ウソの信仰
 
もっともらしいことを言う奴がいる
あるいは正しいのかもしれない
ゆえに悪魔であろう
そういう奴が私の中に棲んでいる
それを感じているのも私だ
 
これからも罪を犯し続けると分かっているのに
すべての罪を過去形にして
許可の「許し」ではなく
赦免の「赦し」を乞うことは罪ではないのか
 
罪を犯すことを事前に自覚することもあるのに
事後に祈ることをお赦しくださいと祈れば
付け加えることで解決することの
自己満足を問うてくる
 
自覚できる罪を肉体とともに消すことより
罪を犯し続けて生きることを選んで
何か御心に適う使命を果たせると
信じることは罪ではないのか
 
信仰には自力も才能もなくてよい
人間性だけあればよい
自分が果たすのではなく
神が導くのだと信じて
生きて待ち望むだけでは罪ではないのか
そもそも人間性があると言えるのか
 
信仰を告白すれば
信仰告白の思い上がりの罪を問う
不信仰の罪の赦しを祈れば
祈ることの安易さの罪を問うてくる
平安を祈り願うとき
あらゆる自己満足の平安を疑って問うてくる
 
正しいことを言う
ゆえに悪魔ではないのか
それは私ではないのか
私にとって正しいことは
実は邪悪ではないのか
というウソつきのパラドックスに生きている
 
(2011年01月21日)
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cf.「不完全性定理」