へりくだる先・人の側
 
何をどう信じようと
信仰は個人の自由である
これが正しいのは
人に影響を及ぼさない限りにおいてである
 
人に伝える使命と可能性においては
人として当然
わきまえておくべき意識と態度がある
 
あくまで人の側(がわ)から見ると
 
信仰の殆どは
思い込みと思い上がりで出来ている
 
例えば
「神は人を救う」の対象に
自分は含まれていると信じること。
「地獄の炎に投げ込まれる」の対象から
自分は除外されていると信じること。
自分が受けた賜物を
人に伝えるのは正しいと信じること。
自分の足らざるは
神が補ってくださると信じること。
自分の存在と言葉は
聖書の神によるのだから
必ず人のためになると信じること。
これらの根拠は
人の側にはない
 
また
信仰者は突然悲劇的に死ぬことがある。
信仰は狂信に変わることがある。
それによってもよらなくても
信仰者は言葉または行為によって
人を殺傷することがある。
これらを否定する根拠は
人の側にはない
 
人の側に根拠のないものを
ためしに取り去って
へりくだる先
あらゆる理不尽に対して
人が生きている間
唯一正当な祈りは
「一刻も早く御許に逝かせて下さい」
のようなものだけになる
 
祈りの罪を自覚するものは少ない
いつもいつも
神によって殺される覚悟を持って
生きることは苦しいから
 
しかし信仰は常に
おびやかされ
ときには壊されることから
目を背け体裁を繕う危険性を
人の側は明らかに持っている
 
信仰と祈りの根底にさえ
すでに罪の性質がある
ということを認めることなく
感謝と讃美を人に伝えようとするなら
それは福音の伝道というより
宣伝に過ぎなくなる
和みと賛同の歓談を喜ぶが
疑いを問いかける交流を嫌う
高い塀の中の平安である
 
今日一日は何も罪を犯さない
と言える者はいないはずだが
一日生きれば一日分の罪を犯すのに
一日生かされたことを当然のように
自己中心に感謝し讃美するのが
人の側というものである
 
大切な信仰に人は
思い込みと思い上がりを
避けようとすること以上に
思い込みと思い上がりを
すでに避けようもなく
持っていることを知るべきである
 
(2011年02月20日)