「しかし希望は絶望との関係からしか生まれないとブログに書きました。」
 
十字架なしには復活はないのですから。
イエスの十字架は私たちの罪のあがないであり、わたしたちの人間としての絶望を明らかにしていると思います。
イエスの十字架の死とよみがえりと生けるイエス(聖霊)に希望の根拠があるのであって、私の信仰に希望があるとは考えられません。
私の信仰はおっしゃる通りこの世にある限り、信仰の原罪という鎖から自由ではないからです。しかし、いずれかの時、イエスにある完全な自由を与えられる希望に生かされています。
2011/5/17(火) 午後 0:56[ shalom ]
 
>十字架なしには復活はないのですから
唐突なコメントのような気がします。
これがレスになるようなコメントを私は書いた覚えがないのですが・・・
>イエスの十字架の死とよみがえりと生けるイエス(聖霊)に
>希望の根拠があるのであって、
これが信仰なのではないかと・・・
>私の信仰に希望があるとは考えられません
したがってこの行は「私の」を強調された否定なのでしょう、
でないと発言が矛盾しますから。
>この世にある限り、信仰の原罪という鎖から自由ではないからです。
シャロム様の「信仰の原罪」と私のそれと、
遠いのか近いのかも、これだけだと、よく分からないです。
・・・無理にどうこうと言うつもりもないです。
>しかし、いずれかの時、
>イエスにある完全な自由を与えられる希望に生かされています
多少めんどくさくなられましたかね・・・
主にお任せするのは信仰の基本ですが、
与えられた人知である思考停止の傾向を感じます。
一時的な思考停止なら、疲れたときなど、私にもあります。
そしていつか思考する必要もなくなる時が、お互いどちらにも、
いずれ来るのですから。失
2011/5/18(水) 午前 2:55[ st5402jp ]
 
「最後の主イエスの「・・・休ませてあげよう」には、
今のところ一応私も信仰者なので、特に異存はありません。」
 
イエスが休ませてあげようと言われた休みがst5402jpさんの心に届いているのはすばらしいですね。
イエスの十字架(絶望)なしには復活(希望)も休みもないのですから。私はイエスが与えてくださる休みのうちに思考停止できるのもすばらしいと感じています。
 
「主にお任せするのは信仰の基本ですが」
 
なかなかお任せできずに、心も思考も静まることがないことで疲れることがよくあります。
荒波にほんろうされる弟子たちの知識や思考や経験によって必死にもがいている姿は自分の姿でもあります。
イエスの“黙れ、静まれ”の声が届くことが私の願いです。
2011/5/18(水) 午前 7:49[ shalom ]
 
お疲れではないようですから、話を続けます。
>イエスの十字架(絶望)なしには復活(希望)も休みもないのですから。
これはキリスト信仰の誕生についての聖書の話で、
それは今も生きている「聖書解釈」として妥当だとは思いますが、
その信仰をどのように受け取っているか
という人である信仰者の側の
「信仰の原罪と絶望」「信ずるがゆえの罪」の問題とは
離れてゆく方向、問題回避の方向だと思います。
2011/5/19(木) 午前 2:48[ st5402jp ]
 
「めんどくさくなって疲れた」というレスなら、私にもあるし、
人間的といえるけれど、
>私はイエスが与えてくださる休みのうちに思考停止できるのも
>すばらしいと感じています。
それはすばらしいことですが、
「思考停止」が主イエスから与えられたかどうかを
確認する手段は、人の側にはありません。
自分の不快感からの逃避や問題回避、
自分の都合による思考停止に過ぎないかもしれないのですから。
 
シャロム様は信仰の理想を語ってらっしゃるということなのでしょうか。
ならば私は信仰を受け取る側の考え方を語ったと申し上げておきます。
2011/5/19(木) 午前 2:49[ st5402jp ]
 
ましてや
>イエスが休ませてあげようと言われた休みがst5402jpさんの
>心に届いているのはすばらしいですね
と、人のことにまでそれを当てはめようとする、また、
当てはめることが出来ると思ってしまう、
キリスト者にしばしば見られる体質を問題としてきました。
 
それと、シャロム様が前コメント引用部で
理想や希望を語っておられたのなら、上の
「イエスが休ませてあげよう・・・届いている」
というコメントはないはずです。
私はこの聖句を知っていますが、私の一時的思考停止がそれだ
とは書いていません。
 
そういう体質が、人に起こった出来事を
「聖なる御方」と結び付けて確信を持ってしまうからです。
これは主イエスの問題でもなく、聖書の問題でもなく、
これは信仰をどう受け取るかという人知の問題です。
だから体質・傾向・さらには確信というものについて
思い切って語ることが出来るのです。
そこを避けて通ることのほうが、
賜物としての人知を人が自ら損なってしまうことだと思います。
2011/5/19(木) 午前 2:57[ st5402jp ]
 
(続)