聴診器の幻想
 
悔いながら懐かしみ
死にそうで生きていけそうで
ここまでは大した心臓で
逆流の雑音を奏でる聴診器
は既に昔の熱(ほとぼり)のように
胸を叩く幻想を傍らに
後ろ向きの赤子と
笑う喀痰の老人を同時に記帳して
費え去る収支のページをめくり
破れた扇子を広げ
無知なる未知に語り続ける
初めて字を書いたときの
初めて言葉を失ったときの
初めて忘れたと言ったときの
肉体と精神の継続が
幻想でも現実でもなくなるまで
内緒話の途切れ間を
管のカルテに送り続ける
 
(1998年11月4日、HPにアップ)
 
 
  風の笛         戸田聡
 
ほとんど風のない日だった
ふと一吹きの風の中に
笛の音(ね)を聞いたような気がした
突き当たりの角をいつ曲がってきたのか
風に押されて来たかのように
一人のまだ幼い男の子が立っていた
幼年時の私の顔には似ていない
涼しげな顔が少し蒼ざめて
突き当たりに向かって歩いていく私の
手を軽く握って
親子でもないのに手をつないで
曲がり角に差し掛かった
ふと一吹きの風
笛の音を聞いたような気がした
手の中の小さな手も
その子もいなかった
私は風とは逆の方へ歩き出していた
もう戻れないと思った
笛を吹いたのは君だね
踊らなかったのは私だ
 
(1998年11月4日、HPにアップ)
 
 
  虹色         戸田聡
 
貝殻の内に眠っていた
シャボンに乗って遊んでいた
オイル溜まりに淀んでいた
油膜の表で歪(ゆが)んでいた
テレビの画面にチラついていた
眼の内外で視線を鈍らせた

お空の虹
渡らせてくれと泣いてみるか
 
(1998年12月14日、HPにアップ)
 
 
  無表情        戸田聡
 
筋肉という筋肉が
弛緩してしまったのか
硬直してしまったのか
何も語らず
動かない顔は
架空のように
時間と向き合いながら
刻々の侵入も喪失も
隠してしまった
顔の裏側の曲面に
だからきっと血みどろだ
 
(1998年12月14日、HPにアップ)