人間離れ
 
 宗教がそして信仰が人間離れしていくとき、それは宗教が最も危険な状態に陥ろうとするときである。そしてそれは宗教が宗教であるがゆえに最も日常的に直面しやすい問題でもある。偶然のように突然起こった不幸を無理やり神の意志・計画として辻褄を合わせようとする心の働き、飲めないものを無理に飲み込もうとして力んで平静を装おうとする姿は信仰を持つ者にしか起こりえないであろう。それは耐える姿ではない。人間離れした力をわが身に強制する姿である。人間離れしたものを立派なものとして求めようとする恐怖に駆り立てられた行動である。
 悲しみを悲しみとして受けとめれば、泣き怒り時には背教の念さえ抱く。そういう裸のありのままの姿の自分を見て神の前にさらけ出し認め自覚することによって隠さず正直に神に告白して祈り、無力を認め力を求めることによって初めて耐えるという愛するためのきびしい忍耐の行為が生まれるのである。
 聖書には旧約にも新約にも現代でいえば超常現象・超能力としかいいようのないような奇跡物語が描かれている。それを否定も肯定もしない。それはつまり奇跡そのものを歴史的事実として信じることがキリスト教を信じることではないということであり、例えば福音書にあるキリストの奇跡を信じなければキリスト教徒になれないということではないということである。
 物や肉体に起こった奇跡はやがて忘れ去られる。しかし魂に起こった奇跡は一生涯忘れ去られることはない、といったのはそのことである。主イエスは人間的感情の豊かな者たちを弟子として選んだ。無学な漁師であり愚直ともいえるほどイエスを信じながらイエスの真意を理解するだけの能力は持たずキリスト受難の時には主を裏切り逃げ去ったのち自らの裏切りを悔い激しく泣いたペテロがその代表であろう。
 人間でありながら人間的でない者がどれほど溢れていることか。人間として人体を持ちながら平気で非人間的なことをする者がどれほど多いことか。人間でありながら人間離れしたがっている者が多いのが今の世である。
イエス・キリストの奇跡を人間離れした欲求の成就としてではなく、あくまで人間としての感情によって受けとめ、肉体よりも自らの魂に起こる奇跡に人間的に感動する宿命のような縁を持って生まれた人。人間離れした優れた何者かになろうとするのではなく、より人間になることを求める人。自分の視野の限界とその狭さを知っている人。そしてよく喜びよく悲しみよく笑いよく泣きながら主のもとにあって耐えることを覚えていく人をキリスト者・クリスチャンという。
 
 
人間宗教(キリスト教について)
 
 百人のキリスト者、クリスチャンがいれば百種類のキリスト教がある。それが今の世である。キリスト者とはキリストの教えを守る者ではない。守ろうと努める者であり、守れないことを魂の底から最もよく知る者のことをいう。そうでなければどうして罪を知りえようか、どうして救いを知りえようか。キリスト者はキリスト者たりえないことを知ることによって初めてキリスト者たりうる。
 
 イエスキリストは神であり神の子である。そして神は聖書により、またその人個人の人生において人をいやし慰め励まし導かれる。そのことを否定しようとは思わない。個人的に否定できないからである。
 ではいったい人は何者なのか。感じることも考えることも人の自由である。しかし神の導きを知りうるものではない。聖なるもの、例えば神の導き・聖霊・神のお告げ・預言などは、人があれはそうである、あるいはそうであったと決められるものではない。
 喜怒哀楽・思想・行為がいかに信仰に始まるものであっても、それらはすべて人間としてのものであることをわきまえるかぎりにおいて人に許された自由であり信仰である。
 いかなる修道も信仰生活も伝道も人が聖なるものに近づくためにあるのではなく、また人が聖なるものとして高められるためにあるのでもない。信仰は、ただ人を人間として高めるためにある。
 
 何よりも神の前に正直であれ。疑いをもったならば、それを正直に告白せよ。背教の念をいだいたならば、それをいだいたと正直に告白せよ。神などいないと言いたくなったら、そう言いたいわけを正直に告白せよ。キリスト者はそのために祈りという情緒的で人間的な手段を与えられている。すべてを見抜かれる神の前に、人もまた何事も隠さず告白する権利を与えられており、またその義務を知るべきである。
 
 真実を祈り求めることと、奇跡を探して見つけようとすることとは違う。後者はすでに神のわざが人間の目の届くところに人間の手の届くところに人間の知恵の及ぶところにあるという思い上がりである。さらにそれを見たあるいは得たと思い込むことは、かえって目に見えない奇跡をそこなうことになるであろう。そしてそのようなところに悪魔は好んで隠れ住もうとするのである。
魔術を捨てよ。悪魔に住みかを与えてはならない。神秘の力から離れよ。聖なる答えを探してはならない。聖なる答えを口にしてはならない。聖なるものを自らに擬するのをやめよ。それらは神の持ち物である。人間は生きている限りどこまでいってもどれだけ修道しても人間であり、それ以上でもそれ以下でもない。それが人間の誇り、キリスト者の誇りである。