前の記事が片落ちのような気がして・・・
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思いわずらうな
私の好きな聖書の言葉、キリストの垂訓:
「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな
・・・・・・
まず神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる。
・・・・・・ 」
まず求めるべきことは神の国、神の義だということ。
どうやって求めればよいのだ・・・?
祈り願うこと以外にも何かありそうだが、よく分かりません。
求めることが大事なのであって、何か強張って求め得たという確信の態度は、
何を指していても、傲慢です。
「これらのもの」とは、命に付随するもの、
文脈から言って衣食のことのようです。他にもありそうだが、
生きるのに必要なものだろうということ以外、よく分かりません。
何を与えられても御心の賜物だという覚悟を持ちうるなら、
一信仰者においては、そのまま信じてもよいでしょう。
キリスト者はときに死ぬ覚悟をすることもあります。
私には出来そうにありませんが・・・
しかし人に語るときには注意が必要です。
衣食を与えられない人もいるでしょう。
ある日、突然、死んでしまうこともあるでしょう。
そういう人、またはその家族に、そのまま言えば、
人間とは思えない暴言になりえます。
誰もが勇敢なキリスト者ではないのです。
上の聖句をそのまま言って、御言葉だからと
使命を果たしたかのように満足するのは傲慢です。
神のなさることは、分からないことや、
人には理不尽や不条理としか思えないことがあります。
御心は測りがたいのです。その理由は?と問われても、
分からないのだから「わからない」と言えるようでありたいのです。
分からないことがあることを語らずに、
上の聖句だけを人に語って終わりにするのを片落ちと私は言います。
それゆえ
聖句を語るときにはそっと差し出して、どうでしょうか?・・・
というほどの謙虚さが求められます。
上に述べたように何事につけ
人が神について断定し確信してしまうことは、
人間性さえ損なうことになりうるのです。
恐れを持って慎まなければいけません。
さてここでは「思いわずらうな」が私には最も大切に思えます。
上の「・・・」の部分にある聖句:
「誰が思いわずらったからとて、
自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」
「あすのことを思いわずらうな。あすのことは
あす自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
これを、むしろ中心として受け取ったほうがよいような気がしています。
考えることは必要ですが、
わずらうほど思い悩んでも、それによって、
この世の命も明日も、
都合のよい改善が保証されるわけではないのですから、
そこにこの御言葉は生きてくるように思います。
そして
そこから神に委ねることの幸いに
つながってゆくことを希望しています。
最初にあげた「添えて与えられる」のような
おいしすぎる短い聖句単独というのは、
そのまま信じるのではなく、むしろ疑って、
本当の中心の意味を考えたほうがよいでしょう。
人知は考えるために与えられたのですから、それを怠ると、
神聖なる御方について無思考のまま語り出してしまうような
損なわれた人知が残るだけになることもあります。
だから考えることは必要です。
しかし?したがって?聖書のこの箇所は、
この世のことについて考えすぎて今を損なうほどには
「思いわずらうな」が中心だろうと思うのです。
その思いは残ります。癒しとして、慰めとして、
聖句を知る前と後で人も人生も変えるほどに。
しかし確信に至ることは終にありません。
自分のものにも自分の言葉にもならない聖書は、
常に問いかけてくるのであり、問いも答えも、
語り尽くせないことで出来ているのです。
(2011年07月01日)
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聖書の解釈については、
逐次解釈も全体的な流れの解釈も私は苦手です。
この記事のような書き方は私には珍しく、最も不似合いなことを、
「暗い詩」の私らしくもないことを今回なぜか試みています。
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思いわずらうな
私の好きな聖書の言葉、キリストの垂訓:
「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな
・・・・・・
まず神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる。
・・・・・・ 」
まず求めるべきことは神の国、神の義だということ。
どうやって求めればよいのだ・・・?
祈り願うこと以外にも何かありそうだが、よく分かりません。
求めることが大事なのであって、何か強張って求め得たという確信の態度は、
何を指していても、傲慢です。
「これらのもの」とは、命に付随するもの、
文脈から言って衣食のことのようです。他にもありそうだが、
生きるのに必要なものだろうということ以外、よく分かりません。
何を与えられても御心の賜物だという覚悟を持ちうるなら、
一信仰者においては、そのまま信じてもよいでしょう。
キリスト者はときに死ぬ覚悟をすることもあります。
私には出来そうにありませんが・・・
しかし人に語るときには注意が必要です。
衣食を与えられない人もいるでしょう。
ある日、突然、死んでしまうこともあるでしょう。
そういう人、またはその家族に、そのまま言えば、
人間とは思えない暴言になりえます。
誰もが勇敢なキリスト者ではないのです。
上の聖句をそのまま言って、御言葉だからと
使命を果たしたかのように満足するのは傲慢です。
神のなさることは、分からないことや、
人には理不尽や不条理としか思えないことがあります。
御心は測りがたいのです。その理由は?と問われても、
分からないのだから「わからない」と言えるようでありたいのです。
分からないことがあることを語らずに、
上の聖句だけを人に語って終わりにするのを片落ちと私は言います。
それゆえ
聖句を語るときにはそっと差し出して、どうでしょうか?・・・
というほどの謙虚さが求められます。
上に述べたように何事につけ
人が神について断定し確信してしまうことは、
人間性さえ損なうことになりうるのです。
恐れを持って慎まなければいけません。
さてここでは「思いわずらうな」が私には最も大切に思えます。
上の「・・・」の部分にある聖句:
「誰が思いわずらったからとて、
自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」
「あすのことを思いわずらうな。あすのことは
あす自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
これを、むしろ中心として受け取ったほうがよいような気がしています。
考えることは必要ですが、
わずらうほど思い悩んでも、それによって、
この世の命も明日も、
都合のよい改善が保証されるわけではないのですから、
そこにこの御言葉は生きてくるように思います。
そして
そこから神に委ねることの幸いに
つながってゆくことを希望しています。
最初にあげた「添えて与えられる」のような
おいしすぎる短い聖句単独というのは、
そのまま信じるのではなく、むしろ疑って、
本当の中心の意味を考えたほうがよいでしょう。
人知は考えるために与えられたのですから、それを怠ると、
神聖なる御方について無思考のまま語り出してしまうような
損なわれた人知が残るだけになることもあります。
だから考えることは必要です。
しかし?したがって?聖書のこの箇所は、
この世のことについて考えすぎて今を損なうほどには
「思いわずらうな」が中心だろうと思うのです。
その思いは残ります。癒しとして、慰めとして、
聖句を知る前と後で人も人生も変えるほどに。
しかし確信に至ることは終にありません。
自分のものにも自分の言葉にもならない聖書は、
常に問いかけてくるのであり、問いも答えも、
語り尽くせないことで出来ているのです。
(2011年07月01日)
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聖書の解釈については、
逐次解釈も全体的な流れの解釈も私は苦手です。
この記事のような書き方は私には珍しく、最も不似合いなことを、
「暗い詩」の私らしくもないことを今回なぜか試みています。
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