数日、歯が痛い。鎮痛剤を飲んでも痛い~鬱陶しい。
頭がボーっとしている・・・
でも書く動機が今あるなら、ボーっとした頭でも考え、
指と手が動くから・・・書いてみる・・・
何度も似たようなことを書いてきたような気はするが・・・
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「われわれは神のうちに生き、動き、存在している」
(使徒行伝17章28節)。
 
特に何らかの障害や重い病気を持っている信仰者にとっては、
常に神に守られているという意味で、
大いなる慰めとなりうる聖句である。
 
しかし健康な人や、そうでなくても一応
五体と五臓六腑が機能している人においては
人間としての考察抜きでは大きな誤解を生みかねない。
一歩間違えば、
「神のうちに生き、動き、存在している」は、
自分の言動はすべて神のうちにあり、
神に守られていているから神の義であり正しい、
つまり安心して、かつ安易な自己正当化につながりかねない。
 
上の聖句は
「自分の人生と言動は常に神のうちにある」
とも受け取れる。そう受け取るためには、
少なくともだが、次のようなことを
受け入れている信仰者にとってのみ
真実と言ってよいということになる。
あくまで今思いつくことで、少なくとも・・・である。
1.神は、あくまで神のやり方で、人を守られる。
 それが常に人にとって納得できるとは限らない。
2.人が敵意、悪意、被害者意識、などを持つとき、
 神によって試され、ときに懲らしめられ、
 悔い改めに至るであろうし、それを望む。
3.人の存在の終わり、つまり死を
 神は、突然、人に与えることもある。
 
この聖句の前のほうに
「捜しさえすれば、神を見いだせる」という聖句がある。
これは非常に微妙~難解な聖句である。よく分からないが、
二千年前のパウロの伝道のスピーチにおいて
こう語らざるを得なかったということであろうか。
 
この聖句の後のほうに
「死人のよみがえり」という聖句がある。
これはキリストの復活という、これまた微妙で
重要なテーマの話なのである。
 
この聖句を引用した記事を転載して、
御言葉であり聖句だから絶対の真理として、
二千年前の文脈であることを考えず、
引用した記事の転載だけで、
自分が書いたわけではないと、
現代に生きる人間としての考察をしないまま、
使命を果たしたつもりになるのは、
好ましい善い話だけを語るという、何度も書いたが、
傲慢な信仰者の片落ちの伝道話ということになる。
 
そしてそういう信仰者は
世界のどこかで現代の「死人のよみがえり」
といった奇跡のような出来事でもあれば、
信憑性の確認をしないまま、また
誰にでも起こるはずのないことであるのに、
「おいしく好ましい話」として真に受けて
宣伝のように語ることになってしまうのである。
 
(2011年07月11日)