眠れそうにない。今日は敬老の日だが、私はずっと休みだ。
コピペ投稿しておこう。先ず宗教から始めて・・・詩のほうも・・・
HPからコピペ繰り返して、何もなくなったら、当然、やめるんだ。
 
   宗教と狂気と堕落
 
 長い歴史をもつユダヤ教を母体としているとはいえ、キリスト教も成立当時は紛れもなく新興宗教であったはずだ。
 ユダヤ教は選民思想と排他的色彩の強い宗教である。聖戦の名のもとに短い勝利と長い敗北の歴史をもち、その中でつちかわれた唯一神への絶対的信仰とその形式としての律法・掟をもつ。律法の中には慈愛や思いやりを感じさせるものもあるのだがイエスの時代には形式主義をかたくなに守っていた人たちがイエスの敵となった。
 その後ユダヤの内外にキリスト教を広めるにあたっては当然、国により民族により宗教観も異なり布教するうえでの意見の対立や問題も多かったわけで、そのために福音書をはじめとして異なった色付けをされてキリスト教は伝えられ広められていった。聖書を読むということは、それを書いた、あるいは書かざるを得なかった著者たちの目的とインスピレーションを信頼するということなのであろうか。
 宗教は古い新しいを問わず狂気へ走る危険性と風俗習慣へ堕してしまう危険性を常にもっていると考えるべきであろう。
 宗教だけから戦争が起こるということは、少なくともキリスト教においてはありえないことのように思われるのだが、利害関係や政治的な争いに宗教がからむと戦争は狂気とも言うべき残酷なものとなる。
一方、クリスチャンの接頭語のように付けられる「敬虔な」という言葉があらわすものは何かを考えると、おとなしくて静かで「社会のお邪魔にならない」影響力の乏しい人畜無害のような印象を覚えてしまう。確かに宗教が社会に有害であってはならない。しかしキリスト教の大きな迫害の歴史とその殉教者たちの死を思うとき、主イエスキリストの愛と魂の救済という強い目的意識を持ちつづけることの難しさを感じざるを得ない。
 
(※ 「宗教だけから戦争・・・キリスト教においてはありえない」というのは、
 「キリスト教の真実の信仰においては私はありえないと思う」という意味で、
 実際には、固着した教義や○○主義などによって、キリスト教からでも
 諍いから戦争まで、狂気と堕落として、起こり得るだろうと思います。)