ますます面倒くさいことになってきました。
>読まれる方がどのように感じられるかはわかりませんが
>きっと読まれる方それぞれでしょうね。
シャロム様の記事にしても、他の人の記事にしても、
どう読んでほしいという想定と期待を込めて書いておられるのは
シャロム様に他なりません。
>st5402jpさんはそのおひとりということです。
もちろん私は「その一人」に過ぎませんが、
まるで読んだ側の自由と自己責任に任せ、
書いた(あるいは引用・転載した)側の責任を放棄している
印象になります。今回のレスは全体にそんな感じです。
2011/5/21(土) 午前 5:54[ st5402jp ]
 
他の人の記事の引用や転載には「引用または転載するべきだ」
という選択がなされているはずです。それは
管理者であるシャロム様が選ばれているわけです。
今回のレスは、失礼な言い方になりますが、
「自分ひとりの責任ではない」
「好きなように受け取って、好きなようにやってくれ」
という丸投げ的な、一種の開き直りであり、
投げやりとも受け取れそうな言い方です。
2011/5/21(土) 午前 5:56[ st5402jp ]
 
私は特定の他の人については書いておりません。
このシャロム様のブログの
全体に流れるキリスト者の信仰の在り方について、
人知についての考えが、あまりにも違う点について書いています。
信仰観の違いや、ちょっとした解釈の違いではなく、
「信仰観の違いで済ませるには、あまりにも大きな問題です」
と前のコメントに書いたとおりです。
 
「達し得たところ」については
私においては信仰について考えている途上に過ぎません。
シャロム様もそうおっしゃるのかもしれませんが、違うのは
2011/5/21(土) 午前 5:57[ st5402jp ]
 
人知によって否定も肯定も出来ず、なおかつ
生きることに不可欠ならば信じるしかない。
とブログに書きました。それが信仰ですから。
しかし
シャロム様や、推測として恐らく多くの似たようなキリスト者は、
人の側に根拠のない多くの出来事や解釈について、
いともたやすく神の行いを断定し確信しているように思われます。
そしてそれを「平安」と呼んでいるように感じます。
 
「神の導き」「聖霊の働き」「主イエスの救い」「奇跡」
いずれも聖なる御方は起こせるのだと信じます。
しかし可能と信じるのと違って、
それを個別の肉体や精神の出来事に人が当てはめる確信は
「聖なる御方に対する越権行為」「神を恐れぬ態度」
だと言わざるを得ません。
2011/5/21(土) 午前 6:06[ st5402jp ]
 
この辺りでコメントは終わりにしたいと思います。お元気で!
2011/5/21(土) 午前 7:34[ shalom ]
 
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ここでコメントは承認制になった。
次の記事からは、封じられ、承認されない私のコメント:
(続)