ある人に
 
引くに引けない柵(しがらみ)の中で
無理に無理を重ねて働いて
過労で倒れることが
予め定められた神の御旨であるのなら
私のサタンは退き
人のことを思わず神のことを思い
あなたが天に積むであろう宝
に想いを馳せるでありましょう
しかし私は生きている限り人であり
しかも不信仰な怠け者であり
人の思いから離れられません
あなたのことについて私は
まだ悟ることができません
だから私は人として
あなたの健康を祈るばかり
 
引きっぱなしで籠もる明け暮れの中で
惰眠と不眠を重ねて貪って
日毎の目覚めに仰天することが
私であるなら
祈るがいい
信仰の薄い私よ
しるしも証(あかし)も導きも悟らぬ者よ
人の健康を祈りながら
自らの不信仰告白によって
失うであろう数多(あまた)のもの
に気づくとき私の不幸とは
比べものにならない
沈黙のうちに愛されて
なお愛すべき栄光の
無償の賜物を知るだろう
 
 
  イザヤ書53
 
これは…まさに
キリストそのものではないか
これこそ預言の中の予言
先見とも言うべきものではないか
と驚嘆する
 
参考書はあっさりと述べている
イエス様もこの預言書については
当然すでに読んでおられたはずです
あれ?…そうか…そうだな…
なんだそういうことか
 
まてよ…と考える
イザヤ書を読んでおられたとしても
その通りに実行すること
成就させるということが
いかに苦しく困難な茨の道であるか
それに主イエスの偉大さは
死に様だけではなかったはず
癒し・慰め・知恵と知識・預言…
それゆえ世々の聖徒も今の信徒も
(私のような者でさえ)
主イエス・キリストと仰ぎ
その名によって祈り願い
唯一の希望・頼み・避け所・
拠り所としているではないか
 
さらに驚嘆する
イスラエル人が
期待していたメシアは
ダビデの再来ではなかったか
つまり武勇と知略によって
イスラエル統一国家を再興する
政治的宗教指導者
なのに預言者イザヤは
虐げられた末の
弱気でもあるかのように
屠(ほふ)り場に引かれてゆく小羊
の道を説いている
 
もしメシアがダビデのように現れ
敵を粉砕し王国を成していたなら
(少なくとも私という)
クリスチャンは今この世にいない
 
神の御旨によって
侮られ捨てられ打たれ
砕かれる悲しみの人を
敢えて預言したイザヤ
それを成就し
人の不義と罪を負われ許される
主イエス・キリストゆえに
主の打たれた傷によって
癒された人々の一人として…
 
今一本の蝋燭(ろうそく)を灯し
小皿に立てて祈るだけの
クリスマスを過ごす
(私という)
クリスチャンの端くれがいる
 
(いつかのクリスマスに書いたもの)
 
 
  聖霊のとき
 
聖霊というものについて
眼を閉じて祈り求めながら
独り静かに想いに耽っていた
 
いかなる悪意もなく
憎しみも嫉妬も消える
裸体の体さえない忘我と
恍惚の安らぎ
至上の優しさに内も外も溢れており
もはや痛みも苦しみもなく
負うべき何物もなく
そのままで満たされている
ここは既に聖なる領域なのか
聖霊が満ちているのか
独りなのに独りだとは思えない
眼を開ければ御国にいるかのような
いかなる富をもってしても
買うことのできない
至福のとき
 
この想いのうちに
どこにいたか
思い浮かべてしまったのは
磔刑に打ち付けられて
血まみれの死を迎える姿なのだ
 
最初で最後の
最も大いなる艱難のとき
最初で最後の
最も聖なる時が訪れる
 
(※ 信仰というものを考えるとき、あるいは求めるとき、
 つまるところ、殉教ではなくても、自分が死ぬときを考えている)
 
 
  旧約・イザヤ・二十一~二十二
 
罪のために許されぬ者よ
主人の家の恥となり
死に失せて車だけが残る者よ
家の鍵を失(うしな)う者よ
開(あ)けて閉じることなく
閉じて開(ひら)くことはない
腰には産みの苦しみ臨月のような痛み
屈(かが)んで聞くに堪(た)えず
見るに堪えない
憧れた黄昏(たそがれ)は
もはや戦(おのの)きとなった
頭を禿(かぶろ)にし
荒布(あらぬの)を纏(まと)うがよい
かつて抜いた剣を捨て
張った弓を捨てて逃げて来るがよい
夜回りよ今は夜の何時(なんどき)ですか
夜回りよ今は夜の何時ですか
朝が来ます夜もまた来ます
聞きたければまた聞きなさい
また来なさい
 
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※ 聖書をモチーフにし題名にし引用した作品は、必ずしも
聖書のその箇所の内容と一致することを目的とはしていません。