「だまらっしゃい」という題名について:
信仰をしばしば人間の理屈で程よく辻褄を合わせようとしてしまう
自分に対して発した一喝。信仰は理屈ではないですから。
 
  だまらっしゃい
 
全てを明け渡して委ね自分で自分に苦を強いることをやめるという考え方も
ある程度分かります。
聖霊体験については直接理解できているとは言い難いが目指す理想については共感できるところもあります。
しかしそれは基本的にイエスを主・キリストと仰いでいるという共通の素地があり加えて幾度かメールや投稿を拝読した上でお互いの信仰(観)を尊重するという認識の上に立てるようになって初めて可能になることです。
キリスト教初めてという求道者や一般の人に対して同じような言い方をすれば
前者は「頑張ってはいけないのですか?」
後者は「自我に死んで?土の器になって?聖霊様に考え行動していただく?カルトじゃないの?」ということにもなりかねませんから
そういう人には聖句の引用などから始め言葉遣いにはそれなりの配慮が必要であることは言うまでもありません。
つまり信仰観について話すとき我々の言葉は相当に特殊な言語になっている。
さりげない言葉が、ある人には特別な意味を持つことがある。
一般には馴染みのない言葉が当然のように使われたりしている。
しかもそういう特殊な言語と普通の日常会話的言語が殆ど意識されずに混ざって使われているという現状を自覚しておくことが必要でしょう。
ですから説明や返事を書くときには相手の立場を考え尊重し自分が納得できる範囲で相手にも分かりやすく…
 
ええい、だまらっしゃい!
あ、失礼。これは冗談です。というより私の頭に向かって怒鳴りました。
……………私は鬱っ気(け)もシゾっ気(統合失調症の傾向)もあって幻覚体験もありますが、今特に幻聴が聞こえたわけではありません。
私は詩のようなものを投稿していますが、説明文となると表現に気を使うだけではなく理屈を整えなくてはならず詩のようなものを書くのとは全く違う思考で違う思路を辿(たど)ることになるようです。
先走る理屈に耐えきれず「私の頭に渦巻く理屈よ辻褄合わせよ屁理屈よ黙れ。」ということでした。
 
詩は詩に感動できる人が愛する世界で詩の読み書きには詩心・感(受)性・センスなどと呼ばれる知的資産が要求されます。
信仰は前提条件として人間性以外のいかなる資産も要求しません。
この全く異なる二つの事柄ですが、奇(く)しくも共通した部分があります。
どちらも「理屈ではない」ということです。そしてどちらも独特の言葉の世界だということです。
かくして旧約聖書には詩篇があり、旧約にも新約にも心に残る聖句・御言葉があります。
しかし好きな聖句というのも人によって違います。
それは人それぞれが異なる道のり・人生経験を経て、信仰観も微妙に違うからでしょう。
そういうことで
今まで幾度か「全てを委ねる」お勧めを頂戴してきましたが、
そんなに委ねていないと思われているのだろうか…
というのが正直な感想でございます。
例えば「自分を責める」という行為ですが、
これは罪を自覚するときには自然に伴なってくる行為~現象のようなものであって自分で自分に苦を強いているわけではない。
 
自分を責めることなくして
どうやって悔いるのだろう
悔いることなくして
どうやって罪を認めるのだろう
罪を認めることなくして
どうやって許されるのだろう
 
しかし自分を責め続けることは精神衛生上よくない。
それより前に責め続けることに耐えられない。
それより前に耐えられないと分かっているから、
いつまでも責めることはしない。
ある時点で罪を悔い許しを乞い願い祈り
ボロボロの私をそのまま運んでください導いてください
と委ねるのでございます。
 
罪を認めてから委ねるまでのタイムラグの違いなのでしょうか。それとも明るい面よりも暗い面を見てしまう私の体質の所為(せい)なのでしょうか。私は自分をいつまでも責めてくよくよしている哀れな人ということになっているような気がいたします。
どう思われようとも、ちょっと遅れて委ねるという繰り返しはこれからも続くだろうと思います。
そういう前提の上で
今の私にとっては
自分を責めるということが
人間であり続けるための最低条件なのでございます。
それができなくなったら私は人間ではない、人間性を保ち得ない。私の信仰は妄想か狂信に過ぎなくなるとさえ思うのであります。
 
以上
提供は肥後の国
びっくり交信局でした。
 
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(※ このころは熊本にいました
 クリスチャンのMLに投稿した記事です。)