罪と許し
思い切って言ってみます。
「罪は決して許されることはない」
もちろんこの命題は逆説であり、それを通り越してむしろウソというべきかもしれません。罪は許していただく以外に救いはないのです。では何故こんなことを言うのかというと、「許す」ということについて少し考えてみたいのです。素朴にまず人を例にとって、あくまで人の知恵で考えてみます。
Aという人がBという人に、窃盗でも侮辱でも何でもいいのですが、罪を犯したとします。Aは罪を悔いBに謝り許しを乞います。BはAに言います。「Aよ、私はあなたを許す」。この場合Bの記憶の中にAについて何が残るでしょう。「Aは罪を犯さなかった」「Aは罪のない人」ではないはずです。「Aは罪を犯したが罰することをしなかった」という記憶のはずです。つまり「許す」とは「罪をなくす、消す」ということではなく「罪を罰しない」ということになる。しかもそれは罪を犯した者が罪を知り悔いているから起こりうることなのです。「罪が許される」とは「罪が消える」ということではないのです。
さて神に対してはどうでしょうか。やはり同様に考えるべきではないでしょうか。ただ神様は人が自らの罪のために本当に苦しんでいるならば、これを憐れみ「罪を罰せず、さらに慰めを与え正しく生き続けることを勧められる」かもしれません。実際に神様がどう考えておられるかはわかりません。人の知恵では神の知恵は計り難いからです。神の立場で考える愚は避けたいものです。たとえば神は全能であるから罪を消し罪を忘れることもできる、というのは詭弁です。忘れることと覚えていることと、どちらが能力であるか常識で考えれば明らかです。神はすべてを常に知っておられると考えるべきでしょう。人が知りもしない神の知恵と立場で考えようとすることは実に虚しいことだと思います。人は考える動物ですから人が神について考えるのは自由だけれども、あくまで人の知恵で想像しているに過ぎないということをわきまえるべきだと思うのです。
人間の心では到底納得できないことを「神は云々」と考えて理屈だけで辻褄を合わせて理解したようなつもりになることは、ちょうど本当は何もわからず悲しいのに無理矢理わかったような作り笑顔を見せているようなものです。人の前ではそういうこともあるかもしれませんが、どんなにうまく作ったつもりの理屈も顔もその中にある嘘と本当を見抜かれる全知全能の神様に対しては偽りを向けてはならないはずです。また人間として考えれば悪いことだとわかるはずなのに自らの怒りを「神の御旨」に置き換えて罪を罪とも思わない場合もあるでしょう。信仰生活のいかなる場合においても人間の持っている、言い換えれば人間に与えられている人間としての知性と感性を押し殺すようなことをするべきではない。特に神様の前ではどこまでも正直な告白と祈りができるように努めたいものです。
少なくとも一つ以上の自分ではあがないようもない罪を知り罪の意識にさいなまれて正直に告白している人にだけ「あなたの罪は許された」という言葉は命をもって与えられます。「告白すれば罪が消える」「罪を免れる」と安易に思っている人は言われるべきです。「罪は決して許されることはない」。
※ 「許し」は正確には「赦し」で、許可ではなく赦免ということだそうです。
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