日記:整理してみる
 
神・聖霊・キリスト
(神と総称しておく)
による救済については
肯定する根拠はないが
否定する根拠もない。
生きるのに不可欠ならば信じるしかない。
それが信仰である。
 
聖霊体験・奇跡体験・預言・異言など
(奇跡体験または「しるし」と総称しておく)
については
神からであるかどうか
肯定する根拠はないし
否定する根拠もない。
救われたという思いが否定できないから
生きるのに必要ならば
感受したという思いにとどめるべきである。
それが人間性による不可避な
「信仰の原罪」である。
 
しかし
奇跡体験についての
『人の確信』についてならば
肯定する根拠のないことが
思いが残るのとは違って
否定する根拠になる。
つまり
驚くべき出来事が
神からであるという根拠がないことによる。
(可能性として例えば
悪魔からかもしれない
人からかもしれない
自分の期待や自己暗示からかもしれない)
なのに
神からだと人が確信するのは
思いが残るのとは違って
「神の行為を人が確信する」ということであり
「神の行為を人は理解し確定できる」
という人の傲慢であり
人間性で感受可能な救いを損ない
神を恐れぬ態度というべきであろう。
 
 
神は人知を超えた判断によって
人を導き人を救うと教えながら
ここにおいて
人知を超えた判断をして確信しているのは
神ではなく
まさに人に他ならないからである
 
 
そのような指導者が
奇跡体験「しるし」を確信を持って伝える
   ↓
信仰者は自分にも起こるかもしれない
という期待を抱く→自己暗示の可能性も
   ↓
ちょっと似たようなことが起こると
起こった(!)と確信する
   ↓
他の信仰者に自分にも起きたと
さらに大きく伝える
   ↓
「しるし」を期待し求める常態が生じる
   ↓
「しるし」によって成り立つ信仰になってしまう。
 
というようなことを述べていたら
途中で突然
一方的に排除されたということです。
 
(2011年05月28日)
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以上のような「人としての立場をわきまえる信仰の謙虚さ」
については何度も考え整理し直す必要がありそうです。
さもないと単に信仰観の違いでは済まされない問題で、
違う宗教・違う信仰になってしまうからです。
 
何も整理しようとしないでしょうし、
その必要も感じない信仰者もいるということです。