一人もいない
ということではないか・・と思っています。