宗教
 
 私は宗教は嫌いである。できれば最小限の道徳とヒューマニズムをもち、宗教に関しては無神論というよりは無関心でいたかった。多くの日本人がクリスマスにはケーキを食べ、大晦日には除夜の鐘を聞き、年が明けると初詣に行く。しかして三つの宗教のどれも本気では信じていない。私はそれさえも面倒くさくてしないですませたいと思う。
 キリスト教だけでも百を越える教派があると聞く。キリスト教を名乗る新興宗教などを加えるとその数の多さにまず疑問を抱く。さらに宗教人の哀れみの表情や態度に、悟らない下等動物をみるような蔑みの目を感じてしまう。それでも悪意がなければ、苦い吐き気を隠しながらも何とか耐えられる。
 私は愚か者である。と言ってみてもしようがないが、加えて人に言えるほどの何の才能もない。無能と言ってもいい。自らは悪意をもち、あるいはもったことがあるにもかかわらず、自らに向けられた悪意・作為には耐えられず逃げるほどに気は弱いようだ。それを神様にお祈りしても勇敢な正義の味方になるわけでもなく有能になるわけでもない。その気の弱さと社交性の乏しさのせいであろうか、私は独りでいることが多く、独りで考えることが多い。独りで存在することの耐え難い不安が私をキリスト教に向かわせたのかもしれない。そして聖書に表わされた人のような神のような生き方と死に方をしたイエスキリストのへの想いが断ち切れないために今も聖書を少しずつ読むという生活になっているようである。
 イエスは常に貧しい人たちを訪ね彼らとともにあり慰めと励ましを与え、どういう癒しかはよくわからないが病気を癒したという。広く(旧約)聖書に通じていて、それを人のために生かし、終生富を求めず、私利私欲を求めず、最後には抵抗も言い訳もせず、十字架につけられ死んだ。福音書はキリスト・イエスの肉体をもった復活を説いている。しかし肉体をもって復活されたのなら、忙しくはなるだろうが時々天から下りてきて困っている人々を当時のように助けに来てくださればよいのにと思う。
私についていえば復活は聖書を通じての霊的な精神生活以上には起こっていないので、それ以上を無理に信じる気にはなれない。今でも私は宗教は嫌いである。あまりお近づきになりたくない。しかし私は全く個人的にイエスの存在を必要としており、イエスを主と呼ばざるをえず、キリスト(救い主)と呼ばざるをえず、それよりも存在することの孤独と不安を癒してくださる同伴者・永遠の友として頼みとせざるをえない。