言葉遣いは人によって違うと思いますが・・
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  宿業と運命
 
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり
 
運命は天にあり
宿業は我にあり
 
我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し
 
あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり
 
 運命という言葉は、立ち向かうべき障害という意味で使われることと、予め決まっているどうしようもない定め即ち運命論の運命という意味で使われる場合とがあるように思われる。キリスト教で運命というときには前者の方が多いと思う。
 後者の場合自分の人生の責任をいわれもない第三者に帰するようだし、キリスト教では人知で計りがたい神の計画や神の導きということは言われるが運命論を説いてはいない。
宿業という言葉は仏教用語なのでよくは知らない。前世の因果を考えているわけではない。しかし「目一杯生きてきたけど、こうなるしかなかったよな」というような気持ちをもって自分の人生を振り返ってみるとき運命という言葉は使いたくない。勝手な解釈ではあるが今のところ宿業という言葉が少し好きだ。他に適当な言葉が見つかるといいのだが。
 
 
  光の子
 
 心の真っ直ぐな人、愚直なほど素直な人、教えられたことを受け入れるほかにないほど心寂しい人は幸いである。仮に光の子と呼ぶことにしよう。
 しかし光の子は真っ直ぐであるがゆえに道を誤れば悪い方向へ猪突猛進してしまう危険を持っている。しかもいったん信じてしまうとなかなか改めるのが困難である。今の世にまれな宝を持ちながら導くもの・信じていく過程の善し悪しによって義人ともなり悪人ともなりうるほどに危うい人である。
 人は一生に二度以上親を持つことがある。最初は肉親の親あるいは育ての親である。二度目以降は人生を根底から変えてしまうような感動的体験である。後者はその後の人生を決めてしまうほど大きな影響を持つ。
 原体験ともいえる二度目の出会いを親と呼ぶのは、人は最初に乳を与え抱き育ててくれた肉親を親と認識するのと同じだからである。成長してから苦難や悩みに直面したとき最初に救いの手を差し伸べてくれたものを親と認識するのである。それは宗教であるかもしれず思想であるかもしれず人物であるかもしれない。それらは多かれ少なかれある種のしがらみのようなものを伴っているものである。気をつけなければいけないことは今の世に生きているという現実の中で、その親となるものが必ずしも常に善いものであるとは限らないということである。悪いしがらみに取り込まれる危険は誰にでもある。
 人は無人島にでも住まないかぎり、しがらみというものから自由にはなれない。しかし人生の父として母として自分を取り巻き支配するしがらみを選ぶことはできるかもしれない。よいしがらみに出会った人は幸いであるが、善いしがらみか悪いしがらみかを区別するのはたやすいことではないと思う。そして始めは善いしがらみでも悪くなっていくことだってあるだろう。
大切なことは自分が良心を持った人間・人格であることを常に自覚して内省することであろう。いかなるしがらみの中にいても人間離れしないことを深く強く心に刻み付けておくことである。人間離れした親は人間離れした子を育てる。人間離れしたしがらみは人間離れした命令を下し隷属を要求する。そして光の子はその純粋性のゆえにしばしば誰よりも先にその犠牲になるのである。
三度目の親を持つことがあるとすれば、その出会いは二度目の親との出会い以上のものであるはずだ。それは二度目の親との決別を決心させるほどに人間的な感動を伴う、あるいは否定することのできない、あくまで人間的体験である。物や肉体に起こった奇跡はやがて忘れ去られる。魂に起こる奇跡は決して忘れることはない。
 
 
  天国とは
 
 天国といえば一般に考えられているのは死んでから行くところだろう。雲の上のような世界で恐らく着物は白い衣でエンジェルがひらひらと舞い戦争も争いもない永遠に平和な世界、といったところか。
 聖書によれば主の言葉に「御使いのようなもので」「嫁ぐことも娶ることもない」とある。これと前のイメージを合わせてみると、何とまあ退屈なところでしょう、遊ぶことも働くこともないのかしら、ということになってしまう。
 さらに主の言葉に「天国はあなたがたのただ中にあるのだ」。これでますますわからなくなる。死んでから行くところではないのだろうか。しかし自分たちのただ中にあるといわれても頭は混乱するばかりで、これはまいった。天国は神の国、聖なる領域であるから人の知恵で理解できるような性質のものではないのだ。結論として、わからないとしか言いようがない。
 しかし後者の言葉を考えているうちに、ふと思うのである。洗礼を受けているいないにかかわらず聖書とキリストに関わり今も関わり続けている人は少なくとも一度以上、天国を垣間見ているのではないだろうか。もちろん目で見たのではない。宗教的にいえば霊的体験である。一般的な言い方をすれば「癒された」「慰められた」「励まされた」あるいは去り難い縁のようなものを感じた、といった精神生活上の出来事としての体験である。それは幻覚や超常現象のような人間離れしたものではなく、あくまで人間的な暖かい感性に響くものとして体験されている。だからそれを体験した人は今も聖書を読みイエス・キリストの教えを知りたいと願い続けているのではないだろうか。
天国がどこにあろうと、どんなに理解し難いものであろうと、一度は垣間見ている。今はそんな気持ちで神の国を待ち望んでいるのである。
  
 
(書いたのは1996年、またはそれ以前か)
(2013年10月30日、若干修正)