心情的矛盾律、体験宗教・人間宗教
 
まず一つの命題を考えてみよう。
 
私は偽キリストである。あなたは私を信ずるか。
私は偽預言者である。耳ある者は聞くがよい。
 
これは論理的矛盾律ではない。
しかし心情的には、
偽キリストが自分を偽キリストと名乗ったりはしないだろうし、
本当のキリストなら、これまた偽キリストと名乗る必要はない。
よってこれは心情的には矛盾律であって、
つまりどちらも成り立たない、どちらでもないのである。
本物ではないのだから、この矛盾律をもって
私は「偽キリスト教」なるものを展開しようと思ったのである。
 
しかしこれは誤解されやすく、
また悪用されるかもしれない。
わざと偽キリストを名乗って
本物でないことをよいことに
好き放題に謎めいたことを言い(まさに私か?)
人々を惑わし
結局、利をあさる者が出ないとも限らないのでやめた。
 
私はあくまで人間として
俗人として
人の知りうる神あるいは信仰とは何かを考えていきたいのである。
神の存在も不在も証明することはできない。
だから信仰なのであり宗教なのであろうが、
人の知恵で測れない神を信じることには危険が伴う。
恐ろしい思い込みに陥ることさえある。
 
信仰に至るとは信じることではない。
人の知恵からみれば聖書によって
人生において否定することのできない「このうえない同伴者」、
すなわちキリスト・イエスに出会うことである。
それが神を知ることの始めであり終わりである。
限りであり、全てである。
神とその知恵を直接神様から知ることはできないから
信仰に至る過程で神の導きがあったとしても
それを同定することは人間にはできないから
キリスト・イエスを知ることで神を知るほかはない。
そういう意味で信仰に至るとは信じることではない。
永遠をともにするに足る同伴者に出会った、言い換えると
一生の付き合いになりそうなお方に出会ったという
精神生活上の宗教的霊的体験を持つ者をキリスト者(クリスチャン)という。
その体験は劇的に感動的に起こることもあろうが、
いつの間にか忘れられず考えてしまっているようなあり方もあると思う。
 
この、体験に重きを置き、人間としての限界を知るキリスト教を
体験宗教・人間宗教と呼びたい。
 
 
※ ここでは宗教と信仰をあまり区別していないようです。
広い意味では似ているかもしれませんが、
宗教は、信仰の切っ掛けになるとはいえ、教義が付き物です。
信仰は個人にとっての経験です。といっても言い尽くせない。失礼。