「讃美の家」批判9 : 未承認コメントの続き
聖書の聴き語り→「7×7×10=無限」
 
 
無題→「弓と矢」
 
また、他人の記事を引用して、パウロになぞらえて、
 
>キリストでなく、教会や、牧師・神父や、先生や、
>信仰仲間に引きこまれては矢は飛ばない。
 
キリストでなく、あなたが放った矢は、私の
胸に突き刺さったまま、血を流し、抜けようもない。
 
>使徒パウロは、キリストに引きこまれる度合いが、なみ外れて大きく、
>キリストを喜ぶ深さが絶大だったので、
>あんなに遠くローマまで弧を描いて飛べたのだ。
 
>いまのクリスチャンも、自分たちが「救われた」と喜んでいるばかりではなく、
>遠く世界へ放たれるキリストの矢になろう。
>自分の生活のまわりに突き刺さる矢になりたい。
>自分以外の、なにがしかに関心をいだく「飛ぶ矢」になるのだ。
>ありがたいことに、いまはインターネットに乗って、世界中へ矢は飛べるのだ。
 
パウロや世界のことは考えても
自分がネットで身近に放った矢のことは無視したままのようです。
 
>「お前の左手から弓を叩き落とし、右手から矢を落とさせる」
>(エゼキエル39・3)
 
また聖句単独一句引用・・・強烈な皮肉です。
2011/7/5(火) 午前 2:42[ st5402jp ]
 
 
聖書のみ言葉の黙想→「足ることを知る」:これも別の牧者の記事の引用
 
>生きるということは選択の連続と言えると思います。
>たとえ思いがけないことが起こっても、
>それに対してどのような行動を選択するかは自分の責任です。
 
身近な、ひとつの出来事について
その自分の責任を全く無視しているのは、あなたです。
 
>使徒パウロは獄中からピリピの人々へ次のように書き送っています。
>「私は乏しいから、こう言うのではない。わたしは、
>どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
>わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。
>わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、
>ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
>私を強くしてくださる方によって、何事でもすることが出来る。」
>(新約・ピリピ人への手紙4章11~13節)
 
まことに手段を選ばず、あなたは何事でもすることが出来るようです。
そしてそれを、またパウロになぞらえて、
「私を強くしてくださる方」によるものだと確信して
迫害されている者を演じているのは、あなたです。
2011/7/5(火) 午前 2:44[ st5402jp ]
 
 
土の器→「人間を救うのは」:これも別の牧者の記事の引用
 
>どんなに厳しい事態を前にしても、
>神ご自身が立てて送り出してくださるのでなければ一切は虚しい、
>との献身の原則が示されています。
>何故なら、福音宣教とは宣教する者の思いや感情を伝えることではなく、
>派遣するお方(神)の意志を伝えることにあるからです。
>真に、人間を救うのは、伝道者なのではなく、神ご自身だからです。
 
福音伝道を語り続けるつもりならば、その前に
あなたには為すべきことがあるはずです。
 
さて人間を壊すのは神ご自身でしょうか。
ひとつの出来事について
そう言いたいのであれば神のせいにする卑怯な言い訳になります。
まことに
人間を壊すのは、最終的には神ご自身ですが、
ひとつの出来事については、神ではなく、あなた自身です。
まことに
私は傷み壊れましたが、
神ご自身の救いによって
完璧に速やかに壊される日を待ち望んでいます。
2011/7/5(火) 午前 2:49[ st5402jp ]
 
 
どの記事も、それなりに福音伝道に適っているように思えます。
しかし、あなたが選び引用した記事として読むとき、
あなたが踏み潰した一つの信仰を無視し続けている間は、
嘘と欺瞞が、隠れていても明らかになってしまいます。
 
福音伝道を語り続けるつもりならば、その前に
あなたには為すべきことがあるはずだからです。
2011/7/5(火) 午前 3:00[ st5402jp ]
 
 
隠し通しますか。それとも、
しまいに全部、最初から無かったかのように
根こそぎ削除してしまいますか。
恐ろしい予感がしています。
2011/7/5(火) 午前 3:09[ st5402jp ]
 
 
PS:
前と、前の前のコメントなど、以上より、
批判の対象にしかならないのです。
2011/7/5(火) 午前 3:20[ st5402jp ]
 
(2011年07月05日)
 
 
無題→「自転車とキリスト信仰」
また別の人の記事の引用ですか。
自転車に例えて
>チリン、チリンとベルを鳴らすと、
>うしろ向きにならんで歩いているかたがたも、道をあけてくださる
>キリスト信仰で生きるこつがわかると、すいすい走れる。
 
この記事を書いた人を私は知りません。
信仰についての例え話として昔は読めたでしょう。
せいぜいコメントを書いても
「事故を起こすこともあります」という程度でしょう。
しかし、あなたによって引用されると、私は
「あなたはこの例え話から、かけ離れている」
という動機で批判を書かざるを得ません。
2011/7/6(水) 午前 3:11[ st5402jp ]
 
「道をあけてくださる」「すいすい走れる」ですか・・・
あなたは既に故意の人身事故を起こしています。
しかも、あなたが示談(和解)もしようとしていないので、
追突され脇に飛ばされ放置されて大ケガしたままです。
・・・という例えで返すしかありません。
 
恥でなければ、言い返すか、
少なくとも隠す必要はないはずです。
きれいな見かけのままでないと気が済まず、
どこまでも恥を残したくないのでしょうね。
神はすべてをご存知であるのに・・・無駄か・・・
2011/7/6(水) 午前 3:13[ st5402jp ]
 

(2011年07月06日、追加)
 
 
聖書のみ言葉の黙想→「優先すべきもの」
 
>イエスは言われました。
>「ただ、内側にあるものをきよめなさい。
>そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。」
>(新約・ルカによる福音書11章41節)
 
あなたには内側に隠したものがあります。
封じ込め隠蔽する行為は清いのでしょうか。
あなたは引用する御言葉を裏切っています。
外側だけ清く見せるパリサイ人は誰でしょう。
2011/7/8(金) 午前 1:49[ st5402jp ]
 
(2011年07月08日、追加)