キリスト教の国
 
 あまねく世界のはてまでも述べ伝えられるべき主イエスキリストの教えは日本には十分に伝わっているとはいえない。
 十六世紀に日本に伝わったキリスト教は、その後の迫害によって途絶えた。わずかに残った隠れキリシタンは土着宗教と化してしまった。見事に殉教した人たちは世の終りまで帰ってくることはあるまい。明治以後に様々な教派のキリスト教が日本にも伝えられた。戦争と迫害を経て今なお少数派である。しかし日本のキリスト教が少数派であることを恥じる必要はあるまい。多数派であればよいというものではない。
 ローマで大迫害の後キリスト教が公認されたことをもってキリスト教の勝利と見なすことは、その後の中世の教会の犯した過ちを思えば受け入れがたい。
 また現在、世界のキリスト教の国と呼ばれている国々をみるがよい。それらの国に犯罪の絶えたことがあったか。人殺しの絶えたことがあったか。戦争の危険のなくなった国があったか。それらの国々のキリスト者を侮辱するつもりは毛頭ない。どの国にも尊敬すべき指導者はいるだろうし、彼らを慕う信徒も多いだろうと思う。
 
しかし天国は未だ来ていない。天からも来ていない。地上にも実現していない。宗教的に「キリスト教の国」と呼べる国はまだ一つもこの世には現れていないのである。
 
(※ 隠れキリシタンの人々のことを「土着宗教と化してしまった」と
 書いてしまったことについて深くお詫びいたします。
 禁教の時代に信仰を守り続けた長い年月は、大変な代々のご苦労とともに、
 たたえられるべき勇敢さだと思い知らされることがあり、今はそう思っています。)
 

   日本
 
 この国は狭い国土ながらも亜熱帯から雪国までを有し、四季に富む緑豊かな国である。島国であり異民族に蹂躙され支配された歴史をほとんどもたない。
 イスラエルは長い歴史の中で独立国家を維持していた時期は約五百年くらいであり、異民族に何度も支配され蹂躙され散らされた苦く長い歴史をもっている。
 日本は異国の技術を取り入れ加工し発展させることが上手であり、異国の文化を本質よりも風俗習慣として取り入れる特徴をもつ。日本の文字は中国から、ローマ字は欧米から、宗教にいたっては先進国ではめずらしくいまだに多神教が残っている国であり、一方では仏教の影響を強く受け、またキリスト教の影響も受けている。しかしそれらは宗教というよりも文化・風習となってしまっていて、御先祖様を敬う心はあるけれども、熱心に宗教を求める者は少ない。変化に対する適応能力に優れているがゆえに、熱しやすく冷めやすい、拾いやすく捨てやすい、流行りやすくすたれやすい。
 荒野と苦難の中に育ったユダヤ教から生まれたキリスト教の本質を日本人が理解するのは難しく、望みがあるとすれば同じ喜怒哀楽をもつ人間であること、そして日本には日本の苦難があり、これからも来るであろうから、宗教を求める人々はいるということであろう。栄えた国はやがて衰えるときが来るからである。
 キリスト教は日本において必ずしもメジャーな宗教となる必要があるかどうかは疑問でもある。メジャーであればあるほど慣習に堕してしまいそうで、むしろマイナーであるからこそある程度純粋性が保てるという部分もあるかもしれない。
 
荒野に乳と蜜の流れる国を夢見た異国の民に向かって
この国に荒野はない、見ることもなかろう、と言えるだろうか
緑と水に恵まれた国は
海に限られた土の上で
それ以上に人と文明にあふれ
緑と水を汚してゆく
それゆえ自らの狭い領域を守ろうとしながら崩れ
つまずく者たちにとって川ではない
結びつきのうすい人々の流れ、緑ではないそのざわめき
人波は嵐のように彼らをおびやかし
怒りと災いがふりかかる中、乳と蜜は悪しき誘惑
絆を求める声は心のうちに叫ぶ
私が頼りにするものはどこにあるのか
私をとどめる絆はどこにあるのか
ただ肉体が生き
命は物と金で商われるだけなのか
ただ肉体が死に
死は物と金で商われるだけなのか
そのときどれだけの者が答えられるだろう
いつか人はおびただしい人々の中で
独りで荒野に立っている自らの姿に気づくかもしれない
乳と蜜、緑と川と水、国と民と人々、人間
悪魔は誘惑を用意してほくそえみ
神はそれらすべてを見ておられる
 

  求めよ
 
求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのであろうか
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれない
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなる
しかし相手が神様となると事情は違うだろう
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持つ
 
無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もない
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分である
 
偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるであろう