科学・歴史と信仰について
 
 例えば仮に、極端な話ですが、科学的に歴史上イエス・キリストは存在しなかったことが証明されたとしましょう。それはショッキングなことです。受け入れがたいことでもありますから反論を試み期待するでしょう。しかしそれが間違いなく科学的事実であるならば、私はそれを認めるでしょう。歴史上イエス・キリストは存在しなかったと。しかし一方でつぶやくでしょう。それでも私はイエス・キリストに出会ったと。ちょうど数世紀前に高名な科学者が宗教裁判でつぶやいたように。
 宗教的歴史観やそこから生まれた世界観・人生観・哲学・教義・戒律が信仰ならば、歴史観が崩れれば信仰も崩れます。前述の仮定に戻ると私を含め多くのクリスチャンが動揺するでしょう。懸命に反論した末に思い込みを強くする人もいるでしょう。信仰を捨てる人もいるでしょう。私はむしろ、それで捨ててしまえる信仰なら捨てたほうがよいとさえ思います。そういう信仰は思い込み・偶像に過ぎないと考えるからです。しかし何を言われても泣きながらでも信仰を捨てられない人がいるはずです。
 私たちは二千年近く前に完成された聖書によってイエス・キリストを知ります。しかしクリスチャンは二千年前のイエス・キリストを信仰するのでしょうか。少なくとも私は違います。私は私の人生の中で出会って今の自分を見つめ支えて下さるイエス・キリストを信仰しているとしか言いようがありません。したがってキリストは、目には見えず耳にも聞こえないけれども現存するイエス・キリストなのです。実存と言ってもいいでしょう。そしてそのお方を人生の永遠の友・同伴者として、救い主・飼い主として必要としているからクリスチャンになり今も自称しているのです。だから二千年前がどうあったにせよ自分が出会ったキリストを否定することはできません。肯定し疑わないのではなく、疑うことのできない信仰上の出来事・真実だから否定できないのであります。
 いかなる宗教も科学的事実を変えることはできません。同じように、いかなる科学的事実も個人の信仰上の真実を変えることはできません。
 
 
  神の非存在証明?
 
この世で人は見えざる神・聞こえざる神に祈りを捧げることができます
ある日死にました そしてあの世あるいは天国へ行きました そこで神に会いました もうこの世を離れ聖なる領域に召されたのだから神に会っても何の不思議もありません しかし神に会っているその場において さらに見えざる神・聞こえざる神に祈ることができます それゆえ今会っている神は偽者ということになり その世界に死があれば死んで 経緯はどうあれ さらなるあの世・さらなる高次の世界へ行ったとします そこでまた神に会います しかしそこでもやはり見えざる聞こえざる神に祈ることができます この神も偽者 と さらに高次の世界へ でも同じことの繰り返し どんなに高次の世界へ行っても本物の神に会うことはできません 本物の神の姿を見ることも声を聞くこともできず それゆえ神の御旨・真意を知ることもできません これは実質的に神は存在しないことと同じではないか
もうお気づきと思いますが、以上述べた神の非存在証明モドキは明らかに詭弁です。何故ならこの世にいたときと同じ意識で考えることを前提としているからです。死後にあの世や天国があるとしても、そこで人がこの世と同じ意識や思考を持ちうるという保証も法則もないのです。「それは御使いのようなもので・・・」というキリストの言葉もあります。
死後の天国 もし在るとしたら そこでは何も疑う必要がなく それゆえ疑うなどということを忘れてしまうような世界なのかもしれない そのような世界をこの世で垣間見ることができたらいいな などということを考えてみたりもします あくまで未だこの世の人として ぽぁ~んとした夢見心地の気分で首を傾げながら 夢想して遊んでいるに過ぎませんが・・・
 
※ 直接には会えないからこそ「神」という説があるようで、
私は、かなり同意できます。分からないけれど、私のような者が、
この世はもちろん、あの世があったとしても、
神様に会って、直接、顔を見たり声を聞いたり出来るとは到底思えません。