私のコメントは承認されないので、ここに書くしかないのですが・・・
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「讃美の家」→「聖書の聴き語り」→「7×7×10=無限」
における私の未承認コメント、即ち「「讃美の家」批判7」の続き:
 
 
讃美の家・無題:「嵐」
>美しい月の輝きの中で、嵐はほんの一瞬なのだ。
>必ず過ぎ去るのだ。
>にもかかわらず、人生に嵐が襲うと、
>人は言う。「なぜ神さまは・・こんなことを・・」
>自分を主語にしてきた人が、
>苦しみの日になると、いきなり神を主語にして、神のせいにする。
 
人生の嵐と苦しみの試練についての記事としては一見美しい文章ですが、
 
「必ず過ぎ去るのだ。」
まるで死を願われているようです。
2011/6/29(水) 午前 4:31[ st5402jp ]
 
「苦しみの日になると、いきなり神を主語にして、神のせいにする。」
あなたか誰かが「神のせい」にしたかどうかは分かりませんが、
嵐に遭い苦しみに見舞われた自分の試練については語っても
 
苦しみを与えた自分、さらに与え続けている自分については語らない
という姿勢と態度は変わらないようです。
 
あなたはレスの姿勢と態度によって苦しみを与え、
明確な一つの行為によって決定的な苦しみを与えました。
 
それを改めることもなく、このような記事を書くことを
先に「信仰者の被害者意識」と呼んで、私は
こちらの記事を書きました。
 
私はあなたに苦しみを与えたかもしれないが、それは
あなたが私に与えた苦しみに対する不可避的な反応です。
神の前に正当化は出来ませんが、
あなたという人の前に遠慮する気にもなれません。
2011/6/29(水) 午前 4:32[ st5402jp ]
 
私は真面目に真剣に書いてきたつもりです。
あなたは何故
「分からないから、また気が向いたら考える」
「受け入れられないからレスできない」
という書き方をなさらなかったのでしょう。
あるいは何も言わず
レスを書かないというやり方もあったはずです。
 
ノーレスは必ずしも否定ではありません。
しかしコメントの不承認による不可視化は
実質上削除と同じでもあり、
迷惑コメントと同様に扱う行為は、
相手を(信仰の)敵と見做す行為です。
牧者である信仰者によって敵と見做されることが
どんなに辛いかを人として考えてください。
 
未承認コメントを1コメ漏らさず公開して下さい。
さらに真面目なコメントについて今後一切
不承認による不可視化や削除をしないでください。
それが成った時点で、まだ形式的だが、
一応の和解成立の一歩と見做します。
 
今のあなたに言っても無駄なのでしょうか・・・
2011/6/29(水) 午前 5:07[ st5402jp ]
 
(2011年06月29日)
 
 
「聖書の聴き語り」→「迫害者から使徒へ」
 
>人は誰でも自分を義とし、自分の正しさによって生きようとするなら、
 
人が神の義に生きているか
自分の義に生きているか分かるのは
神だけです。
パウロは殉教し、暴力的強制力を使っていません。
にもかかわらず、神でもないのに
あなたは私の口を強制的に封じました。
 
>私たちは自分に対しても、他の人に対しても迫害者であるばかりではなく、
>何よりも生ける神に対する敵対者となるのです。
 
「自分に対しても、他の人に対しても迫害者」
行いにおいて明確に私を排除し迫害したのは誰でしょう。
「生ける神に対する敵対者」
いつからあなたは
神の判断ができるようになったのでしょう。
 
何を言っても無駄のようですね。残念です。
2011/6/30(木) 午前 11:04[ st5402jp ]
 
(2011年06月30日、追加)
 
「牧師のSOS」
>人はよく一生懸命人のために良かれと思ってなにかをしようとするのですが、
>ときには神の代理人を演じてみたり、
>人と人の間にあるべき境界線を見失ってしまいやすいように思われます。
 
「神の代理人」として、斬首のように、
書く以外に能のない人と人との間に
生死を分けるような残酷な境界線を一方的に引いたのは誰でしょう。
2011/7/2(土) 午後 11:33[ st5402jp ]
 
(2011年07月02日、追加)