わかる
 
わかる
という心の励起状態は
少なくともある種の到達感
あるいは多かれ少なかれ感動を伴なう
 
私はバカみたいに
四十代後半になって
つまり全く無益なことだが
高校数学のお勉強を時々していた
論理であるはずの数学においてさえ
例えば二次関数曲線の長さ
X軸回転体の表面積
1‐(1/2)+(1/3)‐(1/4)+…
など高校の時に考えもしなかったことが
解けたとき似たような感じを覚える
 
数学は独特の感覚的理解を要求する
高校レベルを超える数学には
もはや私の感性はついていけない
詩にも感性が必要だが
それもまたつくづく限界を感じる
向き・不向きを分けるセンスというものが
いろいろな分野において要求されるが
信仰だけは人間性以外の
特殊な感性や知的資産を要求しない
 
理解する・わかるということは
その漢字とは裏腹に
多分に情緒的な享受であり
そこから広がっていく心の開放感
を必ず伴なう
そうでないものは単なる辻褄合わせか
無理な思い込みに過ぎない
 
 
  耐える
 
もちろん聖書
キリスト教の聖典は
手を置いたり抱いたりして
お呪(まじな)いをするための
分厚い直方体ではない
生きている間に読むべき書物である
しかし
聖書の一行に縋(すが)って生きている人と
聖書の総てを諳(そら)んじている人の
信仰に優劣が付けられるだろうか
 
いかに聖句を用いたとしても
理を蓄え
学ならしめようとして
論を振りかざすことは
とても順調な耳鳴りのようなものだ
信仰は理でも学でも論でもない
 
あるニュース
人災か天災か忘れた
突然わが子を失った母親が
まるで感情をなくしたような顔で言う
「かなしいけれど神の計画だからしょうがない」
恐らくそう教え込まれてきたのだろうが
唖然!?…
それで本当に納得しているのか
 
ある映画
フランス映画だったと思うが題名は忘れた
妻子を殺された主人公が
礼拝堂のキリスト像を
壁に叩きつけて割ってしまう
そして復讐を果たし終えた主人公は呟く
「もう…何も…」
それは喪失感か
あるいは復讐の空しさか
 
耐える
という愛の行為は
耐えがたい状況における感情
を吐き出すことなしに始まるだろうか
(感情の発散は
 詩の持つ唯一の効用と言われるが
 もちろん詩だけではない)
書くこと・話すこと
何よりも神の前に総てを
背教の念も不信仰も
さらけ出して告白したいと思う
 
神の前で背教の念など以ての外?
背教の念を抱いたことなど全くない
と言えるならそれでよい
しかし少しでも覚えがあるのなら
告白しないことは自分を偽り
神を偽ろうとしていることになる
不義を喜び真理を喜ばないで
真実に蓋をすることになる
 
人前では隠したいこともある
繕(つくろ)わねばならないときもある
喋(しゃべ)りすぎて損をした気持ちにもなる
しかしクリスチャンにとって
人から神へ訴える唯一の手段
祈りの場においては正直でありたいと思う
 
 
  地獄について
 
 地獄については、もっぱら肉体的苦痛を与えられる所として絵画などにも描かれているようです。
 あくまで想像~空想に過ぎません。仮に地獄という所は私にとって一番恥ずかしい・怖いと感じることや、これだけは嫌だと思う場面が延々と繰り返され続く場と考えてみる。だとすると肉体的であっても精神的であっても、これは実に耐え難い所だと思います。
 キリスト教では前世や輪廻という考え方はない。でも敢えて空想してみます。私は何度も自殺したのではないか。つまり自殺者は天寿を全うするまで生まれ変わって人生をやり直させられる。そして同じあるいは似たような試練によって試みられる。
 たとえば自殺して死んで聖なる領域に行くと御使いか誰かに「お前もう??回目だぞ。今度は天寿を全うして来い。天国はお預け。」と宣告される。そのときは何度も自殺したことを自覚できて悔いもする。
 しかし生まれ変わったときには、もうそのことは忘れている。そして未来にどんな試練が待っているかも知らないで、ある時までは元気に育って生きてゆく。そしてまた・・・
 この繰り返しが天寿を全うするまで続くのです。あくまで空想なのですが、それが地獄だと考えると自殺だけはしたくない。それだけは勘弁願いたい。