下の記事にも関係するが、
示唆に富むコメントの遣り取りがあったので
ここで考えてみたい。
 
コメント:Aさん
私は牧者Bさんを信じています。
コメント:牧者B
人は愛し合う関係ではあって、信じあう関係には耐えられないのではないでしょうか。人が愛し合う関係と言っても、人のうちにそうする力があるとも考えてはいません。イエスのうちにのみ人を愛し、信じ抜かれる神を十字架の姿に見出すことが出来るようですね。
 
Aさんのコメントには2通りの意味が考えられる。
1.「信仰している」「(絶対に近いくらい)信じている」と
2.「人として(ある程度~かなり)信頼している」である。
 
牧者Bは、前者1.と受け取って
「信じあう関係には耐えられない」と戒めるようなレスを返し、
さらに、それに続けて信仰についての聖書的な話を述べている。
 
Aさんの本心は厳密には分からないが、
後者2.の場合も当然考えられるというのが常識であろう。
 
しかし牧者Bは、後者2.の場合について述べていない。
 
これは信仰者や牧者が信仰的見解に凝り固まって、
それ以外の受け取り方をする余裕や懐の広さを持っていないときに
起こりうることで、配慮不足または片落ちということになる。
 
仮に後者2.の場合、あくまで推測だが、
牧者Bのコメントを受けて
Aさんの反応は
「信頼という意味で書いたのに・・・」と
がっかりするか、
「「信じる」と書いてはいけないんだ」と真に受けて、
素直すぎる自戒をするか、萎縮するかであろう。
 
人と人とは、まるで
「信頼と裏切り」、「愛と憎しみ」で
成り立っているかのような世の中である。
 
信仰を語ることは
世の中や日常を語ることにもなるのだし、
また
信仰を語り合う場といっても
殆どが日常語を使っているのだから、
牧者が信仰用語にこだわりすぎて
日常語的意味を忘れているようでは、

語り合うことに余計な緊張を強いられることになる。
 
このコメントの遣り取りの場合、
その気さえあれば、
誤解を解くことも確認しあうことも
難しいことではない。
 
しかし信仰について深く語ろうと思えば思うほど、
このような簡単な用語の使い方だけでは済まされないような
深刻な問題が起こりうるということを痛感している。
 
信仰者は、「キリストに帰れ」と唱える前に、
「人間に帰れ」「人間であれ」「人間としてキリストに帰れ」
ということを言いたくなる所以である。
 
(2011年06月26日)
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そういうわけで?・・・一連の私の記事のような
ややこしい文章を書かざるを得ないことになるのであります。