讃美の家「7×7×10=無限」コメント

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私のコメントも、些細なことから始まっており、
論理の破綻も多々あるでしょう。
 
怒りには健全な怒りもあるようですね。怒るべき時に怒りを抑圧するとかえって血圧をあげてしまうようですが、怒っても罪を犯してはならないと聖書には書かれているようです。罪を犯すというのはつい自分を神のような位置においてしまいやすいということでしょうね。やはり最後にはイエスのように手離して生ける神の御手にゆだねることが一番良いようですね。
2011/5/12(木) 午後 8:45[ shalom ]
 
同じ記事のようです・・・「完全数7」、
「完全数6」も割と知られているのですが、
「完全数7」は古くから広く使われていたのでしょうか・・・
聖書的完全数とか、天地創造にまつわる「総て」「完全」
を意味する数「7」とかの説明、言い方はなさらないようです。
このブログの中では誤解の恐れはないと思いますが、
子供~少年が「完全数は7」「いや6(、28,496)だ」
と教えられて、間違いやすいような気がしますが、
二度も書かれると頑固さに負けて、
こちらが「数学的完全数6」と書くしかないようです。
何故こんなことに引っかかるのかと考えてみると、
同音異義語があるのに説明なしお構いなしという態度に
聖書的言葉絶対という上からの圧力を感じるとともに、二度目ですから、
それが異なる人や世界の軽視~無視の態度につながる危惧を
感じているからかもしれません。失礼いたしました。
2011/5/15(日) 午前 10:25[ st5402jp ]
 
時々以前投稿した記事を再掲載しています。
確か前回も質問をいただきましたね。
私はよく知らないのですが、完全数というのはユークリッドによって名づけられた数だそうですね。
同じ言葉を使われてはいますが、ご承知のようにキリスト教信仰における完全数は数学的完全数の意味ではなく、神による天地創造の完全に基づくものだという信仰の表現なのではないでしょうか。
 
「聖書的言葉絶対という上からの圧力を感じるとともに、二度目ですから、それが異なる人や世界の軽視~無視の態度につながる危惧を
感じているからかもしれません。」
 
私は恥ずかしながらあまり知識がないために、説明の必要も感じませんでしたし、
また「異なる人や世界の軽視~無視の態度」になるともまったくわかりませんでしたが、そういうふうに受けとられることもあるということなのですね。こちらこそ失礼いたしました。
2011/5/15(日) 午後 0:02[ shalom ]
 
聖書の言葉は神のことばであるという信仰なしには聖書のことばを神のことばとして理解することは難しいのでしょうね。神の言葉なのだから神の言葉で書かれることになればいちばんいいのでしょうが、同じ人間の言葉であっても外国語すら理解できませんし、それはもう人にはまったく理解できないのでしょうから、きっとイエスをお遣わしになられたのでしょうね。
2011/5/15(日) 午後 0:14[ shalom ]
 
>確か前回も質問をいただきましたね。
あのときの私のコメントも唐突だったかもしれませんが、あのときの
shalom様の「言い放って終わり」みたいなレスが今回の私のコメント
に関係しているかもしれません。
「言い放って終わり」・・・似たようなことを何度か感じました。
ユークリドかどうか私は知りませんが、
「完全数」の問題自体は些細なことに過ぎません。
しょうがないので記事に「完全数」が出てきたときには私が
「聖書的完全数」と「数学的完全数」という同じ漢字熟語で
違う内容(数値)の言葉があることをコメントで、気がつく範囲で、
違いを説明するしかないようです。
2011/5/16(月) 午前 0:08[ st5402jp ]
 
>聖書の言葉は神のことばであるという信仰なしには
>聖書のことばを神のことばとして理解することは難しいのでしょうね
私のブログの訪問者履歴にshalom様(以後シャロム様)の
名前がありましたから、私が「聖書は人の言葉」と書いたことも
ご存知であるならば、若干狙い撃ちという感がありますが、
私の言いたいことは、
「聖書は神の言葉」を私も信じている一人です。しかし
人が聖書に触れるとき必ず咀嚼し解釈せざるを得ないので、
結局、人の言葉として扱っていると言わざるを得ないという意味です。
それゆえ上の引用の「聖書の言葉は神の言葉であるという信仰」は
「聖書の言葉を自分が解釈した言葉は神の言葉」という信仰になり、
それは思い込み~傲慢と考えます。
2011/5/16(月) 午前 1:14[ st5402jp ]
 
(続)