敵を愛する?
 
 
「敵を愛し敵のために祈れ」
文字通り受け取れるかどうか
 
これが守るべき規範であるならば
まず「愛せないから敵なのだ」
「愛せるなら敵とは呼ばない」
という言葉の矛盾に突き当たる
 
また 
愛する者から逃げる必要はないのだから
日本にもあった迫害の時代に
キリスト者は絶滅していただろう
という必然が
福音伝道とも矛盾してくる
 
さらにその必然は
生き残った隠れキリシタンの人々を
貶めることにもなる
 
キリストの教えには
目指すべき理想~無理難題
と言わざるを得ない教えがある
 
ここに浮き彫りになってくるのは

守れる者は極めて少ないか
守ったとしても
それが最善とは限らない
ということであり
むしろ
破らなければ生きられない
つまり
罪を犯さなければ生きられない
つまり
罪なき人は一人もいない
という

人の在り方なのである
 
そして
この在り方から生まれる信仰もまた
その在り方の根本に
すでに罪を宿している
 
キリストの教えは
キリスト者を定義する規範ではなく
道徳でも思想でもない
 
しかし多くのキリスト者は
キリストの名によって
規範や道徳や思想の種を
自らの信仰の内に育てている
 
育った木は
根に目を向けなければ
根が吸い上げ
木が作っている毒に
気づく機会もないのである
 
(2011年06月02日)